2012/01/27

シャンタル・アケルマン(Chantal Akerman)監督による実験的劇映画の金字塔・・・主婦の退屈な日常から目が離せないの!~「ブリュッセル1080 コメルス湖畔通り 23番地 ジャンヌ・ディエルマン/Jeanne Dielman, 23 Quai de Commerce, 1080 Bruxelles」~



シャンタル・アケルマンという監督の名前を知ったのは、1981年6月に出版された「別冊シティーロード」の「もうひとつの’80年代を読む!」という特集号でありました。「シティロード」というのは、当時「ぴあ」のライバル的な存在だった月刊の情報誌で、一般化していた「ぴあ」よりもマニアックな批評が売りの雑誌で・・・この特集号は、その後の80年代に、ビッグネームになる数々のクリエーター達を紹介しており、まさに未来を予言していたような貴重な資料でした。

この別冊で、映画について執筆をしていたのが、四方田犬彦氏(現・明治大学教授)、西嶋憲生氏(現・多摩美術大学教授)、武田潔氏(現・早稲田大学教授)の3人・・・80年代に注目すべき映画作家としてライナー・ヴェルナー・ファスビンダー(「マリア・ブラウンの結婚」「ケレル」など)、エリック・ロメール(「クレールの膝」「満月の夜」など)、ニコラス・ローグ(「地球に落ちてきた男」「赤い影」など)、デビット・リンチ(「エレファント・マン」「ツイン・ピークス」など)、ダニエル・シュミット(「ラ・パロマ」「ヘカテ」など),テオ・アンゲトロプス(「旅芸人の記録」「アレクサンダー大王」など)らの名前を挙げていたのですが・・・1981年当時、これらの監督らの新作でさえ、まともに日本の映画館では観れない状況であったということだったのです。(80年代後半からのミニシアターブームで、日本の状況は一転することにはなるのですが)

座談会では、この頃の日本ではアメリカ映画以外が、満足に劇場公開されない状況について討論されています。1970年代後半にパリに滞在していた武田潔氏は、ヨーロッパで活躍していた女性監督を紹介・・・アニュエス・ヴェルダ、マグリット・デュラス、パトリシア・モラーズ、マルガレーテ・フォン・ロッタらと並んで、シャンタル・アケルマン(掲載当時の表記はシャンタル・アッカーマンだった)についても語っています。彼女の作品の中でも、映画的な時間省略がない特異な映画と説明されていたブリュッセル1080 コルメス湖畔通り 23番街 ジャンヌ・ディエルマン/Jeanne Dielman, 23 Quai de Commerce, 1080 Bruxelles」(以下「ジャンヌ・ディエルマン」)に、ボクは特に興味をひかれたのでした。ただ、当時の日本で本作を観ることは、不可能に近いことであったのですが・・・。

1981年9月にニューヨークに移住したボクが、シャンタル・アケルマンの作品を実際に観る機会を得たのは、ダウンタウンにあった映画館「フィルム・フォーラム/Film Forum」で1983年3月に開催された「シャンタル・アケルマン映画祭」でのことでした。初期の「私、あなた、彼、彼女」はモノクロで監督自身が出演しているプレイベートな詩的なフィルムで、実生活ではレズビアンと言われる彼女のプライベートが反映されていた印象でした。(ただ、アケルマン監督はゲイフィルムフェスティバルでの上映を拒否していたらしい)上映作品の中で、もっとも商業映画らしい作品だった「アンナの出会い」は、小津安二郎的なカメラワークが特徴的でした。しかし、なんと言っても衝撃的だったのが「ジャンヌ・ディエルマン」であったことは言うまでもありません。

1975年、シャンタル・アケルマン監督が若干25歳の時に制作した「ジャンヌ・ディエルマン」は、今観ても斬新な驚きを与えてくれる作品です。ミニマルなスタイルを追求した構成の実験的な劇映画として、前にも後にも似たような劇映画はないと思います。

息子が学校に通っている間に自宅で行っている売春以外、これといった特徴のない主婦/未亡人(ディルフィーヌ・セイリグ「去年マリエンバートで」)の3日間の日常生活を、バックグラウンドの音楽一切なし、映画的な時間の省略のなしに、淡々と映します。映画のなかで流れる時間というのは、一般的な映画ならば映画的な省略をされているのが当たり前のことで、上映時間と映画のなかで流れる時間が同じという事は、まずありえません。(特例としてヒッチコック監督の「ロープ」という映画はあります)

例えば、じゃがいもの皮を剝くというシーンがあるとすると・・・映画で表現される場合は、ひとつのじゃがいもを手に取って皮を剝き始めるところでカットされて、次のショットでは料理し終わっている状態を映して、時間の省略をするわけです。改めて考えてみると、目の前でいきなり料理を始めたと思ったら、数秒で作り終わっているわけですから、これほど奇妙なことはないのですが・・・暗黙の了解として、観客が映画的な時間の省略を不自然に感じることはありません。「ジャンヌ・ディエルマン」では、主婦の仕事の一連の作業の始めから終わりまでを、動くことない定点カメラで、切り取られた風景のように「じーっ」と撮っているのです。皿洗いをしているシーンでは、主婦の後ろ姿を映すだけで、作業している手元は一切映されることがないほど徹底しています。最近の3D映画は「視覚」による”現実感”のある映画体験を「売り」にしていますが、映画のなかで体験する「時間」の”現実感”は、とっくに手にしていたということなんかもしれません。

映画的な時間の省略をしないミニマルな映画のスタイルというのは、シャンタル・アケルマンが生み出した独自のスタイルというのではありません。彼女が20代の初めの数年間(1970年~1972年)を過ごしたニューヨークで、前衛的な実験映画を作ってたマイケル・スノウ、ジョナス・メカス、スタン・ブラケージ、イヴォンヌ・レイナー、アンディ・ウォホールらとの交流から、彼女が大きな影響を受けたことは明らかです。アンディ・ウォーホールによる1963年の「スリープ/sleep」(眠っている男を約5時間20分撮影)や、1964年の「エンパイア/Empire」(夕暮れから真夜中のエンパイア・ステイト・ビルを約8時間撮影)などは、定点カメラで被写体をただ映しただけという映画でしたし・・・マイケル・スノウの1967年の「波長/Wavelenth」は、ある意味「ジャンヌ・ディエルマン」との共通点が多くみられます。

「百聞は一見に如かず」・・・動画をみてください。「じゃがいもの皮剝き」「ミートローフ」と、どちらも熱狂的な”ジャンヌ・ディエルマン”マニア(?)がオマージュビデオを撮るほど有名なシーンです。




数分の動画だけをみると、「ジャンヌ・ディエルマン」は、とてつもなく退屈な映画のように思われるかもしれません。それは、まったくもって「正しい」印象だと言っていいでしょう。実は「ジャンヌ・ディエルマン」は、上映時間は193分(3時間13分)・・・劇映画としては、かなり長い部類の作品になるのです。その上、カメラは殆ど動かない固定なのですから、どれだけ”淡々とした”画面であるか想像出来ると思います。さらに主婦の仕事というのは、毎日同じような作業の繰り返しなので、観客は似たようなシーンを観せられることになるのです。しかし、その「繰り返し」というところが”ミソ”なのであります。

息子の靴を磨いて、朝食を作って、息子を起こし、朝食を食べさせ、息子を送り出し、朝食の後片付け、食料品の買い物をして、夕食の下ごしらえをして、家計簿をつけて、簡単な昼食を食べます。それから、キレイに化粧を施して、午後のお茶をカフェでするのが、ちょっとした贅沢のよう・・・その後、主婦は帰宅して、生活費を稼ぐために自宅で「売春」をするのです。寝室でお客とやっているシーンだけが、本作では唯一映画的な時間の省略をされます。その後、ベットを整えて、風呂掃除をして、浴室でカラダを洗って、夕食の準備・・・息子が帰宅して、夕食を済ませて、淡々とした会話をして、就寝するというのが、この主婦の退屈極まりない日課なのであります。買い物先の主人や、赤ん坊を預かる近所の主婦との会話は、限りなく他愛ありません。


些細な日常作業は省略なしなのに「売春」という行為のみは省略されるという対比により、「売春」以外の主婦の日常生活が、いかに退屈な繰り返しであるかを強調しているかのようです。そして、観客は、この主婦の感じている砂漠のようにカラカラに乾いた心さえも、まざまざと実感させられるということになりるのであります。ただ、同じ作業の繰り返しのようにみえる日常も、1日目と2日目では何かが違うのです。夕食をうっかり焦がしてしまったり、買い置きしていたはずの野菜が足らなかったり・・・どこかしら不安になっていく主婦の精神状態を感じさせるような些細なアクシデントが起こり始めて、観客は次第に画面から目が離せなくなっていきます。


以下、映画のエンディングに関する重要なネタバレを含みます。


3日目、主婦は明らかに前の2日間とは違う行動を取り始めます。何か考え深げなようだったり、また逆に落ち着かない様子だったりします。そして・・・カメラは初めて「売春」をする主婦の寝室へと入っていくのです。ベットの上で客にのしかかられている主婦は、明らかにオーガズムを感じている様子を映します。行為の後、ベットで寝ているお客に、彼女はいきなりハサミを胸に突きつけ殺害してしまうのです。

このような唐突で殺人の理由の説明が一切ない映画というと・・・ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督による1969年の「何故R氏は発作的に人を殺したか?」が思い出されます。平穏な家庭で淡々と暮らしていたR氏が、映画の終盤にいきなり家族を惨殺して、自分も翌朝職場で首つり自殺をするという作品でした。現代の不確実さや不条理を描いたということで、殺人と自殺の理由は一切描かれません。「ジャンヌ・ディエルマン」も、主婦が殺人に至る理由は説明されませんが・・・約3時間に渡って主婦の退屈さ加減を実感させられている観客にとって、その突発的な殺人のモチベーションを、なんとなく理解できてしまうところが、ちょっと恐ろしいのです。

殺害後、主婦は血だらけの手をしたまま、ダイニングテーブルに座って、彼女はひとり佇んでいます。徐々に陽が暮れて部屋が暗くなるまで、ず〜っとカメラも主婦も動かないワンショットが続きます。「彼女の頭の中では、何が駆け巡っているのか?」「息子が学校から帰宅したら、どうなってしまうのか?」・・・・長い沈黙の間、観客は考えてしまいます。殺人という日常を脱した”現実”が、静かに重くのしかかってきたところで、映画はクレジットが流れて終わります。(下の動画参照/クレジットが流れる前に途切れていますが実際はまだまだ続きます)

そして・・・観客は救いようのない余韻に包まれるのです。

 

「ジャンヌ・ディエルマン」のエンディング

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シャンタル・アケルマン監督(Chantal Akerman)の主なフィルモグラフィー

1968「街をぶっとばせ」(Saute ma ville)短編
1972「部屋」(La Chambre)短編
1972「ホテル・モンタレー」(Hotel Monterey)
1974「私、あなた、彼、彼女」(Je tu il elle)
1975「ブリュッセル1080 コルメス湖畔通り 23番街 ジャンヌ・ディエルマン」(Jeanne Dielman, 23 Quai de Commerce, 1080 Bruxelles)
1976「家からの手紙」(News from Home)
1978「アンナとの出会い」(Les Rendez-vous d'Anna)
1982「一晩中」(Toute une nuit)
1983「エイティーズ」(Les Annees 80)ドキュメンタリー
1984「おなかすいた、寒い」(J'ai faim, j'ai froid)短編
1986「ウィンドウ・ショッピング/ゴールデン・エイティーズ」(Golden Eighties)
1989「アメリカン・ストーリーズ/食事・家族・哲学」(Histoires d'Amérique)
1991「夜と昼」(Nuit et jour)
1993「東から」(D'Est)ドキュメンタリー
1996「カウチ・イン・ニューヨーク」(Un divan a New York)
1997「シャンタル・アケルマンによるシャンタル・アケルマン」(Chantal Akerman par Chantal Akerman)ドキュメンタリー
1999「南部」(Sud)ドキュメンタリー
2000「囚われの女」(La Capitive)
2002「他の側から」(De l'autre côté)ドキュメンタリー
2004「明日は引っ越し」(Demain on demenage)
2006「向こう側」(La-bas)
2009「ソニア・ヴィーダー・アサートン」(À l'Est avec Sonia Wieder-Atherton)ドキュメンタリー
2011「オルメイヤーの阿房宮」(La folie Almayer)

「ジャンヌ・ディエルマン」の撮影現場

ブリュッセル1080 コルメス湖畔通り 23番街 ジャンヌ・ディエルマン」
原題/Jeanne Dielman, 23 Quai de Commerce, 1080 Bruxelles
1975年/フランス、ベルギー
監督&脚本: シャンタル・アケルマン
出演   : ディルフィーヌ・セイリグ



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2012/01/18

シリーズ3作目にして”DVDスルー”に納得してしまう駄作・・・残酷描写のマイルドな中途半端なパクリ映画にしか思えませんからっ!〜「ホステル3/HOSTEL PART Ⅲ」〜



製作総指揮がクエンティン・タランティーノ。「キャビン・フィーバー」のイーライ・ロス監督による「ホステル」は、極悪無道の残虐描写が”売り”の拷問/殺戮ホラー映画の人気シリーズであります。

舞台はスロベニア共和国にある金持ちのための拷問と殺戮の会員制のクラブ・・・スロベニアの人たちからしたら、自国を舞台にトンデモナイ映画を作るもんだであったことでしょう。金を払って、人を殺すことを楽しむなんて・・・道徳的にも、かなりヤバい映画ではありました。1作目よりも悪趣味さ不道徳さがアップした「ホステル2」の後、音沙汰なかった「ホステル」シリーズ第3作目は、本国アメリカでも劇場公開なし、DVDスルー映画のレーベル「STAGE 6」での製作となったのです。

「ホステル」「ホステル2」で、製作総指揮のひとりとして名を連ねていたスコット・スピーゲルが「ホステル3」の監督をつとめています。サム・ライミとは高校時代からの友達で、映画の製作、脚本、俳優と多彩に関わってきた人でもあります。レンタルビデオ屋に勤めていたクエンティン・タランティーノを映画界に紹介しり、イーライ・ロスのプロダクションを一緒に立ち上げたりと、業界内のでの交友関係が有名な人でもあります。ただ、今まで監督した作品はDVDスルーが多いというのがビミョー・・・「ホステル3」は、まさに、その不安が的中の仕上がりでありました。

以下、ネタバレを含みます。

まず・・・舞台をスロベニアからラスベガス(砂漠)にしたことで、前作までの妖しい雰囲気がなくなってしまいました。旧社会主義国であったすスロベニアは、西側の勝手なストレオタイプなのかもしれませんが、どこか人間性に欠けたような不気味なイメージを作り上げやすかったのです。本作は制作時からDVDスルー映画として低予算だったからなのか・・・それとも、スロベニアからクレームがあったのか・・・舞台をアメリカ本国、それも近場(?)にしたことで、正統なシリーズ作というよりも、パクリっぽくなてしまったのでした。

物語のはじまりは、どこかしら「ハングオーバー」を彷彿させるバチェラーパーティー(結婚式の前に、新郎と友人達が集まる)・・・羽目を外してエスコートサービスの女性と遊ぶのですが、そのうち中もの一人が消え、危険な秘密クラブへと彼らは引き込まれてしまうのです。今回も”エリートハンティングクラブ”という会員制の拷問/殺戮クラブが舞台にはなっているのですが・・・ラスベガス周辺というのもあってか、拷問もショー形式。内側からも客席の見えるガラス張りの拷問室で、被害者に与える拷問をスロットで選ぶというギャンブルという嗜好にしているのですが・・・これが、まったく映画的に盛り上がらないシステム。その上、見世物としての「拷問ショー」となったので、機械的に殺戮行為を行っているために残忍性は薄味になっています。

前2作の残虐さというのは「個室」の拷問室で”自分の趣味嗜好のためだけ”に人間の命を買って、好きなように拷問して殺すという・・・ありえない不道徳さに血が凍る恐怖を感じたものです。さらに・・・「アンレーティング」でのDVDリリースのはずなのに、肝心の一番エグい残虐部分は映像には映さないという意味のない自主規制(?)の仕様となているのも意味がわかりません。

バチェラーパーティーの仲間の一人が、実はエリートハンティングクラブのメンバーで、新郎に自分が好きな女性を取られた嫉妬で、友達をクラブの餌食にしたという陳腐な動機が明らかとなるのです。エンディングは、砂漠にあったクラブの巨大な建物の爆破で焼け死んだと思わせていた新郎は実は生きていて、新婦とともに策略にはめた友人を殺すのだけど・・・被害者の一般人ふたりが、手間のかかる復讐殺人するというリアリティのなさに、まったく恐怖は感じません。

前2作のような「ホラーサスペンス」から「アクションホラー」のような「ちから任せ」な演出で「ホステル」らしい怖さは皆無・・・DVDスルーに納得の駄作となっていたのでした。

ホステル3
原題/HOSTEL PART Ⅲ
2011年アメリカ
監督 : スコット・スピーゲル
脚本 : マイケル・D・ウェイス
出演 : ブライアン・ハリセイ、キップ・バルデュー、スカイラー・ストーン、ジョン・ヘンズリー、サラ・ハーベル
2012年2月22日日本国内版DVD発売



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2012/01/11

挑発的なタイトルのわりに”仕事術”ではなく単なる参考文献リスト本・・・憎まれ役としても痛過ぎる底なしの自己正当化~「ズルい仕事術」勝間和代著~



お正月、本屋さんをブラブラしていたら・・・ビジネス書のコーナーで大々的に平積みされていたのが、勝間和代著の「ズルい仕事術」でありました。カツマーVS.カツマー論争以来、ときどき彼女の著書を購入して読んできましたが、共感したり、何かの”ため”になったことは皆無・・・それでも、たまに手に取ってしまうというのは、ある意味、嫌い嫌いも好きのうちで結果的に本を購入している(著者に印税が入る)のですから、まんまと彼女の手中にハマっているだけなのかもしれません。

まず本書「ズルい仕事術」で、笑ってしまうのが”まえがき”の長さ・・・主にアマゾン・ジャパンでのカスタマーレビューで自分の本が酷評されたことへの恨み節がネチネチと書かれているのです。レビューする本を読まずに酷評するのは確かに失礼な話ではありますが、それにいちいち噛み付いていく著者(日垣隆とか)というのは、本人が胡散臭い場合が多いような気がします。勝間和代の場合も(宣伝活動の一環として?)酷評したレビューワーとのネットでの直接対決を望んだようですが、まったく相手にされず・・・レビューを掲載するアマゾン・ジャパンに対して、過剰梱包(しっかりとした表面のきれいなダンボール箱を使用している)を皮肉まじりに批判するというお門違いの反撃をしているのであります。

ビジネス書というのは「私は上手にやっているから、あたなも真似して”得”しましょう!」というスケベ心に訴えているモノも多いので、想定されている読者というのが「自己評価は高い」けど「実生活に不満いっぱい」の「勘違いしている人」というのが多いような気がしてしまいます。その中でも「勝間和代」をローモデルとしている読者というのが、本当に”タチが悪そう”としか思えてなりません。「自分の付加価値を上げて、効率良く生産性を高める」ことを、あらゆる著書で繰り返し訴え続ける(というか、これしか訴えていない)勝間和代ですが・・・勿論、お手本とするのが、勝間和代自身であることはいうまでもなく・・・そんな勝間和代を目指す読者(存在するとしたら)というのは、自己評価が異常に高く(自己分析力)、効率よく利益を追求して(論理的思考)、ネットワーク/他者を利用する(レバレッジ力)という、実社会では(同僚、上司、部下とか、取引先にいたら)まず”嫌われるタイプ”だったりするのです。

すべての成功の鍵が「他人に好かれること」とは言いませんが・・・多くの人から好かれると、いろんな意味で恵まれる状況になることが多いものです。逆に嫌われ者が成功するためには、いろんな手管を使う必要があります。勝間和代が正論のように訴え続けることが、嫌われ者が他者より抜きに出るための必死な努力のようにしか思えないことが、読者には痛々しく感じられるのです。利害関係で成り立っている仕事という土俵では、彼女の主張する手管も大きな意味がありそうなことですが、人として大切なことを失っているようにしか思えません。それ故に、ますます嫌われるという悪循環が生まれてしまっているのです。いろんな場面で嫌われ続けて、他人に対して妬みや嫉妬という感情を人一倍持っているからこそ、ネガティブな感情に敏感なのねって思ってしまうほどです。

勝間和代を妬んで「ズルい」と感じる人のことを「まじめ」という大雑把に決めつけているのは、「ふまじめ」なボクにとっても大変に不愉快です。どうやら勝間和代は「まじめ」=「常識や既成概念に囚われている」として、彼女の自由な発想を認めないで、妬んでいると思い込んでいるようなのですが・・・効率化の追求や自己正当化の論理に固められた彼女に、誰が「自由」を感じられるというのでしょう?自分のことを嫌う人に対して「どこが嫌いなのか直接話し合ませんか!」と噛み付く勝間和代は、ボクから見れば、厭味なほど「バカまじめ」のないものでもなく・・・ただ、ただ、失笑するしかありません。本来「まじめな人」というのは、とっても尊い人たちなのではないでしょうか?まじめな人たちが日本にはいっぱいいるから、電車はスケジュール通りに走っているし、電気だって水道だってガスだって滞りなく供給されているのですから!

勝間和代のことを「ズルい」と思うよりも「嫌い!」「痛い!」と感じる人の方が多いから、世間の彼女への関心は急激に減ってきているように思います。東日本震災後「絆」をやけに強調する発想には賛同しませんが・・・鼻息荒くして成功を求める個人主義的な成功よりも、人間的な幸福を求める傾向が強くなっていることは確かです。勝間和代的な考え方というのは、明らかに一世代前の考え方になりつつあります。一時期テレビに散々出演しておきながら、需要が減って出演依頼がなくなったら・・・テレビに出演することは「自分には向いていない」と、ポジティブに自分の弱点を認めるという自己分析に転化した上に、タレントは「見て!見て!」という”力の欲求”が強い人だと決め受けて毒気を吐くところなど、毎度ながらのトンチンカンな”自己確信”にはヘキヘキとさせられてしまいます。

本書の「ズルさ」は、本文(実質150ページ程度?)内の参考図書の多さ(後記でリストされているだけでも25冊!)・・・参考図書の紹介とその内容の解説が本編の殆どを占めるということです。まさに本書の成り立ち自体が「ズルい仕事術」の言葉をそのまま実践した「少ないインプットで、大きなアウトプットを引き出す」仕事っぷり・・・カツマー信者にとっては”大きなアウトプット”と勘違いしてしまう「読書リスト」かもしれませんが、そうでない人には限りなく薄い内容の一冊でしかありません。

勝間和代が「ズルい」と後ろ指を指されるのは、まったくもって当然のことなのです。






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2012/01/04

やっぱり今年もやっちゃいます・・・2011年に日本で劇場公開された映画作品の勝手なベスト3&ワースト3~「ブラック・スワン」から「ムカデ人間」まで~

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あけましておめでとうございます。

あちこちでは2011年のベスト映画のリストなどがあちらこちらで発表されておりますが、こっちのリストではワーストに挙げられているタイトルが、こちらではベストに挙げられていることもあって、選ぶ人によっての好き好きというのがハッキリ分かれたりするのも面白いものです。

まぁ、ボクのように基本的に自分の観たいと思う映画を自腹で観ている人にとって、対象となる映画タイトルというのは、すでに嗜好的には限られたもの。それでも「これは酷い!」と大声で酷評したくなる映画というのもあるわけですが・・・最も評価として低いのは「そんな映画知らない」ってことであったりします。「酷い!」と言わせるまでは「観てみたい!」とは思わせているわけですから。

自分勝手に選んでいるのだから、日本で公開されているか、今年公開されたかとか関係なしに「今年ボクの観た映画ベスト&ワースト」でも良いのかもと思いましたが・・・そうすると日本未公開作品だけでなく、数十年前につくられた映画まで含まれてしまうので、結局「2001年に日本国内で劇場公開された作品」としました。映画祭などだけで上映された作品は含んでいません。

リストする数が増えると、それぞれのタイトルに対する思い入れが薄くなるような気もするので、今年も「ベスト3」と「ワースト3」としました。

ベスト1「ブラック・スワン」

やっぱり・・・というか、当然の2011年のベストワンであります。おそらく2011年に限らなくても、ボクにとっては生涯ベストテンに入れたいぐらい、思い入れの強い作品であります。日本で公開される前の3月29日にアメリカでDVD/ブルーレイが発売されたので、速達で届くように購入しました。めのおかしブログの方にも観賞直後、感想文を書いています。


当時、この手のマニアックな映画がアカデミー賞の「作品賞」ノミネートという事実に結構驚いていたボクですが・・・日本公開後の大ヒットにも驚きました。ゴールデンウィーク直後(5月11日)という夏の大作公開前という狭間””ということもあったのかもしれませんが、2011年の洋画興行成績8位という奮闘ぶり。日本の少女マンガ的なドロドロ世界は、思いの外、日本(特に女性)には受けたということなのでしょう。

何らかのモノ作りの現場にいたり、自分を表現するという仕事に関わっている者にとって・・・表現者としての葛藤や、完璧を目指すあまり自分を見失っていくというのも、他人事ではなかったりします。ボク自身が創作活動をしていた時に感じていたのは、作品に魂を入れる作業というのは、自分の内面を解放する反面、自らの身を切るようでした。だからこそ「ブラック・スワン」のラストシーンには、号泣せずにいられないのです。

ベスト2「劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ!」

まったくのノーマークの作品で・・・新作5作ならまとめて1000円レンタルという近所のTSUTAYAで、数合わせでレンタルして観たのが「劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ!」でありました。

神聖かまってちゃんというバンドの存在は知っていたけど・・・いつの時代にも一部の人から熱狂的に支持される「ネガティブさ」や「アナーキーさ」を売りにしたヘンチクリンなバンドという印象だけで、正直ボクは「嫌い」でした。まぁ・・・アラフィフになるおじさんが神聖かまってちゃんに夢中になるという方が「怖!」とは思いますが。

多くの人がそうであるように・・・ボクが初めて観た入江悠監督作品は「SRサイタマノラッパー」でした。ラップ・ミュージックに興味のないボクにとって、ラップミュージシャンを主人公にした映画にはまったく興味を引かれなかったのですが・・・あちこちで話題になっていたのでレンタルで観たのでした。ラップに終盤の即興ラップのやりとりには、思いの外、心動かされてしまいました。

「劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ!」というタイトルの映画でありながら・・・神聖かまってちゃん(または、リードボーカルの「の子」)は映画の主人公ではなく、オムニバズの物語を繋ぐカリスマの存在としたことで神聖かまってちゃんのことを嫌いな「おじさん」にとっても、受け入れられる作品となったのです。

神聖かまってちゃんの「伝説のライブ」までの1週間のあいだに、3つの物語が同時進行していきます。二階堂ふみ(園子温監督の最新作「ヒミズ」に主演でポスト満島ひかり確実?)演じる女子高生/美和子は、卒業後将棋プロを目指しています。ただ、将棋好きな父親とは大学進学を奨めておりぶつかっています。将棋を教えてた兄は自分の部屋にひきこもりっきりで本編には一度も姿を見せません。また、ボーイフレンドは将棋好きの彼女なんて格好悪いと浮気されてしまう・・・カッコ良いけど、メッチャ恰好悪いという絶妙な存在が何とも愛おしかったりします。他に、シングルマザーのポールダンサー(森下くるみ)と神聖かまってちゃんに夢中な幼稚園児の息子の物語と、神聖かまってちゃんのマネージャーのツルギ(劔樹人・本人)の葛藤が、終盤のライブで、それぞれの物語が希望へ向かうカタルシスは、音楽の力を信じる音楽映画の王道でありました。

今年は・・・東日本震災の影響もあってか、映画に限らず音楽も、ますます「応援」「感謝」「希望」「絆」などのメッセージを大盤振る舞いするような「直球の感動」表現ばかりになりつつある今・・・入江悠監督の登場人物ひとりひとりへの優しい視線が、映画的な「救い」を強く伝えてくれるのです。だって、本編の一番最後に現れる登場人物は、神聖かまってちゃんの聞くような若者からは一番遠い存在とも思える女子高生/美和子の父親だったりするのですから・・・。セル版のDVD/ブルーレイの特典として収録されている「お兄ちゃんの部屋」では、美和子のひきこもりの兄に対しても、優しい視線を送っています。

音楽映画でありながら、タイトルになっているミュージシャンの好き嫌いとは無関係に成り立ってしまうという・・・入江悠監督の稀な才能に感服したボクにとっては、「劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ!」は、2011年の堂々たる邦画ベストワンなのです!

ベスト3「冷たい熱帯魚」

東電OL殺人事件マニア(?)のボクには「恋の罪」の方が好きではないかと思っていたのですが・・・水野美紀主演にした日本版よりも、ふたりの女(いずみと美津子)に焦点をあてた海外版の方が、作品としての完成度が高かったという不可解な事態に、国内公開版に関してはベストリストからは外すことにしました。「冷たい熱帯魚」については、公開時にめのおかしブログにも感想を書いています。


手加減なしの園子温ワールド炸裂・・・観賞時の疲労感は何度繰り返し観ても消えません。もうすぐ公開の「ヒミズ」への期待も膨らみます。

順不同で「スーパー!」「エンジェル・ウォーズ」「ツリー・オブ・ライフ」もベスト作品に挙げておきたいと思います。ブログでは感想を書く機会のなかった「ツリー・オブ・ライフ」は、好き嫌いのハッキリと分かれる作品だとは思います。詩的な映像を重ねることで生命と家族の繋がりを抽象的に描くという、商業主義の映画とはかけはなれた作品をハリウッドスター主演で製作されたことに驚きました。

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基本的に自分が観たいと思った作品しか観ないので、ワースト映画を選ぶほど映画の本数を観てない・・・と思うのですが、それでも、あるんですよね,酷い映画って。


ワースト1「ムカデ人間」

これは「名誉のワースト1」であります。

「嫌よ、嫌よも、好きのうち」と申しますが・・・本作ほど「もうヤダぁ~勘弁してくれよ・・・」という映画は近年なかったと断言しちゃいます!故に「ベスト」ではなく、あえて「ワースト1」とさせて頂きました。日本での劇場公開は2011年でありましたが・・・実はボクは、北米版ブルーレイにて2010年に観ておりました。詳しい感想は、以前書いたブログを参照してください。


さらに「ムカデ人間」の酷いのは・・・さらに悪趣味テイストをパワーアップさせた続編「ムカデ人間2」が、すでに製作されているというところ。こちらも、ボクはイギリス版のブルーレイ(残念ながら編集でカットされている)で観ております。2月にはイギリス版よりも収録時間が数分長い北米版ブルーレイが発売されるので、イギリス版ではカットされたシーンも観れることに期待大であります。


ワースト2「パラダイス・キス」

実質的な2011年のワーストワンに「パラダイス・キス」を挙げることにさせて頂きます・・・同じくファッションデザインをテーマとした「ランウェイ☆ビート」もあったのですが、主演している役者の「旬なスター性」にも関わらず、酷い作品に仕上がっている本作が、本当にサイテーであると判断した次第であります。めのおかしブログにも感想を書いています。


マンガなら成立するような設定や物語も、実写となるとかなりキツイ!ファッションとして生ものを扱う限り、映画として完成した瞬間にダサくなってしまうのは当たり前でありますが・・・古臭いコンセプトとしての「おしゃれ感」に依存しているだけあって、時代性さえも感じさせない作りには圧倒されます。出演者の向井理、北川景子、五十嵐隼士らが、今後、大御所/ベテランと呼ばれるような俳優になったとしたら・・・バラエティ番組で、過去の恥ずかしい出演シーンとして使われる作品になることは請け合いです!

ワースト3「あしたのパスタはアルデンテ」


ダークホースというか、日本ではこっそり(?)公開はされたので殆ど話題にもなっていません。家族の絆を描く・・・大人のイタリア映画として日本では宣伝された「あしたのパスタはアルデンテ」。老舗パスタ会社の御曹司である二人の息子とも「ゲイ」であったという、ある意味、ゲイ・フレンドリーな映画ではあるのですが、その描き方が、まず中途半端。一家の長で糖尿病の祖母が、家族内のイザコザに嫌気がさして、スイーツを食いまくって自殺してしまうというトートツの展開・・・最期に、お葬式で家族全員が再び集まって「めでたし、めでたし」という、何とも不謹慎な落ちどころに、感動もへったくれもありませんでした。イタリア的なムードだけで、感動する大人の映画として宣伝していたようけど・・・結果的にゲイの客にも、ヨーロッパ映画好きにも、大人の映画好きにも見向きもされなかったようです。

順不同の次点ワースト作品としては・・・「世界侵略:ロサンジェルス決戦」「ランウェイ☆ビート」「あしたのジョー」を挙げます。中でも「あしたのジョー」はマンガの実写映像化に、さらに疑問を投げかけた作品と言えるでしょう。力石徹を演じた伊勢谷友介の減量と演技には感服したものの・・・香川照之の丹下段平はキャラクターへの思い入れと演技力が空回りのコント、矢吹丈の山Pについては・・・言うまでもありません。

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世界的に、過去の映画作品が本格的にブルーレイ化され始めています。日本では、初DVD化されるマニアックな作品もたくさん発売されます。今年は、ますます古い作品を改めて観る機会が増えそうです。



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2011/12/21

”トランスジェンダー”は、人権運動の「最後の砦」なのか?・・・「ありのまま」「自分らしさ」の追求の果ての葛藤~「Coming Out Story/カミング・アウト・ストーリー」~



Coming Out Story/カミングアウトストーリー」というドキュメンタリー映画の試写会に行ってきました。セクシャルマイノリティーとして、ひと括りにされることの多いLGBT」=「レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー」でありますが・・・ボクは常々「ゲイ」にとって「トランスジェンダー」というのは近いようで遠い存在のように感じてきました。それ故に「トランスジェンダー」について深く考えたことはなく・・・と言って、差別するほど存在を意識することもありませんでした。ただ「心の性別」が「肉体の性別」とは違うという絶対的な「確信」が、どうして持てるのだろう・・・という疑問は感じていました。本人にしか分からない「心」の理解の難しさが・・・「トランスジェンダー」が、人権運動の「最期の砦」であると言われる由縁なのかもしれません。

まずは、この映画でもメインのキャラクターとして出演している土肥いつきさんのように「男性」として生まれながら心の性別が「女性」の「トランスジェンダー」についてケースを考てみます。女性の服を着たい男性というのは「トランスジェンダー」だけではないということが「トランスジェンダー」という存在自体の誤解を生んでいるのではないでしょうか?

「女装」趣味をもつストレートの男性。社会的には「男性」として生きているけれど、女性の服を着て、女性のように振る舞いたい人たち・・・化粧が濃いめで女性としての美の完成度は低いことが多いような印象があります。これは、リアルには存在しない、男性目線からの古臭い女性像を自分で再現しているからかもしれません。若い世代の「男の娘(おとこのこ)」も、リアルには存在しないアニメ的なキャラという女性像を追求していますが・・・女の子と見違う完成度の高さは、完璧な「コスプレ」を目指した結果という印象です。それは、まるでプラモデルの塗装を几帳面に塗る「男の子的なマニアックさ」さえ感じさせます。「女装」にしろ「コスプレ」にしろ、性的に女性を求めながらも、自分自身が理想の女性像になることが目的であれば、単なる「趣味」「嗜好」ということになるのでしょう。「変態」と呼ばれたとしても。

「ゲイ」(または、バイセクシャル)が女性の格好をする「女装」にも、いくつかのパターンがあるように思います。エンターテイメントで「女装」をしている「ゲイ」にとっては、あくまでも「女装」はお祭り。デフォルメした虚構の女性像を「遊び」の一環として演じているだけです。基本的には「男性」として同性を求めているのだから、ドレスと化粧を取ったら、ただの普通の「ゲイ」で「バリタチ」なんてこともあったりします。好きなタイプが「ストレート男性」という場合には、セックス相手を得るための「女装」ということになります。「ストレートの男性」を騙して(?)落とすことが目的なので、外見的にはリアルに近い女性を目指します。近年「オネェ系」としてキワモノを期待される「ニューハーフ」は「ビジネス」としての「女装」でもありますが・・・「ストレート男性を好むゲイ」である場合もあれば、「トランスジェンダー」である場合もあります。「トランスジェンダー」という存在が認識されるまでは「ニューハーフ」が「トランスジェンダー」とすて生きる方法(生活手段)のひとつだったのかもしれません。

さて「Coming Out Story/カミングアウトストーリー」は、土肥いつきさんという公立高校の教師が、性適合手術を受ける前後の日常生活を淡々と追っていきます。学校では放送部の顧問を務め、人権問題担当でもあり「ありがままの自分として生きる」という講演で体験談を語る活動もされています。

若い頃には髭を生やして「男性」として生きていた人が、徐々に「女性」として変化していったという過程はありますが・・・現在の土肥いつきさんは「女性」として、正直ビミョーな印象でした。髪型が女性的にはなったものの、服装は男性とも女性ともつかないカジュアルなスタイル。化粧っけも殆どなく・・・正直、パッと見て「女性」として判断するのは難しく感じました。「女装」が、過剰に女性的であるのに比べて、土肥いつきさんは、あまりにも「ありのまま」の自然体過ぎるのです。勿論「女性」のすべてが、女性っぽいフリフリした服を好むわけではないとは思いますが・・・あえて「男性」から「女性」になろうとしているのに、女性らしさを追求しないのが不思議に思えました。女性から男性になった場合、ホルモン注射などによって毛深くなったり髭が生えてくるので「男性」として「パスする」可能性が高いような気がしますが・・・男性から女性になった場合、どれほど気を使って外見的にを女性っぽくしても不自然さが感じられるものです。だからこそ、服装や化粧などには、本物の「女性」以上に気を使うはずだと、ボクは思い込んでいたのでした。

ありのままの自然体を嗜好するというのは、ある意味・・・「レズビアン」や「女性人権運動家」から感じる「ナチュラルな女性賛美」に繋がる感覚のような印象を受けました。「歩くカミングアウト」を自称する土肥いつきさんは・・・あえて「男性」でもなく「女性」でもないという「曖昧な性別」を持つことによって、よりリアルに「トランスジェンダー」の存在感を増しているようにも感じられるのです。「性適合手術」をする土肥いつきさんの「決断」の絶対的な理由を、ボクは理解することはできませんでした。本作の中で、女友達に「これで堂々と女子トイレに入れる」と発言しているのですが・・・個室しかない女子トイレで違和感がないのは、見た目が女性っぽいかということ。下半身がどうなっているかなんて、脱がなければ分まりません。男性器が「ついているか」「ついてないか」は、本人の自意識でしかない場合もあるのではないしょうか?

整形外科医が手術前に、外科的には陰茎を切断して、膣のような空間を作るだけのことで「性転換手術」なんてモノはないと説明します。脳内にある自分自身の外見的なイメージを外科手術で一致させるのだから、整形手術や豊胸手術と似ているのかもしれません。「トランスジェンダー」にとって、男性器そのものが「男性」であることの象徴になってしまっているわけで・・・それを取り除かない限り「本当の自分ではない」と思ってしまうのかもしれません。ただ、それは本人次第ということろが厄介で・・・他人には「心の性別」の確信を理解することは不可能なのです。

園子温監督の「恋の罪」という映画で引用された「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」で始まる詩をボクは思い出しました。人は「言葉」の意味によって、自分の心を知るのです。”土肥いつき”さんも「トランスジェンダー」という言葉を知って、自分が本当は何かを理解したと告白します。「自分らしさ」や「ありのまま」という自己追求を、あまりにも過剰に、そして、あまりにも真面目過ぎにした結果・・・「トランスジェンダー」という「言葉」と一致してしまったような気さえするのです。言葉のないところに自己認識というのは生まれない・・・言葉というのは「性別」さえ変えてしまうパワーを持っているということです。

撮影スタッフのひとりが”土肥いつき”さんと出会ったことで「トランスジェンダー」であることに目覚めるという思わぬアクシデントにより、本作は単なるひとりのトランスジェンダーを追ったドキュメンタリーよりも興味深くなったことは確かです。ただ、ボクが驚いたのは若い世代の彼が「女装」のために用意したドレスが、今の若い女性が選ぶとは思えないダサいセンスだったということです。ただ、見せかけの「女性」らしさを目指さないことが、より「トランスジェンダー」らしいのかもしれないと思ってしまうのでした。

本作を観る限り土肥いつきさんが「トランスジェンダー」であることを理由に、職場で差別的な扱いを受けている印象は受けません。サポートと理解のある友人にも恵まれています。それは、長年の努力の結果かもしれませんが、”土肥いつき”さんを取り巻く人々にとって・・・「男性」であるか「女性」であるか「トランスジェンダー」であるかという「性別」は、それほど重要でもないのかもしれません。他者の存在は、常に「性的」である必要はないのですから。

男と女の「性差」を過剰に意識している「トランスジェンダー」という存在であるからこそ「男である」ことや「女であること」に、大きな意味が生まれているように思えてしまうのです。


Coming Out Story~カミング・アウト・ストーリー」
2010年/日本
監督 : 梅沢圭

2011年10月9日「第20回ゲイ&レズビアン映画祭」にてプレミア
2012年1月4日より「下北沢トリウッド」にて公開

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2011/12/15

父親が75歳にして”ゲイ”をカミングアウト・・・いくつになっても人生はやり直しができる!~「人生はビギナーズ/Beginners」~



「人生はビギナーズ」は、妻の死後に”ゲイ”をカミングアウトした父親を回想しながら、恋愛関係に臆病な息子が成長する物語。数年ほど前・・・「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ大佐を演じていたクリストファー・プラマーが「ゲイをカミングアウト!」という噂を聞いたことがったので、クリストファー・プラマーがカミングアウトする父親役を演じると聞いて「デジャブか?」と思ってしまいました。おそらく・・・この映画の製作のニュースが、プライベートと混同されたようです。1950年代、ゲイは病気と判断されていて正直に生きることは困難なこと・・・隠れてコソコソと公衆トイレでセックスするしかない犯罪行為でもあったのでした。結婚することでゲイが治るのではないかと、藁をもつかむ思いで結婚するなんてことはよくあったのです。

主人公(語り手)の息子オリヴァー(ユアン・マクレガー)は38歳で独身のグラフィックデザイナー・・・恋愛に臆病で、一番の話し相手(話しかければ字幕で答えるオスカーの心の声)は、常に彼に寄り添っている愛犬のアーサー(コスモ)だったりします。
44年間連れ添った妻との死後、75歳になった父親ハル「私はゲイだ」とカミングアウトして、年下の恋人アンディ(ゴラン・ヴィシュニック)と出会い、”愛”に生きています。ゲイコミュニティーの政治活動や映画鑑賞会に参加して「遅い春」を謳歌していくのです。本作では、父親のカミングアウトだけがテーマではないので、息子オリバーがカミングアウトに対して苦悩する様子というのは描かれません。ただ・・・エキセントリックな母親とクールな父親の冷ややかな関係を見て育ったトラウマが、オリヴァーを恋愛関係に対して臆病にさせてしまっているのです。

カミングアウトしてから4年後、ハルは末期ガンの闘病生活を送っています。すでに医者から治療方法は残されていないと、自宅療養を言い渡されたいるハルですが・・・アンディを始め、ゲイの仲間達にも死期が近いことを伝えずに、最期までゲイとして楽しく仲間達と生きることを選びます。恋人のアンディとは愛し合っているものの、他の男ともデートをするというゲイカップルにありがちなオープンな関係・・・「自分は年寄りだから、ナンバーワンのボーイフレンドであるだけで満足」と納得しているところは、妙にリアルです。

父の死後の数ヶ月後、オリヴァーは仮装パティーでアナ(メラニー・ロラン)と出会います。彼女はフランス人の女優で仕事のためにロスアンジェルスのホテルに滞在しています。つかみどころのない彼女も、鬱気味の父親と関係に苦しんでいたり、うまく恋愛関係を築けないオリバーと似た者同士・・・お互いに惹かれ合いながらも、実際に一緒に暮らそうとすると、お互いに過去のトラウマに囚われてしまうのです。

うまくいっていた恋愛関係であっても「どうせ、またダメだ」と諦めてしまうことって、ストレート、ゲイに関わらず”ありがち”のこと・・・オリヴァーが内面の抱える恋愛に対する臆病さに、ボクは共感を覚えずにいられませんでした。父親のハルの残した荷物の中から、出会い系の投稿欄の原稿が見つかります。カミングアウト後、率直に”愛”と”性”を求め続け、新しいことを学ぼうとする生き生きとした父親の姿に、もう一度、二人の関係をやり直してみようというオリヴァーとアナの姿で映画は終わります。

本作は「オリバーの子供時代(1970年代半ば頃?)」「父の闘病生活(~2003年)」「父の死後から数ヶ月経ったアナとの日々(2003年~)」という主に3つの時間を(時にはワンカットごとに)移り変わりながら、オリヴァーのモノローグで語るスタイルなのですが・・・それは、まるで頭の中で思いを巡らしながら時間軸を自由に行き来するのと似ています。

父親が息子に”ゲイ”をカミングアウトするシチュエーションって、日本では”まず”アリエナイように思えてしまうけど・・・本作は、マイク・ミルズ監督自身(息子の立場)の経験を元にした自伝的な作品。グラフィックデザイナーとして知られるマイク・ミルズ監督の映像センスも本作の見所で、オリバーの描く奇妙なペン画は、監督自身が描いたもの・・・フラッシュで現れる過去のガールフレンドのイラスト、古い雑誌の写真やイラストの映像コラージュ、グラフィックに挿入されるイメージの数々は、知的でユーモアに富んだ独特な感触を本作に与えています。

「いくつになっても人生はやり直しができる」という”常套句”を「人生はビギナーズ」は改めて新鮮に伝えてくれるのです。

「人生はビギナーズ」
原題/Beginners
2011年/アメリカ
監督 : マイク・ミルズ
脚本 : マイク・ミルズ
出演 : ユアン・マクレガー、クリストファー・プラマー、メラニー・ロラン、ゴラン・ヴィシュニック、コスモ(犬)
2012年2月4日より劇場公開



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2011/12/13

1960年代アメリカ南部版「家政婦のミタ」ではありません・・・差別にただ耐え続けた黒人女性の忍耐、世間体に縛られていた白人女性の皮肉~「ヘルプ~心がつなぐストーリー~/The Help」~



ニューヨーク市内の公園で、乳母車にのせた白人の子供をあやしているのは、明らかに子供の母親ではない・・・黒人、アジア人、スパニッシュ系の女性。そんな風景にボクは、少なからず違和感を感じたものでした。

日本人の殆どの人にとってはメイド(家政婦/乳母)=Helpという存在は、テレビドラマや映画でしか馴染みがない存在かもしれません。ただ単に、家政婦目線でのドラマとか見過ぎなのかもしれませんが・・・他人が家の中にいるという緊張感や煩わしさに、ボクはどうしても馴染むことができないと思うのです。家政婦や庭師が実家にいつもいたという友人の話によると・・・使用人たち前で、だらしない行動は出来ないとのこと。また、専属(住み込み)で働いてくれる人を見つけるのが年々難しくなっているので、それほど仕事が出来なくても我慢しているというのが、雇い主側の”本音”だそうです。

ボクはリベラルな東海岸東部で生活していたので、アメリカの南部での黒人の存在がどういう扱われ方をしているのか自分の目では見たことはないのですが・・・同年代以上のアメリカ人で南部出身の白人の友人たちからは「差別」ほど意識的ではないにしろ「区別」をしていることを感じさせられることは”しばしば”ありました。

「ヘルプ~心がつなぐストーリー~/The Help」は1963年のミシシッピー州のジャクソンという街を舞台にしています。黒人の公民権運動が盛んで、暴動やKKK(クー・クラックス・クラン)による黒人のリンチなども起こっていた物騒な時代でした。奴隷解放が行なわれた南北戦争終結から100年あまり・・・しかし「ジム・クロウ法」によって、交通機関、水飲み場、公衆トイレ、レストランなどは白人と黒人(有色人種)を分離する政策は、翌年(1964年)の公民権法制定まで普通に行なわれており、ミシシッピー州は中でも特に黒人差別が根深かったところでもあったのです。

主人公のスキーター(エマ・トンプソン)は、ある白人一家の裕福な娘で、大学卒業後にジャクソンの実家に戻ってくるのですが、彼女を育ててくれた大好きだった黒人メイドのコンスタンティン(シシリー・タイソン)の姿が見当たりません。母はシカゴの家族と暮らすために自分から辞めたと説明するのですが、明らかに何かを隠しているようなのです。スキーターは当時の南部出身者としてはリベラルな考えの持ち主で、人種差別を肯定する風潮に疑問を感じています。そこで黒人メイドたちの視点に立って、白人家庭で働いてきた経験や思いをインタビューしてまとめて出版しようと考えるのです。

当時のミシシッピー州では、一般的な白人家庭でも黒人メイドを雇うのは珍しいことではなかったようで、主婦は殆ど家事もせず、育児さえも片手間というのが当たり前・・・主婦だけで集まってポーカーをしたり、教会のチャリティー(アフリカの子供達の飢餓を救うためというのが皮肉!)に精を出したり、社交に興じているような毎日を過ごしていたのです。そのため、黒人メイドは子供たちの”母親がわり”のような存在で、メイドも子供たちを我が子以上に大切に愛して世話をしいました。そして、メイドが育てた子供は、やがて成長し、雇い主となるのです。

スキーターが、まず取材対象に選んだのは友人宅で働くアイビリーン(ビオラ・デイビス)・・・当初は正直に白人相手に話をすることに躊躇していますが、次第にスキーターの熱意と教会で聞いた神の言葉に心動かされて、取材を受けることを承諾します。アイビリーンの立場からすると、白人女性を家に招くというのは命がけとも思える勇気ある行動ではあるのは勿論、当時の空気を考えると、スキーターの考え方というのもかなり進歩的で弾圧されても不思議でないのですが・・・本作では疎外感は、それほど感じません。それに、スキーター自身も人種差別を明らかにしている主婦グループと結構親しげというのは、ちょっと不自然な気もしてしまいます。


主婦グループのリーダー的な存在であるヒリー(ブライス・ダラス・ハワード)は「黒人は病気を持っているから家の中の同じトイレは使わせない」と主張するような人種差別主義者・・・暴風雨の時、家の中のトイレを使った黒人メイドのミリー(オクタビア・スペンサー)を雨の振る中クビを言い渡して追い出してしまいます。その後、ミリーの悪口を言いふらして、他の白人家庭でも雇われないように根回しするという根性の悪さ・・・ミリーの、まさに(!)”糞喰らえ”的な物凄い復讐が、物語のポイントとなっていきます。ミリーを演じるオクタビア・スペンサーの独特なルックスとアクの強いキャラクターと、人種差別主義者を憎々しく演じるブライス・ダラス・ハワードが、なかなか見物でありました。

政治的な背景というのはテレビのニュースで流れている程度に抑えていたり、実は頻繁に行なわれていたはずである雇い主の白人男性から(そして夫である黒人男性からも)黒人女性に対するセクハラや暴力は画面には見せないなど、社会的に黒人問題を扱っている映画ではありません。そう意味では、少々甘いと感じるところもありますが・・・あくまでもスキーターの周辺だけに絞ることで、白人女性同士の力関係や世間体に振り回されていたという皮肉が浮き彫りにされていきます。そして、実は、白人女性たちも男性社会に弾圧されていたことも感じさせるのです。スキーターの取材は、アイビリーンだけでなくミリーや、他多数の黒人メイドたちの協力を得て、出版まで漕ぎ着くことができます。スキーターは結果的にニューヨークでジャーナリストとしての職を得ることにはなるのですが・・・自ら声を上げたアイビリーンやミリーは仲間から賞賛されますが・・・酷い仕打ちが待ち受けているといるという苦々しい結末となっています。(希望が感じられないわけではありませんが)

「ヘルプ~心がつなぐストーリー」の原作は、黒人メイドによって育てられたというキャスリン・ストケットという女性によって描かれた物語で、彼女自身の現実とスキーターの取材をしていく様子が重なるところがあります。アメリカでは2年以上ベストセラーとなっている作品ですが、出版される前に原作者の幼馴染みで俳優のテイト・テイラーが映画化の権利を獲得していました。そしてプロデューサーのひとりのブランソン・グリーンも彼らの幼馴染み、さらに出演者のオクタビア・スペンサーやアリソン・ジャネイも監督の親しい友人という、プライベートと繋がった人々によって大切に作られた映画であることが伝わってきます。監督自身も黒人メイドによって育てられていて、本作を彼女に捧げています。無骨な肉体派という風貌の上に、リベラルな人間の良さがにじみ出ているテイト・テイラー・・・素敵です。

作品とは関係ないことですが・・・日本での公開が今年9月頃に決定していたのを、アカデミー賞の候補になることを見越して、あえて来年3月に先伸ばしたということです。助演女優賞では、一人か二人はノミネートされるのは、ほぼ間違いないと思われます。作品賞、脚本賞、監督賞なども候補にあがるかもしれません。いち早く日本で公開することがベストだとは思いませんが・・・集客目当てに”おあずけ”というのは、何とも釈然としない配給会社の考え方です。

「ヘルプ~心がつなぐストーリー」
原題/The Help
2011年/アメリカ
監督 : テイト・テイラー
脚本 : テイト・テイラー
原作 : キャスリン・ストケット
出演 : エマ・ストーン、ビオラ・デイビス、ブライス・ダラス・ハワード、アリソン・ジャネイ、オクタビア・スペンサー、ジェシカ・チャステイン、シシー・スペイセック、メアリー・スティーンバーゲン、シシリー・タイソン
2012年3月31日日本劇場公開



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