2015/11/06

中村登監督の”ほのぼの”エグい昭和の映画・・・「所詮、生涯の旅路の道連れなんていない」という喪失感しか残らないの!~「旅路」~



先日、友人が『「旅路」っていう映画観たんだけど、すごく良かったよ~』という話をしてくれました。恥ずかしながら・・・中村登という映画監督の名前にさえボクは馴染みなかったので、帰宅してから調べてみたところ、2013年には生誕100年を記念して「東京フィルメックス」にて特集上映がされていたりして、再評価の兆しがあるらしいことを知りました。

中村登監督は、1940年代~1970年代に多くの文芸作品や女性映画を手掛け、アカデミー外国語映画賞にノミネートされたこともある松竹の全盛期を支えた”巨匠”のひとりなのですが・・・ボクの世代(アラフィフ)でも、リアルタイムで映画館で観たわけではありません、また、監督した作品の本数が非常に多く、作風の幅も広いことが災いしてか・・・同時代に活躍した松竹の他の”巨匠”たちと比較すると、語られることも多くなかったような気がします。


「旅路」は、1952年7月16日から1953年2月19日まで、朝日新聞の朝刊に連載された大佛次郎(鞍馬天狗シリーズ)の同名の小説が原作・・・劇場公開が1953年7月29日ですから、連載終了後すぐに映画化されたということのようです。終戦から7~8年後という時代を背景に「自立していく女性」を描いた文芸作品であります。「お涙頂戴」のメロドラマにありがちな「苦境に耐え忍ぶ女性」ではなく、自ら人生の選択をしていくというところが、戦後間もない日本を象徴しているようなのですが・・・彼女を取り巻く環境、当時の世間一般的常識、戦後の混沌の中で生き抜く人々の姿は、今の感覚からすると少々違和感を感じます。しかし、単に”戦後の新しい女性像”を描いている前向きなだけではない、作品に漂うダークさもまた味わい深い作品であるのです。

まず、主人公である岡本妙子(岸恵子)の境遇が、なかなかエグくて・・・女中が生んだ娘で、父親の家に引き取られて育てられたというのですから、どれほど形見の狭い思いをして育ったのだろうと推測してしまいます。「血縁」重視で母親に養育権を与えることが多い現在とは違い・・・「家」重視で父親側に引き取られることが多かった時代ならではです。妙子は出生の暗さを感じさせない美しい”お嬢さま”として成長しているものの、両親の死後、上京してタイピストとして生計を立てています。


ひとり息子が戦死した後、淋しく暮らしている叔父の岡本素六(笠智衆)から、妙子は娘のように可愛がられてはいるのですが、実はこの叔父・・・以前は金のことばかり考えていた”高利貸”だったというのです。ただ、笠智衆の演じる叔父が、まったく高利貸をやるような人物に見えない上に、住まいが鎌倉だったりするところもあってか、小津安二郎作品での父親像とダブってしまうところがあります。叔父は、ひとり息子を亡くした悲しみから逃れることができず、妙子が墓参りに尋ねてきた時・・・実は思い詰めて山で投身自殺をしようとしていたのです。偶然に通りかかった歴史学者の瀬木博士(千田是也)と弟子の捨吉(若原雅夫)に命を救われて、再び生きる気力を取り戻していきます。そして、捨吉が死んだ息子と同じ年齢ということもあり、捨吉に息子の面影を追うようになるのです。


妙子が明の墓参りの際、彼の戦友だった良助(佐田啓二)と偶然知り合うというのが物語の発端なのですが、この良助がヒロインの相手役なのに、一筋縄ではいかない怪しい男であります。戦地での生きるか死ぬかのストレスを乗り越えるため「人生は博打みたいなもんさ」と考えるようになったという良助は、”自称”高級車のブローカー・・・外国人ビジネスマンとビジネスをしている岩室元男爵夫人(月丘夢路)と組んで、車の商売だけでなく、賭けごとをしたりしているのです。佐田啓二には珍しい悪い男の役柄のため、本作の印象をマイナスと感じる人も多いようなのですが・・・逆に、甘い二枚目よりも、よっぽどハマり役に思えてしまうのは、ボクだけではないかもしれません。


妙子に一目惚れした良助は、巧みに気を引いてドライブデートに誘って外泊・・・あっさりと妙子とカラダの関係を持ってしまいます。妙子は翌日も会社を休んでまで良助とホテルに滞在・・・「肉体関係を持つ」=「いずれ結婚」という発想は、当時としては当たり前なのかもしれませんが、随分と安易に結婚を意識するのには驚きです。フィアンセ気分で舞いがってしまう妙子ではありますが・・・良助のような男に、結婚の安定や堅実さを求めるのは、所詮無理な気もします。叔父にあと押されて、妙子にアプローチした学者肌の捨吉は、告白する前に妙子から結婚を意識している男性(良助)との関係に悩んでいると相談されて、あっさり玉砕・・・それでも捨吉は、妙子を暖かく見守る気持ちは失うことはありません。


ボクが、本作で一番興味を引かれたのは、妙子と良助の恋愛の行方ではなく・・・岩室元男爵(日守新一)と夫人の物語であります。夫人の出身についてはハッキリと説明はありませんが、戦前に男爵家に嫁いだぐらいですから、それなりの家柄なのでしょう。戦中には一般の日本人が学ぶことのできなかった英語が堪能なようで、その語学力を生かして戦後は外国人相手にビジネスをして稼いでいるようなのですから、なかなか逞しい女性なのです。一方、男爵であった夫はまったくもって生活力なし・・・元華族という見栄にさえ疲れきって、貧しいながらも夫婦二人で質素に生きたいと願っています。しかし、夫人の方は元男爵夫人というプライドを捨てることができず、裕福な生活を続けることに執着していくのです。この夫婦の殺伐とした”やりとり”が、グサグサと心に刺さって堪りません!


京都に外国人ビジネスマンを案内するという仕事で、夫人が一週間家を空ける時・・・「元男爵夫人としてでなく、一人の女性として自分を大事にして欲しい」と嗜める夫は、結局、妻を信じることができません。自分の家内をホテルに訪ねることになるなんて・・・と愚痴ながら、商談をしている京都のホテルへ現れます。競輪で遊ぶための金をせびるという下衆なことを要求しているにも関わらず、日守新一の穏やかな口調によって、落ちぶれながらも元華族としての誇りと傲慢さを感じさるところが”見事”です。

「家という好都合な制度があるので、当分は亭主としての権利は利用できそうだね」


・・・こんなことを言う夫を持ったなら、ヤケ酒を飲まずにいられない夫人の気持ちもわからなくありません。そして、夫人は介抱してくれた良助を誘惑して、カラダの関係を持ってしまうのです。その後、岩室元男爵は夫人と良助のただならぬ関係を嗅ぎ付けて、良助からも酒代を強請っているようになるのですから、夫として堕ちるところまで堕ちた感があります。妙子を、夫人と良助が商談をしているホテルへ引き連れて鉢合わせさせるなんて、元男爵も意地悪くて悪趣味・・・ただ、純粋な気持ちを持っている妙子に接したことで、離婚を決心するに至ることになるのです。そこで交わされる会話の中で、元男爵が妻に対していう言葉が、本作のタイトルになっているというところが、興味深いとボクは思いました。

「夫婦というものは生涯の”旅路”の道連れだと考えていた」


良助との関係を断ち切ることを条件に、すべての財産を譲って離婚するという元男爵・・・旧華族らしい引き際は、最後のプライドなのかもしれません。しかし、そんな”潔さ”さえも、結局は自己満足でしかなく、今後、元男爵には”惨めな生活”という悲劇が待っていることは明らかです。恵まれた環境で育ったために生き抜く図太さに欠けていることを、単に「自業自得」だとか、「自己責任」とは考えられません。誰からも気の毒に思われるお涙頂戴の”不幸”よりも、誰にも同情してもらえない気位の高さゆえの”不幸”と”惨めさ”・・・ボクは元男爵に強くシンパシーを感じてしまうのです。

ここから結末のネタバレを含みます。


元男爵夫人とは縁を切って地道な仕事に就いて欲しいという妙子の願いも虚しく、良助には自分の生き方を変える気持ちは毛頭ありません。車の販売代金を株に使い込んで、元男爵夫人から逃げ回るようになってしまうのです。良助は金策のため、いったん実家へ戻るのですが・・・待ちきれない妙子は、お金を都合してもらうため叔父を尋ねます。しかし、あいにく叔父は不在・・・留守番をしていた捨吉が叔父から預かっていた現金を黙って持ち去って、良助の借金を全額返済してしまうのです。妙子が大金を持ち去ったことを知りつつも、捨吉は叔父に道で落としてしまったと嘘をつくのですが、妙子が叔父の元に戻ってきて事実を話したことで、捨吉が妙子を庇っていたことが判明します。叔父は責めることなく二人を許すものの、妙子に対しての捨吉の思いに、妙子が応えるということは最後までありません。そして、妙子は良助の田舎を訪れて「一緒にいることでお互いに不幸になってしまう」と良助に別れを告げるのです。


結局、妙子と良助が結ばれることはなく・・・また、誠実に妙子を思う捨吉ととも結ばれないという、ある意味、バッドエンディングで終わる本作・・・2ヶ月ほど後に公開された岸恵子と佐田啓二という同じコンビによるメロドラマ「君の名は」が大ヒットしたことで、本作は忘れ去れてしまうことを運命づけられていたのかもしれません。あまりにも、あっさりと妙子からの別れ話を受け入れる良助の爽やかな(?)態度には、違和感を感じてしまいますが・・・大佛次郎の原作でも、最後の数ページで唐突に別れてしまうのですから、このように映画も終わるしかなかったのでしょう。

最初に観たときには、製作当時の日本人の感覚についていけず、ところどころ釈然としないところがあったのですが・・・原作を読んだり、繰り返し視聴していくうちに、中村登監督の巧みな演出に気付かされます。妙子の不憫な出生をしみじみと語る叔父から、良助の誘惑に負けてカラダを許してしまった妙子に移るシーンで、連れ込み旅館の窓の外に咲いていたアジサイの花の白さに、妙子が気付くシーンがあるのですが、映画の後半に妙子が叔父に金を盗んだことを謝罪に訪れた際には、アジサイの花はすでに散っていて枝と葉っぱしかありません。しかし、妙子には白いアジサイの花が見えてしまう・・・白いアジサイは妙子の罪悪感の象徴というわけです。


「旅路」というタイトルにも関わらず、登場人物の誰も”旅路”を共に歩んでいく”道連れ”という存在がいるわけでもなく、出会うわけでもありません。叔父は戦争でひとり息子を失い、岩室元男爵夫妻は離婚によってお互いを失い、夫人と良助の商売関係はお金の問題で破綻し、妙子と良助と捨吉の3人それぞれの”思い”は通じ合わない・・・戦争という大きな喪失の後、人々は何かしらの喪失感に苛まれながら、結局”ひとりっきり”ということなのでしょうか?

生涯の”旅路”の道連れなんて、所詮・・・いやしないということなのです。

「旅路」
1953年/日本
監督 : 中村登
原作 : 大佛次郎
出演 : 岸恵子、佐田啓二、笠智衆、若原雅夫、日守新一、月丘夢路、千田是也
1953年7月29日劇場公開


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