2019/02/04

もう「ギリシャの新しい波」ではなく「ヨーロッパ映画界の担い手」なのよ・・・ヨルゴス・ランティモスの最新作は”やっぱり”不思議なシニカルコメディ~「女王陛下のお気に入り/The Farvourite」~


「籠の中の乙女/Dogtoooth」(2009年)から注目してきた「ギリシャの新しい波」を代表するギリシャ人映画監督ヨルゴス・ランティモス・・・「ロブスター/Lobster」(2015年)以降は、活躍の場をイギリスに移して、英語による作品を制作しています。映画の中の言語が英語以外の場合、世界的な市場規模やメディアによる評価も制限されがちなので、賢明な方向性であることには間違いありません。

とは言っても・・・ヨルゴス・ランティモス監督とギリシャ人脚本家エフティミス・フィリップスとの共作による独特の世界観は「ロブスター」でも発揮されてしましたし、「聖なる鹿殺し キリング・オブ・セイクレッド・ディア/The Killing of Sacred Deer」(2017年)でもギリシャ悲劇をベースにしていたりと、「ギリシャの新しい波」らしいアイデンティティは踏襲されていたように思います。しかし、最新作「女王陛下のお気に入り/The Farvourite」は”雇われ”(?)監督という立場で制作された初のヨルゴス・ランティモス監督作品となるのです。

グレートブリテン王国の悪名高き(?)アン王女(オリビア・コールマン)の信頼を得ることは、政治的な主導権争いでもあります。王女の最も近い存在になっている女官長のレディ・サラ(レイチェル・ワイズ)は、対フランスの軍を率いる夫のモールバラ公と大蔵卿のゴルドフィンらと、さらに税金を国民に課してまでも戦争を続けたい推進派。

そこへ、サラの従姉で没落貴族のアビゲイル(エマ・ストーン)がレディ・サラを頼ってやってきます。召し使い同士のイジメに耐えながら、再び上流階級に返り咲きたいアビゲイルは、アン王女になんとかして近づこうとするのです。戦争反対派の野党のハーリーはアビゲイルを利用してアン王女とレディ・サラの動向を探ろうとしたり、アビゲイルに一目惚れしたマシャム大佐は何とかして手篭めにしようとしています。

英国宮廷の華麗ななるドロドロ・・・物語の焦点はアン王女、レディ・サラ、アビゲイルの3人で、舞台となるのもアン王女の宮殿内のみ。実際に政治や戦争の現場にいる男性たちはバックグラウンドで、女性たちがナチュラルメイクなのに、美しさにこだわっていた男性たちはカツラと化粧で滑稽な姿だったりします。レディ・サラの夫で戦争をしている当事者であるはずのモールバラ公は、影が薄過ぎて存在感が殆どないほどだったり。

数々の映画賞レースでも、オリビア・コールマン、レイチェル・ワイズ、エマ・ストーンの主演3人(賞レースでの扱いはオリビア・コールマンが主演でレイチェル・ワイズとエマ・ストーンは助演)が競っているのは、当然と言えば当然なのです。

自然光による撮影の宮廷絵巻というと「バリーリンドン」を思い起こさせますが、本作は全体的に画面は暗め・・・さらに魚眼レンズ並の広角での撮影を多用していて、宮殿で起こっている出来ごとを遠目で傍観しているかのような撮影方法です。これこそ、ヨルゴス・ランティモス監督らしいクールな視点だと思うのですが・・・めくるめく宮殿絵巻の美麗な映像を期待すると、少々地味な印象を与えるかもしれません。

ここからネタバレを含みます。


ある夜、レディ・サラの図書館に忍び込んだアビゲイルは、アン王女とレディ・サラがレズビアン関係であることを目撃します。アン王女に接近する機会を得たアビゲイルは、すかさずマッサージをする素振りから性的なサービス(映像では映しませんが舌でアソコを舐めた)をして、すっかりアン王女をそのサービスの”虜”にしてしまうのです。そして、アビゲイルは策略どおりアン王女直々の寝室つきの待女となります。

アビゲイルの次の目標はレディ・サラをアン王女から遠ざけること・・・レディ・サラの紅茶に毒を入れてしまうのです。森の中を馬で行く途中、毒が回ってレディ・サラは落馬してしまい、森のならず者の家に閉じ込められてしまいます。

レディ・サラが姿を隠しているのは、アビゲイルに肩入れしている自分を嫉妬させるためと邪推したアン王女は、捜索隊の派遣さえ出させず、アビゲイルはアン王女を取り込むことにまんまと成功するのです。上流階級への返り咲きを虎視眈々と狙っていたアビゲイルは、アン王女の計らいによりマシャム大佐と電撃結婚・・・自らの地位を確実にします。

森から大怪我をしてレディ・サラが宮殿に戻ってきますが、アン王女は野党の思惑どおり戦争終結を命令・・・戦争促進派のレディ・サラと夫のモールバラ公は追放されてしまうのです。宮殿に残されたのはアン王女とアビゲイル・・・自分の地位確保のためにアン王女を利用しただけのアビゲイルにはアン王女に対する情はありません。本当の意味で孤独になってしまったアン王女は以前に増してますます不幸になり、アビゲイルを徹底的に服従させる殺伐とした関係しかないのです。

エンディングでアビゲイルを従わせているアン王女の表情に、ウサギの群れ(アン王女は亡くなった17人の子供と同じ数のウサギを飼っていた)の映像がオーバーラップするのは、もはや自分に服従する者たちはウサギのようだ・・・というヨルゴス・ランティモス監督の皮肉のようにも思えます。正統派のドロドロ宮廷絵巻という題材により、脚本家エフティミス・フィリップスとの共作による不思議系映画というジャンルを超えて、監督としての資質を発揮したと言えるのかもしれません。

第91回アカデミー賞でも9部門最多10ノミネート(助演女優賞レイチェル・ワイズと衣装デザイン賞は獲れそう?)という評価を受けた本作・・・ヨルゴス・ランティモス監督は、もう「ギリシャの新しい波」というマイナーな存在ではなく、これからの「ヨーロッパ映画界の担い手」として認知されたといって良いのではないでしょうか?


「女王陛下のお気に入り」
原題/The Farvourite
2018年/アイルランド、アメリカ、イギリス
監督 : ヨルゴス・ランティモス
出演 : オリビア・コールマン、エマ・ストーン、レイチェル・ワイズ、ニコラ・ホルト、ジョー・アルウィン、マーク・ゲイティス
2019年2月15日より日本劇場公開



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2019/01/11

メル・オドン(Mel Odom)の妖艶な”まなざし”を思い出して・・・1980年初頭のニューヨークの空気を昇華させたイラストレーター


1970年代後半から1980年代、イラストレーターとして人気を博したメル・オドン(Mel Odom)を覚えている方っているのでしょうか?1980年代前半には、日本でも広告や雑誌に掲載され、画集も出版されたほどなので、彼の名前を知らなくてもイラストには見覚えがある方もいるかもしれません。

アンドロジナスな妖艶なまなざしが特徴的なイラストで、1970年代末期のブルーボーイ誌(きれいめのゲイ雑誌)やプレイボーイ誌に作品が掲載されて一躍人気を博しました。ホモセクシャルな官能性、アールヌボー的な装飾、アールデコな構図、テクノチックな未来っぽさ、ギリシャの肉体美、ベネチア的な絢爛さ・・・様々な要素を融合したスタイルは、まさに1980年前後のニューヨークの空気を絶妙に表現していたのです。ちょうど、この時期(1981年9月)にニューヨークに移住したばかりだったボクにとって、メル・オドンのイラストは、とても”ニューヨーク”を感じさせました。


パッと見は同時期に活躍していたペーター佐藤と同様にエアブラシによって描かれているイラストのように見えるのですが、背景やベタ部分にはグオッシュを使いシェーディング(影)や細部は色鉛筆によって丁寧にクロススティッチが駆使されています。まだ、コンピューターグラフィックスなんてもんが存在しなかった時代だからこそのテクニックとアナログな根気強さ(一枚の絵を完成するには最低でも2週間はかかるらしい)で描かれているのです。

何度かクラブでメル・オドンご本人を見かけたことがあるのですが・・・その頃、ニューヨークで活躍していたメンズファッションデザイナー/ブライアン・スコット・カー(Brian Scotto Carr)の服を着こなす”シャイなオネエさん”という印象で、自身のイラストにそっくりの”爬虫類顔”(目がギョロっとして離れていている)をしていたことには、個人的には妙に納得したものでした。画集に収録されているインタビューで好きな俳優として、テレンス・スタンプとウド・キアを挙げているのですが、確かに二人とも典型的な”爬虫類顔”です。イラストの世界観と自分自身のルックスと一致しているところは、ある意味、ゲイのクリエーターに”ありがち”なナルシシズムを感じさせます。


1980年代半ば以降、メル・オドンのイラストは急激に流行遅れのようになってしまったところはありますが、1990年代になると、Gene Doll/ジーン・ドール(1940~50年代のグラマーな女優をイメージした着せ替え人形)のデザイナーとしても活躍してカルト的な人気を博すのです。メル・オドンの表現する妖艶さとグラマラスな人形の世界観が一致した見事なコラボレーションと言えるでしょう。


現在(2019年)、大きくスタイルを変えることなく現役のイラストレーターとして活動をしています。ゲイ的なスタイルは控めに様々な媒体(メジャーな出版物からプライベートなポートレイトまで)での仕事を活発に行なっており、インスタグラムでも頻繁に発信・・・ホームページではオリジナルドローイングやプリントも販売されています。


ロンドンをベースにしたメンズファッションのブランド「QASIMI」の2019~20年秋冬コレクションでは、メル・オドンの往年のイラストをプリントしたシャツがコレクションが発表・・・1980年代調のリバイバルと共に、メル・オドンのイラストも再注目されているのかもしれません。



ボク自身のニューヨーク時代を振り返るとき・・・ゲイの友人やクリエーターの多くがAIDSで亡くなったことを思い、ついつい考え深くなってしまうことが多いのですが、今も変わらずに”活躍”されているメル・オドンの姿を拝見するのは、ボクにとって大変嬉しいことなのであります。




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2018/12/15

第1回ゴールデンラズベリー作品賞受賞の”最低ミュージカル映画”・・・ほぼオリジナルのヴィレッジ・ピープル(Village People)とディスコファッションの”タイムカプセル”としての再評価?~「ミュージック・ミュージック/Can't Stop the Music」(1980)~


アカデミー賞の授賞式のシーズンになると、話題になるのが”ダメな映画”に捧げられるゴールデンラズベリー賞(ラジー賞)なのですが・・・記念すべき第1回の作品賞を受賞したのが、ヴィレッジピープルが出演した「ミュージック・ミュージック/Can't Stop the Music」というミュージカル映画だったのであります。ヴィレッジピープルは1977年から1980年まで人気を博したゲイのコスプレをした音楽グループで、今になって振り返れば・・・LBGTの認知度を高めた功績があったと考えても良いのかもしれません。

ヴィレッジ・ピープルの最初のメンバーというのは、映画「ミュージック・ミュージック」の撮影直前までリードシンガーを務めていたヴィクター・ウィリス(警官役)で・・・数名の男性バックダンサーを率いてクラブでのパフォーマンスやテレビ番組の出演で、徐々に注目されたそうなのです。既に”リッチーファミリー”というグループで、アメリカ音楽界で成功を収めていたフランス人音楽プロデューサー/作詞作曲家(そして勿論ゲイ!)のジャック・モラリは「このコンセプトいける!」と、グループとして売り出すことを思いつきます。

偶然、グリニッチ・ヴィレッジでブーツに鈴をつけたインディアン風の格好をしていたフィリッペ・ローズ(インディアン役)を見かけたジャック・モラリは、メンバーにゲイのコスプレをさせることを思いついたそうです。こうして、リードボーカルにヴィクター・ウィリス、バックコーラスにインディアンのコスプレをしたフィリッペ・ローズというヴィレッジ・ピープルの原型が生まれます。さらに、ヴィクター・ウィリスの友人だったアレックス・ブレイリー(兵士)が参加・・・他に作業員役、カウボーイ役、レザーマン役の3名を加えて1977年にレコーディングが行なわれて、レコードレーベル”カサブランカ”からファーストアルバム「Village People」が発表されるのです。


しかし、後から加わった3名はブレーク前にクビ・・・すでに音楽界や演劇界でキャリアを積んでいた、デイヴィット・ホードー(作業員役)、ランディ・ジョーンズ(カウボーイ役)、グレン.ヒューズ(レザーマン役)と入れ替えが行なわれて、我々が知る”オリジナル”のヴィレッジ・ピープルが完成するのであります。当初、ターゲットとしていたゲイ市場からは、ゲイのイメージをおもしろおかしく茶化していると受け取られて、評判が芳しくなかったそうですが、翌年(1978年)のセカンドアルバム「Macho Man」がゲイ市場でヒット・・・続いて発表された「YMCA」を含んだサードアルバム「Cruisin'」では、より広い市場に受け入れられて大ブレークします。

日本では、西城秀樹の「YMCA」のカバー曲「ヤングマン」(1979年)が大ヒットして、ヴィレッジ・ピープルも知られる存在となるのですが・・・西城秀樹の爽やかなイメージを壊さないように、元歌はゲイのグループという事実は伏せた売り方だったのです。ベスト盤的なライブアルバムと新作アルバムの二枚組「Live & Sleazy」の制作中に、リードシンガーがヴィクター・ウィリス(ライブアルバム)からレイ・シンプソン(新作アルバム)に変更されるのですが、この頃から売り上げは下降気味・・・失速感が感じられるなか、大風呂敷を広げて制作されたのが本作「ミュージック・ミュージック」なのであります。


当時としては、そこそこの制作費(2000万ドル=当時のレートで50億円くらい)の70ミリ映画であったことや、前年「フェーム」を制作したアラン・カーがプロデュースしたということもあり、結構”大作”扱いで公開された(日本ではテアトル東京でロードショー)記憶があるのですが・・・日本では何を”売り”にしているかさえ分からないような宣伝がされてたのです。ヴィレッジピープルの”ゲイ要素”を取り除いて「ファミリー映画」として制作してしまった本作は、アメリカでも日本でも興行的には超大コケしてしまいます。まだCG効果技術が乏しかったためキラキラとした画面は安っぽくなってしまったし、スプリットスクリーンやストップモーションの使い方が古臭さく、1980年という時代性を感じさない仕上がりとなっています。


まず、本作の主役はヴィレッジ・ピープルではありません。スティーブ・グッテンバーグ演じるヴィレッジピープルの親となる作曲家のジャック・モラリを中心とした群像劇になっていて、ビレッジピープルは物語の”バックグラウンド”のような扱われ方です。当時スティーブ・グッテンバーグは新人(「ポリス・アカデミー」や「コクーン」のブレイク前)で、アメリカ的な能天気な明るさ、コメディセンスのある台詞まわし、妙にマッチョな体型のどれもがジャック・モラリというキャラクターには不要な要素で、何故キャスティングされたのか分かりません。ヴォーグ誌や広告で活躍している超売れっ子モデルのサマンサ(ヴァレリー・ペリン)の元ハウスシッターで、今は弟のような存在となっているルームメイト(恋愛要素一切なし)という設定が、そもそも無茶・・・その上、サマンサは体を張って(元カレのレコード会社社長を誘惑してまで)ジャックを売り込むのですから「二人の関係って何なの?」って話です。


自分の作曲した歌を発表するために集めたメンバーが、当時クリストファーストリート周辺のウエストヴィレッジに集まっていた(だからグループ名が”ヴィレッジピープル”)ゲイのコスプレをした”男たち”ということにも本作は特に触れることもなく・・・メンバーたち(特に作業員役のデイヴィット・ホードー)は、ほとんどストレートのような描かれ方だったりするのです。さすがに、レザーマン役のグレン・ヒューズがストレートと受け入れるには無理があると思うのですが・・・保守的なチャリティー好きのオバさま方も気付いていない様子だったりします。これって、ゲイを受け入れているのでなく、ゲイの存在自体が無視されているような印象です。


サマンサのロマンスの相手として登場する弁護士のロンを演じているのが、十種競技の金メダリスト(1976年のモントリオールオリンピック)として、鳴りもの入りで映画デビューしたブルース・ジェンナー(現‥ケイトリン・ジェンナー)というのが、今になってみれば貴重な映像となっています。元アスリートらしい筋肉隆々の姿を本作で披露しているのですが、サマンサとロンのロマンスはヒジョーに雑な扱われ方のハッピーエンディングなので、所詮は誰が演じていても変わりないような役柄・・・”ビーフケーキ”的な立ち位置で俳優業に進出しようという戦略だったのかもしれません。しかし、本作のコケっぷりと酷評もあり、その後、映画出演はなし(テレビドラマに1シーズンのみ出演あり)スポーツ番組のレポーターやクイズバラエティ番組の常連という”懐かしの人”となっていったのです・・・リアリティ番組「キーピング・アップ・ウィズ・ザ・カダーシアン(原題)/Keeping Up with the Kadashians」に出演するまでは。


2015年、テレビのインタビュー番組で性同一障害であることを告白して性転換・・・「ブルース・ジェンナー」から「ケイトリン・ジェンナー」になったことは衝撃的なニュースとして記憶に新しいところです。本人によると、最初の結婚(1972年)した時には既に性同一障害は自覚していたそうなのですが、それでも3度の結婚で実子だけで6人も授かっていたというのもビックリ。元々ハンサムな男性ではあったのですが・・・想像以上にきれいに女性化したのも驚きで、現在の姿は、でっかい”ジェシカ・ラング”(身長188cm!)みたいです。


本作はそもそも、ヴィレッジピープルが生まれるまでの過程を描く物語だったわけですが・・・事実に基づいたというのではなく、事実の断片をベースにオリジナルストーリーを創作したのかもしれません。インディアン役のフィリペ・ローズが最初のメンバーだったということ、兵士役のアレックス・ブレイリーは友達の友達というコネがあったこと、レザーマン役のグレン・ヒューズがデビューするまでトンネル料金係であったことなどは事実ようなのですが、それ以外の登場人物たち・・・ルームメイトでジャックのレコード契約を成立させるのに一役かったモデルのサマンサ、サマンサのモデルエージェントを務める社長の女性、サマンサの元カレのレコード会社の社長、そして、エンディングで大きなブレークとなるチャリティパーティーをオーガナイズするという弁護士ロンの母親など、実在しない人物ばかり本作には登場するのですから。まぁ、ファミリー向けを狙った本作で、ゲイのハッテン場(バスハウスなど)での、営業の”どさ回り時代”なんて描けるわけではないのは仕方ないですが。


どこまでも能天気な登場人物たちと呆れるほどのご都合主義の物語・・・テレビのシッコム(30分のコメディドラマ)レベルのギャグと台詞のやりとりは、極めて薄っぺらくて何も心に残らないのです。エンディングで歌われる本作の主題歌でもある「キャント・ストップ・ザ・ミュージック/Can't Stop the Music」は、さび部分が何度もリフレインされるいこともあり、映画の内容が頭に残ることがない分、耳にいつまでも残ってしまうのですが・・・これこそ、ジャック・モラリの才能と評価されるべきなのかもしれません。ほぼオリジナルのビレッジピープルのパフォーマンスの”タイムカプセル”としての意味・・・また、本作公開時には、ちょっと古臭く感じられたディスコファッションなどの風俗やニューヨークらしいベタな描写も、40年近く経った今見直してみると「こんな時代だったよね〜」と懐かしむことができるのです。


本作がコケた後、ヴィレッジピープルはかなり迷走(!)・・・レコード会社を”カサブランカ”から”RCA”に移籍して、1981年に発表された「ルネッサンス」というアルバムでは、ゲイのコスプレをあっさりと捨てて、ニューロマンティック路線に大変身を試みるものの大撃沈してしまいます。しかし(!)その後は再びゲイのコスプレ姿に戻り、メンバーを入れ替わりを何度も繰り返しながら、各地でのパフォーマンス活動を続けているのです。ただ、オリジナルメンバーを知っているボクの世代からすると、現在のヴィレッジピープルは”モノマネ芸人”としか思えない・・・という感じではありますが。


「ミュージック・ミュージック」
原題/Can't Stop the Music
1980年/アメリカ
監督 : ナンシー・ウォーカー
制作 : アラン・カー、ジャック・モラリ、アンリ・ペロロ
音楽 : ジャック・モラリ
出演 : スティーブ・グッテンバーグ、ヴァレリー・ペリン、ブルース・ジェンナー(現:ケイトリン・ジェンナー)、マリリン・ブレヒト、ポール・サンド、バーバラ・ラッシュ、ヴィレッジ・ピープル(フィリペ・ローズ、ランディ・ジョーンズ、デイヴィット・ホードー、レイ・シンプソン、アレックス・ブレイリー、グレン.ヒューズ)
1980年10月25日より日本劇場公開



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2018/11/26

”モラル”があった時代だからこそ”演じがい”のあったサディ・トンプソン(Sadie Thompson)という役を演じた三人の女優〜グロリア・スワンソン「港の女」/ジョーン・クロフォード「雨」/リタ・ヘイワース「雨に濡れた欲情」〜


サマセット・モームの短編小説「雨/Rain」(発表時は「サディ・トンプソン/Sadie Thompson」という題名)は、発表後すぐに舞台化され、演技派女優にとっては”演じてみたい役”のひとつかもしれません。「雨」を原作とした映画は、サイレント時代、トーキー初期、3D映画全盛期に3作つくられているのですが、それぞれ趣の違う作品となっているのです。


舞台となるのは、サモア諸島にあるアメリカ領のパゴパゴという島の村・・・そこに、サディ・トンプソンという派手な服装の娼婦らしき女性が、ホノルルからの船で到着します。同船していた宣教師のデヴィットソン夫妻やマックフェイル医師夫妻もサディと同じ島唯一のホテルに滞在することになるのですが、モラリストの夫妻らにとってサディの素行には目に余るものがあるのは当然です。

実はサディ・・・ある事件にサンフランシスコで巻き込まれて警察に追われている身で、逃亡先だったホノルルから逃げてきたところだったのであります。サディに一目惚れしてしまった駐留している海兵隊のオハラ軍曹は一緒にシドニーに移り住もうと誘うのですが、サディの素性を知ったデヴィットソン神父は自らの権限を使ってサディを強制的に本国へ送還させようとするのです。

見逃すように懇願するサディを宗教的な正論で跳ね返すデヴィットソン神父の言葉に、サディはキリスト教徒として開眼する(Born-Again Christian)に至ります。地味な化粧と服装で別人となったサディの信仰心から醸し出される美しさに、心を乱されたデヴィットソン神父は本国送還の前夜、サディの寝室に忍び込むのです。翌朝、漁師の網に引っかかったのは、自害したデヴィットソン神父の遺体・・・「男なんて汚らしいブタだよ」と捨て台詞を吐いて、サディは以前のような娼婦の姿に戻ります。

当然ながら、サディの寝室で何が起こったかは描かれません。ちょっとした謎なのですが、おそらくサディを強姦して自らの自責の念で自殺したということのようです。派手な娼婦がクリスチャンに転向して地味なったかと思ったら派手に戻るのも・・・神の教えを説いていた神父も実は他の男と同じように性欲をもっていたという”どんでん返し”(?)も通用しなくなってしまったのも、本作が前提としていた”モラル”自体が崩壊してしまった今では、どうでもいいような話かもしれません。


サディ・トンプソンを映画作品で最初に演じたのは、サイレント映画時代の1928年にグロリア・スワンソン(港の女/Sadie Thompson)で、原作の時代性と最も近いような気がします。とんでもない大女優だったグロリア・スワンソンは、姉御肌の高級情婦といった感じで・・・当時流行した”モダンガール”のような印象です。キリスト教に目覚めるシーンでは、サディの姿が神々しく光り出すというメチャ分かりやすいサイレント映画らしい演出ですが、ある種、感動的であります。


残念なのは・・・この「港の女」の最後の巻が現存せず、スチール写真が数枚しか残っていないこと。エンディングは、残された脚本と写真からしか想像するしかないのですが、意外にあっさりとした終わり方だったような感じです。


「港の女」が制作されてから、僅か4年後の1932年・・・トーキー映画の時代となり、再び映画化されることになります。同年「グランドホテル」でスター仲間入りをしたジョーン・クロフォードが、直談判して当時所属していたMGMからユナイテッドアーツに貸し出される形(現在フィルムはMGM所有)で、主演したのが「雨/Rain」なのです。ジョーン・クロフォードとしては演技派女優として認められたいという一心だったようですが、当時はまだ技量的に厳しいものがあったようで評判は散々だったと言われています。


グロリア・スワンソンと違って・・・ジョーン・クロフォードが演じたサディは、いかにも”娼婦”というイデタチで、濃い化粧に派手な胸の開いたドレス、フィッシュネットタイツに下品なプラットフォームのパンプス、両手にはジャラジャラと腕輪を何重にもつけているという”下品”を絵に描いたような格好です。目も当てられないほどの棒読み演技で、クリスチャンとして生まれかわるのも唐突すぎる印象・・・ただ、質素で地味な姿は、ジョーン・クロフォードが本来持っている素の美しさが際立っていることは否定できません。

何故か、日本では故淀川長治氏が、ジョーン・クロフォードの代表作として本作を「淀川長治の名作100選」の一作に選んでいたこともあり、後年の「何がジェーンに起こったか?」と並んで昔から日本国内ではDVD化もされているのです。ボクのようなジョーン・クロフォードのファンには、見逃せない作品ではあるものの・・・1930年代、ハリウッド黄金時代のジョーン・クロフォードの主演作品としては、クラーク・ゲーブルとの共演作品の方がオススメであります。(めのおかし参照)


3度目の映画化は、ハリウッドで3D映画が流行していた1953年の「雨に濡れた欲情/Miss Sadie Thompson」で、3Dで制作されたのです。しかし公開時、3Dでの上映は2週間のみでアメリカで広く公開されたのは2Dバージョンが多かったそうです。(翌年の日本公開された際には2Dのみ上映)現在、Twilight Time/トワイライト・タイム(3000枚限定販売のレーベル)から復刻された3Dバージョンのブルーレイが販売(在庫限り)されています。


アクションでもなく、ホラーでもない、本作のような作品が3Dの意味ってあったの?と疑問に思ったのですが、実際に視聴してみると主演のリタ・ヘイワースの肉体の生々しさには、大きく一役かっているのです。特に、スケスケのレースのドレス姿で兵士たちの前で踊るミュージカルシーン(本作はミュージカルナンバーのあるミュージカル映画!)は、公開時には各国で上映禁止になったのも納得してしまうほど・・・本作は「醜聞殺人事件」「サロメ」に続くリタ・ヘイワース復帰3作目でもあり、当時限界ギリギリの汗ばんだ肉体のセクシーさ炸裂なのであります。

前二作では亜熱帯特有のスコール=雨が、ウェットでダークな印象を与えましたが、本作は観光映画のような鮮やかなテクニカラーとリタ・ヘイワースの明るいエロティズムで、イカニモなハリウッド映画に仕上がっています。神父が自殺するというサプライズ展開には変わりはありませんが・・・エンディングもサディがオハラ軍曹よりも先にシドニーに向かって旅立つという、ある意味”ハッピーエンド”になっているのです。

アンチ・クリスチャン的「宗教の不信」も大好物のボクにとっては、約100前に書かれたサマセット・モームの短編小説を原作とした映画3作品も、一種の”おキャンプ映画”として味わってしまうのであります。

「港の女」
原題/Sadie Thompson
1928年/アメリカ
監督 : ラオール・ウォルシュ
出演 : グロリア・スワンソン、ライオネル・バリモア、ラオール・ウォルシュ
1929年11月、日本劇場公開

「雨」
原題/Rain
1932年/アメリカ
監督 : ルイス・マイルストン
出演 : ジョーン・クロフォード、ウォルター・ヒューストン、ウィリアム・ガーガン
1933年9月、日本劇場公開


「雨に濡れた欲情」
原題/Miss Sadie Thompson
1953年/アメリカ
監督 : カーティス・バーンハート
出演 : リタ・ヘイワース、ホセ・ファーラー、アルド・レイ
1954年2月17日、日本劇場公開



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2018/10/13

「アメリカン・ギニーピッグ」シリーズが続々リリース!・・・血まみれの”エクソシスト”とイタリアの”ギニーピッグ”オマージュ~「アメリカン・ギニーピッグ:ソング・オブ・ソロモン(原題)/American Guinea Pig: Song of Solomon」「アメリカン・ギニーピッグ:サクリファイス(原題)/American Guinea Pig: Sacrifice」~



あの「ギニーピッグ」リリーズの”正統な”スピンオフとして、ステファン・バイロ氏率いるアメリカのアンアースド・フィルムス(Unearthed Films)から、シリーズ3作目となる「アメリカン・ギニーピッグ:ソング・オブ・ソロモン(原題)」と4作目となる「アメリカン・ギニーピッグ:サクリファイス(原題)」が続けてリリースされました。


「アメリカン・ギニーピッグ:ソング・オブ・ソロモン(原題)/American Guinea Pig: Song of Solomon」は、1作目「アメリカン・ギニーピッグ~血と臓物の花束~」のステファン・バイロ監督が再びメガホンを取っています。前作はオリジナルの「ギニーピッグ」シリーズへのオマージュでしたが、本作はジャンルとしては”エクソシスト”ものです。

父親(ステファン・バイロ)の自殺という衝撃的な光景を目の前にした娘のメリー(ジェシカ・キャメロン)は、悪魔に取り憑かれてしまいます。どうやら、メリーは父親の社会的な立場を傷つけるようなことを言いふらしていたようなのです。父親は自分で喉を切り裂くだけでなく、その切り口から指を突っ込んで舌を引っ張り出すという・・・ちょっとアリエナイ自殺方法であります。


その後、PTSDではない奇妙な症状がメリーに現れたため、メリーの母親スーザン(モリーン・ペラマッティ)がファミリーカウンセラーのリチャードソン医師(スコット・アラン・ワーナー)に相談したところ、カウンセリングでは手に負える事態ではないと、悪魔払い(エクソシスト)を奨められるのです。そこで、カソリック教会長(アンディ・ウィトソン)により、メリーの元に神父が送り込まれることになります。

母親のスーザンとホームドクターとなったジョンソン医師(ジョッシュ・タウンゼン)が自宅の一階で待機する中・・・、コービン神父(ジーン・パルビッキ)、ブレーク神父(ジム・ヴァン・ベーバー)により、メリーにエクソシストの儀式が行なわれるのですが、メリーに取り憑いた悪魔の力に敗北して(エクソシストに失敗した神父は魂を失うらしい)、舌を引き抜いたり指で目玉を引き抜くなどの自傷行為で、血みどろの肉体破壊をしていくことになるのです。


ここから「アメリカン・ギニーピッグ:ソング・オブ・ソロモン」のネタバレを含みます。

実は、カソリック教会長は、アンチクライスト(反キリスト)が世界を支配した7年後にアンチクライストとすべての悪を滅ぼすためにキリストが地上再臨することを求めて・・・アンチクライストの誕生を目論んでいたのです。そのためには”ソロモンの歌”(愛の歌)の”本当の意味”がキーとなるらしいのです。

続いて派遣されたローレンス神父(スコット・ギャビー)の目の前で、メリーは自分の内蔵を一度吐き出して、再びそれらを口から食べて戻してみせます。ローレンス神父は自ら腕を切り裂き、そこから滴る生き血で洗礼を試みるものの失敗・・・メリーは部屋に入ってきた看護婦を素手で殺し、ローレンス神父の息の根も止めてしまうのです。


最後に派遣されてきたのは、童貞のパウウェル神父(デヴィット・E・マックマホン)・・・正体をあらわにした悪魔のメリーと二人きりで向き合います。パウウェル神父の純潔な祈りは、メリーの腕や足を歪ませて骨が破壊してしまうほどです。身動きが取れなくなったメリーの上に覆いかぶさって、パウウェル神父はメリーを強姦します。行為が終わると、メリーのお腹はみるみる大きくなるのです。そのお腹から素手で引っ張り出したのは、アンチクライストとして誕生した赤ん坊であります。

赤ん坊を抱えたパウウェル神父を待ち構えていたのは、誰あろうカソリック教会長です。自らの行為の意味を理解したパウウェル神父は、その場で十字架を目に突き刺して自害・・・キリストの再臨のためのアンチクライストは、こうしてカソリック教会長の手に渡ったのであります!


「エクソシスト」ものの二番煎じかと思っていたらビックリ・・・聖書の終末思想的予言(?)にスポットを当てるという”クリスチャン”だったからこそできる”反クリスチャン”=サタニスト的な世界観だったのであります。

本作のため、バチカンでエクソシストの儀式についてリサーチをしたそうなのですが、ステファン・バイロ氏が本物の神父と勘違いされて、門外不出の資料もみることができたそうで、本作で描かれているエクソシストの儀式はバイロ氏によると・・・「かなり本物に近い」ということです。(ホントかよ?)

本作で残念なのは・・・悪魔に取り憑かれる娘のメリーが全然少女っぽくないこと。やたら顔のドアップが多いので開いた毛穴が目立つし、妙にムチムチした体型にネグリジェ姿なので”オバちゃん”にしか見えないのです。演じている女優さんはプロフィールで年齢未公開なので実年齢は分かりませんが、2008年頃から女優として活躍しているので若く見積もっても20代後半ぐらいでしょうか?インタビュー映像では普通にキレイな女優さんなのですが、悪魔に取り憑かれていくにつれて”汚い大人の女”にしか見えないのであります。


もうひとつ残念なところは、一部のキャストの明らかな演技力不足・・・特に重要な役柄であるはずのカソリック教会長と母親スーザンは、台詞を言わされている感が強くて、本作の緊迫感を伝えきれていません。

「アメリカン・ギニーピッグ」シリーズの第3作目として位置づけされている作品ではあるのですが、広報的に「アメリカン・ギニーピッグ」は前面には出されていません。これは「ギニーピッグ」というタイトルだと、販売したがらない小売店が存在するという事情があるらしいのですが・・・本末転倒な話です。ただ「ギニーピッグ」らしいさは炸裂しており、シリーズの中で高く評価されるべき一作だと思います。


「アメリカン・ギニーピッグ」シリーズ第4作目に位置づけられる「アメリカン・ギニーピッグ:サクリファイス(原題)/American Guinea Pig: Sacrifice」は、これまで3作品と全く違う事情のある作品かもしれません。

本作は女優、モデル、キックボクサー、ボディペインとアーティストとしても活躍する(?)ポイズン・ルージュ(Poison Rouge)の初監督作品を、ステファン・バイロ氏が気に入り「アメリカン・ギニーピッグ」シリーズとしたというのです。制作に関わっていない映像作品を、あとからシリーズに加えるのもありならば・・・今後「アメリカン・ギニーピッグ」シリーズの作品も増えるかもしれません。


本作の出演者は基本的に一人で、台詞は殆どなく(僅かなモノローグだけ)・・・ひとりの男性(全編ほぼ半裸)が、ひたすらに自傷行為する様子を淡々と映し出しているのですが、撮影されれているのは殆ど浴室内のみで、超クロースアップを多用して撮られています。

オリジナル「ギニーピッグ」シリーズの第3作目「ギニーピッグ3 戦慄”死なない男」のパロディのようでもありますが、ドラマ仕立てでもコメディ調ではなく、オリジナルの第1作目の「ギニーピッグ 悪魔の実験」や、穴留玉狂監督の「私の赤い腸(はな)」のように、イメージを積み重ねているのです。

両親との精神的なトラウマを抱えるダニエル(ロベルト・スコーザ)は父親の死後、生まれ育った実家にひとりで戻ってきます。そして、バスルームを閉め切り、ある文献に従って自傷行為の儀式を始めるのです。

まず、ナイフで手のひらを裂き、その傷口の愛撫するかのように舐めます。そして、額の正面にナイフで8文字のシンボルを切り込み、マイナスドライバーでその中心を突き刺すのです。ドライバーの先端が頭蓋骨を姦通して脳にも達しているようで、朦朧としながら恍惚感に震えるのです。自傷行為というのは、ある意味、自慰行為であるわけで・・・切り口が女性器、凶器は男性器を比喩しているのかもしれません。


ここから「アメリカン・ギニーピッグ:サクリファイス」のネタバレを含みます。


浴室で行なわれる自傷儀式と並行して、フラッシュバックのように挿入されるイメージ・・・ダニエルのトラウマの原因であろう両親の喧嘩をする様子だったり、女性器の中のような洞窟のビーチに全裸で佇むダニエルであったり、ダニエルが崇拝する女神イシュタルの姿であったりするのですが、具体的な説明はありません。


浴室で全身血まみれになりながらも、足の指のツメを剥いだり、電動ドリルで額に穴を開けたり、尿道にドライバーを突っ込んだり(個人的にはコレだけは正視できなかった!)と、止血を繰り返しながら行なわれる拷問のような自傷行為はエスカレートしていき、男性器の切除=去勢まで行き着くのは必然なのかもしれません・・・。

最後に、浴槽に横たわり腹を切り裂き、自らの手で腸や内臓をつまみ出すことにより、ダニエルは遂に息を引き取ります。彼の脳裏には女神イシュタルへ変容した自分の姿が現れますが・・・彼の亡骸は浴槽に放置されて、ウジがわくほど腐敗していくだけなのです。


イシュタル信仰と生け贄として自らを捧げた男の物語として解釈することはできますが・・・根底には、目を覆いたくなるような自傷行為を具現化して(ある意味、性的な?)作り手の嗜好を満足させているという点で、本作は「アメリカン・ギニーピッグ」の冠をかざすに相応しい作品ではあります。

第1作目の「アメリカン・ギニーピッグ~血と臓物の花束~」は、オリジナルの焼き直しで拍子抜けしたのですが・・・2作、3作、4作シリーズ化として連作されるごとに、オリジナルシリーズへオマージュを捧げながら、より残虐嗜好の闇を掘り下げていくようです。オリジナルと同様に、トラウマ映画シリーズとして語り継がれていくようになるのかもしれません。


「アメリカン・ギニーピッグ:ソング・オブ・ソロモン(原題)」
原題/American Guinea Pig: Song of Solomon
2017年/アメリカ
監督 : ステファン・バイロ
出演 : ジェシカ・キャメロン、スコット・ガビー、デヴィット・E・マックマホン、ジーン・パルビッチ、モリーン・ペラマッティ
日本未公開


「アメリカン・ギニーピッグ:サクリファイス(原題)」
原題/American Guinea Pig: Sacrifice
2017年/イタリア
監督 : ポイズン・ルージュ
出演 : ロベルト・スコーザ、フローラ・ギアナタシオ
日本未公開

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