予告編を観た時から絶対にボクが苦手とするタイプ映画だとは分かっていました・・・でも、いつもいつも”エログロ”だの、”トラウマ”だの、心を乱すような映画ばかりに陶酔している自分に「心が病んでるの?」と、不安になったりすることもあったりするのです。
映画好きの友人と映画談義に盛り上がったとしても・・・ボクの好きな映画を始めると”ドン引き”され、仕舞いには「どうして、そんな映画ばかり好きになってしまったの?」と、マジで心配されてしまうほど。自分でも気付いていないけれど、深い心の闇を抱えているのだろか?もしかすると・・・ボクだって「心がほっこりした」なんて、感想をもつ映画にだって出会うことがあるのかもしれない。そんなことを考えて、たま~に”癒し系”にも、チャレンジしてみることがあるのです。しかし・・・毎度のことながら、頭を掻きむしりながら、のたうち回ってしまうほど拒否反応をしてしまう自分と向き合うことになってしまいます。
「しあわせのパン」は劇場公開当時、なかなか評判が良かったという印象(ぴあ初日満足度ランキング第1位だってさっ!)がありました。内容はさておき、作品の舞台になっている雄大な北海道の自然の美しさに、ボクの心でさえ洗われるかもしれない・・・と、かすかな希望を抱いてレンタル
DVDで鑑賞してみることにしたのです。でも、よ~く考えてみれば、ボクは元々自然に対して無関心だし、炭水化物が好きじゃないので
”パン
”への思い入れは特になし・・・心に訴える要素や共感ポイントが少なく、ツッコミどころ満載の作品であることは明らかなのでした。
ここからネタバレ、および「しあわせのパン」を好きな方には不快な内容を含んでいます。
水縞(ミズジマ)くん(大泉洋)とえりさん(原田知世)の夫婦が営む「カフェ・マーニ」という北海道の洞爺湖のほとりの”月浦”にあるパンカフェが本作の舞台となっているのですが、そのカフェのロケーションが、かなり辺鄙・・・バスが頻繁に来るとは思えないバス停留所から100メートルほど離れた草原にポツンと建っています。パンを買いにくるお客さんが、大勢いるような様子はなく、2階にあるという宿泊施設にも、泊まりにくるお客さんが殺到している感じもありません。小学校へ給食用のパンを卸しているようだし、もしかするとネット販売で何ヶ月も予約待ちという人気のベーカリーなのかもしれませんが・・・。驚くべきことは、モデルとなったお店が実際にこの場所に存在してるということです。昔、とある田舎町で都内にありそうな、おしゃれな「カフェ」に行ったことがあるのですが・・・妄想の”田舎風スタイル”に少々違和感を感じたことを思い出します。本作にでてくる「カフェ・マーニ」も、スタイリストがつくりあげた”田舎のパンカフェ”という”癒し”のファンタジーとしか思えないのです。
映画の冒頭で登場するのは、理絵さんの初恋相手の”少年マーニ”が登場する「月とマーニ」という(監督自身が本作のために書き下ろした)絵本・・・月を自転車のかごに乗せて東から西に毎晩走っていく”少年マー二”が、眩しい太陽をとってくれと月から頼まれ「大切なのは、君が、照らされていて、君が、照らしているということ」と説き、その後も変わらず月を運び続けているというお話なのですが、りえさんが恋してしまうのは、太陽でも月でもなく、月を運んでいる”少年マーニ”という意味が分かりません。りえさんは、どのような立ち位置で”少年マーニ”をみているのでしょうか?小説版「しあわせのパン」の巻末付録に絵本「月とマーニ」が収録されているのですが、映画では登場しなかった(「太陽=男性、月=女性」のありがちな位置づけとは逆の)太陽を運ぶ”少女ソル”が登場しています・・・ってことは、太陽の”少女ソル”が、りえさんで、その輝きに照らされる月の傍にいる”少年マーニ”を求め続けるってこと?それとも「月=りえさん」で、月に寄り添っている”少年マーニ”を求めているとしたら、いくらなんでも単純すぎます。この絵本は本作の本筋の根幹に関わるところなので、なんとな~くロマンチックという話というのではダメなんです!
唯一の家族だった父親を亡くした後、東京での生活で、たくさんの「大変」が溜まっていたりえさんは、殆ど会話さえ交わしたこともない(会ったのは三度で、会話したのは仕事中のあいさつだけ)ミズジマくんに「月浦で暮らそう?」と誘われて、北海道に移住したのです。まず・・・東京だから「大変」が溜まるというのは、紋切り型の発想のように思います。それに、田舎でパンカフェ始める方が「大変」っちゃ「大変」かもしれません。さらに、田舎で一緒に暮らすといろいろと面倒なことが起こりそうという理由で、夫婦でいる方が良いと「結婚」までしてしまうとは、完全に理解不可能。ただ、これらの状況は、映画の中では説明はなく、小説版の前日談でしか明らかにされていないというのは、なんとも不親切です。映画しか観ていないと、お互いに「りえさん」「ミズジマくん」と呼び合い、二人だけの会話でも敬語という不自然な夫婦にしか見えません。小説版によると、籍は入れずに夫婦を名乗っているだけ・・・・初恋相手のマーニを求め続けているりえさんとは、肉体的には結ばれていないようなのです。本作ではカフェをオープンして2年目を描いているので、この二人は少なくとも、この生活を1年以上過ごしているってことになります!
17歳で主演した「時をかける少女」の時と同じ髪型で変わらぬ透明感を持ち続けている奇跡の44歳といえる原田知世が演じる、りえさんは「Ku : nel」的なゆるいシルエットとナチュラル素材のガーリーなファッションに身を包んでいます。大泉洋演じるミズジマくんも、同じような”田舎の男”スタイルだし、いつものお客として登場する近所に住む人たちのファッションも田舎の人風の「コスプレ」だということ。いつも山高帽の阿部さん(あがた森魚)、郵便配達員(本多力)、農家の八百屋さんの広川夫婦(中村靖日、池谷のぶえ)も、ナチュラル系(「Ku : nel」「リンネル」「天然生活」とか)にありそうな田舎っぽさなのです。さらに気持ち悪いのが・・・いかにも「癒し系でしょう?」という感じでニタニタと笑うところ。田舎に住んでいれば、いつも優しく微笑んでいるとでもいうのでしょうか?特に郵便配達員は、薄ら笑いしながら「りえさん、キレイですね~」と顔を合わせるたびに繰り返すのだから、ちょっと見方を変えたらキモい”ストーカー”です。さらに、近所のガラス作家の”変わり者”のヨーコさん(余貴美子)は、芸術家らしい(?)ヒッピースタイル・・・遠く会話の聞こえる地獄耳(?)で勝手におせっかいするという”変わり者”というキャラ設定を、アピールしているかのようです。
「しあわせのパン」は、夏、秋、冬、春の季節の4つのエピソードで構成されています。これも”癒し”系の邦画に多いパターンで、ひとつ起承転結のあるドラマチックな物語を語るよりも、舞台となる場所にやってくる主人公たちと関わるユニークな人々が紡ぎだすエピソードを並べただけ・・・という、ストーリーテリングよりも雰囲気を優先したつくりということのようです。それぞれのエピソードが実は深い関連性があるとか、各エピソードのテーマが最後に主人公たちに大きく影響を与えるとかであれば、エピソードを並べるだけでも意味があると思えるのですが・・・本作は、パンカフェを舞台にした一話完結のエピソードなのであります。
まず、最初の「夏」エピソードは、りえさんとミズジマくんが、カフェをオープンして1年ちょっと経った時期から始まります。彼氏と行くはずだった沖縄旅行をドタキャンされたので、その腹いせに最初に目に入った札幌行きの飛行機に飛び乗って、北海道に来てしまった伊勢丹の販売員(メンズ館らしい)のカオリ(森カンナ)と、東京に憧れながらも地元北海道から出て行く勇気のない若者トキオ(平岡祐太)のお話。カオリも、りえさんと同じく「東京は大変なんだ」という紋切り型の”都会のイメージ”を体現しているキャラクター・・・どうやら、とにかく監督は「都会は大変で、平和な田舎での癒しを求めている」と思っているらしいのです。逆に田舎に暮らすトキオにとって、東京は輝いている都会・・・「東京は大変だ」と愚痴るカオリに「東京にいられることだけで恵まれている」と噛み付きます。そういう東京志向の強い地方の人というのは、いつの時代にも存在するわけで・・・(最近は地元ラブな若者も増えてきたらしいですが)新鮮なキャラクターというわけでありません。
何故かボートから湖に落ちたカオリ(これもこれで唐突でアリエナイ奇妙な事故ではあるのですが)が、宿泊施設のシャワーを浴びていることを知りつつも、りえさんは薪配達が来たという理由で、トキオにカオリのところへタオルを持っていくように頼むのですが・・・これって、かなり非常識。「薪を運ぶのを手伝って!」なら理解できるのでですが、このような恋愛シュミレーションゲーム的な、物語の進行ありきの展開というのは、観客をバカにしているようにしか思えません。その後のカオリの行動も支離滅裂・・・夜中にわざわざトオルが宿泊している部屋の窓の外で大声で叫び回ったり、急に「明日は誕生日!」と言い出して半ば強引にお誕生日パーティーを開かせるのですから、やりたい放題です。同僚には彼氏と沖縄に行っているこ嘘をついているので、日焼けをしようとしたり、沖縄土産を探そうとするのですが・・・そんな工作をする必要があるならば、北海道なんかに思いつきで来ないで、彼氏なしでも「一人で沖縄行けば良かったんじゃないの?」とツッコミたくなります。
それまで伏線がなかったにも関わらず、突然トキオは線路の切り替えの仕事をしていることを話し始め・・・「電車の線路は簡単に切り替えられるけど、人生はそう簡単には切り替えられない」と、しみじみ語るシーンがあります。そういう”当たり前”のことを大事な”気づき”のように台詞として言われても、心には何も響きません。これは映画の台詞に限らず、最近の歌詞にもみられる現象で、とにかく「耳障りの良いフレーズ」を並べておけば、感動を生むと勘違いしているようなのです。カオリの「一生懸命もがかないと幸せにはなれないよ」という台詞も、上っ面のフレーズにしか聞こえません。だって・・・カオリは一生懸命もがいているんじゃなくて、単に会ったばっかりの見知らぬ他人に、当たっているだけなんだから。それを「一生懸命もがいている私」と解釈してしまう自己陶酔的な発想から脱却出来ない限り、カオリの成長ってないと思うんですけど・・・。
「わけあうたびに わかりあえる 気がする」という本作のキッチコピー・・・これにケチをつけるつもりはないけど、このテーマを伝えようとして繰り返し出てくるのが、パンをふたつに分けて食べるというシーンです。カオリの誕生日パーティーで「クグロフ」というでっかいパンをわざわざトオルに手渡して、カオリと分けて食べさせるのですが、取って付けたようなわざとらしさがあります。何故、りえさんは「一人分ずつを切り分けてあげないの?」って思ってしまいます。いちいち台詞や状況が「伝えたいテーマありき」だと、感動は萎えます。カオリに向かって「素朴なパンも良いでしょ?」と、りえさん自ら「素朴」アピールを台詞でさせてしまうのも押し付けがましい話です。カオリが自分自身の感性で「素朴なパンも良いかも」と気付くことに”意味”があるのですから・・・。
どれくらいの日数がかかるのか分かりませんが、トオルはカオリをバイクで東京まで送ることになります。トオルからすれば「駆け落ち」みたいなものなのですが・・・出会ってまもない男と一緒にバイク旅行というのも、かなり大胆な行動です。りえさんがミズジマくんと北海道まで来てしまったような突飛な行動が前提の本作では、これくらいのことは当たり前なのでしょうか?ただ、カオリが出発前に買い込んだお土産用の大量のパンは、東京に着く頃にはカチカチになっているに違いありません。翌年の春には、トキオとカオリは、どうやら一緒に暮らしているらしいことが、本編の後半で分かります。やっぱり、ふたりは同棲しちゃったんだったんですね・・・おそらく伊勢丹で働くカオリにトキオは食わせてもらっているような気はしますが。
「秋」のエピソードは、近所に住む父親(光石研)と娘ミクちゃん(八木優希)のお話。カフェの前にあるバス停を使っている親子なのだから、近所に住んでいるはずなのですが・・・あまり面識があるわけでもなさそうです。学校に行くバスを乗り過ごしてバス停に立っているミクちゃんは、どこか淋しげ・・・実は、ミクちゃんの母親は家を出ていてしまい、今は父親との二人暮らしで鍵っ子です。ミクちゃんの母親の得意料理がカボチャのポタージュで、本当はお母さんがつくったポタージュを食べたくてしかたないくせに、りえさんが作ってくれると食べずに立ち去ってしまいます。母親の家出するまでの回想シーンでは、カボチャのポタージュを囲む幸せな家族3人での団らんの様子を窓の外から見せ、画面手前に寝たふりで横になっているミクちゃんをドア越しに見つめてから去っていく母親の姿・・・と、かなりベタな表現で説明してくれるのですが、その後の展開は予想通りになります。
りえさんは、わざわざ招待状を書いて、父親とミクちゃんをお店に招待して、改めてカボチャのポタージュをごちそうするのであります。「もうママは帰ってこないのね」としんみりした後、父親にミクちゃんが言う台詞がなんとも気持ち悪いのです。「パパと一緒に泣きたかった」・・・子供がこういう発想するんでしょうか?母親がもう帰ってこないから淋しいという気持ちをぶちまけるので精一杯のはず・・・一緒に泣いて分かち合うというのは、傍観者の大人が好ましいと思う子供の姿です。また「わけあうたびに わかりあえる 気がする」というキャッチコピーのために、またしてもパンは切り分けずに出されます。そんなケチケチしないで「ちゃんと二人分のパンだしてあげれば?」と思ってしまいます。
常連客である阿部さんが何をする人かというのは、この時まで、りえさん達は知らなかったということになっているらしいのも不自然です。父親とミクちゃんがしんみりとするシーンで、いきなりアコーディオンを弾き始めて分かるのですから・・・。常連客であっても職業を尋ねたり、持ち歩いている大きなケースが何であるかを訪ねたりしないということらしいのですが・・・田舎なのに、まるで都会的な距離感の人たちなんですね。それに、実は阿部さんがアコーディオン奏者であったというサプライズって、本作にどれだけの意味があるのでしょうか?親子が帰宅した後、阿部さんに演奏代という名目で、差し出すリンゴのパンが「焼きたて」というのもスゴいことだと思いました。炭のかまどで焼いている天然酵母のパンなのに、夜でも「焼きたて」があるなんて・・・この夫婦は、四六時中パンを焼いているとでもいうのでしょうか?
「冬」のエピソードは、病気を煩っている妻アヤ(渡辺美佐子)と、心中するつもりで冬の北海道にやって来た夫のサカモトさん(中村嘉葎雄)のお話。若い時、プロポーズを断られて北海道を旅していたサカモトさんを追ってきたのは、断ったアヤ本人・・・改めてプロポーズをして結ばれた二人だったのです。繰り返すようですが・・・ホント、本作の監督って、駆け落ちして結ばれるのがお好きみたいです。その後、娘を授かり、関西で風呂屋さんをやっていたのですが、阪神大震災で娘も風呂屋もなくしてしまい・・・やっとのことで風呂屋は再建したとのこと。ただ、妻のアヤは病気になり、夫も日々でできることの限界を感じ始め、ふたりの思い出の地で一緒に死んでしまおうということだったのです。
渡辺美佐子と中村嘉葎雄のベテラン役者の圧倒的な演技力は、本作には不釣り合いなほど存在感があります。パン嫌いの妻が、焼きたてのパンの香りにつられて、思わずむしゃむしゃパンを食べてしまう渡辺美佐子の演技は、単にパンが美味しいとかいう次元(レベル)ではなく・・・人間が生きることの歓びが溢れていて、鬼気迫るところがありました。そして「明日もこのパン食べたい!」という妻の言葉で、思わず我に返る中村嘉葎雄の表情も、彼の心情の変化を雄弁に見せつけてくれます。しばらく滞在することにしたサカモト夫妻と、お馴染みの(?)常連客たち(アコーディオン奏者の阿部さん、郵便配達員、農家の広川夫妻、ガラス作家のヨーコさん)との、おちゃらけたパーティーは、嘘くさい田舎風を絵に描いたような光景で・・・ふたりの静かな熱演を、無駄にしてしまうほどです。長い滞在後、サカモト夫婦は関西に戻り、春にサカモトさんから妻のアヤさんが亡くなったことの報告と、滞在していた時の心情が書かれた手紙が届くのですが・・・繰り返し説明する必要ってあったのでしょうか?観客は十分サカモトさんの心の変化は感じているのですから、すでに観客が感じ取れていることを、繰り返し言葉で説明するなんて・・・お涙頂戴のテレビドラマのすること。エピソードが安っぽくなってしまいました。
サカモト夫妻を電車の駅で見送った後、りえさんはミズジマくんに「ずっと見てて私のこと、ミズジマくんのことも見てるから」と告げます。老夫婦と過ごしたことで、りえさんの気持ちにも変化が現れたということなのでしょうか?最後の「春」のエピソードはミズジマくんとりえさんのお話。ある春の夜、りえさんはミズジマくんに「私のマーニみつけた」と伝えるのです。結局、りえさんいとってのマーニって、月に寄り添って「大切なのは、君が、照らされていて、君が、照らしているということ」と言ってくれるような寄り添ってくれる人ってことだったみたいです。でも・・・月=りえさんだとしたら、月を照らしている輝きの元となる太陽って何なんでしょう?
ミズジマくんがマーニとなったことで、ミズジマくんにとっての「ひとつだけ欲しかったもの」も手に入ったということになるのですが・・これは、主題歌/エンディング曲となっている「ひとつだけ」の歌詞に結びつけようとしているのは見え見えです。一緒に夫婦として暮らしながら、受け入れてもらえなかったミズジマくんがりえさんに受け入れられる・・・すなわち肉体関係を許されるとしか考えようはありません。本作のメインストーリーって、結婚に逃げるように男について来ておきながら、2年近くカラダを許さなかった女が、やっとセックスに応じたって話だったんですね。「私のマーニ」とか訳の分からない”言い訳”を受け入れてあげていたなんて、ミズジマくん、忍耐強いとしかいいようありません。ただ、カラダの関係のゴーサインが出たと思ったら、すぐさまりえさんは妊娠発覚してしまうのですから、おしゃれなオブラートに包んではいるけど・・・実は、かなり「下世話な話」にも思えます。
さて、本作は大橋のぞみちゃんがナレーション担当していて、子供の声の可愛さに便乗したような姑息さも感じられるのですが・・・最後の最後で、この声の正体が判明します。実は、この声は、これから生まれてくるミズシマ夫婦の子供の声で、天からふたりの様子を見ていたということのようなのです。これって、いろんな映画やドラマとかでも使われたことのある手法だけど・・・「あぁ、そうだったのか~!」と心ふるわせる人というのもいるのかもしれません。
本作は、北海道”らしさ”にこだわり・・・原作にあった”里芋”は北海道ではあまり収穫されないので、”百合根”に変更したそうです。ただ、そこまで”本物”にこだわるのであれば・・・羊をペットみたいに一頭だけを、犬小屋ならぬ羊小屋で飼っているという設定はおかしいのではないでしょうか?本来、羊というのは「群れ」で飼われている家畜・・・一頭だけ、それも子羊一頭だけで飼育することはありません。それとも”食用”なのでしょうか?「子羊を一匹飼っていたら可愛くない?」という発想でやっているだけ・・・”北海道らしさのこだわり”じゃなくて、スタイリングのおしゃれ感で「あり」「なし」を判断しているということが、バレてしまうんです。
「ひとつだけ」作詞/矢野顕子
欲しいものはたくさんあるの
きらめく星屑の指輪
よせる波でくみ立てた椅子
世界じゅうの花あつめ作るオーデコロン
けれどもいま気がついたコト
とってもたいせつなコト
欲しいものはただ一つだけ
アナタ(キミ)の心の白い扉、ひらく鍵
離れている時でもワタシ(ボク)のコト
忘れないでいて欲しいよ ねぇ、お願い
悲しい気分の時もワタシ(ボク)のコト
すぐに呼び出しておくれよ ねぇ、お願い
楽しいことは他にもある
満月の下のパーティ
テニスコートを駆けまわる
選び抜いたもの集め作る中華料理
けれどもいま気がついたコト
とってもたいせつなコト
一番楽しいことは、アナタ(キミ)の口から
君の夢、聞くこと
離れている時でもワタシ(ボク)のコト
忘れないでいて欲しいよ ねぇお願い
悲しい気分の時もワタシ(ボク)のコト
すぐに呼び出して欲しいよ ねぇお願い
「ひとつだけ」は「しあわせのパン」の主題歌(エンディング曲)であり、三島有紀子監督が本作の脚本のインスピレーションを得たそうです。「ひとつだけ」は、ボクが大好きな”曲”のひとつ。本作で使用されている忌野清志郎とのデュエットも良いけれど・・・やっぱり「ごはんができたよ」に収録されていた矢野顕子のオリジナルが一番好きです!ポップで明るい矢野顕子の歌声だからこそ、すーっと歌詞が心に入ってくるように思います。だからこそ・・・この「ひとつだけ」という曲から、こんな薄っぺらい映画を作ってしまう人と、その映画に心から感動してしまう人に、ボクは行き場のない”イライラ”を感じてしまうのです。
「しあわせのパン」は、さまざまな「田舎ステキ!」なステレオタイプの要素をスタイリングしただけの”テレビコマーシャル”みたいな映画・・・原田知世が出演している「Brendy/ブレンディ」のコマーシャルと同じなのです。
「しあわせのパン」
2012年/日本
監督、脚本 : 三島有紀子
出演 : 原田知世、大泉洋、森カンナ、平岡祐太、光石研、八木優希、中村嘉葎雄 渡辺美佐子、中村靖日、池谷のぶえ、本多力、霧島れいか、あがた森魚、余貴美子、大橋のぞみ(声の出演)