2009/11/13

少年時代の友情は打算的で、犬は心の内を見破っている~「犬はいつも足元にいて」/大森兄弟著~



「犬」タイトル小説好きの僕としては思わず手に取らずにいられなかった「犬はいつも足元にいて」は、大森兄弟というふたりの実兄弟による共作というのが話題にもなっています。
テレビの取材の様子を観たかぎり、30代の兄弟にしては(気持ち悪いほど?)仲が良くて、愛し合っている草食系な兄弟でした。
家庭的にもとても幸せに育ったという話をしていましたが、彼らのデビュー作は僕を冷ややかな気持ちにさせました。

主人公の中1の少年の両親は離婚していて、離婚したこと自体も母親から説明がないほど崩壊している家庭環境にあります。
学校には”サダ”という友人はいるのですが、その繋がりは給食時間に一人になりたくないという理由でしかありません。
お互いをひとりきりにしないために学校を休むことはありませんが、支え合う友情ではなく、お互いを束縛しているだけです。
少年期の友情には、どこか打算的な理由があったのかもしれない・・・という苦いような記憶が頭に浮かびました。

サダが朝の犬の散歩にまで現れるようになって、それを疎ましく感じる少年の気持ちを読み取ったように、犬がサダの足に噛みつく事件が起こります。
自分の飼い犬が怪我をさせたという負い目を煽って、友情で優位に立とうと計るサダの、自傷行為は少年期の屈折なのかもしれません。
また、サダの脅迫を利用して別れて暮らす父親から大金をくすねたり、母親を意図的に傷つける言葉を発したりする、少年の悪意にも歯止めが効かなくなっていきます。
しかし、最後にはサダとの打算の友情しか、主人公の居場所はなかったのかもしれません。

主人公の少年が犬の散歩で立ち寄る公園の穴から出てくる腐った肉片が、繰り返し象徴的に出現するのですが・・・それは、犬の臭覚でしか嗅ぎ分けられない人の心の内なのでしょうか?
”犬はいつも足元にいて”本質を見破っているようです。



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2009/11/11

「感性のリトマス試験紙」は、いつの間にか手元から減っていました


「はやり」「すたり」というモノは、どっぷりと”その世界”に浸っているよりも、多少は距離をおいた方が、冷静に判断出来るのではないかと思っていました。
しかし、ことファッションに関しては、その世界に日々身を置いていないと、「はやり」を見失ってしまったり、「はやり」自体に興味がなくなってしまったりするようです。
「はやり」の情報を集めるとか、「はやり」を買い物をするだけではなく・・・「はやり」「すたり」に身を委ねて、善し悪しに関わらず変化に一喜一憂することでしか「感性のリトマス紙」の手札を更新し続けることが出来ないような気がします。

むかしむかしは、海外から来る情報を、いち早く「知る」ことが「感性のリトマス試験紙」を持っていることででした。
それは、服のシルエットだったり、あるブランドだったり、人気デザイナーだったり、情報そのものが「感性のリトマス試験紙」という時代でした。
その手札の数も多くはなく、「はやり」自体も広く世の中を巻き込むような流れで、猫も杓子も”ミニスカート””パンタロン”という分かり易かったのです。
ただ”肩パッド”の「はやり」以降、世の中を制覇するほどの「はやり」は、出現していないのかもしれません。
ファッションの市場が成熟してくると”人それぞれ”の好みを尊重する傾向が高まってきました。
マーケット自体が分類分けされ、各パイの大きさも随分と小さくなってしまったように思います。そうして「感性のリトマス試験紙」の種類もジャンルも増えてきました。

日本の場合には「雑誌」でジャンル分けできるところもあるので、見ない雑誌の「感性のリトマス試験紙」には、ピーンと来なかったりします。海外ではデザイナーやセレクトショップでのジャンル分けが、主流かもしれません。
いずれにしても、それぞれのジャンルに「感性のリトマス試験紙」の手札が必要になるわけで、すべての手札を揃えていることなんて無理な話です。
嗜好がさらに細分化されえていくことや、価格帯が両極化するということは、僕がファッション大学に通っていた1980年代頃から予測されていました。
ただ、実際にそういう時代になった時に、自分の「感性のリトマス試験紙」の手札が、すっかり減ってしまっていたとは思ってもみませんでした。

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2009/11/09

不条理な「悪」は「悪」によって救われる~「掏摸(スリ)」/中村文則著~



犯罪者の心理には人一倍興味があるのですが、犯罪の現場を目にした経験は一度しかありません。
クッキー屋さんでアルバイトをしていた時、一緒に働いていた聾唖の女性が売り上げを小さな金庫から札束を盗んでいる様子を目撃したことがありました。
自分自身が盗みを働いているわけではないのに、口が渇いて、心臓がバクバクしてきて、足が震えたことを覚えています。

中村文則氏の「掏摸(スリ)」は、丹念に書かれた主人公の犯罪者心理に、不快感さえ感じる小説でした。
主人公には「スリ」としてのルールがあって、どうターゲットを決めて、どうアプローチするのか、どの指をどう使って盗むのか、盗んだ後どうするのか・・・という細かなディテールは、まるで「スリの教本」のようです。

犯罪者としては勿論のこと、人間的には好きになれない性格の主人公ではあるのですが、不幸な環境の”子供”(名前はない)を救おうとする姿勢が、唯一人間らしさを感じさる「救い」になっています。
この”子供”は、売春を生活の糧にしている母親からは万引きを強要され、客になる男たちからは暴力を受けているというトンデモナイ不幸な状況なのです。
しかし、お涙頂戴の子供らしい健気さを感じさせないほど、この”子供”は淡々と生きています。
主人公がどうしてそこまで、この”子供”を救おうとするのかは分かりません。上手に万引き(盗み)が出来ないならば「盗みはやめておけ」という”先輩犯罪者”としてのアドバイスもあったりします。
本能的にスリとして生きるしかない自分自身を潜在的には否定しているのかもしれません。

スリ仲間と強盗の手伝いをしたことをきっかけに、”悪の化身”のような男から、主人公は命がけの3つの仕事を依頼されます。
失敗すれば自分の、逃げれば”子供”の、命が奪われると脅迫されて、不可能と思われた仕事をやり遂げます。
しかし、不条理にも主人公は制裁を受けてしまうのです。そして、最後の最後に彼は「スリの本能」によって救われるのです。

この世には、どうしようもない悪があって、どうしようもない人生があって、僕の知っている正義なんて意味をなさない・・・「悪」は「悪」なりの理屈で救われるのかもしれません。



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2009/11/07

男おひとりさまなんて、こわくない・・・と言いたいけれど〜「男おひとりさま道」/上野千鶴子著〜



「おひとりさま」というと・・・視線を気にせずに自分ひとりの時間を楽しめる「女性」を指しますが、ひとりでいる男性を「おひとりさま」とは一般的には呼ばないようです。
それは、男は比較的ひとりで行動することが多いと思われているし(高級レストランに一人で行かないけど)、ひとりで行動している男性に対して世間が「寂しそう」と特に悲壮感を感じないからかもしれません。
しかし「男おひとりさま」というのは、人生においてはかなり多い存在のような気がします。

「おひとりさまの老後」を書いた著者が「男おひとりさま道」という本で「男おひとりさま」の老後問題にスポットライトを当ています。
随分と古い男性像をイメージをして書かれているという印象はありましたが、「男おひとりさま」という存在を社会問題として認識することは必要だと感じさせられました。
近い将来「5人にひとり」の男性が40代以上で未婚という時代が来るようだし、年上の女性と結婚する男性が増えれば死別によって夫の方が長生きすることも増えるでしょう。
離婚率が上がれば養育権を持つことの少ない男性が家族を失うことが多くなり、これからは「男おひとりさま」が急増すると予想されます。

「男おひとりさま」を老後を考えた場合、「おひとりさま」よりも悲壮感が漂っているのは、毎日の身の回りのことも自分でしなければならなくてお気の毒・・・という前世代的な理由だけではなく「おひとりさま」と同様に、経済不況による「雇用不安」「派遣切り」「年金未払い」などの経済問題や、親の介護問題があるということです。
また「ひきこもり」「家庭内暴力」「登校拒否」などの精神的な問題を生みだした40代のオタク世代が老後を迎えた時に、どのような老人社会を構築していくのか想像がつきません。
果たして、訪問介護や社会保障などの対策によって救れるのでしょうか?

「男おひとりさま」の抱える将来の不安と、最近話題になっている35歳の結婚詐欺女の連続殺人疑惑事件とは、無関係には思えません。
「男おひとりさま」なんて、こわくない・・・と言いたいけれど、僕自身も何十年後かに訪れる”漠然とした闇”を感じずにはいられないのです。



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2009/11/06

贅沢を求める欲望の行方~ラグジュアリー:ファッションの欲望~



ファッッションが、歴史的にラグジュアリー/贅沢の欲望を満たす道具のひとつであることは間違いないでしょう。
東京都現代美術館で開催されている「ラグジェアリー:ファッションの欲望」展は、17世紀からの宮廷貴族のドレスから現代までの贅沢と解釈される衣服の展示によって、価値観の変わりつつある「贅沢とは何か?」を問いただしているような気がします。

19世紀までのファッションの贅沢さは、手仕事の量や素材の希少性などが明らかで、非常に分かりやすい贅沢さです。
膨大な手仕事による刺繍、レースが施されているドレスは「デコレーション/装飾」=「ラグジュアリー/贅沢」であった価値観をハッキリと感じさせます。
しかし、20世紀に入ると「感性」という要素も加わって、一見するとシンプルなドレスが贅沢であるというレトリックが生まれました。
その後は、流行を創り出していくことや、希少=高価な素材での差別化を生むことで、デザイナーファッションは「贅沢」な存在として存在し続けてきました。

マルタン・マルジェラのアーティザナルラインは、見た目はアバンギャルドですが、本質的には前時代的でもあります。
手仕事に費やされる時間と素材の希少性(金額的に高価でないけど)というのは、ヨーロッパの宮廷時代の贅沢そのもの・・・それぞれの衣服に制作に何時間かかかったのかを表示しているのは、まだ我々が手仕事に対して持ち続けている価値感への皮肉でしょうか?

コム・デ・ギャルソンの感性を「贅沢」と位置づけるのは、価値観の多様性と言えるでしょう。
過去に西洋のデザイナーたちも、それぞれの時代に新たな感性で差異を「贅沢」として表現してきました。
西洋的なファッション観を覆すことで、ある世代、あるグループの人々には絶大な支持と影響力を持っているコム・デ・ギャルソンの20年に渡るコレクションを改めて見てみると、ファッションという枠の中で「感性」による差異を巧みに表現していた事を感じさせられました。

個人の「感性」によって贅沢の判断が委ねられているということは、絶対的な基準が希薄な時代ということかもしれません。
”経済力”や”感性”を主張する「ファッション」というのは、前時代的な贅沢さの象徴に成り下がって欲望を満たす役目を失いつつあります。
手仕事の量でも、金額の高さでも、素材の希少性でも、流行りのスタイルでもない・・・さらなる贅沢を求める欲望は、ファッションから離れて「肉体美」と「精神性」に向かっているような気がします。

肉体の上にあるに過ぎない衣服ではなく、肉体そのものを美しく改造することに費やす時間と経済力があることが、今日では贅沢なのかもしれません。
スポーツジムで健康で美しい体型になる、整形手術で目鼻や身体を変える、アンチエイジングで若さを保持する、・・・まさに「私、脱いでも凄いんです!」の肉体美こそが、外見重視の欲望の先にあるようです。
環境問題などに関わることは、心の豊かさや世の中の貢献度だけでなく「エコロジカルで素敵な私」という自己満足を与えてくれます。
近年のスピリチュアルや宗教への傾倒のムードは、現世利益志向の自己確認の欲望を満足させているのに過ぎないのかもしれません。

結局、人間の欲望というものの行方は、自己中心的で浅はかなものでしかないのでしょうか・・・。

ラグジュアリー:ファッションの欲望
東京都現代美術館 企画展示室1F,B2F、企画展示室アトリウム
2010年1月17日年まで



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2009/11/04

「クラウド化」のことを考えると頭がモヤモヤ(クラウド化)してきます


新しい技術の変化についていけない・・・なんて感じることは、自分も年を取ったと実感する瞬間です。
パソコンやインターネットは生活の必須な道具となっていますし、それなりに使いこなせているつもりでいます。
「デジタル化」は難なく理解して受け入れていますが、「クラウド化」については馴染めていないところが、まだいろいろとあるのです。

ネットワーク上に存在するデータやサービスを利用する「クラウド・コンピューティング」は、最も身近なクラウド化の流れでしょう。
検索、メール、フォトアルバム、ドキュメントなど無料で使えるサービスなので、僕自身も殆どのサービスを利用しています。
しかし、メインで使用するメールアドレスはネットの接続会社からのもので、接続会社のサーバーからメールをダウンロードして自分のパソコンに保存しています。
データは自分のパソコン内に保存する方が安心感があるのは、「過去」のデジタル感覚から、まだ逃れられていない証拠なのかもしれません。
また、人を点と点の1対1で繋ぐ”出会い系”には、真っ先に飛びついた僕でしたが・・・ソーシャルネットワーキングサービスには消極的になってしまうところがあります。
1対複数、またはコミュニティー内の複数同士のネットを介して”つるむ”人間関係に不自然さを感じてしまうのです。

利便性や平等性は理解しながらも「クラウド・ソーシング」については、常識を覆すような不安感を感じてしまうこともあります。
今までは専門的な知識や技術を持った者にしか参入出来なかった業界でも、ハードウェア/ソフトウェアの発達とブロイードバンドの普及で、プロフェッショナルの裾野が広がりました。
写真、映像、音楽というのは、まさにデジタル化によってハードルが低くなった分野かもしれません。
グラフィックデザインだって、もしかするとアパレルのデザインだって、将来的にはソーシングする時代が当たり前になるのかもしれません。
誰にでも開かれたクリエイティブな業界というのが素晴らしいと思う反面、多数決(ポリュラリティー)が尺度になることで、本質のレベルの低下する不安も感じます。
例えば、音楽の世界ではプロの作詞家や作曲家ではなくアーティストが楽曲をつくるのが普通の時代ですが、本物の歌い手や、年月が経っても心に残る詩や旋律が少なくなったような気がしてしまいます。
プロフェッショナルがプロの仕事ができる環境というのも残していく仕組みも大切なことのように思うのです。

「KIVA」のようなマイクロ・クレジットの資金や、映画や音楽の制作費の調達の手法として「クラウド・ファイナンス」はクラウド化の動きの中でも画期的なことだと思います。
今までの社会の仕組みの中では融資を受けることの出来なかったビジネスやコミュニティーをサポートする有効な仕組みなだけに、詐欺師などに悪用されないことを祈るしかありません。
お金を出す側にとってデジタル化された金銭は、単なる数字のデータのやり取りにしか見えなかったりしますが、受け取る側には現実のお金であることには変らないわけで・・・バーチャルマネーというのは、まだ僕自身の中では正体の分からない存在です。

こうして「クラウド化」のことを考え始めると、頭の中がモヤモヤしてきます・・・。

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2009/11/01

「ファイン・アート」と「デコラティブ・アート」の間で遊ぶ様式美と機能性~Claude & Francois-Xavier Lalanne~



今年(2009年)の秋、野外パブリックアート展「ニューヨーク・シティ・パークス・パブリックアートプログラム」の一環として、ニューヨークのパークアベニューの中央分離帯の芝生の上に、12頭の羊の彫刻が展示されました。
ニューヨークの高層ビルの間の車が行き交う目抜き通りに、草原を連想させるような光景が現れたのです。

クロード&フランソワ・グザビエ・ララン(Claude & Francois-Xavier Lalanne)夫妻の制作する庭園彫刻やインテリアオブジェは、機能性や使用目的を考えれば、デコラティブ・アートの範疇に属するのだと思います。
しかし、一点モノの調度品を創る職人という存在が殆どいなくなってしまった現代では、職人的な完成度と独特の作風を持つオブジェは、ファイン・アートとしてとらえた方が素直なのかもしれません。
リアルなディテールとディフォルメされたフォルムの動物や植物は、絵本から抜け出したようなユーモラスな子供っぽさと、マグリットやダリのようなシュールな大人っぽさが共存しているような印象です。
形の面白さだけではなく、ゴリラの暖炉、亀のプランター、鰐の椅子、ロバの物入れ、カバの洗面器、猿のテーブル、サイのキャビネットなど、意外性のある実用的な機能においてもアーティストの遊び心が発揮されています。

ショーウィンドウや舞台セットのデザイナーなどとしても活動していたフランソワ(夫)とクロード(妻)による共同制作によるジョイントキャリアは、1950年代後半から、去年(2008年)の冬、夫のフランソワ・グザビエ・ララン氏が81歳で亡くなるまで、約50年にも及びます。
クロードのアールヌーボー様式とシュールレアリズムを融合した小さなブロンズのオブジェと、フランソワのユーモラスな実物大の動物の庭園彫刻や調度品によって、詩的な世界観を持つデコラティヴ・アートや”インテリア・オブジェ”として、1960年代から1970年代には特別な存在を確立していきました。
彼らのパトロンでもあったイブ・サンローランのシフォンドレスの為に、リアルなボディなども制作しています。
また、食器、アクセサリー、テーブルウェアや、テーブルや椅子などの実用品のデザイナーとしても多くの商品も発表し、建築物やラントスケープなどにも活躍の場を広げました。

ララン夫妻のインテリア作品は、ここ数年の再評価もあって、ギャラリーやオークションで価格が高騰しているそうです。
トム・フォードやキャサリン・マランドリーノなどのファッションデザイナーや、ハリウッドセレブもコレクターとして名前が噂されています。
西洋的な装飾で嗜好性が高く、海外のギャラリーだけで作品を発表されていたこともあって、日本では殆ど知られていません。
それはそれで残念なことではあるのですが、おしゃれなクリエーター/ディレクターに編集されて再現/複製された商品が出回るようになるよりも、「本物」しか存在しないことにこそ真の意味があるように思えるのです。



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2009/10/30

テーマは「ホラーな白衣の天使!」・・・約20年前のハロウィンでの女装



ハロウィンというイベントは、今ではスーパーマーケットにハロウィンのお菓子コーナーがあったり、東急ハンズとかでは仮装用のコスチュームが販売されていたりしますが、僕が子供の頃には日本では殆ど知られていませんでした。
今どきの日本の子供にとっては、単に仮装して集まってお菓子を貰えるイベントなのでしょう・・・家の近所の英語スクールでは、仮装した子供達を公園に集めていますが、家々を歩いてまわって「Trick or Treat?/お菓子をくれないとイタズラするぞ!」とやっている様子はありません。
あくまでも、内輪のパーティー感覚のイベントのようです。

長年、僕はアメリカで生活していましたが、ハロウィンの仮装したのはニューヨークに住んでいた約20数年前に、たった一度しか経験がありません。
ドラッグクィーンの美容師の友人がいてメイクとヘアセットを頼めたことと、知り合いのミュージシャンから撮影用のかつらを借りることができたので、友人とテーマを決めて仮装しようということになったのです。
衣装や靴にはお金をかけられなかったので、ディスカウントストアで安く買うことの出来た、看護婦用の白衣、ナースハット、ナースシューズを購入して「白衣の天使」に扮することに決めました。
僕は赤ん坊の人形と浣腸器も買って、ホラーな演出も加えることにしたのです。

ハロウィン当日、仲間全員の準備が終わったのは夜の9時過ぎ・・・グリニッジビレッジで行われていたパレードは、すでに終わっていました。
そこで、ハロウィンの夜、ニューヨークで一番盛り上がるクリストファーストリート(当時、一番のゲイエリア)に繰り出すことにしたのです。
7番街のストリートの入り口に到着してみると、あちらこちらに女装をしたグループが、カメラのフラッシュを浴びたり、観客達を盛り上げていました。
僕は負けるものか(?)と、道の真ん中に飛び出して赤ん坊の人形と浣腸器を振り回してみると・・・「浣腸して~!」と、たくさんの人が集まってきたのです。
浣腸マニアの看護婦になりきって数百メートルのストリートを歩いたことで、一生分のハロウィンの楽しさを味わったようなひと晩でした。

10月31日というのは、元々、カトリックの聖人を祝う日とケルト民族の大晦日だったそうなのですが、アメリカへ移住した移民によってハロウィンの習慣となったそうです。
この時期には、日本のお盆のように死者や魔物がこの世に戻ってくると考えられているので、魂を取られないように魔物に似た「化け物」の仮装するようになったらしいのです。

ハロウィンに「女装」というのは・・・考えようによっては、ちょっと皮肉な行為なのかもしれません。

註:二枚の画像は看護婦の女装をした20数年前の「僕」です・・・あしからず。

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2009/10/28

なんにもない楽しかった過去から現在へのフラッシュバック~「横道世之介」/吉田修一著~



1980年代の日本というのは、僕から抜け落ちている時代です。
1981年9月15日にニューヨークの留学へ発ってから、その後10年の間に里帰りしたのは僅かに3回でした。だから、DCブランドブームも、バブル経済も、この目で目撃した記憶がないのです。
ただ、そのかわり渡米直前の1980年前後というのは、僕にとって特に記憶に残っている懐かしい時代でもあります。

吉田修一著の「横道世之介」は、そんな80年代初頭の東京を舞台にした物語です。
好色一代男と同じ名前を持つこの主人公ですが、破天荒でも、モテモテでもなく、地方から上京してきた大学生という設定で、これといった大事件が起こるというのでもありません。
彼の取り巻く同級生やアパートの住人に起こる出来事に巻き込まれたりしながら、ちょっとだけ成長していきます。
80年代を描きながら、おしゃれ感を感じさせないところは、当時の普通の学生はトレンディーな「80’s」でなく、ちょっとだけ70年代を引きずったようなダサい日常を生きていたことを思い出させました。

誘われるままにサンバサークルに入ってしまったり、同級生の男友達と女友達に子供がデキちゃって退学して結婚したり、ちょっと怪しい仕事をしている年上の女性に恋したり、天然のお嬢様に好かれてアタックされたり、都内のホテルでルームサービスのアルバイトしたり、間違って届けられたバレンタインのチョコレートが縁でカメラと出会ったり・・・大学入学の4月から翌年の3月までの一年の(ある意味)たわいもない物語が淡々と語られます。
しかし、全体からすると一割にも満たないものの、効果的に数回挿入される、現在へのフラッシュバックが、この小説のキモのような気がします。

世之介に関わった登場人物らの40代となった現在の日常が語られるのですが、20数年間に起こった出来事については一切説明がなく、それぞれの人生がどうであったのかは想像するしかありません。
ただ、世之介と登場人物らの接点は、その後はそれほどなかったことは推測出来ます。
それは、時間の流れを重く感じさせると同時に、過去の日常を懐かしく感じさせています。
物語の最も劇的な出来事は現在に起こるのですが・・・思い返すことも少なくなっていたからこそ、その切なさに強く胸を締めつけられるものなのかもしれません。

この本を読み終って、今では行方も分からなくなってしまっていたり、記憶の片隅になってしまっていた、昔の友達のことを思い出してみたくなりました。
古い写真がつまったダンボール箱をクローゼットの奥から取り出して、久し振りに懐かしい顔を見つけました。



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2009/10/25

めのおかしブログへの「コメント」ができるようになりました


ありがたいことに、めのおかしブログ/ホームページを見てくれる人がいて、いろんなことを思ったり感じたりしてくれます。
僕と関係ないところで、ブログに書いた内容が誰かと誰かの「話題のきっかけ」になれば・・・というのが、秘かな希望だったりします。

ブログ炎上!を恐れて、コメントを残せない仕組みにはしているわけではありませんが、コメントを残して頂けるなどとは考えもしなかったので、一方通行のブログにしていました。
ブログを通じてコミュニティーを形成しているわけではありませんし、僕の知る限りこのブログを見てくれるのは”リアルの友人/知人”なので「コメントをどうぞ」のひったくれもないわけでもあります。

短いコメントという”ブログ風”でなく、偉そう(?)にも”エッセイ風”にダラダラと文章を書いているわけですが・・・自分で読み返してみると、あまりのミスの多さにうんざりするときがあります。
誤字、脱字、おかしな言い回しを発見するたびに、何度も修整を繰り返しやっています。
しかし、自分では気付かずにしている文法や語法は数知れず・・・「帰国子女なんで~」という言い訳にはハッキリ言って”老けすぎ”ました。
こんな文章でも読んでもらえる方が存在することに感謝しております。

何らかの形でフィードバックを公開するというも、ブログという仕組みの良さであるのではないか・・・と最近思い始めました。
そこで10月24日付けの投稿から「コメント」を書き込むことができる設定に変更しました。

コメントは「きょうのおやつ」などが表示される「めのおかしホームページ」から行えます。
各投稿の一番下「投稿者:おかしライター」の横の「*件のコメント」というリンクをクリックすると、コメントの投稿のフォームが現れます。画像として表示される文字を必ず入力して下さい。
そうしないとコメント自体が送信されません。
Googleアカウントなどのハンドル名、または自主申告の名前やURL、そして匿名で投稿が出来ます。
コメントの公開には管理者(僕)の承認が必要となる仕組みになっていますので、書き込みから表示されるまで時間を要することがありますが、基本的に頂いたコメントはすべて公開していくつもりです。
コメントを残してくれる奇特な方いらっしゃいましたら・・・よろしくお願いします。

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2009/10/24

「第二幕」開幕直前!のりピー暴露本読み比べ~碧いうさぎの涙、孤独なうさぎ、隠された素顔~



清純派アイドルの時代も、テレビドラマで女優の時代も、多くのCM出演したママドルの時代も・・・酒井法子の人気絶頂期に日本に住んでいなかった僕は、特に関心を持つこともなく”のりピー”という存在だけは認識している程度でした。
ところが8月の逮捕以来、ワイドショーで報道を散々みせられたおかげで、随分とのりピーのことを知ることになりました。
来週(2009年10月26日)公判が始まる「第二幕」開幕(?)を控えて、三冊ののりピー本をブックオフで買い求めて復習してみました。

まず「酒井法子のタブー 碧いうさぎの涙」憲旺利之著は、基本的にすでにワイドショーで取り上げられた情報を、時間軸に添って書きつづったという感じで、ワイドショーを観てきた人には新鮮な情報も、著者の視点もありませんでした。
ただ、出生から今までののりピーの人生の流れをおさらいするには、一番分かり易い本かもしれません。

次の「酒井法子 孤独なうさぎ」渡邊裕二著は、のりピー担当24年の芸能記者が思い入れを持って書いているので、三冊のなかでは一番ノリピーに同情し擁護している発言が多い本です。
デビュー当時から取材してきた著者だから語れる・・・のりピーの実像(?)や、いかにして清純派アイドルとして作り上げていったかなど、興味深い裏話もちりばめられています。
のりピーの芸能界復帰を願うファン心理を代弁しています。

最後の「酒井法子 隠された素顔」梨元勝著は、著者自身のネット配信「梨元・芸能!裏チャンネル」からの流用記事ばかりですが、芸能レポーターらしく芸能界の裏話を織り交ぜて、憶測も加えてのりピーの化けの皮を剥がそうとしています。
”芸能人のりピー”に否定的で、芸能界復帰を阻止してやるという気迫を感じさせる本でした。
情報の正確さはあやふやなものの、暴露本としてはツボを押えていました。

今までの報道や記事、三冊ののりピー本を読んで感じるのは、酒井法子の人生というのは昼メロドラマのように波乱に満ちているということです。
極道の娘として生まれ、実母に捨てられ二度違う継母に引き取られた子供時代。
サンミュージックに二番手でスカウトされ、飛び降り自殺した元・岡田有希子のマネージャーによって最後の清純派アイドルとして売り出されて成功。
脚本家野島伸司との恋愛、その別れから1年後の高相祐一とのできちゃった婚。
復縁を迫る野島との板挟みでマネージャーが自殺してしまうことで、彼女の心の闇や深みを理解する人がいなくなってしまったのかもしれません。
過去の闇を抱え逃れるように、虚構の清純派を演じ続けて生きてきた人生・・・だからといって、覚せい剤を使っていいというわけではありませんが。

個人的には、のりピーが執行猶予と謹慎期間のあと、40代になって清純派やママドルを完全に払拭して、極道の女役とかで芸能界復帰したら面白いのに・・・なんて想像をしています。
極道の出生から這い上がって純白の清純アイドルになりきったのりピーだからこそ、再び犯罪者の汚名のどん底から這い上がる姿をみたいのです。



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2009/10/22

3D映画は未来の映画表現になるのか?~「ファイナル・デッドサーキット3D」~



サイレントからトーキー、モノクロからカラー、カラーからシネラマなどの大画面、そして次の映画の進化といわれる「3D映画」・・・来年には3Dの表示可能な家庭用の薄型テレビが発売されるということなので、立体画面というのは「未来の夢」ではなく「現実の技術」と言えるでしょう。
これから年末にかけて次々と3D映画が劇場公開されますが、その第一弾として公開された「ファイナル・デッドサーキット3D」を観てきました。

3Dという特殊な映像のため、日本での公開されるのは観客が台詞の字幕を読まなくて済む「日本語吹き替え版」だけでの上映です。
それは仕方ないことなのかもしれませんが、吹き替え声優のココリコ田中、里田まい、はるな愛(男役)が、あまりにも下手なので、元々ティーン向けの内容のないホラー映画がコントみたいになっていました。
ただ、映画の内容に期待していたわけではなく、あくまでも3D映像を実際に観ることが目的だったので、この程度の”なんちゃって感”は想定内ではありました。

さて、純粋に3D映画としての印象ですが・・・1970年代に一時期流行った”赤セロファン”と”青いセロファン”を付けたメガネを付けてみる「立体映画」からは進化しているものの、相変わらず観賞には特殊なメガネを必要とします。
3D映像の広告では、画面から飛び出してくる様子や、手で触れるほどの臨場感を強調していますが、実際には画面の長方形の枠の内側の物体がポップアップ絵本のように奥行き感を感じさせるという程度です。
確かに、視覚的なショックを売り物にしたホラー映画と3D映画というのは相性は悪くはなくのですが・・・立体的に見せることを意識し過ぎたイカニモ的な演出(体に刺さった杭がこちらに飛び出してくるなど)ばかりになってしまうところは、やはり子供だましでした。

今後、3Dを映像表現として効果的につかった成熟した映画が登場するのかもしれませんが、テクノロジーの進化が表現を豊かにするわけではないことは、すべての分野に共通していることだと再確認しました。
例え、3D映画が劇場用映画の主流になったとしても、サイレント映画のモンタージュや構図の魅力は失われないし、モノクロ画面の美しさは未来の人達をも感動させるはずなのだから。



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2009/10/21

The Winner Takes It All(勝者がすべて得る)という時代


最近、ふと「The Winner Takes It All/勝者がすべて得る」という言葉が頭に浮かぶことがあります。
日本には、滅んでいく敗者や、高校野球で負けそうな学校のほうを応援するような美学が過去にはありましたが、今は「勝ち組」「負け組」という分け方をして、敗者の美学などは通用しないようになってきたような気がします。

インターネットやメディアの細分化で、少数派をターゲットにしたビジネスも成り立つようになったり、マニアックな趣味を共有するコミュ二ティーが生まれたり、画期的に「ひと」と「ひと」が繋がっていける仕組みが出来るようになったのは、素晴らしいことです。
しかし、逆に雪だるま式に支持を広げて圧倒的な一人勝ちを生んでしまう「多数決のちから」というのも同時に生んでしまったのではないでしょうか?

例えば、ネットショッピングでは、そのサイトでのベストセラー商品が優先的に表示されるシステムがあります。
売れる商品が、さらに売れる仕組みになっているというのは、買い手には人気のある商品の情報を得られた上に安く購入出来るし、売り手にとっても効率的な販売方法です。
確実に売れる商品を集中的に生産したり、仕入れたり出来ます。大量に流通を扱うことで、販売価格を下げて競争力が生まれます。そうやって、ユニクロ、ヤマダ電機、マクドナルドなどの企業は、ますます売り上げを伸ばしています。
アフェリエイトという、売れる商品を紹介するハイエナ的(?)ビジネスも生まれました。

「勝者」に取り込まれることは、誰も損をしない「勝ち組」への仕組みのように思えてしまいますが、沈んでいく船から逃げるねずみのように・・・勝ち組に津波のように流れるというのは、自分自身で選択をするという能力を失わさせることになっていることもあると思うのです。
「郵政民営化!」「政権交代!」という単純な宣伝文句で国がひっくり返るのっていうのも、ベストセラー商品に無意識に手が伸びてしまうのと似たような心理なのでしょか?

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2009/10/20

感情移入を突き放すハードボイルドな天の声~「ベルカ、吠えないのか?」/古川日出男著~



実用書、エッセイ、ノンフィクションなどと違って、フィクション(文芸系)の本というのは、好きな作家以外、読みたいと思わせる何かきっかけがないと、本を買ってまで読もうと思いません。
雑誌などのブックレビューだったり、アマゾンのおすすめ商品だったり、友人から奨められたりして選ぶことになるわけですが、事前に内容をよく読むわけではありません。
また、本屋で見かけて、帯などに書かれた宣伝文句に魅かれてということもありますが、パラパラと何ページかは試し読み出来たとしても、やはり内容を熟知してから購入するわけではありません。
知らない作家の本を選ぶという行為は、ちょっとしたギャンブル要素があるわけです。

半年ほど前に友人から「自分は読まないから」という理由で、古川日出男の最新作「聖家族」という分厚い本(2段組で700ページ以上)をもらいました。
とりあえず読んではみたのですが、なかなか内容が頭に入ってきません。
それでも頑張って100ページぐらいまで読み進めてはみたのですが、結局、挫折をしてしまいました。
その後「聖家族」や、古川日出男という作家のことをネットなどで調べてみると、一部の読者からは絶賛されているマニアックなファンを持つ作家さんで、画期的な作品を次々と発表しているということを知りました。
確かに今まで読んだこのないタイプの文学ということだけは「聖家族」からも感じてはいたので「リベンジ」として、もう少し読みやすそうな「ベルカ、吠えないのか?」に手を伸ばしてみたのでした。

「ベルカ、吠えないのか?」は、軍用犬の血統によって綴られるアメリカロシアの冷戦時代、朝鮮戦争からベトナム戦争、共産主義の崩壊までの現代史を語るという一種の歴史小説なのですが、物語の主人公というのは存在せず「犬よ・・・」と呼びかける”天の声”が語りべとなって時代を進んでいくのです。
犬たちは血筋を繋げて代々名前を与えられていくのですが、その犬たちに関わる人の名前は語られることはありません。
そこには歴史的な出来事や当時の世界情勢を語る上での、人という存在がいるだけです。

読み手を突き放すような短い文章が続くので、うどんのようにツルツルと入るのではなくて、ショートパスタのようなパラパラした感じとでも言うのでしょうか・・・感情移入を拒むようなハードボイルドっぽい語り口で、具体的な情景を浮かべるチャンスさえ与えられることなく、唐突とも思える話の展開が続くのです。
歴史的な事実を背景にした人間の物語と、その人間に関わる犬の血統の物語が、まるで「散文詩の」ように流れていくので、その流れに身を任せるしかなかったのでした。

言葉の表現やテンポを愉しむまでは出来ませんでしたが、読み終ってみると壮大な歴史を駆け抜けた達成感を感じさせる不思議な小説ではありました。



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2009/10/19

おばさん式の会話術のススメ


お互いが自分の話したいこと”だけ”話をして、会話が成り立っている、おばさんの会話(おじさんも、おばあさんも、おじいさんも、奥さんも、旦那さんもするけど・・・ここでは”おばさん”とさせてもらいます)は、第三者から観察すると可笑しく思ってしまうのです。
しかし、ずっと平行線で交わることのなさそうな会話こそ、無駄なコンフリクトを回避している”便利な会話術”ではないかと思うことがあります。

若い頃には、友達同士だったら頭ごなしに相手を否定したり、相手に不快な思いをさせるような言い方を、まったく遠慮せずにしていました。
それは、世代的な要素もありますが、時代性も大いにあるように思えます。
今の時代の若者が友達同士で言いたい放題しているようには見えません。昭和の時代よりも今の方が、お互いの感情を気遣うことが流儀のようなのです。
近年は、批判的だったり、否定的な感情を避ける風潮が、ますます強くなってきた印象があります。
それを上手に出来ないと「空気を読めない」と批判されることさえもあるのです。

40代を過ぎて社会的な立場や生き方が安定してくると、個性や人格というのは本人が思う以上に頑なになっていたります。
それは「その人らしさ」であり、思い返せば片鱗はしっかりと若い頃から存在していた「その人の1番の特徴」だったりします。
ただ、お互いに歳を取って人格が固定化してくると、コンフリクトが起きた時に話し合うことでお互いが歩み寄るのではなく、よりお互いの違いだけを認識する結果になることも起こります。
これは喧嘩とは違うけど、それぞれの「根本的な違い」に光の下に曝してさせてしまって、妙に淋しい気分にさせたりします。
お互いが共感し合うことばかりを求めてばかりいると、その期待を裏切られて微妙な距離感を感じてしまうこともあるかもしれません。

仲良しの確認でも、自分との共感でも、結論を求める会話でもない・・・言いたいことをお互いに主張し合っているような「おばさんの会話」というのは、お互いに期待しすぎないという意味では悪いことではないのかもしれないと思えてきます。
相手に言いたいことを言わせて、自分の言いたいことも言うというのは、ある意味、高度なコミュニケーションテクニックなのかもしれません。
気兼ねすることなく言いたいことを言える相手というのは、家族のように貴重なの存在です。
そんなことを考えると、おばさん式の会話術も、それはそれで良いものなのかも・・・と、思えるこの頃なのです。

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2009/10/18

「クラフト」と「アート」の境界線をちょっと考えさせられた~糸キノコ展/kont~



先月(2009年9月)自由学園の明日館で行われた「ストッキスト」という展示会で初めて知った「kont」というブランドが、神楽坂の「La Ronde d' Argile」というショップ/ギャラリーで「糸キノコ展」という展示会を開催していたので行ってきました。

「knot/ノット」の作品というのは細い糸で編まれた華奢なアクセサリー(ブローチ、ネックレス、イヤリングなど)で、その目の細かさとそれを制作する労力に驚ろかされます。
一体、編み始めの「いち目め」はどうなっているのだろうか・・・と、想像するだけで老眼の目は”ぐしゅぐしゅ”してきてしまいます。
生成りと黒の糸に限定してナチュラル感を醸し出して「今っぽさ」を感じさせ、デザインを「キノコ」というモチーフにしたところで、メッセージ性と造形の面白さを感じさせられました。

手作りの一点ものとして販売されている手のかかった作品がやっぱり圧巻でした。
ただ、ブローチで4~5万円というところがアクセサリー感覚で衝動買いするには(時間が経つと劣化してしまいそうな素材で作られていることを考慮すると)微妙な価格という印象を持ちました。
勿論、手仕事の量を考慮したら金額には納得ですが・・・。ブローチの裏側に真鍮製の針金で作ったピン部分が付いていることで「これはアクセサリーです!」という主張をしているものの「これはアート作品です!」と言い切ることもできてしまいそうな「クラフト」と「アート」を曖昧に感じさせるところがあります。
アクセサリーとしてではなくアート作品と考えると、逆に安いと思えたりするのは不思議なものです。

殆どはアクセサリーとして台に置かれていたり、吊るされているのですが、いくつか編み物のキノコをガラス製の薬品を入れるような瓶に入れたている展示の仕方もしていたのですが、こんな風に壁いっぱいにキノコ入りの薬品の瓶がズラーっと並べらべて、アーティストとしての表現するメッセージがあれば「アート作品」としても成立してしまう気さえしてしまいました。
素材が金糸やプラチナ糸などだったりしたら、ジェエリーとしてのクラフトを極めた作品にもなるような気もします。
フェルト化したロープのような極太の毛糸で巨大なキノコをまったく同じ編み方で編んだら、草間彌生もビックリするような迫力のアート作品になってしまいそうです。

「糸キノコ展」というのはアクセサリーの展示会でしたが、見方によってはアートの展覧会のようでもありました。
クラフトっぽいアート作品があり、アートっぽいクラフト商品がある・・・その境界線というのは、作り手の意図や発表の仕方、そして芸術としての流通に乗せるか、商品として流通に乗せるかの、違いぐらいなのかもしれません。

knot #4 exhibition
「糸キノコ」
神楽坂/La Ronde d' Argile
2009年10月10日~10月15日

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2009/10/16

初冠番組「マツコの部屋」でも本領発揮できないないマツコ・デラックス



ここ数年でテレビでの存在感を増しつつある「巨漢女装コメンテーター」マツコ・デラックスは、結局のところ関東ローカルTOKYO MXの「5時に夢中!」だけでしか、本領を発揮していないというのが現状であります。
それでも、オリコン調査の「好きなコメンテーター」では、ピーコを抑えて堂々とベスト4にランクインするという快挙を成し遂げています。
そして・・・満を持して(!)10月の番組編成の番組入れ替えで、フジテレビの深夜番組にて遂に冠番組を持つまで至りました。

マツコ・デラックスは、だいたい「ご意見番」として”えばりくさって怒っている”ということが殆どなのでありますが、これは古典的なオネェ(ゲイバーのママなど)のお家芸でもあると思います。
最近のゲイバーのママのノリは極フツーっぽい感じであるようですが、古いスタイルのママの中には「虚栄心と負けん気の強いご意見番」という芸風が売りだったりする方がいらっしゃいます。
ゲイバーママの厳しい言葉に快感を感じてしまう・・・というMっぽいオコゲには、いまだに人気があるのかもしれません。
口の悪いママには美しいな方がたくさんいらっしゃいますが、中には外見的な不自由さを逆手にとったようなママも存在したりします。
マツコのようなママを「デブ!」「ブス!」と罵ったとしても「そうだけど、どうした!そんなことしか言えないのか!」と言い返されるのがオチでしょう。
攻撃や批判は脂肪で吸収して、仏頂面の上目線で斬りまくり、何かの教祖さまのようなオーラさえも感じさせてしまう・・・マツコ・デラックスは何を目指しているのでしょうか?

気になるマツコ・デラックスの初冠番組「マツコの部屋」の内容ですが・・・「低予算プログラム」とタイトルに銘打って、ダジャレのVTRに対してマツコにコメントさせるという15分の深夜番組です。
「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラがレット・バトラーと踊った「喪服」のようなドレスにマツコは身を包んでいるのですが、僕にはロシアのお土産でもらったシチューを冷やさないために鍋の上にのっけておく人形のようにしか見えませんでした。
今回もマツコはずっと怒り続けています。
ただ、マツコが毒を吐く相手がスタジオの舞台そでにいるADで、怒っている内容がいかに安っぽいVTRなのかということなので、何が面白いのかまったく分かりません。
視聴者がマツコ・デラックスに求めるのは、芸能界に存在する目に見えないヒエラルキーを乗り越えて「”裏”ご意見番」としての”毒舌家”というポジションではないでしょうか?
その役目というのは、ゲイバーなどの限られた世界では容易いことだけど、テレビの世界では難儀なことではあるようです・・・ゴールデン番組で、姑息にMCにヨイショするマツコにはガッカリさせられます。
だからこそ無責任に応援だけは続けたい・・・「まついたかひろ君(マツコ・デラックスの本名?)頑張れ!」

マツコの部屋
フジテレビ/木曜日深夜25:45~26:00

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