2012/07/30

クリストファー・ノーラン監督の”ダークナイト”最終章は辻褄の合わない展開でツッコミどころ満載・・・正義と悪の境界線の揺らぎを描くシリーズはお粗末に終わる!?~「ダークナイト ライジング/The Dark Knight Rises」~



クリストファー・ノーラン監督による”ダークナイト”シリーズ完結編「ダークナイト ライジング」は、前2作と同様に繰り返し観る作品になることは確実ではあるのだけど・・・頭をかしげてしまうところもある作品でもありました。観ようと思っている人は、ネタバレを聞かされる前に映画館へ観にいくことをお奨めします・・・ただ「バットマン ビギンズ」と「ダークナイト」を復習しておいた方が、完結編である本作で回収される伏線を楽しむことができるでしょう。また、前作では冒頭の銀行強盗シーンだけだったIMAXカメラでの撮影が、本作では随所に使用されているので、IMAXシアターで観るべきだと思います。

1960年代に制作された実写版テレビシリーズのアメコミ調のコミカルな「バットマン」よりも、ティム・バートン監督の「バットマン」シリーズは「ダークなファンタジー」として公開当時は受けとられていました。クリストファー・ノーラン監督の”ダークナイト”シリーズは、現実的な世界観でブルース・ウェイン/バットマンの内面を描くという、よりシリアスなシリーズとなりました。「正義とか何か?」という根源的な疑問を投げかけてくる・・・一般的なアメコミヒーロー映画を超えた風格を感じさせる作品となったのです。クリストファー・ノーラン監督を始め、主演のクリスチャン・ベールの他、マイケル・ケイン、ゲイリー・オールドマン、リーアム.ニーソン、キリアン・マフィー、そして本作の悪役のトム・ハーディまでのがイギリス出身というのもシリーズ全体の雰囲気に影響を与えているのではないかと思います。

前作「ダークナイト」で、今は亡きヒース・レジャーが演じた悪役ジョーカーは圧倒的な存在感で、バットマンを食ってしまったとといっても過言ではないでしょう。ジョーカーの目的は、何かを盗むとか、人を殺すとかが目的ではなく、ただ世の中に混乱に陥れること・・・人間の卑しさや弱さを試すような究極の選択を突きつけ、神の秩序から人々を解き放とうとするのです。エデンの園は神の秩序によって管理されている楽園・・・禁断の果実を食べてしまったアダムとイブは追放されるわけですが、それは同時に、秩序から開放され自由を手にしたとも言えます。ジョーカーの存在は、正義という概念があることが前提・・・しかし、”正義”という考え方こそ、この世の中の争いを生んでいるのではないか?・・・とも、考えさせられてしまいます。ハービー・デントをヒーローに仕立て上げて施行された”デント法”によって”悪い奴ら”を検挙しまくったおかげで、ゴッサムは平和になりました・・・というのは、立場を変えれば、”正義”をふりかざす”恐怖政治”みたいなものでもあります。

光と影の境界線を揺るがせてしまうジョーカーの危険な思想に感化されてしまう人が実際に出てきてしまうのではないか・・・「ダークナイト」を観た時に不安をボクは感じていました。先日、コロラド州の映画館で「ダークナイト ライジング」初日上映中に、24歳の男性がジョーカーの扮装をして劇場内で銃乱射・・・多くの観客を殺害しました。先に逃げ出そうとした者をターゲットにしていたという報道もあります。逃げようとするのは人間としての本能だとは思いますが、自分”だけ”でも助かろうとする人間の弱さを見せた者から殺すというのは、まさにジョーカー的な発想ではあります。映画が表現することを規制することには絶対的に反対ですが・・・時に、映画作品は犯罪者のマインドに大きく影響してしまうこともあるということです。それにしても、これほどの事件が起こっても銃規制運動が活発にならないのが、さすが銃を保持する権利を優先するアメリカのお国柄・・・自分の身は自分で守り必要があれば自ら武器を手にして戦うべきということには、揺るぎはないようです。

「ブロンソン」で、バルク系マッチョに肉体改造してから話題作に出演しまくりのトム・ハーディが演じる、本作の悪役ベインは、怪物のように喧嘩が強いだけでなく・・・株式市場を操作して金持ちの資産を奪い、一方的に市民裁判で極刑に処するという”革命”を起こします。ジョーカーが、ただ混乱を巻き起こそうとするのとは違い・・・”正義”を訴えて、行なおうとしている”革命”が、「善」か「悪」かは、立場によって変わってきてしまうかもしれません。監督によると本作の脚本は、昨年に起こったニューヨークのウォール街占拠事件以前に書き終わっていたということですが・・・アメリカの個人資産のうちの半分を1%の超富裕層が所有していることや、金融関連企業への優遇など、格差社会を助長するような社会の仕組みへの批判と怒りは、ベインと似た主張ではあるのです。といって、ベインのテロ行為とウォール街占拠のデモ行動とは、まったく人道的には異なりますが・・・。

ブルース・ウェインは、明らかに1%側にいる超富裕層・・・彼の膨大な資産なしではバットマンになることさえ経済的に不可能です。勿論・・・新自由主義が訴えるように、持つ者が正しい投資や援助をすることで、世の中の役にたつということはあるかもしれません。しかし、成功へのモチベーションとなっていたアメリカンドーリームは、一部のプロアスリートか音楽アーティストにしか叶えられない、”貧困層摂取”のおいしいエサであることが、バレてしまった今・・・富裕層の唱える”正義”に、どれほど説得力があるのでしょうか?ただ、ウォール街での「99%側の主張」というのが、イマイチ何を求めているのか分かりにかったように・・・ベインの金持ちを殺して街ごと核兵器で爆破というのも、一体何を求めて、何に向かっていこうとしているのかが、よく分かりません。ジョーカーであれば行動が無意味であること自体も目的となり得るのですが・・・ベインの暴走の本当の理由が判明したとき、”肩すかし”をくらってしまうことになります。

ここからネタバレを含みます。


ウェイン財団の顧問のひとりとしてブルース・ウェインからも信頼され、レイチェル亡き後の恋人となるミランダ・・・彼女が、実はラーズ・アル・グールの娘で、父親のゴッサムを灰にするという意志を引き継ぎ・・・”奈落”と呼ばれる監獄生まれたミランダと出会い、彼女を愛するようになったベインがミランダに協力したという”理由づけ”は、悪役としてのモチベーションとしては”ゆるい”ような気がします。「バットマン ビギン」で、ブルース・ウェインに訓練をしたラーズ・アル・グールは、自らの”影の軍団”と名乗り人間社会を崩壊させて理想郷を築くことは目的なのですが・・・ラーズ・アル・グールの意志を継ぐ娘(ミランダ)と、彼女を愛してしまった故に破壊に手を染めることになってしまった男(ベイン)としてしまったのでは・・・正義と悪の境界線の揺らぎを描いてきた”ダークナイト”シリーズなのに、単なる「親の敵討ち」の物語に逆戻りさせてしまったのはお粗末としか言いようがありません。

本作の話題のひとつが、アン・ハサウェイ演じるセリーナことキャット・ウーマンの登場です。母親の形見の真珠の首飾りを盗んだ泥棒でありながら、ツンデレな態度でバットマン/ブルース・ウィエンと、不思議な関係を築いています。バットマンと協力してベインのテロ計画を阻止するのですが・・・ハッキリ言って、彼女のモチベーションがイマイチ不明。人物の全ての記録を消却できるソフトのため(犯罪者という過去を消して生きたい)という理屈になっているけど、キャットウーマンならUSBメモリぐらい盗めるでしょう?ブルース・ウェインとは、それほど一緒に過ごす時間なんてないにも関わらず・・・最後には恋愛関係も匂わすせるというのも、なんとも唐突・・・なんだかんだで、セリーナはブルース・ウェインに一目惚れしてしまっていたということなのでしょうか?

おそらく、本作で一番辻褄が合わないのが・・・ベインと戦って倒れたバットマンが、かつてベインが閉じ込められていたという脱出不可能と言われる”奈落”に閉じ込められながらも、何とか自力で脱出した後、いきなりゴッサムに現れることでしょう。ゴッサムはベインの仕掛けた核爆弾テロによって、軍隊により出入りを完全に封鎖されていているはずなのですが、まさに”ひょっこり”と、キャットウーマンの目の前に例のソフトの入ったUSBメモリを持参して登場するのです。”奈落”のロケーションは、どこなのかハッキリとはさせていませんが・・・ゴッサム内であるわけないし、周辺の地形的にも街の近くとは思えません。また・・・殆ど警官が閉じ込められるという状況も、マンホールなどから逃げ出すこともしないなんて、危機管理からしてあり得ないことです。それでも、食料と水は十分にあるというのだから、緊迫感があるのか、ないのかも、分かりません。さらに・・・ベインの仕掛けた核爆弾は、バットマンによってゴッサムの街から運ばれて、海の上で爆発させることになるのですが、核汚染のこと考えたら、海の上だからって、核融合発電できるほどの核を爆破させて「めでたし、めでたし」では終わらないはずです。

ツッコミどころを探したらキリがないというのは、”ダークナイト”シリーズ共通の問題ではあるのですが、本作は細かいことを言い始めたら、物語が破綻しているとしか思えないほど・・・酷い!それでも、また何度も観たくなってしまうのは、クリストファー・ノーラン監督の表現する終末的な画(え)としての世界観の完成度の高さと訴えてくるテーマに、強く心を揺さぶられるから他なりません。


「ダークナイト ライジング」
原題/The Dark Knight RIsing
2012年/アメリカ、イギリス
監督 : クリストファー・ノーラン
出演 : クリスチャン・ベール、マイケル・ケイン、トム・ハーディ、ゲイリー・オールドマン、アン・ハサウェイ、モーガン・フリーマン、ジョゼフ・ゴードン=レビット、マリオン・コティヤール、マシュー・モディーン、リーアム・ニーソン、キリアン・マーフィ



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2012/07/26

ニコラス・ウィンディング・レフン監督による”暴力劇場”・・・トム・ハーディの”粗チン”っぷりもハマってるの!~「ブロンソン/Bronson」~



今年、日本でも公開されたライアン・ゴスリング主演の「ドライヴ」で、カルト的人気と知名度を上げたデンマーク出身のニコラス・ウィンディング・レフン(Nicolas Winding Refn)・・・今、暴力の美学を描かせたら右に出る映画監督はおりません!テーマ的にも登場人物の殆どが「おとこ」ばっかり・・・そんレフン監督のなかでも、まさに”暴力”そのものを描いたのが「ブロンソン/Bronson」であります。

主演は、現在、最も注目される”カメレオン俳優”のトム・ハーディ・・・舞台俳優としても活動している”実力派”で、最近は「インセプション」「裏切りのサーカス」「ブラック&ホワイト」と続けて話題作に出演しています。作品によってがらりと雰囲気が違うのですが・・・「ブロンソン」以降は、鍛えたマッチョな体型とイギリス訛りが、ハリウッドを魅了しているみたいです。「ダークナイト・ライジング」では、バットマン最悪の敵ベインを演じているし、来年公開予定の「マッドマックス」最新作でも主演と、日本でのブレイクは必然。本作「ブロンソン」も近い日に、劇場公開かDVDリリースされるかもしれません。

「ブロンソン」は、今なお服役中でイギリスで最も危険な囚人と言われている実在の人物・・・”ブロンソン”こと”マイケル・ピーターソン”の半生を描いている作品。子供の時から乱暴者で喧嘩つ早く、教師や警官相手に暴れまくり・・・つまらない郵便局強盗で懲役7年を食らってしまうのが、22歳のとき。刑務所では、何かと看守にたちに喧嘩を売り続けて、精神病棟にも入れられたりしながら・・・69日間”だけ”出所してアンダーグラウンドのボクサーとして小銭を稼いだりもします。その時に名乗っていたリングネームの”チャールズ・ブロンソン”(1970年代に活躍したアクション男優)から、彼は”ブロンソン”と呼ばれるようになるのです。しかし、惚れた女のために宝石強盗して再び逮捕・・・そのからは刑務所で暴れまくり続けて、120回以上も移転を繰り返しており、34年間の刑務所生活のうち30年を独房で過ごすという凶暴さ・・・しかし、殺人は一度も犯してはいないのであります。

本作は、ブロンソンが劇場の舞台で上流階級の観客に向かって、自らの半生をモノローグで語る”ひとり芝居”によって進行していきます。ロンドン芸術大学(セント・マーティン)で演劇を学んで、舞台俳優としても活躍しているトム.ハーディだからこそ演じられるシーンで・・・白塗りのピエロのような化粧した顔の表情を自在に動かして、いろんな役柄を演じ分けてながらブロンソンの半生を振り返っていきます。

刑務所内では何かにつけて暴れて、そのたび独房送りを繰り返すブロンソンの暴力の源が、何かというのはよく分かりません。精神病棟でペットシップボーイズの「It's a Sin」の爆音に合わせて患者たちが踊るというシュールな空間で注射で朦朧としていたブロンソンを小馬鹿にした患者に仕返しをしたり、刑務所の施設で彼にアートの楽しさを教えた先生までも拉致してしまう・・・そんなことすれば、直ちに看守に押さえつけられて懲罰を受けるのは分かりきったこと。それでも、ブロンソンは看守を挑発して暴れることを決して止めないのです。

独房で看守のひとりを人質にして何を要求するのかと思えば、特に何かを考えていたわけでもなく・・・人質に手伝わせて、全身にバターを塗って、何人もの看守との戦いに挑むというアナーキーで無意味な行動にでます。高脂肪摂取とトレーニングで、実在のブロンソン本人のガチムチ体型に肉体改造したというトム・ハーディ・・・いかにも労働者階級の乱暴者らしさが滲み出る見事な役作りと、「ダークナイト」でジョーカーを演じたヒース・レジャーと並ぶほどの狂気に満ちた渾身の演技をみせています。全裸シーンで注目してしまったのは・・・トム・ハーディの「粗チン」っぷり!(「シェイム」のマイケル・ファスビンダーとは大違い!)これは肉体改造の結果でもないし、演技力うんぬんではない部分でありますが・・・ブロンソンという人物が「どうして、これほどまでに暴力的なのか?」の、ひとつの答えになっているようにボクには思えたのです。

男って・・・いろんな理由でコンプレックスを感じて、それをバネにツッパっているところというのは、多かれ少なかれあったりします。貧しい出身だったり、人一倍金持ちに対して妬みを持って育った人が、大金を持つと成金になるのもコンプレックスの裏返し。ただ、社会的なコンプレックスは、ある程度経済的な成功を手にすることで解消されるかもしれないけれど、肉体的なコンプレックスは、(整形手術とかで何とか解決することもありますが)厄介なもんです。例えば、背の小さい男が負けず嫌いで、何故か胸を張って偉そうに歩いているというのは、よくあること・・・背が低いことよりも、第三者には分かりにくく、理由もなく根深いのが、アソコのサイズのコンプレックスだと思うのです。

そこそこハンサムなのに何故か自信なさげの男と、ちんちくりんのネズミ男なのに妙に自信に満ちあふれている男・・・もしかすると、アソコのサイズが関係しているかもしれません。殆どの男は、大雑把に「普通サイズ」だったりするものですが・・・明らかに「大きい」という人はいます。誰も聞いてもいないのに自ら「俺のはデカい!」と自負する人は、確かに「大きい」ことが多くボク自身の経験上)・・・根拠のない自信にあふれていたりします。対照的に「小さい」人は、根拠ない自信のなさを支配されてしまうのです。

ブロンソンご本人が、実際に”粗チン”であったのかは分かりませんが・・・本作のトム・ハーディの「包茎短小」っぷりは、ある意味、ハマっております。勿論、すべての”粗チン”の男が、暴力的というわけではありませんが・・・男らしさが自我のすべてだったブロンソンが、他の男から”粗チン”っぷりをバカにされることを、絶対に許すわけがありません。見下される前に、彼は暴力ですべての男を抑圧したかったのかも・・・なんて、ボクは思ったのでした。

21世紀の「時計じかけのオレンジ」と称される本作は・・・80年代ポップとクラシック音楽を暴力にかぶせたり、広角レンズのシンメトリーな構図が多用されていたり、演劇的なモノローグで物語が進行していったり、暴力をユーモアを交えてスタイリッシュに扱ってしまうところなどは・・・明らかにスタンリー・キューブリックの遺伝子を感じさせます。

ただ、アレックス(時計じかけのオレンジ)が、一度は更生されて非暴力的になるものの、最後には再び暴力性を蘇らせるという”ループ”が、ある種のカタルシスを感じさせるのとは違い・・・ブロンソンは、最初から最後まで内面的な成長もなく、暴力を振るい続けるという単細胞さ(実在する人物に忠実なのかもしれませんが)・・・ただ、ブロンソンという人物が「暴力的だけど、どこかチャーミングな男」と思わせてくれるのは、トム・ハーディの魅力そのものであることは確かなのです。どんなに粗チンだって、やっぱり「トム・ハーディ、萌え~!」

「ブロンソン(原題)」
原題/Bronson
2008年/イギリス
監督&脚本 : ニコラス・ウィンディング・レフン
出演    : トム・ハーディ、マット・キング、ジェームス・ランス、アマンダ・バートン、ケリー・アダムス、ジョナサン・フリップス
日本劇場未公開、DVD発売



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2012/07/21

蜷川実花ワールドでお馴染みの”沢尻エリカ劇場”・・・寺島しのぶ演じる”ドMマネージャー”のエグさが堪らない!~「へルタースケルター」~



「へルタースケルター」の撮影終了後の記者会見から沢尻エリカの情緒不安定気味の暴言、役が抜けきれないから休業宣言、麻薬使用の疑惑と、芸能ゴシップ欄を騒がす姑息な”宣伝活動”に、すっかり観る気が萎えてしまっていたのですが・・・あの原作を蜷川実花と沢尻エリカが、どう”表現”しているのか気になって、やっぱり映画館に足を運んでしまったのでした。

原作「へルタースケルター」は、1990年代半ばに連載されていた岡崎京子さんのマンガ・・・ガーリーな絵柄と梅図かずお的(「洗礼」?)なドロドロの物語を融合していているところから、ボクの好きなマンガのひとつです。「女性の美への執着と崇拝」「芸能界での転落」「整形美容手術の恐ろしさ」など、決して目新しいテーマを扱っているわけではないのですが、主人公のモノローグと、詩的な感情表現、時間軸を超えた登場人物たちの言葉、作者の語りが混じり合うというマンガ的表現が巧みでありました。今では、美容のための”プラセンタ治療”が普通になり、高校生がでさえ”プチ整形”を簡単にやってしまい、目の大きさばかりを強調した”ギャルメイク”が流行するなど・・・17年前に現在を予言していたような気がします。

”りりこ”は本名も経歴も謎のトップファッションモデル・・・しかし、デブでブスでデブ専の風俗嬢だった彼女は、眼球、耳、性器以外、すべての全身美容整形手術によって究極の美しさを手に入れたのです。美容整形手術が行なわれるようになった頃から、手術によって容姿を劇的に美しくなった女性が悲劇的な結末を迎えるという物語は、手を替え品を替え描かれてきました。そのなかでも”りりこ”の傲慢っぷりはピカイチ!憎むべき女性像でありながら、美貌には誰もが認めるしかないという存在なのです。そんな”りりこ”役を演じられるのは、絶対的に誰もが認める美女でなければなりません。

沢尻エリカは「別に・・・騒動」以降、叩かれまくられてきましたが、アンチ沢尻エリカの人でも彼女の美貌は認めるところでしょう。マスコミによって作り上げられた(または暴露された?)沢尻エリカ本人を、彷彿とさせる”りりこ”役を演じるということが、毒抜きのような効果があったのか、逆に悪化させてしまったのかは分かりませんが・・・”りりこ”が、情緒不安定になり、暴言を吐き、気が狂ったようになればなるほど、「渾身の演技」なのか、お馴染みの「沢尻エリカ劇場」を見せられているのか、分からなくなってきてしまいます。大胆な脱ぎっぷりで胸を露にしても、体当たりでバックから犯さても・・・”つくりもの”としての美しさだけでエロさを感じさせません。また、ディフォルメしたした演技は、まるで「ドラッグクィーン」のようです。今更、純真な役柄を演じれば「嘘くさい」と叩かれるだろうし、本作のように世間のイメージにピッタリの役柄を演じれば「素でしょ?」と思えてしまう・・・今後、沢尻エリカがどんな役柄を演じれば、色眼鏡のバイアスなしで見ることができるのでしょうか?

ところで、美女が性格が悪くなる理由のひとつって・・・世の中が外見の美醜でしか判断しないという現実を、常に意識しなければいけないからではないかと思います。”ちやほや”されることに苛立ちを感じて、性格の悪さに拍車がかかるのです。そんな苛々している美女に限って、美女を美女として扱わない自信家の男とくっつくってことが、よくあるみたいです。

蜷川実花は、良くも悪くも”写真家”であることを意識している映画監督・・・本作でも、原作マンガからインスピレーションされた”写真家・蜷川実花の世界”を繰り広げています。それは、原作のもっている世界観とも確かにリンクしているのだけど・・・劇映画というよりも「へルタースケルター」にインスピレーションを得たイメージビデオのような印象。思いの外、原作に忠実で原作にある印象的な言葉は、殆ど台詞で再現されているのに、・・・ファッション誌や写真集では効果的な蜷川実花ワールドが、さらに”つくりもの”感を高めてしまって、”りりこ”への感情移入をさせてくれないような気がしました。


沢尻エリカの演技の対極にありながら、特異な存在感を放っているのが寺島しのぶ!!!”りりこ”のマネージャー・羽田ちゃんを演じてるのですが・・・主役である沢尻エリカを食わないように抑えた演技に徹しながらも、蜷川実花ワールドの”つくりもの”には融合しない”生々しさ”がスゴい!”りりこ”の美しさに憧れて、どんな理不尽なことでも従う羽田ちゃんは、”りりこ”に熱狂する世間の女性を象徴しているのかもしれません。ただ、羽田ちゃんが、ただの”りりこ”ファンと違ったのは、主従関係に快感を感じる「ドM」だったこと・・・。年下の彼氏を”りりこ”に寝取られても、犯罪にまで手を染めさせられても、レズビアンセックスの相手でアソコを舐めさせられても、どこまでも”りりこ”に心酔し続けるMっぷりは、なんとも不気味・・・厳しく叱られて罵倒されたり、手足を縛られてお仕置きを受けても、画面の隅っこでニンマリと微笑む”エグさ”が堪りません!

ここからネタバレを含みます。

そんな羽田ちゃんが、崇拝する”りりこ”の過去の秘密をマスコミにバラして芸能界から抹殺させるのは、究極のシモベとして女王さまである”りりこ”を独占するため・・・ある意味、映画では原作以上に羽田ちゃんの望む閉じられた侍従関係が成就する結末となっているような気がします。原作では、マスコミから過去について答える会見前に、片目だけを残して失踪するのですが、映画では違う展開となっています。

整形手術の真偽を答えるという記者会見の舞台で、”りりこ”は自らの手で片目にナイフを突き刺すのです!それまで、蜷川実花ワールドを埋め尽くしていた極彩色を排除した、背広の灰色と止まらないフラッシュの光。それまで賞賛の証であったフラッシュが暴力のように降り注ぐのです・・・まったくの無音で!このシーンは(白い衣装だし)沢尻エリカがテレビコマーシャルで復帰したときの記者会見を思い起こさせます。ただ、赤い羽根に埋め尽くされて、後ろ向きに倒れ込むのは、あまりにも「ブラック・スワン』を意識し過ぎた、お粗末な演出でした。

映画は、”フリークショー”を興じている怪しげなクラブの奥の部屋にいるオーナーになった片目の”りりこ”の姿で終わります。原作では、まだ”りりこ”の物語は続くような余韻を残して終わるので・・・本来であれば、その後の”りりこ”の物語があるはずなのです。ご存知の方が多いとは思いますが・・・原作者の岡崎京子は「へルタースケルター」を執筆終了直後、飲酒運転の車にはねられて、意識不明の重体となり、いまだに療養生活中。事実上の最後の作品となってしまったのが・・・本作「へルタースケルター」。

その後の”りりこ”の冒険は、岡崎京子さんの頭の中で今も構想されているのかもしれません・・・いつか岡崎京子さん自身で描かれることをボクは祈らずにいられないのです。


「へルタースケルター」
2012年/日本
監督 : 蜷川実花
出演 : 沢尻エリカ、大森南明、寺島しのぶ、水原希子、新井浩文、桃井かおり、原田美枝子、綾野剛、哀川翔、寺島進、鈴木杏、窪塚洋介


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2012/07/17

”心のほっこりする癒し”を受け入れられない自分を変えたいの!・・・使い古された「Ku:nel」的”おしゃれ感”と辻褄の合わない”いい人たちのいいお話”に怒り心頭!~「しあわせのパン」~



予告編を観た時から絶対にボクが苦手とするタイプ映画だとは分かっていました・・・でも、いつもいつも”エログロ”だの、”トラウマ”だの、心を乱すような映画ばかりに陶酔している自分に「心が病んでるの?」と、不安になったりすることもあったりするのです。

映画好きの友人と映画談義に盛り上がったとしても・・・ボクの好きな映画を始めると”ドン引き”され、仕舞いには「どうして、そんな映画ばかり好きになってしまったの?」と、マジで心配されてしまうほど。自分でも気付いていないけれど、深い心の闇を抱えているのだろか?もしかすると・・・ボクだって「心がほっこりした」なんて、感想をもつ映画にだって出会うことがあるのかもしれない。そんなことを考えて、たま~に癒し系にも、チャレンジしてみることがあるのです。しかし・・・毎度のことながら、頭を掻きむしりながら、のたうち回ってしまうほど拒否反応をしてしまう自分と向き合うことになってしまいます。

「しあわせのパン」は劇場公開当時、なかなか評判が良かったという印象(ぴあ初日満足度ランキング第1位だってさっ!)がありました。内容はさておき、作品の舞台になっている雄大な北海道の自然の美しさに、ボクの心でさえ洗われるかもしれない・・・と、かすかな希望を抱いてレンタルDVDで鑑賞してみることにしたのです。でも、よ~く考えてみれば、ボクは元々自然に対して無関心だし、炭水化物が好きじゃないのでパンへの思い入れは特になし・・・心に訴える要素や共感ポイントが少なく、ツッコミどころ満載の作品であることは明らかなのでした。

ここからネタバレ、および「しあわせのパン」を好きな方には不快な内容を含んでいます。

水縞(ミズジマ)くん(大泉洋)とえりさん(原田知世)の夫婦が営む「カフェ・マーニ」という北海道の洞爺湖のほとりの”月浦”にあるパンカフェが本作の舞台となっているのですが、そのカフェのロケーションが、かなり辺鄙・・・バスが頻繁に来るとは思えないバス停留所から100メートルほど離れた草原にポツンと建っています。パンを買いにくるお客さんが、大勢いるような様子はなく、2階にあるという宿泊施設にも、泊まりにくるお客さんが殺到している感じもありません。小学校へ給食用のパンを卸しているようだし、もしかするとネット販売で何ヶ月も予約待ちという人気のベーカリーなのかもしれませんが・・・。驚くべきことは、モデルとなったお店が実際にこの場所に存在してるということです。昔、とある田舎町で都内にありそうな、おしゃれな「カフェ」に行ったことがあるのですが・・・妄想の”田舎風スタイル”に少々違和感を感じたことを思い出します。本作にでてくる「カフェ・マーニ」も、スタイリストがつくりあげた”田舎のパンカフェ”という”癒し”のファンタジーとしか思えないのです。

映画の冒頭で登場するのは、理絵さんの初恋相手の”少年マーニ”が登場する「月とマーニ」という(監督自身が本作のために書き下ろした)絵本・・・月を自転車のかごに乗せて東から西に毎晩走っていく”少年マー二”が、眩しい太陽をとってくれと月から頼まれ「大切なのは、君が、照らされていて、君が、照らしているということ」と説き、その後も変わらず月を運び続けているというお話なのですが、りえさんが恋してしまうのは、太陽でも月でもなく、月を運んでいる”少年マーニ”という意味が分かりません。りえさんは、どのような立ち位置で”少年マーニ”をみているのでしょうか?小説版「しあわせのパン」の巻末付録に絵本「月とマーニ」が収録されているのですが、映画では登場しなかった(「太陽=男性、月=女性」のありがちな位置づけとは逆の)太陽を運ぶ”少女ソル”が登場しています・・・ってことは、太陽の”少女ソル”が、りえさんで、その輝きに照らされる月の傍にいる”少年マーニ”を求め続けるってこと?それとも「月=りえさん」で、月に寄り添っている”少年マーニ”を求めているとしたら、いくらなんでも単純すぎます。この絵本は本作の本筋の根幹に関わるところなので、なんとな~くロマンチックという話というのではダメなんです!

唯一の家族だった父親を亡くした後、東京での生活で、たくさんの「大変」が溜まっていたりえさんは、殆ど会話さえ交わしたこともない(会ったのは三度で、会話したのは仕事中のあいさつだけ)ミズジマくんに「月浦で暮らそう?」と誘われて、北海道に移住したのです。まず・・・東京だから「大変」が溜まるというのは、紋切り型の発想のように思います。それに、田舎でパンカフェ始める方が「大変」っちゃ「大変」かもしれません。さらに、田舎で一緒に暮らすといろいろと面倒なことが起こりそうという理由で、夫婦でいる方が良いと「結婚」までしてしまうとは、完全に理解不可能。ただ、これらの状況は、映画の中では説明はなく、小説版の前日談でしか明らかにされていないというのは、なんとも不親切です。映画しか観ていないと、お互いに「りえさん」「ミズジマくん」と呼び合い、二人だけの会話でも敬語という不自然な夫婦にしか見えません。小説版によると、籍は入れずに夫婦を名乗っているだけ・・・・初恋相手のマーニを求め続けているりえさんとは、肉体的には結ばれていないようなのです。本作ではカフェをオープンして2年目を描いているので、この二人は少なくとも、この生活を1年以上過ごしているってことになります!


17歳で主演した「時をかける少女」の時と同じ髪型で変わらぬ透明感を持ち続けている奇跡の44歳といえる原田知世が演じる、りえさんは「Ku : nel」的なゆるいシルエットとナチュラル素材のガーリーなファッションに身を包んでいます。大泉洋演じるミズジマくんも、同じような”田舎の男”スタイルだし、いつものお客として登場する近所に住む人たちのファッションも田舎の人風の「コスプレ」だということ。いつも山高帽の阿部さん(あがた森魚)、郵便配達員(本多力)、農家の八百屋さんの広川夫婦(中村靖日、池谷のぶえ)も、ナチュラル系(「Ku : nel」「リンネル」「天然生活」とか)にありそうな田舎っぽさなのです。さらに気持ち悪いのが・・・いかにも「癒し系でしょう?」という感じでニタニタと笑うところ。田舎に住んでいれば、いつも優しく微笑んでいるとでもいうのでしょうか?特に郵便配達員は、薄ら笑いしながら「りえさん、キレイですね~」と顔を合わせるたびに繰り返すのだから、ちょっと見方を変えたらキモい”ストーカー”です。さらに、近所のガラス作家の”変わり者”のヨーコさん(余貴美子)は、芸術家らしい(?)ヒッピースタイル・・・遠く会話の聞こえる地獄耳(?)で勝手におせっかいするという”変わり者”というキャラ設定を、アピールしているかのようです。




「しあわせのパン」は、夏、秋、冬、春の季節の4つのエピソードで構成されています。これも”癒し”系の邦画に多いパターンで、ひとつ起承転結のあるドラマチックな物語を語るよりも、舞台となる場所にやってくる主人公たちと関わるユニークな人々が紡ぎだすエピソードを並べただけ・・・という、ストーリーテリングよりも雰囲気を優先したつくりということのようです。それぞれのエピソードが実は深い関連性があるとか、各エピソードのテーマが最後に主人公たちに大きく影響を与えるとかであれば、エピソードを並べるだけでも意味があると思えるのですが・・・本作は、パンカフェを舞台にした一話完結のエピソードなのであります。

まず、最初の「夏」エピソードは、りえさんとミズジマくんが、カフェをオープンして1年ちょっと経った時期から始まります。彼氏と行くはずだった沖縄旅行をドタキャンされたので、その腹いせに最初に目に入った札幌行きの飛行機に飛び乗って、北海道に来てしまった伊勢丹の販売員(メンズ館らしい)のカオリ(森カンナ)と、東京に憧れながらも地元北海道から出て行く勇気のない若者トキオ(平岡祐太)のお話。カオリも、りえさんと同じく「東京は大変なんだ」という紋切り型の”都会のイメージ”を体現しているキャラクター・・・どうやら、とにかく監督は「都会は大変で、平和な田舎での癒しを求めている」と思っているらしいのです。逆に田舎に暮らすトキオにとって、東京は輝いている都会・・・「東京は大変だ」と愚痴るカオリに「東京にいられることだけで恵まれている」と噛み付きます。そういう東京志向の強い地方の人というのは、いつの時代にも存在するわけで・・・(最近は地元ラブな若者も増えてきたらしいですが)新鮮なキャラクターというわけでありません。

何故かボートから湖に落ちたカオリ(これもこれで唐突でアリエナイ奇妙な事故ではあるのですが)が、宿泊施設のシャワーを浴びていることを知りつつも、りえさんは薪配達が来たという理由で、トキオにカオリのところへタオルを持っていくように頼むのですが・・・これって、かなり非常識。「薪を運ぶのを手伝って!」なら理解できるのでですが、このような恋愛シュミレーションゲーム的な、物語の進行ありきの展開というのは、観客をバカにしているようにしか思えません。その後のカオリの行動も支離滅裂・・・夜中にわざわざトオルが宿泊している部屋の窓の外で大声で叫び回ったり、急に「明日は誕生日!」と言い出して半ば強引にお誕生日パーティーを開かせるのですから、やりたい放題です。同僚には彼氏と沖縄に行っているこ嘘をついているので、日焼けをしようとしたり、沖縄土産を探そうとするのですが・・・そんな工作をする必要があるならば、北海道なんかに思いつきで来ないで、彼氏なしでも「一人で沖縄行けば良かったんじゃないの?」とツッコミたくなります。

それまで伏線がなかったにも関わらず、突然トキオは線路の切り替えの仕事をしていることを話し始め・・・「電車の線路は簡単に切り替えられるけど、人生はそう簡単には切り替えられない」と、しみじみ語るシーンがあります。そういう”当たり前”のことを大事な”気づき”のように台詞として言われても、心には何も響きません。これは映画の台詞に限らず、最近の歌詞にもみられる現象で、とにかく「耳障りの良いフレーズ」を並べておけば、感動を生むと勘違いしているようなのです。カオリの「一生懸命もがかないと幸せにはなれないよ」という台詞も、上っ面のフレーズにしか聞こえません。だって・・・カオリは一生懸命もがいているんじゃなくて、単に会ったばっかりの見知らぬ他人に、当たっているだけなんだから。それを「一生懸命もがいている私」と解釈してしまう自己陶酔的な発想から脱却出来ない限り、カオリの成長ってないと思うんですけど・・・。

「わけあうたびに わかりあえる 気がする」という本作のキッチコピー・・・これにケチをつけるつもりはないけど、このテーマを伝えようとして繰り返し出てくるのが、パンをふたつに分けて食べるというシーンです。カオリの誕生日パーティーで「クグロフ」というでっかいパンをわざわざトオルに手渡して、カオリと分けて食べさせるのですが、取って付けたようなわざとらしさがあります。何故、りえさんは「一人分ずつを切り分けてあげないの?」って思ってしまいます。いちいち台詞や状況が「伝えたいテーマありき」だと、感動は萎えます。カオリに向かって「素朴なパンも良いでしょ?」と、りえさん自ら「素朴」アピールを台詞でさせてしまうのも押し付けがましい話です。カオリが自分自身の感性で「素朴なパンも良いかも」と気付くことに”意味”があるのですから・・・。

どれくらいの日数がかかるのか分かりませんが、トオルはカオリをバイクで東京まで送ることになります。トオルからすれば「駆け落ち」みたいなものなのですが・・・出会ってまもない男と一緒にバイク旅行というのも、かなり大胆な行動です。りえさんがミズジマくんと北海道まで来てしまったような突飛な行動が前提の本作では、これくらいのことは当たり前なのでしょうか?ただ、カオリが出発前に買い込んだお土産用の大量のパンは、東京に着く頃にはカチカチになっているに違いありません。翌年の春には、トキオとカオリは、どうやら一緒に暮らしているらしいことが、本編の後半で分かります。やっぱり、ふたりは同棲しちゃったんだったんですね・・・おそらく伊勢丹で働くカオリにトキオは食わせてもらっているような気はしますが。

「秋」のエピソードは、近所に住む父親(光石研)と娘ミクちゃん(八木優希)のお話。カフェの前にあるバス停を使っている親子なのだから、近所に住んでいるはずなのですが・・・あまり面識があるわけでもなさそうです。学校に行くバスを乗り過ごしてバス停に立っているミクちゃんは、どこか淋しげ・・・実は、ミクちゃんの母親は家を出ていてしまい、今は父親との二人暮らしで鍵っ子です。ミクちゃんの母親の得意料理がカボチャのポタージュで、本当はお母さんがつくったポタージュを食べたくてしかたないくせに、りえさんが作ってくれると食べずに立ち去ってしまいます。母親の家出するまでの回想シーンでは、カボチャのポタージュを囲む幸せな家族3人での団らんの様子を窓の外から見せ、画面手前に寝たふりで横になっているミクちゃんをドア越しに見つめてから去っていく母親の姿・・・と、かなりベタな表現で説明してくれるのですが、その後の展開は予想通りになります。

りえさんは、わざわざ招待状を書いて、父親とミクちゃんをお店に招待して、改めてカボチャのポタージュをごちそうするのであります。「もうママは帰ってこないのね」としんみりした後、父親にミクちゃんが言う台詞がなんとも気持ち悪いのです。「パパと一緒に泣きたかった」・・・子供がこういう発想するんでしょうか?母親がもう帰ってこないから淋しいという気持ちをぶちまけるので精一杯のはず・・・一緒に泣いて分かち合うというのは、傍観者の大人が好ましいと思う子供の姿です。また「わけあうたびに わかりあえる 気がする」というキャッチコピーのために、またしてもパンは切り分けずに出されます。そんなケチケチしないで「ちゃんと二人分のパンだしてあげれば?」と思ってしまいます。

常連客である阿部さんが何をする人かというのは、この時まで、りえさん達は知らなかったということになっているらしいのも不自然です。父親とミクちゃんがしんみりとするシーンで、いきなりアコーディオンを弾き始めて分かるのですから・・・。常連客であっても職業を尋ねたり、持ち歩いている大きなケースが何であるかを訪ねたりしないということらしいのですが・・・田舎なのに、まるで都会的な距離感の人たちなんですね。それに、実は阿部さんがアコーディオン奏者であったというサプライズって、本作にどれだけの意味があるのでしょうか?親子が帰宅した後、阿部さんに演奏代という名目で、差し出すリンゴのパンが「焼きたて」というのもスゴいことだと思いました。炭のかまどで焼いている天然酵母のパンなのに、夜でも「焼きたて」があるなんて・・・この夫婦は、四六時中パンを焼いているとでもいうのでしょうか?

「冬」のエピソードは、病気を煩っている妻アヤ(渡辺美佐子)と、心中するつもりで冬の北海道にやって来た夫のサカモトさん(中村嘉葎雄)のお話。若い時、プロポーズを断られて北海道を旅していたサカモトさんを追ってきたのは、断ったアヤ本人・・・改めてプロポーズをして結ばれた二人だったのです。繰り返すようですが・・・ホント、本作の監督って、駆け落ちして結ばれるのがお好きみたいです。その後、娘を授かり、関西で風呂屋さんをやっていたのですが、阪神大震災で娘も風呂屋もなくしてしまい・・・やっとのことで風呂屋は再建したとのこと。ただ、妻のアヤは病気になり、夫も日々でできることの限界を感じ始め、ふたりの思い出の地で一緒に死んでしまおうということだったのです。

渡辺美佐子と中村嘉葎雄のベテラン役者の圧倒的な演技力は、本作には不釣り合いなほど存在感があります。パン嫌いの妻が、焼きたてのパンの香りにつられて、思わずむしゃむしゃパンを食べてしまう渡辺美佐子の演技は、単にパンが美味しいとかいう次元(レベル)ではなく・・・人間が生きることの歓びが溢れていて、鬼気迫るところがありました。そして「明日もこのパン食べたい!」という妻の言葉で、思わず我に返る中村嘉葎雄の表情も、彼の心情の変化を雄弁に見せつけてくれます。しばらく滞在することにしたサカモト夫妻と、お馴染みの(?)常連客たち(アコーディオン奏者の阿部さん、郵便配達員、農家の広川夫妻、ガラス作家のヨーコさん)との、おちゃらけたパーティーは、嘘くさい田舎風を絵に描いたような光景で・・・ふたりの静かな熱演を、無駄にしてしまうほどです。長い滞在後、サカモト夫婦は関西に戻り、春にサカモトさんから妻のアヤさんが亡くなったことの報告と、滞在していた時の心情が書かれた手紙が届くのですが・・・繰り返し説明する必要ってあったのでしょうか?観客は十分サカモトさんの心の変化は感じているのですから、すでに観客が感じ取れていることを、繰り返し言葉で説明するなんて・・・お涙頂戴のテレビドラマのすること。エピソードが安っぽくなってしまいました。

サカモト夫妻を電車の駅で見送った後、りえさんはミズジマくんに「ずっと見てて私のこと、ミズジマくんのことも見てるから」と告げます。老夫婦と過ごしたことで、りえさんの気持ちにも変化が現れたということなのでしょうか?最後の「春」のエピソードはミズジマくんとりえさんのお話。ある春の夜、りえさんはミズジマくんに「私のマーニみつけた」と伝えるのです。結局、りえさんいとってのマーニって、月に寄り添って「大切なのは、君が、照らされていて、君が、照らしているということ」と言ってくれるような寄り添ってくれる人ってことだったみたいです。でも・・・月=りえさんだとしたら、月を照らしている輝きの元となる太陽って何なんでしょう?

ミズジマくんがマーニとなったことで、ミズジマくんにとっての「ひとつだけ欲しかったもの」も手に入ったということになるのですが・・これは、主題歌/エンディング曲となっている「ひとつだけ」の歌詞に結びつけようとしているのは見え見えです。一緒に夫婦として暮らしながら、受け入れてもらえなかったミズジマくんがりえさんに受け入れられる・・・すなわち肉体関係を許されるとしか考えようはありません。本作のメインストーリーって、結婚に逃げるように男について来ておきながら、2年近くカラダを許さなかった女が、やっとセックスに応じたって話だったんですね。「私のマーニ」とか訳の分からない”言い訳”を受け入れてあげていたなんて、ミズジマくん、忍耐強いとしかいいようありません。ただ、カラダの関係のゴーサインが出たと思ったら、すぐさまりえさんは妊娠発覚してしまうのですから、おしゃれなオブラートに包んではいるけど・・・実は、かなり「下世話な話」にも思えます。

さて、本作は大橋のぞみちゃんがナレーション担当していて、子供の声の可愛さに便乗したような姑息さも感じられるのですが・・・最後の最後で、この声の正体が判明します。実は、この声は、これから生まれてくるミズシマ夫婦の子供の声で、天からふたりの様子を見ていたということのようなのです。これって、いろんな映画やドラマとかでも使われたことのある手法だけど・・・「あぁ、そうだったのか~!」と心ふるわせる人というのもいるのかもしれません。

本作は、北海道”らしさ”にこだわり・・・原作にあった”里芋”は北海道ではあまり収穫されないので、”百合根”に変更したそうです。ただ、そこまで”本物”にこだわるのであれば・・・羊をペットみたいに一頭だけを、犬小屋ならぬ羊小屋で飼っているという設定はおかしいのではないでしょうか?本来、羊というのは「群れ」で飼われている家畜・・・一頭だけ、それも子羊一頭だけで飼育することはありません。それとも”食用”なのでしょうか?「子羊を一匹飼っていたら可愛くない?」という発想でやっているだけ・・・”北海道らしさのこだわり”じゃなくて、スタイリングのおしゃれ感で「あり」「なし」を判断しているということが、バレてしまうんです。


「ひとつだけ」作詞/矢野顕子

欲しいものはたくさんあるの
 きらめく星屑の指輪
 よせる波でくみ立てた椅子
 世界じゅうの花あつめ作るオーデコロン
けれどもいま気がついたコト
とってもたいせつなコト
欲しいものはただ一つだけ
アナタ(キミ)の心の白い扉、ひらく鍵
 離れている時でもワタシ(ボク)のコト
 忘れないでいて欲しいよ ねぇ、お願い
 悲しい気分の時も
ワタシ(ボク)のコト
 すぐに呼び出しておくれよ ねぇ、お願い
楽しいことは他にもある
満月の下のパーティ
テニスコートを駆けまわる
選び抜いたもの集め作る中華料理
 けれどもいま気がついたコト
 とってもたいせつなコト
 一番楽しいことは、アナタ(キミ)の口から
 君の夢、聞くこと
 離れている時でも
ワタシ(ボク)のコト
 忘れないでいて欲しいよ ねぇお願い
 悲しい気分の時も
ワタシ(ボク)のコト
 すぐに呼び出して欲しいよ ねぇお願い

「ひとつだけ」は「しあわせのパン」の主題歌(エンディング曲)であり、三島有紀子監督が本作の脚本のインスピレーションを得たそうです。「ひとつだけ」は、ボクが大好きなのひとつ。本作で使用されている忌野清志郎とのデュエットも良いけれど・・・やっぱり「ごはんができたよ」に収録されていた矢野顕子のオリジナルが一番好きです!ポップで明るい矢野顕子の歌声だからこそ、すーっと歌詞が心に入ってくるように思います。だからこそ・・・この「ひとつだけ」という曲から、こんな薄っぺらい映画を作ってしまう人と、その映画に心から感動してしまう人に、ボクは行き場のないイライラを感じてしまうのです。

「しあわせのパン」は、さまざまな「田舎ステキ!」なステレオタイプの要素をスタイリングしただけの”テレビコマーシャル”みたいな映画・・・原田知世が出演している「Brendy/ブレンディ」のコマーシャルと同じなのです。


「しあわせのパン」
2012年/日本
監督、脚本 : 三島有紀子
出演    : 原田知世、大泉洋、森カンナ、平岡祐太、光石研、八木優希、中村嘉葎雄 渡辺美佐子、中村靖日、池谷のぶえ、本多力、霧島れいか、あがた森魚、余貴美子、大橋のぞみ(声の出演) 


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2012/07/08

ロバート・アルトマン監督による謎のトラウマ映画・・・シェリー・デュヴァルが生み出した痛々しい”ミリー”に共感してしまうの!~「三人の女/3 Women」~



いよいよブルーレイディスクも普及というタイミングになってから、日本国内版としては初DVD化される作品が続々と発売されています。どうせなら画質も音声も良いブレーレイディスク”化”すれば良いのに・・・という気がするのですが、メーカ側の思惑もあるのでしょう。

作品が制作された時代によって、ビデオだけしか発売されなかった作品というのが結構存在していて、レンタル落ちビデオまでもがプレミア化してしまっていることがあります。そうして”観ることが困難”な作品を、DVDであっても発売してくれるのは嬉しい事ではあります。ただ定価3000円~4000円程度という新作と同等の価格ということが殆ど。来年か再来年には「名作ライブラリー」とか銘打って廉価版で再版して、その後にブルーレイディスクで再発売でもするのだろう・・・と思うと、せっかくの”初DVD化”と銘打たれても購買欲も下がってしまいます。日本でもネット配信も身近になってきたし・・・わざわざDVDやブレーレイディスクを購入するのは、コレクターしかしなくなってしまうのかもしれません。

ロバート・アルトマン監督作品の「三人の女」は、ボクにとっては「トラウマ映画」第一号とも言える作品・・・ジェラルド・バスビーによる不安を煽るような音楽と相まって、記憶から消えない作品なのであります。そして長い間、日本では”観ることが困難”な作品のひとつでもありました。日本国内の劇場公開さえ、作品が製作されてから8年後(1985年)に、ファンのリクエストによって実現したそうです。2006年にアルトマン監督が亡くなられた際に、ミニシアター系での追悼上映や、WOWWOWの追悼放映があったそうですが、その後もDVD化されることはありませんでした。その「三人の女」が、やっと国内初DVD化となりました!(これまた”観ることの困難”だった「クインテット」と同日発売)

社会風刺の効いた皮肉に満ちあふれた群像劇で知られるロバート・アルトマン監督ですが「三人の女」は、ちょっと毛色の違う作品です。イングマル・ベルイマン監督の”人格乗っ取り映画”「仮面/ペルソナ」からインスピレーションを得たと言われる本作・・・ロバート・アルトマン監督いわく「実際にみた夢をもとにした作品」ということなので、観念的な女性を描いたといえるのかもしれません。「1人の女が2人に・・・2人の女が3人に・・・そして、3人の女が1人になった。」というのが、劇場公開した当時の宣伝コピーですが・・・辻褄が合うような、合わないような、不思議な物語であります。

ロバート・アルトマン監督に声をかけられて映画デビューしたシェリー・デュヴァルは、1970年代のアルトマン映画の常連のひとりとなりましたが、主演した映画作品というのは、この「三人の女」ぐらい(「シャイニング」でのジャック.ニコルソンの妻役や「ポパイ」のオリーブ役は”主演”とは言えない)・・・しかし、本作で見事カンヌ映画祭で最優秀女優賞を受賞しています!痩せ過ぎた体型、極端に大きな目、ちょっと出っ歯・・・見ようによっては”モジリアーニ”の絵画から抜け出たような独特の風貌で、お世辞にも”美人”とは言えません。ただ、シェリー・デュヴァルは、この作品だけで、ボクの大好きな女優さんのひとりとして今なお君臨しているのです。

垢抜けないテキサス出身の田舎娘のピンキー(シシー・スペイセク)が、パームスプリングにある老人向けの温泉のサナトリウムに、新人療法士としてやってくるところから映画は始まります。「キャリー」出演直後に本作に出演したシシー・スペイセクは、当時27歳なのですが・・・ティーンエイジャーのようにも見える年齢不詳っぷり。パームスプリングという砂漠地帯の避暑地の温泉施設であるにも関わらず、何とも冷ややかな雰囲気が漂うサナトリウム・・・経営者の医者たちは儲け主義で、従業員たちには高圧的な態度でしか接しないという嫌~な職場なのです。

ピンキーに仕事を教えることになったミリー(シェリー・デュヴァル)は、仕事をキビキビとこなしている先輩療法士・・・何かとトロいピンキーにも親切に仕事の指導をします。一見すると”仕事のできる女”のようなミリーですが、実は自分がどう他者から見られているかを把握していない「妄想女」なのであり、自分に注目を集めていたい性格。ピンキーに親切にするのも、ある意味、優越感を感じたいからのような感じです。ミリーは仕事仲間や近所の人々に親しげに話をするのですが、内容はどうでもいいような内容のない話ばかり・・・チープでインスタントなアメリカンな料理のレシピを、誰彼構わず一方的に話すのは、まるでミリーの世界感が「チープ」で「インスタント」であるかのようで、絶妙です。実際のところ、仕事場や近所では誰もミリーの話なんかには耳を傾けないし、存在さえも忘れられているようなのですが・・・ミリー本人は無視されていることにさえ気にしていない様子で、他人の感情に対して鈍感で、極端に面の皮が厚いと言えるのかもしれませんが。

陰で茶化されるほど嫌われているにも関わらず、男は自分のボーイフレンドになりたがっていると思い込んでしまう・・・第三者からすれば、なんとも痛々しい女であるのですが、ボクはどうしてもミリーを嫌いになれないのです。車のドアにスカートをはさんでしまうような”おっちょこちょい”なところ、ニーマン・マーカス百貨店の通販カタログに喜ぶ世俗的なテイスト、黄色に統一したインテリアデコレーションのセンス、もしも男をお持ち帰りした時のためのスペアのソファベッドなど・・・ミリー自身が思っているほど”素敵”でも”もない彼女を「嫌な女」のひとことでは片付けたくないのです。少なくとも1970年代の後半のウーマンリブ後のアメリカ文化のなかで、ミリーのように”気取ってる”女なんて、いたような気もするので・・・田舎者のピンキーの目に、ミリーが”スタイリッシュな女”に映るのは、理解できないわけでもありません。ミリーのルームメイト募集に飛びついて同居することになり、黄色でデコレーションされた部屋を訪ねて、ピンキーはミリーに「You are the most perfect person I've ever met./私が今まで出会った人の中で、あなたは最も完璧な人」と羨望のまなざしで言います。ミリーにとって、最も望んでいる賛辞の言葉・・・ハニカミながらも笑みを浮かべる得意げな表情に、ボクはどうしてもミリーを嘲笑することができません。また、ミリーのいない間に日記を読んだり、憧れのミリーに近づこうと真似するピンキーも、ある意味、純粋だけに”ストーカー”的な恐さよりも、健気な気さを感じてしまうのです。

ミリーが仕事帰りに立ち寄る酒場「DODGE CITY/ドッジ・シティ」は、店の裏に射撃場があるような”場末”の店。仕事場や近所では無視されているミリーですが、お店のオーナー(ミリーの暮らすアパートの管理人も勤めている)のエドガー(ロバート・フロンティア)からは、”女性”として見られているようです。彼は、カーボーイファッションをしたアル中で、単なる浮気したがっているスケベ親父でしかありません。エドガーの妻ウィリー(ジャニス・ルール)は、臨月近くにも関わらず、真っ昼間の炎天下で奇妙な碧画をプールとかに描き続けています。ウィリーは「三人の女」の1人らしいのですが、ミリーやピンキーと比べて物語のなかの存在感は薄め・・・台詞も殆どありません。なお、ウィリーが書いている設定となっている本作のイメージシンボルともいえる壁画は、ボディ・ウィンドという男性アーティストの作品で、この映画の完成から数年後にロンドンで不慮の事故で亡くなったそうです。

ミリーは、元ルームメイトのディードラ(ビバリー・ロス)と彼女の男友達らを招待したディナーパーティーを企画するのですが・・・チーズ・オン・クラッカー、シュリンプカクテル、パン生地を巻いたソーセージ、チョコレートプディングなど、如何にもアメリカの田舎者が、洒落たパーティーフードと思い込んでいるようなオードブルを振る舞おうとしているところが、ミリーらしい!完璧に準備しようとするミリーに対して、招待されているディードラや男友達らは、ドリンクに立ち寄る程度にしか思ってないという悲しい温度差・・・彼らにあっさりとディナーパーティーはキャンセルされてしまいます。ミリーはキャンセルされた理由をピンキーに押し付けて、さっそと出掛けてしまいます。まぁ、出掛けるといっても「ドッジ・シティ」ぐらいしか行くところがないのですが・・・。

夜中になって酔っぱらって帰宅したミリーは、寝ているピンキーを叩き起こして、リビングルームのソファベッドに寝るように命令します。未リーが連れ込んだのは飲んだくれたエドガー。ミリーが連れ込める男はエドガーぐらいしかいないという悲しい現実・・・ミリー自身も、そんな”本当の自分”の卑しい姿を嫌悪してるかのようです。だからこそ・・・ピンキーに対しては、威圧的に「ひと言だって言い返すんじゃないわよ!何も分かっていないくせに!文句があるなら、いつでも出て行けば良いのよ!」と、ヒステリックに怒鳴り散らすしかないミリーの「痛さ」に、ボクは共感を覚えてしまうのです。ショックを受けたピンキーは、その夜、アパートの2階からプールに飛び込み自殺を図ってしまうのです。アパートの住人達に救われたピンキーは命を取り留めたものの、昏睡状態になってしまいます。

目が覚めたピンキーは、ミリーのことだけは認識するのですが、古い記憶を失ってしまったようなのです。わざわざ、テキサスから訪ねてきた両親のことを、まったく知らない他人だと言い張ります。ただ、の両親というのが奇妙で、ピンキーの親としては、どうみても老け過ぎ・・・血縁関係がピンキーとあったとしても、祖父母ではないかと思えます。実際に父親を演じたジョン・クロムウェルは、当時すでに80歳を超えていたというのだから、かなり不自然なキャスティングではあります。もしかしたら、この二人は本当の両親ではなくて、ピンキーの言うことの方が正しく思えてしまうほどです。それに、この両親・・・ミリーの部屋に泊めてもらっているにも関わらず、夜ベットで抱き合ってエッチまでしてしまうのだから、ミリーでなくてもドン引きしてしまいます。

退院後、ピンキーが別人格になってしまったように、化粧も服装も派手になり、近所の男たちやエドガーらを、手玉にとる”あばずれ女”のように振る舞い始めます。それでも、ミリーはピンキーの世話役をかって出て、リハビリに協力しようとします。ピンキーを自殺までに追い込んだ罪悪感からに違いないのですが・・・ミリーの世話の焼き方は「献身的」というよりも、子供を庇護しながら、実はコントロールしようとする母親のようにも感じられるのです。ピンキーがミリーの社会保障番号(戸籍のないアメリカでは非常に重要な番号)を通知していたことを経営者から責められて、ピンキーを庇いきれなくなったミリーは、遂にはサナトリウムの仕事を辞めてしまうことになります。そこまでミリーがしているにも関わらず、ピンキーはは反抗期の娘のように、ミリーの車を勝手に使ったり、エドガーを部屋に連れ込んだりと”やりたい放題”です。さらに、ピンキーはミリーになりきったかのように勝手にミリーの日記を書いたりし始めるのです。

本作は”人格入れ替わりの物語”とボクは思っていたのですが・・・単純に、そうとは言い切れないところもあるのです。確かに、前半と後半では、ピンキーとミリーの力関係が逆転したようだし、ピンキーがミリーにになりきったようなところもあります。しかし、後半もミリーは相変わらずピンキーをコントロールしようとしています。また、ピンキーの変化した人格は、ミリーに入れ替わったというよりも、ミリーがなりたくても、なれなかったタイプの女だったりします。人格が変わってからはピンキーは、あだ名のピンキーと呼ばれることを嫌うようになります。ミリーもピンキーも名前のフルネームは「ミルドレッド」で、実は同じ名前をもっていた2人・・・ピンキーは「ミルドレッド」と名乗り始めるようになるのです。

「ミルドレッド」という名の1人の女が、「ミリー」と「ピンキー」という「1人の女が2人の女に・・・」ってことなのでしょうか?「2人の女が3人に・・・」というのはウィリーを加えてなのか、それともピンキーの別人格なのでしょうか?

ここからネタバレを含みます。

ピンキーがみているのか、ミリーがみているのか、よく分からない夢のシークエンス後、ピンキーはあっさりと元の人格に戻ってしまいます。そこへ部屋の合鍵を使ってミリーとピンキーの部屋に侵入してきたのは飲んだくれのエドガー・・・それも陣痛の始まった妻のウィリーをひとりで放ったらかしにしたままだというのです。ミリーはベットに横たわって今にも赤ちゃんが生まれそうなウィリーに寄り添い、ピンキーに医者を呼ぶように伝えます・・・しかし、元の人格に戻ってしまったピンキーは呆然と立ち止まったまま。生まれた男の子は産声もなく・・・死産でああるという不吉な結果となります。出産中のウィリーのうなり声が断末魔の声のようにも聞こえて、出産の歓びなど微塵と感じさせないトラウマになりそうなシーンです。血だらけの手を振るわせながら部屋から出てきたミリーが、立ちすくんでいるピンキーを発見して顔を平手打ちにしたところで、いきなりエンディング場面に変わります。

ウィリーの死産から、どれほどの日にちが経ったのか分かりませんが・・・「ドッジ・シティ」で、ミリーとピンキーとウィリーの三人の女は同居しているようです。エドガーは銃の事故で命を落としたらしいことが、ソフトドリンクの配達員との会話で明らかになります。ミリーは眉毛を剃り落として、禁欲的な雰囲気を漂わせています。ここでは、ピンキーは「ミリー」と呼ばれていて、ミリーのことは「ママ」と呼んでいます。ウィリーはまるで隠居したおばあさんのよう・・・三人の女は「祖母=ウィリー」「母=ミリー」「娘=ピンキー」という家族のようになったということなのでしょうか・・・?

「じゃがいもの皮をむいて鍋に入れておきなさい」と命令するミリーに、ピンキーは「ママ、鍋はどこ?」と尋ねます。「そんなこと、答えないわよ」と冷たくあしらうミリーに、ウィリーが「なんで、あなたはそんなに厳しいの?」とつぶやくところで映画は終わります。

エドガーが、本当に銃の事故で死んだのかは疑問が残ります。もしかするとエドガーはミリーに殺されたのかもしれません。いずれにしても、残されたウィリーも、元の人格を取り戻したピンキーも、ミリーに頼って生きていくしかないほど”自我”を失ってしまったようだということ・・・それが「3人の女が1人になった。」ということなのでしょうか?

本作はロバート・アルトマン監督の脚本によるオリジナル作品でありますが・・・ミリーというキャラクターの構築にはシェリー・デュヴァルの功績が非常に大きいそうです。本作に使われているミリーの日記、ミリーが話すレシビの数々は、シェリー・デュヴァルによる創作だそうで、台詞の殆ども彼女によって書かれたということです。奇妙な物語の中で、ミリーの台詞や仕草だけは妙にリアリティを感じさせられ・・・シェリー・デュヴァルという女優なしでは、ミリーというキャラクターの存在感も、「三人の女」という傑作も生み出されなかったことは確かだと思います。ロバート・アルトマン監督が「解釈は観る人に任せる」と語っている本作の着地点は、正直ボクにはよく分かりません。

ただ、謎めいた物語だからこそ、作品が作られて35年経った今でも時代の変化にも色褪せすることなく「三人の女」とシェリー・デュヴァルの生み出した”ミリー”に、ボクは惹かれ続けるのかもしれません。




「三人の女」
原題/3 women
1977年/アメリカ
監督、脚本、製作 : ロバート・アルトマン
出演       : シェリー・ディヴァル、シシー・スペイセク、ジャニス・ルール、ロバート・フロンティア、ルース・ネルソン、ジョン・クロムウェル、ビバリー・ロス


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