新年早々、なんとも暗い話になってしまうのだけど、新しい年を迎えたからこそ改めて考えてしまうのが「老いと死」の問題・・・去年12月26日の朝刊から連載が始められた朝日新聞のコラム「孤族の国」は、ボクに新たな深い衝撃を与えているであります。
現在連載中の「第一部/男たち」で取材されている男性と、ボク自身の置かれている状況とは違いますが・・・見方次第では、紙一重のようにも思えます。
ボクが立っている足元に忍び寄っている「深い闇」を覗いているような気持ちにさせられるのです。
「孤族」というのは「個を求めて、孤に向き合う」って生きる人々のこと・・・まさに、ボクの人生は「個」を求めて生きてきて「孤」に向き合うしかないような気がします。
強がるわけではないけど・・・人を頼ることもぜす、頼らせることもせず。
諦めたわけではないけど・・・人に寄りかからず、寄りかからせず。
冷たいわけではないけど・・・人に甘えず、甘えさせることもせず。
迷惑は他人に掛けることはしない、だから迷惑も掛けられるのはゴメン・・・そんな、糸が途切れたような人間関係というのは、日本社会では普通のことなのかもしれません。
幼いころから常に自分の「個性」を貫くことを、親からも求められていたボクには、一般的な「敷かれた線路を歩む」という人生の選択という発想はありませんでした。
ふと気付いてみれば、社会という原野に、ひとりで立ち続けるしかないような気持ちにさえなることがあります・・・それは、社会的な組織に属する限りつきまとう”責任”や”しがらみ”を放棄した者に課せられた「罰」なのかもしれません。
飯島愛、大原麗子らの最期によって、より世間に認識された「孤独死」・・・ひとり暮らしであれば、誰しもに起こりえる現実であります。
確かに、家族のような同居人がいれば、亡くなる前に発見されて命を取り留めていたかもしれません。
「死」は一瞬の出来事ではなく、長時間ひとりだけで苦しんだかもしれないのです。
誰かの出入りがあれば・・・何日も遺体が放置されることもなかったでしょう。
「孤独死=悲惨な死」という風に考えがちですが・・・行き倒れの身元不明人としての最期、または寝たきりアパートを呼ばれる死ぬ場所として入居する形ばかりの介護施設で亡くなることを考えると、自分の住み慣れた自宅で亡くなることに「安堵感」をボクは感じてしまうのです。
たとえ不治の病になっても、病院で生命維持装置によって生きながらえているよりも、自宅で死にたい・・・ということかもしれません。
勿論、家族や子供という存在があるのであれば、一日でも長く生きることを周りの人は望むので、自宅で孤独死なんていう選択肢もない場合もあると思います。
逆に「自宅で孤独死」というのは、ボク自身には理想の死に方と思えることもあるのです。
NHKで放送された「無縁社会」という番組には「無縁死」という、また別な現実を見せつけられました。
例え血縁関係のある家族がいても、引き取りを拒否したり、連絡がつかなければ「無縁死」になってしまうわけですが・・・ボクの場合、兄弟はいない、親戚(従姉など)とは数十年音信不通で、母親以外の血縁者というのが存在しません。
また、ボクが将来的に結婚することはあり得ませんし、自分が死ぬ時というのは必然的に「無縁死」にしかならないことに気付かされたのです。
現在の社会のシステムでは、死んでからだけでなく、病院に入院するにしても・・・同意を必要とする手術をするにしても・・・「血縁者がいない」ということは何かと不便ではあります。
ボクのように「無縁者」は、友人や知人(または行政?)などに、万が一の場合には依存するしかないわけですが・・・現在の友人/知人の関係が「その時がきた時」に、どれほど本当に頼れる存在になり得るのかは、計りかねるところもあります。
社会的なネットワークや利害関係というのが全くない”素”の存在になった時、お互いに、好き、気が合う、という以上に、血縁者と同じような責任を負い合えるというのは、正直難しいのことなのかもしれません。
「個」として生きていける間は何も問題のように思えませんが・・・ある時「個」が「孤」になる時が、確実にくることを覚悟する必要があるんだと身にしみて感じます。
いずれ訪れる自分の「老いや死」についてを考えると、単に自然に任せてボーっと生きているのではなく・・・老いるためにも、死ぬためにも、それなりの準備も必要であると思えてきます。
そんな時、須原一秀氏の「自死という生き方」という本を知りました。
最初に出版されたのは4、5年前なのですが、2年前に新書版も出ています。
不幸なことも問題もなかったにも関わらず、自然死を拒否して65歳で「自死」された哲学者が「自死」について論じた「遺言書」のような本です。
ボクは10代頃、自殺未遂(いずれも睡眠薬で)を2度経験していることもあり・・・「自殺は絶対的に間違っている」という気にはなれないし、常に自らの命を絶つことは選択肢のひとつであると思ってきました。
どういう理由にしろ、自ら死を選択するほど悩み苦しむということは、当事者以外には理解出来ません。
ただ、(ボクの10代の時の未遂のように)本気で死ぬ気がないにも関わらず、成功して死んでしまうケースだってあるわけで・・・安易に自殺的な行動を肯定すべきではないとも思います。
「自死という生き方」では「自殺」「自決」「自死」というのを分けて語っています。
まず「自殺」というのは、何から逃避するために自らの命を絶つことで、金銭問題や人間関係などで追い詰められているという状況から逃げるための行為だということです。
「自決」となると、ある共同体による、何らかの声明のために死をもって訴えるという政治的な行動ということになります。
筆者が選択した「自死」というのは、いわゆる「自然死」を拒否する人生を締めくくり方としての、自ら死ぬ時を選択するという積極的な行動であるということです。
この本の著者が行なったのは、あくまでも「自死」で「自殺」ではありませんでした。
著者が訴えるのは・・・一般的に言われる「老衰死」=「穏やかな死に方」というのは、それを望んだところで誰もが与えられる死に方ではないということです。
全身体機能が同時に衰えてろうそくの火が消えるように亡くなるという「穏やかな死」を迎えることができる可能性は、医学的にも・・・かなり低いのであります。
一般的に「病死」の場合、ある程度の苦痛を(場合によっては、長時間)経験しなければ、死には辿り着けないようで・・・それは肉体的だけではなく、精神的にも、非常に苦しいことであるはずなのです。
元通りのように元気になるという可能性も希望のないまま、命を絶やさないためだけに生き続けなければならないことが、どれほど辛いことになるのか・・・ボクには想像することしかできません。
出来る限り生き続けていて欲しいと願う家族(血縁者)がいるということは、人は死ぬまで生き続けなければならない拷問を経験するかもしれないのです。
また、死を待つような状態の時には、すでに「自死」を選ぶことさえ出来きません。
「安楽死」という選択だって医療機関的には不法な行為となってしまうのですから、本人が死を望んでも、そう易々と死なせてはもらえないのが現実でしょう。
また、人は事故や災害によって、予想だにせずに死んでしまうことだってあります。
圧死や爆死して一瞬で死ねれば楽(?)かもしれませんが・・・下手をすると、数時間、いや、数日間、生き続けた結果、救助されずに餓死で命を落とすことだってあり得るのです。
そう考えると「命ある限り生き続ける」というのは、とても素晴らしいことに思える反面・・・ご褒美としての「穏やかな死」を迎えることは、非常に稀なことなのかもしれないと納得するしかないのであります。
それでは、人はいつ「自死」すべきなのか?・・・ということです。
本書ではソクラテス、三島由紀夫、伊丹十三の三人を例にしていますが・・・正直言って、これらの人たちの「自死」の基準に、ボク自身が達することは難しいように思えます。
「自死」というのは、何かから逃避することでもなく、何らかの政治的な訴えでもなく、人生にある程度の満足を感じるからこそ出来る選択であるわけですから・・・ボクのように何か極めていない人間には、なかなかハードルが高いようです。
だからこそ、本書は「自死という”生き方”」というタイトルだったわけですね・・・。
確かに「自死」という究極の死の選択を奨めながら・・・結局のところ「いかに生きるか?」という”生”にこそ、意味があるということを、この本は訴えていたのでありました。
人間が健康で人生を楽しめる限界というのはいずれ訪れるはず・・・「自死」という選択肢を選べるような生き方をしたいと、ボクは強く感じたのです。
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