2013/02/02

”日本のカワイイ文化”と”見世物的クラブシーン”を融合した(?)日本人デザイナー・・・”日本人のメンタルの弱さ”と”総合的デザイン力の欠如”が露呈してしまったのかも!?~「プロジェクト・ランウェイ・シーズン10/Project Runway Season 10」~



2004年からアメリカで放映されている「プロジェクト・ランウェイ/Project Runway」が、遂に「シーズン10」を超えました!番組の内容については、以前「めのおかしブログ」で「プロジェクト・ランウェイ」について書いたことがあるので、良かったらご覧下さい。

過去のファイナリストたちを集めた「プロジェクト・ランウェイ・オールスターズ」、ジュエリー、ハンドバッグ、靴などのデザインで競うアクセサリー版の「プロジェクト・アクセサリー」という”スピンオフ番組”が制作されていますし、世界各国(イギリス、オーストラリア、ベルギー、オランダ、フィリピン、韓国など、計20カ国)で、その国のバージョンの「プロジェクト・ランウェイ」というのも制作されています。現在「シーズン11」がアメリカでは放映され始めたところで、リアリティー番組の中でも長寿番組のひとつとなっています。

ボクは「シーズン1」からアメリカでDVDボックスが発売されると同時に購入して、全エピソードを一気に観てきました。しかし「シーズン8」を最後に、アメリカではネット配信のみ(日本からは閲覧不可能?)で、DVDボックスの発売をしなくなってしまったため「シーズン9」以降は観ていませんでした。日本では、WOWWOWが日本語吹き替えで放映しているようですが、先日「シーズン8」が終わったところのようで、2013年に「シーズン9」の放映が決まっています。オフィシャルサイトには放映中の「シーズン11」について書かれているし、番組の一部の映像は”YouTube”にアップされているので、リアルタイムで情報を得ることは出来るのですが、まとめて観る時の楽しみを奪われてしまうような気がして・・・あえて、ボクはネット上の情報は見ないようにしてきました。

最近になって怪しげなサイトで「シーズン10」までのDVDボックスセットを販売しているのを発見し、さっそく取り寄せてみました。テレビからダビングした番組をDVDに焼いた中国版海賊版らしく、画質はVHS並み、編集点ではシーンが飛ぶことがある粗悪品・・・ただ、正規版DVDが販売されない以上、海賊版の存在はありがたいものだったりします。

「シーズン8」では日系アメリカ人(四世?)の女性(アイビー・ヒガ/Ivy Higa)が出演していましたが・・・「シーズン10」では、初めて日本生まれの「日本人デザイナー」が「プロジェクト・ランウェイ」のキャストの一人として出演しているのです!

アメリカ人以外のキャストは、今まで数多く出演しているのですが、リアリティー番組の性質上、英語でのコミュニケーション能力というのは「必須」となります。また、単に言葉の問題だけではなく・・・共同生活しながらキャスト達とのコミュニケーションを取っていったり、審査員からの辛口批評に対して屈せずに自分の意見を述べたり、番組の中で自分のキャラクターをどう表現して振る舞っていくのかなどの能力も要求されるのです。

同調性をコミュニケーション手段とする日本人にとって、お互いを批判し合いながらも尊重していくというのは(頭で分かっていても)なかなか難しいこと・・・英語力、服作りの技術、デザインの才能以前に、切磋琢磨しながら素人同士が争うというリアリティー番組というフォーマット自体に、日本人にはハードルが高いのかもしれません。それ故に(1対1のバトルの似たような番組は過去にあったけど)日本版の「プロジェクト・ランウェイ」という番組が制作されることがないのかもしれません。初めての日本人キャストに対して(ボク自身がなし得なかったことをやってくれるという)大きな期待と同時に・・・最悪の結果を残してしまうのではないかという不安も感じぜずにはいられませんでした。

さて・・・「プロジェクト・ランウェイ」に登場する日本人デザイナーというのは、どんな人なのでしょうか?「Kooan Kosuke」という名前で出演していますが、本名は「大川公輔」という姫路出身の現在(番組出演時)30歳男性・・・番組内では「KOOan/コーアン」と呼ばれています。2002年(20歳?)で渡米して、「F.I.T」に入学してファッションデザインを学んだということなので・・・18歳で渡米し、英語学校、プレップスクール、美術大学を経由して、23歳でパーソンズ・デザイン大学のファッション科に入学したボクには親近感が湧きます。

2006年、彼は「ベストデザイナー」を受賞して「F.I.T.」を卒業します。デザインの方向性はさておき・・・日本人のステレオタイプとしての手先の器用さを裏切らず、彼の服作りの”クラフトマン・シップ”のレベルは高いことは間違いないようです。「パーソンズ・デザイン大学」と合同で開催された「Fusion Fashion Show/フージョン・ファッション・ショー」では、計30名の卒業生たちのフィナーレを堂々と飾っています。


卒業の1年後には、2008年の春夏コレクションを発表・・・このショーの後、セントクリストファー・ネイビス連邦(西インド諸島にあるイギリス連邦の王国のひとつ)でのファッションショーに参加したり、ニューヨークマガジンが出版している「ルックブック」で取り上げられたり、ケーブルテレビのTLC(ザ・ラーニング・チャンネル)で放映された古着をリメイクして素人をメイクオーバーするという「I 've Got Nothing to Wear」という番組に出演したり、ビヨンセの「Freakum Dress」ミュージックビデオに出演しているダンサーのジョンテ(JONTE' ☆ MOANING)の衣装デザインを韓国人アーティストのクラヨン・リー(Crayon Lee)とコラボをしたりと・・・着々とデザイン活動の場を広げていきます。

彼のファッション・ショー映像を見るかぎり、ファッション専門学校の学生に”ありがちな”スタイルという印象は拭えません。彼のスタイルが日本人デザイナーを代表しているとは、殆どの日本人(アパレル関係者)が思わないでしょう。クラブシーンで受けそうな見世物的なキッチュさはイギリスのパフォーミング・アーティストのリー・バワリーなどの影響と同時に、いかにも海外受けしそうな日本の「カワイイ文化」の引用をしているようにも見えます。ある意味、いつの時代にも必ず存在しているナイトクラブシーンの”アヴァンギャルド”・・・既成の服のディテールを誇張した”Catoon/カートゥーン”(漫画チック)のスタイルは、アメリカでは「ハラジュク系」と解釈されがちな「ストリートクチュール(?)」といったところでしょうか?

ニューヨークにいる日本人には、異様に”キャラ”が立っている人が、たくさんいるのですが・・・その人たちに共通するのは、とにかく見た目が派手で、テンションが異様に高いということ。(何故か関西出身者が多かったり・・・)良くも悪くも「イロモノ」として、クラブシーンでは目立つ存在となり、”プチ有名人”になることもあったりするのです。何を隠そう・・・ボク自身もパーソンズ・デザイン大学に在学中は、髪の毛をブリーチしてブロンドならぬ”たまご色”にして、相当おかしな格好をして、当時流行していたナイトクラブ(パラディアム、マーズ、トンネル、MK、リトルネールズ、ボーイバー、ピラミッド、セーブ・ザ・ロボット、スザンヌ・バーチのパーティーなど)を徘徊しておりました。とりあえず目立つことによって、言葉のコミュニケーションに多少ハンディがあっても、クラブでは注目を浴びることができるわけです。地方から原宿に遊びに来て、ド派手なファッションや奇妙な行動をするのに、ちょっと似ているのかもしれません。


「プロジェクト・ランウェイ」のオーディションでは、彼のハイテンションと金髪のアフロヘアの奇抜なスタイルが受けたそうです。実は「シーズン10」は彼にとって三度目の挑戦で・・・「F.I.T.」在学時代にオーディションを受けて落選、その後「シーズン6」(2008年)の時に再挑戦して一旦キャストに選ばれるものの、クリーンカード(永住権)を持ってないことを理由に却下されてしまったそうです。2008年から2012年の間に、何らかの手段でグリーンカードを取得したのでしょうか?仕事を通じてワーキングビザが発行してもらえたのか、グリーンカードの抽選にでも当たったのか分かりませんが、晴れてアメリカ滞在のためのステイタスの問題もなくなり、念願叶ったということです。

ただ、どう見ても彼は「ヒーローズ」に出演していた日本人俳優マシ・オカ的な扱いをされていて・・・ハイテンションの「おかしな日本人」というポジションでのキャスティングであることは否定することは出来ません。

ここからは「プロジェクト・ランウェイ・シーズン10」のネタバレを含みます。


エピソード1の「お題」は、宿題として制作してきた一着目の自分のデザイン哲学を表現したルックと対になる二着目をデザインして一日で制作するというものでした。一着目は色の組み合わせも、使用している生地の選択も、服のディテールも、まるでジョークのようなコスチュームだと、彼のデザインはレギュラー審査委員たちには評されてしまいます。一着目と二着目のデザイン的な関連性も、イマイチ分からず・・・リアルな服としての存在感の感じない奇妙なスタイルでした。ただ、ゲスト審査員が、ストリート系スタイルに理解のあるパトリシア・フィールドであったことはラッキーだったかもしれません。評価の低い3人に選ばれるものの、最初の落伍者になることは免れることができました。


エピソード2では、一般的には服の素材でないモノで服を作るという「プロジェクト・ランウェイ」ではお馴染みの「お題」・・・今シーズンは、ラルフ・ローレンの娘さんが経営するキャンディ屋さんが舞台。彼のデザインの方向性とキャンディの相性は良さそうなので、彼には”もってこい”の「お題」のように思えたのですが・・・溶けてしまう”綿アメ”をスカートにしようとして失敗し、単にたくさんのキャンディをモスリン生地で作った土台に無理矢理縫いつけただけのドレスを制作しました。勿論、ランウェイを歩くモデルのドレスからは、ボロボロとキャンディが落ちてしまったことは言うまでもありません。せっかく、彼の持ち味のスタイルに合ったテーマであったのに、そのポテンシャルを生かすことなく、かろうじて合格点で通過という無難な結果に終わりました。

このエピソードまでは、相変わらずハイテンションで、おちゃらけていたのですが・・・その後、様子が急変して塞ぎ込むようになってしまうのです。番組には映っていない部分なので、あくまでもボクの想像なのですが・・・長時間ライバル同士で競い合う状況で、他のキャストたちと本当の意味でのコミュニケーションが、彼は取れていなかったのではないでしょうか?元々、キャラ”が立ち過ぎているところはあったのですが・・・一体、彼がどういう人間なのかは、他のメンバー達には理解出来なかった気がします。結局、番組内で彼自身の作り上げたペルソナである「おかしな日本人」という不可解な存在というアイデンティティーしか表現できなかったのかもしれません。

日本人は「建前」と「本音」という文化(?)が、深みのある美徳として自負しているような気がするのですが・・・実は、これこそが日本人のメンタルの弱さの根源ではないかとボクは考えています。日本人は、追い込まれた状況になると、急に押し黙ったり、逆ギレして感情的になりがち・・・「建前」である”キャラ”が崩壊してしまうと、あっさりと”素”という「本音」を露呈させてしまうことがあります。ある時まで「建前」で冷静さを装っている日本人は、実は非常に感情に流されがちだったりするのです。映画やドラマでは、すぐに感情を剥き出すステレオタイプのあるアメリカ人ですが、実は”素”を出してしまうことは、理性のある大人であったら恥ずかしいこと・・・”幼稚な行動”と受け取られて、冷たい視線を送られたりします。日本人からみると些細ないことで感情的になっているようにみえるのも、実は一種のガス抜きであったり、自分の意見を押し通すための小細工をしているだけ・・・セルフイメージを保つために必要な防衛策だったりするのです。


エピソード3の「お題」は、デザイナーがペアとなってクライアントのために”レッドカーペット・ルック”(エミー賞授賞式に出席するためのドレスやガウン)を制作するというものでした。「プロジェクト・ランウェイ」では、自分ひとりでデザインするだけでなく、他のデザイナーとの共同作業や、クライアントのためにデザインするというチャレンジが多くあり、自己主張しているだけでも駄目・・・といって、自分の個性を殺しても駄目という”コミュニケーションの駆け引き”も求められるのです。

この「お題」は、明らかに彼にとって苦手なことは推測できました。運良くフェミニンなスタイルが得意なデザイナーとペアを組むことになるのですが・・・イニシャティブは完全にパートナーに奪われてしまい、彼がデザインプロセスに関わることもできないまま終わってしまいます。結果的には、審査員たちには好評で、高い評価の2グループに入る快挙を成し遂げるのですが・・・自分を見失ってしまった結果、彼のおちゃらけた”キャラ”は崩壊していくのです。

エピソード4ではスタート早々、とんでもないニュースが明らかにされます。女性キャストの1人が夜中に共同生活しているマンションから逃げ出したというのです。過去にリタイヤした人は何人かいますが、夜中にコッソリというのは初めてのこと・・・キャスト内に異様な衝撃が走る中、生地を購入して作業室に戻って来たメンバーたちに、彼はいきなりリタイヤすることを告げます。すでに混乱の渦の中にいるキャストたちは、彼の宣言に、ただ唖然・・・もしかすると、彼なりの判断で、このドサクサに紛れてリタイヤしなければ、もうチャンスはないとでも思ったのかもしれません。

彼はリタイヤの理由として「自分なりの方法でファッションデザインをしたい」という”もっともらしい”言い訳をするのですが・・・正直、これには理解に苦しみます。どのような「お題」が出されるとか、どれほどの短時間で完成品を制作しなければならないとか、自分のコンフォートゾーン以外のデザインを求められることなどは「プロジェクト・ランウェイ」を観たのならば明白なこと・・・自分の好きなスタイルだけでなく、アヴァンギャルドからエレガント、太った女性から子供、幅広いデザインをこなす柔軟性が要求されることは、覚悟できたはずではないでしょうか?極端な時間の制約や無茶なお題にチャレンジすることを承知して、番組に参加していることが前提なのです。「厳しいファッション業界でデザイナーになる別な方法を探していきたい」という、業界に関わったことのある者であれば当然の結論を理由にリタイヤしてしまうのであれば・・・「そもそも何故、そこまでして、この番組に出演しようと思ったの?」と根本的な疑問さえ浮んでしまいます。

ライバルである仲間たちが、彼のリタイヤを湿っぽく引き止めたりしないのは、アメリカならでは・・・サポート役であるティム・ガン氏も、自分で決めたのであれば仕方ないというあっさりとしたものです。こうして、エピソード4で唐突に、彼は番組から消えることとなります。作業室を去る際の彼の行動は、残されたキャストたちの目を点にさせるのですが・・・最後の最後に、おちゃらけた”キャラ”を取り戻して、彼なりの「建前」を繕ったのかもしれません。ただ悲しいかな、それは・・・やっぱり「おかしな日本人」の不可解な振る舞いとしか、キャストの目にも、多くの視聴者の目にも映らなかったのではないでしょうか?

残念ながら、日本人的なメンタルの弱さと総合的なデザイン力の欠如を露呈させてしまう結果となりました。もし、彼が自らリタイヤしていなくても、遅かれ早かれ落伍者になっていたかもしれません。ただ、誰もが簡単に手にすることの出来ないチャンスを得た者の使命を感じて、石にかじりついてでも、行ける所までは頑張って欲しかったというのが、ボクを含む多くの日本人、そして視聴者の気持ちだと思います。

「プロジェクト・ランウェイ」を観るたび、過去の自分に与えられていたのかもしれない無限の”可能性”を振り返って、漠然とした切なさに襲われてしまうことがあるボクにとって・・・リタイヤした彼の姿は自分自身の淡い後悔の念と重なり、胸を痛めて止まないのです。

「プロジェクト・ランウェイ」
WOWOWプライムにて順次放映

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2013/01/24

向田邦子の台詞を巧み紡いだ魔性の女優たち競演の舞台!・・・オリジナルの「品性」「エグさ」「斬新さ」は超えられない!~2013年舞台版、森田芳光監督映画版、NHK土曜ドラマ版「阿修羅のごとく」~



NHK土曜ドラマ枠(午後9時から)で放映されていた「阿修羅のごとく」は、舞台となる1979年の”リアルタイム”で制作されていたこともあって、向田邦子の代名詞となっている「昭和の家庭」を懐古するようなノスタルジーさを感じさせるというよりも「”斬新なホームドラマ」でありました。テーマ曲のトルコの軍楽(メヘテルハーネ「ジェッディン・デデン」)や、本編中の楽曲は、当時のホームドラマとしては不気味なセレクションと言えます。レインボー「バビロンの城門」、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド「フィール・ブルー」、サンタ・エスメラルダ「悲しき願い」、シルバー・コンベンション「Get Up and Boogie」、イエロー・マジック・オーケストラ「テクノポリス」、ピンクレディー「UFO」などが、不穏な感情を揺さぶったものです。

日常に潜む”おんな”の阿修羅的な恐ろしさを描いたといわれる本作・・・四姉妹がそれぞれの心に潜ませる妬み、嫉みなどの愛想を、何気ない台詞や表情で”ミニマル”に表現されています。夫が愛人を囲っていることを長年知りつつも、知らん顔していた母親がみせる嫉妬が、一番恐ろしいです。母亡き後のパート2では、さらに四姉妹の運命は劇的な展開をしていくのですが、沈黙の中での一瞬の表情さえも見逃すことを許さない、緻密で凝縮された演出が凄いことなっています。また、父親の”柳に風”のような動じないさや、男たちの優柔不断さや頼りなさなど、”おとこ”への厳しい視線も鋭いです。


長女・綱子を演じるのは「寺内貫太郎一家」の母親役でお馴染みの加藤治子・・・長女らしい保守的なところがありながらも、どこかしら”すっとぼけ”ていて、ゆるい”エロさ”を漂わせているところが絶妙でありました。夫に先立たれて生け花の師匠として生計を立てているのですが、実は営業先の料亭・枡川の旦那と不倫中・・・その旦那を、往年の二代目俳優・菅原謙次が演じているのですから、なんとも艶っぽいわけです。優柔不断で優しい二枚目という存在自体を、せせら笑うようでありました。そして料亭の女将さんを演じているのが、三條美紀という女優さん・・・着物の似合う大御所でありますが、意地悪さ加減が、観ていて小気味良いほどです。

次女・巻子を演じるのは、八千草薫・・・品の良いお母さん役というイメージの女優さんでしたが、同時に”のほほん”とした不気味な印象もボクは持っていました。専業主婦で視聴者が一番親近感を感じやすい役柄ということもあってか、四姉妹の中では主役的な存在であったような気がします。巻子の夫の鷹男役は、パート1が緒形拳で、パート2は露口茂・・・緒形拳は飄々と演じている印象でコミカルさを感じさせるのですが、露口茂はどこかウェットでシリアスな感じで、ボク個人的には緒形拳がいい味出していたように思います。またパート2では、2013年の舞台版で巻子役を演じる荻野目慶子が、巻子の娘役で出演しています・・・ただ、現在の魔性っぷりからは想像出来ないほどの初々しさです。

三女・滝子を演じるのは、いじだあゆみ・・・ボクの世代にとっては「ブルーライト・ヨコハマ」というヒット曲の歌手というイメージが強いのですが、性に関して潔癖性なクセに、実は欲求不満の図書館の事務員という、華やかなイメージからはかけ離れた役柄が意外でした。父親の愛人調査を依頼した探偵・勝又と恋に堕ちてしまうのですが・・・勝又を演じるのが、宇崎竜童という意外なキャスティングで・・・口下手で正直者という役柄が、妙にハマっておりました。

四女・咲子を演じたのが風吹ジュン・・・今でいうグラドルみたいな存在で、歌手として歌っても吐息ばっかりで音痴、演技もけだるい感じでやる気なさそうというノリが、学生運動が終結した当時のアンニュイな雰囲気に合っていたのかもしれません。本作の中では、ソバージュの髪型、肩パッドなどの1979年~1980年当時の”今風”ファッションを体現している役柄でもありました。

四姉妹を演じる女優にも増して、スゴいのが父親を演じる佐分利信であります。威厳のある父親という、いわゆる”寡黙な親父”像そのもののような役者さんなのですが、出演作のどれを観ても似たような演技というイメージ・・・ボクは「あまり演技が上手ではない役者さんだなぁ」と思っていたのですが「阿修羅のごとく」を観て印象は変わりました。一見すると無表情でありながら、目の奥で内面を表現していたのです。物語が進むにつれ・・・愛人に振られ、妻に先立たれて、侘しさを増していく様子は惨めさをヒシヒシと感じさせます。向田邦子が描いてきた父親像というものを崩壊させている本作ですが・・・と同時にまわりの女たちの繰り広げる嫉妬や葛藤にも感情を露にしない”男のズルさ”もしっかりと覗かせています。

母親を演じた大路三千緒という女優さんについては、ボクは何も知らなかったのですが・・・元宝塚の男役スターだったそうです。ただ、本作では影の薄い専業主婦の母親を演じています。夫に愛人がいたとしても家庭を守るということが美徳ととらえられていた時代の母親・・・しかし、娘のフリをして新聞社に投書したり、愛人の暮らすアパート付近で見張っていたりと、内面では嫉妬に燃えていたというのが、向田邦子が男に対して放つ平手打ちのようです。まったく素振りを一切見せない演技が、より奥深い嫉妬の怖さを増しているのかもしれません。

オリジナルのNHK土曜ドラマ版は、演じる役者を考慮して脚本を書かれているということもあって、キャスティングは役者さんの表層的なクラクターだけでなく、深層に潜むキャラクターまでもあぶり出している”エグさ”がありました。だからこそ、観るたびにキャラクターの人間像の発見があり、制作から30数年経った今でもNHKドラマの名作として語り継がれているに違いないのです。


2003年(オリジナルドラマ放映から24年・・・森田芳光監督により「阿修羅のごとく」が映画化されます。パート2放映後から1年後に飛行機事故で向田邦子が亡くなったこともあり、本作は繰り返しNHKで再放送されていましたし、昭和という良き時代の家庭を懐かしむ風潮が高まってきたこともあったのかもしれません。ただ、森田芳光監督と豪華な配役にも関わらず、映画版は失敗作であったとボクは思っています。

まず、過去を舞台とする物語となったために、昭和的なノスタルジーを取り込もうとしたようです。確かに、本作で描かれる父親像、母親像、そして、四姉妹それぞれの物事の考え方・・・さらに、物語の辻褄上、黒電話などの小道具も重要ではあり、1979年という時代設定は無視できません。しかし、リアルタイムで生きていたボクからすると・・・1979年というのは、もはや懐かしい”昭和”を感じさせてくれるような時代ではなく、学生運動が盛んだった混乱からバブル景気への”中間点”・・・”しらけ世代”の冷めた無気力感、個性尊重の個人主義、ブランド志向などの風潮が広がっていく、実は”昭和”感から大きく脱却した時代であったのです。

ドラマのパート1とパート2の全7話のストーリーを2時間ほどにまとめるわけですから、はしょらなければならない場面が出てくるのは当たり前のことです。おおまかな物語の流れは、パート1の母の死をクライマックスにしながらも、パート2の四姉妹のエピソードを前後シャッフルして織り交ぜていくという手法をとっています。しかし、オリジナルの台詞を忠実に再現しようとするばかりに、その言葉だけが残っていて、その背景にある感情が希薄になってしまった印象です。

キャスティングにも問題があったように思います。それぞれの役柄に合った役者を起用しようとしたのでしょうが・・・逆に周知の”キャラクター”を前面に押し出すだけになってしまった気がします。長女役の大竹しのぶは、デビュー時代は”田舎臭い娘役”で天才女優の名を欲しいままにしていました。しかし、人生を重ねるうちに上手な演技と呼ばれてきた芝居もある種パターン化してきて・・・身持ちの悪い役を演じさせると、下品さだけが目立つようになってきました。長女は、確かに料理屋の旦那とカラダの関係を断ち切れないのですが、生け花の師匠で未亡人という”気品”も共存しているはず・・・その”品”が、大竹しのぶには絶望的に欠けているのです。また、料理店の女将を演じる桃井かおりも、下品さでは大竹しのぶに負けていなくて・・・二人が対決する場面は場末のホステス同士の喧嘩のようです。

次女役の黒木瞳にしても、三女役の深津絵里にしても、それぞれの役のイメージに合わせたキャスティングなのかもしれませんが、それまで演じてきた役柄の延長線上という感じです。四女役の深田恭子に至っては演技が下手で話になりません。父親役の仲代達矢も、母親役の八千草薫も、四姉妹の物語の背景のような扱いをされているので、生かされていないキャスティングです。一番ヒドいのは三女と付き合う探偵の勝又役の中村獅童・・・監督の指示なのか、中村獅童の役作りなのかは分かりませんが、口下手で正直者という以上に、落ち着きがなく吃るという変なキャラクターになってしまっています。その演技が、あまりにも大袈裟で、まるで障害者を滑稽に真似しているかのよう・・・観ていて不謹慎に感じました。映画版のキャスティングで良かったのは、長女の夫・鷹男役の小林薫と、長女の不倫相手の料理屋の旦那役の坂東三津五郎ぐらいでしょうか?残念ながら・・・映画版「阿修羅のごとく」は、オリジナルドラマファンのボクにとっては残念な作品でした。


「阿修羅のごとく」が、初めて舞台化されたのは・・・小説版「阿修羅のごとく」の文庫あとがき(南田洋子著)によると、1999年6月のようなのですが、ネットで調べても詳細が分かりません。南田洋子が母親役、長門裕之が父親役を演じていたようですが、四姉妹を誰が演じられたのか分かりません。2004年に、再び、南田洋子の母親役、長門裕之の父親役で、芸術座で公演されています(2006年の博多座で再演では、母親役は水野久美、父親役は天田俊明)。長女・山本陽子、次女・中田喜子、三女・秋本奈緒美/森口博子、四女・藤谷美紀/細川ふみえ、鷹男・国広富之、勝又・渋谷哲平というキャスティングというのは、商業演劇らしい気がします。どちらの舞台もボクは観ていません。

さて、先日観に行った2013年版舞台「阿修羅のごとく」は・・・母親・加賀まりこ、長女・浅野温子、次女・荻野目慶子、三女・高岡早紀、四女・奥菜恵という”魔性の女優”ばかりを集めた確信犯的なキャスティングに、興味を惹かれてしまいました。

母親役に”加賀まりこ”というのが”ありえない”気がします。”おんな”として枯れてしまった役柄を演じるには、69歳であっても加賀まりこは瑞々しい”現役感”ありすぎの印象・・・白菜のお漬け物を漬けるイメージからも程遠く、嫉妬に燃えながらも夫の浮気に絶えたりせずに凄い剣幕で愛人宅に怒鳴り込みそうです。ただ、年を取っても若い役を演じられる舞台の魔法が逆に作用して”老け役”に挑んだという感じでしょうか?

長女役の”浅野温子”が「未亡人」の「生け花の師匠」というのは、かなり無理・・・未亡人の枯れたエロスもなければ、生け花の師匠らしい気品もなく、不倫することなんか全然気にしなさそうな”あっけらかん”としているイメージしかありません。目力の強いデビュー時代には男性ファン、W浅野時代には女性ファンを獲得していた浅野温子も、その後は迷走し続けているような感じがします。この舞台では「サザエさん」役を彷彿させるコミカルな演技をみせています。

次女役の荻野目慶子が、専業主婦というのもシュールです。まったりとした独特のエロさは、長女役に適しているような気がするのです。夫の浮気を疑う様子は妙におどろおどろしいし、夫を問い詰める様子は変に甘えているようで・・・隠せないエロさが滲み出てしまっています。三女役の高岡早紀は、いい意味で、高岡早紀っぽさを消して役柄になりきっていた印象でした。四女役の奥菜恵は、頑張り過ぎて下品で派手なオバサン(?)みたいになってしまっていました。この5人の女優よりも異彩を放っていたのが・・・長女の浮気相手の奥さんを演じていた”伊佐山ひろ子”でした。長女とのやり取りでは、完全に浅野温子を制圧してしました。

さて・・・全7話のテレビドラマを、どうやって2時間ちょっとの舞台にするのか?場面が頻繁に変わる展開を、どうのような舞台装置を使うか?というのが、ボクは大変興味がありました。舞台は15分の休憩を挟んで、1部と2部に分かれているのですが・・・1部でパート1、2部でパート2の物語を追っていきます。時間的にかなり凝縮されているので、全体的にドタバタ感があって展開のペースが早いです。ただ、向田邦子の書いた台詞を言うだけでは感情が伴わなくなってしまいますが、巧みに時間軸や場面を変更して、生きた台詞として紡いでいたのには驚きました。また、舞台という制約もあるなかで、記憶に残っていたキーポイントとなるドラマの場面も殆ど再現されていました。

今回の舞台版の脚本の巧みさだけでなく、舞台セットも複数に進む物語を効果的にみせることに成功していた気がします。真ん中に大きな茶の間、その左横に出入り口のある茶の間(長女宅の茶の間)、左上にダイニングテーブル(次女宅の食堂)、右脇に病室や外など自在に変化する空間、右上に小さな茶の間(四女の部屋)、その茶の間の奥に土手・・・という風に舞台上に6つの空間を設けることで、めまぐるしく場面の変わる物語を手際良くみせていました。

舞台としての完成度は決して低くはありません。興業として考えた場合、今回のキャスティングというのは、ボクのようなオリジナル版のファンの興味も惹いたわけですから、成功と言えるのかもしれません。ただ・・・焼き直されるたびに失われていく「品性」「エグさ」「斬新さ」を、改めて確認してしまうことも事実なのです。


「阿修羅のごとく」
1979年、1980年/テレビドラマ
演出 : 和田勉、高橋康夫、富沢正幸
出演 : 加藤治子、八千草薫、いしだあゆみ、風吹ジュン、佐分利信、大路三千緒、緒形拳(パート1)/露口茂(パート2)、宇崎竜童、荻野目慶子(パート2)
パート1/1979年1月13日~1月27日放映
パート2/1980年1月19日~2月9日放映

「阿修羅のごとく」
2003年/映画
監督 : 森田芳光
出演 : 大竹しのぶ、黒木瞳、深津理絵、深田恭子、八千草薫、仲代達矢、小林薫、中村獅童、桃井かおり、坂東三津五郎
2003年11月3日劇場公開

「阿修羅のごとく」
2013年/舞台
演出 : 松本祐子
出演 : 浅野温子、荻野目慶子、高岡早紀、奥菜恵、加賀まりこ、林隆三、伊佐山ひろ子
2013年1月11日~1月29日 ル・テアトル銀座/東京
2013年1月31日~2月3日 森ノ宮ピロティホール/大阪
2013年2月9日~2月10日 名鉄ホール/愛知 



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2013/01/22

さりげなくゲイのおじいさんが登場する大人映画・・・でも、さわやかなエンディングは迎えさせてもらえないの!~「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」~



ゲイ(同性愛男性)のキャラクターを扱う場合・・・女装の狂言回し役だったり、サイコパスの犯罪者であったり、哀れむ対象であったりということが、多かった時代というがありました。今ではそんな意識はすっかりなくなった・・・と言いたいところですが、女装やオネェ言葉は、いまだに笑えるギャグとして有効というのは、深層心理的には昔とそれほど変わっていないのかもしれません。同性愛をテーマとた作品というわけでもなく、登場人物の一人としてゲイを扱う場合には、一見してゲイと分かるようなステレオタイプの「ゲイ・キャラ」というのも、まだまだ多いような気がします。

「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」は、イギリス人の高齢者7人が、インドのマリーゴールド・ホテルに老後を過ごすために移住するというお話・・・さわやかな感動を呼ぶ”高齢者向け”(?)の大人映画であります。実際にホテルに到着してみると、宣伝写真とは違ってボロボロ・・・さらに、慣れないインドの環境にヘキヘキしていく様子を、暖かい眼差しと皮肉さの混じった視点で描いていきます。当初、英国人のプライド丸出しで異文化を蔑視するような彼らの態度は、傲慢に感じられますが・・・これも、新しい環境を段々と受け入れていく後半の展開との対比のためであります。それぞれの抱える問題が明らかになっていくに連れて、気難しい英国人気質さえも共感を生んでいきます。また、経営困難なホテルを再建しようとする若いインド人青年ソニー(デヴ・パテル)とイギリス人高齢者との対比は、まさに経済発展を進めるインドという国の若さとエネルギーと円熟したイギリスという国そのものであることは言うまでもありません。

夫に先立たれて自立の道を探る元専業主婦のイヴリン(ジュディ・デンチ)、腰の手術を受けるためにやってきた元家政婦のミュリエル(マギー・スミス)、離婚の危機にあるダグラス(ビル・ナイ)とジーン(ペネロープ・ウィルトン)の熟年夫婦、新しい恋を探しているオールドミスのマッジ(セリア・イムリー)、若さに執着して女の尻を追い回すノーマン(ロナルド・ピックアップ)・・・それぞれの物語の展開には、小さな驚きと清々しい結末が待っているのですが、ボク自身が注目したのは、少年時代インドに暮らしていた元判事のグレハム(トム・ウィルキンソン)の物語です。

グレアムが父親の仕事の関係でインドに住んでいた少年時代のこと・・・現地の使用人家族の息子マナージと遊び相手として仲良くなるのですが、ある時をきっかけに(本作では深くは語られません)ふたりの関係は”恋人関係”へと発展していったのでした。数ヶ月後、ふたりの関係はグレアムの両親に知られてしまいます。マナージの父親は解雇され、マナージの家族は屋敷を追い出されてしまいます。しかし、まだ少年だったグレアムは、この状況を傍観してやり過ごしてしまっていたのでした。その後、グレアムはイギリスに帰国して、何事もなかったように進学して、判事として働くまでになっていたのです・・・マナージへの愛と罪悪感をずっと抱えたまま。

ここからネタバレを含みます。

マナージにとって自分は最も会いたくない人間ではないかと恐れながらも、グレアムは根気よく役所に問い合わせてマナージの居場所をみつけます。マナージは、お見合いで妻を娶っていたのですが・・・その妻は夫のマナージが、グレアムというイギリス人の少年と愛し合っていたことを知っていたのです。無言で再会の抱擁をするマナージとグレアムを見つめる妻・・・彼女の夫への複雑、かつ、深い愛情を感じさせます。

本作は、特に同性愛の是非を問いただそうという映画ではありません。ただ、グレアムがストレートという設定で、過去に愛したインド人の少女と再会する話だとすると、陳腐なロマンチズムを感じさせたかもしれません。また、グレアムとマナージの過去、そして再会した後の様子は、フラッシュバックなどではなく、グラハムの台詞だけでしか説明されません。過去の思い出も、再会した後の会話も、観客が想像するしかないのです。

マナージはインド社会で、同性愛者として辱められ「終身刑」に追い込んでしまったと、グレアムはずっと思っていたのですが・・・実は、妻にグレアムとの関係を隠すこともなく、マナージは穏やかな人生を送っていました。そして、マナージもグレアムのことをずっと愛していたことを知らされるのであります。グレアム自身こそが、罪悪感という「終身刑」に自らを追い込んで生きていたことを悟り、彼はやっと解放されるのです。

マナージとの再会により、グレアムの愛の物語はひとつの決着はしているわけですが・・・その直後、グレアムは心臓麻痺でポックリ亡くなってしまいます。登場人物が高齢者ばかりなのですから、その中ひとりぐらいは亡くなることはあっても不思議はありませんが、よりにもよってゲイのキャラクターというのが、ちょっと釈然としません。映画本編は、さわやかで楽天的なエンディングを迎えることになるのですが・・・グラアムが、その結末を迎えさせてもらえないのは、彼がゲイという”特別枠”のキャラクターだからなのでしょうか?

高齢者のイギリス人がインドで暮らすというシチュエーションの”ネタ”は尽きないようで、続編の製作も噂されている本作・・・過去の愛を確かめ合ったグラアムの、その後が描かれることがないことが、ボクには悔やまれてならないのです。


「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」
原題/The Best Exotic Marigold Hotel
2011年/イギリス、アメリカ、アラブ首長国連邦
監督 : ジョン・マッデン
出演 : ジュディ・デンチ、マギー・スミス、ペネロープ・ウィルトン、ビル・ナイ、デヴ・パテル、セリア・イムリー、ロナルド・ピックアップ、
2013年2月1日より日本劇場公開


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2013/01/20

追悼・大島渚監督・・・超低予算映画でありながら斬新なアイディアで不条理な国家権力を皮肉った革命的な一作!~ATG映画「絞死刑」~


2013年1月15日大島渚監督が亡くなられた。1996年に脳出血で倒れてから、一度は「御法度」で監督復帰するものの、病状が悪化して闘病生活を送られていました。言語障害や右半身不随のリハビリの様子をテレビのドキュメンタリー番組で拝見したときには、とても心が痛みました。心よりご冥福をお祈りします。

ボクが映画に興味を持ち始めた1970年代後半というのは、「ロードショー」や「スクリーン」といった洋画雑誌が全盛の頃で、ロードショー形式という全国の主要映画館で一斉に封切るという拡大ロードショーというスタイルが定着してきた時代でした。また、角川映画のマスメディア戦略による邦画が次々と製作され、商業主義の大作映画ばかりに注目されていたものです。当時は、レンタルビデオ屋なんてもんは存在していませんでしでしたから、古い作品というのは名画座かテレビ放映で観るしかありません。だだ、映画を放映するテレビ枠は毎晩がありましたし、2本立て、3本立ての名画座も都内にまだ多くありました。ボクは「ぴあ」を片手に名画座を巡り、ある年には1年間で400本以上の映画を観たものです。しかし、名画座で上映されることもなく、テレビ放映されることもない映画というのもありました。

初期(1967~1971)のATG(日本アート・シアター・ギルド)映画については、文献などで読むことはあったも、テレビ放映はもちろん、名画座で上映されることも殆どなく、ボクにとっては”幻の映画”でした。1962年から映画配給を行なっていたATGが、1000万円という低予算映画を製作し始めたのが1967年・・・1970年代後半には、長谷川和彦監督の「青春の殺人者」や、東陽一監督の「サード」のように、全国的に大ヒットする作品などの映画の製作を行う会社になっていました。

1979年、ATG創立20周年を記念して、日劇地下の映画館で「ATG映画の全貌」という映画祭が開催されました。ボクは上映作品のすべてを観るために回数券を購入して毎週通いました。この映画祭は、それまで観ることのできなかった初期のATG映画を集中的に上映するもので・・・「人間蒸発」「絞死刑」「初恋・地獄篇」「肉弾」「心中天網島」「地の群れ」「無常」「書を捨てよ町へ出よう」「儀式」「あらかじめ失われた恋人たち」の10作品がラインナップされていたと記憶しています。

この時に上映された作品の中でボクが一番衝撃を受けたのが大島渚監督の「絞死刑」でした。映画を「監督」で観るようになったのは、この時「絞死刑」と「儀式」2本を観たことがきっかけと言ってもいいでしょう。しかし、当時(1980年前後)大島渚監督の初期の松竹映画やATG以前の独立プロ時代の作品は名画座でも上映されることにはなく、その後(1985年)留学先のニューヨークの”フィルム・フォーラム”で行なわれた大島渚監督のレトロスペクティブにて、デビュー作の「愛と希望の街」や、松竹を辞めるきっかけになった問題作「日本の夜と霧」など、多くの大島作品を観る機会に、やっと恵まれました。初めて観た大島渚監督作品ということだけでなく、すべての大島作品の中でも斬新さが際立つ「絞死刑」は、ボクにとって大島作品のベストワンなのです。

「絞死刑」は、当時としても超低予算の”1000万円映画”で製作された作品の””劇映画”第一作目で・・・大掛かりなセットを組むことは出来ないという状況を逆手に、舞台となるのは絞死刑を行なう刑場の部屋の中(一部、外部ロケもあり)だけという手法を使った作品でした。1958年に実際に起きた在日韓国人李珍宇による”小松川高校殺人事件”をヒントにしているのですが・・・事件の背景に「朝鮮人差別」「極貧問題」があるとして、死刑判決後に助命要請運動も行なわれたそうです。犯人の少年は、死刑執行される前にカソリックの洗礼を受けたりしたものの、最後まで被害者たちへの罪の意識を感じることがなかったらしいということも、本作に反映されているようです。

映画は、いきなり主人公”R”(アール)の死刑が、拘置所所長、教育部長、神父、保安課長、医務官、検事らが立ち会いのもと執行されるシーンから始まります。ところが絞死刑が執行された後も、”R”の脈は止まらず処刑は失敗・・・意識は取り戻すものの記憶を失ってしまいます。法律上、心神喪失状態にある時には死刑執行は出来ないということで、教育部長らは処刑の再執行を行なうために、”R”の記憶と罪の意識を取り戻させるために、寸劇で”R”の家庭や犯罪状況を再現したりすることになります。そう・・・死刑制度問題、在日韓国人差別、貧困による犯罪心理、国家権力の見えない力、などデリケートな社会問題を扱ってはいながらも、本作は「コメディ映画」なのです。

”R”の素朴な疑問は、ボクが問い正すことされも考えてみなかった世の中の仕組みの疑問でもありました。「国家」という存在を意識することもなく生きていたボクでしたが、その「国家」によって「正義」と「罪悪」が決められていることに、反発や疑問を感じたものです。また、本作の”R”は、自分にとって確信できるのは自己認識していることだけなので、罪の意識を持つことはできないということに、共感している自分に怖さも感じました。第二次世界大戦後の教育により「自己」は尊重されるべきものとして、自分自身の価値観を持つことは「良」として、ボク以降の世代は育てられてきました。「ボク」「わたし」という自己を中心とした物事の認識が当然の時代に・・・「国家」の正義を、どのように個人に認めさせるのかを、大島渚監督は本作で映像的に表現することを試みています。刑場を出て行けと言われた”R”がドアを開けた瞬間、まばゆい光に思わず”R”の足はすくみ外へ出ることは出来ません。”R”は”R”であることを認め、差別や貧困で苦しんできた在日韓国人の重荷を引き受けて処刑されることに同意して再び絞死刑が執行されます。しかし、処刑を行なったロープの先には”R”のカラダはなく、そこには空のロープがぶら下がっているだけ!なんという皮肉・・・「国家」が認識させた「正義」さえも、その実体がないのです。

「絞死刑」を観るたび、さまざまな問題提起に対して、何ひとつ納得出来る答えを出せない自分を感じます。映画というのは、なにかしらの結論を導くきっかけを与えてくれるものですが、本作は哲学的な問答の大海原に、観る者を投げ出してしまうような作品なのです。


「絞死刑」
1968年/日本
監督 : 大島渚
出演 : 尹隆道、佐藤慶、渡辺文雄、石堂淑朗、足立正生、戸浦六宏、小松方正、松田政男、小山明子
1966年2月3日より日本劇場公開

 
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2013/01/09

宇宙の中にひとつの命として存在する私、地球温暖化と格差社会、少女の父親との死別・・・場所、人種、時代を超えた普遍的な寓話~「ハッシュパピー バスタブ島の少女/Beasts of the Southern Wild」~


最近、ドラマだけではなくバラエティ番組や宣伝のイベントにも”ひっぱりダコ”になっているように「子役」・・・現場の空気を読んで、自分の言葉で切り返す能力までもが求められているようで、大人が期待する子供らしい”かわいさ”を演じている「こども大人」ようで、キモち悪く感じることがあります。歌舞伎では子役の台詞は、わざと一本調子の”棒読み”・・・鼻っから一人前の演者としては扱わないという割り切りがあったりします。ただ、時に監督の指導や、絶妙なキャスティングによって、素人の子役がとんでもない”名演”をして、映画祭の演技賞を総なめ・・・なんてことがあったりします。ただ、その後成長してからも演技者として成功を続けることは稀ではありますが。

オーディション当時、若干5歳(撮影時は6歳?)だったクゥヴェンジャネ・ウォリスちゃんが、演技の経験がまったくないのも関わらず、主役のハッシュパピー役で奇跡の名演をみせる「ハッシュパピー バスタブ島の少女」は、一般的なジャンル分けに戸惑ってしまう不思議な作品であります。

ハッシュパピーの父親のウィンクを演じるドワイト・ヘンリーさんも、本作を制作したプロダクションの近所でパン屋さんをしている素人だし、その他のキャストの殆どが素人・・・その上、アメリカ映画としては超低予算(約1億5千万円)で16ミリカメラで撮影されたということもあって、まるでドキュメンタリー映画のような生々しい手触りを感じさせます。と同時に・・・寓話のようなファンタジーとさまざまな社会の問題のリアリティが入り交じります。ハッシュパピーの視点とモノローグで語られる本作は、どこまでが現実で、どこから想像なのかも曖昧・・・「ツリー・オブ・ライフ」にも似ているところもあり、観客を選ぶ作品かもしれません。


少女ハッシュパピーは父親のウィンクと、”バスタブ”と呼ばれるルイジアナ州あたりにあるらしい三角州のような湿地帯に住んでいます。家畜を飼っているようですが、それで生活が成り立っているとは思えません。多くは描かれませんが、ハッシュパピーの母親である女性は、随分と前に家を出ていってストリッパーになってしまったようで・・・母親の着ていたランニングトップを、ハッシュパピーは母親がわりのように大切にしています。

「ここって本当にアメリカ?」「いつの時代の設定?」と思ってしまうほどの過酷な生活環境に、まず驚かされます。かろうじて雨を防ぐ程度の小屋はゴミだらけ、同じ服を着たっきりでまるでホームレスのよう・・・周辺の住民たち(黒人だけでなく白人のいる)も似たような生活をしているのだけど、その生活に不満を持っているような感じでもありません。自然破壊や地球温暖化などの環境問題に憤りを感じていて、ある種の政治的な意志をもってバスタブでの生活を選んでいるようにも思えます。

実は父親のウィンクは重い病気で、先はそれほど長くないようなのですが、ちゃんと治療する意志はないようで・・・入院していた病院を勝手に飛び出して、ハッシュパピーの元へ戻って来てしまいます。もしかすると、治療費とかを払えないからかもしれません。自分が病気で苦しんでいる様子や、徐々に死に近づいている自分の姿を、ハッシュパピーには見せないようにしようとするウィンク・・・年齢的にハッシュパピーが「死」を理解しているかわかりませんが、宇宙の中のひとつひとつ、ひとつの命が調和して共存しているということは、彼女なりに実感しているようです。

ある日、大きな嵐がやってきます。それでも、ウィンクはバスタブから離れることはせずに、小屋にとどまろうとします。嵐のあと、バスタブ周辺の一帯は完全に水没してしまいます。ドラム缶ボートで彷徨っていたハッシュパピーとウィンクは、同じように非難せずに留まっていた他の住民達と合流します。嵐のおかげで蟹とかザリガニとか大量に獲れて、まるで収穫祭のようなお祭り騒ぎとなります。食物連鎖の中で、自然と共存する人間も”動物”のひとつであることを証明するかのように、蟹を手で割って中身を食らうシーンが印象的です。

しかし、そんなお祭り騒ぎは長くは続きませんでした。一帯が水没したことによって、ますます衛生状態が悪化してしまい、食用のためにボートに乗せていた家畜たちが続々と死んでいってしまったのです。バスタブ一帯の水はけをしようと、ウィンクと仲間たちは、堤防を手作り爆弾(魚に火薬を詰め込んだ!)爆破させます。それで、すぐに水は引いたものの、バスタブは元のようにはなりません。徐々に病気で弱っていくウィンク・・・ハッシュパピーも、父親が死が近づいていることを察し始めます。

ここからネタバレを含みます。


ハッシュパピーを含め住民達は、衛生環境の悪化を問題視した政府当局により、近代的な病院施設に強制的に避難させられることになります。白い壁ばかりの病院で、ハッシュパピーは新しいドレスを着させられ、ウィンクは手術を施されます。ある意味、このような救助の手を差し伸べられて良かったと思えるのですが・・・ウィンクは病院ではなくバスタブで死ぬことを選びます。もう娘の面倒をみることはできないと、ハッシュパピーだけをバスに乗せようとするのですが・・・ハッシュパピーはウィンクの思惑を察し、離れようとしません。結局、ハッシュパピーはウィンクや他の住民らと共に、バスタブに戻ってきます。

バスタブの子供たちが海で泳いでいると、遠く沖から離れてしまいます。そこで、通りかかった船に乗って、海に浮かぶ売春宿のような施設に向かうことになります。もしかすると、ストリッパーになったという母親は、こんな場所にいるのかもしれません。そこは、まるで竜宮城かのように光に満ちた夢のような空間に子供達の目には映ります。売春婦と子供達は、抱き合って踊り、しばし夢のような時間を過ごします。

再び、ハッシュパピーがバスタブへ戻ってくると、ウィンクは死を待つだけのベットに伏してします。そこに「オーロックス」という百獣の王であったという伝説の動物が現れます。その巨大な動物に、まったく怯えることもなく、正面に立ちはだかるハッシュパピーに「オーロックス」もひれ伏します。ハッシュパピーは、バスタブの王として選ばれた者なのでしょうか?亡くなったウィンクをドラム缶ボートで弔ったハッシュパピーは、バスタブの住民達と共に力強く行進をしながら、高らかに訴えるのです!

私はとっても大きな宇宙の中で小さなピース
私が死んだら未来の科学者はすべてを見つける
ハッシュパピーがバスタブでダディと暮らしていたことを!

当たり前のことと言ってしまえば、そうなのですが・・・ハッシュパピーという少女に「与えられた命なんだから、生きている限り、生きなければいけない」と、ボクは改めて教えられたのです。自殺願望があるわけというわけではありませんが・・・自分の子供がいるわけでもないボクが「1人で長生きする意味って何だろう?」って考えてしまうことがあったりします。年老いて「生きる」ということに消極的になってしまいそうな時、必ずこの映画を観ようと思ってしまったのです。

少女が大自然の中で自分を見つけ成長するというテーマから、宮崎駿監督の影響を受けていると評されることが多い本作・・・確かに「オーロックス」という巨大なイノシシのような動物(もののけ姫)、水没してしまう村(崖の上のポニョ)、幻想的な水に浮かぶ売春宿のような施設(千と千尋の神隠し)など、モチーフとして非常に似ているところがあります。日本人として・・・宮崎駿監督の共通点を指摘したい気持ちも分かりますが、実写とアニメという違いだけでなく、作品の雰囲気は、かなり違うものだったりします。また本作は、共同脚本のルーシー・アリバーによる一幕の舞台劇「ジューシー・アンド・デリシャス/Juicy and Delicious」をベースにしていて、重要なモチーフは舞台劇から引き継いでいます。

舞台となる場所、登場人物の人種、設定されている時代を超えた普遍的な寓話としてだけでなく、最近リアルに感じさせられる自然破壊の危機さえも織り込んでいる、真の”オリジナリティー”を感じさせる一作であると、ボクは思うのです。

「ハッシュパピー バスタブ島の少女」
原題/Beasts of the Southern Wild
2012年/アメリカ
監督 : ベン・ザイトリン
脚本 : ルーシー・アリバー、ベン・ザイトリン
出演 : クゥヴェンジャネ・ウォリス、ドワイト・ヘンリー

2013年4月より日本劇場公開


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2012/12/30

男同士のバディを卒業して一生の伴侶として女性を選ぶことで一人前の男になる・・・”男性向け恋愛映画”による、ある洗脳~「テッド/ted」~



日本では、それほどポピュラーな映画のジャンルないんだけど、アメリカでは盛んに制作されているのが「男性向け恋愛映画」・・・といっても、ブロンドのおねえちゃんが脱ぐだけのセクシー映画というのではなく、男性目線で楽しめる恋愛映画というのでもなく、恋愛下手な男性に「どのように恋愛したら良いのか」をレクチャーするような映画であります。

いつまでも大人になりきれず男同士でつるんでばかりいる男性が、親友(バディ)たちとの友情から卒業して、女性を伴侶として選択して成熟した大人の男へと成長していくというのが王道のパターンであります。下品なエロ満載なのは、あくまでも男性客相手だから。「無ケーカクの命中男/ノックドアップ」「40歳の童貞男」「40男のバージンロード」や、グレッグ・モットーラ監督作品の「スーパーバッド 童貞ウォーズ」「アドベンチャーランドへようこそ」などが、この手のジャンルの作品としてあてはまるかもしれません。


「テッド/ted」は、ネタバレ気味に”ひと言”で言ってしまうば・・・主人公のジョン(マーク・ウォールバーグ)が、親友のテディベアのテッド(声/セス・マクファーレン)とのバディの関係を卒業して、4年間付き合ってきた恋人ロニー(ミラ・クニス)を人生の伴侶として選んで大人の男に成長するお話。日本では「世界一ダメなテディベア」というコピーで、テッドの可愛らしさを前面に押した宣伝をしていますが・・・うっかりデートで観に行ったりしたら、後悔してしまいそうなほど、実はかなりのブラックジョークと下品な下ネタ満載の一作であります。

いじめられっ子で友達のいなかったジョンが、クリスマスプレゼントに受け取ったテディベアのテッドが、永遠の友達になるように祈ったところ、魂が宿ってしまうというというファンタジーな設定であるのですが・・・27年後(ジョンが35歳)には、テディベアのテッドも同じように年を取って”おっさん”になっているのであります。このテディベアのテッドというキャラクターの立ち位置は「宇宙人ポール」のポールっぽい感じで・・・ボクの観た”アンレーテッド・バージョン”は、その過激さが一線を越えていて頭を抱えてしまいそうになることもしばしばでありました。見た目は”かわいらしいテディベア”でありながら、内面はどうしようもない”エロ親父”と化したテッドは、ある意味、反則的にチャーミングであります。


本作が、あくまでも「男性向け恋愛映画」なのは・・・ジョンの恋人のロニーにしても、スーパーマーケットのアルバイト先で知り合ったレジ係のテッドのガールフレンドのタミ・リン(ジェシカ・バース)にしても、男にとって都合のいい女としてしか描かれていないところであります。まぁ・・・スーパーマーケットの倉庫で下着を足首まで下ろして、テディベアとエッチしてしまうようなタミ・リンに、リアルな女性像を求めることが、所詮、無理なことなのかもしれませんが。また、マーク・ウォールバーグが、元”いじらめられっ子”で、いまだに「フラッシュゴードン」に夢中な”オタク”というのも、正直ハマっていない感じ・・・なにはともあれ、テッドの可愛らしさと下品さが、本作の魅力を担っている作品であることには間違いありません。

それにしても、なんで繰り返し繰り返し、男同士のバディから卒業して、人生の伴侶として女性を選ぶことで、一人前の男になる・・・というアメリカ映画って多いのでしょう?そこには、ウーマンリブの先進国でありながら、レディーファーストの習慣も生き残っている、アメリカ独特の、ある洗脳を感じてしまうのです。

ハイスクールの最後のイベントとなる「プロム」というダンスパーティーは、男子が女子を誘うのが通例でありまして、これは将来のために女性をどのようにエスコートするかを男子に習得させるためと言われております。プロポースは男性が女性の前で跪き、バレンタインズデーには男性から女性へプレゼントをして食事に招待するというのが、いまだに常識・・・どれほど女性が社会的、経済的、肉体的にも強い時代になったとしても、表面上(?)は男性に主導権を与えるような習慣を洗脳している文化なのです。

ただ、そのような洗脳の仕組みの中でも落ちこぼれてしまうのが、近年増えてきた「オタク」っぽい男の存在であります。趣味に没頭したり、男同士でつるんで遊ぶことにしか興味のない・・・大人になりきれていない男性に対して、人生の伴侶となる真のパートナーは男友達ではなくて女性であると、潜在意識に擦り込んでいるような気がしてならないのです・・・。

「テッド」
原題/ted
2012年/アメリカ
監督 : セス・マクファーレン
出演 : マーク・ウォールバーグ、ミラ・クニス、セス・マクファーレン(テッドの声)、ジョバンニ・リピシ、ジェシカ・パース、サム・J・ジョーンズ(本人)、ノラ・ジョーンズ(本人)
2013年1月18日より日本劇場公開



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2012/12/14

”男の子になりたい女の子”と”女の子になりたい男の子”・・・トランスセクシャル=性同一障害も男の子と女の子ではまったく違うのね~「トムボーイ/Tomboy」「ぼくのバラ色の人生/ma vie en Rose」~



”性同一障害”については、この「めのおかしブログ」で何度か取り上げてきました。「LGBT」というセクシャルマイノリティという分類において、レズビアン、ゲイ、バイセクシャルと共に並び語られるトランスセクシャルなのですが・・・ボクは違和感を感じてきました。

レズビアン、ゲイ、バイセクシャルというのは、自分の性別の認識は生まれ持った性別で性の対象が異性ではない(だけではない)ということなのですが、トランスセクシャルは自分の性別の認識が生まれ持った性別と違うという”個人”のはなし・・・性同一障害という医学的な「障害」とすることで、あっという間に社会的な理解を得たようなところがあります。日本では、いまだに”同性婚”の是非さえ論議されていませんが、”性同一障害”と認められ条件さえ揃えば、戸籍上の性別を変更することが可能になのですから。

トランスセクシャルという存在を分かりにくくしている原因のひとつが、ゲイやレズビアンもトランスセクシャルとい似たような行動をすること。ひと昔前までなら、ゲイというのは女性っぽい恰好、しぐさ、言葉遣いをするというステレオタイプが主流・・・今でも「おネエ」という男の姿をしながらも中身は女である方が、一般的には理解されやすいのかもしれません。まぁ、実際は男性らしさを求め性的にも男性を求めるゲイというの大半で、過剰に男らしさを求めると、髭、短髪、マッチョになるわけであります。

トランスセクシャル=性同一障害というと、世間的に話題になりがちなのが、男性として生まれながら性別は女性である人・・・逆の女性として生まれながら性別は男性という人は、あまり注目を浴びていないような気がします。その理由として・・・女性として生まれた性同一障害者が男性として生きている場合、違和感が少ないようないからだと、ボクは思うのです。

男性として生まれた性同一障害者が女性になった場合、どうしても男性の痕跡が残っていることが多くて・・・どんなに普通の女性以上にキレイであっても、何かしらの違和感を拭いきれなかったりします。それは声が低いとか、肉体的な特徴からというのではなく、過剰なほど女性らしさを演出してるからかもしれません。ナチュラルにすればするほど、隠したい男性らしさというのが伺えてしまうこともあるので、誰からも元男性でると気付かれない自然な女性となることは、かなり難しいと思います。

元女性が男性ホルモンの治療をすると、髭が生えてきたり、体つきがゴツゴツしてきて、見た目がほぼ男性になってしまことがあります。体格は華奢かもしれませんし、顔つきは優しかったりするかもしれません・・・それでも、男性として「パス」してしまうことが多い気がします。女顔の男性タレントを好むストレートの女性は多いし、レズビアン女性の中にも受け入れる人が多そう・・・全般的に女性からの嫌悪感はないのかもしれません。ストレート男性にとっては男性として権威となる存在でもなく・・・また、ゲイの男性に取っても性の対象にもなりにくいので、ある意味、無関心ということもあるのかもしれません。

またまた前置きが長くなってしまいましたが・・・フランス映画の「トムボーイ/Tomboy」は、10歳の少女の性のアイデンティティの葛藤を描いた作品・・・”トムボーイ”とは男の子っぽい女の子のことで、ひと昔前なら”おてんば娘”と呼ぶようなタイプの女の子のことであります。

ボーイッシュな女の子のロール(ゾエ・エラン)は、家族と夏休みにパリ郊外の団地に引っ越してくるのですが・・・近所で知り合った子供たちにミカエル(男の子の名前)と名乗り、外で遊ぶ時には男の子として振る舞うようになります。上半身裸になってサッカーをしたり、男の子たちと互角に遊び回って夏休みを満喫。おしっこしたくなっても男の子のように立ち小便は出来ず隠れて木々の中で用を足そうとしたり、粘土で作った股間の膨らみを海水パンツに忍ばせて泳ぎに行ったり、グループのちょっとおませな女の子リサと仲良くなってキスしちゃったり・・・それでも家では女の子に戻らなければなりません。ロールと真逆の超ガーリッシュな妹が、ごく自然に「お兄ちゃん」としてミカエルを受け入れているところは、興味深いところでした。

ここからネタバレを含みます。

夏闇も終わりに近づいた頃、グループの男の子ひとりと取っ組み合いのケンカをしてしまいます。男の子の母親が、ミカエルの家を訪ねたことで、母親は娘が男の子のふりをしていたことに知ることになります。普段からタンクトップに半ズボンという服しか着ない娘の本意を理解していなかったわけではないとは思うのですが、母親はあえてワンピースを着せて、男の子の家に謝りに行かせます。そして、淡い恋におちていたリサにもワンピース姿のまま真実を告白させるのです。永遠に男の子と偽り続けるのは不可能なこと・・・母親の行動は残酷にも思えますが、ロール自身が向き合わなければならない現実でもあるのです。最後には、近所の子供たちのグループに、実はミカエルは女の子であった噂が伝わります。服を脱がせて男か女か確認するというガキ大将を制したのはリサ・・・「あなたの名前は?」と訪ねるリサに、優しい微笑みをかえすロールのアップで映画は終わります。

セリーヌ・シアマ監督は、過剰な演出をすることなく自然な子供たちの姿を映していて、台詞や音楽も最低限に抑えられています。ロールが男の子のように振る舞っていたのは一時期のことで、思春期を迎えると女性的になっていくのでしょうか?ロールが将来的に、性同一障害者になるのか、レズビアンになるのか、それとも単に男っぽい女性となるのか、どうであれ彼女自身が受け入れていくしかないのです。子供でさえ当たり前のように区別する「性別」・・・「男」か「女」かハッキリさせたいのは、ある意味、人間の無意識なのかもしれません。初対面の人の人種、年齢、階級などが認識できなくても、性別だけは最低でも認識しているものだったりするのですから。


「トムボーイ」を観て思い出したのが、”女の子になりたい男の子”を描いた「ぼくのバラ色の人生」でした。この作品については「おかしのみみ」で書いたことがあるのですが・・・「トムボーイ」の自然体とは、真逆の世界感によって表現されているところが、大変興味深いところです。女の子が男の子になりたいときは自然のまま、男の子が女の子になりたいときは人工的で過剰な装飾・・・濃い化粧だったり、装飾のあるドレスだったり、現実離れした極彩色の妄想の世界だったりします。

7歳の男の子リドヴィック(ジョルジュ・デュ・フレネ)は、大勢のゲストの集まるホームパーティーに”おめかし”のつもりで、姉のドレスに母親のイヤリングをつけ、真っ赤な口紅で堂々と登場してしまうほど、無邪気。なんとかして”男の子”としての自覚を持たせようと、両親はカウンセリングに通わせたりもするのですが、このことに関してだけはリドヴィックは頑固・・・父親の上司の息子ジェロームに恋をしていて、将来、結婚することを夢見ていたりします。母親から「男同士は結婚できないのよ!」(近い未来には死語になりそうな理屈ですが)嗜められると「大きくなったら女の子になる」からと答えます。しかし、そんなリドヴィックに対して、両親は”男の子”であることを強要して、大事に伸ばしている長髪もバッサリ刈られてしまいます。そんな過酷な状況でも、極彩の人工的な”パム”の世界(テレビ番組のミューズ)を妄想して、リドヴィックはやり過ごしているのです。

「トムボーイ」と「ぼくのバラ色の人生」は、子供の”性同一障害”という似たテーマを扱っています。両親は、時には厳しすぎると思えるほど、生まれもった性別を強要していきます。しかし、それが不快に感じないのは、どちらも子供に対する両親の愛情も描かれているからかもしれません。世間一般的な「男らしさ」や「女らしさ」を求めるのではなく、ありがままの息子や娘を受け入れようとする両親の葛藤こそが、ボクの心を震わせて止まないのです。


「トムボーイ(原題)」
原題/Tomboy
2011年/フランス
監督 : セリーヌ・シアマ
出演 : ゾエ・エラン、マーロン・レヴァナ、マチュー・ドゥミ、ソフィー・カッターニ、ジャンヌ・ディソン
2011年6月26日「フランス映画祭2011」
2011年10月8日「第20回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」にて上映


「ぼくのバラ色の人生」
原題/ma vie en Rose
1997年/ベルギー、フランス、イギリス
監督 : アラン・ペルリネール
出演 : ジョルジュ・デュ・フレネ、ミシェール・ラロック、ジャン=フィリップ・エコフィ、ピーター・ベイリー
1998年11月7日より日本劇場公開



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2012/11/22

実在モデルを妄想した「女芸人ブーム」の考察・・・重箱の隅を突つくような”分析”と畳み掛けるような”皮肉”~「幸いは降る星のごとく」橋本治著~



「橋本治」という作家/評論家は、ボクにとって特別の存在であります。十代後半から二十代前半という”大人”としての成長期に多大なる影響を与えられました。大袈裟ではなく・・・ボクという人間の人格形成は、橋本治の著書によって構築されたといっても過言ではないほどなのです。

ボクが初めて購入した「橋本治」の本は、1977年に発表された「桃尻娘」ではなく、マンガ評論の「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」でありました。当時(1970年代末期)、唯一のまんが評論誌であった「だっくす」という雑誌(同人誌?)をボクは愛読していたのですが、橋本氏は最も人気の執筆者として同誌で活躍されていました。もしかしたら・・・橋本氏に会えるかと思って、西新宿にあった「だっくす」の編集室を何度か訪ねたこともあります。雑居ビルの一室にあった狭い編集室で、橋本氏と会うことは敵いませんでしたが・・・編集室のお兄さんとお姉さんから「花咲く」を読むことを奨められたのです。まだ、少女マンガを「評論」することさえなかった時代に、少女マンガを切り口に、少女という存在だけでなく人間についてのさまざまな考察をしていた”やさしい哲学書”といった本書は、すぐボクのバイブルとなりました。

女子高校生の一人称で語られる「桃尻娘」は日活ロマンポルノで映画化をされていたこともあって、十代の少年であったボクは手が出しにくかったのですが・・・1981年9月、ニューヨークの英語学校へ留学する時に、文庫になったばかりの「桃尻娘」を携えて渡米したのです。「桃尻娘」の中の台詞を覚えてしまうほど何度も何度も繰り返し読み、ボクは「桃尻娘」の主人公の玲奈になりきっていました。その頃、1ドル=250円という円安の時代・・・ニューヨークの日本の書店では1000円の本が10ドル(2500円)で売られていて、留学生にとって和書は大変高価なものでした。そんな環境であっても購入していたのが、橋本治氏の本でした。「花咲く」の少年マンガ版の「熱血シュークリーム(上)」(何故か下巻はいまだ発売されていない)、人生の指南書だった「シンデレラボーイ シンデレラガール」、映画批評というか形式を取りながら時代と”性”を分析していた「秘本世界生玉子」、さまざまなジャンルの雑文を集めた「よくない文章ドク本」・・・そして圧巻だったのが「すべての男はホモになれ!」というトンデモナイ人生教本であった「蓮と刀~どうして男は”男”をこわがるのか?~」です。この本を読む前にボクはとっくに”ホモ”でありましたが・・・自分の中でモヤモヤとしていた”何か”が、ハッキリと確信することができた気がします。

「桃尻娘」は1980年代に入ってからシリーズ化され「その後の仁義なき桃尻娘」「「帰って来た桃尻娘」「無花果少年と瓜売小僧」「無花果少年と桃尻娘」「雨の温州蜜柑姫」と1990年まで続き・・・推理小説を分析してパロディにしたような「ふしぎとぼくらはなにをしたらいよいのか殺人事件」、サイモンとガーファンクルのヒット曲をタイトルにした短編集「S&Gグレイテストヒッツ+1」など、新刊で出るたびにボクは購入して愛読していました。しかし、橋本氏の真面目で前衛的な小説は全部スルー・・・あくまでもボクにとって、橋本氏は純粋な小説家というよりも、人生の哲学者のような存在だったのです。

1990年代中頃ぐらいから橋本氏の本は購入するものの、それほど夢中になって読むほどでもなくなってきました。それは、すでにボク自身が30代になり、自分なりの人格が出来上がってきたことと、橋本氏の評論が以前にも増して”しつこく”説明過多がちになってきて、読むのがしんどくなってきたこともあるかもしれません。また、橋本氏が古典文学の現代訳に大きく力を注ぎ出したり、評論家としてますます権威的な存在になっていってしまって・・・徐々にボクは橋本氏の本を手に取らなくなってしまったのでした。

一時期、橋本氏はテレビ番組にも出演してお茶目な一面も見せていたようですし、「男の編み物 橋本治の手トリ足トリ」なぞという編み物の教本を出版して”手編み作家”として注目を浴びたりしていたようですが・・・ボクはそれらの活躍を実際に目にする機会もなく、橋本氏のことはいまだに書籍からしか知りません。それでも「橋本治」は、ボクという人間構築に最も影響を与えた人なのです。

さて、スゴ~く長い前置きになってしまっていましたが・・・「橋本治」の小説をボクが読むのは大変久しぶりだということです。「幸いは降る星のごとく」は小説という形式ですが、作者、読者、編集者という存在を意識した「女芸人ブーム」を分析、考察した研究発表と言えるような内容ではあります。これほど実在するモデルの精神的な内面について、勝手に(!)妄想して、キツイ皮肉に満ちた描写をするのは、あまりにもモデルに対して失礼な”禁じ手”のような気がしてしまうほどです。登場人物たちの設定は、若干事実とは異なるところがありますが・・・今活躍している女芸人の家庭環境や芸風を知っているのであれば、明らかに誰をモデルにしているかがハッキリと分かります。

「オアシズ」をモデルとした「モンスーンパレス」は、金坪真名子=光浦靖子と安井貴子=大久保佳代子そのもの。第4話で登場する阿蘭陀おかね(本名・斎藤美帆子)=椿鬼奴(本名・宮崎雅代)と、ともざわとみこ=いとうあさこも、家庭環境から現在の状況もほぼ本人とそっくりです。何も起こらない人生なのに勝手に自己完結してしまっている”金坪真名子”、自分がブスであることさえも認識していない勘違い女の”安井貴子”、芸もないのにキャラだけが面白がられて売れてしまった”阿蘭陀おかね”、ひがみキャラで世間に希望を与えて売れてしまった”ともざわとみこ”・・・小説というフィクションだと解釈しようとしても、実在モデルがあまりにも明らかなので、どうしても本人と重ね合わしてしまいます。

辛辣な分析をしているように、おそらく橋本氏は今の「女芸人ブーム」に対して不満を持っていらっしゃるようで・・・重箱の隅を突つくような”分析”と畳み掛けるような”皮肉”に満ちた本書は、「女芸人」および「普通の女」には読ませたくない「禁書」・・・橋本治は「パンドラの箱」を開けてしまったようです。



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2012/11/10

既婚のおじさんゲイが若い男に夢中になると”悲劇”なの!・・・イスラエルと南アフリカの同性愛映画~「Eyes Wide Open/アイズ・ワイド・オープン」「Beauty/ビューティー」~



円満な家庭生活を送りながら、実は男ともセックスしているという「既婚者ゲイ」というのは、世間で想像する以上にに存在していると思います。日本は、不倫に対しては比較的寛容だし、同性愛に対しての理解も年々広がりつつあります。しかし、既婚男性が「ゲイ」として自覚しつつ、他の男性(性転換した元男性とか、女性と見間違うほどの女装ではなく)とセックスするということは、まだまだ世間的に受け入れ難いことの”ひとつ”ではないかと思います。

2009年のイスラエル映画「Eyes Wide Open/アイズ・ワイド・オープン」は、戒律を守る超正統派のユダヤ教徒の「既婚者ゲイ」を描いた作品であります。超正統派ユダヤ教徒のコミュニティ内の「禁断の愛」を描いた物語なのですが、スキャンダラスな視点で描くというのではなく、説明過多の台詞や演出を抑えて、淡々と描いていきます。黒い背広と黒いズボンの上下、無地の白いシャツ、黒い山高帽、長く伸ばした髭にカールしたもみあげという独特な風貌・・・ユダヤ教の規律に厳しく従って生きているオーソドックス・ユダヤ人のコミュニティーに「ゲイ」という存在はありえないんじゃないか・・・と思ってしまいがちですが、どんな人種であっても、どんな宗教の信者であったとしても、同性愛者というのは存在するのです。

アーロン(ザマー・ストラウス)は、エルサレムで妻と4人の子供に恵まれた信心深い超正統派ユダヤ教徒・・・父の死後、ショックでしばらく閉めていた肉屋を、再び開店するところから映画は始まります。ユダヤ教に於いて、肉屋というのは宗教的な儀式である肉の処理をするという仕事を担っているので、コミュニティの中でも大事な役目を負った教徒と言えるのかもしれません。肉屋の求人の張り紙を張ったところ、イェシバ(ユダヤ教の神学校)の学生のエズリ(ラン・ダンカー)という若者が電話を借りたいと店に入ってきます。友人を訪ねてエルサレムに来たけれど、その友人と連絡が取れず、職なし宿なしになっているエズリに、アーロンは仕事を与えて、店の二階に住まわせることにします。ユダヤ教徒の年長者として、イェシバの学生にするべきことであります。こうして、エズリはアーロンの家庭やエルサレムのユダヤ教徒のコミュニティにも溶け込んでいくのですが・・・次第にアーロンとエズリはお互いを意識するようになっていくのです。

ここからネタバレを含みます。


ある日、町外れの水浴び場にやってきた二人は、裸でじゃれ合っているうちに、ある一線を越えてしまいます。今まで自分がゲイであることを押し殺して生きてきたアーロンは、たちまちエズリに夢中になってしまい・・・肉屋の閉店後、ふたりはセックスを繰り返すようになっていくのです。実は、エズリは前の彼氏を追ってエルサレムに来たのですが・・・宗教上の理由で捨てられて、彷徨っていたのです。そのうち、アーロンの妻は毎晩帰りの遅い夫に不信感を持ち始め・・・少しずつ広がっていくエズリの”悪い噂”。やがて告発文が街に貼られて、二人の関係がコミュニティ内に広がっていくと、ラビ(ユダヤ教の僧侶)からも責められ始めます。「私は死んでいた!でも、今、私は生きている!」と・・・エズリの存在によって生きている証を得られるのだと激白したアーロンには、宗教人として、家庭人として、すべてを失う道しか残されていません。エズリと初めて愛を確認した水浴び場で、彼はひとりで深く水の中に沈んでいき、そのまま二度と浮かび上がることがなく映画は終わります。

超正統派ユダヤ教のコミュニティのような生活と宗教が直結している環境では、ゲイとして生きることは不可能なことです。宗教的にも、社会的にも、家庭的にも、ゲイであることを許されないアーロンが、自死を選ぶという”悲劇”は、ある意味”古典的”ともいえる結末です。「既婚者ゲイ」の”悲劇”として昇華するアーロンの物語なのですが・・・妻や子供の視点からすれば、堪え難き仕打ちでしかありません。”悲劇”に強く心痛めながらも・・・ボクは複雑な気持ちになることも抑えられないのです。


2012年の南アフリカ映画「Beauty/ビューティー」は、より生々しい「既婚者ゲイ」の”悲劇”というか・・・不快さを描いた作品です。南アフリカという国の”今”というのはよく知りませんが、アパルトヘイト後も白人優位の社会が覆ったわけでもなく、欧州やアメリカなどの白人社会とも違う印象があります。とはいっても・・・宗教的、および、社会的に同性愛が迫害されているというわけではないようで、それなりのゲイカルチャーというのは存在しているようではあります。それでも、個人的に同性愛を抑圧するような背景はあるわけで・・・「既婚者ゲイ」という立場であれば、自己否定による”屈折”や”矛盾”を感じながら生きなければならないという”悲劇”はありえるのです。

南アフリカのブルームフォンテーンで暮らすフランソワーズ(ディオン・ロッツ)は、木材会社を経営する白人の40代半ばの中年男・・・妻と二人の娘に恵まれ、ひとりの娘を嫁にやったところです。ただ、夫婦間の会話は親戚や友人らの噂話や愚痴ばかり、明らかに欲求不満気味の妻に冷たく背を向けます。これは、日本の夫婦でもありがちな状況かもしれません。さらにフランソワーズは、人種差別主義者であることや、ホモフォビアを隠そうともしない嫌な奴でもあります。

実はフランソワーズは「既婚者ゲイ」・・・ホモフォビアな発言をするのも、ある種の自己防衛、自己否定なのかもしれません。結婚生活を送りながら、彼は時々人里離れた農家での秘密の集まりに参加しています。お互いに秘密を守れる「既婚者ゲイ」だけが参加出来る”乱交パーティー”に興じているのです。普通のおっさんたちが、ブヨブヨの体でエッチをしまくっているシーンは、正直おぞましく見えます。秘密で結ばれている仲間ですが、ハッキリ言って、ただ”ヤルだけ”の仲間・・・秘密厳守のルールや礼儀は守っても、真の人間関係なんて存在していないように思えます。

「既婚者ゲイ」のおじさん同士でのセックスで発散しているフフランソワーズですが・・・長年の友人の息子で、娘の幼馴染みでもある青年クリスチャン(チャーリー・キーガン)に、密かに惹かれています。パートタイムでモデルをするほどのハンサムで、弁護士になるために法学部へ通う学生のクリスチャンに、フランソワーズは将来的には自分の会社の弁護士になれば良いなどと、何かとかかわりを仕掛けていきます。次第にフランソワーズはクリスチャンに執着するようになり、ストーカーのように追いかけるようになっていくのです。

ケープコードの別荘に行ったクリスチャンの家族を追いかけ、フランソワーズは仕事の出張と口実で数日ケープコードへ旅行へ出かけます。どうにかしてクリスチャンに近づくチャンスをうかがっていたのですが・・・幼馴染みでもある彼の娘が現れて、二人で早々にビーチへ遊びに出かけてしまいます。抑えきれない嫉妬を感じたフランソワーズは、車が盗難されたという狂言を演じて、娘とクリスチャンを引き離そうとします。結果的に作戦は失敗し、フフランソワーズはゲイバーで飲んだくれます。ただ、これが功を博して、心配したクリスチャンが迎えにきて、滞在しているホテルまで送るということになります。

ここからネタバレを含みます。


この絶好のチャンスを逃すものかと・・・フランソワーズはホテルの部屋までクリスチャンを連れ込みます。急接近するフランソワーズをかわすクリスチャンに、遂にフランソワーズは火がついたように襲いかかります。いきなりの事態に恐怖でおびえるクリスチャンの顔を殴りまくり、フランソワーズはクリスチャンを犯します。しかし、あれほど執着していたクリスチャンだったのに、無理矢理やってしまえば、それまで・・・やり終わって呆然とするフランソワーズに、満足感も達成感も感じられません。

友人の息子、それも子供の時から知っている青年を襲う・・・というのは、あまりにも危険で衝動的な行動としか思えません。まず現実では、ありえません!本作では犯された後のクリスチャンがどうしたかをまったく描きません。もしも、クリスチャンによってレイプをバラされたら、フランソワーズがゲイであることが暴露されるだけでなく、犯罪者にもなってしまうはず・・・ただ、多くの性犯罪の被害者が、公表することで、さらに深く傷つくことを恐れて泣き寝入りするように、クリスチャンも口をつぐんだということなのでしょうか?映画は、もとの生活に戻ったフランソワーズが、螺旋状の駐車場の通路を延々と下っていくところで終わります。まるで彼の人生が、どこへにも辿り着かないかのように・・・。

クリスチャンにとっては、トラウマになるような恐ろしい経験をしたわけですが・・・フランソワーズは、相変わらず「既婚者ゲイ」として二重生活を送り続けます。妻も要求不満を抱えたまま、何も知らずに冷えた夫婦生活を、これからも送っていくのでしょう。フランソワーズはホモフォビアのまま・・・「既婚者ゲイ」や「非ゲイ」の男と、セックスを繰り返すに違いありません。ゲイであることを認めている「真性ゲイ」という存在は、フランソワーズにとって脅威であり、恐怖なのかもしれません。これほどの自己矛盾を抱えながら生きることは・・・”悲劇”以外のなにものではありません。

日本では、急激に”オネェ”や”性同一障害”の理解が広がっています。オネェタレントに代表されるような、ステレオタイプの”オネェキャラ”というのは、異端のバケモノ、もしくは、道化師として、おもしろおかしく受け入れられているだけのこと・・・ご意見番という”立ち位置”を与えられるのは、あくまでも本筋から外れている”部外者”であるからです。また、性同一障害についてテレビ番組などで、肯定的、かつ感動物語として取り上げているのは、医学的な判断に基づいて”障害”だからこそ・・・男性として生まれてきたけれど心は”女性”という「障害」を持った可哀想な人というわけです。ボク個人的には”障害”としていることに違和感を感じますが、戸籍変更など法律的な対応を考慮すると・・・個人の選択というのでは、難しかったのかもしれません。

もしも、自分の夫が「ゲイ」という場合、それは”オネェキャラ”でもなく、医学的な”障害”でもなく、単なる性的な”嗜好”ということになります。それの”嗜好”を理解して乗り越えるというのは、お涙頂戴の感動にはなりにくいでしょう。”BL”に萌える主婦って結構いるらしいけど・・・自分の夫が男とやっていたとしても「OK」なのでしょうか?女性との浮気は勘ぐったとしても、まさか自分の旦那が男とエッチしているなんて、想像すらしない奥さんというのが殆どだと思います。実は夫は「既婚者ゲイ」というのは、まだまだアンタッチャブルな領域のような気がするのです。

50代以上の世代だと、ゲイであることを十分に自覚しつつ・・・世間体や会社での立場などを考えて、仕方なく結婚したという”ゲイ”が、かなり存在します。若い世代になるほど。自分がゲイであると知りながら「無理してまで結婚したくない!」という生き方を選択する人が増えています。これって、近年の男性未婚者数の上昇の要因のひとつかもしれません。

既婚者でゲイに、ボク自身も何人も遭遇したことがありますが・・・物心ついた時から自分がゲイであるという自覚はあったけれど結婚したという人もいれば、若い時にはストレートと思い込んでいた(思い込もうとしていた?)けれど40歳過ぎてからゲイ体験をして目覚めしまったという人もいたりします。結婚しているぐらいだから、男とのセックスでも”タチ”なんでしょう・・・というわけではなく、どうしようもないほどの”ウケ”の「既婚者ゲイ」もいたりします。今では夫婦間でのエッチはないという「既婚者ゲイ」が殆どではあるようですが、中にはエッチを強要する奥さまもいるようで・・・夫がゲイであることを否定するための最後の砦としての性行為なのかもしれません。

「既婚者ゲイ」には、ゲイであることに多少は”後ろめたさ”を感じているタイプもいれば、完全に開き直ったとしか思えないタイプもいます。”後ろめたさ”を感じるタイプは、秘密厳守のために相手も「既婚者ゲイ」であることを求める傾向があります。ただ、最近は出会い系サイトやアプリが非常に豊富なので「既婚者ゲイ」にとっても出会いは楽になったようです。失った時間を取り返すかのように、普通のゲイ以上にセックスしまくる強者の「既婚者ゲイ」というのも結構います。所詮は不倫相手なので、男とはパートナーになる意志はまったくなく・・・「セフレ」としては、普通のゲイよりも割り切れっているかもしれません。開き直ったタイプには「子供なんて全然愛してないし、家族なんてどうなっても良いんだ」という、人としての資質を疑ってしまうトンデモナイ輩もいたりします。

「既婚者ゲイ」は、そうでない人からは、到底、理解できない矛盾を抱えながら生きていかなければならないわけで・・・自分自身だけでなく、妻や子供などの家族、またセックスの相手となる男に対しても、ある意味”悲劇”を連鎖させている存在ではあると思うのであります。


「アイズ・ワイド・オープン」
原題/Eyes Wide Open
2009年/イスラエル
監督 : ハイム・タバクマン
出演 : ザマー・ストラウス、ラン・ダンカー
日本未公開


「ビューティー」
原題/Beauty(Skoonheid)
2012年/南アフリカ
監督 : オリバー・ハーマナス
脚本 : ディディラー・コステス、オリバー・ハーマナス
出演 : ディオン・ロッツ、チャーリー・キーガン
日本未公開



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