2017/08/24

三島由紀夫の「切腹映画」!・・・”武士道”でも”愛国主義”でもない同性愛的なマゾシズムの”切腹ごっこ”~「憂國」「人斬り」「巨根伝説 美しき謎」「愛の処刑」「Mishima : A Life in Four Chapters/MISHIMAーー11月25日・快晴(仮題)」「11・25 自決の日 三島由紀夫と若者たち」~


ボクが小学生の頃(1970年代)・・・男の子たちの間では”切腹ごっこ”なるものが流行っていた時期がありました。定規などをお腹に当てて「うっ・・」と呻いて、前屈みになって死んだ真似をするという他愛ないもので、お腹から血や腸が飛び出してくる様子まで再現することを、この上もなく面白がっていたわけであります。当時は、毎晩のようにテレビでも時代劇がやっていたし、切腹シーンがお茶の間でフツーに放映されていた時代ではあったのですが、子供たちに強いインパクトを与えたのは、1970年11月25日に起こった三島由紀夫の自決事件だったのです。

三島由紀夫が”切腹フェチ”であったことは、著書からも言動からも三島独特の”美学”として、生前から周知の事実であったと思います。1960年、増村保造監督の「からっ風野郎」でヤクザ役で映画主演デビューを果たしていた三島由紀夫は、1965年に 短編の切腹小説「憂國」の映画化を企画するのですが、当初は海外の映画祭への出品を前提に、芸術映画として製作しよう話もあったそうです。しかし、三島由紀夫は映画会社から干渉されることを嫌がり、あくまでも”自主映画”として製作することにこだわったため、大映のプロデューサーだった藤井浩明氏によって、秘密裏に大映のスタッフが集められて、会社上層部には隠れて撮影されることになります。そのため、撮影、メーキャップ・アーティスト以外のスタッフはアンクレジットとなっているのです。


「憂國」は、二・二六事件に参加できなかった新婚の中尉が仲間と役職の間で苦しんで、自分は切腹で妻は自害で心中という・・・三島由紀夫の典型的な”死の美学”の物語。能舞台を連想させるようなミニマルなセットと、三島由紀夫扮する中尉と妻(鶴岡淑子)の二人のみの出演者という、当時としては斬新で実験的な映画であります。三島由紀夫は企画当初から・・・台詞なしで字幕によって物語が説明されること、音楽はワグナー作曲の「トリスタンとイゾルデ」を使用することを考えていたそうです。「からっ風野郎」では大根役者っぷりが叩かれて不評だった三島由紀夫でしたが、本作では台詞がないことが作品の芸術性を高めるのに功を博したかもしれません。ボディビルディングに陶酔していた三島由紀夫は、ここぞとばかりに裸体を披露しています。三島由紀夫がリアルさにこだわった切腹シーンには、本物の豚の内蔵を使って飛び出す内蔵を再現・・・当時のスプラッター表現としてはモノクロの画面と相まって、かなりショッキングです。


日本で「憂國」は、当時は海外のアート作品配給専門だったATGで上映・・・「憂國」は28分の短編映画だったので、併映はルイス・ブニュエル監督の「小間使いの日記」だったそうですが、記録的な大ヒットとなります。後に独立プロと半分ずつ予算を出す「一千万円映画」と呼ばれるATGの低予算映画のきっかけになったのは、実験的な前衛映画であった「憂國」の成功があったと言われています。しかし、三島由紀夫の死後、未亡人の要望により、上映用のフィルムは全て焼却処分されてしまうのです。表向きは、自決事件をストレートに連想させるからという理由ですが・・・もしかすると、未亡人は「憂國」に秘められていた三島由紀夫にとっての”切腹”の意味が許せなかったのかもしれません。ボクが初めて「憂國」を観たのは、フランス上映版のコピーをダビングしたビデオテープだったので、本作の映像美の見る影もない粗悪なモノでした。2005年、「憂國」のネガフィルムと資料が三島由紀夫の自宅で発見された(実は未亡人の死後の1995年には発見されていたらしい)ことが公表されて、翌年には日本国内ではDVDと全集別巻として発売されています。


演出を担当した堂本正樹は、慶応普通部4年生の時(1949年頃?)に、銀座のゲイバー「ブランズウィク」のボーイから新人作家だった三島由紀夫を紹介されたという人物・・・二人の仲をとりもったボーイが亡くなったことがきっかけで親密になり、三島由紀夫の”弟分”として親交を結んだとのこと。「憂國」の映画化が企画されるずっと前から、二人で”切腹ごっこ”をしていたそうです。三島由紀夫は「聚楽物語」の無惨絵を見せて”切腹ごっこ”に誘ってきたそうで・・・新宿の小滝橋通りの岩風呂のあった宿にしけこみ(!?)、”兄弟ごっこ”といって風呂で背中を流し合い、忠臣蔵の判官切腹の場面、満州皇帝の王子と甘粕大尉、沈没する船の船長と少年水兵、ヤクザと学習院の坊ちゃんなど、三島由紀夫の好んだ設定で”切腹ごっこ”は繰り返し行なわれたといいます。美少年に見守られながら切腹をするシチュエーションには、特に興奮していた様子で、”切腹ごっこ”をしながら三島由紀夫は勃起していたそうです。堂本正樹によると「憂國」の新婚夫婦という設定は”方便”で、実は”美少年と美男”の物語であったとのこと・・・三島由紀夫と堂本正樹の”兄弟の神話”であったというのですが、三島由紀夫が”切腹ごっこ”をしていたのは、堂本正樹”だけ”ではなく他にも何人かいたと言われています。


三島由紀夫が自決する一年前に公開された五社英雄監督の映画作品「人斬り」で、三島由紀夫は再びカメラの前で切腹を演じることになります。「人斬り」は勝新太郎主演の人斬り以蔵の半生の物語で、勝プロダクションの第一作目・・・勝新太郎によって演じられた人懐っこい以蔵のキャラクター、仲代達矢や石原裕次郎などのスター共演、五社英雄らしい血しぶき殺陣シーンの娯楽作品で、興行的にも大ヒットします。三島由紀夫が演じるのは、以蔵の理解者であり友人でもあった田中新兵衛役で、主人公の以蔵と対比して寡黙でありますが、以蔵の裏切りにより切腹で自決するという物語に重要な役柄です。

新兵衛の出演場面はそれほど多くはないのですが、勝新太郎が演じる以蔵に互角に渡り合える強烈なキャラクターが必要だと制作側は考えて・・・自分の思想や美学を貫く姿勢が、当時の学生運動をしていた若者の人気を集めて”スーパーアイドル”のような存在だった三島由紀夫に白羽の矢が当たったそうです。当然、三島由紀夫は、切腹する新兵衛役を喜んで引き受けます。盾の会の設立、自衛隊への体験入隊、日本古来の武道への傾倒など・・・幕末の志士らを連想させる危険な雰囲気を漂わせていて、三島由紀夫の抜擢は好評だったそうです。

いざ撮影となると三島由紀夫は緊張してしまくり、上手く台詞を言えず、何度もNGを出したそうですが・・・衣装ではなく普段着でリハーサルをしたり、勝新太郎からの演技のアドバイスやフォローで、なんとか撮り終えることができたということです。素人臭い緊張している演技が逆に新兵衛の殺気ある存在感を生み出していたと、高い評価を受けます。基本的に五社英雄監督の演出には一切口出ししなかった三島由紀夫でしたが、切腹の場面の演技だけは任せて欲しいと直談判して、一任されることになるのです。


以蔵によって暗殺の濡れ衣を着させられた新兵衛が、証拠となった刀を見せて欲しいと手に取ると・・・唐突に刀を自らの腹に突き刺して切腹してしまいます。さすがに「憂國」のように飛び出した内蔵などや血だらけのスプラッター表現はありませんが、カメラは三島由紀夫の鍛え上げられた上腕筋や背筋をじっくりととらえて、臨場感溢れる迫真の演技を見せつけるのです。否が応でも自決事件を連想させてしまうからなのか・・・五社英雄監督と勝新太郎の代表作ともいえる作品にも関わらず(1990年代には国内ビデオとレーザーディスクのリリース、フランス版DVDはありますが・・・)いまだに国内版DVDは発売されていません。


自決事件後・・・ことあるごとに歴史として振り返られるたびに、三島由紀夫の行動の異常さにスポットライトがあてられるようになります。若者は”シラケ世代”と呼ばれるように無気力になり・・・さらに経済的に豊かになっていくと「なんとなくクリスタル」的な(おそらく三島由紀夫が最も嫌っていたであろう)風潮が、若者文化の主流となっていったのです。「日本男児」という汗臭いイメージはトコトン嫌われて、切腹なんて「ダサい」という反三島由紀夫的な世界観に日本国内が満ちあふれていた1980年代前半に、三島由紀夫的世界観(ただし同性愛的観点)に傾倒していったのが「ゲイ」であったことは偶然ではありません。


1983年に「薔薇族映画」の第一弾として製作された「巨根伝説 美しき謎」は、ピンク映画の監督として知られる中村幻児によるソフトコアのゲイポルノ映画であります。以前「おかしのみみ」という映画ブログで、この作品について書いたことがあるので、そちらも参照してください。本作が三島事件を題材としていることは明らかです。登場人物は男だけでヌードやセックスシーンはふんだんにあるものの、ゲイポルノとしてそそられるようなエロではなく、コメディタッチの軽さやセットの陳腐さなどが、いかにもピンク映画らしい不謹慎さなのです。薔薇族映画という限られた観客向けに制作されたから、三島由紀夫の未亡人や関係者の目には留まらなかったものの・・・もしも、本作の存在を知られていたら、お咎めなしでは済まなかったと思います。

当時ピンク映画(ストレートもの)の常連男優だった大杉蓮扮する三谷麻紀夫(明らかに三島由紀夫を意識!)が率いるのは先生と呼ばれる右翼リーダー・・・若い隊員たちと半裸姿で筋トレしたり、愛国思想の勉強会をしたり、軍人訓練の合宿をしたりしています。当然のことながら・・・隊員は全員そろってゲイで、新人隊員は先輩に犯されてゲイに目覚めするし、合宿の夜は隊員同士はやりまくったりという単なるゲイ集団なのです。三谷先生の側近でもある森脇(森田必勝を意識?)は、夜になると先生のケツを掘って啼かせています。自決事件後、三島由紀夫の遺体の肛門から森田必勝の精子が検出されたという”デマ”が拡散したことがありましたが・・・その妄想を映像化しているようです。


先生と森脇で切腹ショーを演じれば、隊員たちはむせび泣きながら興奮して、全員で乱交という・・・とにかく「一心同体」をモットーに、ことあるごとにやりまくっている集団ではありますが、警視総監を人質にして自衛隊員を説得してクーデターを企てる(まるで三島事件と同じ!)ことになります。しかし、前夜にやりまくったために朝寝坊して決起できなかった隊員カップルは、その後新宿二丁目で女装バーで働いているという・・・なんとも陳腐なオチで終わるのです。ところどころ三島由紀夫を連想させる、確信犯的な本作が製作されて、宣伝もされて(ゲイ向けの専門館とはいえ)映画館で堂々と上映されていたことは驚きかもしれません。


「愛の処刑」は、1952年から1962年まで発行されていた日本のゲイ黎明期に誕生した同性愛者の同好会である”アドニス会”の同人誌「ADONIS(アドニス)」の別冊「APPLLO(アポロ)」5号(1960年10月)に発表された榊山保という名義で発表された同性愛小説・・・「憂國」との共通性が指摘されて、三島由紀夫が書いたものではないかと発表直後から噂されていたそうです。2006年に三島由紀夫によって執筆されたことが確定後には、三島由紀夫全集の補巻にも収録されています。筆跡から三島由紀夫であることが判明することを危惧して、堂本正樹によって書き写させた原稿が同人誌へ送られたそうです。この「愛の処刑」を原作とするゲイポルノ映画が、奇しくも「巨根伝説 美しき謎」と同じ年の1983年に制作/公開されます。

監督はピンク映画の黎明期から男優として活躍していた野上正義で、1970年代のATG映画っぽい暗くて陰湿な雰囲気を漂わせていて、「巨根伝説 美しき謎」のような”おふざけ”は一切なし・・・低予算ながら重厚な印象に仕上がっています。登場人物はほぼ二人だけの60分の中編作品ですが、制作者たちの気迫が伝わるような一作です。ゲイ向けのポルノ映画館で公開するために制作された作品なので(ただ”ポルノ”を期待すると肩すかしかもしれません)・・・三島由紀夫好きのストレートのお客さんに観られることは、殆どなかったカルト作品です。近年では、横浜の日ノ出町にある国内唯一の薔薇族映画の専門上映館で上映されることもあるようですし・・・上映権を持つケームービー株式会社によって、VHSビデオの通信販売は行なわれています。

さびれた漁港のある村の一軒家に暮らす中学校の体育教師の大友先生の元に、彼の教え子である今林少年が大雨の夜に訪ねてきます。素行の悪かった田所少年を大雨の中に立たせた体罰のせいで、肺炎で亡くなっていたのです。田所少年の死は大友先生のせいだから、責任をとって切腹して死ぬべきだと、親友でもあった今林少年は”処刑”を求めます。二人の少年を愛していた大友先生は、喜んで切腹を決心するのですが・・・褌姿になって井戸の水で体を清める大友先生の姿を、舐め回すように見つめる今林少年も、実は大友先生を愛していたのです。


手渡された短刀で切腹する大友先生の横で「ただ、先生が好きで切腹して死ぬところが見たかった」と告白する今林少年・・・大友先生も「君のような美少年に見守られて切腹したかった」と答えて、二人はお互いの愛を確認します。腹を切開した”だけ”で即死するわけではないので、介錯なしの切腹というのは腸が飛び出しても生きた絶え絶えという苦しみが続くのです。大友先生が息絶えた後、その遺体を前にして今林少年は心の中で「先生、愛している!」と何も叫び(きっと先生のカラダを愛したはず!)朝方には短刀で胸を突いて後追い自殺・・・翌朝、普段のように家政婦が大友先生の一軒家に向かっています。


本作に直接的なセックスシーンというのはないので”ポルノ映画”と呼べないかもしれません。それでも、強烈なエロティシズム漂ってくるのは、当時のゲイ好みを反映したキャスティング・・・大友先生を演じる役者さんの雰囲気は、高倉健と三島由紀夫を足して二で割ったような男臭いタイプですし、今林少年を演じる役者さんは「さぶ」の挿絵に出てきそうな”美少年”です。わきががキツかったと言われる三島由紀夫同様に、大友先生もわきががキツいという設定だったりして、明らかに三島由紀夫を意識しています。

愛する美少年に見守られて切腹死したい・・・という自らのフェチを昇華させた小説を(偽名であっても)発表せずにいられなかった三島由紀夫にとって、本作で描かれている切腹こそが理想であったと思えてしまいます。1983年というバブル景気に向かいつつあった日本で、時代の空気に逆行するような「愛の処刑」を映画化しようとした制作者たちの思いも強かったことも感じるのです。


「Mishima : A Life in Four Chapters/ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ(原題)」は、アメリカン・ジゴロ」の監督や「タクシードライバー」の脚本家として知られるポール・シェレイダーによって製作された1985年のアメリカ映画です。三島由紀夫の歩んだ人生の回想(モノクロ)、代表的な小説3作品のオムニバス(極彩色)、自決事件を起こす現在(カラー)という3つの要素をミックスして「過去と現在」「現実と虚構」を行き来しながら三島由紀夫の人物像に迫った、伝記映画として同じような構成の作品が存在しない独創的な作品となっています。キャストは全員日本人の俳優で、ナレーションを除いて台詞も全て日本語・・・アメリカ映画でありながら日本映画のようです。

「MISHIMA ーー11月25日・快晴」という仮の邦題までつけられていましたが、右翼団体が上映反対の騒ぎが起こることを配給会社が危惧して上映されなかったというのが、定説のようですが・・・三島由紀夫の未亡人から、猛烈な抗議があり日本国内での上映を絶対に認めなかったとも言われています。三島由紀夫の同性愛的な嗜好を匂わす表現があることが、感情的に許せなかったのかもしれません。いまだに、日本では劇場公開はおろかDVD/ブルーレイの発売もなく、ケーブルテレビでの放映もネット配信さえされていない・・・日本国内に限れば”封印映画”ではありますが、海外版のDVD/ブルーレイが発売されているので視聴することは比較的簡単にできます。

まず、小説3作品の映像化それぞれ”だけ”で邦画のまるで映画一本分のようであります。「金閣寺」坂東八十助、佐藤浩市、萬田久子、「鏡子の部屋」沢田研二、左幸子、烏丸せつこ、李麗仙、横尾忠則、「奔馬(豊穣の海・第二巻)」永島敏行、池辺良、勝野洋など豪華キャストで、アメリカ映画が日本を扱った時のような不自然な表現は皆無です。本作の小説部分で映画の美術を初めて担当した石岡瑛子氏は、本作で高い評価を受けたことをきっかけに衣装デザイナーとして活躍の場を世界に広げることになるのです。本作では舞台のような装置が展開するセットが特徴的で、小説の虚構の世界観を見事に表現しています。


青年期以降の三島由紀夫を演じるのは、緒形拳・・・正直、顔が似ているとは思えないキャスティングなのですが、筋トレによる肉体改造、付け胸毛に腹毛(!)と外見だけでなく、三島由紀夫の特徴的なクセまでも演じきっていて、いつの間にか緒形拳が三島由紀夫にしか見えなくなってくるほど見事な演技なのです。多くの代表作がある緒形拳ですが、、もしも本作も日本公開されていれば代表作のひとつとして語られることは間違いありません。


クライマックスとなる切腹シーンは、グロテスクな表現ではなく、三島由紀夫らしい最期の瞬間をエモーショナルに表現しており、彼の代表作3作品の主人公達の悲劇的な最期とオーバーラップさせながらも、陽が昇っていくエンディングは明確な三島由紀夫讃歌として、清々しい(?)終わり方をするのです。「Mishima : A Life in Four Chapters」のような三島由紀夫の作家性、人間像、創作世界を総括するような作品を、アメリカ人によって製作されてしまったのは、ちょっと残念に思います。


三島由紀夫の自決事件が日本映画で描かれるのは、没後40年以上経った2011年で、若松孝二監督による「11・25 自決の日 三島由紀夫と若者たち」であります。盾の会の設立から自決事件までを描いているのですが、学生運動や右翼を絡ませてくるところが若松孝二らしさ・・・また、三島由紀夫を語る時、あまり触れられることのない瑤子夫人が重要なアイコンとして描かれるのも独特かもしれません。エンディングには日本の音楽事務所がデビューさせたイギリス人バンドのベラキス(Belakiss)の曲が流れるのですが・・・これって、三島由紀夫が最も嫌っていただろうタイプの音楽のように思えます。さまざまな証言や文献に基づくエピソードを時系列で描いているものの、あくまでも若松孝二監督の視点でしかない印象です。


完全なミスキャスティングとしか思えないのは、三島由紀夫を演じる井浦新(本作のためARATAから改名までした)・・・”モノマネ”の必要はないのかもしれませんが、あっさりとした井浦新の雰囲気は、過剰なほど男臭さい三島由紀夫とは真逆です。さらに・・・意外なほど(?)鍛えられていない井浦新のゆるい腹周りは、肝心の切腹シーンの緊迫感を台無しにしています。また、森田必勝役の満島真之介の無駄に熱い演技も空回りしていて、盾の会のメンバー達も含めて、頭のおかしくなった愛国主義者/武闘派右翼という印象なのです。三島由紀夫の”切腹フェチ”をステレオタイプ化せずに表現することが、なんと難しいことなのかを改めて感じさせられます。


三島由紀夫は映画の役柄だけでなく・・・友人でもあった矢頭保(めのおかし参照)による切腹写真も撮影しています。自決事件での死に様は、もしかすると三島由紀夫が思い描いていた”死の美学”には、ほど遠かったのかもしれません。”切腹ごっこ”が切腹に対しての自慰的な行為だったとしたら、マスターベーション”だけ”で満足できれば良かったのに・・・と思ってもしまいます。マスターベーションだけでは性的な達成感を得られなくなり、本番(切腹)をしなければならなくなることは、三島由紀夫にとっては当たり前の終着点だったのかもしれません。

三島由紀夫の自決した時の様子は、悲惨そのものだったそうです。何度も演じていたおかげか(?)・・・小腸が飛び出るほど深く広く切開された見事な切腹ではあったのですが、三島由紀夫の介錯という大役を担った森田必勝は、緊張のあまり三度も斬り損じてしまったため、頸部の半ばまで切られて頭部が前に傾く体勢になってしまい、三島由紀夫は自ら舌を噛み切ろうとしたほど苦しんだと言われています。


結局、古賀浩靖によって首の皮一枚残すように介錯をされ、切腹に使用した短刀で胴体と頭部が切り離されたそうです。森田必勝の後追い自決を三島由紀夫は止めていたそうですが、森田必勝の固い意志は最後まで揺るぐことはありませんでした。考えてみれば・・・介錯の失敗で面目を失った森田必勝には、自決するしか残された道はなかったのかもしれません。ただ、森田必勝の腹部に残っていた切腹の痕は切り傷程度で、古賀浩靖の介錯による即死だったそうです。

ボディビルで鍛えられた肉体で盾の会の同志(森田必勝らが美少年かは別として)に見守られて切腹する瞬間こそが、三島由紀夫にとっての人生最高のエクスタシーであったとするならば・・・「ネクロマンティック」のラストシーン、死体愛好家の主人公が自殺しながらマスターベーションに興じる姿に、オーバーラップしてしまうところさえあります。”武士道”でも”愛国主義”でもなく・・・三島由紀夫の”切腹フェチ”の根本には、同性愛的なマゾヒズムとナルシシズムを感じてしまうのです。

「憂國」
1966年/日本
監督、製作、原作、脚色、美術 出演:三島由紀夫
1966年4月12日、劇場公開

「人斬り」
1969年/日本
監督 : 五社英雄
原作 : 司馬遼太郎
脚本 : 橋本忍
出演 : 勝新太郎、仲代達矢、三島由紀夫、石原裕次郎
1969年8月9日 劇場公開

「巨根伝説 美しき謎」
1983年/日本
監督 ; 中村幻児
出演 : 大杉蓮、長友達也、野上正義、首藤啓、山科薫、金高雅也
1983年4月 劇場公開

「愛の処刑」
1983年/日本
監督 : 野上正義
原作 : 榊山保(三島由紀夫)
出演 : 御木平助、石神一
1983年11月2日 劇場公開


「ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ(原題)」
原題/Mishima : A Life in Four Chapters
仮題/MISHIMAーー11月25日・快晴
1985年/アメリカ
監督 : ポール・シェレイダー
出演 : 緒形拳、三上博史、沢田研二、坂東八十助、佐藤浩市、永島敏行
日本劇場未公開


「11・25 自決の日 三島由紀夫と若者たち」
2011年/日本
監督 : 若松孝二
出演 : 井浦新、満島真之介、寺山しのぶ
2012年6月2日 劇場公開



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2017/07/31

未解決の殺人事件の真相に迫る”だけじゃない”ドキュメンタリーシリーズ・・・衝撃的な事実が明らかになればなるほど深い闇に引きづり込まれていく・・・~Netflix オリジナル作品「キーパーズ/The Keepers」~


下世話な興味をひく犯罪事件については、テレビニュースや新聞の報道以外にも、ワイドショーや週刊誌のネタとして消費されることが多いものですが(日本だけでなく世界的に)・・・未解決犯罪のドキュメンタリー作品が数多く制作されるアメリカでは、実際に事件解決/犯人逮捕となるケース(「ザ・ジンクス/The Jinx」など)があったりして、ひとつのジャンルとして確立されているようです。

「殺人者への道/Making Murders」「アマンダ・ノックス/Amanda Knox」「ジョンベネ 殺害事件の謎/Casting JonBenet」などのオリジナルドの犯罪キュメンタリーを次々と配信するNetflix(ネットフリックス)から配信されている「キーパーズ/The Keepers」は、1969年に起こった未解決のシスター・キャシー・セスニック殺人事件の真相に迫る全7回(なんと約7時間!)のドキュメンタリーシリーズであります。

事件が起こったメリーランド州のボルチモアは、アメリカの中でもカトリック教会が大きな影響力を持っている街として知られており・・・ジョン・ウォーターズ監督をはじめ、ディヴァイン、ミンク・ストール、デヴィット・ロッカリー、マリー・ヴィヴィアン・ピアース、エディス・マジーらの出身地であり、宗教的抑圧(?)のもと、おかしな人がたくさん(?)排出された土地柄というイメージがあったりします・・・ボク的には(笑)。

シスター・キャシー・セスニック殺人事件というのは・・・ボルチモアにあったキーオ大司教高校で英語の教師を務めていたシスター・キャシーが、1969年11月7日夜に行方不明になり、翌年1月に死体で発見されたという未解決の事件で、彼女に何が起こったのか、誰が彼女を殺したのか、どうして彼女の死体が町外れのゴミ捨て場に約二ヶ月後に発見されたのかなど、未だに分かっていないのです。

本作の監督であるライアン・ホワイト氏の叔母が、シスター・キャシーが元生徒だったことが制作のきっかけだったそうですが・・・同じく教え子であったジェマ・ホスキンズ(Gemma Hoskins)さんと、アビー・シャウブ(Abbie Schaub)さんの二人によって、事件の真相解明を求めて開設されたFacebookページ(現在はThe Keepers Ofiicial Groupに移転)が、多くのキーオ高校の卒業生や関係者に事件を風化させてはならないという思いを起こさせたに違いありません。


事件発生時、シスター・キャシーは同じくキーオ高校で教師をしていたシスター・ラッセルと(カトリックのシスターが共同生活を送ることが当たり前だった当時としては実験的な試みとして)一般のアパートメントでルームシェアをしていました。シスター・キャシーは妹の婚約祝いを買いに出かけて、その夜帰宅しなかったのです。ルームメイトのシスター・ラッセルは、すぐに警察に連絡することはなく・・・まず、シスター・キャシーと個人的に親しかった(当時は神父だった)ジェリー・クーブ氏を呼び出します。朝方、シスター・キャシーの車は、自宅アパートメントの近くに不自然な位置に停車しているのが、ジェリーによって発見されるのです。

キーオ高校の生徒たちには詳しいことを伝られることもなかったそうで・・・(行方不明になった11月7日は金曜日だったので)週明けの月曜日(11月10日)に、シスター・キャシーがいなくなってしまったこと”だけ”を知らされるのです。事件当時25歳だったシスター・キャシーは、年齢的に女生徒達とも近く”お姉さん”的な尊敬と憧れの存在であったそうで、生徒たちのショックは計り知れません。それ故、元教え子のジェマやアビーは、事件発生から45年経っても真相を追求せずにはいられなかったのかもしれません。

ジェマとアビーのacebookページ以前・・・1994年にシスター・キャシー・セスニック殺人事件は、キーオ高校の元生徒を名乗る匿名女性の衝撃的な告発よって全米の注目を集めているのですが、本作では匿名女性本人のジーン・ハルガドン・ウェーナー(Jean Hargadon Wehner)から詳細が語られます。事件当時、キーオ高校は修道女によって運営されていたのですが、ジョゼフ・マスケル(Joseph Maskell)とニール・マグナス(Neil Magnus)という二人の神父も在籍してしました。ジーンは二人の神父から性的虐待を受けていたのです。


ジーンの証言は、聞くだけでも心が痛むほど具体的であります。叔父から性的な悪戯されたことを懺悔したジーンを、最初に虐待したのはマグナス神父・・・彼はジーンの懺悔に耳を傾けながら自慰をしていたといいます。その後、マグナス神父だけでなくマスケル神父も加わり、聖霊であるとして精液を飲み干させられたり、罵られながら強姦されたり、張型で悪戯されたりと、在籍中は繰り返し繰り返し性的虐待を受け続けていたのです。

”神”に近い存在であった神父から”性的虐待”を受けているということは、当時のジーンには認識できせんでした。性的虐待をされた者の多くは、罪悪感とストレスより虐待されたことさえ記憶からさえ消し去ってしまいます。卒業から20年以上経った、あるとき・・・高校時代の同級生から同窓会に誘われたことをきっかけに、ジーンは徐々に記憶を取り戻していくのです。

1990年代には、記憶を取り戻したという人々による虐待の告発が、アメリカでは多く報道されていました。一時期、大きな社会問題となったのですが・・・年月が経ってしまうと虐待の事実を証明をする手段がなく、被害者の訴えが認められないことも多々あったのです。ただし、カトリック教会内では性的虐待は(男女共に)全米各地で起こっていたことが明らかで、ジーンも氷山の一角であったのかもしれません。

ジーンの他にも、ジーンと共に匿名で告発していたテレサ・ランキャスター(Teresa Lancaster)や、本作でのインタビューに応じたキャシー・ホベック(Kathy Hobeck)やドナ・ヴォンデンボシュ(Donna Vondenbosch)からも、神父らによる性的虐待の実体が語られます。女生徒の個人情報を知ることのできた彼らは、過去に性的な虐待の経験のある者や家庭環境が悪く親子関係が破綻している者を選別・・・信仰だけでなく、精神分析、薬物、催眠術を駆使して、彼女たちに非があるようにマインドを操って、性的虐待をしていたのです。


ジーンによる推理は・・・マスカル神父らの女生徒達へ性的虐待を知ったシスター・キャシーは、警察に訴えるなど何らかの行動を起こそうとしていたため、口封じのために殺されたというのです。ただ、殺害に関与したり、遺体を処理したのは、神父らとは直接関係のなかった人物であったと示唆します。また、ジーンはマスカル神父に連れられてシスター・キャシーの死体を見せられたという証言もしています。シスター・キャシーの死体を見せることで、ジーンの口封じもしたということなのです。

1994年に行なわれたジーンによる告発は、結果的には不起訴となります。ボルチモアのカトリック教会からは協力してもらえるはずもなく、ジーンは自ら虐待の証明することを強いられるのですが・・・警察は証拠となる文書を紛失、州検事も証拠不十分という判断を下します。この時点で、既にマグナス神父は死去していましたが、マスケル神父は復職していたのですから驚きです。性的虐待の被害者が、差別や偏見を乗り越えて声を上げることあげることが、どれほど困難なことなのか・・・さらに、法律に従って虐待を証明して起訴する道のりが、どれほど険しいのかを思い知らされます。

本作が、被害者だけの回想で構成されていたとしたら、カトリック神父による性的虐待の暴露ドキュメンタリーのひとつでしかなかったかもしれません。しかし、本作では被害者だけでなく、事件当時に捜査に関わった警察関係者、虐待されていた女生徒を診察した婦人科医、1994年に起訴を取り下げた性犯罪班の州検事・・・さらに、シスター・キャシーの殺人に関わったかもしれない隣人のビリー・シュミッド(Billy Schmid)とエドガー・デヴィットソン(Edgar Davidson)という人物の存在を、彼らの親族からの告発で発見・・・本人にもインタビューしているのです。

ここからネタバレを含みます。


加害者側の関係者の多くは既に亡くなっていたり、生存していたとしても高齢でまともにインタビューができる状態ではなかったりします。シスター・キャシーが何故殺されなければならなかったのか、どう殺害されて死体遺棄されたのか・・・その答えの糸口は見つかりそうで見つからないのです。性的虐待を暴露しようとしていたシスター・キャシーの動向を察知したマスカル神父が、ビリーとエドガーに殺害を指示したのではないかと推測はできるのですが・・・真相は本作の中では明らかにはされません。しかし、7時間にも及ぶ本作を観ていると、犯人探し”だけ”が目的ではなくなっていきます。

シスター・キャシー・セズニック殺人事件の真相は、いまだに分かっていませんが・・・被害者が声をあげたことで、メリーランド州の性的虐待の通報期限が(25歳から38歳に)延長されたり、少しだけ状況は改善されつつあります。本作に出演した被害者と家族、事件に関わった人々は、各自それぞれの”幕引き”をして人生を歩んでいくしかないのです。でも、それは過去を葬り去ることではありません。いつか、真実を遮る壁が打ち砕れるまで「キーパーズ/The Keepers」は終わっていないのですから。


「キーパーズ」
原題/The Keepers
2017年/アメリカ
監督 : ライアン・ホワイト
2017年5月19日より「Netflix」にて配信

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2017/06/21

「信じる者は呪われる!」・・・”検索してはいけないワード”になったスプラッター系アダルトビデオ「猟奇エロチカ 肉だるま」、都市伝説の元ネタになった後日談ドキュメンタリー風アダルトビデオ「オソレザン 降霊ファック」


インターネットで”検索してはいけないワード”として知られる言葉に「肉だるま」というのがあります。これは、1999年にマニア系ビデオメーカーのアロマ企画から発売されたアダルトビデオのタイトルで・・・「観たら呪われるビデオ」としても知られています。

タイトルどおり女性の四肢を切り落として”肉だるま”にするという、スプラッター系のアダルトビデオではあるのですが、都市伝説となった理由は、内容の過激さだけではありません。本作に出演したAV女優の大場加奈子(大馬鹿な子をもじった芸名/本作のエンドタイトルで”香菜子”とあるが主な文献では”加奈子”と表記)さんが、発売日の前日(1週間前という説もあり)に、下北沢駅近くの踏切で電車に轢かれて亡くなったからなのです。


お酒が好きで一人で飲み歩くことが日課だったいう彼女が泥酔して踏切に侵入して、運悪く”事故”に遭遇したとも言われる一方・・・「肉だるま」出演後、精神的に不安定になり自ら踏切に飛び込んだ”自殺”だったという人もいます。地元の友人にアダルトビデオに出演していることが知られて、精神的に苦しんでいたらしいという証言や、当時付き合ってた彼氏との関係が上手くいっていなかったという話もあるのです。

”事故”か”自殺”のいずれだとしても「肉だるま」発売日直前に彼女が亡くなられたことは事実のようで・・・出演作品の中で手足を切断されてバラバラになった彼女が、実際に亡くなった時も同じように電車にひかれてバラバラになってしまったということが、本作の”呪われている”感を煽っているのかもしれません。

「肉だるま」は、多くのスナッフフィルムにありがちな”ドキュメンタリー”というスタイルになっています。出演者は4人だけ・・・カナ役の大場加奈子さん、キク役の菊淋、悪徳カメラマン役の北野雄二氏(当時のアロマ企画社長)、そして悪徳監督役の穴留玉狂監督です。

大場加奈子さんは、下北沢の飲み屋で北野雄二氏にスカウトされた”素人さん”(少なくとも業界的には)で、本作以外には一作だけハメ撮りビデオに出演したことはあったそうです。穴留玉狂監督は「私の赤い腸(はな)」というアダルトビデオ(女性が過激な自傷行為を行い続ける)でアロマ企画からデビューして、本作が2作目。菊淋は、現在でもAV男優と監督の二足のわらじをはいてアダルトビデオ業界で活躍しています。


悪徳監督(穴留玉狂)は、クライアントの趣味嗜好(フェチ)に合わせたアダルトビデオを撮っている人物らしく・・・撮影の一週間前、カメラマンから次回作の連絡があり「最後に男優も殺しちゃって」と伝えられます。その後、監督はカナ(大場加奈子)とキク(菊淋)という素人を面接。カナは愛人バンクに登録しながら、いろんな仕事を掛け持ちしている女性で、SMもスカトロも「NGなし」と断言して”やる気”を見せます。キクは”死体好き”という根っからの変態で、今回の撮影内容に関しては「了解済み」ということらしいのです。


撮影現場は、伊豆の一軒家(実際に北野雄二氏の知り合いから借りた家らしい)・・・4人が到着するやいなや、絡みの撮影が始まります。ベットの底板が壊れたり、ダミーの射精用の”疑似”が使われたり・・・アダルトビデオ撮影現場の裏側を垣間みるようです。その夜には、豪勢に生きた伊勢エビをさばいて、和気あいあいとした食事会が繰り広げられます。


翌朝、グラドル風のイメージビデオのような着衣での撮影が行なわれた後、いよいよメインの撮影が始まるのですが・・・面談で「NGなし」とカナが断言していたこともあり、縄縛りや鞭打ちなどのSMや、浣腸プレイが待っていたのです。しかし実際に撮影が始まると「恥ずかしい」「痛い」「嫌だ」と、カナは駄々をこね始めます。クライアントの意向で”スカトロ”だけは、絶対に必要らしく、当初は優しく説得しようとする監督とカメラマン。しかし、本気で嫌がるカナの態度に撮影現場は一気にシラケ気味・・・監督はキレて激しく叱咤しますが、カナの意志は固く、結局カナひとり帰宅することになるのです。実は、ここからが「肉だるま」の本編なのであります!

ここからネタバレとグロテスクな描写が含まれます。


玄関先で靴を履こうとしているカナを、監督が背後からバットで殴って気を失わせて、失神状態で撮影部屋へ連れ戻すのです。股間の部分だけ衣服を切り取られて丸出し状態にされながら、頭は包帯をぐるぐる巻きにして、手足をベットに括りつけられてしまいます。監督はキクにカナを犯すように指示・・・そして、キクが腰を振っている最中、監督はナタを取り出して女優の右足首を切り落としていまうのです。


キクは一瞬戸惑いを見せながらも、そのまま行為を続けます。カナが無反応なことあり、監督は次に膝下にナタを振り落すのです。今度はカナも叫び声を上げて反応・・・監督はキクを突き飛ばしてカナに馬乗りになり、舌を引っ張り出して皮むき器で舌を削ぎ始めます。(本物の豚の舌を使ったらしい)苦痛の悲鳴をあげるカナに興奮した監督は、裁ちバサミで舌先を二つに切ってしまうのです。


監督とカメラマンによるカナへの残虐行為は夜通しで行なわれます。監督はナイフで右腕を切り落とそうとするのですが、骨や皮を切り落とすのに試行錯誤することさえも、どこか監督は楽しんでいる様子。さらに、止血剤や痛み止めのモルヒネを打ちながら、息絶え絶えのカナに向かって「痛いの~?生きたいの~?」と、子供をあやすかのように問いかけるのです。息絶え絶えのカナを愛しんでいるかのようで・・・残酷なフェチに恐怖を感じます。


居眠りしていた(この状況のショックから?)キクを起こして、監督は左足を切り落とすように命令・・・監督の言いなりのキクは、素直にカナの膝下にナタを振り下ろすのです。もはや、カナが生きていることがアリエナイ感じではありますが・・・カナのお腹をナイフで裂いた監督は、その切り口を広げながら「気持ちいいよ~」と、キクに切り口を犯すように促すのです。そもそも”死体好き”を自負していたキクでありますから、すぐさま勃起したモノを挿入して、異様に興奮して射精してしまいます。


その様子を背後から眺めていた監督は、今度はキクの後頭部に一撃・・・「なんで、なんで」と断末魔のつぶやきをしながら、キクも息絶えます。監督はキクの股間から睾丸を取り出し、カナの顔面にナタを振り下ろし顔を二つに割って殺害・・・カメラマンは惨劇の現場をじっくりとカメラに収めて、撮影は終了します。監督は誰か(スナッフビデオの製作を依頼したクライアント?)に電話で後片付けの依頼をすると・・・「帰りますかっ」とカメラマンに向かって話しかけ、本編は終わるのです。


本作よりも十数年前につくられた「ギニーピッグ2 血肉の華」と比較すると、特殊効果は稚拙なレベルです。しかし、本作の制作費が65万円であったことを考慮すると、これはこれで上出来なのかもしれません。穴留玉狂監督は、美容学校に通った経験を生かして特殊効果も担当したそうです。人体分解が見せ場の本作には、全身のダミーは制作しなければならなかったようなので、制作費の殆どはダミー制作費であったと思われます。ちなみに、大場加奈子さんの本作のギャラは5万円だったそうで・・・当時のアダルトビデオ業界の常識でも破格の低ギャラだったそうです。

アダルトビデオとしては”ヌケない”ことがアダ(?)となってか、一時期にはVHSテープのセールワゴンで100円で投げ売りされていたこともあったようですが、ネット上で「肉だるま」が都市伝説化したことによって、世間の注目を浴びる作品となったのです。2000年代半ばには、アロマ企画直営の高円寺バロック(現在は新宿に移転?)で、DVD版が販売されていたようですし、去年(2016年)にはアロマ企画の通販サイトでもDVD版が再販されています。

現在は再び販売終了となり、国内DVD版の入手は困難になっていますが、アメリカのMASSCRE VIDEO社から発売されたDVD版の「Tumbling Doll of Flesh(英語タイトル)」は、日本のアマゾンでも購入可能(2017年6月時点)。ボクが視聴したのは、この海外版ですが、日本国内で流通したビデオと同じマスターを使用しているらしく、モザイク加工されています。実は、このモザイク加工が本作のリアル感に貢献しているところありまして・・・ぼかされている部分があることで、特殊効果の”粗”が気にならないのです。

「観たら呪われるビデオ」と言われている本作に、どのような”呪い”があるのかと調べてみると・・・かなり胡散臭いところがあります。何故なら、どれもこれも「肉だるま」のスタッフに起こった出来事で、あくまでも彼らの自己申告であるからです。また”呪い”と言われる話の元になったのは、女優さんが亡くなってから3年後に「肉だるま」と同じスタッフとキャストによって(性懲りもなく!)制作された「オソレザン 降霊ファック」というドキュメンタリー風アダルトビデオの中で語られていた事なのであります。


松永花葉という女優を伴って、北野雄二氏、AV男優の菊淋、穴留玉狂と他スタッフ2名と恐山のイタコさんに大場加奈子さんの降霊して、彼女の死の真相を解明することが目的の作品なのですが・・・アダルトビデオとしての要素は、北野氏と菊淋が代わる代わるで女優とエッチをするというところです。口内射精したザーメンをお地蔵様に吐いたり、わざわざ恐山の賽の河原でエッチしたり、仏様のフィギュアをアソコに挿入したり・・・と、不謹慎極まりありません。


大場加奈子さんとの思い出などを「肉だるま」の映像を挟みながら、北野雄二氏が出演女優に語るのが・・・彼女の命日になると不思議なことが起きるという”呪い”の数々(まとめサイトよって多少の違いあり)なのであります。

撮影スタジオに行こうとしたら、彼女が埋葬された雑司ヶ谷霊園に着いた。

サラリーマンのスーツであるはずの男優の衣装が、喪服になっていた。

北野雄二監督が絡みをする撮影が、呼吸困難になって出来なくなった。

撮影後の帰路で、いきなり黒猫が道に飛び出してきて事故りそうになった。

菊淋が共演することになった女優の名前が「カナ」だった。

打ち上げをしようとして、辿り着いた店が「スナック カナ」だった。

お酒をお供えしたら、不思議なことが起こらなくなった。

スプラッター系の作品の企画をすると、穴留玉狂監督の精神が不安定になる。

”呪い”であって欲しい(そうであった方が楽しい?おもしろい?儲かりそう?)という先入観が、偶発的な出来事を”呪い”と結びつけているとしか思えません。大場加奈子さんの死をネタにしたビデオの販売促進のために、不届きにも”呪い”を利用しているだけなのです。「オソレザン」の中で語られていた”呪い”の現象が、真しやかにネットで拡散し、やがて「本当の呪いのビデオであって欲しい!」という”オカルト好きな人々”の願望と結びついて「検索してはいけないワード」や「観たら呪われるビデオ」という都市伝説になっていったのだと思われます。

「信じる者は呪われる!」


販促の”呪い”には恐怖心を感じませんでしたが・・・「肉だるま」撮影時の話でドン引きしたことがあります。スプラッターシーンの撮影後、現場は異様な興奮状態になり、北野雄二氏、菊淋、穴留玉狂監督、大場加奈子さんの(プライベートな?)4Pで盛り上がったというのです。やはり「肉だるま」に関わった全員、フツーの精神の人たちではありません。ただ、大場加奈子さんが嫌々撮影に臨んでいたわけでなく、本人的には結構ノリノリであった(楽しんでいた?)であったのかもしれないというのは・・・妙にホッとしてしまうところもあります。

穴留玉狂監督は、近年はスカトロ系のアダルトビデオを専門としているようで、手掛けている殆どのタイトルに「糞」の文字が入っているという徹底ぶり!本当の殺人や傷害行為を行なっている映像を販売/流通させることは法律上不可能なので、スプラッタービデオは疑似で制作するしかありませんが、スカトロビデオならマニア(もしくはお金のためにできる人)が出演すれば「本物」が法律に触れることなく撮影することができます。性のタブーのハードルは年々低くなっているので、アダルトビデオ業界ではスカトロも珍しくはなくなっているようですが・・・まだまだ一般的には一線を越えた世界です。

ただ「ジャンク」「デスファイル」の死体ビデオ、極限のSMドキュメント、獣姦モノ、スカトロ、障害者や奇形者とのセックスと、倫理観とアダルトビデオの可能性に挑戦していたV&Rカンパニー(安達かおるやバクシーシ山下による1980~90年代の一連の作品)のタブー破りな”メッセージ性”は、穴留玉狂監督に欠如しているように思います。しかし、逆に安っぽい禍々しさに際立つからこそ、都市伝説になりえたのかもしれません。

ちなみに、ボクは「肉だるま」を数回観ましたが、現時点で体調不良などの呪われている兆候は、全く起こっていません。そもそも、ボクは霊的に敏感な方ではないし、都市伝説のたぐいは信じない方なので、たとえ呪われていても(!)気付つかない可能性もありそうです。しかし、この記事を最後に本ブログが二度と更新されることがなかっとしたら「観たら呪われるビデオ」という都市伝説どおり、ボクは本当に呪われてしまったということなのかもしれません・・・(笑)


「猟奇エロチカ 肉だるま」
1999年/日本
監督 : 穴留玉狂
出演 : 大場加奈子、菊淋、穴留玉狂


「オソレザン~降霊ファック~」
2002年/日本
監督 : 北野雄二
監督 : 松永花葉、北野雄二、菊淋、穴留玉狂



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2017/05/31

ジョーン・クロフォード主演の初のテクニカラーは”おキャンプ映画”の怪作?・・・主人公のキャラクターが痛々しく本人とシンクロするの!~「トーチ・ソング(原題)/Touch Song」~


ひと昔の”映画スター”というのは、役柄を演じるよりも、その映画スターのカリスマ的なイメージを演じているところがありました。そのため、どの作品を観ても似たような役柄(強いヒーローや純粋なヒロインなど)を演じることになったわけですが、それこそが”映画スター”らしさでもあったのです。勿論、演技派と呼ばれる役柄を演じることに長けたスター役者という存在もいなかったわけでわけでありませんが・・・。ジョーン・クロフォードは、そんな”映画スター”全盛の時代に、何度も何度もイメージの再生を繰り返すことで”映画スター”として君臨し続けたのです。

1950年代のジョーン・クロフォード作品は一般的には”駄作”ばかりといわれるのですが、ボクのとっては”腐りかけの円熟期”として、最も充実(?)した時代に思えます。その中でも一番の”怪作”(?)といわれるのが、本作「トーチ・ソング(原題)/Torch Song」です。


主人公のジェーン・スチュワートには、ジョーン・クロフォード本人が役柄のキャラクターに強く投影されています。まず、ジェーン・クロフォードはハリウッドのスターですが、ジェニー・スチュワートはブロードウェイのミュージカルスター・・・ワンマンショーがブロードウェイで公演されている人気のエンターテイナーという設定なのです。

ジェーン・クロフォード自身、フラッパー女優として最初人気となったこともあり、ミュージカルスター役というのは、ジェーン・クロフォードにとっては”原点”なのかもしれません。ただ、歌って踊っていたのは20数年前のこと・・・それに、フラッパーダンスというのは、やたらと手足をばたつかせている”だけ”だったりするので、そもそもダンサーとしての実力は「イカホド?」なのです。本作では、ダンスパートナーとバックダンサーによって、全体的なダンスの見栄えが良くなっているという印象ではあります。

1930年代のレビュー映画では、ジョーン・クロフォード自身が歌っていましたが・・・それは”映画スター”が歌うということで、集客力が見込めた時代の話。本作のためにジョーン・クロフォードのレコーディングテストは行なわれたようなのですが、結果的には満足できるレベルではないと判断されたようです。本編ではインディア・アダムスという歌手が全てのミュージカルナンバーを歌っていて、ジョーン・クロフォードは口パクをしていています。


主演のスターが歌わないミュージカル映画を「なんで、わざわざ?」とも思ってしまうのですが・・・当時、それほど珍しかったわけではありません。ただ、本作のミュージカルナンバーは、そもそもは他の作品のために、インディア・アダムスが歌っていながらも、本編ではカットされて”お蔵入り”していたなど、本作のために作られたナンバーはなく使い回しばかり・・・正直、寄せ集めの即席感は拭えません。

前年インディーズ系で製作された「突然の恐怖」でカムバックを果たしたジョーン・クロフォードは、本作でミョージカルという新境地を開拓するつもりだったとも言われていますが・・・古巣でもある”MGM”に解雇されて以来の復帰、そして自身の初のテクニカラー作品ということで、ジョーン・クロフォードの気合が入っていたことは想像できます。

”MGM”側も、かつてのスタジオを支えた往年のスターの一人ですから・・・主演女優用の楽屋3人分を改築して、最大級の”おもてなし”でジョーン・クロフォードを向かい入れています。しかし、本作は見るからにして低予算だし、脇を固める出演者達もA級スターはいません。テクニカラー作品ではあるものの、MGMのようなメジャースタジオの作品としては明らかにB級扱い・・・ある意味、本作はジョーン・クロフォードの”スター・パワー”に依存しているジョーン・クロフォードによるジョーン・クロフォードのためのジョーン・クロフォード映画なのです。

主人公のジェニー・スチュワートのキャラクターは設定だけでなく、キャラクターもジョーン・クロフォードをモデルにしているとしか思えないほど”シンクロ”しています。「ファンのためには努力を惜しまず」「すべてのことをチェックして自分流にしようとし」「ダメなモノは容赦なくき罵倒して切り捨てる」は、ジョーン・クロフォードをディフォルメしたような人間像・・・もはや”強い女性”というよりも”ドラァッグ・クィーン”そのもので、台詞の数々はドラァッグ・クィーンの決め台詞になるほどです。



「Evening with Jenny/イブニング・ウィズ・ジェニー」というブロードウェイ・レビューショーの公演を控えて・・・「You're All the World to Me」(「ロイヤル・ウエディング」で有名なナンバーの流用)のリハーサルに余念のないジェニー・スチュワード(ジョーン・クロフォード)は、ダンスパートナーのアレックス(チャールス・ウォルターズ/本作の監督でもある)が、ジェニーの足につまずいて何度も転ぶことに苛立ち、激しく叱咤します。振り付け師が「少しだけ足を引っ込めたら・・・」と提案すると、

「And, spoil that line?/で、この(美しい足の)ラインをなくせって?」

と反論します。ジェニーが舞台監督よりも振り付け師よりも誰よりも現場では力を持っていて、周辺を威圧する姿は、語り継がれているジョーン・クロフォーの姿そのものです。


ファンとして痛切に胸が痛むのは・・・ジェニーがアシスタント(メイディー・ノーマン)相手に台本読みをした後、ひとりベットに寝そべってつぶやく「I'm NOT afraid of being alone. I've NEVER been lonely.(一人なんて怖くない。決して淋しくない」という(グレタ・ガルボが言いそうな)台詞・・・次第に感極まってジェニーは泣き始めてしまいます。ジェーン・クロフォード本人が、自宅のベットで一人で泣いていたかは知る由はありませんが・・・もしかすると、こんな夜もあったのかもしれないと思えてしまうシーンです。


ジェニーには、若いツバメ(?)らしきクリフ(ギグ・ヤング)というボーイフレンドが常に側いるのですが、二人の関係は上手くいっているような感じではなくて、なんでジェニーが彼と付き合っているのか分かりません。このギグ・ヤングという男優は、1940年代から70年代まで脇役(ちょい役?)で活躍された方なのですが、どこかしら「枯葉」(1956年)で共演したクリフ・ロバートソンに似ていて・・・これって、ジョーン・クロフォードの好みのタイプなのかしら?と思ってしまうほど。当然のことながら、物語が進むにつれて、いつの間にかクリフの存在は消えてしまうのは言うまでもありません。

ジャニーの横暴っぷりに愛想を尽かして、リハーサルのピアニストが辞めてしまったために、新しく雇われたのが目が見えないタイ・グラハム(マイケル・ワイルディング)というピアニストであります。当初は、楽譜を見ることができないなんてと、タイ・グラハムを解雇しようとするジェニー・・・しかし、周りのスタッフや人間はジェニーの”いいなり”なのですが、このタイ・グラハムはジェニーの辛辣な態度に辛口で反論しながらも、優しく受け止めるくれるのです。次第にジェニーはタイ・グラハムを意識するようになります。

「目が見えないってどういうことなのかしら?」と考えたジェニーが、時計の針を手で触って時間を確かめようとしてみたり、手探りでライターで煙草に火をつけようとして火傷しそうになったり・・・というのは、なんとも天然っぽい(?)一面でもあります。また、タイ・グラハムと音楽仲間が演奏パーティーを楽しんでいる自宅へ、いきなり訪問するという空気の読めなさも、人との付き合い方が不器用な人なのね・・・と愛らしく思えたりもします。


音楽仲間でもある美人のマーサ(ドロシー・パトリック)は、タイ・グラハムを深く愛していて、ことあるごとに積極的に彼に迫っているのですが・・・タイ・グラハムは彼女のアプローチを頑に拒否します。さまざまな言葉でマーサの美貌を説明されても、見たことはないから分からないと言い張って、決してマーサを受け入れないのです。しかし、何故か、ジェニーの美しさにはついては、彼は確信を持っているようなのであります。

実は、第二次世界大戦で視力を失ってしまう前、タイ・グラハムはブロードウェイの評論家で、デビューしたばかりで無名のジェニーの美しさと才能を、いち早く認めていたのです。彼の深い愛情を確信したジェニーはタイ・グラハムの自宅に忍び込み、マーサを追い出してしまいます。ジェニーが何をマーサに伝えたのかは描かれませんが・・・マーサを絶望させるような厳しい言葉であったのでしょう。


目が不自由になったことでジェニーの愛を勝ち取ることは出来ないと諦めて、逆にジェニーに対して厳しく接することしか出来なかったタイ・グラハムの心を、ジェニーは問い詰めることで無理矢理に開きます。そうして、やっと素直にお互いを必要としていることを認められるようになったジェニーとタイ・グラハムは、しっかりと抱き合い、キスをして、映画は終わるのです。

ブロードウェイのスターであるジェニーが、彼女の姿を見ることができない目の不自由なピアニストと結ばれる・・・というのは、何とも痛々しい”オチ”に感じてしまいます。役柄のジェニー・スチュワートも、演じるジョーン・クロフォードも、40代後半となって、多少の美貌の陰りが見え始めた頃。もう二度と自分を見ることのできない男は、若くて美しかった過去の自分の姿を脳裏に焼き付けているわけで・・・その姿は、永遠に年を取ることはないのです。過去の美に執着する女にとって、これほど都合のいい男はいないわけで、この二人が結ばれることはハッピーエンドではあるのですが・・・あまりにも切な過ぎます。


本作を「おキャンプ映画」の中でも、一番の怪作と言われる由縁は、本編の終盤で演じられる「Two-Faced Woman」というミュージカルナンバーがあるからです。このナンバーは、元々は「バンド・ワゴン」というミュージカルのために作られたもの・・・ただ「トーチ・ソング」では、ジェニー(とバックダンサーたちも)が黒塗りで黒人に扮するという”トンデモナイ”アレンジがされているのです。南部では白人と黒人の隔離政策が続いていて、黒人の人権運動が始める前ではありますが、本作が製作された1953年当時であっても、白人の俳優が顔を黒く塗って黒人を演じるというのは、かなり前時代的なこと・・・それもジョーン・クロフォードという大御所が、真面目に(?)やっているのですから、違和感が半端ありません。


公開当時、すでにズレまくりだった本作は、批評家から酷評され、興行的にも失敗・・・ジョーン・クロフォードは、二度と”MGM”で映画を撮ることななく、当然のことながら、ミュージカル映画の出演も本作っきりとなったのです。しかし、年月が経つにつれて、ジョーン・クロフォードと主人公のキャラクターが痛々しくシンクロする皮肉な本作が、「おキャンプ映画」として熱烈に支持される作品となったことは、ジョーン・クロフォードの表も裏も、美も醜も、ファンが愛してやまないことの証なのかもしれません。


「トーチ・ソング(原題)」
原題/Touch Song
1953年/アメリカ
監督 : チャールス・ウォルターズ
出演 : ジョーン・クロフォード、マイケル・ワイルディング、マージョリー・ランボー、メイディー・ノーマン、チャールス・ウォルターズ、ギグ・ヤング、ハリー・モーガン、ドロシー・パトリック
日本劇場未公開

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