最近、ドラマだけではなくバラエティ番組や宣伝のイベントにも”ひっぱりダコ”になっているように「子役」・・・現場の空気を読んで、自分の言葉で切り返す能力までもが求められているようで、大人が期待する子供らしい”かわいさ”を演じている「こども大人」ようで、キモち悪く感じることがあります。歌舞伎では子役の台詞は、わざと一本調子の”棒読み”・・・鼻っから一人前の演者としては扱わないという割り切りがあったりします。ただ、時に監督の指導や、絶妙なキャスティングによって、素人の子役がとんでもない”名演”をして、映画祭の演技賞を総なめ・・・なんてことがあったりします。ただ、その後成長してからも演技者として成功を続けることは稀ではありますが。
オーディション当時、若干5歳(撮影時は6歳?)だったクゥヴェンジャネ・ウォリスちゃんが、演技の経験がまったくないのも関わらず、主役のハッシュパピー役で奇跡の名演をみせる「ハッシュパピー バスタブ島の少女」は、一般的なジャンル分けに戸惑ってしまう不思議な作品であります。
ハッシュパピーの父親のウィンクを演じるドワイト・ヘンリーさんも、本作を制作したプロダクションの近所でパン屋さんをしている素人だし、その他のキャストの殆どが素人・・・その上、アメリカ映画としては超低予算(約1億5千万円)で16ミリカメラで撮影されたということもあって、まるでドキュメンタリー映画のような生々しい手触りを感じさせます。と同時に・・・寓話のようなファンタジーとさまざまな社会の問題のリアリティが入り交じります。ハッシュパピーの視点とモノローグで語られる本作は、どこまでが現実で、どこから想像なのかも曖昧・・・「ツリー・オブ・ライフ」にも似ているところもあり、観客を選ぶ作品かもしれません。
少女ハッシュパピーは父親のウィンクと、”バスタブ”と呼ばれるルイジアナ州あたりにあるらしい三角州のような湿地帯に住んでいます。家畜を飼っているようですが、それで生活が成り立っているとは思えません。多くは描かれませんが、ハッシュパピーの母親である女性は、随分と前に家を出ていってストリッパーになってしまったようで・・・母親の着ていたランニングトップを、ハッシュパピーは母親がわりのように大切にしています。
「ここって本当にアメリカ?」「いつの時代の設定?」と思ってしまうほどの過酷な生活環境に、まず驚かされます。かろうじて雨を防ぐ程度の小屋はゴミだらけ、同じ服を着たっきりでまるでホームレスのよう・・・周辺の住民たち(黒人だけでなく白人のいる)も似たような生活をしているのだけど、その生活に不満を持っているような感じでもありません。自然破壊や地球温暖化などの環境問題に憤りを感じていて、ある種の政治的な意志をもってバスタブでの生活を選んでいるようにも思えます。
実は父親のウィンクは重い病気で、先はそれほど長くないようなのですが、ちゃんと治療する意志はないようで・・・入院していた病院を勝手に飛び出して、ハッシュパピーの元へ戻って来てしまいます。もしかすると、治療費とかを払えないからかもしれません。自分が病気で苦しんでいる様子や、徐々に死に近づいている自分の姿を、ハッシュパピーには見せないようにしようとするウィンク・・・年齢的にハッシュパピーが「死」を理解しているかわかりませんが、宇宙の中のひとつひとつ、ひとつの命が調和して共存しているということは、彼女なりに実感しているようです。
ある日、大きな嵐がやってきます。それでも、ウィンクはバスタブから離れることはせずに、小屋にとどまろうとします。嵐のあと、バスタブ周辺の一帯は完全に水没してしまいます。ドラム缶ボートで彷徨っていたハッシュパピーとウィンクは、同じように非難せずに留まっていた他の住民達と合流します。嵐のおかげで蟹とかザリガニとか大量に獲れて、まるで収穫祭のようなお祭り騒ぎとなります。食物連鎖の中で、自然と共存する人間も”動物”のひとつであることを証明するかのように、蟹を手で割って中身を食らうシーンが印象的です。
しかし、そんなお祭り騒ぎは長くは続きませんでした。一帯が水没したことによって、ますます衛生状態が悪化してしまい、食用のためにボートに乗せていた家畜たちが続々と死んでいってしまったのです。バスタブ一帯の水はけをしようと、ウィンクと仲間たちは、堤防を手作り爆弾(魚に火薬を詰め込んだ!)爆破させます。それで、すぐに水は引いたものの、バスタブは元のようにはなりません。徐々に病気で弱っていくウィンク・・・ハッシュパピーも、父親が死が近づいていることを察し始めます。
ここからネタバレを含みます。
ハッシュパピーを含め住民達は、衛生環境の悪化を問題視した政府当局により、近代的な病院施設に強制的に避難させられることになります。白い壁ばかりの病院で、ハッシュパピーは新しいドレスを着させられ、ウィンクは手術を施されます。ある意味、このような救助の手を差し伸べられて良かったと思えるのですが・・・ウィンクは病院ではなくバスタブで死ぬことを選びます。もう娘の面倒をみることはできないと、ハッシュパピーだけをバスに乗せようとするのですが・・・ハッシュパピーはウィンクの思惑を察し、離れようとしません。結局、ハッシュパピーはウィンクや他の住民らと共に、バスタブに戻ってきます。
バスタブの子供たちが海で泳いでいると、遠く沖から離れてしまいます。そこで、通りかかった船に乗って、海に浮かぶ売春宿のような施設に向かうことになります。もしかすると、ストリッパーになったという母親は、こんな場所にいるのかもしれません。そこは、まるで竜宮城かのように光に満ちた夢のような空間に子供達の目には映ります。売春婦と子供達は、抱き合って踊り、しばし夢のような時間を過ごします。
再び、ハッシュパピーがバスタブへ戻ってくると、ウィンクは死を待つだけのベットに伏してします。そこに「オーロックス」という百獣の王であったという伝説の動物が現れます。その巨大な動物に、まったく怯えることもなく、正面に立ちはだかるハッシュパピーに「オーロックス」もひれ伏します。ハッシュパピーは、バスタブの王として選ばれた者なのでしょうか?亡くなったウィンクをドラム缶ボートで弔ったハッシュパピーは、バスタブの住民達と共に力強く行進をしながら、高らかに訴えるのです!
再び、ハッシュパピーがバスタブへ戻ってくると、ウィンクは死を待つだけのベットに伏してします。そこに「オーロックス」という百獣の王であったという伝説の動物が現れます。その巨大な動物に、まったく怯えることもなく、正面に立ちはだかるハッシュパピーに「オーロックス」もひれ伏します。ハッシュパピーは、バスタブの王として選ばれた者なのでしょうか?亡くなったウィンクをドラム缶ボートで弔ったハッシュパピーは、バスタブの住民達と共に力強く行進をしながら、高らかに訴えるのです!
私はとっても大きな宇宙の中で小さなピース
私が死んだら未来の科学者はすべてを見つける
ハッシュパピーがバスタブでダディと暮らしていたことを!
当たり前のことと言ってしまえば、そうなのですが・・・ハッシュパピーという少女に「与えられた命なんだから、生きている限り、生きなければいけない」と、ボクは改めて教えられたのです。自殺願望があるわけというわけではありませんが・・・自分の子供がいるわけでもないボクが「1人で長生きする意味って何だろう?」って考えてしまうことがあったりします。年老いて「生きる」ということに消極的になってしまいそうな時、必ずこの映画を観ようと思ってしまったのです。
少女が大自然の中で自分を見つけ成長するというテーマから、宮崎駿監督の影響を受けていると評されることが多い本作・・・確かに「オーロックス」という巨大なイノシシのような動物(もののけ姫)、水没してしまう村(崖の上のポニョ)、幻想的な水に浮かぶ売春宿のような施設(千と千尋の神隠し)など、モチーフとして非常に似ているところがあります。日本人として・・・宮崎駿監督の共通点を指摘したい気持ちも分かりますが、実写とアニメという違いだけでなく、作品の雰囲気は、かなり違うものだったりします。また本作は、共同脚本のルーシー・アリバーによる一幕の舞台劇「ジューシー・アンド・デリシャス/Juicy and Delicious」をベースにしていて、重要なモチーフは舞台劇から引き継いでいます。
舞台となる場所、登場人物の人種、設定されている時代を超えた普遍的な寓話としてだけでなく、最近リアルに感じさせられる自然破壊の危機さえも織り込んでいる、真の”オリジナリティー”を感じさせる一作であると、ボクは思うのです。
舞台となる場所、登場人物の人種、設定されている時代を超えた普遍的な寓話としてだけでなく、最近リアルに感じさせられる自然破壊の危機さえも織り込んでいる、真の”オリジナリティー”を感じさせる一作であると、ボクは思うのです。
「ハッシュパピー バスタブ島の少女」
原題/Beasts of the Southern Wild
2012年/アメリカ
監督 : ベン・ザイトリン
脚本 : ルーシー・アリバー、ベン・ザイトリン
出演 : クゥヴェンジャネ・ウォリス、ドワイト・ヘンリー
2013年4月より日本劇場公開
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