2015/07/29

カルト映画を意識し過ぎたシリーズ三部作最終章にて超駄作!・・・学芸会レベルの”怪演”とスベリまくりの”内輪ウケ狙い”~「ムカデ人間3/The Human Centipede 3 (Final Sequence)」~


ホラー映画のシリーズも3作目あたりになると”ポシャる”ことってアリガチです。1作目がヒットして、それを踏襲した続編となる2作目はソコソコ成功しても、3作目ともなるとネタ切れ感があったり、観客も飽きてしまったり・・・。「ムカデ人間」1作目の公開時から、トム・シックス監督は1作目では3人を繋げたムカデ人間が2作目では12人・・・3作目では500人というトンデモナイ「ムカデ人間」の三部作構想を明らかにしていたのですが、最終章となる3作目で、これほど見事なハズしっぷりとなるとは・・・。

「口と肛門を繋ぐ」という分かりやすく(?)インパクトのある”B級ホラー映画として「ムカデ人間」は世界中のファンの心を掴んだわけですが、それに続く2作目は、まさかの”メタ構造”で、エログロ描写は過激・・・1作目を笑って観ていたボクさえも血の気が引いてしまうほどの”トラウマ映画”だったのです。以前からトム・シックス監督は3作目は政治的な映画になると発言していましたが、風刺にもなっていません。また舞台をアメリカ中西部であろう砂漠地帯にある刑務所に移したのも失敗・・・東ヨーロッパを舞台にした「ホステル」が3作目にアメリカのラスベガスに舞台に移して失敗していましたが、同じ過ちを犯してしまったようです。

1作目で”ムカデ人間”をつくったハイター博士を演じたディーター・ラーザーが刑務所所長、2作目で「ムカデ人間」の映画を観てムカデ人間をつくってみたいと”妄想する”マーティンを演じたローレンス・R・ハーヴィーが刑務所所長の助手を演じています。前2作に主演している俳優が、本作で所長と助手を演じているというのは、ちょっと不自然・・・囚人の中には1作目でムカデ人間の先頭になっていた日本人の北村昭博がいたり、トム・シックス監督が自分の役で出演している「楽屋オチ」のファンサービスも、完全にスベってしまっているのです。

ディーター・ラーザとローレンス・R・ハーヴィーは、カルト映画らしい”怪演”を意識した結果、前2作でのハマりっぷりが嘘のような学芸会レベルの演技で空回りしてしまっています。役名も所長が「ボス」、助手が「バトラー」という名前というのも、ジョークにもなっていません。二人とも寡黙であることでカリスマ性のあるキャラクターを演じていたのとは真逆で、本作では非常に饒舌・・・本作の半分は刑務所の所長室での”会話劇”のようになっています。台詞での説明が過剰で、キャラクターの行動に何も意外性を感じさせないので、トラウマ感が皆無なのです。


「ムカデ人間3」は、やっぱりというか、再びの”メタ構造”・・・映画「ムカデ人間」と「ムカデ人間2」を観た助手が、所長に経費節約のために500人もの囚人達を繋いでムカデ人間にしようと提案する場面から本作は始まります。

ボスは「目には目を歯には歯をの100倍~!」と所長自ら囚人達を虐待していて・・・骨が露出するまで腕を捻ったり、顔にタオルをのせて熱湯をかけたり、ナイフで睾丸を切り取って去勢したりと、やりたい放題。そのくせ囚人達から「リスペクトがない!」と怒りまくって、銃を乱射しているというメチャクチャっぷり・・・トム・シックス監督にとっての「クレイジーなアメリカ人!」という描写なのかもしれませんが、何も脈略もなく狂っているだけ。唯一の女性キャラクターである秘書のデイジーに対してのセクハラっぷりは、フェミニストがブチ切れそうほど酷いモノですが、悪趣味という意味では、完全に想定内。エリック・ロバーツ演じる州知事が、囚人達をムカデ人間に改造することを「素晴らしい!」と容認するという展開は、政治的な風刺にさえなっていません。


見所のひとつであるはずのムカデ人間への改造手術の行程は、稚拙な方法になっています。1作目では頬とお尻の皮膚を三角形に切り取って縫い合わせるという手術を施していたのが、本作では唇と肛門の周りに糸を通して引っ張るだけ・・・これでは大便はダダ漏れになるのは確実。500人もの人間が口と肛門を縫い合わされた状態で、どうやって移動するのかにボクは興味があったのですが、そのような場面を描くことは一切なく・・・術後、いきなり運動場のような広い空間に、局部だけ穴の開いた囚人服を着せられた状態で、ムカデ人間となった500人が繋がっているというシーンに切り替わってしまいます。また、終身刑の囚人は、手足を切り取った上、口と肛門を繋げた「イモムシ人間」にさせられるいるのですが、これが画的に地味・・・本来であれば「なんてこった!」と驚愕すべきところなのでしょうが。


最後には、所長は完全に狂って(というか最初から狂いっぱなしではありますが)全員を殺害して、監視塔で奇声をあげながら、アメリカ国歌が流れてエンディングとなります。サプライズもなく、三部作の物語の着地点としては、なんとも消化不良な感じ。ボクが観たのはアメリカ版に先駆けて発売されたイギリス版のブルーレイなのですが、それには「もうひとつのエンディング」が収録されていて、こちらの方が全然良いのです。


全員を殺害して、アメリカ国歌が流れるところまでは同じなのですが・・・ここで、いきなり高速道路の脇に停められた車のシーンに変わります。実はこのシーンは「ムカデ人間」の1作目のオープニングシーン・・・車の中ではハイター博士が、口と肛門を繋げる実験をした愛犬たちの写真を見ながら、涙を流しています。”メタ構造”を繰り返してきた本シリーズにふさわしく、1作目の”ふりだし”に戻ることで、「ムカデ人間」の全ては妄想の産物だったというのが、最も妥当な”オチ”だったのではないでしょうか?

「ムカデ人間3」
原題/The Human Centipede 3 (Final Sequence)
2015年/アメリカ、オランダ
監督&脚本:トム・シックス
出演   :ディーター・ラーザー、ローレンス・R・ハーヴィー、エリック・ロバーツ、北村昭博、ブリー・オルソン、ロバート・ラサード、トミー・タイニー・リスター、トム・シックス
2015年8月22日より日本劇場公開



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2015/07/10

猟奇的シリアルキラーを弟視線で描いた思春期成長ムービーと過激なスピンオフのスプラッター・・・超低予算のインディーズと侮れない鬼レベルのトラウマ映画!~「FOUND ファウンド」「ヘッドレス(原題)/Headless」~



それほど予備知識もなく海外版の映画DVDを買うことが時々あるのですが・・・「なんじゃこりゃ?」のハズレ映画ということもあれば、アタリ映画ということもあります。

インディーズで短編を撮り続けていたスコット・シャーマー(Scott Schirmer)監督による初の長編作品「FOUND ファウンド」は、2012年に完成したのですが、北米で劇場上映され始めたのは2014年になってから・・・各地の映画祭で上映されて多くの受賞歴があるようですが、大々的に宣伝されることもありませんでた。おそらく、ボクはこの映画の事を海外のウェブサイトで知って、DVDを購入したのだと思うのですが・・・実際にDVDが届いた時には何故買ったのか忘れていて、いつの間にか大量のDVDの中に埋もれてしまったのでした。

先日、DVD整理をしている時に偶然みつけて(!)観賞してみたところ・・・(心構えをしていなかったこともあり)完全ノックアウトされてしまいました。また、劇中映画がスピンオフの長編映画「ヘッドレス(原題)/Headless 」として最近完成しており、製作会社の通販サイトでブレーレイが販売されているのを見つけて、即購入!「FOUND ファウンド」「ヘッドレス/Headless」の2作は、この「めのおかしブログ」で書いた数々のトラウマ映画を凌駕する作品だったのです!!!

「FOUND ファウンド」の舞台は1980年代(レンタルビデオ屋がアメリカに普及した80年代半ば頃でしょうか?)・・・田舎町の中流住宅地(典型的なアメリカ)で、両親と兄と暮らす11歳の少年マーティ(ギャビン・ブラウン)の視点によって描かれて・・・「スタンド・バイ・ミー」と「悪魔のいけにえ」を足して割ったような作品となっています。


「兄はクローゼットに”人間の生首”を隠している」・・・という、不気味なモノローグで始まる本作。鍵っ子のマーティは自宅に一人きりの時、家の中を物色して家族の秘密を見つけて遊んでいます。母親(フィリス・ムンロー)は昔ボーイフレンドからもらったラブレターをベットの下に保管いるし、父親(ルーイ・ローレス)は巨乳のヌードモデルの雑誌を車庫のダンボール箱に隠しています。そして、兄のスティーブ(イーサン・フィルべック)はクローゼットのボーリングバッグの中に”人間の生首”を隠しているのです。多くは黒人女性で数日後には別な生首に変わっています。兄の留守を見計らっては、生首を取り出して眺めたりすることがマーティの日課なのです。


ホラー好きのマーティは変わり者として学校ではイジメられっ子・・・特に、ガキ大将的存在の黒人同級生マーカス(エドワード・ジャクソン)からは「チンコが小さい」とか「こいつはホモ」などと言われっぱなしで殴られっぱなし・・・しかし、母親にはイジメの話はしません。両親との折り合いは悪いものの、兄はマーティにとっては、常に味方の頼もしい存在でもあり、弟思いの兄という兄弟愛はしっかりと感じられます。成長期にありがちな問題を抱えた普通のアメリカの家族の日常生活を少年の視点で淡々と描いていて、殺人や生首は孤独なマーティの妄想であって欲しい・・と思えてしまうほどです。


唯一の友達は、ホラー好きという共通の趣味をもつデビット(アレックス・コギン)・・・共作でグロテスクなグラフィックノベル(アメコミ)を描いています。ホラーグッズコレクターの廃屋のようなトレラーハウスで遊んだり、両親が留守の時にはマーティの自宅に遊びにきて、ホラー映画を観るのが二人の楽しみになっています。近所のビデオレンタル屋で見つけた「ヘッドレス(原題)/Headless」というビデオは、何故か中身のビデオテープだけが抜かれており、店員(原作者のトッド・リグニーがカメオ出演)いわく、盗まれたか紛失してしまったとのこと・・・ところが、自宅に帰って兄の持っているホラービデオのコレクションを物色してみると、そこには「ヘッドレス」のビデオがあるのです。


この「ヘッドレス」は架空の映画で、1978年に製作されたスプラッターフィルムという設定・・・ガイコツのマスクをかぶった男が、拉致した女性たちを殺害する”だけ”というプロットで、1970年代後半には確かにアリガチの映画・・・ただ、ゴア描写は当時のモノより過激かもしれません。乳房を切り落として血だらけの胸にむしゃぶりつくとか、仰向けで首を切り落として切り口から流れ出す大量の血をかぶるとか、スプーンで目玉をえぐり出し食べるなど、なかなかエグい描写ばかり。極めつけは、切り落とした首の切り口(!)に○ンコを挿入する「生首○ァック」・・・猟奇的な行為とセックスのリピドーが連動していているところは、不快極まりないです。


マーティは「ヘッドレス」を観て「この殺人鬼を兄は模倣しているのではないか?」と思います。いつしかマスクを外した殺人鬼は兄の顔になり、マーティは恐怖を感じて始めるのです。そんな様子みて、マーティがビビってると茶化すデビット・・・「本当に恐ろしいものを見せてやる」といって、マーティが持ってきたのは、クローゼットに隠されている兄の”ボーリングバッグ”であります。そして、中に入っているのは、マーティをイジメていた同級生マーカスの”生首”なのです。

”生首”のことをマーティが知っていたこと・・・さらに、デビットに見せてしまったことを、兄は激しく問い詰めます。そして、殺害の対象の殆どが黒人である理由が人種的な差別を匂わすところは、倫理的になんとも居心地悪いです。警察官の黒人に対する不当な暴力、人種差別の白人青年による黒人教会での殺戮など、人種問題を要因にした事件が続く昨今・・・本作が高い評価のわりに全米で大々的に公開されることがなかったのは、インディーズ映画という理由だけでなく、もしかすると殺人の動機が人種差別に由来という設定があるのかもしれません。

そんな兄も、マーティに対しては心優しく・・・誰にもマーティを傷つけさせないと改めて強く誓うのです。そして、イジメてくる奴には暴力で対抗しろと、マーティにアドバイスします。日曜日の教会学校では、同い年のトレバー(エイドリアン・コックス=サーモンド)から、しつこいイジメを受けるマーティ・・・兄の助言に従い、この時は猛反撃して、トレバーをボコボコにしてしまいます。自宅に戻って父親から激しく叱られているマーティをみた兄は、遂に父親に対して激しい暴力を振い、家を追い出されてしまうのです。

ここから「FOUND ファウンドネタバレを含みます。


その夜、兄が自宅に現れます。今夜だけ寝室を交換しろという兄に、何かが起こると直感したマーティは「両親を殺さないで!」と懇願するのですが、両親さえも自分やマーティを傷つける存在であると確信してしまった兄を止めることはできません。二人の会話を聞きつけて外に出てきた父親をスコップで殴り倒すと、兄は母親に襲いかかります。母親を性的に暴行しようとする兄を止めようとしたマーティは、口枷を装着された状態で、兄の寝室のベットに縛りつけられてしまうのです。


隣の寝室からは母親の泣き叫ぶ声が聞こえてきます。母親の名前を呼び続ける父親の悲痛な叫びも聞こえます。どうやら兄は母親をレイプしている様子・・・切断用の大きなナタを探しにマーティの前に姿を現した兄は、全裸にガスマスクという姿で、股間は凛々と勃起しているのですから。その後、母親の断末魔の叫び声・・・そして、拷問でもされているかのような悲鳴をあげながら、父親も殺されてしまったようです。


このシーンは画面に映されることは一切なく、両親の声とマーティの顔のアップ”のみ”・・・”近親相姦”と”親殺し”という映像を観客に想像するほうが、そのものを見せるよりも遥かに恐怖を感じさせるという絶妙な演出です。さらに、両親を殺した後、血だらけの兄がマーティの前に現れて「今は理解できないかもしれないけど感謝する時がくる。もう誰も傷つけたりしないから問題ないよ」と優しい言葉をかけるところは、血の気が引く恐怖であります。翌朝、兄は血まみれのまま家から出て行ってしまいます。本作一番のトラウマシーンは、エンディング直前に映される口枷をされたままベットに拘束されているマーティの姿です。切断された両親の生首とバラバラの遺体の中に、埋もれてしまっているのですから・・・。


劇中映画の「ヘッドレス」以外で、ゴア描写は最後のショットのみ・・・「衝撃のラスト」という宣伝文句は使い古された感がありますが「FOUND ファウンド」のエンディングは、本当に本当に衝撃的です。公表されている制作費は、わずか8000ドル(約100万円)・・・スタッフやキャストがノーギャラだとしても、驚くべき低予算で製作されています。アイディア次第でホラー映画には、まだまだ可能性があることを証明した作品と言えるでしょう。


「FOUND ファウンド」の中で劇中映画として登場する「ヘッドレス」は、DVDの特典映像として短編映画になっているのですが・・・スピンオフの長編映画として2015年に完成した「Headless/ヘッドレス」は、殺人鬼のキャラクター設定からインスパイアされた”もうひとつの物語”。「FOUND ファウンド」で特殊効果を担当していたアーサー・カリファー(Arthur Cullipher)が監督を務め、スプラッター映画マニアのネーサン・イーデルが脚本を担当したこともあり、劇中映画の「ヘッドレス」よりも、ゴア描写満載の”スプラッター映画”となっています。本作では、殺人鬼の幼少期から育んできた性的フェティッシュの全貌が明らかになるわけですが・・・これが、とんでもなくヘビーな内容でトラウマ確実です。

「1978年制作」という設定となっている「ヘッドレス/Headless」・・・本編の始まる前に架空の映画予告編があるところなどは、グラインドハウスムービーを意識してのこと。また、低予算映画であることを逆手にとって、1970年代後半に作られていたスナッフフィルムに似せた安っぽさ(とは言ってもゴア描写には手抜きなし!)もリアルです。また、ファラ・フォーセット風の女性の髪型や、ヒッピー崩れの男性のロン毛など、キャストの1970年後半感の再現度も高いです。


ガイコツのマスクをかぶった名前のない殺人鬼(シェーン・ベーズリー)は、町外れの廃屋のような一軒家に暮らしており、日課のように拉致してきた女性を殺害しています。乳房切り落とし、首斬り、血浴び、目玉食いという猟奇的な行為は「ファウンド/Found.」の劇中映画で、すでにお馴染み(!)・・・大量のバラバラ遺体に囲まれて行なわれる生首○ァックには、さすがに頭を抱えてドン引きです。快楽殺人の行為と幼少期のトラウマや性的なファンタジーをフラッシュバックして、彼の異様なフェティッシュを明らかにしていきます。快楽殺人のような猟奇的フェティッシュを持っている人にとっては・・・このようなシーンが”おかず”になったりするのでしょうか!?


殺人鬼が、どうやって生計を成り立たせているかは謎・・・目玉を食べるくらいなので、人肉を食べていたとしても驚きではありません。ただ、自家用のトラックを所有していて、ヒッチハイクで女性をピックアップしたり、夜中のローラースケート場に出かけて女性を拉致したりしているということは・・・ガソリンを買うぐらいのお金は必要ということ。まぁ、殺している人たちの持ち物から、お金を奪っているのかもしれませんが。

ここから「ヘッドレス/Headless」のネタバレを含みます。


殺人鬼が寝起きするのはペット用のケージ・・・それは、彼が子供の頃から閉じ込められていたモノ。母親は夫(彼の父親?)が家を出てしまったのは彼のせいだと責めていて、碌な食事も与えずケージの中に閉じ込めたまま。コミュニケーションも取らないため、彼は言葉を話す事さえできず・・・まるで、動物のように育ててられています。与えられる食べられるモノは、目の前でバラした小動物の生首で、その目玉は彼にとっては果実のようなもの・・・人間の目玉がご馳走というのも頷けます。いつしか、小動物の生き血を浴びせられたり、姉の小便をかけられることに、彼は恍惚感を覚えていくのです。


殺人鬼が快楽殺人を行なう時、必ず彼の側にいて残忍な行為に導くのは、彼にしか見えないガイコツ少年(ケイダン・ミラー)の存在・・・少年期の過酷な状況下で彼自身が生み出した自己肯定の”人格”であります。ガイコツ少年という人格を生み出したことにより、自我が解放できるようになったのかもしれません。やがて青年に成長して、自分を虐待してきた母親と姉を殺害するに至り・・・トラウマ体験から培われていた性的なフェティッシュを、湾曲させた形で”現実化”させていくことになっていくのです。


殺人鬼の”ミューズ”として登場するのは、真っ赤な分厚い唇を持った目や鼻のない”のっぺらぼう”という人間的な表情を一切感じさせない無人格な女性・・・殺人鬼は女性の生首や切断された遺体と戯れることにより、この”ミューズ”との性行為を妄想することができるのかもしれません。男性の性行為というものが、性的なフェティッシュや自分勝手な妄想によって支えられていることを考えると・・・猟奇的な行為も、妙に腑に落ちてしまうところがあったりします。それと同時に、殺人鬼の受けた虐待の傷の深さも理解できるところがあって、同情心さえ感じてしまうことに、観客は気色悪さを覚えるに違いありません。


スプラッター映画には、”お約束”というのがあります。たいした必然性もなく女性キャラクターが脱いだり、被害者の人間性のクソっぷりをわざわざ描いたりとか、エッチをしたキャラクターは行為の直後に殺されるとか、最後まで生き残るヒロイン(女性キャラ)がいるとか。本作では、基本的に女性キャラは全員殺される前に裸にされるし、上司であるピート(デーヴ・パーカー)のクソっぷりが描かれた後、仕事場のローラースケート場でベッツィー(エリー・チャーチ)とエッチをしていて殺されるのです。ヒロインのジェス(クリッシー・カーライル)は、生きたまま拉致されて、最後に生き残るのかと思いきや・・・「悪魔のいけにえ」にオマージュを捧げた食卓シーンの後、バッサリ殺されてしまいます。


殺人鬼は、今まで殺してきた女性の生首を食卓に保管しているのですが、その中には母親と姉の腐りかけた生首もあります。ベッツィーの遺体に姉の首を、ジェスの遺体に母親の首をのせて、家族の食卓を再現・・・画的には地獄図のようですが、彼が求めていたのは普通に食卓を囲む家族の姿だったのかもしれません。鍵に写る自らの姿を改めて見た殺人鬼は、一瞬”正気”を取り戻したのでしょうか・・・気が狂ったように自分の顔の皮を剥ぎ、頭蓋骨剥き出しの”ガイコツ男”になってしまうのです。快楽殺人を誘導するガイコツ少年の姿に近づくことにより、ガイコツ少年の人格が殺人鬼の人格を飲み込んでいく・・・いずれにしても虐待のトラウマから逃れる術などなく、救われない”闇”しかありません。


「FOUND ファウンド」
原題/Found.
2012年/アメリカ
監督&脚本 : スコット・シャーマー
原作&脚本 : トッド・リグニー
出演    : ギャビン・ブラウン、イーサン・フィルベック、フィリス・ムンロー、ルーイ・ローレス、アレックス・コギン、エドワード・ジャクソン、エイドリアン・コックス=サーモンド、シェーン・ベーズリー
2017年1月10日より「未体験ゾーンの映画たち 2017」ヒューマントラストシネマ渋谷にて公開
2017年2月3日日本版DVDリリース


「ヘッドレス(原題)」
原題/Headless
2015年/アメリカ
監督 : アーサー・カリファー
脚本 : ネーサン・イーデル
出演 : シェーン・ベーズリー、クリッシー・カーライル、エリー・チャーチ、デーヴ・パーカー、ケイダン・ミラー、マット・キーリー、エミリー・ソルト・マックギー
日本劇場未公開


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2015/06/20

イギリス版「Quuer as Folk/クィア・アズ・フォーク」のラッセル・T・デイヴィスによる最新作!・・・スマホ時代の”LGBT”の恋愛とセックスを赤裸々に描いた三部作~「Cucumber, Banana, Tofu/キューカンバー、バナナ、トーフ(原題)」~


 

「Quuer as Folk/クィア・アズ・フォーク」は、アメリカHBOでのリメイク版が世界的にも知られていますが、オリジナルはわずか2シーズン(2シーズンはスペシャル版のみ)で終了したイギリスのチャンネル4で放映されたテレビドラマ・・・先日、イギリス版とアメリカ版の「Quuer as Folk/クィア・アズ・フォーク」と「Looking/ルッキング」について書いたばかり(めのおかし参照)だったのですが、「Looking/ルッキング」は、シーズン2で打ち切りが決定しまいました。しかし、今年(2015年)1月には、イギリス版「Quuer as Folk/クィア・アズ・フォーク」クリエーターのラッセル・T・デイヴィスが、15年ぶりに”LBGT”のテレビシリーズ三部作を発表していたのです!

ラッセル・T・デイヴィスが脚本も担当した「Cucumber/キューカンバー(原題)」(チャンネル4で放映された各45分のテレビドラマ8話)を”核”として、「キューカンバー」では脇役/端役で登場するキャラクターのサブストーリーを新人脚本家が書いた「Banana/バナナ(原題)」(E4にてネット放映された各23分のミニドラマ8話)、「キューカンバー」と「バナナ」に出演した役者や一般人のインタビューで構成された「Tofu/トーフ(原題)」(4oDにてビデオデマンド配信された各11分のドキュメンタリー8話)という三部作構成となっていて、10代~20代と40代~50代の2つの世代の”LGBT”の恋愛とセックスを描いているのです。

タイトルの由来は、スイスの学者が唱えた男性の勃起度合いを表す”硬さのレベル”・・・一番柔らかいのが「トーフ」で、次が「皮を剥いたバナナ」、その次が「皮付きのバナナ」、そして最も硬いのが「キューカンバー(きゅうり)」ということから。「トーフ」といっても、やわらかい絹豆腐ではなく、欧米で一般的に売られているしっかりとした木綿豆腐のことです。また「キューカンバー」は、日本の「きゅうり」ではなく瓜のようなモノ。トーフ、バナナ、キューカンバーのイメージは、老いと若さの象徴として繰り返しドラマの中で引用されます。切り口は、セックスでの立ち位置の葛藤や、外見/民族/年齢などの格差や差別など、あまり語れることのなかった問題にスポットをあてています。テレビドラマ的なスタイリッシュでテンポの良い演出にこだわるところは、同じイギリス出身の映画監督アンドリュー・ヘイ監督の「Looking/ルッキング」とは対照的なアプローチです。


「Cucumber/キューカンバー(原題)」は、保険のセールスマンとして働くヘンリー(ヴィンセント・フランクリン)を中心にした物語・・・彼には9年ほど同棲しているランス(シリル・ンリ)というアフリカ系イギリス人ボーイフレンドがいるのですが、今では倦怠期といったところ。知り合って以来、アナルセックスをずっと拒絶し続けるヘンリーに対して、ランスは不満を募らせています。また、泳げないランス(黒人は泳ぎが苦手という俗説に基づいて?)はビーチリゾートには行きたがらないのはヘンリーにとっては不満です。会社の食堂で働くバイの背年/フレディ(フレディ・フォックス)や、郵便係でアフリカ系のゲイの少年/ディーン(フィサヨ・アキネード)らの、きゅうりのような”若さ”にも心乱されるヘンリー・・・ランスとのロマンチックなデートから帰宅しても、各自オナニーしてから一緒のベットに寝るという(よくある?)セックスレスではありますが、そこそこ幸せなゲイカップルなのではあります。

頭は禿げまくっている上にブヨブヨのおじさん体型のヘンリーが”46歳”という設定に、複雑な気分にさせられるところもあったりするのですが・・・演じている役者さんの実年齢がそうなのだから、これがアングロサクソンのイギリス人46歳の実像に近いのでしょう。四六時中愚痴っていて、皮肉やイヤミばかり言っているヘンリーのような”ゲイおじさん”というのは、結構(特に欧米では?)リアルにいるタイプ・・・しかし、妙に茶目っ気があるところもあったりして人物設定としては絶妙なのです。クリエーターであるラッセル・T・デイヴィス自身(ボクと同い年の52歳)が、ヘンリーには投影されているのかもしれません。


ゲイが主人公の映画やドラマが珍しくはなくなってきた昨今・・・当然のようにベットシーンも描かれるわけですが、細かなディテールは思いの外”ざっくり”。前戯らしい前戯もなく唐突に挿入(!)されていたり、「タチ」「ウケ」のポジションが漠然と決まっていたり、体をくっつけているだけで体位的には無理そうだったり、現実からかけ離れていることが多っかたりします。セックスでの役割やプレイのバリエーションは多く・・・オナニーの見せ合い”だけ”とか、オーラルセックス”のみ”とか、射精を含まないSMプレイなど、それぞれの嗜好次第でゲイ同士の性行為は成り立ることもあるのです。普段は「タチ」だけど好きな相手に対してだけは「ウケ」になりたいというゲイもいるし、単に肉体的な快感を追求して「タチ」「ウケ」というポジションを選択する場合もあるし、年下だから女性的だから能動的だから「ウケ」というわけではありません。アナルセックスを「するか」「しないか」・・・「する」ならば「タチ」か「ウケ」かというポジションをめぐり、ゲイセックスの深層心理にはいろいろとあるのです。

ロマンティックなディナーをしている時に、ランスは不満を抱えながらもヘンリーにプロポーズします。しかし、ヘンリーは「結婚を考えたこともない。今のままで十分」と、あっさり断ってしまうのです。近年、同性婚が法律的に認められる国が増えていますが、人生のパートナーがいるからといって、すべてのゲイが同性婚したいわけではないのです。結婚について温度差があるゲイカップルというのは、実際には多かったりするのかもしれません。アナルセックスを拒否し続けられた上にプロポーズまで断られたランスは、3Pプレイを提案して堪る場所を探してた若い男を二人の家に連れ込みます。ヘンリーは激しく拒絶・・・それでも「アナルセックスしたい!」と、ランスは連れ込んだ男と寝室に籠ってしまうのです。


ここからが、如何にもドラマ的な展開なのですが・・・ヘンリーはキレまくって、道路にいた警察官に知らない男が家に侵入したと通報。ランスと若い男は手錠をかけられて警察官に連行されてしまいます。実は大騒ぎの最中、ヘンリーのインド系部下が自殺するという事態が起こっていたのですが、留守電のメッセージを聞くことをしなかったヘンリーは何も知りません。自殺者の妻の偽証により、ヘンリーは人種差別の濡れ衣を着せられ、職を失ってしまいます。二人で暮らしてきた一軒家を出ることをヘンリーは決意し、フレディやディーンの住んでいる不法(?)シェアハウスに移り住むことになるのです。(ここまでがエピソード1)

今(制作された2015年現在)という時代性を強く意識していて・・・ショートメッセージやSNSなどの今っぽいネットツールが満載。職を失ったヘンリーは甥っ子の同級生の男子同士(ノンケ)がボーイズラブの真似事をしてリップシンキングするという動画配信のプロデュースをして稼せごうとするし、イケてるウェイターはSNSでセックス趣味からヌード画像まで公開しているし、出会いは所謂”出会い系”SNSでインスタントだし、ショートメッセージのやりとり”だけ”で思惑がすれ違い人間関係が悪化していくなど・・・ネット社会だから起こりえることがエピソードには盛り込まれています。

本作では、恋人関係が破綻していくヘンリーとランスの物語を軸に、フレディやディーンらの若い世代のゲイのセックスライフを描いていくのですが・・・ラッセル・T・デイヴィスは(「クィア・アズ・フォーク」でもそうでしたが)若い世代(10代?)のゲイに、並々ならぬ関心があるようでLGBTのティーンの物語をいくつも織り込んでいきます。ただ、ヘンリーの世代にとって、フレディ、ディーン、甥っ子らの、美しい肉体や旺盛な性欲は「若さの象徴」としての”羨望”や”妄想”の対象ではあっても・・・人生のパートナーとなる対象ではありません。”若さ”に振り回されるのではなく、逆に”若さ”を利用するゲイおじさんの「したたかさ」さえも垣間見せているのです。

ヘンリーの世代に近いボクは、二人の関係がギクシャクして終焉を迎えていく”サマ”に、身につまされるようなリアリティを感じてしまいます。ヘンリーとの共同の銀行口座から全額着服して知らん顔してるほど、心が離れてしまったランスとは対照的に、ヘンリーは徐々に自分を見失い始め、何とかランスとやり直したいと願うようになっているのですが、ランスは”自称ストレート”のダニエル(ジェームス・マレー)に魅了されてしまっていて、過去を振り返ろうとはしません。実はランスも自分自身を見失い始めていて・・・それが、その後の想像だにしない悲劇的な展開となっていきます。

ここから「Cucumber/キューカンバー」のネタバレを含みます。


ヒットすれば「セカンドシーズン」「サードシーズン」と続くということが前提の海外ドラマですが・・・「Cucumber/キューカンバー」は各43分の8つのエピソードで、とりあえずは”完結”となるようで(スペシャル版が制作されることはあるかもしれませんが)、最終話(エピソード8)では後日談として数年後のヘンリーの姿が描かれています。8つのエピソードの中で”キモ”となるのは、ランスを主人公とした「エピソード6」・・・他のエピソードとは全く違う構造で語られるのは、ランスが生まれてから亡くなるまでの一生の物語なのです。

まず、冒頭に「ランス・エドワード・サリバン 1966-2015」とテロップが出て、彼が亡くなることが明らかにされます。これまでのエピソードの流れとしては、ヘンリーと別れたランスが、同僚で自称ストレートのダニエルとのデートの約束をして、いよいよ新しい人生を歩み始めようというところ。ヘンリーとの共同預金全額をランスが着服したことで、ヘンリーとの関係はますます悪化・・・復縁を求めてきたヘンリーを冷たい態度であしらってしまうのです。この状況下で、何故ランスが亡くなってしまうのか全く推測できません。

このエピソードは、ランスが生まれた瞬間からスタートします。母親により「ランス」と名付けられたように、母親に愛されて育つのですが、彼が幼いときに母親は亡くなってしまうのです。厳しい父親はランスを男らしい男の子にしようと男同士の性教育にも励むのですが、ランスはこっそり「プレイガール誌」(男性ヌードを掲載した最初の女性誌)を見ている、ちょっとフェミニンな少年になっていきます。誰にも見つからないように見終わったプレイガール誌を池に沈めようとするランスは、自分のセクシャリティに対して罪悪感を持ってしまった少年でもあるのです。こういう葛藤は、ゲイであることに少年期に気付いたゲイならば、誰もが経験したこと・・・心が痛みます。

大学生になり寮生活を始める頃になると、同級生のガールフレンドができるのですが、セックスに積極的な彼女にドン引きしてしまうランス・・・徐々に自習を理由にデートを断るようになり、結局、彼女とは別れてしまいます。その後ランスは男性と付き合い始めるようになるのですが、純粋な気持ちとは裏腹に、次から次に新しい男と関係を築いていくのです。父親や妹にカミングアウトした後、クリスマスには実家へ帰るようになるのですが・・・ボーイフレンドを連れてくるランスを父親は家には入れようとはしません。そのうち、ランスもボーイフレンドと一緒に実家に足を踏み入れること諦め、玄関先で毎年新しいボーイフレンドを紹介することになるのです。

ある年のクリスマス、ランスは一人で実家に現れます。何故なら、去年まで一緒にいたボーイフレンドはAIDSで亡くなってしまったから・・・この時になって、父親は初めてランスを実家に招き入れようとします。同性愛者であることを告白された父親にとって息子を理解して受け入れるためには、長い長い年月が必要だったということなのかもしれません。親にカミングアウトした多くのゲイが経験したことであろう家族との”蟠り(わだかまり)”と”和解”の過程を、テンポの良くサクっとみせる演出は見事です。

そして月日が経ち、ランスはヘンリーと出会い同棲を始めます。いつしか時間軸は、二人が泥沼の別れ話という”現在”に追いつくのです。復縁を迫るヘンリーに、あくまでも冷たい態度であしらうのは、ある意味”優しさ”なのか、ダニエルという新しい男が現れたから生まれた気持ちの余裕なのか、それとも、ある種の”復讐心”なのか・・・いずれにしても、ヘンリーとの元の鞘に戻るのはアリエナイという結論は出てしまっているのかもしれません。そしてランスは、ますますダニエルにのめり込んでいくことになるのです。


ある晩、ランスは念願かなってダニエルとゲイバーでデートにこぎつけます。ノンケぶった態度はゲイバーでの受けも良く、たちまちダニエルは人気者です。若いゲイのグループと楽しげにつるむダニエルを横目で見ながら、ただ一人でポツンと待っているしかないランス・・・そこに、オバサンが声をかけてきます。「ハンサムな男、でも・・・それだけの価値があるの?」と。若くてハンサムな男に魅了されてしまう・・・それは性欲を満足させるというよりも、自分の存在の意味のための悪あがきでしかないのかもしれません。ランスはアドバイスには耳を貸さず「彼にはそれだけの価値がある!」と自分に言い聞かせるように答えます。するとオバサンの姿は夜の闇に消えてしまうのです。このオバサンの亡霊って・・・ランスに残されていた最後の”良識”の声だったでしょうか?

ダニエルの自宅へ二人で戻ってきたランスとダニエル・・・しかし、自分自身の同性愛を受け入れてないダニエルは、自分から誘惑しておきながら、犯されたとキレまくり「ゲイなんて最低のブタだ!」と、ランスを罵倒し始めます。ゲイを恨み嫌う”自称ストレート”が、潜在的に同性愛嗜好を隠しているということはありがちなこと・・・逆恨みのようなゲイ男性への暴行事件は、社会的な要因だけでなく宗教的にも同性愛否定する欧米ではありがちだったりします。自己嫌悪に陥ったダニエルを優しくなだめようとするランスに拒否反応を示して、ダニエルはゴルフクラブでランスを頭部を思いっきり殴るのです。


頭部から大量の血を流しながら、ランスの脳裏には、それまで人生がフラッシュバックで駆け巡ります。輝く光の中、ベットの横で微笑むヘンリーの顔・・・最も大切な人を失ったことを気付くのは、いつも手遅れになってからなのです。後悔に涙を溢れ出しながらランスは意識を失い・・・画面は真っ黒になって、このエピソードは終わります。あまりにも衝撃的な展開とエンディングに、ボクはしばらく放心状態になってしまったほどです。このエピソード6の後は、後日談的にヘンリーの姿が描かれて、エンディングを迎えます。アメリカのテレビドラマだと、ランスが亡くなるまでがシーズン1で、その後の物語をシーズン2で描くという風に引っ張っていくところなのでしょうが・・・。


「Cucumber/キューカンバー」は、革新的なテレビドラマとしてラッセル・T・デイヴィスの手腕が再び発揮されていることは言うまでもありませんが・・・新鋭の脚本家たちを採用した「Banana/バナナ(原題)」は、1エピソードがたった23分とは思えないほど、内容が凝縮され、新鮮なテーマに挑んだ意欲的な一話完結のドラマなのであります。

「Cucumber/キューカンバー」の中では、脇役、または、端役/エキストラ(?)だったJGBTの人物が主人公となる8つのエピソーだから成り立っており、本国イギリスでは「キューカンバー/Cucumber」の放映直後にネット配信されたようです。主人公なる人物の年齢も性別もセクシャリティもバラバラでありながら、全体的には統一感が感じられるのは、各エピソードの制作スタッフや出演キャストが「Quuer as Folk/クィア・アズ・フォーク」に大きく影響を受けた人たちだからかもしれません。

8つのエピソードの中で、最もボクの印象に残ったのは、”イケメン”に運命の出会いを感じた”イケてないゲイ”の妄想とシビア過ぎる現実を描いた「エピソード7」・・・あまりにも冷酷なゲイのヒエラルキーの描き方には、思わず胸が苦しくなってしまいます。エイデン(ディノ・フェッチャー)はヘンリーらがたむろするレストランで働く24歳のウェイター・・・ゲイだけでなく誰からもオールマイティーにモテ筋のチャーミングなハンサムなエイデンは、出会い系のSNSでは誰もが知る有名人です。


その夜もゲイバーに入店するや否や、エイデンはセクシーな髭面のベン(ジャマール・アンドレアス)と早々にいい感じになるのですが、フランク(アレックス・フロスト)も連れて帰って3Pをしようと提案されます。ベン曰く「フランクのような”イケてないゲイ”にとって、自分たちのような”イケメン”とヤレるなんてラッキーなことだから、必死にサービスしてくれるはずだ」というのです。なんとも残酷な見解ではありますが、イケメンとデキる機会が少ないフランクにとっては、二人のイケメンと同時に相手できるなんて「ラッキー!」なのかもしれません・・・たとえ侮辱的な扱いを受けていたとしても!

英語では「out of my league/アウト・オブ・マイ・リーグ」という言い方をするのですが・・・これはヒエラルキーでは自分より上の存在のことを指します。ゲイでいうヒエラルキーは社会的、または、経済的な地位の格差よりも、あくまでも「イケるか」「イケてないか」という”見た目”によって決まってしまうものです。明らかに同じリーグに属していない二人がデキている場合、イケてない方が「社会的な地位を利用して」とか、「金にモノをいわせて」とか、ヒエラルキーの低さを補う”何か”がない限り、第三者にはヒエラルキーバランスが納得できないところがあったりします。男女であれば、社会的に成功しているブサイクな男が、美女を連れ添っているということは、非常によくあることはあるのですが・・・。

当初はフランクの存在を怪訝に感じて、自分の体には触らせないようにしていたエイデンでしたが、3Pの2回戦目(!?)となってくると、いつしかフランクとも抱擁し合うようになっていくのです。翌朝、ひとりでコッソリとベンの家を出ようとしたエイデンを追いかけてきたのはフランク・・・すぐ嘘とバレるような言い訳をしてまで、エイデンを帰らせまいとします。「見た目だけで判断しないで!二人の出会いは運命だ」と必死にアピールするフランクに、仕方なくエイデンはカフェに行くことを同意します。「見た目じゃない!」と訴えるフランク自身が、実は「見た目」でエイデンを求めているという「矛盾」・・・ロマンチックで純粋な恋心の”正体”なんて、こんなものなのかもしれません。

コーヒーを付き合ったものの、道端で知り合いとすれ違う時には、フランクを横道に突き飛ばして見知らぬフリをするエイデン・・・さすがのフランクも、これには激怒します。さすがにエイデンも罪悪感を感じ、もう一軒フランクと付き合うことにするのです。今日知り合った二人の関係は「DAY 1」・・・「次から次へと新しい出会いをして、いつまで”DAY 1”を繰り返し続けるのか?」と、フランクはエイデンに問いかけます。相変わらずエイデンのスマホには、出会い系SNSから頻繁にメッセージが届くのですが、フランクの言葉に何かを気付いたかのように、断りのメッセージを送り、今目の前にいるフランクと向き合おうとするのです。遂に、イケメンのモテ男が改心したのでしょうか?

ここから「エピソード7」のネタバレが含まれます。


ここから、エイデンとフランクの恋愛の日々が描かれていくのですが・・・二人のラブラブっぷりには、何故か目の覆いたくなるような不快感を感じてしまうのです。見た目の不釣り合いなカップル同士だとしても、激しく愛し合っても勝手だとは分かってはいるのですが、なんとも釈然としません。エイデンを演じるディノ・フェッチャーは、どんな角度からでも、どんな表情でも絵になるハンサムな一方、フランクを演じるアレックス・フロストは薄毛で出っ歯で話し方も表情もどこかイケてないのです。この二人のキャスティングは気の毒なくらい適役で・・・身につまされます。

ただ、このラブラブっぷりは全てフランクの妄想だったことが、あっさりと明かされて・・・フランクには残酷すぎる現実が、突きつけられることになるのです。目の前にいるフランクではなく、次に出会う新しい男にエイデンの興味は、すでに向いています。次から次に新しい出会いのチャンスがあるエイデンにとって、どんな相手であっても、新しい誰かとの「DAY 1」の燃え上がる感情には敵わないということなのかもしれません。見た目”だけ”を追いかけて、次から次に”イケメン”に誘われるゲイのヒエラルキーの頂点にいるエイデンだからこそ、成り立つ論理と言えるでしょう。「見た目じゃなくて中身だ!」というのは正論ではありますが・・・外見的に惹かれてもいない相手の内面的な魅力を見出すことって、そもそもデキっこないのです。


エイデンはフランクにハッキリと伝えます・・・「君はブサイク過ぎる」と。あまりにもストレートな言葉ですが、ここまで言われてしまっては、さすがのフランクも諦めるしかありません。罪悪感から生み出されてしまう中途半端な優しさは逆に相手を深く傷つけることになり、残酷なほどの誠実さこそ相手を救うことになるのです。

エイデンが立ち去った直後、フランクは別な男(イケメンじゃない)に声をかけられるのですが「タイプじゃない」と、冷たくあしらうところは、なんとも皮肉な話・・・見た目”だけ”で判断しないで欲しいと訴えていたフランクだって、結局、見た目”だけ”で判断していることがアリアリと分かるのですから。そして、フランクに断られた男には、別な誰かがアプローチしてくる・・・まさにゲイのヒエラルキーは「捨てるものあれば、拾うものあり」なのかもしれません。


「Tofu/トーフ(原題)」は「キューカンバー」「バナナ」とは違い、セックスについてのインタビューを集めたドキュメンタリーとなっています。インタビューに答えているのは「キューカンバー」「バナナ」の出演者や、さまざまな職業や年齢の素人さん・・・セクシャリティもLGBTに限定していません。あくまでも「キューカンバー」「バナナ」の補足的な内容ではありますが、セックスの関わる個人的な性癖や習慣におよんでいて、下世話な興味がそそられます。

連続ドラマシリーズ、単発の短編ドラマ、ドキュメンタリーの三部作のメディアミックスという形で、日本で放映されるのは難しいと思います。前作の「Quuer as Folk/クィア・アズ・フォーク」もイギリスのチャンネル4で制作されていたのですが、BBCなどとは違い海外販売のチャンネルを持っていないテレビ局のようなので、本作の大々的な放映は絶望的でしょう。また、製作総指揮のラッセル・T・デイヴィスは・・・もしかすると「日本嫌い」なのではないかという”節”が,何気に作品から感じられるので、日本での放映や日本語字幕付きのDVDリリースということには無関心かもしれません。当然のことながら、本人が特定の人種を毛嫌いしていることを公言することなどはしないので、あくまでも、推測ではありますが・・・。

イギリス版「Quuer as Folk/クィア・アズ・フォーク」で、唯一、登場する日本人というのが、英語をまったく理解できない”ハスラー”というキャラクターで、常に「金、金、金」と”お金”をせびるという、日本人にとっては観ていて不愉快な人物設定となっています。(この設定はアメリカ版にも引き継がれた)英語の単語を何一つ理解しないというのもアリエナイし、人の表情も場の空気も一切読めないのも日本人”らしからぬ”気がするのです。日本人が皇室(王室)を持つ島国同士という親近感をイギリス人に対して感じているほど、イギリス人は日本人に親しみを持っていないかも・・・と感じることは、海外生活で感じたことは何度かあるので、ラッセル・T・デイヴィス”だけ”に限ったことではないのかもしれませんが。(勿論、親日家のイギリス人もいます)イギリス映画を観ていると、明らかに中国語を話している登場人物なのに”日本人”となっていることがあったりしますから、”アジア系”の括りがざっくりしていて、自国の文化や習慣と対比した(どちらかというとネガティブな?)存在として描かれることが多ったりするかもしれません。

「キューカンバー」には「日本」という単語が出てくるシーンが、ひとつだけあるのですが、日本へのネガティブなイメージを垣間見せます。ヘンリーが、ある男と夜中のカフェで語り合うシーンで出てくる台詞なのですが・・・「日本のポルノって最低~。こんな風に言うと人種差別だって言われるけど、日本のポルノが嫌いだからって、なんで人種差別扱いされなきゃいけないんだよ!」とぶっちゃけるのです。これって・・・ラッセル・T・デイヴィス自身の正直な心の声なのでしょうか?まぁ、日本のゲイポルノについてはボクも「どうなの?」と思うところがないわけではありませんが・・・ドラマの流れに不要なのに、わざわざ”日本のポルノ嫌い”を持ち出してくるところは、ちょっと不自然な気がします。ラッセル・T・デイヴィスの脚本からは、アフリカ系やインド系に対しては親和性を感じさせるのですが、日本(アジア系ゲイ?)を毛嫌いしているのが、見え隠れしているような気がするのです。ラッセル・T・デイヴィスのファン方は(自分の好きな海外スター/セレブは”日本好き”だと思い込む人って多いし)異論を唱えるかもしれませんが・・・。

・・・とはいっても、本作の革新的、かつ挑発的なラッセル・T・デイヴィスの制作姿勢は”さすが”であります。アメリカでは「LOGO TV」というLGBT視聴者向けのケーブルチャンネル(「ル・ポールのドラァッグ・レース」放映)で「キューカンバー」と「バナナ」が放映されたようですが・・・今のところ”リメイク”の噂はありません。おそらく、日本市場が眼中にない制作者側から、あえて売り込みはないかもしれませんが・・・最近、「ユートピア/Utopia」「12モンキーズ/12 Monkeys」など、イギリスのテレビシリーズの配信に意欲的な「Hulu」とかで、視聴できるようになればと願うばかりです。


「キューカンバー(原題)」
原題/Cucumber
2015年/イギリス
製作総指揮/脚本 : ラッセル・T・デイヴィス
出演       : ヴィンセント・フランクリン、シリル・ンリ、ジュリー・ヘスモンドハラー、フレディ・フォックス、ジェームス・マレー、フィサヨ・アキネード、コン・オニール
Channel 4にて放映/各45分8エピソード

「バナナ(原題)」
原題/Banana
2015年/イギリス
製作総指揮/脚本 : ラッセル・T・デイヴィス
出演       : フィサヨ・アキネード、レティティア・ライト、ジョージア・ヘンシャウ、ハンナ・ジョン=カーメン、ベサニー・ブラック、ルーク・ニューベリー、クロエ・ハリス、チャーリー・コヴェル、ディノ・フェッチャー、アレックス・フォレスト、リン・ハンター、ニキ・ファグべミ
E4にて放映/各23分8エピソード

「トーフ(原題)」
原題/ Tofu
2015年/イギリス
4oDにてビデオデマンド配信/各11分8エピソード



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2015/05/21

矢頭保が”カリスマ写真家”になるまで/その1・・・宝塚歌劇団男子部から日活アクション映画の端役時代


数年前(2010年)に、このブログで「矢頭保」という写真家について書いたことがあるのですが(めのおかし参照)・・・その後、ますます彼の足跡について興味が湧いてきて、自分なりに彼の足跡の点と点をつなげていくことをしています。

矢頭保から広がっていく、さまざまな疑問・・・何よりも写真家として世の中に認知される前の彼の人生については知られていないことばかりで、矢頭保本人とされる写真も非常に少ないのです。いろいろと謎が多かった理由のひとつは、芸名を何度か変えてリセットを繰り返していたこともあるかもしれません。

「矢頭保」こと、本名「高田実男」(たかだじつお)は、兵庫県西宮市で生まれたことは確かなようですが、正確な生年月日は不明です。誕生日については全く情報が見つけられませんでしたが、生まれた年については1924年~1928年の間に諸説あります。ただ、1973年5月20日に亡くなった時に48歳だったという証言が、生前の彼を知る多くの友人からあるようなので、ここでは1925年説を前提にしようと思います。

1925年生まれとなると・・・三島由紀夫(1925年1月14日生まれ)と同い年ということ。ちなみに、ボクの母親も1925年生まれで、今年(2015年)90歳となります。この年代というのは、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に生まれていて、幼少時は豊かになっていく近代日本で育っているのですが、中学生の時に太平洋戦争が始まり、暗い青春時代を過ごすことになるのです。高校生になった頃には勉強どころではなく、女子生徒は軍事工場で働かされ、男子生徒は徴兵検査を受けて学徒出陣させられています。母いわく・・・同世代の男性は亡くなった人が非常に多くて、結婚相手がいない女性が多かったそうです。

三島由起夫は仮病で徴兵を免れたことを戦後になってから告白していますが、同い年の「高田実男」が徴兵/出兵したのかは分かりません。年齢的に考えて・・・徴兵検査を受けてないとは考えられないし、健康的に問題がなければ(国内勤務で終わったとしても)出兵した可能性は高いと思います。徴兵されなかったにしても、実家のある西宮市に住んでいたとしたら、空襲で焼け出されていたかもしれません。阪神工業地域として発達していた西宮市は、1945年に5回(5月11日、6月5日、6月15日、7月24日、8月6日)も空襲に襲われているのです。いずれにしても太平洋戦争の影響を受けることは免れなかったと思われます。

「高田実男」の家族に関しては諸説あるのですが・・・後年、彼が”母親”については語ることはあったものの、父親については何も語っていなかったそうです。父親とは不仲だったのかもしれませんし、母子家庭のような環境で育ったのかもしれません。兄弟姉妹のうち、少なくとも一人はいたと言われていて、彼の死後に血縁者が現れて、遺品の写真やネガを焼却して、写真集の再販を許さないと言われているのですから・・・。彼が何歳で実家を離れたかは分かりません。また、終戦時(20歳)に、どのようにして生活の糧を得ていたのかは全く分かりませんが、20代前半は終後の混乱の中で生きていくしかなかったと思われます。

ボクが見つけることのできた最も古い「高田実男」とされる写真は、1950年に撮影されたバットを片手にユニフォームを着てポーズをとっている写真(下画像参照)です。趣味で野球ということは、当時でもあったかもしれませんが・・・ユニフォーム一式揃えてというのは、普通のことだったのでしょうか?もしかすると、どこかで野球選手(プロ?)として活躍していたのかもしれません。ボクは野球には全く知識がないので、彼の着ているユニフォームがプロ野球選手のモノだったとしても、どこのチームのモノかは分かりませんが・・・。


終戦して間もない1945年12月、宝塚歌劇団が男子部を開設して第一期生5人を採用、1946年には後に「西野バレイ団」(金井克子、由美かおるを輩出)を設立する西野皓三を含む第二期生3人、1947年には第三期生5人を採用・・・そして、1951年12月、5年ぶりに第四期生12人を採用することになります。この第四期生の中に「高田実男」がいて、宝塚時代は「高田延昇」(たかだのぶのり?)という芸名で芸能活動することになるのです。


第四期生は宝塚新芸座のオープンを控えての採用で、即戦力として研究生を集めたところがあったそうなので、経験者でなければ合格しなかったのではないかと考えられます。第三期生までは、3年間研究生として学んだ後、やっと舞台に立つことを許されたらしいのですが・・・第四期生は採用されてすぐ、宝塚映画劇場での1952年正月公演「ウキウキ世界一周」という舞台に出演しているらしいのです。1951年というと「高田延昇」は、すでに26歳・・・宝塚加入以前に、何らかの”演技”または”ダンス”の経験があったとしても不思議ではありません。また、この時期すでに「和製ターザン」というニックネームで呼ばれていたようなので、当時としては珍しく鍛えた肉体の持ち主ではあったようです。


宝塚歌劇団男子部の活動は限られたもので、晴れ舞台といえる”宝塚大劇場”での公演には至りませんでした。ただ、この時代、宝塚は映画製作も行なっていて、「高田延昇」として「昔話ホルモン物語」と「選挙戦のうらおもて」という2本の映画に出演しています。主演ではなかったようですが、この時の映画出演体験が、後に日活での大部屋俳優に繋がっていくのかもしれません。残念ながら1954年3月には、宝塚歌劇団男子部は解散・・・メンバーは別々の道を歩むことになります。


「高田延昇」は解散直後、芝居中心の”宝塚新芸座”に所属したらしいのですが、ダンスの方が得意だったらしく、すぐに”北野劇場ダンシングチーム”へ移籍したようです。このときの年齢は29歳・・・すでに”若手ダンサー”というほど若くはありません。詳しいことは分かりませんが、北野劇場ダンシングチーム”でのダンサー生活は、思っていたよりも過酷な環境だったようで・・・1956年、31歳の時に上京することを決意します。ちなみに”北野劇場ダンシングチーム”は、1959年に劇場が映画専門館となり解散をすることになったことを考えると、この時に脱退したことは賢明な選択だったのかもしれません。


上京後に「高田延昇」という芸名を名乗り続けていたのかは定かではありませんが、当初は”フラメンコダンサー”を目指していたらしいです。しかし、レッスンを開始する直前に交通事故で両足を骨折してしまい(!)、ダンサーとして食べていくことを断念することになります。生活に困窮し、日雇い人夫のような仕事をすることもあったようなのですが、この時期に思いがけない幸運が彼に訪れることになるのです。この頃(1957年?)、パートナーとなるアメリカ人メレディス・ウィザビーと出会うのですが・・・この経緯や状況については、いずれ書こうと思っている「その2」で詳しく書く予定です。

六本木のウィザビー邸で、当時の日本人の生活レベルからすると、かなり贅沢だったであろう同棲生活を始めます。しかし「囲われた愛人生活」に甘んじていたわけではありません。1958年からは日活の(主に)アクション映画に「高田保」(たかだたもつ)という芸名で、数々の作品に出演しているのです。33歳という年齢を考えると・・・応募資格が男子満17歳~22歳だった「日活ニューフェイス」ではなく、いわゆる「大部屋」での採用だと思われます。

当時の日本映画業界では、スター俳優の多くは映画会社に所属(入社)して、基本的にその会社の製作する映画作品にしか出演できませんでした。ただ、映画会社お抱えの俳優だけでは映画は作れませんから・・・演技の基礎がある劇団所属の俳優が脇を固めて、その他の端役は大部屋俳優が演じていたのです。毎週数本の映画を量産していた当時の製作体勢を支えるための仕組みで、大部屋俳優からスターになることは、まずありませんでした。

「高田保」が出演したのは、”ダイアモンドライン”と呼ばれた日活アクション映画が中心で、主演には石原裕次郎、小林旭、赤城圭一郎などのスター俳優が並んでいます。彼が演じた役柄の殆どは、チンピラ、愚連隊、悪役の部下/手下、ヤクザの子分/乾分といった、いわゆる”殴られ役”・・・出演者といっても”エキストラ”に近く、一瞬しかスクリーンに映らないような役柄が殆どで、よほど注意して映画を観ていなければ、その存在さえ気付かないほどであります。

演技といっても凄みを利かせた表情するだけだったり、スターに殴られるスタントマンのような役柄ばかり・・・。当時の日活アクション映画というのは、主人公を演じるスター、主人公のライバルを演じる俳優、脇を固めるのは劇団出身の役者、悪役を演じる俳優などの顔ぶれは大体決まっていて、それぞれがパターン化された演技をすることが当たり前・・・端役の演技がワンパターンだとしても当然のことです。それに大部屋俳優は役者としての演技うんぬん以前に、見た目の特徴によって、毎度似たような役柄を与えられていたに過ぎなかったのかもしれません。

いくつかある映画会社の中で、彼が日活を選んだ理由を今になっては知る由はないのですが・・・宝塚時代からの”コネ”があったのかもしれませんし、オーディションにたまたま受かったのが日活だったということかもしれません。「東映の大部屋俳優になっていれば、任侠映画でチンピラ役として、もっと活躍できたのでは?」と思うところもありますが・・・逆に東映だと彼のような”イカツイ”タイプなんて吐いて捨ているほどいて、個性が埋もれてしまっていたとも考えられます。

ボクはこれといった根拠もなく「矢頭保」は「どちらかというと小柄だったのでは?」と思っていたのですが、出演作品を観てみるかぎり、少なくとも身長170cm以上はあったようです。身長174cmと公表していた赤木圭一郎や宍戸錠とほぼ同じぐらい・・・当時としては決して”小柄”ではなかったと思われます。役作り(?)のためか常に日焼けしていて色黒、天然パーマで整った髪型、目鼻立ちがごつくて唇も厚く濃い顔、当時としては鍛えた筋肉質の身体、全体的な雰囲気は垢抜けないサル系(?)で、今でもゲイにはモテそうなタイプです。彼が後年、好んで撮影した”日本男児”というよりも”南方系”かもしれません。


1960年夏頃(?)、芸名を「高田保」から「矢頭健男」(やとうたけお)にするのですが・・・相変わらず大部屋専門で、演じる役柄にも大きな変化はなく、芸名を変えた理由は分かりません。ここで初めて「矢頭」と名乗り始めることになるのですが、何故、この名字を選んだのかも分かりません。ただ興味深いのは「矢頭保」という写真家としてのペンネームは、大部屋俳優時代の芸名の「矢頭(健男)」と「(高田)保」を組み合わせだったということです。

確認できただけでも、約5年間の日活映画の出演作品数は(クレジットなしも含めて)「高田保」名で47作、「矢頭健男」名で28作、計75作もあります。そのうち20作品がDVD化されており「高田保」「矢頭健男」の動いている姿を観ることはできます。大部屋俳優でしたから、ポスターに名前が記述されたことは一度もありませんがでしたが、タイトルのクレジットに出演者として名前が出てくる作品は結構あります。

ただ、出演シーンの多くはコマ送りで再生しないと顔が確認できないほどで、当時映画館で観ていたお客さんが「高田保」もしくは「矢頭健男」の存在を認知していたかは、疑問ではあります。また、クレジットには名前があるにも関わらず、何度観ても姿を確認できなかった作品(「錆びた鎖」)があるかと思えば、クレジットに名前はないのに妙に目立っている作品(「風速40米」)があったり、役名が「あっても」「なくても」いいような役ばかりです。

面白いのは・・・日活映画出演も後期になると、その他大勢のエキストラ的な役柄が増えたにも関わらず、ひとりだけ違う色のスーツやシャツを着ていたり、カメラ位置を把握して顔が映る場所を陣取っていたり、他の大部屋俳優が激しく動いている中で一人だけ体は固定されていたりと、上手い具合にスクリーンの中で目立っているところです。監督や他の役者のいる現場なので、勝手なことは許されないとは思いますが・・・大部屋俳優同士の中に、先輩後輩の序列があって、カメラに写りやすい場所取りみたいなことがあったのかもしれません。

出演作品で、比較的目立つ役柄を演じているのは「ギターを持った渡り鳥」「大学の暴れん坊」「銀座風雲児 黒幕は誰だ」「海を渡る波止場の風」あたりでしょうか・・・。中でも流れ者シリーズ二作目となる「海を渡る波止場の風」は、映画全編に渡って、何度も登場しており・・・主演の小林旭、宍戸錠、浅丘ルリ子それぞれと絡んでいて、ひとりでスクリーンに大写しになるシーンもあります。

結果的には「高田保」としても「矢頭健男」としても、大部屋俳優の枠を超えることはなく、1962年7月29日に劇場公開された「燃える南十字星」という作品を最後に、日活映画の出演作品の確認はできません。当時はクランクインしてから、約一ヶ月ほどで公開されていたようですから・・・おそらく1962年6月末頃に、日活を退社していたのではないでしょうか?


日活映画に出演していた期間は、彼はウィザビー邸で同棲生活をしていたはずなので、日々の生活の糧を得るため”だけ”に仕事をする必要はなかったと考えられます。それでも約5年ものあいだ大部屋俳優を続けたのは、彼なりに「夢」を追っていたのかもしれません。普段は無口で垢抜けない印象を与えた人だったそうですが・・・自分のルックスにはソコソコ自信を持っていたらしい”節”があって、自意識は高そうだったという証言が多々あるそうです。

何故、彼が俳優業を辞めたのかは分かりませんが・・・37歳という年齢に”潮時”と感じたのでしょうか?ニューフェイス採用のスター候補として同じ年に日活入社した赤城圭一郎はたちまち人気者となっていきます。ニューフェイスとして入社してきた後輩たちの作品で、相変わらずの大部屋俳優という立場でしかスクリーンに映ることはなく、少なからず憤りを感じることがあったのかもしれません。それとも、俳優業の傍らウィザビーからカメラを与えられて、写真家への転向を考えていたのでしょうか?

その後、1967年にインディーズで、ホモエロティックな実験映画を製作をしていた友人のドナルド・リチーの「青山怪談」に友情出演しましたが、カメラの前に立つことは、あまりなかったようです。彼自身が撮影したといわれているセルフポートレイト(下画像参照)は、この1点ぐらい。もしかすると、彼の遺族によって、死後セルフポートレイト写真などは、全て破棄されてしまったのかもしれませんが・・・。

「高田実男」として生まれ、「高田延昇」として宝塚歌劇団/ダンサーとして活動し、「高田保」「矢頭健男」として大部屋俳優となり、写真家として「矢頭保」と名乗ることで、彼は人生をリセットしたのかもしれません・・・「矢頭保」と言う”写真家”として、後世に記憶されるために。



矢頭保出演作品リスト/クレジットなしも含む
(*印はDVDリリース/○印はVHSビデオのみリリース)

高田延昇(芸名)

「昔話ホルモン物語」役柄不明
監督 : 内村禄哉
出演 : 渡辺篤、木戸新太郎、八千草薫
1952911日公開/宝塚映画

「選挙戦のうらおもて」役柄不明
監督 : 不明
出演 : 鈴木繁男
195335日公開?/宝塚映画

高田保(芸名)

「素晴しき男性」劇団関係者 役/クレジットなし
監督 : 井上梅次
出演 : 石原裕次郎、北原三枝、月丘夢路
195876日公開/日活

「野郎と黄金」大門
監督 : 牛原陽一
出演 : 長門裕之、二谷英明、岡田真澄
1958722日公開/日活

*「風速40米」尾崎の子分/クレジットなし
監督 : 藏原惟繕
出演 : 石原裕次郎、北原三枝、川地民夫
1958年8月12日公開/日活

「酔いどれ幽霊」片桐の乾分A
監督 : 春原政久
出演 : 柳沢真一、白木マリ、西村晃
1958826日公開/日活

「銀座の沙漠」キャバレーのボーイ 役
監督 : 阿部豊
出演 : 長門裕之、南田洋子、芦川いづみ
1958915日公開/日活

*「赤い波止場」学生A
監督 : 舛田利雄
出演 : 石原裕次郎、北原三枝、中原早苗
1958923日公開/日活

「太陽をぶち落せ」浅草の通行 役/クレジットなし
監督 : 野口博志
出演 : 川地民夫、菅井一郎、南田洋子
1958101日公開/日活

「夜の狼」役柄不明/クレジットなし
監督 : 牛原陽一
出演 : 葉山良二、芦川いづみ、白木マリ
1958108日公開/日活

「俺らは流しの人気者」山中の乾分A
監督 : 野口博志
出演 : 川地民夫、沢本忠雄、宍戸錠
19581029日公開/日活

「嵐の中を突っ走れ」チンピラ(一)
監督 : 藏原惟繕
出演 : 石原裕次郎、北原三枝、岡田真澄
19581029日公開/日活

「完全な遊戯」吉祥寺のノミ屋の客/クレジットなし
監督 : 舛田利雄
出演 : 小林旭、芦川いづみ、白木マリ
195811月12日公開/日活

「忘れ得ぬ人(第一部)」役柄不明
監督 : 吉村廉
出演 : 筑波久子、待田京介、葉山良二
19581210日公開/日活

「獣のいる街」関根
監督 : 古川卓巳
出演 : 葉山良二、梅野泰靖、芦田伸介
19581217日公開/日活

*「女を忘れろ」大沢の部下四
監督 : 舛田利雄
出演 : 小林旭、浅丘ルリ子、南田洋子
1959128日公開/日活

「愛は空の果てへ」銀河の政
監督 : 野口博志
出演 : 青山恭二、初井言栄、稲垣美穂子
1959218日公開/日活

「逃亡者」トラックの助手
監督 : 古川卓巳
出演 : 長門裕之、稲垣美穂子、露口茂
1959325日公開/日活

「海は狂っている」高田
監督 : 古川卓巳
出演 : 川地民夫、南田洋子、清水まゆみ
195969日公開/日活

「若い豹のむれ」ボクシングジムの先輩 役/クレジットなし
監督 : 松尾昭典
出演 : 小林旭、渡辺美佐子、白木マリ
1959616日公開/日活

「ゆがんだ月」高校生
監督 : 松尾昭典
出演 : 長門裕之、芦川いづみ、赤木圭一郎
1959728日公開/日活

「男なら夢をみろ」岩淵組の乾分A
監督 : 牛原陽一
出演 : 石原裕次郎、葉山良二、芦川いづみ
195989日公開/日活

「清水の暴れん坊」チンピラ(二)/タイトルバックの愚連隊 役
監督 : 松尾昭典
出演 : 石原裕次郎、北原三枝、芦川いづみ
1959927日公開/日活

*「ギターを持った渡り鳥」清水
監督 : 斎藤武市
出演 : 小林旭、浅丘ルリ子、中原早苗
19591011日公開/日活

「天と地を駈ける男」バーでからむチンピラ/クレジットなし
監督 : 舛田利雄
出演 : 石原裕次郎、北原三枝、二谷英明
1959年11月1日公開/日活

「密会」若い男
監督 : 中平康
出演 : 桂木洋子、宮口精二、千代侑子
19591111日公開/日活

「波止場の無法者」役柄不明
監督 : 齋藤武市
出演 : 小林旭、浅丘ルリ子、岡田真澄
19591115日公開/日活

*「大学の暴れん坊」イタチの勝
監督 : 古川卓巳
出演 : 赤木圭一郎、葉山良二、芦川いづみ
19591118日公開/日活

*「銀座旋風児 黒幕は誰だ」武田鉄兵
監督 : 野口博志
出演 : 小林旭、浅丘ルリ子、南風夕子
1959127日公開/日活

「昼下りの暴力」愚連隊のチンピラ
監督 : 野口博志
出演 : 川地民夫、水島道太郎、稲垣美穂子
19591214日公開/日活

○「男が命を賭ける時」労働者B
監督 : 松尾昭典
出演 : 石原裕次郎南田洋子芦川いづみ
19591227日公開/日活

*「鉄火場の風」街のチンピラB
監督 : 牛原陽一
出演 : 石原裕次郎、北原三枝、赤木圭一郎
1960115日公開/日活

*「やくざの詩」乾分B
監督 : 舛田利雄
出演 : 小林旭、芦川いづみ、南田洋子
1960131日公開/日活

「六三制愚連隊」乾分三
監督 : 西河克己
出演 : 和田浩治、木下雅弘、守屋浩
1960313日公開/日活

*「打倒(ノックダウン)」拳闘部長島
監督 : 松尾昭典
出演 : 赤木圭一郎、二谷英明、稲垣美穂子
1960320日公開/日活

「闇に光る眼」十太
監督 : 春原政久
出演 : 川地民夫、中川姿子、谷川玲子
1960330日公開/日活

「邪魔者は消せ」佐川の仲間 役/クレジットなし
監督 : 牛原陽一
出演 : 赤木圭一郎、二谷英明、葉山良二
1960416日公開/日活

「素っ飛び小僧」今村の子分 役/クレジットなし
監督 : 西河克己
出演 : 和田浩治、葉山良二、清水まゆみ
196053日公開/日活

「特捜班5号」銀行ギャングA
監督 : 野村孝
出演 : 青山恭二、二本柳寛、深江章喜
1960511日公開/日活

*「海を渡る波止場の風」サブ
監督 : 山崎徳次郎
出演 : 小林旭、浅丘ルリ子、宍戸錠、白木マリ
1960528日公開/日活

*「男の怒りをぶちまけろ」稲上勇二の子 役
監督 : 松尾昭典
出演 : 赤木圭一郎、浅丘ルリ子、二谷英明
1960618日公開/日活

*「霧笛が俺を呼んでいる」酒場35ノットの船員乾分C
監督 : 山崎徳次郎
出演 : 赤木圭一郎、芦川いづみ、吉永小百合
196079日公開/日活

「喧嘩太郎」神風会の男C 役
監督 : 舛田利雄
出演 : 石原裕次郎、芦川いづみ、白木マリ
1960810日公開/日活

「疾風小僧」黒須組乾分1
監督 : 西河克己
出演 : 和田浩治、吉永小百合、由利徹
1960821日公開/日活

「一匹狼」乾分D
監督 : 牛原陽一
出演 : 小高雄二、芦川いづみ、南田洋子
1960829日公開/日活

「小雨の夜に散った恋」三木
監督 : 吉村廉
出演 : 川地民夫、和田悦子、稲垣美穂子
1960831日公開/日活

○「やくざ先生」愚連隊A 役/クレジットなし
監督 : 松尾昭典
出演 : 石原裕次郎、宇野重吉、北原三枝
1960年9月21日公開/日活

「闇を裂く口笛」チンピラC
監督 : 森永健次郎
出演 : 高山秀雄、笹森礼子、飯田蝶子
1960928日公開/日活

*「錆びた鎖」役柄不明
監督 : 齋藤武市
出演 : 赤木圭一郎、笹森礼子、白木マリ
19601112日公開/日活

矢頭健男(芸名)

*「大草原の渡り鳥」ロク
監督 : 斎藤武市
出演 : 小林旭、宍戸錠、浅丘ルリ子
19601012日公開/日活

「コルトが背中を狙ってる」劉の輩下宗
監督 : 古川卓巳
出演 : 葉山良二、芦川いづみ、上野山功一
19601221日公開/日活

「俺の故郷は大西部」乾分(二)
監督 : 西河克己
出演 : 和田浩治、東野英治郎、浜村純
19601227日公開/日活

*「豚と軍艦」増山
監督 : 今村昌平
出演 : 長門裕之、吉村実子、丹波哲郎
1961121日公開/日活

*「紅の拳銃」ブン
監督 : 牛原陽一
出演 : 赤木圭一郎、垂水悟郎、白木マリ
1961211日公開/日活

「東京のお転婆娘」アベックの男
監督 : 吉村廉
出演 : 中原早苗、藤村有弘、南寿美子
1961312日公開/日活

「早射ち野郎」人夫繁
監督 : 野村孝
出演 : 宍戸錠、笹森礼子、吉永小百合
196141日公開/日活

「用心棒稼業」殺し屋B
監督 : 舛田利雄
出演 : 宍戸錠、二谷英明、南田洋子
1961423日公開/日活

*「大海原を行く渡り鳥」磯部の乾分四
監督 : 斎藤武市
出演 : 小林旭、浅丘ルリ子、白木マリ
1961429日公開/日活

「闘いつづける男」チンピラA
監督 : 西河克己
出演 : 和田浩治、殿山泰司、吉永小百合
1961723日公開/日活

*「高原児」高山の乾分二
監督 : 斎藤武市
出演 : 小林旭、浅丘ルリ子、高橋英樹
1961813日公開/日活

*「あいつと私」人夫B 役
監督 : 中平康
出演 : 石原裕次郎、芦川いづみ、吉永小百合
1961810日公開/日活

「大森林に向って立つ」大須賀運輸乾分C
監督 : 野村孝
出演 : 小林旭、浅丘ルリ子、丹波哲郎
1961923日公開/日活

「波止場気質」フラッシュ畑
監督 : 山崎徳次郎
出演 : 川地民夫、平田大三郎、松原智恵子
19611014日公開/日活

「暗黒街の静かな男」黒川
監督 : 舛田利雄
出演 : 二谷英明、梅野泰靖、和泉雅子
19611014日公開/日活

「嵐を突っ切るジェット機」劉昌徳の部下 役
監督 : 藏原惟繕
出演 : 小林旭、笹森礼子、葉山良二
1961111日公開/日活

「どじょっこの歌」用心棒B
監督 : 滝沢英輔
出演 : 浅丘ルリ子、高橋英樹、葉山良二
19611122日公開/日活

*「渡り鳥 北へ帰る」おでん屋の客/クレジットなし
監督 : 齋藤武市
出演 : 小林旭、浅丘ルリ子、白木マリ
196213日公開/日活

「人間狩り」五味
監督 : 松尾昭典
出演 : 長門裕之、渡辺美佐子、梅野泰靖
1962123日公開/日活

「兄貴」岩田組乾分A
監督 : 山崎徳次郎
出演 : 二谷英明、杉山俊夫 、清水まゆみ
1962127日公開/日活

「黒いダイス」室井
監督 : 牛原陽一
出演 : 二谷英明、和田浩治、笹森礼子
1962325日公開/日活

「夢がいっぱい暴れん坊」ゼガ
監督 : 松尾昭典
出演 : 小林旭、浅丘ルリ、郷英治
196241日公開/日活

○「青年の椅子」愚連隊(二)
監督 : 西河克己
出演 : 石原裕次郎、芦川いづみ、二代目水谷八重子
196248日公開/日活

「起動捜査班 東京午前零時」岩本の乾分
監督 : 小杉勇
出演 : 青山恭二、郷治、三原葉子
1962520日公開/日活

「抜き射ち三四郎」健太
監督 : 山崎徳次郎
出演 : 和田浩治、葉山良二、笹森礼子
196263日公開/日活

「ひとり旅」小西大作の子分 役
監督 : 斎藤武市
出演 : 宍戸錠、浅丘ルリ子、白木マリ
1962624日公開/日活

「霧の夜の男」ボクサー権田原
監督 : 松尾昭典
出演 : 高橋英樹、小沢栄太郎、吉永小百合
196278日公開/日活

「燃える南十字星」テツ
監督 : 斎藤武市
出演 : 宍戸錠、松原智恵子、南田洋子
1962729日公開/日活

矢頭保(友情出演?)

「青山怪談」役柄不明
監督 : ドナルド・リチー
出演 : 矢頭保、他不明
1967年/公開詳細不明



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