2012/05/25

悪ガキ VS. エイリアン「男の子」は戦って「男」になるのだ!・・・”不良”アコガレのおじさんはワルい男の子になって人生やり直したいの~「アタック・ザ・ブロック」~


1970年代に少年期を過ごしたというと・・・”ガキ大将””わんぱく小僧”、または”不良””ツッパリ”など「昭和」の懐かしいカルチャーを経験して育ったと思われてしまうかもしれませんが、郊外の新興住宅地で育ったボクにとって、それらはドラマや本だけでみた世界でありました。

良くも悪くも、都内から庭付き一軒家を求めて引っ越してきた似たような経済状況の家庭が集まっているせいか、隣近所の子供同士よりも、同じクラスの同級生だけで遊んでいたのです。中学になっても地域性に欠けているから、イカニモ不良というようなガラの悪い生徒は極少数・・・殆どが高校受験を目指して淡々と中学生活を送っていました。そんなことあり、ボクにとって”ガキ大将”的存在や”不良”というのは、50近くになっても永遠のアコガレだったりするのです。

サウスロンドンの低所得者用公共団地を舞台に、悪ガキたちが正体不明のエイリアンと壮絶な戦いを繰り広げる「アタック・ザ・ブロック」・・・悪ガキグループの「モーゼス君」の凛々しさっぷり”不良”アコガレのあるボクはすっかり魅せられてしまいました。

モーゼス(ジョン・ボヤーガ)をリーダーとする5人の悪ガキグループが、看護師見習いのサム(ジョディ・ウィッテカー)を強盗しようとした時、突然、ひとつの隕石が落下してきます。その中には生き物(猿みたいな)がいて、いきなり襲ってきます。モーゼスは勇敢に反撃して、その生き物を殺ししまいます。そして地域のギャング(ニック・フロスト)らへ手土産として、その死体を持っていくことにするのです。ところが、その後、次から次に隕石が落ちてきて、もっと凶暴なエイリアンが団地を襲ってくることになってしまいます!

ハリウッド映画とかでこういう子供のグループを描く場合・・・主人公の白人の男の子の他に、スネ夫みたいなズルそうな出っ歯の子、人の良さそうな太った子、ちょっと男前で影のある子など、仲の良い友達同士とは思えないほど、いろんなバリエーションを集めました・・・というステレオタイプのことが多っかたりします。本作では、いわゆる”子役”を集めたのではなく、オーディションで選んだ素人の男の子たちによって演じられているために、”今どきの悪ガキ”としてのスタイルのリアリティだけでなく、彼らの友情というのも信じられるのです。

強盗をするような悪ガキだけだけど、エイリアンと戦う武器は、水鉄砲、花火、バット、マウンテンバイクなど身近なモノばかり・・・警察官や敵のギャングが、あっさりとエイリアン達に惨殺されていくなか、モーゼスはひとりエイリアンに立ち向かうことを決意するのです!

ここからネタバレ含みます。

何故なら、彼が最初に殺してしまった小さなエイリアンは”メス”・・・それを殺してしまったモーゼスを含め、その体液と接触してしまった少年たちに、交尾(?)の”マーキング”が施されてしまったようなのです。そして、その後にやってきた凶暴な”オス”エイリアンたちは、そのメスの”マーキング”に引き寄せられて、彼らを襲ってきたようなのであります。

”マーキング”をされたことによってエイリアンに襲われるとは・・・大人の男へのイニシエーション的なメタファーを感じてしまいます。実際、映画冒頭で強盗されそうになった”大人の女”であるサムとは、お互いを認め合う同等の立場になるほど、モーゼスはこの映画のなかで「男」として「ヒーロー」として成長を遂げるのですから。

ボク自身の人生を振り返ると・・・モーゼスのように大人へのイニシエーションを受けることなしに、生きてきてしまったような気がします。ストレートの男性だったら・・・結婚したり、子供が生まれたり、家を買ってローンを支払ったりと、自分”以外”のために生きることを強いられるわけです。でも、恋愛関係に縛られることを嫌い、好き勝手自由に生きてきてしまった自分自身を思うと・・・人として何かしら欠けているような不安にも襲われます。「いつまでも少年のような・・・」と言えば耳障りは良いけれど、単に大人になりきれていないということ。もう一度、少年時代に戻って”不良”の自分というのをやり直してみたい・・・なんて思ってしまうのであります。


「アタック・ザ・ブロック」
原題/Attack the Block
2011年/イギリス
監督&脚本 : ジョー・コーニッシュ
出演    : ジョン・ボヤーガ、ジョディ・ウィッテカー、アレックス・イスマイル、フランツ・ドラメー、リーオン・ジョーンズ、サイモン・ハワード、ルーク・トレッダウェイ、ジャメイン・ハンター、ニック・フロスト
2012年6月23日日本公開



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2012/05/20

映像の全てがハンディカムの”モキュメンタリー”というギミック・・・超能力を身につけた少年の暴走に”アナーキーさ”がないんじゃ!~「クロニクル/Chronicle」~



ボクが子供の頃、ユリ・ゲラーの超能力ブームというのがあって、日本でも”関口くん”という一人の少年はスプーン曲げで一世風靡しました。もしかするとボクにも、そんな超能力が備わっているのかもしれないと・・・スプーンや壊れた時計(ユリ・ゲラーの超能力で壊れた時計が動き出すと言われていた)を準備してテレビの特番の放送を食い入るように観たものです。しかし、ボクの前ではスプーンは曲がらず、時計も動き出さず、自分の超能力のなさにガッカリしたものでありました。ただ、その後、スプーン曲げ自体に疑惑がかかると、関口少年をはじめ、当時騒がれた少年少女はインチキとして忘れられていたったのです。超能力を持つことに憧れていたボクのような少年にとっては冷や水を浴びたような体験であったことは確かでした。

洞窟で不思議な物質に触れたことで、とてつもない超能力を身につけてしまった三人の少年たちが、その力の故に起こってしまう事件の末路を描いた「クロニクル/Chronicle」は、映像の”全て”がハンディカム(時には、監視カメラ、ニュース映像など)によって撮影されているという設定のモキュメンタリーという実験的なギミック映画”でもあります。映像が登場人物のハンディカムであるという設定は「ブレアウィッチ」以降、ホラー映画でよく使われる手法です。生々しい臨場感を醸し出すのには有効な手段ではありますが、カメラの構図が不安定で画面酔いしやすいという致命的な欠点もあるし、誰かが常に撮影しているという不自然さもあるので・・・「ここぞ」というシーンだけがハンディカムによる映像にして、モキュメンタリー”風”というのが一般的なような気がします。しかし・・・本作は、とりあえず映画の中の映像すべてが現場にあるカメラによって記録されたという”体(てい)”にこだわっているのであります。

アンドリュー(デイン・デハーン)は、癌で死につつある寝たきりの母親、アル中で暴力的で父親(マイケル・ケリー)からは虐待を受けている高校生で、学校では”いじめられっこ”・・・そんな彼は、ある日からハンディカムで日常を撮影することにするのです。何不自由なく、学校でも人気者の従兄弟マット(アレックス・ラッセル)に、親戚という義理で誘ってもらったパーティーで、黒人のスティーブ(マイケル・B・ジョーダン)に誘われて、森の洞窟へ”カメラを持ったまま”進入・・・そこには青白く光るクリスタルのような物質があり、ハンディカムは画像のノイズに、3人は鼻血と痛みに襲われ、その体験後、3人はモノを動かす能力(念力/テレキネス)を身につけたことに気付くのであります。

当初は、レゴブロック程度の小さなモノしか動かせませんでしたが、次第に動いているボールを空中で止めたり、ぬいぐるみを宙に浮かせたり、友達を突き飛ばしたり、駐車している車を移動させたり・・・他愛ないイタズラに止まっているわけもなく、次第に彼らは超能力で交通事故を引き起こしたりしだすわけです。能力は訓練すればするほど高まるようで・・・遂には彼らは自分自身の体さえ思うように宙を飛ばすことまで出来るようになって、空さえも飛び回るようになるのであります。勿論、ここまでの経緯は全てがアンドリューのハンディカムに収められた映像というのがミソでありまして・・・念力によってハンディカムを宙に浮かせて、自由自在のアングルで撮影できているということになるわけです。

ここから多少ネタバレを含みます。

監督のジョシュ・トランクいわく、大友克洋の「AKIRA」から最も影響を受けたというだけあり、超能力が暴走した時の破壊力の表現での類似点は見つけられるものの・・・前評判のように、これぞアメリカの「AKIRA」実写版!というほどまで、物語は大きな広がりも深みもありません。あきまでも・・・いじめられっこで父親に虐待されているアンドリューの怒りの爆発という個人的な理屈による、超能力の大暴走となるのです。確かに、厳しい環境は同情するところではありますが、シアトルの街を破壊して無差別に人を殺すほどの”ぶっちぎれ”っぷりは、あまりにも唐突・・・思想までは求めませんが、若者らしいアナーキーさがないのです。”お子さま”的な自分中心主義の感情・・・もしかすると、今どきの若者にとって「個人的な怒りを暴走させること=無差別な大規模破壊」というのでさえ、それほど不自然に感じなくなっているのかもしれませんが。

低予算ということもあって、モキュメンタリースタイルを選んだようですが・・・正直言って、それほど映画の内容に効果的な手法ではなかったような気がします。(正直、モキュメンタリー手法が成功している例って、それほど多くない気もします)予算的にも、映画としての山場も、街の破壊シーンにつぎ込んでいるのですが・・・最後の最後、なんとも啓蒙的なエンディングには消化不良を感じさせました。病気の母親と関係、父親からの虐待、そして学校や地域からのイジメなどを深く掘り下げ、いかにアンドリューが世の中をぶっ壊してやりたいと思っているかを描きった上で、大暴れすれば納得できたのかもしれません。3人の少年ではなく・・・アンドリューひとりに物語を集約して、男の子版「キャリー」を目指してしまえば良かったのにとつくづく思ったのであります。



「クロニクル」
原題/Chronicle
2012年/アメリカ
監督 : ジョシュ・トランク
脚本 : マックス・ランディス、ジョシュ・トランク
出演 : デイン・デハーン、アレックス・ラッセル、マイケル・B・ジョーダン、マイケル・ケリー
2013年9月27日より首都圏限定劇場公開



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2012/05/11

核シェルターで”生き地獄”・・・こんなことになるなら、さっさと死んでしまったほうが良かったのに?!~「ディヴァイド/The DIvide」



自ら命を絶つことは決して奨めるようなことではないけれど・・・自殺を実行してしまうほど追い詰められている人に向かって「自殺は許されない!」とは、言えないと思っています。ボク自身、ティーンの頃に、2度、自殺未遂をしていたりするのですが・・・失敗した結果、その後の30年ほどを生きているわけです。決して楽しいばかりではなかったけれど、ティーン時に死んでしまわなくて良かった・・・と思っています。これからの将来はどう思うか分かりませんが・・・やっぱり生きているからこそ、生きていて良かったと感じることができるのだから。自殺願望があるからといって、災害とか、事故とか、戦闘とかで、意図せずに死んでしまうのというのは、やはり本人的には不本意なものではないでしょうか・・・やっぱり「生きたい!」というのが、人間としての「本能」であると思うのであります。

「ディヴァイド」は、核戦争で崩壊してしまう直前、ニューヨークの核シェルターに逃げ込んだ人々のサバイバル・・・フレンチホラー「フロンティア」のサヴィエ・ジャン監督による、極限状態での「生き地獄」が、この手の映画にしては比較的長い上映時間2時間”で、じっくり”描かれていきます。

映画の始まりは、エヴァ(ローレン・ジャーマン)の”瞳に映る”核兵器で爆破するマンハッタンの風景・・・ボーイフレンドのサム(イヴァン・ゴンザレス)に促され、ビルの地下へ向かう住人達と共に二人はアパートメントのスーパー(住み込みの管理人)のミッキー(マイケル・ビーン)が管理する核シシェルターに危機一髪のところで逃げ込み、九死に一生を得ます。そこには、黒人のデルヴィン(コートニー・B・ヴァンス)、若者のジョシュ(マイロ・インティミリア)と弟のエイドリアン(アシュトン・ホームズ)とジョシュの友達ボビー(マイケル・エクランド)、そして中年女マリリン(ロザンナ・アークエット)と娘のウェンディ(アビー・シックソン)も逃げ込んでいます。

「SAW/ソウ」以来、閉じ込められた空間の極限状態を描いた映画を、日本では”ソリッド・シチュエーション・スリラー/ホラー”と呼ぶようになったようですが・・・アイディア(脚本)勝負で、比較的に低予算で製作できるということもあり、最近、ずいぶんと量産されています。「ディヴァイド」も、核戦争の背景は描かず、いきなり”核シェルター”に登場人物らが閉じ込めらるところから始まるので、舞台となるのは、ほぼシェルター内”のみ”であり・・・”ソリッド・シチュエーション・スリラー”というジャンルになる映画といっていいかもしれません。しかし、食料や飲み水を争って殺し合う映画?と思ったら大間違い・・・とりあえずは十分な食物も飲み水もあるという状況なのですから、食欲ではなく、支配欲、性欲など、人間臭いことで、徐々に”生き地獄”となっていくのであります。

しばらくして、いきなり防護服の兵隊がシェルターに進入してきて、乱闘となってしまいます。敵なのか、味方なのかも分からない・・・ひとりを殺害したものの、ひとりはウェンディをさらって去ってしまいます。殺した防護服の中には、北朝鮮人のようなアジア系の男・・・その防御服を拝借して、ジョシュが外部の偵察をしてみると、長いトンネルのような通路の末には何かの研究をしている施設があるのです。そこには髪を剃られてチューブに繋がれている実験台のようなウェンディがいます。しかし、他の研究者に発見されて、死にも狂いでシェルターにジョシュが戻ると、外側からシェルターの出入り口をシールドされてしまい、全員、核シェルター内に完全に閉じ込められてしまうのです。

その後、防御服の男の死体が徐々に腐っていくという、嫌~な展開となっていきます。斧で死体をばらして、トイレの肥だめの中に捨てるしかない・・・ということになり、ボビーが名乗り出るのですが、そんな非人道的な行為をすることで、彼は精神的に徐々におかしくなっていきます。生命線である食物や飲み水を管理するミッキーに対して憤りが高まり、遂にミッキーを縛り上げて、指を切り捨ているという拷問によって、食料品を奪ってしまいます。ここあたりから、ジョシュとボビーの二人の暴走が加速していきます。まず、娘を失ったショックでおかしくなってきたマリリンは、ジョシュとボビーの”肉便器”状態にされ、四六時中犯されまくる状態になってしまいます。マリリンを演じるのは、ロザンナ・アークエット・・・ボクの記憶では「スーザンを探して」の世間知らずの若妻役の印象がいまだに残っているので、おばさんになってしまっただけでなく、肉便器にされてしまう役柄を見せつけられるのは・・・辛いです。

ここから多少ネタバレ含みます。

日が経つにつれて、精神的だけでなく、頭髪が抜けて頭のところどころが禿げてきたりと・・・外見の劣化も激しくなっていきます。ジョシュとボビーはスキンヘッドの丸坊主になり、何故か目元だけにメイクアップするという「時計仕掛けのオレンジ」を思い起こさせるようなパンキッシュなルックスになっていきます。マリリンは肉便器にされた挙げ句に殺され、武器の在処を知ってしまった黒人のデルヴィンも殺されます。死人が出れば、誰かが死体をばらして、トイレに捨てなければならず・・・その役割は、まるで生き残るためのイニシエーションのようにもなっていきます。

お約束通り、最後に「ひとり」生き残ることになります。誰が生き残るのか?とうことがミステリーではない映画ではなく・・・意外な人物では、まったくありません。ひとり、残されていた防御服を着こんで、トイレの肥だめを通過して、遂に地上へ出ることになるのです。そして、想像通り、地上は核兵器で崩壊して、命の気配さえしていません。生き残って逃げたのに・・・放射能で死んでしまうのは時間の問題という、なんとも救いのないエンディングというわけです。

「ディヴァイド」のオチは、映画として特にサプライズもなく・・・こうしか終わりようのなかった話ではあるのですが、悲観的になるよりも、やっぱり人間って放射能が満ちた世界であったとしても「生きる」ことを選ぶんだよね・・・という動物的本能の強さを、ボクは確信してしまったのでありました。



「ディヴァイド」
原題/The DIvide
監督 : サヴィエ・ジャン
出演 : ローレン・ジャーマン、マイケル・ビーン、イヴァン・ゴンザレス、マイロ・インティミリア、マイケル・エクランド、アシュトン・ホームズ、コートニー・B・ヴァンス、ロザンナ・アークエット、アビー・シックソン
2012年6月9日よりシアターN渋谷にて劇場公開



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2012/05/04

観賞後、口を閉ざしたくなるほどの”後味”の悪さ!・・・邪悪な息子から母親への最悪の嫌がらせ〜「少年は残酷な弓を射る/We Need To Talk About Kevin」~


これといってハッキリとした理由はないのに・・・”ソリ”が合わないというか、相性が悪い人というのはいるものです。日常の生活で接点がなければ、接触することを避けることもできるけど、普段関わりを持たないといけない人だからこそ・・・余計に”ソリ”の悪さが気になるものだったりします。人と人の「絆」というモノは大切だけど、その「絆」=『関係性」の濃さゆえに「憎悪」も「嫌悪」も深くなるものなのかもしれません。

「少年は残酷な弓を射る」(原題は”We Need To Talk About Kevin”/私たちはケヴィンのことを話す必要がある)は、意味もなく母親を嫌悪する息子によって、ある意味、人生を崩壊させられてしまった母親の物語・・・母親の視点と記憶から時間軸を分裂させて、ショットごとに物語を再構成しています。感覚的なイメージと、妙にシーンにマッチした呑気な(?)サウンドトラックを加えて、閉鎖的な不安感を回想していくホームドラマというか・・・ある種のホラー(?)なのであります。息子ケヴィン役のエズラ・ミラーの「美少年っぷり」を”売り”にしていますが、観賞後の”後味”の悪さは超弩級・・・腐女子的な萌えや、洒落た映像センスに惹かれて、気安く観てしまったら、後悔してしまいそうです・・・特に、育児に悩んで児童虐待をしてしまいそうになって不安な母親には、トラウマになること請け合いであります。

旅行本を執筆するライターのエヴァ(ティルダ・スウィントン)は、自由に生きてきた女性・・・しかし、フランクリン(ジョン・C・ライリー)と”できちゃった婚”すると、渋々キャリアを諦めて家庭に入ります。生まれてきた息子のケヴィンは父親のフランクリンが抱くと、すぐ泣き止むのにも関わらず・・・母親のエヴァには何故かなつきません。騒音の多いニューヨーク市内から郊外の静かな屋敷に引っ越すことで、”ソリ”の合わない母と息子は閉鎖的な空間で、ますます絆を失っていくのです。

成長しても言葉を話さない3歳ぐらいになったケヴィン(ロック・デュアー)は、ますます母親に対して”だけ”は反抗的な態度をとり続けています。母親のことを意味もなく嫌う”小さな子供”というのが、なんとも不気味・・・ただ、母親を演じるティルダ・スウィントンのルックスも”殺伐”としていて、どこかしら恐ろしく感じてしまいます。日常の生活感というのも殆ど感じらず・・・あくまでも、母親の視点による回想を映像化している、ということのようなのです。

小学校に入学するぐらいの年齢になったケヴィン(ジャスパー・ニューウェル)は、わざと”おむつ”にうんちをしたりと・・・母親に対する嫌がらせも、より悪意に満ちた行為になっていきます。遂に堪忍袋の緒が切れて、暴力的になってしまい、ケヴィンを怪我させてしまうエヴァ・・・自らの母親としての資質に苦悩します。さらなる追い打ちをかけるようにケヴィンの”嫌がらせ”はエスカレートするばかり・・・そんな息子との親密な関係を結べないエヴァは、二人目の子供の娘セリアを身ごもるのですが・・・ケヴィンにとっては妹さえも、母親に嫌がらせをするための存在なのかもしれません。

ティーンエイジャーとなった息子ケヴィン(エズラ・ミラー)は、細くて冷淡な目と持つ美少年に育ちます。父親を演じるジョン・C・ライリーと外見的に似ているところは、まったくなく・・・頬骨の独特の形や、どこかしら爬虫類的な外見は、まるで母親エヴァと瓜二つ。まるでクローンのようなところが気持ち悪いです。母親に見せつけるようにオナニーをしたり・・・と、ケヴィンの”嫌がらせ”は、異常なモノになっていきます。相変わらず父親とは親密な親子関係を築いているケヴィンは、本格的な弓の道具をプレゼントされます。不注意の事故なのか、意図的な嫌がらせなのか、分からないような状況で、妹セリア(アシュレー・ジェラシモヴィッチ)が片目を失明させてしまいます。罪悪感に苦しむかと思いきや・・・ケロッとしているケヴィンに、父親のフランクリンも彼の不気味さに気付き始めます。

ここからネタバレを含みます。

ケヴィンの心の闇は、母親エヴァだけでなく・・・遂に学校のスクールメイト達へとむかっていきます。ネタバレ気味の邦題の”少年は残酷な弓を射る”の通り、1999年のコロンバイン高校での銃乱射事件を彷彿させる惨劇となるのです。父親フランクリンや妹セリアだけでなく、スクールメイト達を弓矢で殺害したケヴィンにとって、社会的にも「凶悪な犯罪者」となることが母親エヴァへの「最悪の嫌がらせ」なのでしょうか?

事件後でも、エヴァは生きていかなければなりません。事件を知る者からは罵声を浴びせられ、いきなりビンタされたりします。元・旅行ライターというキャリアも生かすこともできずに、旅行会社での簡単な秘書として生計を立てるしかなく・・正体がばれると同僚の男性から侮辱的な扱いをされたりします。そこには「母親は強し!」というような、”母性”を讃えるわけでもなく、ただ「試練」を受け入れて生きていくしかない現実が淡々と描かれます。

事件から2年後・・・少年院のケヴィンを訪ねたエヴァは、遂に「何故、私を嫌うのか?」という疑問をケヴィンにぶつけます。しかし、ケヴィンの返答は、無関心で・・・答えさえなっていません。勿論、観客にとってもケヴィンの真意も謎のまま。凶悪な犯罪者の母親という試練を背負う母親エヴァに対して、ケヴィンが心開くことはなかったようなのです。最後の最後まで、何らかの心の救いも、理解し合う未来の希望も、親子の絆さえも感じさせません。

このような作品にありがちな、母親に対しての安っぽい”同情”や”共感”をする隙を与えないティルダ・スウィントンの存在感と静かでパワフルな演技が、独特の不快感さを生み出していて・・・観賞後、この映画について語りたいという気持ちにさせないのであります。



「少年は残酷な弓を射る」
原題/We Need To Talk About Kevin
2011年/イギリス、アメリカ
監督 : リム・ラムジー
原作 : ライオネル・シュライバー
出演 : ティルダ・スウィントン、ジョン・C・ライリー、エズラ・ミラー、ロック・デュアー、ジャスパー・ニューウェル、アシュレー・ジェラシモヴィッチ
2012年6月30日より日本劇場公開



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2012/05/02

沢尻エリカTVドラマ復帰第1作で完全復活!?・・・というよりも、松居一代の”狂言番宣”の船越英一郎主演の2時間ドラマ~TBSドラマ「悪女について」~



2012年4月30日にTBS系で放映された「悪女について」の視聴率が、なかなか良かったらしく(関東地方で14.7%)・・・沢尻エリカのTVドラマ復帰第1作という意味では、とりあえずは”成功”と言えるのでしょう。しかし・・・今回の沢尻エリカ版は、有吉佐和子氏の原作や影万里江さんが主演した1978年のテレビドラマとは、またくの別次元のモノ。原作の持ち味である根源的なテーマ(視点の違いで善悪さまざまな人格が浮き彫りとなる)を覆してしまっています。

影万里江さん主演のテレビドラマについては、以前「めのおかしブログ」で書いたことがあります。ボクは15歳のとき、このドラマをリアルタイムで観て以来、かなりの思い入れを持っていますし、放映後に出版された有吉佐和子氏の原作も、初版で発売されたときに購入しました。テレビドラマは放映時に一度観たっきり(本放送後に午後に再放送があったかもしれませんが)ということもあって、小説版を繰り返し読み返したものでした。

「悪女について」は、戦後の混乱期から昭和にかけて一代で巨万の富を築いた”虚飾の女王”と呼ばれた富小路公子という女性の人生と謎の死を、27人の証言からヒモ解いていくというミステリー・・・到底、2時間ドラマの枠に収まるような物語ではありません。2時間枠に収めるためには、エピソードを抜粋する必要性があるのは仕方ないことかもしれませんが、結果的にスケール感のない物語となってしまいました。

原作(オリジナルドラマ)の神髄は、さまざまな視点で浮かび上がってくる富小路公子の多面性・・・時には嘘をついてばかりの悪女のようであり、少女のような可愛らしい女性でもあり、強くしたたかな自立した女性あったかもしれないという・・・さまざまな解釈をされている富小路公子像の不思議さが、一番の魅力であったのです。同じ場面が違い人物の視点で語り直されることで、違う真実が見えてくるというのであります。原作の掲載とテレビドラマの進行が同時進行であったということから、原作者の有吉佐和子氏も主演した影万里江さんをイメージしていたに違いありません。記憶が確かではありませんが・・・オリジナルドラマでは、富小路公子が実際に「飛び降り自殺」するシーンというのは、なかった気がします。ひとりっきりであったはずの部屋から、”転落”したという状況しか語られず・・・最後まで自殺だったのか、他殺だったのか、事故死だったのかさえ、明確には結論づけていなかった覚えがあるのです。

さて、沢尻エリカ版「悪女について」は、原作の物語の一部をベースにしながらも・・・「富小路公子は、やはり悪女であった」「実は、多くの負債のかかえて自殺した」という結論に、船越英一郎演じる沢山栄次が達するという「沢山栄次視点でのミステリー」となってしまっているのです。これでは、富小路公子の「多面性」を描くというよりも、単に「沢山栄次の視点による富小路公子の物語」でしかありません。物語の推進力は、沢山栄次が自分の子供だと思ってきた富小路公子の二人の息子の父親が、本当は誰だったのを探るという・・・下世話な話になってしまったのです。沢尻エリカ主演ドラマであるはずなのに・・・観終わった印象は、船越英一郎の2時間ドラマ以外の何ものではないというオチでした。

自身のブログ「主婦・松居一代ブログー船越家の毎日ー」で「悪女のついて」の中での夫・船越英一郎と沢尻エリカのラブシーンに嫉妬して夫婦喧嘩になっただの、その後夫が家出しただのと大騒ぎをして、ちゃっかり他局の芸能ニュースまでも巻き込んで「狂言番宣」をした松居一代・・・こういう「こずるさ」こそが”富小路公子”のやり口でもあったような気がします。沢尻エリカが、番宣のための番組出演NGという逆風を逆手にとった、掟破り、捨て身の行動を、良妻とみるか、悪妻とみるかは、人それぞれですから・・・。

さて、主人公を演じる沢尻エリカは、冒頭の顔の超ドアップに耐えうるほど、美貌の健在っぷりを見せつけていたとは思いますが・・・結果的には、富小路公子の人格の深みを演じるまでには達していませんでした。化粧っけのない十代の公子を演じていても、その美しさは圧倒的・・・ポスト沢尻エリカして注目される女優さんたちとは格違いを認めるしかありません。「別に・・・」発言によって、女優として、女性として、最も美貌も輝く時代に芸能活動を出来なかったことが、悔やまれるほどです。ただ、影万里江さんのような”イノセントさ”は微塵と感じさせず、悪女的なしたたかさを漂わせてしまうのは、沢尻エリカ本人が背負ってしまったキャラクター・・・ただ、今回のドラマ版は悪女と結論づけるという、非常に薄っぺらいドラマになっているので、万人に分かりやすく「悪女」を演じる沢尻エリカで「良し」とするしかないのかもしれません。

まさかの再ドラマ化で、ますます影万里江さん版の「悪女について」の、満を持してのDVD化に思いが募ります。また、原作本も、現在、絶版しているようで・・・こちらも再版を望みます。影万里江さんの面影は「悪女について」以外のテレビドラマには殆ど出演されていないこともあって、今では薄らいでしまっています。そこで、姪にあたるテレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」のメインキャスター小谷真生子さんを拝見するたび・・・影万里江さんの面影を、ボクは探してしまうのです。

「悪女について」
2012年4月30日TBSテレビ系放映
原作 : 有吉佐和子
出演 : 沢尻エリカ(富小路公子)、船越英一郎(沢山栄次)、余貴美子(鈴木タネ)、上地雄輔(渡瀬義雄)、渡辺大(尾崎輝彦)



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