2012/04/25

アグスティ・ビジャロンガ(Agustí Villaronga)監督のトラウマ再び!・・・忌まわしい過去の記憶と同性愛の罪悪感に信仰の救済はあるのか?~「エル・マール~海と殉教~(海へ還る日)/El Mar」~



個人的な”トラウマ映画ナンバーワン”として、以前「めのおかしブログ」で取り上げた「In a Glass Cage/Tras el cristal」は、スペインのデヴィット・リンチなどと評されることもある奇才、アグスティ・ビジャロンガ(Agustí Villaronga)監督の長編デビュー作です。その後つくられた作品をを観ると、いろんなタイプの映画を器用に・・・というよりは「子供時代のトラウマ」「同性愛の罪悪感」「信仰の重み」など、同じテーマを繰り返して描く作家的な監督であることに気付かされます。

「エル・マール~海と殉教~(海へ還る日)/El marは、アグスティ・ビジャロンガ監督らしい3つの要素を織り込んだ・・・心痛む、美しき傑作であります。日本では2001年の東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で公開されたっきり・・・日本国内のビデオもDVDも発売されていません。また、欧米で発売されていたDVDも、すでに廃盤。今では鑑賞することが難しい作品となっています。

内線下のスペインのマヨルカ島。自警団に殺される父親を目撃した少年が、父親を殺した男の息子の首にナイフを突き刺して惨殺・・・その後、その少年も自殺してしまいます。その場に居合わせた二人の少年ラマーリョとトゥール、少女フランチェスカは、その一部始終を目撃してしまいます。しかし、その忌まわしい記憶を心の奥底に秘めたまま、三人はそれぞれの人生を歩むのです。

10年後・・・男娼として裏社会で生きていた美しい青年ラマーリョ(ルジェ・カザマジョナール)が、結核療養所へ入所してきます。そこには、すでに患者として入所していたトゥール(ブルーノ・ベルゴンシーニ)と、修道女となって患者の治療にあたるフランチェスカ(アントニア・トレンス)の姿があり、3人は再会することとなります。

トゥールは、社交的なラマーリョと対照的に、静かに神への祈りを捧げる日々を送る信仰深い青年です。しかし、ラマーリョと再会してからというもの、友情以上の”思い”が強くなり、その欲望と罪悪感に苛まれていくのです。ラマーリョは、それまで生きるためにボスのエウジェニとの肉体関係を持っていたのですが、そんな状況から抜け出したいという苛立ちを抱えています。それを見守るフランチェスカも、ラマーリョへの愛を感じていたのです。

ここからネタバレを含みます。

常に死と背中合わせの療養所の生活・・・ひとり、また、ひとり仲間が亡くなっていくと同時に、トゥールはラマーリョへの思いは日増しに強くなり、ますます罪悪感で苦しみます。また、ラマーリョは療養所を逃げ出して、自分のことを抑圧してくるエウジェニを殺すため、彼の元を訪ねます。そこで知ったのは、ラマーリョを心配するトゥールがエウジェニと話していたという”裏切り”・・・ラマーリョはエウジェニを斧で惨殺して、トゥールを問い詰めるために療養所へ戻ります。

トゥールの特別な思いを、すでに分かっていたラマーリョは「ずっと、こうされたかったのだろう?」と・・・トゥールを荒々しく犯します。叶えられた「禁断の愛」の成就は、最も残酷に暴力的に描かれます。苦痛を伴う営みの中・・・トゥールは自分の体にのしかかっているラマーリョの首にナイフを突き刺し、殺害してしまいます。そして、トゥール自身も手首を切って自害するのです。

信仰に反する同性愛のセックスが許せなかったのか?長年の思いを果たしたトゥールには心中のような”死”か選択がなかったのか?もしかすると、ラマーリョは殺されるために、療養所へ戻ってきたのではないのか?いずれにしても、子供時代に目撃した忌まわしい記憶の殺人と同じ方法で、ラマーリョを殺さなければいけなかったというのは意味ありげです。信仰深いトゥールにとって、悪魔のように彼を誘惑し続けてきたラマーリョは「神」という「父親」という存在を殺してしまったようなものなかもしれません。

映画は、ラマーリョとトゥールの遺体を葬るフランチェスカの淡々として姿を映して終わります。ふたりの最後の営みを知っているのか、知らないのか・・・フランチェスカの祈りの無力さを感じさせられます。信仰によって彼らは救われるのでしょうか?



「エル・マール~海と殉教~」(海へ還る日)
原題/El mar
1999年/スペイン
監督 : アグスティ・ビジャロンガ
原作 : ブライ・ベネット
出演 : ブルーノ・ベルゴンシーニ、ルジェ・カザマジョナール、アントニア・トレンス、エルナン・ゴンザレス、アンヘラ・モリーナ、シモン・アンドレウ
2001年7月19日〜第10回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭にて上映



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2012/04/21

スーパースター・ラジニカーントさま降臨!・・・インド映画史上最高の制作費を費やしたスゴ過ぎる、おバカな超大作~「ロボット」~



ボクが映画に興味を持ち始めた頃(1970年代)インド映画というと・・・サタジット・レイ監督のような西洋的で優等生な映画監督による作品が、岩波ホールで上映されていたというイメージでした。だから一般的なインドの娯楽映画を初めて観たときは、ただただ衝撃でありました。ニューヨークに住んでいた時には、ケーブルテレビのインドチャンネルで、インド映画のミュージカルシーンがが放映されていました。字幕なしだったので歌詞は理解できませんでしたが、女性の特徴的な高音の歌声と、腰を振りまくる集団でのダンスにテンションが何故か上がってしまったものです。直接的な性表現でなくても、異様な密度のフェロモンを感じさせられました。一度、インド人の男にエレベーター内で誘われたことがあるのですが・・・インド映画さながらの腰のフリ加減でにじり寄ってきたのには仰天しました。映画の中だけじゃなくて、日常的にも色仕掛けで誘う時には、インド人は映画のように踊るんだと納得させられたものです。

インド映画というのは、伝統演劇の様式を踏襲しているために、どうしても「ミュージカル」ばかりになるのだそうですが・・・さらにインドの古典演劇には含まれなければいけないとされている「ナヴァ・ラサ/nava rasa」という九つの感情れが「色気:ラブロマンス」「笑い:コメディ」「哀れ:お涙頂戴」「勇敢さ:アクション」「恐怖:スリル」「驚き:サスペンス」「憎悪:敵役の存在」「怒り:復讐」「平安:ハッピーエンド」を描かなければいけない(ひとつの映画の中で!)という掟があるのだそうです!日本でこれに近いことをしているのは「水戸黄門」ぐらいしか思いつきません。ちなみに、逆にインド映画で描いてはいけない(検閲に引っかかる)要素というのは「子供や動物への虐待や暴力」「飲酒、麻薬、喫煙の推奨」「卑猥、女性侮辱的な性表現」「集団の対立を煽る描写」「反国家的表現」だそうです。考えてみると・・・「描いてはいけない」5つの要素よりも、「描かなければいけない」9つの要素を含むことの方が、トンデモナイことのように思えます。

「ロボット」はインド映画史上最高の制作費37億円を費やした”超大作!”・・・37億円なんて、ハリウッド映画と比べたら大したことないけれど、先進国とインドでは、10倍ほどの経済格差があるわけで、単純計算で「370億円」というとてつもない金額・・・最も制作費が高いハリウッド映画といわれる「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールドエンド」の推定240億円を遥かに超えてしまうという、物凄い規模の作品なのであります。ただ、その膨大な制作費の使い道が、あまりにもおバカ過ぎ・・・真剣に凄い映画を作ろうとしているのか、それとも真面目にふざけているのか分からない破天荒さは、いかにもインド映画らしいとしか言いようがありません。

バシー博士(スーパースター・ラジニカーント)は、助手のシヴァ(サンターナム)とラヴィ(カルナース)と共に、人間の100倍のパワーを持つアンドロイド・ロボットのチッティ(スーパースター・ラジニカーントの2役)を完成させます。チッティは、本を目の前でかざすだけで書かれている内容を記憶してしまったり、スーパーヒーロー並みの戦闘能力も兼ね備えているだけでなく・・・スイーツを作るのが上手だったり、女性のヘアメイクも得意という、まさに(!?)あらゆる点で人間以上の能力を持っているアンドロイドなのです。まぁ、スイーツ作りやヘアメイクは人間に任せておけば良いのにとは思いますけど。

人間の感情を持たないアンドロイドのチッティは、ある時、大火事の現場で入浴中の女性を素っ裸のまま(インド映画なので全身にモザイク処理!)救助するのですが・・・助けられた女性は恥ずかしさのあまり車道に飛び出して、車に轢かれて即死してしまうというトンデモナイ事態になってしまうのです。羞恥心などの感情を持たせる必要があると、バシー博士はチッティに感情を理解させることにするでありますが・・・チッティはバシー博士の恋人のサナ(アイシュワリヤ・ラーイ)に恋をしてしまうところから、本作はアリエナイ展開をしていくのです。チッティは嫉妬心から、ふたりの結婚式を台無しにしてしまい、怒ったバシー博士によって、チッティは破棄処理されてしまいます。

チッティの残骸を回収したのが、アンドロイドの軍隊を外国に売ろうとしていた悪者のボーラ博士(ダニー・デンゾンバ)・・・チッティはタミネーターとして再生されてしまうのです。ただ、感情を備えてしまったチッティは、ポーラ博士を殺害して自らのレプリカを量産してロボット兵団を作り上げます。サナを拉致したチッティは、さらに暴走をしていき、バシー博士、および、人間と全面的に戦うこととなるのです。

さすがIT王国のインドの名前に恥じない、クドいほどのコンピューターグラフィックスが、怒濤のごとく使われていて、37億円という制作費はダテじゃありません!ライフルがチッティの体に磁石のようにくっついて撃ちまくったり、レプリカのチッティ数百人(?)が合体して巨大ボール、蛇、ヒト型巨大ロボットに変身したりと、想像を超える(そして意味がよく分からない)アクションの連続なのです。と、同時に・・・チッティがサナの血を吸った「蚊」に怒り狂って、その「蚊」に謝罪させるという・・・バカバカしいシークエンスにも、制作費を湯水のごとく使ってコンピューターグラフィックスを駆使してしまうのが、本作の凄さであります。

バシー博士と恋人サナのラブストーリーには、お馴染みのミュージカルシーンが、ふんだんに織り込まれているのはお約束・・・どこにいようが、唐突にロケーションを移動して、夢のように歌い踊りだしてしまうというのですから、あまり深く考えると頭がおかしくなってしまいまそうです。とにかく観客にとって心地よく、豪華で華やかであれば、何もありのようで・・・あるシーンでは、モヘンジョダロの話をしていたと思ったら「キリマンジャロ~♪」と歌いながら、マチュピチュでインカ帝国の原住民っぽい衣装を着たエキストラと踊るというメチャクチャさであります。

「スター・ウォーズ」風のロボット、「タミネーター」っぽいアクション、マイケル・ジャクソンの「スクリーム」のようなのビジュアルと、パクリ疑惑(?)は数知れませんが・・・そんなことを構っている間もないほどの、あっという間の約3時間(オリジナルの上映時間は177分!)なんです。勿論、エンディングは、当たり前のように教訓じみたお涙頂戴っぽいオチ・・・インド映画らしい9つの感情を、無理矢理(?)ねじ込んだエンターテイメントにお腹いっぱいになることは請け合いであります。

御歳61歳(撮影時には59歳?)のスーパースター・ラジニカーントさまのフェロモンは、もちろん健在であります。頭髪はカツラと分かるし、手足が細くてお腹の出ている体型だし、踊りのステップやポーズも昔の主演作と比べると少々危うい・・・それでも、スクリーン上では色気ムンムンの中年(映画的な設定はアラフォーってところか?)になってしまうのだから、これぞ「スーパースター」が、「スーパースター」である”特殊能力”なのであります。日本人だったら、松平健(現在58歳)ぐらいしか対抗できる存在はいないような気がしますが・・・・・・といっても、フェロモン放出の密度は、到底、スーパースター・ラジニカーントさまに叶うわけはありません。

再び、日本でインド映画の再ブームを起こしそうな本作でありますが、残念なのは・・・・今回、日本で劇場公開されるのは”特別(?)編集された日本版”139分の短縮版”だけ”ということ。映画館としては回転率を高めて集客したいという思惑もあるのでしょうが・・・せめて一部の劇場では177分のオリジナルバージョンで公開しても良いのでは?という気がします。ま・・・日本版DVD/blu-ray発売の時には、オリジナルバージョンも収録ってことになるのでしょうが。


ロボット
原題/Endhiran
2010年/インド
監督 : S・シャンカール
出演 : スーパースター・ラジニカーント、アイシュワリヤ・ラーイ、ダニー・デンゾンバ、サンターナム、カルナース
2011年10月25日第24回東京国際映画祭にて上映(177分版)
2012年5月12日より日本劇場公開(139分版)


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2012/04/16

ゾンビ視点のホモソーシャルなバディムービー2作!~「ゾンビ・ヘッズ 死にぞこないの青い春/Dead Heads」「ゾンビ処刑人/The Revenant」~



1970年代後半にティーンエイジャーだったボクにとって「ゾンビ」といえば、ジョージ・A・ロメオ監督の「ゾンビ/Dawn of the Dead」に尽きます。屍が生き返って人々を襲う・・・というのは、おそらく、ハイチのヴードゥー教の魔術が元になっていると思うのだけど、ボクにとって「ゾンビ」と存在は、ロメオ監督が1968年に製作した「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド/Night of the Living Dead」によって定義づけられたのであります。人を襲って肉を食らうという「カニバリズム」、食われた人がゾンビになるという「伝染性」、脳を破壊しなければ襲い続けるという「理性の欠如」・・・これらの特徴こそが「ゾンビ」であるのです。

2000年以降、再びゾンビ映画が数多く製作されるようになると・・・ゾンビ映画として異色な作品も生み出されるようになりました。ゾンビがペットとして重宝されているホームコメディ風の「ゾンビーノ」を始め、「ショーン・オブ・ザ・デッド」「ゾンビランド」のように、元祖となるゾンビに敬意を払いながら、ゾンビコメディ映画というジャンルが確立されたのです。サイコホラーにも散々見飽きて、何でも映像的には表現できてしまうCGの発達した時代に、「死人が人を襲う」なんて陳腐な恐怖を、真剣に怖がるなんてこと自体が、ギャグみたいなものですから、コメディ路線にゾンビ映画の活路を見出すというのは、自然な流れでもあると同時に、末期的な方向性なのかもしれないと思わされるのであります。ただ、最近ではコメディ路線も、もうお腹いっぱいという感じかなぁ・・・と思っていたところ、最近「ゾンビ視点」という新たなゾンビ映画の切り口が登場してきたのです。

「ゾンビ・ヘッズ 死にぞこないの青い春/Dead Heads」は製作されたアメリカ本国では、劇場公開なしのDVDスルーだったのですが、日本ではシアターN渋谷のモーニング&ナイトショー限定(2012年4月14日より)ではあるものの、堂々と正式劇場公開作品ということになりました!監督と脚本のピアーズ兄弟というのは「死霊のはらわた」のSFXアーティストを義父に持つ「ゾンビ界の寵児」と言われており、監督など主要スタッフとして関わったのは、本作が第1作目であります。

主人公/マイク(マイケル・マッキディ)はハーフ・ゾンビ・・・理性の欠如した普通のゾンビではありません。彼はゾンビでありながら、生きていた時の記憶や理性を持っているハーフ・ゾンビなのです。マイクは婚約しようとしていた高校時代からの恋人エリー(ナタリー・ヴィクトリア)の父親によって射殺され、ゾンビと化してしまったのですが・・・埋葬3年後にゾンビとして目覚めた時には、彼自身は自分がゾンビであるという自覚さえなく、また殺された時に記憶というのもハッキリ思い出せません。やたら陽気なブレント(ロス・ギダー)も、マイクと同じように理性をもったままゾンビ化しているハーフ・ゾンビで、ゾンビの先輩としてマイクにあれこれと指南するうちに、ホモソーシャル的な男同士の友情が生まれていくのです。

ポケットの中に入っていた婚約指輪を見つけたマイクは、死ぬ前にエリーにプロポーズしようとしていたことを思い出し、ブレントとと共に彼女の元へと向かうこととなるのですが・・・何故か彼らを狙うハイテンションなゾンビハンター達に狙われることになります。彼らから逃げては追いかけられの繰り返しという、なんとも正統的な”追いかけっこ”を繰り広げることになります。しかし、本作はゾンビ映画・・・自分の腸を引っ張り出してロープ代わりにしたり、腕がもげようと何度くっつけたりという「グロおかしな」笑いを生んでいくに斬新な展開になっているのです!

主人公であるマイクとブレント以外で登場するゾンビは、ロメオ監督の定義しゾンビで、ノロノロと動き回りながら人を襲って食い、食われた人はゾンビ化するという「ゾンビ映画」としてまったくもって正しいゾンビ映画でもあるのですが・・・物語としては男が男の友情に支えられて女に告白するという、甘酸っぱい青春ラブコメディであり、ゾンビ映画の新しい方向性を示した作品と言えるのではないでしょうか?

さて・・・もう1作。邦題が”パッとしなかった”ために、見逃してしまっていた「ゾンビ処刑人/The Revenant」は「ゾンビ・ヘッズ 死にぞこないの青い春」より以前(2009年)に製作/日本公開されていた作品で・・・こちらも理性をもったままのゾンビ”が主人公の「ゾンビ視点」の映画でした。

イラクで戦死したバート(デヴィット・アンダース)は埋葬された夜に蘇ってしまいます。自分に何が起こっているかも分からないまま・・・親友のジョーイ(クリス・ワイルド)を訪ね、居候を始めることになるのです。バートは普通の食事は受け付けなくなっていて、血液を吸うことで体の腐敗から回復できることが分かってきます。原題の「Revenant/レヴァナント」とは「死から蘇ったもの」という意味で、人肉を食らうよりも血を吸うという存在であることから、ゾンビというよりもヴァンパイアっぽい感じもします。看護士で友人のマティは、本来死んでいるバートは葬られるべきだとして、ジョーイに首を切り落とせとアドバイスしますが、バートの恋人のジャネットは、何か手段があるはずだと聞き入れません。

レヴァナントとして生きることにしたバートは、病院から輸血用の血液を盗んだりもするのですが・・・ホームレスを騙して血を吸おうとして失敗した夜、メキシコ人のギャングに襲撃されてしまいます。ただ、バートは死ぬことはなく、逆にギャングを撃退し、まんまと血を吸うことができるのです。これを期に、バートは強盗、暴漢、麻薬の売人などの悪人たちを殺して血液を手に入れるようになります。ただ、血を吸った後は、首を切り落として、死体を廃棄しないとゾンビとして蘇ってしまうことは言うまでもありません。ある夜、ジョーイは致命傷を負って死にそうになってしまいます。そこで、バートはジョーイ噛み付きゾンビ(レヴァナント)化して、ふたりは、不死という能力を武器に悪党退治の「夜回りガンマン」として、夜のロサンジェルスを徘徊するようになるのです。ここまでは、ちょっとグロテスクなアメコミ・ヒーローもののようなノリのアクションとコメディなのですが・・・唐らが、麻薬の売人と間違って警官を殺してしまったことからシリアスでドラマチックな展開となっていきます。

ここからネタバレを含みます。

「夜回りガンマン」の正体は、バートとジョーイではないかと怪しんだ友人のマティが警官殺しの現場に現れ、真実を恋人のジャネットだけでなく、マスコミにもバラしてやると脅しにかかります。焦ったジョーイはマティを射殺・・・ふたりは街を出ることにします。しかし、恋人のジャネットから自分の血を吸うように勧められたバートは、思わずジャネットに吸血してしまうのです。ジョーイとしては”男ふたり”夜回りガンマンをして吸血しながら、でラスべガスで楽しくやろうと思っていたので、ジャネットまでゾンビ化させたバートと拳銃を打ち合う大喧嘩となってしまいます。バートもジャネットまでレヴァナントにしてしまうのは不憫だと、仕方なく首を切り落とすのです・・・。

バートと分かれたジョーイは、最初に殺したメキシコ人のギャングが蘇ったレヴァナントに復讐されてしまいます。体をバラバラに切断され、首だけがバートの元へ届けられます。何故か首だけになっても”死ねない”ジョーイ・・・声帯もなくして、ヴァイブレーターの振動でしか声が出せない状態になってしまっています。そんな自分を殺してくれと、ジョーイはバートに懇願します。「愛していた」なんて友情以上のホモソーシャルな関係を感じさせる言葉のあと、バートは巨大ローラーでジョーイの首を踏みつぶして、殺してあげるのです。

その後、バートは絶望・・・拳銃、首つり、飛び込みなどで自殺を図りますが、勿論、そんなことで死ねるわけありません。地下鉄で乗客を襲ってしまったバートは、大人数の警官達に追い詰められて、トンデモナイ銃撃戦になります。自殺しようとしていたくらいなら、素直に捕まれば良いのに・・・何故か逃げ回ります。結局、最後には囚われるのですが・・・その次シーンで、思いもしないような展開となります。政府はゾンビ(レヴァナント)達を捕まえて、研究していたのようなのです。そして、集められたレヴァナント達はカプセルに閉じ込められ、兵器としてイラクの地で解き放たれる・・・という情景で映画は終わります。

戦争映画のようなエンディングを迎える「ゾンビ処刑人」は、ゾンビ映画として異色な「ゾンビ視点」というだけでなく、派手なアクションやコメディ要素も含み、哲学的、ときには、政治的なメッセージ性をも持つという、なんでもかんでもぶち込んだ欲張りな映画でした。ゾンビ映画って・・・ホント、奥が深いものです。

「ゾンビ・ヘッズ 死にぞこないの青い春」
原題/Dead Heads
2011年/アメリカ
監督&脚本 : ブレッド・ピアス、ドルー・T・ピアス
出演    : マイケル・マッキディ、ロス・ギダー、マーカス・テイラー、トーマス・ガラッソー、ナタリー・ヴィクトリア


「ゾンビ処刑人」
原題/The Revenant
2009年/アメリカ
監督&脚本 : ケリー・ブリオー
出演    : デヴィット・アンダース、クリス・ワイルド、ルイーズ・グリフィス、エミリアーノ・トーレス、ジェイシー・キング



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2012/04/06

アダム・サンドラー(ダブル)主演の心温まるコメディ(?)が、史上初ラジー賞全10部門制覇!・・・安易な”女装ギャグ”は勘弁して!「トッツィー」は名作だった!~「ジャックとジル/Jack and Jill」~



映画や演劇が存在する以前から、「男」が「女」の恰好をして”笑わせる”というギャグはあったのではないでしょうか?「男」であるのに「女」の如く振る舞うという”道化役”は、大道芸人もやっていたことだろうし、サイレント時代のコメディ映画でも、”女装”はポピュラーなギャグであります。不思議なのは、女が男の恰好をしても、必ずしも笑いに結びつかないところ・・・潜在的な男尊女卑のマインドが根底にあるのかもしれません。ボクの子供時代には、ばってん荒川や藤山寛美、ドリフターズのいかりや長介の女装コントが、毎週のようにテレビから流れてきました。今でも、殆どのお笑いのバラエティ番組から、”女装コント”がなくなることはありません。おそらく未開の原住民の前で演じても、笑ってくれそう・・・「女装ギャグ」というのは、時代も文化も超えた、”笑いの定番と言っても良いでしょう。

男性コメディアンが「女装して女を演じる」というのは、テレビではあっても・・・劇場映画では、なかなか見れなかったするものです。近年だと、エディ・マーフィの「ナッティ・プロフェッサー2 クランプ家の面々」があります。デブの”着ぐるみ”を着てエディ・マーフィが一家の全員を演じたコメディ映画です。その後、マーティン・ローレンスが、同じようなデブの”着ぐるみ”で母親を演じた「ビックママ・ハウス」シリーズ、エディ・マーフィも再び同じような”着ぐるみ”を着て妻を演じた「マイ・ファット・ワイフ」があります。いずれも、笑いのキャラクターとして確立している「デブの気の強い黒人女」を、デブの”着ぐるみ”を着て演じる・・・というところがミソで、”女装”というよりはコスチューム・プレイでありました。

先日(2012年4月1日)に行なわれた32回ゴールデンラズベリー賞(ラジー賞)で、最低映画賞、最低監督賞、最低男優賞、最低女優賞、最低助演男優賞、最低助演女優賞、最低カップル賞、最低前編/リメイク/盗作/続編賞、最低脚本賞、最低スクリーン・アンサンブル賞とすべての部門を制覇した「ジャックとジル/Jack and Jill」は、この”女装ギャグ”という定番に、真っ向から取り組んだコメディ映画です。主役のジャック閉じるという男女の双子を演じるのが、どちらもアダム・サンドラーなのですから・・・でも、双子でも性別が違う場合には絶対に二卵性のはずなのだから、顔がそっくりという必然性はないのでは・という疑問は、野暮かもしれません・・・。本作の”酷い”のは、何と言っても、女役を演じているアダム・サンドラーの女装のクオリティの低さ!どう見ても、ただ単にアダム・サンドラー演じるジャックが女装しているにしか見えないレベルにも関わらず・・・ジルという双子の妹というのは、かなり無茶としか言いようがありません。

また、設定として”不快”なのが・・・ジャックは広告業界のエグゼクティブで成功者、幸せな結婚をしているのに、ジルはろくに仕事もしてなくて(11月末の感謝祭から年明けまでジャック宅に滞在できるんだから・・・)ろくに男性とも付き合ったことないという、かなり哀れな女性だということろ。何故、双子でそっくりだという二人が、これほどまでに格差のある人生を歩まなければならないのでしょう?結局のところ、アダム・サンドラーを無理矢理に「女」にしただけのルックスだから、勿論「ブス」で・・・だから、高校時代から”つまはじき者”の”いじめられっ子”って、女装のクオリティの低さによって、なるようにしかなれなかったキャラクターという感じで、本末転倒なのであります。

どういうわけか、アル・パチーノ本人が演じるアル・パチーノが、ジルに一目惚れというのは、ギャグとしてもアリエナイ無理な展開・・・アル・パチーノとのデートを嫌がるジルの振りをしてジャックが女装するんだけど、勿論アル・パチーノはまったく気付きません。でも、それって、ジャックが上手いこと演じているというのではなくて、ジルが元々ジャックの女装とまったく変わりないという・・・ここでも女装のレベルの低さが、ギャグを成立さえない”足かせ”になっているのです。結局、ジルはメキシコ移民の男性とハッピーエンドなるわけだけど・・・どうして彼がジルにそこまで惚れたのかも・・・理解不可能。登場人物の誰一人にも共感も、理解もできないのですから・・・心温まるコメディとしてのオチとして、まったく機能していません。

「女装」を”売り”にしたコメディ映画として、ボクが映画史上で最も成功した作品のひとつに、ダスティン・ホフマン主演の「トッツィー」が思い起こされます。正確に言うと、ダスティン・ホフマンは「女役」ではなく、女のフリをして売れてしまった売れない男優という役柄。この作品のアメリカでの前評判は最悪・・・ダスティン・ホフマンの女装なんて、単に「ギミック」でしかないという冷たいムードでしたが、実際に公開されると大ヒットどころか、アカデミー主演男優(?)賞にもノミネートされてしまったのですから、役者としての実力を見せつけた結果となりました。

「女装」のコメディ映画というのは、実はハードルとしては、非常に高いはずなのです。それを安易にギャグとしてやってしまった「ジャックとジル」は、アダム・サンドラーの演技者としての力不足を露呈させてしまいました。また、女装というギミックの縛りから、キャラクター設定も物語の展開も破綻しているという見事な迷走っぷりで・・・史上初のラジー賞全10部門制覇というのも納得するしかないのであります。

「ジャックとジル」
原題/Jack and Jill
2011年/アメリカ
監督 : デニス・デューカン
出演 : アダム・サンドラー、ケイティ・ホームズ、アル・パチーノ、ユージニオ・デルベス、デヴィット・スペード、ニック.スワードソン、ノーム.マクドナルド、ティム.メドゥ

「トッツィー」
原題/Tootsie
1982年/アメリカ
監督 : シドニー・ポラック
出演 : ダスティン・ホフマン、ジェシカ・ラング、テリー・ガー、ダブニー・コールマン、チャールズ・ダーニング、ビル・マーレイ、ジーナ・デイヴィス、シドニー・ポラック



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2012/04/01

おじさんだって”ガールズゲーム”・・・衣装や化粧が”装備”と”武器”?接客は”戦闘”?キャバ嬢になりきって男心をくすぐる台詞回しが”攻撃”なのよ!~「ガールズRPG シンデレライフ」~



レベルファイブのガールズRPG シンデレライフ」は「ネオジャンヌ」として接客しながら、ストーリーやスペシャルエピソードを進めていくという”ガールゲーム”であります。ただ、対象年来は15歳以上になっており、いわゆる「女児向けのゲーム」ではありません。というもの、そもそもモバイル向けの「キャバ嬢っぴ」をニンテンドー3DSにアレンジしたという・・・実は「キャバ嬢なりきりゲーム」なのですから!

田舎から親戚を頼って「ネオ銀座」に上京してきた主人公は、おばさんの花屋を手伝うことになるのですが・・・すぐに「ネオジェンヌ」=「キャバ嬢」に憧れるようになり、上京直後からキャバ嬢として働き始めます。「キャバ嬢」が憧れの職業で、親戚のおばさんを含めて、街中の誰も(子供も!)が「ネオジェンヌ」に憧れと羨望のまなざしをもっているという、何ともリベラルな世界観に貫かれているのは、女の子のなりたい職業のベスト10にも「キャバ嬢」が挙げられるような今の世の中を反映しているのかもしれません。ただ「ネオジェンヌ」はピュアの心の持ち主で、お客さんを笑顔にして癒してあげる素晴らしいお仕事である・・・という中途半端なポジティブ志向なのには、失笑するしかありませんでした。

ストーリー部分は、ほぼ一本道・・・指示通りに動いていれば、ストーリーは進んでいきます。行くべき場所は”青い旗”で表されるので、その方向へ進んでいば良いのです。その過程で、美容院、ブティック、レストラン、エステサロン、フィットネスクラブ、本屋などに出入りが出来るようになり、動けるエリアも広がっていきます。ただ、行動できるフィールドは箱庭的で、それほど広くもありません。さらに、ストーリーを進めるとタクシーでの移動も可能になるので、移動は楽です。一日の中で昼と夜の概念があり、夜しか出入りできないレストランがありますが、出勤すると、すぐに夜になってしまうので、「同伴出勤」は無理・・・また、帰宅すると同時に自分の部屋に到着するの「アフター」もありません!

幼馴染みのキャバ嬢にのアドバイスを受けて、ドレスを買い、美容院でヘアセットして、いざ「接客」ということになります。「接客」は、5つのトークパートに分かれていて、接客ポイントを稼ぐことが目的と鳴っています。基本となるのは、お客の”振り”に対しての返答する台詞の選択が3つ現れるというもの・・・よりお客の好ましい接客台詞を選択することで、接客ポイントを得ることができます。時には、どんな話題をお客に「振る」かにより、会話が弾んだり弾まなかったりで、稼げる接客ポイントも変わってきます。また、お客の意図する言葉を、タッチスクリーンで並べるというクイズっぽい形式になることもあります。

お客は毎回同じ飲み物を注文するので、二度目以降の接客で好きな飲み物を覚えておくと、確実に接客ポイントが稼げます。トークパート中に、フードオーダーポイントを超えると、お客がフードを注文してくれるのですが・・・フードスロットで注文する品を決定することになります。お客が特に好きな品はありますが、接客ポイント的にはそれほど大差はありません。トークパート4までに接客ポイントが100を超えると、お客に高価なお酒をボトルでオーダさせる「フィーバー」にすることができます。これもスロットで注文するボトルが決まるのですが、3つのスロットのうち2つの絵柄を合わせないとオーダーは入りません。1本でも2本でも注文が入れば、たくさんの接客ポイントが一気に稼げます。

基本的に、トークパート5までに接客ポイントが100を超えれば、一応接客は成功ということになりますが・・・100以下であっても、常連客は必ずお店に戻ってきますので、接客に失敗したからといって、お客が来なくなるわけではありません。接客後には経験値が入り、それによってレベルが上がっていきます。レベルが上がることで「称号」が変わり、接客ポイントも多く稼げるようになるようです。接客ポイントが「ボーナス」を含んだ「売り上げ」に、影響しているわけでもないようで・・・比較的年齢の高い客の方が、ボーナスが大判振る舞いの傾向があるような印象があります。

トークパートのクライマックスに「正しい選択」をぶつけることによって、接客相手の「心の鍵」を開けるというシステムが出現することもあります。この場合、鍵に達するまでに接客ポイントを溜めておくとキーが二つに増えます。三択形式の「心の鍵」に二度チャレンジできることになるのですから、難易度はかなり低いといって良いでしょう。この「心の鍵」は、ストーリーを進める時だけでなく、スペシャルエピソードのクリアや常連客との接客の際にも発生します。

接客ポイントは・・・お客のファッションの嗜好や、主人公の「魅力度(レベルにより最大値が上昇)」「しあわせオーラ(上限は100)」によっても変化するようです。「魅力度」と「しあわせオーラ」は接客すると自動的に下がりますが、帰宅して寝たり、フィットネスクラブで運動したり、エステを受けたり、食事をしたりすると、簡単に回復するので、出勤前には、これらの施設に立ち寄れば良いだけです。ちなみに、ネオ銀座内に存在する10店のお店で食事をするとカードが貰えるのですが、それを10枚集めると、フィットネスの無料チケットが手に入ります。

主人公は、髪(ヘアスタイル、ヘアカラー)、衣装(ドレス)、アクセサリー(イヤリング、ヘッドアクセ、リング、ブレスレット、ネックレス、メガネ、ポーチ)、お化粧(アイメイク、シャドウ、リップ、コンタクト、香水)などによって、「シンプル」「ゴージャス」「キュート」「セクシー」のパラメーターをコントロールすることが可能です。「衣装」「アクセサリー」「ヘアスタイル」「化粧」は、一般的なRPGに於いての「装備」と「武器」といっても良いでしょう。お客の好みに合っていると、接客開始直後に(少ないですが)接客ポイントがもらえます。ただ、これらのパラメーターやお客の好みが、明確には提示されてわけではありません。お客との会話の中から、または自分から質問を振って、お客の好みをざっくりと把握することができるくらいです。

「接客」は「戦闘」であり、「接客ポイント」は、敵への「ダメージ」であり、トークパート中の「台詞」「振り」「文字カードゲーム」は「攻撃」であるということです。戦闘終了後には「経験値」というポイントでレベルが上がっていくのですが・・・「売り上げ」の30%が給料として、帰宅時に店長から支払われますので、そのお金で「装備」や「武器」を充実させていくことが出来るというわけです。インテリアショプで、壁紙、床、カーテン、壁飾り、ベット、ドレッサー、ラグ、家具などを購入することが出来るので、自分の部屋をカスタマイズして「模様替え」も、たっぷりと楽しめます。

ハッキリ言って・・・RPG部分のストーリーのボリュームは、少なめではあります。接客で貯まる経験値や、スペシャルエピソードの進行度合いも、ストーリーを進行する上ではそれほど関係ないので、ストーリー部分”だけ”を集中して進めれば、あっという間にエンディングを迎えてしまいます。それに接客中でなければ、どこでも「セーブ」できるので、非常に遊びやすいの仕様です。ストーリー自体も、それほど深い内容があるわけでもなく・・・いい意味で”子供騙し”レベル。謎解きのような要素がないわけではありませんが、難易度は限りなく低めであります。ただ・・・「恋愛シュミレーションあり」のガールズっぽさや、「アクションあり」の、RPGらしさを期待すると肩すかしを食らいます。また、育成シュミレーション的な成長を楽しむ要素もあまりなく、キャバクラ自体の運営や経営に関わることは一切ありません。「ガールズRPG シンデレライフ」の神髄は「ストーリーにはあらず」なのであります!



まず「接客」という名の「戦闘」が面白いです!数々のあるパラメーターが、どのように接客ポイントに影響を与えているのかが、いまひとつ分かりにくいところはあるのですが・・・深みがあるような、ないような、ゆるい仕組みっぽいところが、良い意味でこのゲーム本来の要素を楽しませてくれます。主人公の働くことの出来るお店は「キャッスル」と「エクスカリバー」の2店舗があるのですが、それぞれに常連客が10人づつおります。基本的には、男心をくすぐるような「おべっか」や「お世辞」で持ち上げれば、接客ポイントが稼げるのですが、中にはへそ曲がりなお客もいて、厳しい返答をした方が接客ポイントを稼げることもあったりします。この接客のシステムこそが、このゲームそのものなのです。また、接客システムの追加要素として、スペシャルエピソードのコラボキャラとして登場するお客さんは、それぞれキャラらしい反応をしてくれる上に、キャラクターの声は実際のアニメでキャラを演じている声優さんというのですから、中途半端なコラボではありません!

そして、ガールズゲームとして重要な要素である「着せ替え」については、圧巻の楽しさがあります!トップス、ボトムス、靴などは、セットになっているので、コーディネートを楽しむ「ファッションゲーム系」とは違いますが・・・ゴテゴテのゴージャス系からシンプルでシックな大人っぽいドレス、ゴスロリやコスプレ、和服まで揃っていて、見た目のディテールも結構細かかったりします。これらのドレスやアクセサリーを買いまくるために、さらに接客に励んで「お金を儲けたい!」という率直なモチベーションが高まってきて、ストーリーをクリアしてもゲームを辞める気にはなれません。フィールド内にあるお店で買えるドレスも相当な数がありますが、すれちがい通信によって「素材」を手に入れることで、限定ドレスも入手できるのですから、着せ替えパートを完全コンプするのは、正直かなり大変そう・・・というのも、いまだに「シンデレライフ」の「すれちがい通信」を、ボク自身は経験していないから。このソフト・・・思いの外、売れていないのでしょうか???

キャラクターデザインは可愛いし、アニメーションパートも携帯ゲームとしては素晴らしい・・・キャバクラのボーイの「オーダーはいりました~」というゆる~い声や、接客中に入る”合いの手”(?)など、確信犯的に「バカゲー」を狙っているような(?)ところも見え隠れしますが・・・「接客」「着替え」の二大要素にシステムを特化させたことで、ゲームとしての方向性は明確でブレはありません。「ガールズRPG シンデレライフ」は”ガールズゲーム”として侮ってはいけない・・・誰も死なない、殺さない、大人のRPGゲームとして、ニンテンドー3DSゲームの中でも最もお奨めできる「傑作」であります!

「シンデレライフ」のオリジナルアニメも確信犯的なセンスが○です。







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2012/03/31

そろそろ、ファイスブック疲れ?・・・「いいね!」って誰のため?・・・そもそも、そこまで繋がりたいの?



ボクがフェイスブックを始めたのは3年ほど前・・・”ある人”に勧められたのがきっかけでした。実名登録ということもあって、当初はアメリカ在住時代の友人や知り合いとの「再会ツール」として重宝していました。ただ・・・お互いのその後を報告し合った後は、それほど語り合うことって、それほどなかったりします。それぞれの人生を歩んできたわけですから、接点も希薄になってしまうのは当たり前のこと・・・それでも、メールで伝えるほどのことでない近況を、ざっくりと知ることが出来るのは便利ではあります。

アメリカ人の友人の殆どは、ダイレクトメッセージでの短いやり取りか、誕生日の書き込みぐらいにしか、フェイスブックを利用していません。俗にいう「フェイスブック疲れ」「フェイスブック離れ」が、徐々に広まっているといって良いでしょう。今でも「ポスト」「いいね!」「シェア」を盛んにしているのは、政治的なメッセージと訴えているフレンドぐらいです。

一方、日本では映画「ソーシャルネットワーク」以降・・・友人や知り合いが、次々とフェイスブックに登録し始めてました。「フェイスブックって、楽しい!」という人の多くは、フレンドという限られたコミュニティーの中で「すぐ反応がある!」(「いいね!」や「コメント」)ということを挙げます。確かに・・・ブログのコメント欄に書き込んだり、ツイッターでコメント付きRTで返信するよりも「いいね!」の方が、敷居が低いかもしれません。何よりも、自分の投稿に対して誰か共感してくれることは、単純に嬉しいものです。ただ「いいね!」の”お返し”をした方が良いのかなぁ・・・という妙な義理も感じることもあったりします。

フレンドといってもビジネスにで関わっている人など、多少なりともリアルの世界での”ちから関係”があったりすると、「いいね!」をクリックするのが礼儀のようになんてしまうものです。お互いに等しくフェイスブックから恩恵を受けているという心理があってこそ「ソーシャル・ネットワーキング」の「ギブ・アンド・テイク」は成り立つと思うのですが・・・それを、わざわざ他者から見えるところでするのって「仲良しごっこ」のような感じがしてしまいます。また、ウォール上で、自分のビジネスの”告知”(宣伝)ばかり”という人もいて・・・「フレンド」=「クライアント(顧客)」ではないんだから、やり過ぎるとウザかったりします。。

今では、すっかり「フェイスブック疲れ」してしまったアメリカの友人が言うのは・・・当初は、親しい友人だけだったのが、フェイスブックが広まったことで、仕事の関係の人から、恋人(いずれ元恋人?)や、家族/親戚まで、フレンド登録が広がってしてしまったことで、オープンにする交友関係まで公開することになって”煩わしさ”を感じてしまうということ。確かに、ボクも、普段会う(会える)友人と、”あえて”フェイスブックって必要なのでしょうか?ただ、リアルに知っている人からフレンドリクエストが送られてきて、それを「無視」「拒否」することというのは、なかなか難しいものです。

知る必要のない友人の行動をフェイスブックで知って、不愉快になるってことも多々あったりします。アメリカの女友達には、気になる男友達がいたらしいのですが、いつしか彼女の友人でもある女性がその男性と付き合い始めたそうなのです。勿論、3人ともフェイスブックではフレンズ同士・・・そのうち、二人がデートに出掛けたときの画像などをアップし始めたのだから、彼女は相当凹んでしまったそうです。彼らのウォールを非表示に、「即」設定したことは言うまでもありません。別に恋愛関係だけでなく、友達同士だって、家族同士だって、知らなくて良いこともあるわけだし、仕事関係の人ならなおさらのこと・・・繋がることが必要なとき”だけ”繋がれば良いのかもしれません

元々、フェイスブックをボクに紹介した”ある人”には、不愉快な思いをさせられました。出会いはラブラブで盛り上がっていたのですが、すぐに冷めて(笑)フツーの友達になったのですが、実はその彼・・・当初はボクも知らなかったのですが、ネットで”男漁り”を盛んにしている人で、次から次に彼と一度はエッチをしたことあるという人が現れる次第・・・おそらく、彼はフェイスブックのフレンドリストや、ウォールのアクティビティを、ボクには見せたくなかったのでしょう。ある時、彼が、忽然としてフレンドリストから、消えていることに気付きました。フェイスブック上で検索しても存在しないことになっているので、ボクのことを「ブロック」したようです。リアルでも疎遠になりつつあった間柄ではありましたが・・・あえて「ブロック」という形で「絶縁」を一方的に下されるのは、リアルで口喧嘩などして絶交されるよりも”不愉快”に感じさせられました。

フェイスブックは、基本的にリアルな人間関係の延長上にあるわけで・・・そこにある”マイナス”は、フェイスブックの問題ではないのかもしれません。不愉快なことを目の前に突きつけられられたり、前触れや説明もなく一方的に縁を切られたり・・・「フェイスブック疲れ」とは、すなわち「人間関係疲れ」なような気もします。

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2012/03/28

ニコラス・ウィンディング・レフン監督による”暴力”と”信仰”の前衛フィルム・・・北欧神話的世界観のSFファンタジーの中でのメタファーとしての”キリスト”~「ヴァルハラ・ライジング/Valhalla Rising」~



「ドライヴ」効果なのか、ニコラス・ウィンディング・レフン監督の過去の作品が日本で公開される気配です。

「ヴァルハラ・ライジング」は、北欧神話的なヴァイキング風の戦士を描いているのですが・・・血湧き肉躍る史劇を期待すると裏切られてしまうような映画です。どうちらかというと、北欧尾神話的世界観のSFファンタジーのような感じと言っても良いかもしれません。寓話的な物語からピエル・パオロ・パゾリーニ監督を、壮大なスケールからヴェルナー・ヘルツォーク監督を、幻想的で映像表現からラース・フォン・トリアー監督を連想されられる一作でもあります。

血や肉は飛び散りまくりで、相変わらずニコラス・ウィンディング・レフン監督らしい残酷な暴力描写には手加減はありません。スプラッター映画以上のグロテスクな描写と、ブルーグレーを基調としたスケール感のある美しい風景との対比・・・より殺伐とした雰囲気を感じさせます。時折、フラッシュバックのように映される主人公の幻覚(?)は、赤をベースにした凝った映像美です。また、音楽は限定的にしか使われず・・・風の吹き荒れる音、骨が砕ける音、肉片が切り裂かれる音、血が噴き出す音などの効果音だけが響きます。物語を追うにしても・・・登場人物それぞれの立場や背景というのは、少ない会話や服装から推測するしかないという「前衛フィルム」のようでもあるのです。

舞台は11世紀あたり・・・主人公は口のきけない戦士で、ケルト風部族のグループの奴隷という身です。彼からは”One-Eye/ワンアイ"(マッツ・ミルケセン)と呼ばれています。鎖に繋がれたまま、他の捕虜らと殺し合いをさせられるのですが、圧倒的に強い”ワンアイ”は、鎖で相手を首を絞めたり、頭をぶち割って脳みそを飛び散らせるほど、残忍でもあります。普段は檻に閉じ込められていて、世話をするのは別な部族の奴隷の少年(マールテン・スティーヴンソン)です。

ある日の移動中、”ワンアイ”は、グループ全員を皆殺しにして脱走をします。岩に縛りつけた敵の腹を槍の先で切り裂き、内蔵を引きずり出したり・・・敵のリーダーの男の生首を晒して復讐をするのです。彼の世話係だった奴隷の少年は、黙って彼について行動を共にすることになります。しばらくして二人が遭遇したのは、キリスト教を信仰するヴァイキングのグループ・・・彼らは”先住民”らしいインディアン風のグループ(キリスト教徒からすると異教徒)の男たちを皆殺しにして焼却し、女たちは裸にして放置したりしているという”ひとでなし”。彼らは、聖地(エルサレム)へ行って金と土地を手に入れることを計画していて、”ワンアイ”に同行するように誘うのです。

ヴァイキングのグループと”ワンアイ”と少年は、船に乗って旅立つのですが、濃い霧に巻き込まれて、動けなくなってしまいます。「こいつの呪いだ」と、奴隷の少年を殺そうとするヴァイキングの戦士を、”ワンアイ”は、少年を庇って殺してしまいます。しばらくして、船は再び浮かび、森の中の川を進んでいきます。霧が晴れると、インディアン風の部族が埋葬した死体が置かれている土地へと辿り着いてしまいます。彼らはここを、神の征服した土地(約束の土地?)として十字架を立てるのですが・・・一人の戦士が忽然と姿を消してしまいます。

ここからエンディングのネタバレを含みます。

再び船で上流を目指すと、いきなり弓矢で攻撃され、また一人殺されてしまいます。見知らぬ場所で、次第に狂っていくヴァイキングのグループ・・・もしかして”ワンアイ”によって地獄に連れてこられてしまったのではないかと、仲間割れが起り皆殺しとなってしまうのであります。”ワンアイ”と少年は、対岸へ逃れるのですが・・・そこにはインディアン風のグループの戦士たちが待ち構えており、”ワンアイ”は、まるでそうなることを予期していたように(?)されるがままに殴り殺されるのです。少年は殺されはしませんが、その後、どうなるかは分からないまま映画は終わります。

”ワンアイ”は・・・先住民たちへ自らの身を捧げて贖罪を背負うという、ある意味”キリスト”のような存在なのでしょうか?宗教の名に於いて、世俗にまみれたキリスト教徒を名の乗るヴァイキングたちは皆滅び、”ワンアイ”を献身的に信じる奴隷の少年だけが最終的に生き残る・・・どこかしら”信仰”の意味を問いているような気がしました。

「ヴァルハラ・ライジング」
原題/Valhalla Rising
2009年/デンマーク、イギリス
監督 : ニコラス・ウィンディング・レフン
出演 : マッツ・ミケルセン、マールテン・スティーヴンソン
2012年4月7日よりヒューマントラストシネマ渋谷にて公開

ニコラス・ウィンディング・レフン監督次回作の「Only God Forgives」は再びライアン・ゴズリング主演でタイを舞台にした復讐劇だそうです。待ちきれません!





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2012/03/20

アラフォー”負け美女”は最後まで改心しないの!・・・いつまでも”女子”気分のオバさんには他人事じゃない「痛~い映画」~「ヤング≒アダルト/Young Adult」~



歳を取っても少年や少女の心を忘れない・・・というのを「若さの証明」かの如く”美化”しがちだけど、もしかすると最近の問題は、いくつになっても自称「女子」のオバさんや、精神的に「お子様」なオジさんが増えてきていることかもしれません。「年相応」というのは、保守的なステレオタイプに縛られて個人の自由な生き方を尊重してないように考えがちだけど・・・今の世の中だと、逆に「年相応」に生きる方が(特に経済的、社会的に)難しかったりします。また、子を持つ親になっても自分のために生きることを優先するのが当然(?)のようになっているので、年相応という考え方自体が意味をなくしているのかもしれません。

「ヤング≒アダルト」は、高校時代にモテモテだった栄光の過去の忘れられない女性のお話・・・アメリカでは”ヤングアダルト”と分類されるティーン向け小説のゴーストライターで生計を立ている離婚歴のある37歳(俗にいうアラフォー女子?)のメイビス(シャーリーズ・セロン)は、ミネアポリス(なんとも中途半端なミネソタ州の都市)で一人暮らしをしいています。プロムクィーンとして君臨した過去をもつ美人・・・でも、彼女の日常生活は笑えるほど荒んでいます。愛犬ドルチェ(ポメラニアン!)は自分勝手に都合の良いときだけ可愛がっているし、アルコールに溺れて男を連れ込んだり、リアリティTV番組をつけっぱなしのまま、毎晩ベットに倒れ込んでいるような日々。朝目覚めれば、ヌーブラ装着しっぱなし、コーラ2リットルがぶ飲み・・・と、あっぱれな”だらしない女”のであります。

そんなメイビスの元に、ミネソタ州マーキュリーという魚臭い田舎町という故郷で結婚した元カレ・バディ(パトリック・ウィルソン)から届いた「出産報告」メール・・・「一体何をしたいの!」と怒り狂うものの、元カレは故郷の田舎町で囚われの身で不幸に違いないと思い込んで、既婚者の元カレを奪うという作戦に出てしまいます。勝手に相手の状況を決めつけてしまうところが、さすがの女王キャラの勘違いっぷりではありますが・・・正直、理解しがたいメイビスの行動の悲しい理由は、後に明らかとなります。

メイビスは、高校時代にゲイの疑いをかけられて、歩行が不自由になってしまうほど暴行を受けた小太りのオタクのマット(パットン・オズワルド)と、偶然にローカルバーで再会します。高校時代にはまったく接点のなかった二人ですが、過去の記憶に囚われているという意味では「光」と「影」の二人だからこそ、意気投合・・・メイビスはマットだけには心を開いて、バディ略奪作戦を話をしたりします。また、メイビスに散々振り回されながらも、彼女のことを思って冷静に忠告してくれるのは、マットひとりだけ・・・彼の言葉は、まさに観客の声であり、メイビスの正気の声でもあるのかもしれません。

バディの奥さん・ベス(エリザベス・リーサー)は、地元の女友達とバンドを組んだりしているクールな女性・・・その普通に素敵な感じが、逆に目障りという絶妙なキャスティングと演技であります。バディの優柔不断な態度により、メイビスの妄想は暴走気味になっていきます。父親になった喜びを語るバディの言葉を「実はバディはベスとの結婚に不満を持っているに違いない!」とか、別れ際の軽いキスを「彼が遂に決心した!」と勝手に解釈して・・・メイビスの振る舞いはドンドンおかしなことになっていきます。そして、バディから子供の命名式に招待されたことを、遂にバディは一緒に町を出ることを決心したとメイビスは思い込んでしまうのです。意気揚々と出掛けるメイビスには、かなり痛い修羅場が待ち構えていることは言うまでもありません。。

メイビスの行動は、視点を変えれば”サイコホラー”のようです。ただ、高校時代に限らず、自分が輝いていた過去を引きずってしまうことというのは、時にありがちなこと・・・意識的にしろ、無意識にしろ、ノリノリだった時代に聞いていた音楽でテンションを上げたり、イケていた時に着ていたファションからいつまで経っても卒業できなかったりするものです。実家でバディが高校時代に着ていたトレーナーを見つけて、羽織ってフラフラと町に出掛ける姿は痛々しくもあり、可愛くも見えたりします。いつまでも”女子”気分のオバさんには、他人事として笑うに笑えないはずです。

ここからネタバレを含みます。

命名式に現れたエイビスはバディをベットルームに連れ込み、満を持して告白をするのですが・・・勿論、あっさりと振られてしまいます。実はメイビスを招待したのは、エイビスの精神状態を心配していたベスであったことも判明します。とうとうメイビスは、命名式に集まったゲストの前でぶちキレます。実はエイビスとバディが付き合っていた20歳の時、バディの子供を妊娠していたのですが、流産してしまっていたのでした。メイビスにとっては、バディの子供の命名式には、本来、自分がいるはずだったという思いが強くあったということなのです。この事実によって、過去から卒業できないアラフォー女子の物語は、メイビスという女性独自の物語になってしまいました。

ボロボロになったメイビスが訪ねたのはマット・・・なんと、ふたりは肉体的に結ばれてしまうのであります!マットにとってメイビスは永遠の高嶺の花・・・ある意味、本作はマットとメイビスの不釣り合いな二人のラブストーリーになっていたのでした!ただ、現実はそれほど甘いものではありません。翌朝、メイビスが目覚めると我に帰って、マットとはそれっきりなのですから。

「私にはいろいろと問題がある。他の人にとってシンプルなのに、私にとって幸せになるハードルが高い。私は変わらないといけない」と、大事なことに気付きはじめたメイビスの言葉に、水を差すのはマットの妹・サンドラ(コレット・ウルフ)です。

メイビスに憧れ続けてきたサンドラにとって、メイビスは今でも輝いている存在・・・「田舎町の人なんて、デブでバカばかり、みんなあなたに憧れている」と、メイビスの自尊心をくすぐります。売れない小説のゴーストライターでしかないメイビスも、サンドラからすれば、まだまだ”特別なひと”・・・なんたって、これほどの美人の上に、都会で本を書いているのですから!田舎者なんて、そもそも存在している意味もないから、ちょっとしたことで幸せを感じているだけだと彼女は語ります。それに対して、メイビスは「あ、そっか〜。私って、このまんまで全然良いんじゃん!」と、ケロッと立ち直ってしまうのであります!!!

田舎から都会に出てきた人の中には、都会での生活こそが「幸福」と「成功」で、田舎で生活するなんて「不幸」で「負け組」だと考えている人って少なからずいるものです。また、都会に憧れながら田舎に住んでいる人にとって、田舎で幸せに暮らしているのは「田舎者」とバカにしがちです。ただ、都会の人からすると、どちらも「田舎者」には変わりありません。それに、都会に憧れている田舎者よりも、素朴な田舎の人の方が好感が、都会人には持てたりします。ただ、最近、日本では”地元大好き”という「田舎者」が増えてきたみたいで・・・都会への憧れというのは、昔ほどではなくなってきているのかもしれませんが・・・。

東京出身のボクですが・・・1980年代初頭に東京からニューヨークへ移り住むというのは、地方から東京に出てくるという感覚に近かったような気がします。まだまだ、アメリカ崇拝が残っていた時代ということもあって、現実は厳しい生活をしているのも関わらず、ニューヨークに住んでいる”だけ”で、日本からはスゴいことのように思われがちだった気がします。

さて・・・今までの自分の人生を反省して、発想を転換させるチャンスを逃したメイビスは「田舎なんてクソ食らえ!」と、再びミネアポリスへと戻っていきます。一緒にミネアポリスに連れて帰って欲しいと頼むサンドラのことなんて、メイビス眼中にありません。サンドラには、あっさりと「あなたはここに残るべき」と冷たく突き放します。「田舎の生活」=「シンプルな幸せ」というが、誰にでも当てはまるわけではありませんが、「都会の生活」=「人生の成功者」というわけでもありません。それでも、メイビスは都会の価値観へと戻っていきます・・・というか、彼女には戻るしか選択はないのです。

ある意味、メイビスは人生の新しいチャプターへは進んだのかもしれないけど・・・結局、それほど改心もせず、成長もせず映画は終わります。普通、映画の主人公って、最後には何かしら成長するものなのですが・・・人間って、そう簡単に何かを学んだりしないものなのだということを描いた本作は、まさにジェイソン・ライトマン監督の真骨頂と言えるのであります!



「ヤング≒アダルト」
原題/Young Adult
2011年/アメリカ
監督 : ジェイソン・ライトマン
脚本 : ディアブロ・コディ
出演 : シャーリーズ・セロン、パットン・オズワルド、パトリック・ウィルソン、エリザベス・リーサー、コレット・ウルフ



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2012/03/17

ポジティブ信仰が正しい世の中だからこそネガティブ思考から幸福になれるの!~「絶望名人カフカの人生論」フランツ・カフカ著/頭木弘樹編集・翻訳~



ボクが20代の頃(1980年代)には「ネクラ」とか「ビョーキ」とか、ネガティブな嗜好が一部では流行って(?)おりました。今、思い返せば、世界的にもバブル経済の好景気だった、あの頃・・・ネガティブになるという「遊び」を若者が余裕でできるほど「豊かな時代」であったということなのかもしれません。バブルの弾けてから慢性の不況の時代になってしまうと、思考だけでもポジティブになろうとするものなのでしょうか?

「追い続ければ夢は叶う」「思いはいつか伝わる」というようなポジティブ信仰は、さまざまなメディアから垂れ流しにされております。ここのところ増えているのが、いわゆる夢を叶えたアーティストとが熱い思いで語るというヤツ・・・「夢を持つ事」「思いを伝えようとする事」を否定するつもりはないけど、ファンに向かって語ってしまうというマスターベーション的パフォーマンス。これって、自分はただ運が良かったわけでなく、それなりの努力して夢を叶えたんだって訴えているようにも受け取れてしまいます。ポジティブ信仰の言葉は間違っているわけではないけど・・・良くも悪くも誰にでも当てはまる繰り返し語られてきた凡庸な言葉だから深みはなく、一時しのぎの自己暗示としてはパワーを得る有効な手段なのかもしれません。

「勝ち組、負け組」という格差社会が日本でもリアルになってくると、うまいことやって”ひと山”当てたいなんて”生臭い”夢になりがち。「夢を叶える」ための努力と言えば・・・第一人者的には全面的に正しい行為ではありますが、目的のためには他人を利用したり、踏み台にすることにも、鈍感になってしまうことだってあります。第三者的には自己チューになってしまった自分のことを、ポジティブ信仰によって無意識に肯定してしまうこともありがちのような気がします。

「絶望名人カフカの人生論」は、日本人のカフカの研究家の黒木弘樹氏が、カフカの残した手紙や手記からネガティブな人生観を表す文章を引用した本であります。

ボクは学生時代に「変身」を読んだくらいで、作家のカフカがどういう人で、どういう人生を歩んだのか、知りませんでした。彼は生前に作家として認められることがなかっただけでなく、プライベートライフも自分が望んだように生きられませんでした。仕事が嫌でも生きるためにサラリーマンを辞められず、何度か婚約するにも関わらず生涯独身で、家族と仲が悪くて理解されていませんでしたし、行き詰まって長編小説を書き上げることもなく、カラダが弱くて病気がちで40歳という若さで亡くなっているのです。まったくもって人生に前向きでなく、弱音を吐き続けたカフカの究極のネガティブな言葉は、絶望した者が実感した、具体的で、新鮮な発想に触れることができるのです。

将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
将来にむかってつまずくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。

カフカが婚約者であった女性に送った手紙からの引用だそうです。前に進むことが、つまずくことにしか思えない時というのは、人生の中で起こることがあります。そんな時には、前にも後ろにも動けななくて、倒れてしまいそうになるものです。それならば倒れたままでいることを、素直に受け入れてしまうというのは・・・本来の意味での「ポジティブ・シンキング」であるのかもしれません。

幸福になるための、完璧な方法がひとつだけある。
それは、
自己のなかにある確固たるものを信じ、
しかもそれを磨くための努力をしないことである。

これは・・・恐ろしく深く重い言葉です。自分に才能があると信じて努力をしなければ、成功しなくても「努力しなかったから」という言い訳をして傷つかなく済むし、万が一成功した場合には「努力もしないかったのにスゴイ才能だ」と自負できるという・・・いずれでも自尊心は守られるというパラドックス。無意識にやってしまいがちの、自分に都合の良い「逃げ」の心理を、ここまで厳しく指摘できるのは、カフカ自身が「努力しない自分」とも正直に向き合ったからこそでしょう。

カフカ自身だけでなく、周りの人たちにとっても、この上なく面倒くさいほどネガティブであったカフカですが、彼には彼の才能を高く評価した親友がおりました。生前に出版された短編集も、死後になってカフカの作品のすべてが出版されたのは、親友のマックス・ブロートという作家の力添えのおかげだったのです。皮肉なことに、マックス・ブロートは当時、人気作家として大変成功していたそうですが・・・現在では彼は作家としてよりも、カフカを世に出した人として歴史に名を残したに過ぎません。

君は君の不幸の中で幸福なのだ。

マックス・ブロートがカフカに送った手紙の中で書いたという言葉です。絶望から逃れないで、ネガティブな自分を100%受け入れられることは、実は幸福なことかもしれません。そこにはポジティブ信仰ばかりしていては、見逃してしまう真理があるのですから・・・その真理がいかに辛辣であっても、自分なりに真理を知ることができるというのは、やはり幸福である瞬間であるはずなのです!



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2012/03/12

アース・ウィンド&ファイアーのコロンビア全15アルバム復刻盤をドドーンと大人買いっ!・・・踊らずにはいられなくなるのと同時に何故か涙が止まらない~EARTH, WIND & FIRE COLUMBIA YEARS~



ボクが若かりし頃(1970年代後半)アイドルにそれほど夢中になったわけでもなく、といって海外アーティストを聞き込んでいたわけでもなく・・・音楽に関しての興味は「普通の高校生」でありました。都内の私立高校ということもあってか、同級生の一部にはディスコ通いをするような、おしゃれな”不良”(もう死語か?)もいたけれど・・・中学まで横浜市内公立中学に通っていたボクにとっては、ディスコは、とんでもなく怖い世界のように感じてしました。

しかし、高校生活も1年ほどして、六本木に住んでいた一番仲の良かった友人宅に泊まりがけで遊びに行くようになると・・・夜な夜な六本木界隈をうろつくことも経験しました。青山通り沿いにあった「吉野家」で500円(高!)の牛丼食ったり、「カーシャ・マミ」というロシア料理店の常連になって生意気にもボトルキープしたり・・・そんなタワイもないことをしているだけでも16歳の少年にとっては、十分、大人の仲間入りをした気分でした。

そのうち、六本木にも免疫ができて、瀬里奈の前にあった10階建てのディスコビル(スクエアビル)にも足を踏み入れるようになったのです。今では、どの店に行ったことのがあるのかさえ覚えていませんが、当時のボクはまだ16歳の未成年・・・それでも、平然とディスコに入場して、飲酒、喫煙できてしまったのは、ボクの見た目が老けていて、20代半ばぐらいだったからです。

入場料は、男性は3000円、女性は2000円ぐらいだったという覚えがあります。3000円というのは当時のボクにとっては大金だったので、できるだけ元を取ろうという気持ちがありました。その頃のディスコは、バイキング形式で食事ができるシステムだったので、海外から連れてこられた貧しいモデル達と奪い合うように(!?)飲んだり食ったりしていたのであります。そして・・・ナンパなんかには一切興味のないボクは、食べたり飲んだりする以外は、ひたすら踊りまくっていました。

当時、よく踊っていたのがアース・ウィンド&ファイアーの曲でした。海外の音楽には疎かったボクは、アース・ウィンド&ファイアーがどんなグループかは分かっていなかったけど、知識はなくても、アース・ウィンド&ファイアーの曲がかかると、自然に体が動いて踊っていたものでした。中でもボクのお気に入りは「セプテンバー」・・・イントロを聞くと無意識にダンスフロアに移動してしまったものです。当時はプロモーションビデオというのは滅多に製作されていなかったのですが・・・アース・ウィンド&ファイアーのレザービームと使用したサイケデリックなビデオクリップや、古代文明とスペースファンタジーを融合したようなビジュアル/ファッションも、とっても衝撃的でした。

1980年代にニューヨークに移ってからは、何度かマジソンスクウェアガーデンでのコンサートにも足を運びました。スモークやレザーを使用したステージは幻想的・・・ボクだけでなく、白人、黒人、人種に関係なく、曲に合わせて踊る様子は。この世の光景とは思えない、ある種の宗教儀式のようでした。ディスコ・ミュージックの衰退と共に、世間的にはアース・ウィンド&ファイアーは過去のグループという扱いになっていきましたが・・・ボクが人生で一番盛んに夜遊びをしていた1980年代後半には、ニューヨークの一部のナイトクラブ(特にゲイクラブ)で、すでにディスコのリバイバルがあったので、ボクにとっては「ダンス・ミュージック」=「アース・ウィンド&ファイアー」というのは、ずっと変わることはない印象なのです。

先日(2012年3月7日)にアース・ウィンド&ファイアーのデビュー40周年を記念して再発売されたのは、コロンビア時代の全15アルバムをリマスタリングのBlu-Spec CDで、紙ジャケットを再現した完全生産限定盤。メーカーの思惑に完全に乗せられているのは分かっていても、結局のところ、大人買いしてしまう”おじさん”なので・・・勿論15枚全部お買い上げ~。レコードジャケットの質感(特に折り目の部分)から、ライナーシート、レコードスリーブ(肩癖な再現過ぎて文字の解読は不可能!?)、帯までを完璧に再現しているのは、さすが日本企画による日本生産!・・・「大人買いに悔いなし」の素晴らしい仕様です。

コロンビア所属時代のオリジナルアルバムのすべてを聴くのは初めてのこと・・・正直、初めて聴く曲もあったのですが、ボクの前世は「メンバーの一人ではなかったのか?」と思えてしまうほど、サウンドに”郷愁”を感じました。1970年代後半の絶世期を含む1972年から1990年までのアルバムを一気に聴いてみると、リアルタイムの時代性を超えて「アース・ウィンド&ファイアー」という音楽のジャンルのように感じてしまいます。特に「太陽神」(1977年)から「天空の女神」(1981年)は圧巻!リードボーカルを勤めるモーリス.ホワイトとフィリップ・ベイリーの歌声には、どこかしら「憂い」も含んでいて・・・踊らずにはいなられなくなると同時に、何故かボクは涙がポロポロと出てきて止まらなくなってしまうのであります。

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2012/03/07

東映エログロ路線末期のハチャメチャな悪趣味っぷり!・・・牧野雄二監督の幻のオカルトポルノが遂にDVD化~「女獄門帖 引き裂かれた尼僧」~



ブルーレイディスクが普及してきたと思ったら、何故かいろんなメーカーからはDVD化されていなかった作品が続々とDVDで発売されております。どうせならばブレーレイで発売すればいいのに・・・とは思いますが、DVDなら安価で生産できるためか、メーカーは最後にひと儲けというつもりなのかもしれません。

ラピュタ阿佐ヶ谷などで特集上映はされてきたものの、なかなか観れる機会のなかった牧口雄二監督のカルト作品が、遂に先日(2012年2月21日)DVD化されました。

牧口雄二監督は、石井輝男監督の異常性愛路線の流れを汲む「エロ」「グロ」「ポルノ」の”添え物映画”を任されていた職人監督。ただ、監督としてデビューした時期が、とっくに東映全盛期を過ぎてからということもあってか、低予算でのキワモノ勝負・・・東映の映画館で公開はされている(18禁の成人映画)とはいっても、群を抜いた悪趣味の作品ばかりという、特異な”作家性”が、飛び抜けています。

遊女に性技を仕込む”玉割り人”のゆきの悲恋と女の業をしっとりと描いたデビュー作の「玉割り人ゆき」(1975年)とその続編「玉割り人ゆき 西の廊夕月楼」(1976年)や、和製「俺たちに明日はない」的な青春ドラマ「毒婦お伝と首斬り浅」(1977年)などは、当時から評価が高かったようですが・・・カルト作品として今日語れることが多いのは、愚作と評されていた「戦後猟奇犯罪史」「徳川女刑罰絵巻 牛裂きの刑」「女獄門帖 引き裂かれた尼僧」であります。

その中でも公開後に30分の短縮版のVHSが発売されたっきり・・・日本カルト映画全集としてシナリオが出版されていたものの、東映チャンネルで放映されることがなく、世界のどこの国でもメディア化されていなかった「女獄門帖 引き裂かれた尼僧」は、滅多のことでは目にすることのできない”幻の作品”として「カルト中のカルト映画」として知る人ぞ知る作品となっていたのでした。

年期が明けたと思っていた女郎の”おみの”(田島はるか)は、弥多八(汐路章)と亀(佐藤蛾次郎)に土蔵に連れ込まれて犯されてしまいます。おみのが鞍替えさせられる品川の女郎屋は地獄のようらしい・・・そこで、客の沢吉(小林稔侍!)の足抜けを手伝わせて、3年経てば現世の縁切りができるという山奥の駆け込み寺「愁月院」を目指して逃げることになるのです。勿論、沢吉は追っ手に捕まり、一人になったおみのは道中、浮浪者の男たちにいたぶられて、犯されまくられます。

ここからネタバレとグロテクスな表現含みます。

なんとか愁月院に辿り着いた”おみの”は、庵主の桂秀尼(折口亜矢)に助けられるのですが・・・この尼寺こそ、足を踏み入れた男を生きては返さない、男を憎む食人レズ尼さんたちの巣窟だったのです!アヘンに陶酔する庵主、派手な化粧の”おかじ”(ひろみ麻耶)と”おつな”(芹田かおり)はレズに耽り、年増の”おとく”(藤ひろ子)は人肉鍋に舌鼓を打つ・・・そして、すべての奇行を淡々を見つめている口を利かない少女の”お小夜”(佐藤美鈴)という女達。そして、白塗りの寺男(志賀勝)は、寺の裏で生け贄となった男の死体をさばいて調理しながら、その人肉を食らう・・・志賀勝は毎度ながらの怪演を見せてくれています。


娘と駆け落ちしてきた若者も、”おみの”を追ってきた浮浪者の男も弥多八と亀も、代官所からの隠密(成瀬正)も、すべての男たちは拷問され殺されていきます。中でも隠密は、首を切り落とされた胴体だけが血だらけでピクピク・・・驚いた”おみの”が水を飲もうとして水桶を中を覗くと生首があるというグロテスクな描写となっています。ただ、こてこてのゴアシーンは、この場面ぐらい・・・全編に渡る気味の悪いナンセンスさが、本作の真骨頂かもしれません。


愁月院の正体を知った”おみの”は・・・”おつな”の猫を惨殺して、”おかじ”に罪をなすりつけ、二人殺し合うように仕向けます。さらに本堂に火を放って”おとく”を殺し、庵主と死闘を繰り広げます。しかし、”お小夜”に植木ハサミで突かれて、”おみの”も殺されてしまうのです。燃えさかる炎を見つめながら、”お小夜”は、庵主(実は”お小夜”の母親だった!)を強姦した男を殺したことを思い返しながら・・・初潮を迎えます。血が足を滴るという何とも悪趣味なロリコンしか喜ばないような演出!最後は、ひとり田舎へ帰る”お小夜”が雪の中を歩く姿で映画は終わるのですが・・・センチメンタルな音楽が、なんとも気色悪いのであります。


エロといっても、エッチなシーンのある女優さんは貧乳ばかり・・・唯一のグラマーなのが年増の”おとく”となのだから「ポルノとして成立しているのか?」という素朴な疑問も感じてしてしまいます。訳がわからないのが、”おとく”の母乳を無理矢理飲まされた亀(佐藤蛾次郎)が死んでしまうところ・・・人肉を食う女の母乳には毒が入っているとでもいうのでしょうか?このあたりは、エロとか、グロより・・・笑うに笑えないギャグという感じ。そう言えば・・・30年ほど前ニューヨークのナイトクラブで、ストリップパフォーマンスを見たことあるのですが、観客に母乳を浴びせかけるというキワモノ芸でした。ボクは母乳から逃れようとして、ギャーギャー叫びまくり、マジ気が狂いそうになったこと思い出しました。


「女獄門帖 引き裂かれた尼僧」というタイトルではありますが、尼僧は最後まで”引き裂かれる”ことはありません。(物理的にも、精神的にも)・・・ただ、当時の男性目線によって妄想された「男を憎むレズの尼さん」という差別的な世界観に貫かれた「東映エログロ路線」末期の、行き着くところまで行ってしまった感のある「超怪作」であることは間違いありません。アルゼンチンの殺人映画「スナッフ」を意識したのが「徳川女刑罰絵巻 牛裂きの刑」であるなら、本作「女獄門帖 引き裂かれた尼僧」はトビー・フパー監督の「悪魔のいけにえ」というところでしょうか?

いずれにしても、観る機会がなかったが故に「幻のカルト映画」となっていた本作は、多くの人が目にすることで、本来の「悪趣味な愚作」という”愛のある悪評”を下されるような気がするのです。

「女獄門帖 引き裂かれた尼僧」
1977年/日本
監督 : 牧口雄二
出演 : 田島はるか、折口亜矢、ひろみ麻耶、芹田かおり、藤ひろ子、佐藤美鈴、成瀬正、小林稔侍、志賀勝、汐路章、佐藤蛾次郎



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