2010/09/04

それほど「エロ」でも「グロ」でもなく・・・寺島しのぶの熱演がひたすら重くのしかかる~「キャタピラー」~



またまた寺島しのぶが脱いで、今度は手足のなくなった夫との濡れ場を演じている・・・ということで、劇場に足を運ぶのに二の足を踏んでしまっているならば、心配はご無用かもしれません。
逆に、変態的なエログロテスクな描写を期待してるなら、肩すかしを食らうことでしょう。
ただ、寺島しのぶが「生理的にダメ」という方は、この映画はパスした方が無難だとは思います・・・なんたって、彼女は基本的に全編に渡って画面で出っぱなし(それも半分ぐらいっは顔のアップのような・・・)で、少ない台詞うちの8割は彼女という「寺島しのぶ」映画なのですから。
それだけ、今年のベルリン国際映画祭で主演の寺島しのぶが銀熊賞(最優秀女優賞)を受賞したというのも納得の熱演です。

戦争で手足を失った夫と、その妻の物語というと・・・ズバリ江戸川乱歩の「芋虫」と思われるのですが、低予算のインディーズ映画の予算もあり、あくまでも「モチーフ」としてヒントとされたということになっているようです。
基本的なストーリーは「芋虫」に同じですが、若松孝二監督により「反戦映画」としての色合いが強くなっていると言えます。
時折、挿入される当時のモノクロの記録映像と日本帝国大本営が国民を「お国のために!」と国民を洗脳していった宣伝文句が、この物語が起こった特異な背景を説明していますが、あくまでも映画は戦争で手足を失った夫と、その妻のふたりの物語を描いていくのです。

「軍神」として「国」の誇りとして戻ってきた芋虫のような夫・久蔵の世話は、すべて妻であるシゲ子(寺島しのぶ)に委ねられることになります。
出征前は、子供の産めないシゲ子を殴る暴力夫だった久蔵も、今は生きる糧のすべてをシゲ子に依存する存在となってしまったのです。
当初は、恐る恐る久蔵の世話していたシゲ子も、夫の旺盛な食欲や性欲を満たすために、何でもやるようになっていきます。
ただ、彼女の壊れそうな自我を支えるのは、村人達からの「軍神」となった夫、そして「軍神」の献身的な妻である自分への賞賛なのです。
そこで、彼女は夫に軍服を着せ荷車に乗せて、村の歩き回るのです。
村人達は「軍神さま」と手を合わせて拝み、妻としてのシゲ子を労うのですが・・・それは単に芋虫のような久蔵を見世物にしているに過ぎません。
見世物としてのお勤めをした久蔵にシゲ子は”セックス”というご褒美をあげようとするのですが、彼は中国人女性をレイプして殺害した罪のトラウマ(?)に囚われて・・・勃たなくなってしまうのです。
”セックス”というご褒美が久蔵に通用しなくなった時・・・シゲ子は「女」としての存在価値を失い、やっと男女としての呪縛から開放されるのかもしれません。
ただ、敗戦を迎えて「軍神」という輝かしい存在を失ってしまう久蔵にとって、生きる意味はなくなるのです・・・。

明らかに「低予算」を伺わせる映画ではあるのですが、1960年代からインディーズのピンク映画を撮っていた若松孝二監督らしく、シゲ子と久蔵に焦点を合わすことで心理的なサド&マゾな二人の関係さえも漂わせています。
寺島しのぶの演技に委ねられており、若松監督は素直にその熱演を記録したというようなシンプルで潔さを感じさせる演出となっています。
映画の背景説明でカメラは二人の暮らす家から出ることがありますが、殆どは久蔵を寝かしている一室が舞台となっているところは、山谷初男が女性を監禁していたぶりまくる若松監督の「胎児を密猟する時」という映画を思い起こさせました。
低予算といえども、手足のなくなった久蔵のビジュアルエフェクトは完璧です。
久蔵はフラッシュバックのシーン以外は手足のない状態でしか登場しませんが、グロテスクというよりも「哀れな姿」という感じです。
シゲ子が久蔵に跨がるセックスシーンも「お勤め」をこなしているという感じで、エロティックというのとは別な次元でした。
宣伝的には「エログロ」さばかりが目につく映画「キャタピラー」でありますが・・・若松孝二監督の政治的なメッセージに見え隠れする男女の性的なダイナミックスと、寺島しのぶの真面目すぎる熱演によって、悪趣味では片付けられない作品になっているのです。

「キャタピラー」
2010年/日本
監督 : 若松孝二
脚本 : 黒沢久子、出口出
出演 : 寺島しのぶ、大西信満





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