2010/02/28

こういう女性には、とても敵わない~「この世は二人組ではできあがらない」/山崎ナオコーラ著~



映画「人のセックスを笑うな」は、永作博美の演じるつかみどころのないユリが魅力的で、僕のお気に入りの邦画の一本です。
些細なエピソードと細かな心情を描く空気感によって、妙な緊張感も感じさせる映画でした。
タイトルの「人のセックスを笑うな」と内容がマッチしていない不思議さと、原作者の”山崎ナオコーラ”という不思議な作家の名前が記憶に残りました。

山崎ナオコーラの最新作「この世は二人組でできあがらない」は、主人公(栞)の生まれが著者と同じ1978年だったり、小説家を目指していたり、主人公のモノローグで書かれていたりするので、自伝的な小説といってもいいのかもしれません。
物語は大学時代に出会った一学年上の紙川との関係を中心に進みます。
栞のこころの内の言葉、二人の淡々とした会話、栞が図書館で借りた本や観た映画のタイトルによって、二人の関係を描写しているのですが、恋愛物語として感情が盛り上がるわけでもありません。
栞のルックスに惚れている紙川の思いを受け入れるということが、栞にとって付き合うということになっていくのですが・・・それは恋愛に積極的でないのに男が放っておかない女性がしてしまう付き合い方のような気がしました。
とびきりの美人でないにしても、男好きする女性にありがちな・・・。
二人は「たまプラーザ」の小さなアパートの一室で同棲を始めるのですが、紙川はアルバイトをしていた塾をある理由で辞めてしまい、栞が毎月お金を貢ぐことになってしまいます。
紙川は、自分が公務員になって生活を安定させたら結婚して、栞には自由に小説を書かせてやる・・・などと、いい加減な将来を語るような”しょうもない男”です。
同棲をやめて、お互いに連絡を取らないような状態が続いても、栞は紙川の煮え切らない態度を責めるわけでもなく、ズルズルとお金だけは貢ぎ続けます。
結局、栞は新人賞を受賞し作家としてのデビューが決まり、あっさり紙川とは別れてしまうのです。
断片的なエピソードや心情を積み上げていくことによって、主人公を妙に生々しく感じる・・・巧みな小説ではありました。

栞は人生について健気に考える感性豊かな女性として描かれていますが、女性ならではのたくましさも感じられます。
男女二人組(夫婦の戸籍)で世が成り立つのではなくて、ひとりひとりが広く社会と繋がっている・・・と、栞が悩むシークエンスが「この世は二人組でできあがらない」というタイトルの由来になっているようなのですが、二人組(夫婦)になることや男性に依存することが、彼女の人生の前提ということなのでしょうか?
自立している女性は(既婚者でも)男女二人組(夫婦)という単位で世が成り立っているなんて、前時代的な誤解はしていないと思います。
紙川との関係によって、栞がどんな小説を書いくようになったのかは明らかではありませんが、作家になるという次のステップに進んだ栞にとって、紙川はすでに不要なの存在になったのかもしれません。
文壇の男たちによって栞の作家へのレッドカーペットが引かれていたとしても、そのしたたかさを見破ることは難しく・・・こういう女性には、とても敵わないのです。



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2010/02/26

ハリウッド映画の職人芸によるヒッピーの出世物語~「アバター」~


遅ればせながら・・・川崎IMAXシアターで「アバター」を観てきました。
自宅の大型液晶テレビとサラウンドスピーカーシステムでブルーレイディスクの映画を観ると、劇場で観るよりも画面が緻密だったり、音がハッキリ聞こえたりするので、劇場に足を運ぶ機会とうののは減ってしまっています。
本格的3D超大作というアミューズメント的な売りで「アバター」が、世界興行収入歴代ナンバー1となったというのも納得です。
今までの3D映画のように”何かが画面から飛び出してくる”ことに立体感の陳腐さではなく、”奥行きによる空間”を作りだすことによる臨場感の演出は、確かに理屈にかなっています。
どんな立体技術を駆使しても、スクリーンの枠をはみ出して”飛び出る”ことはあり得ないのですから・・・。

「アバター」のテーマをひと言でまとめるなら、タイムリーな”環境問題”ということになるでしょう。
ただ、この映画を観て環境問題に目覚める・・・というような観客はいないとは思います。
インディアンの迫害(ナヴィ族=アメリカインディアン)、ベトナム戦争(ヘリコプターによる攻撃)、9・11テロ(巨大なツリーの崩壊)などの、アメリカを自己批判するようなメッセージというのは、は近年のハリウッド映画では、ベタな正論のステレオタイプでしかありません。

ジェームス・キャメロンが以前監督した「エイリアン2」では、シガーニー・ウェイバー扮する人間の女性が、モビールスーツで「Get away from her, you bitch!」と叫んで、エイリアンの親玉と戦い勝利しました。
「アバター」では、人間の悪の化身のような大佐が、モビールスーツで「Come to Papa!」と挑発して、ナヴィ族の女性の矢に敗れます。
死にそうな主人公(地球人のサイズ)を抱きかかえる巨大なナヴィ族の女性の姿は、ミケランジェロの「ピエタ」を思い起こさせました。
「ターミネーター」シリーズでも「タイタニック」でも、キャメロン監督作品で描かれる”女性”は、常に圧倒的にパワフルで、体格的にも大きさを感じさられます。
それはキャメロン監督自身の女性像そのものなのかもしれません。

アメリカ白人の中には、有色人種(アメリカインディアン、日本や中国のアジア、インドなど)のネイティブな文化への強い憧れを持っている人たちが60年代後半(ヒッピー全盛時代)から存在しています。
資本主義と圧倒的な戦力で世界を征服し続けるアメリカ白人社会では落ちこぼれの主人公が、アメリカの価値観を根底から覆すスピリチュアルな社会でヒーローとなっていく物語というのは、ヒッピーの理想かもしれません。
ただ、そのようなメッセージを訴えるジェームス・キャメロン監督自身は、興行的に世界征服を果たした、まるでアメリカ白人の資本主義の頂点に立つような存在でもあるということは、ある意味”皮肉”ではあります。

物語の薄っぺらさを指摘されがちな「アバター」ですが・・・アメリカ社会を皮肉る左翼的なメッセージと、あらゆる引用の伏線を張り巡らしながらも、世界中の誰にでも受け入れられる映画仕上げてしまう「ハリウッド映画の職人芸」の頂点であることは間違いはありません。



「アバター」
原題/Avatar
2009年/アメリカ
監督 : ジェームス・キャメロン
脚本 : ジェームス・キャメロン
出演 : サム・ワーシントン、シガニー・ウィーバー、ゾーイ・サルダナ



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2010/02/24

大きな声をもつ人の声が、さらに大きな声になっていくネットの格差


数年前の調査ですが・・・「世界で最も多いのは日本語ブログ」ということを聞いたことがあります。
「自己表現が苦手」と言われ続けてきた日本人は、実はネット上で自己表現をすることには積極的な人種だったということでしょう。
ただ、ホームページやブログなんて自分では全然やりたいとも思わない・・・という人からすると「なんで、自分の生活をネットで公開したいの?」「よっぽど、リアルライフが貧しいのね」というような差別的な誤解も、まだまだ存在しているようです。
しかし実際には、ブログ(SNSやtwitterなども含む)などで活発に発言する人たちの多くは、実はリアルライフでも自己主張の強さも持っている人が多いような気がします。

結婚詐欺殺人の女のように、ネット上で虚構の人格になりきっているブロガーというが、まったくいないわけではありませんが、それはごく少数でしょう。
ただ、プチ妄想気味に多少自己演出に長けたブロガーというのは、それなりに存在しているように思います。
「勝ち組きどり」「アイドルきどり」「グルメきどり」「評論家きどり」・・・基本的にブログというのは、ある種の自己申告で成り立っているので、その人が世間に認知されたい自己アピールが入るのは仕方ないことです。
しかし殆どの場合、リアルライフでもそれなりに社会的にも活躍している人がインターネットを通じて、さらに社会へ自己主張をするという良い相乗効果になっていることの方が多いのかもしれません。
そういう自己宣伝に長けた人たちのポジティブ、かつ、貪欲なパワーに、胡散臭いさを感じるか否かは、閲覧する側の感じ方次第なんだと思います。

雑誌などの印刷物が情報を得る一番の方法だった時代には書き手は一応はプロで、それなりの経験や責任を背負って、情報を発信しているというのが前提でした。
しかし、誰もがネット上で意見を自由に言える民主的なネット社会では、正確でない情報や、独断的で参考にならない情報というのも多く発信されています。
レストランを検索して出てくる一般人の評価ほど、当てにならないものはなかったりします。
本来であれば世の中に流れるべきでない、流れる必要のない情報もドンドン広がっていってしまうので、有益な情報が検索サーチの網の中で埋もれてしまうことも多々あります。
本当に良識のある見解をもった人だけがネットで発言してくれれば良いのですが、そういう人に限ってネットを利用しないことが多いようです。
良くも悪くも、ネット上に存在する多数決の意見が、結果的に正しい情報として認知にされてしまうのでしょうか?
インターネットが普及した以降の事項はネットに記録されているので将来的にも検索出来ても、ネット以前の出来事は誰か正確な記録の残さない限り、いつか人々の記憶から消えてしまうのでしょうか?
大きな声をもつ人の声を、さらに大きな声にする拡声器のようなネットのツールが、一部の声の大きな人たちによってコントロールされるメディアになってしまうのであれば、新しい格差を生むことになるような気がしてならないのです。

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2010/02/21

昭和レトロでもトレンディドラマでもない・・・”桃井かおり”な時代のドラマ~「ちょっとマイウェイ」~



昭和歌謡や弾き語りのフォークだったり、70年代や80年代ファッションだったり、懐古的に振り返る「過去」というのが、自分自身でしっかりと経験した時代になってくると・・・自分の年齢というのを考えさせられます。
流行として「再発見」される過去は、その時代を実体験をしていない若い世代にとっての「ツボ」にハマる部分だけを大雑把にピックアップして過大評価しているように、リアルタイムで経験しているオトナには感じてしまうものです。
ただ、我々の世代だって「大正モダン」や「ミッドセンチュリー」などを勝手に再発見して喜んでいるわけで・・・未経験だからこそ”当時以上に”高い評価をして楽しむというのは、どの時代でも行われていることなのかもしれません。

洋食のレストラン「ひまわり亭」を舞台に、三姉妹とその家族、そしてその店で働く人たちの物語がコミカルに描かれる「ちょっとマイウェイ」は、「昭和のファミリードラマ」でもなく「トレンディドラマ」でもない、70年代と80年代の狭間の1979年秋から1980年春に放映されたテレビドラマです。
ただ、この時代(1980年前後)は、ファッション的にもカルチャー的にも、その前後のインパクトに負けてしまっているような気がしています。
70年代ほど可愛いらしいレトロ感がある時代でもなく・・・といって80年代のバブル時代ほど突っ込みどころ満載のオバカっぷりといわけでもなく・・・若い世代に再発見/再評価されることが殆どないようなのです。
「ちょっとマイウェイ」のDVD化を渇望していた層というのも、おそらくリアルタイムでドラマを観ていた人たちばかりのようで・・・2006年にDVD化が実現されて新たな若い世代のファンが生まれた、という感じではありません。

舞台となる代官山は、当時すでにヒルサイドテラスもあって、おしゃれな高級住宅地のひとつでした。
70年代後半には路地があるような町並みではなかったので、ドラマを観ていて「これって代官山なの?」という違和感はあったことを覚えています。
物語はしっかり者の三女のなつみ(桃井かおり)が、当時都内のあちこちで行われていた都市開発によって、閉店寸前に追い込まれていた実家の「ひまわり亭」に戻ってきて再建を決意するところから始まります。
桃井かおりは「幸せの黄色いハンカチ」で助演賞を総なめにして役者として高い評価を受けていただけでなく、男に媚びない姉御肌の個性的なキャラと独特な語り口や発言で注目されていた女優でした。
ちょっと肩パッドが入ったカーディガンやジャケットを肩に羽織り、スリムなテーラードスカートにハイヒールという70年代末期の”小林麻美チックな”ファッションというのも、一般的には桃井かおりのイメージの方が強く、まさに時代の寵児として「翔んでる女」の象徴だったのです。
そんな桃井かおりが「桃井節」というような台詞まわしで”桃井かおりらしさ”を全面的に押し出した”初の主演作”といっていいのが「ちょっとマイウェイ」だったと記憶しています。
毎エピソード、シチュエーションコメディのようにいくつもの伏線が張られるのですが、エンディングですべてが繋がってオチがつく・・・というような見事な脚本でした。
また、なつみの親友カツ子役の研ナオコは本人そのままのおしゃれでお人好し、長女役の八千草薫は天然系おっとり、次女役の結城美栄子はヒステリックで口うるさく、男やもめのシェフ役の緒形拳は不器用な男、ウェイトレス役の左時枝はシニカルなオールドミス、優柔不断な料理人役は赤塚真人と秋野太作・・・というように、このドラマの出演者それぞれが見事にステレオタイプのキャラクターを演じているので、役柄と役者のブレがないという絶妙なキャスティングでありました。

1970年代の末期から1980年代というのは、一生懸命の努力や暑苦しい根性ではなく、クールな感性(シラケ世代とよばれていたような)によって個性を尊重することが、若者の主流となりつつあるターニングポイントの時代ではなかったでしょうか?
振り返ってみると・・・桃井かおりという存在は、当時以上にあの時代を象徴していて、時代の雰囲気を最も具体的に体現していたのかもしれません。
そして「ちょっとマイウェイ」というドラマは、その時代感をキャプチャーしたタイムカプセルのような気がするのです。

「ちょっとマイウェイ」
1979年10月13日~1980年3月29日
土曜日午後21時より、日本テレビ系列
スタッフ
脚本/鎌田敏夫、那須真知子、鴨居達比古、金子成人、猪又研吾、柏倉敏之、清水邦夫、他、演出/吉野洋、池田義一、雨宮望、オープニングイラスト/倉多江美
キャスト
桃井かおり(浅井なつみ)、研ナオコ(川村カツ子)、緒形拳(堀田康吉)、八千草薫(浅井朋子)、結城美栄子(大石伸江)、犬塚弘(大石定夫)、赤塚真人(大石常夫)、神田正輝(大石満)、秋野太作(米沢誠)、岸本加世子(牧野真弓)、左時枝(野村和子)、峰竜太(前橋一男)



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2010/02/12

最近、ブログの文章が長くなっています


以前から「ブログの文章が長くて読みにくい」というご意見は頂いていたのですが・・・逆行するように最近ますますブログの文章が長くなっています。
去年の書き込みと比べると、文字数は倍以上になっているかもしれません。

言い訳になってしまいますが・・・理由のひとつは、昨年12月に購入した”27インチのiMac”というのがあります。
広大なデスクトップ環境になったので、長い文章でもスクロールすることなしに読めてしまうので、自分では気づきにくかったのです。
17インチのiMacで自分のホームページを表示してみたら、文字ばかりの画面でウンザリしてしまいました。
僕のブログは、コメントの日記風でも、きれいな写真で見せるわけでもなく、基本的に”作文”なので、ついつい話が長くなってしまうようです。
今後はもうちょっと要点をまとめる努力をしていこうと思っています。

もうひとつの理由は、ホームページやブログのサイドバーにある「おかしのつぶやき」の存在です。
「おかしのつぶやき」はツイッター(twitter)というサービスと連動しています。
気づいている方がいるかもしれませんが・・・出来る限り文字制限である140文字ぴったりで”つぶやき”をしています。
ツイッターでは”2バイトの日本語”も”1バイトのアルファベット”と同じ”一文字”に数えられるので、漢字のある日本語というのは、英語などの言語に比べてより多くの情報を表現するできることになります。
コミュニケーションツールというよりも、気軽に更新することができる”ミニブログ”として活用しているので、日本語を最大限に生かそうと、文字制限いっぱいいっぱいに、つぶやくことにしたのです。
そんなわけで、僕にとってはツイッターが、一般的なブログの存在に近いのかもしれません。
日々の生活で感じたことや興味を引かれたニュースや話題については、ツイッターの方に書き込みをしてしまうので、ブログとして書く内容に対して、少々身構えてしまっていたようです。

ところで・・・ツイッターは最近爆発的な広がりをみせています。
僕自身は去年の夏頃からボチボチと利用していたのですが、ここ1、2ヶ月間で様子が激変している印象です。
特に日本人のあいだでは、ゲームコミュニティーサイトになりつつあるミクシィ(Mixi)から、ツイッターへ移動しているというのもあるのかもしれません。
このようなネットのサービスは、ある程度の限られた人数が参加しているうちはウェルカムでオープンな雰囲気なのですが、利用者が増えてくると徐々にクローズドのコミュニティーになっていく傾向というのがあるように思います。
勿論、家族内や会社内の連絡にツイッターを利用しているならば、勿論なのですが。
ツイッターもそろそろ「非公開」や「ブロック」などのフォロワーを選別/排除する機能によって、仲間内だけを集めての”村作り”をする人が増えていく段階に入っていくのでしょうか?
承認などの面倒な手続きなしで勝手にフォローできるところも、ある意味ツイッターの良さのような気がしていただけに、閉鎖的になっていくことで面白さが半減してしまいそうな気がしています。

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2010/02/10

オードリー・ヘップバーンの痛すぎる恋愛とハッピーエンドのその後~「いつも二人で」~



”オードリー・ヘップバーン”は、ジバンシーの衣装をスタイリッシュに着こなす「おしゃれ」の代名詞で、永遠の妖精のようなイメージの女優だと思います。
”ダサくて痛い女子大学生”なんて最もオードリーには似合わないように思えますが、そんな”らしからぬ”役柄を彼女が38歳の時に演じているのが「いつも二人で」という作品です。

いつも二人で」は、イギリス人夫婦のマーク(アルバート・ファニー)とジョアンナ(オードリー・ヘップバーン)の出会いから離婚寸前の倦怠期までを、フランスを南下する夏のドライブ旅行を舞台に描いています。
このルートが当時のイギリス人にとってポピュラーなドライビングコースであったかは定かではありませんが、二人はこの映画の中で繰り返し同じ道をドライブすることになるのです。
「出会いのヒッチハイクの旅」「ポンコツ車での新婚旅行」「マークの元彼女の夫婦とその娘との旅行」「倦怠期のふたり旅」「子供との家族旅行」「離婚寸前の旅」と、さまざまな時代を描いているのですが、時間軸にに沿って話が進むわけではありません。
シーンごとに時間を遡ることは映画でよく使われる手法ですが、この映画ではワンショットごとに時間を飛び越えたりして、観客は「一体、今はいつの二人?」と、迷ってしまうような作りになっています。

映画の最初のシーンは、離婚寸前の冷えきった二人の関係を表すような台詞です。
結婚式を挙げたばかりのカップルを見て・・・ジョアンナ「あの二人、あまり幸せそうには見えないわ」マーク「それはそうだ・・・結婚したばかりなんだから」
繰り返される同じルートのドライブの旅で、二人は毎回の夫婦の関係の危機にぶつかり、皮肉なハプニングで関係の修復を繰り返していきます。
二人が学生の頃、建築家の卵だったマークは女学生の合唱グループと合流するのですが、グループの中で気になっているのは地味なジョアンナ(オードリー・ヘップバーン)ではなく、若い日のジャクリーン・ビセット演じるセクシーな女子学生なのです。
しかし、ジョアンナはマークにひと目惚れしてしまいます。
ダサイ風貌(セミロングに長いスカートにカーディガンという図書館女子風?)のジョアンナですが、実は好きな男をトコトン追いかける「隠れ肉食系女子」なのです。
ジョアンナ以外の女子大学生は水疱瘡になってしまい、マークとジョアンナの二人のヒッチハイク旅行となってしまいます。
マークはハッキリとジョアンナとの二人旅を拒絶するのですが、怯むことなくジョアンナはマークにアタックを繰り返します。
ことあるごとにマークは厳しい言葉でジョアンナの傷つけても、ジョアンナは皮肉やユーモアで切り返します。
その気のない男を相手に、はしゃぐジョアンナの姿は”痛い女”です・・・しかし、結果的にジョアンナは巧みな誘導(?)で、マークに突発的ににプロポーズをさせてしまうのです。(恐るべし隠れ肉食系女子!)
ジョアンナがマークに、出会っていきなりゾッコンなのが不可解なのところではあるのですが・・・「皮肉をぶつけ合える」ほど刺激的なパートナーがマークなのです。
マークは自分本位の男ではありますが、パスポートを忘れたり、プールに落ちたり、お茶目で憎めない男です。
最後の最後には「I LOVE YOU」と言って帰ってくる可愛い男だったりもします。
だから、ジョアンナは真面目で優しい男に惹かれても、結局マークに戻ってしまうのです。
年月が経つごとにマークは建築家として成功し、ふたりの生活は裕福になっていくのですが、彼のジョアンナに対する態度はますます冷ややかになっていきます。
比例するように、ジョアンナはますます苛々した、ファッションだけにはお金をかけたドレッシーな金持ち中年女になっていきます。
オードリーが演じてきたのは「マイ・フェア・レディ」に代表されるような”少女”が男性(それも、おじさま)に磨かれて、ハッピーエンドを迎える物語が多いですが、その後は二人の人生は語られることはありませんでした。
もしかすると、マークとジョアンナのような倦怠期を迎えた普通の夫婦になっていたのかも・・・しれません。

もしも、この映画が二人の出会いの「過去」から始まって、離婚寸前の「現在」へと、時間に沿って描いていたならば、気の重くなる退屈な話だったでしょう。
しかし、この映画ではマークとジョアンナがケンカしながら走っているジャガーの後ろを走っているポンコツ車の中に、愛し合っている新婚時代の若い二人の姿があったりします。
「いつも二人で」を監督したスタンリー・ドーネンは元々は振り付け師で、ジーン・ケリーのMGMミュージカルの監督であり、オードリーらしい魅力が満載の「パリの恋人」や「シャレード」も手掛けたテンポとセンスの良さで知られた監督です。
自由自在に時間軸をバラバラにして再構築したことで、二人は「過去」も「現在」も「その間の時代」も、同時に生きているかのように映画では描かれています。
マークとジョアンナが夫婦でいることの道のりは平坦ではないれど、確かに二人で同じ道を進んでいます・・・そして、それは同じ一本道を繰り返し何度も何度も進んでいるようなものなのかもしれません。
人生に”山”や”谷”はあれど「この道は、いつか来た道」・・・ということなのです。

「いつも2人で」
原題/Two for the Road
1967年/イギリス
監督 : スタンリー・ドーネン
脚本 : フレドリック・ラファエル
出演 : オードリー・ヘプバーン、アルバート・フィニー、ジャクリーン・ビセット
音楽 : ヘンリー・マンシーニ



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2010/02/03

堕ちるところまで・・・堕ちるがいい!気の滅入る後味の悪さの恍惚感~「グロテスク」/桐野夏生著~



湊かなえの「告白」が面白かったという話をしたところ、友人Aに「だったら、桐野夏生も好きかも・・・特に”グロテスク”とか」と、奨められたことがありました。
去年、老眼鏡をつくるまで”読書家”というわけでなかった僕は、この作家についてあまり詳しくなかったのですが、”東電OL殺人事件”をヒントにした小説と聞いて、たいへん興味を持ったのでした。

”東電OL殺人事件”というのは、1997年に昼はエリートOLでありながら夜は街娼をしていた女性が、渋谷道玄坂の古アパートの一室で殺された事件のことです。
1980年代に施行された男女雇用機会均等法を適用された最初の世代で、女性の社会進出に一石を投げかける事件だったこともあって、その後も何かとメディアに取り上げられることの多い事件のひとつであります。
佐野眞一著のルポルタージュ「東電OL殺人事件」を本書の前に読んだのですが・・・これは真面目(?)に事件を追ったノンフィクションで、事件の経緯やその後の検察の捜査について書かれていました。
しかし、殺された女性が何故二重生活を送っていたか?という事件に至る背景については「墜落」というステレオタイプの視点でしか表現されていません。
僕が”東電OL殺人事件”に関心を持つ理由は、街娼をしていたエリートOL女性がどんな気持ちで毎晩仕事帰りに客引きをしていたか・・・という心理を知りたいからなのです。

桐野夏生著の「グロテスク」は、あくまでも事件にインパイアされた作者のフィクションではありますが・・・”東電OL殺人事件”の被害者の遺族の方が読んだら、卒倒してしまいそうな強烈な内容となっています。
スイス人の父と日本人の母のあいだに生まれた平凡な容姿で区役所で勤める処女の中年女の「私」、怪物的な美貌に恵まれながらも無類のセックス好きの”私”の妹の「ユリコ」、努力家で一流企業のOLでありながら街娼になっていく”私”の同級生の「和恵」、ユリコと和恵を殺した犯人としてとらえられた中国人の「チャン」・・・この4人のモノローグ、手紙、上申書、日記という形で語られていく「グロテスク」の登場人物たちの人生は、僕を奈落へ引きずり込んでいくほど不快でした。
妹ユリコの美貌に嫌悪と憧れを感じ続けて必要以上に美しさに執着する「私」は、容姿も頭も平凡で地味な存在でありながら、次第に他者に対する意地悪さを磨き、心底腐った人間性を築いていく・・・この物語の中心的な”語りべ”です。
怪物的な美貌をもつ「ユリコ」は男達を魅了しながらも、若さを失うとともに化け物のような街娼へと変貌していき、行きずりの客にいつしか殺される運命を受け入れていきます。
容姿や経済的な格差を努力で克服して一流企業のOLになる「和恵」は、努力が空回りばかりして身体を買われることでしか女としての自我とプライドを保てなくなっていくのです。

物語はまず、Q学園というステータスのある私立の高校を舞台に「私」「和恵」と、後にカルト宗教にはまる優等生の「ミツル」、母の死後転校生として編入してくる私の妹の「ユリコ」、そしてユリコの同級生でありながら売春斡旋する同性愛者の「高志」の過去の因縁が語られます。
中国人「チャン」によって「ユリコ」が殺され、その後「和恵」が殺されることにより、二人の女性を歩んだ絶望的な人生観が徐々に明らかになるとともに、それを取り巻く「私」「ミツル」「高志」の心理も明らかになっていくのですが・・・すべての登場人物たちの内面は、ヘドの出るような悪意に満ち溢れているのです。
美しい者への魅了と差別、努力に対しての軽蔑と無評価、歪んだ自己の正当化と主張・・・日常で無意識にしてしまう小さな意地悪は、繰り返されることで誰かの人間性までも歪ませてしまうのでしょうか?
現実は小説のように内層心理が明らかにならないだけで、実際には心の奥底に”グロテスク”な怪物が潜んでいるのかもしれないと思えてしまいます。
如何にして道玄坂の街娼へと堕ちていったかを語った「和恵」の日記と「私」がその後の人生をどう歩んでいくのかのエンディングには、思わず深いため息が出てしまい、たびたび本を閉じたくなるほど気が滅入りました。
目を覆いたくなるような登場人物たちの行く末に”どん底”に突き落とされるながらも、地獄を垣間みる恍惚感も感じてしまう・・・「グロテスク」は不思議で巧みな小説でした。

「グロテスク」読後の奈落から、もっと底へ堕ちていきたい・・・本当の”どん底”への憧れは強くなるばかりです。



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2010/01/31

「iPad」の登場はパソコンを不要にしてしまうのかもしれません・・・



1月27日に発表されたアップルの「iPad」の評価は、日本でも賛否両論のようです。
まだ、日本では3Gのキャリアーについては不明(ドコモがiPad用SIM販売という報道もあり)で、実際の販売価格も正式に発表されていません。
おそらくiPod touchの最近の為替変動による価格変更に伴うとすると、16MBのWiFiモデルで49800円からというのが妥当なところでしょう。
これは、ジョブス氏がプレゼンテーションで「単に性能の低いウィンドウズノート」だと皮肉ったネットブックと競合する価格帯です。
僕自身は、ウィンドウズベースのネットブックを持ち歩くことは絶対にないので「iPad」の登場は、ポータブル機としても多いに「買い」の商品ではあります。

「iPad」に対して否定派の意見としては・・・まず、アメリカ市場での目玉である「電子書籍/iBooks」の機能がないことでしょう。
これは、日本の電子書籍市場というのが確立されていないことが原因なので、アップルだけの問題ではありません。
将来的に書籍、雑誌、漫画も電子書籍として購入できるようにはなるのは時間の問題だとは思いますが、日本がコンテンツ産業において前時代的な体質であることを考えると、年内中に導入されるということは難しいかもしれません。
ただ「Kindle for iPhone」というアプリがすでに存在しており、アメリカから書籍をダウンロード購入することはできるようになっているので「Kindle」のサービスの日本進出次第とも考えられます。
また、去年末からPSP向けには「コミックリーダー」という電子漫画をダウンロード購入する仕組みもスタートしているので、アップル以外からiPad用アプリの「コミックリーダー」という形で電子漫画販売が実現するのかもしれません。

アメリカの「iTune Store」では、テレビ番組や映画を購入できるようになっていますが、これも日本では実現されていません。
日本国内からアメリカの「iTune Store」にも、アクセスできないようになっています。
それ故に、アップルには「AppleTV」という商品がありますが、日本では無用の長物になってしまっているのです。
日本のテレビや映画のコンテンツ配信事業というのが、テレビの機能として取り込まれていくような流れになっているようで、将来的に「iPad」で購入/視聴できるようになるのかは分かりません。
ジョブスが先日のプレゼンテーションのように、ソファに座って「iPad」でテレビ鑑賞というのは、日本ではあり得ない情景になりそうです。
ただ、動画を「iPad」で観ることはできるので、テレビ番組も映画も自ら手数をかけてファイル形式をMP4などに変換すれば良いことではあるのですが・・・使い勝手は非常に面倒ではあります。

その他の否定派の意見としては「カメラがない」「USBポートがない」「電話が出来ない」「Flashをサポートしていない」というのがあるようです。
デジカメの替わりとして画像撮影用にはカメラは不要かもしれませんが、ビデオチャット用の画面側に向いている内蔵カメラがあれば「Skype」とかには便利かもしれません。
画像の取り込みを可能にするリーダーを接続できるDockポートは用意されるようですが、iMacやMacBookProに内蔵されているSDカードリーダーがあったら、デジカメから直接画像を取り込めて使い勝手は良さそうです。
「iPad」での音声通話の必要性というのは僕自身は感じませんが、マイク付きヘッドフォンで電話も出来たら便利と思うユーザーもいるのかもしれません。
「Flash」の非サポートは数多くのサイトが使用しているので、iPhoneに続いてサポートしないというのは理解に苦しむところです。
ジョブス氏がアップル独自技術にこだわるのは分かりますが、ユーザーの利益を考えれば「Flash」のサポートは必須ではないでしょうか?

現状では数々の「非」があることは否定できない「iPad」ではありますが、それでも僕はこのアップルの新しいディバイスが将来的にパソコン(iMac,MacBookなどを含むMac全般)に替わるような気がしてならないのです。
もちろん、動画編集とか、ホームページ作成とか、DTP印刷とか、パソコンでなければならない作業はあるでしょう。
ただ、仕事以外でそのようなタスクを行うことは結構少ないものです。
「iPad」用に用意されたアップルのアプリを使うことで、ウェブ観覧、簡単な画像編集、文書作成、表計算、ブログ更新などはパソコンを必要とするわけではありません。
ノートブックパソコンは勿論、デスクトップパソコンの替わりに「iPad」で殆どのタスクを行い、ポータブルにデータを持ち歩るために「iPhone」や携帯電話という時代になってくるのかもしれません。
そう考えると「iPad」というのはジョブス氏が未来像として考えていたコンスーマー向けの究極のディバイスなのかもしれません。
物理的にはキーボードが存在せず、常時ネット接続ができて、すべてのメディア視聴観覧できるミニマルデザインの画面”だけ”があるという・・・。
先日、購入した「iMac」が、もしかすると僕が購入する「最後のパソコン」と呼ばれるような機器になるのかもしれない・・・そんな事さえ「iPad」の登場で考えてしまうのです。

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2010/01/26

流行(トレンド)をテーマとした”ファッションゲーム”の名作~That's QT(ザッツキューティー)~



近年は”女性向け”を謳ったゲームが数多く発売されていますが、これぞ”女の子”向け!という「ファッション/おしゃれ」をテーマにしたゲームというのは、意外なほど数は多くありません。
おそらくゲームボーイ向けに発売された「きせかえ物語」というのが「きせかえ」というファッション要素を組み込んだ、初めての”女の子”向けゲームだと思います。
「きせかえシリーズ」として何作か発売されましたが、ゲーム性の深みというのは乏しく、その後恋愛シュミレーションなどを加えたりして、純粋に”ファッションゲーム”ではなくなっていきました。
「きせかえゲーム」は、ゲーム内で登場するファッションのおしゃれ感が重要な要素であるべきなのですが、実際の流行を取り込んでというのは、なかなか難しいようです。

最近発売された「プーペガール DS」は、アバターできせかえを楽しむAmebaのコミュニケーションサイトのニンテンドーDS版ということもあって”きせかえゲーム”として、アップ・トゥ・デートなセンスでの「きせかえ」が楽しめるゲームです。
ただ、基本的に「きせかえ」が目的なので、アイテムを購入するためのリボン(お金)を集めることが作業的になるのが退屈なのが残念かもしれません。
また、Amebaサイトのような”コミュニケーションゲーム”としての仕組みは「すれちがい通信」程度と殆ど無いに等しいです。

エレクトロニックアーツ社の「チャームガールズクラブ わたしのファッションショー」は、アイテムの色や柄をカスタマイズできる「きせかえゲーム」で、アメリカで制作されたこともありファッション性は日本製のゲームと比較すると「大味」の印象です。
ファッションショーでのポージングには”リズムゲーム”の要素を組み合わせていますが難易度は低いので、フラッシュを浴びてモデル気分を楽しむというのが目的の、薄っぺらい”ファッションゲーム”にしかなっていません。

ゲーム史上、最も売れた”ファッションゲーム”は、任天堂の「わがままファッション ガールズモード」でしょう。
ショップの店員となって、商品を仕入れをして、お客にアイテムやコーディネートを提案しながら販売していくというゲームです。
経営シュミレーション的なゲーム性は低めではありますが、仕入れの数や商品のバリエーションは結構考える必要があります。
しかし、やはりお客にコーディネートを提案を楽しむというゲームシステムは、今までいない”ファッションゲーム”らしいゲームとなっています。
各ブランドごとのイメージを把握して、お客のテイストや色の好みなどを理解することが、需要な攻略ポイントです。
ブランドごとのイメージやアイテムのパラメーターは、プレイを続ければある程度は理解できるようにはなっていますが、お客の中には好みのパラメーターが一筋縄ではいかないこともあって、洞察力が試されるゲーム性があります。
アイテムの種類とカラーバリエーションが多くて、無限のコーディネートが楽しめるのですが、ブランドや色合いを統一して提案すると”あり得ない”コーディネートでもお客さまが気に入ってしまうことがあるのは仕方ないのかもしれません。
それでも、コーディネートの楽しさとショップの仕入れ作業にゲーム性を持たせたことは、アパレル業界を舞台にした”ファッションゲーム”として、現在のことろ最も完成したゲームと言えるでしょう。
また、通信機能を使って、プレイヤーのコーディネートを販売できるネットショップを開くことが出来るので、”コミュニケーションゲーム”としての広がりを持たせているのは、さすがの任天堂ゲームです。

ここまで紹介した”ファッションゲーム”は、既存のゲームの要素を組み込みながらも、基本的に「きせかえ」を楽しむことを目的としています。
しかし、最後に紹介する「That's QT(ザッツキューティー)」は、流行(トレンド)というファッションに欠かせない要素をゲームに取り込んだ画期的な”流行シュミレーションゲーム”です。
元々、2000年にプレイステーション版がコーエーという大きなゲーム会社から発売されていたにも関わらず、長年レアゲーとして入手困難なゲームのひとつになっていましたが、2008年にニンテンドーDS版が発売されました。
「わがままファッション ガールズモード」よりも、ショップの経営シュミレーション色が強い「That's QT(ザッツキューティー)」ですが、もちろん「きせかえ」や「コーディネート」を楽しむ要素もあり、その上「流行(トレンド)をつくる」ことが目的のゲームとなっています。
キーワードとなる「言葉」や「色」を町でキャッチし(集めて)、そのキーワードと色からアイテムをデザインしていきます。
それらのアイテムをお店に陳列し、雑誌やモデルを使って宣伝したりしながら、自分のデザインしたアイテムや色を流行らせていくのです。
自分のデザインしたアイテムが売れて、町中にあふれる様子を眺めているのは達成感を感じさせます。
キャラクターの絵柄は三等身で細かなディテールまでは楽しむことは難しいのですが、キーワードからデザインできるアイテムが多く、色も多いので、その組み合わせで無限に近い流行が生み出せるのです。
流行(トレンド)というファッションの本質をゲーム要素として組み込んだ「That's QT(ザッツキューティー)」は、前にも後にも似たようなゲームが存在しない”奇跡的な名作”だと思います。



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2010/01/15

初心者ドライバーが、スポーツカーのような「デジタル一眼レフカメラ」を購入したわけ


デジタル一眼レフカメラを購入して、ちょうど1年になります。
スナップ感覚で撮りまくるので、累積撮影枚数もゆうに1万枚を越えました。
本体のみで1kg以上のカメラを持ち歩くのは結構大変なことなのですが・・・出来るだけ持ち歩くのが、ここ一年の習慣になっています。

何故、写真にそれほど興味のなかった僕がデジタル一眼レフカメラを購入しようと思ったかというと・・・親友Tが撮影した空気感のある写真を見たからです。
今まで単なる「記録する機械」という意味しか見出さなかったカメラですが、彼女の一眼レフで撮影された画像からは「質感」や「記憶」を感じました。
当初は「進化の激しいデジタルカメラだから、まずは値段の安いのを購入したら?」というカメラに詳しい親友Nのアドバイスに従うつもりでした。
なんせ、僕は「ピント」ぐらいしか理解していなくて「露出「「絞り」「ホワイトバランス」「ISO」とかを意味を理解していないほど、写真には無知だったのですから・・・。
今まで使ってきたフィルムカメラもデジタルカメラは、とりあえずシャッター切れば「記録」は出来るレ”ばかちょん”カメラばかりでした。
まずは、勉強をするための1台目ということで、当時実勢価格の一番安かったオリンパスのフォーサーズ機を、ポイントを使ってビックカメラで購入することにしました。
「最後の二台ですよ」と手渡された在庫を手にレジにむかったのですが・・・何故かビックカメラだけのポイントカード「だけ」が手元に見つからないのです。
これは「今は買うな!」という暗示のような気がして、その日はとりあえず購入をやめました。

それから、しっかりと機種を吟味して購入しようと、ネットや雑誌でリサーチを始めました。
友人の写真から感じた空気感というのは「ボケ」によって生まれていたこと。
光の豊富なアウトドアよりも、暗いインドアでの撮影を多くするであろうこと。
望遠やマクロよりも、広角で撮影をしたいと考えていること。
小さなサイズの機種よりも、身体の大きな僕には大きな機種の方が手に合っていること。
そんなことを考慮して、一般的なデジタル一眼レフで使われている「デジタルフォーマット(APS-C)」よりも、35mmカメラのサイズに近い撮像素子を持つ「フルサイズフォーマット」が、僕の求めている画像を撮影できるのではないかという結論に達しました。
撮像素子の面積が大きい分、光に対する感度が高く暗部での撮影に強く、よりボケが出やすいというのが決め手になりました。
しかし「フルサイズフォーマット」というのは、基本的にプロ向けの機種のみに搭載されていて、当時やっとキャノン、ニコン、ソニーから普及版(といっても・・・本体価格25万円程度)が発売されたばかりという状況でした。
お店に何度も通ってカメラを手にしたり、各機種のガイドブックを購入して操作について研究をしました。
過去に一眼フィルムカメラを所持したこともないので、過去の交換レンズ資産を活用するためにマウントの縛りはありませんでした。
さまざまな考慮の結果、本体の質感の良さ、フルサイズフォーマットの機種の中でも画素を1200万に抑えたことで画素ピッチが広く超高感度のニコンの「D700」という機種に決めました。
ちょうど、ニコンからの3万円キャッシュバックキャンペーンにギリギリで応募できるタイミングだったので、グズグズしている時間はなかったのです。

そんなわけで予算を遥かに超えた金額で、初心者ドライバーが、いきなりスポーツカーを運転するようなプロ仕様のカメラを結果的に購入したことになりました。
カメラに限らず「初心者はエントリーレベルから」という考え方もあるとは思いますが、初心者だからこそプロ仕様の性能の高さが、未熟な技術を補ってくれるのだと僕は思います。
ただ、そうやって購入したプロ仕様の「道具」の数は数知れず・・・なにはともあれ使い倒して元を取るしかないと、今日もカメラをバッグに忍ばせて出掛けるのです。

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2010/01/12

やっぱり出たのね・・・カツマーVS.カヤマーの対談(対決)本!~「勝間さん、努力で幸せになれますか」/勝間和代 香山リカ著



香山リカが「しがみつかない生き方」で「勝間和代を目指さない」と書いて以来、因縁の関係として取り上げられてきたふたりが真っ向から対決した対談本が”やっぱり”出版されました。
この論争のおかげで、勝間和代も、香山リカも、マスコミへの露出も多くなり、著作も次々と出版されています。
昨年12月に勝間和代は「結局、女はキレイが勝ち」という美容本まで出版して、かなりの酷評を受けています・・・というか”笑い者”になっています。
まさか、勝間和代から「結局、女はキレイが勝ち」という言葉を聞くとは誰も想像しなかったと思うのですが、ご本人によると実際の経験から出てきた言葉だということです。
このような勘違いっぷりがアンチ・カツマーには堪えられないし、カツマー信者にとっても「努力の効率性とか言っても結局キレイが勝ちなんかい!」と、そっぽを向かれそう・・・。
「キレイ」な方が「努力の効率性」が良いということなんだけど、これって勝間和代自身のには当てはまらないのでは?と、突っ込みたくなります。
ただ「私はキレイ」という事実(!)を前提に、この本もの対談も行われているので覚悟は必要です・・・(あえて香山リカは「キレイ」の是非については一切触れていませんが)
仮に、勝間和代が「キレイ」だから「勝つ」世界があれば、その世界は僕が接したことのない業界(世界)なんだとしか思えません。

勝間さん、努力で幸せになれますか」は、香山リカが、今度は本人を目の前にして勝間和代に宣戦布告しているような対談本ではあるのですが・・・どちらが”悪役”なのか、というのは、読者の視点次第ということになると思います。
勝間和代の訴える「効率を上げる努力」によって得ることのできる「しあわせ」というのは、成功した側の人間だから語ることの許される「成功体験」にしか、僕には感じられません。
勝間和代の説く成功への方法論というのは、ひと昔前の表現ならば「ポジティブシンキング」と呼ばれたようなコンセプトで、自己啓発の定説の「努力すれば、あなたも出来る!」というシンプルな訴えでしかないということです。
「努力する過程を楽しみ、そのプロセス一段一段刻んでいく」「目的意識を持って努力すれば、必ず目標に達する」・・・・どれも「勝間和代さん、ごもっとも!」と言いたくなるような「正論」ではありますが、今まで語れてきた自己啓発本から、所々ピックアップして編集/再構成しただけという印象を受けます。
努力するということに対して、アメリカ成果主義的「合理主義/効率性」を求めていったというところが「無駄は省いて成功したい!」という人たちに支持されたのかもしれません。
ただ、成功への効率性を求めるカツマー的生き方に見え隠れする貪欲な精神性こそが、アンチ・カツマーの神経を逆なでされるように感じてしまいます。
貪欲でありながら、美徳は輪廻しているというようなキレイごとを訴えられても、基本的な意識が「自分」だけの「しあわせ」に向いているという点に於いて、カツマーの心理は「占い」や「スピリチュアル」に傾倒することと紙一重のように思えてしまうのです。

弱者、負け組、ダメ人間の代表のように勝間和代に噛み付いている香山リカではありますが・・・彼女自身は世間的には成功している側の人間と言えるでしょう。
勝間和代と同年代に思われがちな香山リカですが実は8歳も年上で、未婚の独身女性ではなく既婚者(夫はプロレスライター)だったりします。
・・・にも関わらず、香山リカが勝間和代に吠え続けるのは、彼女がステレオタイプの「成功」や「しあわせの基準」は、人を不幸にすると実感しているからでしょう・・・精神科医としても、彼女個人としても。
香山リカにとって「しあわせ」は個人的なことですが、勝間和代の「しあわせ」は社会的な成功やステレオタイプのイメージに依存して成り立つ「しあわせ」のような気がしてならないのです。
個々の「しあわせ」を追求するカヤマー的な生き方は勝手気ままのようですが、実は揺るがない自分の価値観をしっかりと持つ強さも必要だったりします。
カツマーも努力も大変ではありますが、カヤマーも決して楽ちんではないということです。

最後まで見解のすり合わせずもせずに、お互いの立場を守り抜いくという対談本も珍しいかもしれません。
僕には、時々ふたりの論争は「母=勝間和代、娘=香山リカ」というような食い違いのような気がする瞬間が時々がありました。
ふたりの結びの言葉も対照的で、厭味を含みながら歯の浮くような感謝の言葉を投げかける勝間和代に対して、ハッキリと「やっぱり勝間さんとは合わない」と決別宣言をする香山リカ・・・。
「嫌いだ!」と言われても自我を突き通す勝間和代の受け流し方にウザさを感じ、理性を保ちながらも感情的に「嫌いだ!」と素直に訴える香山リカに共感を感じてしまう僕は、やはりカツマー的な成功者ではなく、カヤマー的な落伍者になるべくしてなっているのだと、今さらながら思うのでした。



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2010/01/09

まるで海老蔵のガチャガチャ!5時間出ずっぱりのワンマンショー!~慙紅葉汗顔見勢 伊達の十役/新橋演舞場~



伊達騒動を描いた「慙紅葉汗顔見勢 伊達の十役」というのは、19世紀初頭に七代目団十郎によって初演されたのですが、その後幻の狂言として再演されることはなかったそうです。
恥も外聞もかまわずに紅葉のように顔を真っ赤にして大汗を流して演じたらしい(題名の由来)ので、体力的にも大変厳しい芝居であったことは想像ができます。
今から約30年前に市川猿之助によって蘇えり、その後何度も再演され猿之助の「十八番」となりました。
そして今回、本家の成田屋(海老蔵)によって再び「伊達の十役」が演じられるに至ったというのは、歌舞伎の歴史に刻まれるのではないかと感じずにはいられません。

猿之助が初演した時にも僕は観ているはずなのですが、いつものことながら内容はすっかり忘れてしまっており、見所が出てくると「そうだ、そうだ」と思い出しているという始末でした。
お家騒動を描いているので、いろいろな伏線や因縁などが絡んでくるのではありますが「伊達の十役」というお芝居は、何はともあれ主演役者が主要人物のすべてを早変わりで演じるという事を楽しむというのが醍醐味だと思います。
老若男女善悪の役柄を、入れ替わり立ち替わり海老蔵が若い体力でサクサクと早変わりをしながら、演じ分けていきます。
立役を演じることが多い海老蔵が、殿様の息子を守るために自分の息子を目の前で殺されるても感情を押し殺す難しい母親役に挑戦しているのですが、これが思いの外の熱演でした。
若さと端正な顔立ちということもあって、普段では観ることの少ない綺麗な女形の海老蔵をじっくりと観れるといのも、このお芝居の楽しいところです。
早変わりの圧巻は、花道でのすれ違いざま一瞬にして衣装が入れ替わっているところでしょう。
猿之助の時代から僕は何度も観ている場面ですが、どのようにして入れ替わるのかがいまだに分かりません・・・何か衣装に仕掛けがあるようなのですが。
立役の中でも海老蔵が得意とする荒事の男之助役になると、やはり睨みまくりで生き生きと演じているなぁと感じてしまうのは仕方ないのかもしれません。
仁木弾正役での宙づりでの退場シーンは、猿之助演出のスペクタクルなシーンで、技術の進化とともに仕掛けの機械も小型化して、本当に宙に浮いているようで、ますます幻想的になったような気がします。
しかし、アナログな歌舞伎の様式というのも特殊効果のようなものです。
海老蔵が目の見開いて睨むと、舞台上から客席まで距離があるのに、顔がアップのように感じてしまう迫力でした。
十役の中で、一番海老蔵がのびのびと演じているのは悪役の土手の道哲役で、生意気でありながら憎めない”素の海老蔵”にもかぶるような気がします。

去年の夏の「石川五右衛門」は、海老蔵の「金太郎飴」のようでしたが、今回の「伊達の十役」は例えるならば「ガチャガチャ」のような感じで、次から次へと違う形の海老蔵が出てくるといったお芝居でした。

初春長田歌舞伎「慙紅葉汗顔見勢 伊達の十役」
市川海老蔵、市川右近、中村獅童、市川春猿、片岡市蔵、市川猿弥
2010年1月2日~26日新橋演舞場

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2010/01/04

2009年公開の映画ベストワン?若手俳優たち怪演の変態純愛映画!〜「愛のむきだし」〜



2009年に劇場公開されたの映画ベスト10が、あちこちで発表され始めましたが・・・僕がまったくのノーマークだった園子温(そのしおん)監督の「愛のむきだし」という2009年1月に劇場公開された邦画が、いくつかのベスト10に入っているのを見かけました。
アメリカ在住の映画評論家の町山智浩氏に至っては、この映画のDVDをベスト10リスト作成の数時間前に観て「グランド・トリノ」を抜いて、ベストワンに挙げたほどです。
クリント・イーストウッド主演監督の「グランド・トリノ」は僕の2009年のベストワンでしたので、それを差しおいてまで、ベストワンに挙げてしまう「愛のむきだし」とは、どんな映画なんでしょう・・・。

愛のむきだし」は、本編が4時間という長尺であるにも関わらず、先の読めない不条理かつ破滅的展開で、退屈を感じることもなく全編をみせてしまいます。
ユウ(西島隆弘)は、カソリック神父となった父の愛を確かめるように、罪を作り懺悔を繰り返すうちに、カリスマ盗撮師という”変態”になってしまう高校生です。
母の面影のある”マリア”を求めているのですが、盗撮しても女性に対して勃起しません。
ある日、女囚さそり(梶芽衣子)のコスプレ女装をして街を歩いている時に、男を嫌悪するヨーコ(満島ひかり)と出会い、恋に落ちます。
ユウは初めて”勃起”を経験します。
ユウはヨーコを”マリア”として愛を貫くのですが、それはヨーコのパンチラを見ると瞬時に”勃起”してしまうという”純愛”なのです。
新興宗教幹部の小池(安藤サクラ)によって、ヨーコは拉致、洗脳されてしまうのですが、その後は予想不可能な節操のない展開をしていきます。
この映画が実話をベースに作られたというのは驚愕です。
この純愛の行く末には、ユウの”勃起”が重要なのですが、これほど感動的(?)な勃起シーンというのは映画史上ないかもしれません。
まついなつき(子育てマンガで知られているが1980年頃はサブカル系の変態マンガ家?)の名言を思い出しました・・・「好きだというかわりにチンチン勃ててね」

ある意味コメディのようでありながら訴えているテーマは妙にシリアスで、”変態”と”宗教”が紙一重の危ない描写は、ひさうちみちお的な不条理の世界に似ているようにも思います。
ただ、この不可思議な映画を成立させているのは、若手俳優たち(西島隆弘、満島ひかり、安藤サクラ)の”熱演”というか”怪演”に尽きると言っても過言ではないでしょう。
ユウ役の西島隆弘は、草食系の美形の若手なのですが、屈折した変態的な役柄になりきって共感できました。
ヨーコ役の満島ひかりは、どこにでもいそうな美少女アイドルのようだけど、小悪魔的で破滅的、狂気に取り憑かれたような根性のある演技で、背筋が凍るような感動を与えてくれました。
小池役の安藤サクラは奥田瑛二の娘だそうですが、狂った新興宗教幹部を独特のテンションで不気味に演じており、将来的には白石加代子系の怖い女優さんになるかもしれません。

プロダクションのスケールも小さくて、インディーズ映画っぽい「愛のむきだし」をハリウッド映画の「グランド・トリノ」と比較するのも酷なことではありますが・・・「愛のむきだし」はバカバカしさの中に、愛の真理と哲学を描く崇高な映画でもあるのでした。

「愛のむきだし」
2009年/日本
監督 : 園子温
脚本 : 園子温
出演 : 西島隆弘、浦島ひかり、安藤サクラ、渡部篤郎、渡辺真起子



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