2018/11/26

”モラル”があった時代だからこそ”演じがい”のあったサディ・トンプソン(Sadie Thompson)という役を演じた三人の女優〜グロリア・スワンソン「港の女」/ジョーン・クロフォード「雨」/リタ・ヘイワース「雨に濡れた欲情」〜


サマセット・モームの短編小説「雨/Rain」(発表時は「サディ・トンプソン/Sadie Thompson」という題名)は、発表後すぐに舞台化され、演技派女優にとっては”演じてみたい役”のひとつかもしれません。「雨」を原作とした映画は、サイレント時代、トーキー初期、3D映画全盛期に3作つくられているのですが、それぞれ趣の違う作品となっているのです。


舞台となるのは、サモア諸島にあるアメリカ領のパゴパゴという島の村・・・そこに、サディ・トンプソンという派手な服装の娼婦らしき女性が、ホノルルからの船で到着します。同船していた宣教師のデヴィットソン夫妻やマックフェイル医師夫妻もサディと同じ島唯一のホテルに滞在することになるのですが、モラリストの夫妻らにとってサディの素行には目に余るものがあるのは当然です。

実はサディ・・・ある事件にサンフランシスコで巻き込まれて警察に追われている身で、逃亡先だったホノルルから逃げてきたところだったのであります。サディに一目惚れしてしまった駐留している海兵隊のオハラ軍曹は一緒にシドニーに移り住もうと誘うのですが、サディの素性を知ったデヴィットソン神父は自らの権限を使ってサディを強制的に本国へ送還させようとするのです。

見逃すように懇願するサディを宗教的な正論で跳ね返すデヴィットソン神父の言葉に、サディはキリスト教徒として開眼する(Born-Again Christian)に至ります。地味な化粧と服装で別人となったサディの信仰心から醸し出される美しさに、心を乱されたデヴィットソン神父は本国送還の前夜、サディの寝室に忍び込むのです。翌朝、漁師の網に引っかかったのは、自害したデヴィットソン神父の遺体・・・「男なんて汚らしいブタだよ」と捨て台詞を吐いて、サディは以前のような娼婦の姿に戻ります。

当然ながら、サディの寝室で何が起こったかは描かれません。ちょっとした謎なのですが、おそらくサディを強姦して自らの自責の念で自殺したということのようです。派手な娼婦がクリスチャンに転向して地味なったかと思ったら派手に戻るのも・・・神の教えを説いていた神父も実は他の男と同じように性欲をもっていたという”どんでん返し”(?)も通用しなくなってしまったのも、本作が前提としていた”モラル”自体が崩壊してしまった今では、どうでもいいような話かもしれません。


サディ・トンプソンを映画作品で最初に演じたのは、サイレント映画時代の1928年にグロリア・スワンソン(港の女/Sadie Thompson)で、原作の時代性と最も近いような気がします。とんでもない大女優だったグロリア・スワンソンは、姉御肌の高級情婦といった感じで・・・当時流行した”モダンガール”のような印象です。キリスト教に目覚めるシーンでは、サディの姿が神々しく光り出すというメチャ分かりやすいサイレント映画らしい演出ですが、ある種、感動的であります。


残念なのは・・・この「港の女」の最後の巻が現存せず、スチール写真が数枚しか残っていないこと。エンディングは、残された脚本と写真からしか想像するしかないのですが、意外にあっさりとした終わり方だったような感じです。


「港の女」が制作されてから、僅か4年後の1932年・・・トーキー映画の時代となり、再び映画化されることになります。同年「グランドホテル」でスター仲間入りをしたジョーン・クロフォードが、直談判して当時所属していたMGMからユナイテッドアーツに貸し出される形(現在フィルムはMGM所有)で、主演したのが「雨/Rain」なのです。ジョーン・クロフォードとしては演技派女優として認められたいという一心だったようですが、当時はまだ技量的に厳しいものがあったようで評判は散々だったと言われています。


グロリア・スワンソンと違って・・・ジョーン・クロフォードが演じたサディは、いかにも”娼婦”というイデタチで、濃い化粧に派手な胸の開いたドレス、フィッシュネットタイツに下品なプラットフォームのパンプス、両手にはジャラジャラと腕輪を何重にもつけているという”下品”を絵に描いたような格好です。目も当てられないほどの棒読み演技で、クリスチャンとして生まれかわるのも唐突すぎる印象・・・ただ、質素で地味な姿は、ジョーン・クロフォードが本来持っている素の美しさが際立っていることは否定できません。

何故か、日本では故淀川長治氏が、ジョーン・クロフォードの代表作として本作を「淀川長治の名作100選」の一作に選んでいたこともあり、後年の「何がジェーンに起こったか?」と並んで昔から日本国内ではDVD化もされているのです。ボクのようなジョーン・クロフォードのファンには、見逃せない作品ではあるものの・・・1930年代、ハリウッド黄金時代のジョーン・クロフォードの主演作品としては、クラーク・ゲーブルとの共演作品の方がオススメであります。(めのおかし参照)


3度目の映画化は、ハリウッドで3D映画が流行していた1953年の「雨に濡れた欲情/Miss Sadie Thompson」で、3Dで制作されたのです。しかし公開時、3Dでの上映は2週間のみでアメリカで広く公開されたのは2Dバージョンが多かったそうです。(翌年の日本公開された際には2Dのみ上映)現在、Twilight Time/トワイライト・タイム(3000枚限定販売のレーベル)から復刻された3Dバージョンのブルーレイが販売(在庫限り)されています。


アクションでもなく、ホラーでもない、本作のような作品が3Dの意味ってあったの?と疑問に思ったのですが、実際に視聴してみると主演のリタ・ヘイワースの肉体の生々しさには、大きく一役かっているのです。特に、スケスケのレースのドレス姿で兵士たちの前で踊るミュージカルシーン(本作はミュージカルナンバーのあるミュージカル映画!)は、公開時には各国で上映禁止になったのも納得してしまうほど・・・本作は「醜聞殺人事件」「サロメ」に続くリタ・ヘイワース復帰3作目でもあり、当時限界ギリギリの汗ばんだ肉体のセクシーさ炸裂なのであります。

前二作では亜熱帯特有のスコール=雨が、ウェットでダークな印象を与えましたが、本作は観光映画のような鮮やかなテクニカラーとリタ・ヘイワースの明るいエロティズムで、イカニモなハリウッド映画に仕上がっています。神父が自殺するというサプライズ展開には変わりはありませんが・・・エンディングもサディがオハラ軍曹よりも先にシドニーに向かって旅立つという、ある意味”ハッピーエンド”になっているのです。

アンチ・クリスチャン的「宗教の不信」も大好物のボクにとっては、約100前に書かれたサマセット・モームの短編小説を原作とした映画3作品も、一種の”おキャンプ映画”として味わってしまうのであります。

「港の女」
原題/Sadie Thompson
1928年/アメリカ
監督 : ラオール・ウォルシュ
出演 : グロリア・スワンソン、ライオネル・バリモア、ラオール・ウォルシュ
1929年11月、日本劇場公開

「雨」
原題/Rain
1932年/アメリカ
監督 : ルイス・マイルストン
出演 : ジョーン・クロフォード、ウォルター・ヒューストン、ウィリアム・ガーガン
1933年9月、日本劇場公開


「雨に濡れた欲情」
原題/Miss Sadie Thompson
1953年/アメリカ
監督 : カーティス・バーンハート
出演 : リタ・ヘイワース、ホセ・ファーラー、アルド・レイ
1954年2月17日、日本劇場公開



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2018/10/13

「アメリカン・ギニーピッグ」シリーズが続々リリース!・・・血まみれの”エクソシスト”とイタリアの”ギニーピッグ”オマージュ~「アメリカン・ギニーピッグ:ソング・オブ・ソロモン(原題)/American Guinea Pig: Song of Solomon」「アメリカン・ギニーピッグ:サクリファイス(原題)/American Guinea Pig: Sacrifice」~



あの「ギニーピッグ」リリーズの”正統な”スピンオフとして、ステファン・バイロ氏率いるアメリカのアンアースド・フィルムス(Unearthed Films)から、シリーズ3作目となる「アメリカン・ギニーピッグ:ソング・オブ・ソロモン(原題)」と4作目となる「アメリカン・ギニーピッグ:サクリファイス(原題)」が続けてリリースされました。


「アメリカン・ギニーピッグ:ソング・オブ・ソロモン(原題)/American Guinea Pig: Song of Solomon」は、1作目「アメリカン・ギニーピッグ~血と臓物の花束~」のステファン・バイロ監督が再びメガホンを取っています。前作はオリジナルの「ギニーピッグ」シリーズへのオマージュでしたが、本作はジャンルとしては”エクソシスト”ものです。

父親(ステファン・バイロ)の自殺という衝撃的な光景を目の前にした娘のメリー(ジェシカ・キャメロン)は、悪魔に取り憑かれてしまいます。どうやら、メリーは父親の社会的な立場を傷つけるようなことを言いふらしていたようなのです。父親は自分で喉を切り裂くだけでなく、その切り口から指を突っ込んで舌を引っ張り出すという・・・ちょっとアリエナイ自殺方法であります。


その後、PTSDではない奇妙な症状がメリーに現れたため、メリーの母親スーザン(モリーン・ペラマッティ)がファミリーカウンセラーのリチャードソン医師(スコット・アラン・ワーナー)に相談したところ、カウンセリングでは手に負える事態ではないと、悪魔払い(エクソシスト)を奨められるのです。そこで、カソリック教会長(アンディ・ウィトソン)により、メリーの元に神父が送り込まれることになります。

母親のスーザンとホームドクターとなったジョンソン医師(ジョッシュ・タウンゼン)が自宅の一階で待機する中・・・、コービン神父(ジーン・パルビッキ)、ブレーク神父(ジム・ヴァン・ベーバー)により、メリーにエクソシストの儀式が行なわれるのですが、メリーに取り憑いた悪魔の力に敗北して(エクソシストに失敗した神父は魂を失うらしい)、舌を引き抜いたり指で目玉を引き抜くなどの自傷行為で、血みどろの肉体破壊をしていくことになるのです。


ここから「アメリカン・ギニーピッグ:ソング・オブ・ソロモン」のネタバレを含みます。

実は、カソリック教会長は、アンチクライスト(反キリスト)が世界を支配した7年後にアンチクライストとすべての悪を滅ぼすためにキリストが地上再臨することを求めて・・・アンチクライストの誕生を目論んでいたのです。そのためには”ソロモンの歌”(愛の歌)の”本当の意味”がキーとなるらしいのです。

続いて派遣されたローレンス神父(スコット・ギャビー)の目の前で、メリーは自分の内蔵を一度吐き出して、再びそれらを口から食べて戻してみせます。ローレンス神父は自ら腕を切り裂き、そこから滴る生き血で洗礼を試みるものの失敗・・・メリーは部屋に入ってきた看護婦を素手で殺し、ローレンス神父の息の根も止めてしまうのです。


最後に派遣されてきたのは、童貞のパウウェル神父(デヴィット・E・マックマホン)・・・正体をあらわにした悪魔のメリーと二人きりで向き合います。パウウェル神父の純潔な祈りは、メリーの腕や足を歪ませて骨が破壊してしまうほどです。身動きが取れなくなったメリーの上に覆いかぶさって、パウウェル神父はメリーを強姦します。行為が終わると、メリーのお腹はみるみる大きくなるのです。そのお腹から素手で引っ張り出したのは、アンチクライストとして誕生した赤ん坊であります。

赤ん坊を抱えたパウウェル神父を待ち構えていたのは、誰あろうカソリック教会長です。自らの行為の意味を理解したパウウェル神父は、その場で十字架を目に突き刺して自害・・・キリストの再臨のためのアンチクライストは、こうしてカソリック教会長の手に渡ったのであります!


「エクソシスト」ものの二番煎じかと思っていたらビックリ・・・聖書の終末思想的予言(?)にスポットを当てるという”クリスチャン”だったからこそできる”反クリスチャン”=サタニスト的な世界観だったのであります。

本作のため、バチカンでエクソシストの儀式についてリサーチをしたそうなのですが、ステファン・バイロ氏が本物の神父と勘違いされて、門外不出の資料もみることができたそうで、本作で描かれているエクソシストの儀式はバイロ氏によると・・・「かなり本物に近い」ということです。(ホントかよ?)

本作で残念なのは・・・悪魔に取り憑かれる娘のメリーが全然少女っぽくないこと。やたら顔のドアップが多いので開いた毛穴が目立つし、妙にムチムチした体型にネグリジェ姿なので”オバちゃん”にしか見えないのです。演じている女優さんはプロフィールで年齢未公開なので実年齢は分かりませんが、2008年頃から女優として活躍しているので若く見積もっても20代後半ぐらいでしょうか?インタビュー映像では普通にキレイな女優さんなのですが、悪魔に取り憑かれていくにつれて”汚い大人の女”にしか見えないのであります。


もうひとつ残念なところは、一部のキャストの明らかな演技力不足・・・特に重要な役柄であるはずのカソリック教会長と母親スーザンは、台詞を言わされている感が強くて、本作の緊迫感を伝えきれていません。

「アメリカン・ギニーピッグ」シリーズの第3作目として位置づけされている作品ではあるのですが、広報的に「アメリカン・ギニーピッグ」は前面には出されていません。これは「ギニーピッグ」というタイトルだと、販売したがらない小売店が存在するという事情があるらしいのですが・・・本末転倒な話です。ただ「ギニーピッグ」らしいさは炸裂しており、シリーズの中で高く評価されるべき一作だと思います。


「アメリカン・ギニーピッグ」シリーズ第4作目に位置づけられる「アメリカン・ギニーピッグ:サクリファイス(原題)/American Guinea Pig: Sacrifice」は、これまで3作品と全く違う事情のある作品かもしれません。

本作は女優、モデル、キックボクサー、ボディペインとアーティストとしても活躍する(?)ポイズン・ルージュ(Poison Rouge)の初監督作品を、ステファン・バイロ氏が気に入り「アメリカン・ギニーピッグ」シリーズとしたというのです。制作に関わっていない映像作品を、あとからシリーズに加えるのもありならば・・・今後「アメリカン・ギニーピッグ」シリーズの作品も増えるかもしれません。


本作の出演者は基本的に一人で、台詞は殆どなく(僅かなモノローグだけ)・・・ひとりの男性(全編ほぼ半裸)が、ひたすらに自傷行為する様子を淡々と映し出しているのですが、撮影されれているのは殆ど浴室内のみで、超クロースアップを多用して撮られています。

オリジナル「ギニーピッグ」シリーズの第3作目「ギニーピッグ3 戦慄”死なない男」のパロディのようでもありますが、ドラマ仕立てでもコメディ調ではなく、オリジナルの第1作目の「ギニーピッグ 悪魔の実験」や、穴留玉狂監督の「私の赤い腸(はな)」のように、イメージを積み重ねているのです。

両親との精神的なトラウマを抱えるダニエル(ロベルト・スコーザ)は父親の死後、生まれ育った実家にひとりで戻ってきます。そして、バスルームを閉め切り、ある文献に従って自傷行為の儀式を始めるのです。

まず、ナイフで手のひらを裂き、その傷口の愛撫するかのように舐めます。そして、額の正面にナイフで8文字のシンボルを切り込み、マイナスドライバーでその中心を突き刺すのです。ドライバーの先端が頭蓋骨を姦通して脳にも達しているようで、朦朧としながら恍惚感に震えるのです。自傷行為というのは、ある意味、自慰行為であるわけで・・・切り口が女性器、凶器は男性器を比喩しているのかもしれません。


ここから「アメリカン・ギニーピッグ:サクリファイス」のネタバレを含みます。


浴室で行なわれる自傷儀式と並行して、フラッシュバックのように挿入されるイメージ・・・ダニエルのトラウマの原因であろう両親の喧嘩をする様子だったり、女性器の中のような洞窟のビーチに全裸で佇むダニエルであったり、ダニエルが崇拝する女神イシュタルの姿であったりするのですが、具体的な説明はありません。


浴室で全身血まみれになりながらも、足の指のツメを剥いだり、電動ドリルで額に穴を開けたり、尿道にドライバーを突っ込んだり(個人的にはコレだけは正視できなかった!)と、止血を繰り返しながら行なわれる拷問のような自傷行為はエスカレートしていき、男性器の切除=去勢まで行き着くのは必然なのかもしれません・・・。

最後に、浴槽に横たわり腹を切り裂き、自らの手で腸や内臓をつまみ出すことにより、ダニエルは遂に息を引き取ります。彼の脳裏には女神イシュタルへ変容した自分の姿が現れますが・・・彼の亡骸は浴槽に放置されて、ウジがわくほど腐敗していくだけなのです。


イシュタル信仰と生け贄として自らを捧げた男の物語として解釈することはできますが・・・根底には、目を覆いたくなるような自傷行為を具現化して(ある意味、性的な?)作り手の嗜好を満足させているという点で、本作は「アメリカン・ギニーピッグ」の冠をかざすに相応しい作品ではあります。

第1作目の「アメリカン・ギニーピッグ~血と臓物の花束~」は、オリジナルの焼き直しで拍子抜けしたのですが・・・2作、3作、4作シリーズ化として連作されるごとに、オリジナルシリーズへオマージュを捧げながら、より残虐嗜好の闇を掘り下げていくようです。オリジナルと同様に、トラウマ映画シリーズとして語り継がれていくようになるのかもしれません。


「アメリカン・ギニーピッグ:ソング・オブ・ソロモン(原題)」
原題/American Guinea Pig: Song of Solomon
2017年/アメリカ
監督 : ステファン・バイロ
出演 : ジェシカ・キャメロン、スコット・ガビー、デヴィット・E・マックマホン、ジーン・パルビッチ、モリーン・ペラマッティ
日本未公開


「アメリカン・ギニーピッグ:サクリファイス(原題)」
原題/American Guinea Pig: Sacrifice
2017年/イタリア
監督 : ポイズン・ルージュ
出演 : ロベルト・スコーザ、フローラ・ギアナタシオ
日本未公開

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2018/09/22

フランコ政権下でつくられたホモエロティックなミュージカル映画・・・主演男優アルフレッド・アラリア(Alfread Alaria)とシュールなダンスナンバーの妖しすぎる魅力~「ディフェレンテ(原題)/Diferente」~


”マニアック”にも「ほど」があるというのは、以前ジャック・スカンドラリ(Jacques Scandelari)監督について書いたとき(めのおかし参照)に思ったものでしたが・・・今回、取り上げるスペイン映画「ディフェレンテ(原題)/Diferente」も「そもそも、この映画のことを、誰が知っているのだろうか?」と首をひねってしまうぐらい超激マイナーな一作なのであります。

偶然ネットで、ゲイカルチャーについて書かれた文章の中に、本作のタイトルを発見したのですが、この作品について書かれているのはスペイン語の記事が殆どで・・・英語で書かれたモノさえ僅か、その内容も”コピペ”での使い回しで同じ内容ばかり。しかし、何故か”YouTube”に映画本編そっくりアップされており(残念ながら英語字幕もなく、スペイン語音声のみですが)本作のただならぬ”魅力”に、すっかり取り憑かれてしまったのです。

アルフレッド・アラリア(Alfread Alaria)演じる主人公アルフレッドは、ヴォードヴィル(?)のステージでエンターテイナー(ダンサー、歌手、ピアノ弾きをこなす)で、ビートニクスの集うバーで喧嘩に明け暮れている放蕩息子・・・権力者である父親と父親思いの弟が改心させようとするという物語なのですが、アルフレッドがエンターテイナーとして出演する舞台と、アルフレッドの幻想の中で演じられるミュージカルナンバーが、本作の”みどころ”なのであります。

本作の半分くらいがミュージカルナンバーのような印象ということもあって、スペイン語の台詞が分からず、ドラマ部分で何が起こっているかイマイチ理解できないボクでも楽しめてしまったのです。考えてみれば・・・”フラメンコ”という完成度の高いダンスのあるスペインは、そもそもミュージカルとは相性が良いのかもしれません。(あまりスペインのミュージカル映画というのは、英語圏では知られていないだけかもしれませんが)

本作で監督をつとめたルイス・マリア・デルガードは、1950年代から1990年代までスペイン映画界で活動・・・本作では、表現主義的なカメラアングルや構図、くすんだ絵画のようなカラー設計など、アーティスティックな画面構成が独特ではありますが、さまざまなタイプの作品を手掛けていた(特にミュージカルが得意だったというわけでもなく?)職業的な映画監督だったようであります。


フランコ政権下では、同性愛は厳しく取り締まられていたので、ゲイの主人公の映画をスペイン国内でくつくることは禁じられていたはずなのですが、本作は”ゲイゲイしい”妖しさに満ちあふれているのです。これは、原作および脚本にも参加して、自ら主演しているアルフレッド・アラリアの存在が大きく関与しているのかもしれません。


アルフレッド・アラリアは、元々はアルゼンチン出身で1940年代からスペイン映画に出演していますが、主に舞台で歌い踊る”エンターテイナー”として活躍していたようです。アメリカでは、フランク・シナトラやサミー・デイヴィス・ジュニアとも共演したこともあるらしいので、全盛期はそこそこの知名度はあったのかもしれません。ジャン・ジュネの映画に出ていそうな美青年で、若い時のトニー・カーティスのような風貌・・・時折みせる表情は、歌舞伎役者の愛之助っぽくもボクには見えます。本作では、ジェームス・ディーンを意識していたのかもしれません。また、異様なほど(?)鍛え上げられた均整の取れた筋肉質なカラダの持ち主でもあり・・・”ゲイのサイン”を出しまくっているのです。

ここからネタバレを含みます。ストーリーについては(スペイン語の台詞が理解できないので)推測です。


フラメンコの振り付けダンスを妄想した後、アルフレッドは自分の出演するヴォードヴィルショーの舞台に駆けつけます。1920年代のジャズエイジやアメリカの西部時代を織り込んだミュージカル風のレビューを演じた後、ラウンジ歌手もしているルフレンド(サンドラ・レブロック)を追ってビートニクスの集まるバーに行くのです。そこで、ガールフレンドとの三角関係をめぐって「ウエストサイド物語」を彷彿させるダンスバトルが始まります。


翌朝、傷だらけの顔のまま寝ているアルフレッド訪ねてきたのは、父親(マニュエル・モンロイ)のお気に入りの息子の弟(マニュエル・バリオ)・・・説得されたアルフレッドは実家のお屋敷に戻ることになるのです。父親の会社で女性ばかりのオフィスに配属されれば、タイプライターを打つリズムから、アルフレッドのカラダには自然と音楽が流れだします。自分のオフィスで暇を持て余して輪ゴムで遊んでいれば、操り人形のようなダンスを妄想してしまうのです。


父親の奨め(?)で、売春婦のもとを訪れても、腰の引けてしまうアルフレッドでしたが・・・父親の仕事でついて行った工事現場で、電動ドリルを使う現場作業員の腕の筋肉に思わず見とれてしまいます。その直後、自分の同性愛的な欲望を否定するかのように(?)その売春婦のもとを再び訪ねるのです。避暑地で偶然ガールフレンドに会い、二人は豪華にセーリングに出ます。ちょっと良い雰囲気になってイチャイチャしだすものの、何故か急に態度を豹変させるアルフレッド・・・父親のもとに戻ってから以前にも増して気分屋になってしまったようです。


実家で行なわれている豪華なディナーパーティーの最中も、アルフレッドの頭の中から音楽は消せないようで、様々な雑音が楽器のように聞こえます。退屈な会話の食卓を離れて、甥っ子(?)にインディアンの物語を語るアルフレッド・・・彼の脳裏にはアルフレッド自身が踊るダンスシーンが繰り広げられるのです。ゲストから離れてひそひそ話をする父親と弟の会話が聞こえてしまったアルフレッドは、父親の元で改心することに見切りをつけて、その夜のうちに実家から逃げ出して、自堕落的な生活に舞い戻ってしまいます。


ビートニクスのバーで酒に溺れるアルフレッドは、アフリカ系の仲間の奇妙な儀式に参加するのですが・・・アルフレッドに見える幻想は、ガールフレンドも登場するアフリカを舞台としたもの。現実と妄想の違いが分からなくなったアルフレッドは、ナイフを手にしてアフリカ系の仲間を刺してしまいます。


警察から連絡を受けたアルフレッドの父親は、現場に向かう途中、車で事故を起こしてしまうのです。父の訃報を聞きつけて実家に戻ったアルフレッドを、弟は冷たくあしらいます。アルフレッドが自責の念で嵐の中で佇む姿で映画は終わります。


主人公の幻想がミュージカルナンバーになるというのは「パリのアメリカ人」のエンディングの手法と同じですが・・・本作では、アルフレッドがお客に演じているショーやビートニクスのバーでのダンスを加えて、7つもミュージカルナンバーがあるのです。それが、それぞれ違うタイプの音楽やリズムを取り入れながら、フラメンコをベースにしており、ハリウッドミュージカルとは違う魅力に溢れています。

どれほど台詞で説明されているのかは分からないのですが・・・主人公アルフレッドがゲイである”サイン”も散りばめられています。ただ、検閲官の感性が本作の”ホモエロティックさ”を感知できなかっただけなのかもしれませんが、ガールフレンドはいかにもゲイが好きそうなタイプ(モニカ・ヴィッティっぽいクールな美女)だし、アルフレッドの衣装は妙に股間がもっこりしているし、踊りの振り付けもいちいちゲイっぽいし・・・同性愛が禁止されていた状況下とは思えないほど、ゲイゲイしさが漂いまくりなのです。

同性愛者が自責の念で苦しむという内容からしても、ハリウッドのミュージカルのような突き抜けた明るさはありません。フラメンコの持ち味でもある”悲壮感”をどこかしら感じさせます・・・とは言っても、カルロス・サウラ監督のフラメンコ映画のような”ストイックさ”とは無縁で、”ドラマクィーン”の恍惚感のような”キャンプさ”が炸裂してるのです。

本作は本国スペインでもメディア化(ビデオやDVD)されておらず、文献の少なさから推測すると、スペイン国外で公開さえされていないのかもしれません。YouTubeにアップされている動画も、どのような経緯で入手されて、アップされたのかも謎です。「ディフェレンテ」は再発見されて欲しい(のに)世界的に忘れられてしまっている「ゲイ映画」なのであります。


「ディフェレンテ(原題)」
原題/Diferente
1961年/スペイン
監督 : ルイス・マリア・デルガード
脚本 : アルフレッド・アラリア(原作)、ルイス・マリア・デルガード、ホルヘ・グリニャン、ヘスース・スーソ
出演 : アルフレッド・アラリア、マニュエル・モンロイ、サンドラ・レブロック、マニュエル・バリオ
日本未公開

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