湊かなえの「告白」が面白かったという話をしたところ、友人Aに「だったら、桐野夏生も好きかも・・・特に”グロテスク”とか」と、奨められたことがありました。
去年、老眼鏡をつくるまで”読書家”というわけでなかった僕は、この作家についてあまり詳しくなかったのですが、”東電OL殺人事件”をヒントにした小説と聞いて、たいへん興味を持ったのでした。
”東電OL殺人事件”というのは、1997年に昼はエリートOLでありながら夜は街娼をしていた女性が、渋谷道玄坂の古アパートの一室で殺された事件のことです。
1980年代に施行された男女雇用機会均等法を適用された最初の世代で、女性の社会進出に一石を投げかける事件だったこともあって、その後も何かとメディアに取り上げられることの多い事件のひとつであります。
佐野眞一著のルポルタージュ「東電OL殺人事件」を本書の前に読んだのですが・・・これは真面目(?)に事件を追ったノンフィクションで、事件の経緯やその後の検察の捜査について書かれていました。
しかし、殺された女性が何故二重生活を送っていたか?という事件に至る背景については「墜落」というステレオタイプの視点でしか表現されていません。
僕が”東電OL殺人事件”に関心を持つ理由は、街娼をしていたエリートOL女性がどんな気持ちで毎晩仕事帰りに客引きをしていたか・・・という心理を知りたいからなのです。
桐野夏生著の「グロテスク」は、あくまでも事件にインパイアされた作者のフィクションではありますが・・・”東電OL殺人事件”の被害者の遺族の方が読んだら、卒倒してしまいそうな強烈な内容となっています。
スイス人の父と日本人の母のあいだに生まれた平凡な容姿で区役所で勤める処女の中年女の「私」、怪物的な美貌に恵まれながらも無類のセックス好きの”私”の妹の「ユリコ」、努力家で一流企業のOLでありながら街娼になっていく”私”の同級生の「和恵」、ユリコと和恵を殺した犯人としてとらえられた中国人の「チャン」・・・この4人のモノローグ、手紙、上申書、日記という形で語られていく「グロテスク」の登場人物たちの人生は、僕を奈落へ引きずり込んでいくほど不快でした。
妹ユリコの美貌に嫌悪と憧れを感じ続けて必要以上に美しさに執着する「私」は、容姿も頭も平凡で地味な存在でありながら、次第に他者に対する意地悪さを磨き、心底腐った人間性を築いていく・・・この物語の中心的な”語りべ”です。
怪物的な美貌をもつ「ユリコ」は男達を魅了しながらも、若さを失うとともに化け物のような街娼へと変貌していき、行きずりの客にいつしか殺される運命を受け入れていきます。
容姿や経済的な格差を努力で克服して一流企業のOLになる「和恵」は、努力が空回りばかりして身体を買われることでしか女としての自我とプライドを保てなくなっていくのです。
物語はまず、Q学園というステータスのある私立の高校を舞台に「私」「和恵」と、後にカルト宗教にはまる優等生の「ミツル」、母の死後転校生として編入してくる私の妹の「ユリコ」、そしてユリコの同級生でありながら売春斡旋する同性愛者の「高志」の過去の因縁が語られます。
中国人「チャン」によって「ユリコ」が殺され、その後「和恵」が殺されることにより、二人の女性を歩んだ絶望的な人生観が徐々に明らかになるとともに、それを取り巻く「私」「ミツル」「高志」の心理も明らかになっていくのですが・・・すべての登場人物たちの内面は、ヘドの出るような悪意に満ち溢れているのです。
美しい者への魅了と差別、努力に対しての軽蔑と無評価、歪んだ自己の正当化と主張・・・日常で無意識にしてしまう小さな意地悪は、繰り返されることで誰かの人間性までも歪ませてしまうのでしょうか?
現実は小説のように内層心理が明らかにならないだけで、実際には心の奥底に”グロテスク”な怪物が潜んでいるのかもしれないと思えてしまいます。
如何にして道玄坂の街娼へと堕ちていったかを語った「和恵」の日記と「私」がその後の人生をどう歩んでいくのかのエンディングには、思わず深いため息が出てしまい、たびたび本を閉じたくなるほど気が滅入りました。
目を覆いたくなるような登場人物たちの行く末に”どん底”に突き落とされるながらも、地獄を垣間みる恍惚感も感じてしまう・・・「グロテスク」は不思議で巧みな小説でした。
「グロテスク」読後の奈落から、もっと底へ堕ちていきたい・・・本当の”どん底”への憧れは強くなるばかりです。
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