2015/02/24

「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」放映から15年・・・「Weekend/ウィークエンド」のアンドリュー・ヘイ監督によるテレビシリーズは噛めば噛むほど味が出る(?)”退屈なゲイ群像劇”~「Looking/ルッキング」~



去年、アメリカのケーブルテレビのHBOで制作された「Looking/ルッキング」は、サンフランシスコに暮らすアラサーとアラフォーのゲイ男性3人と彼らの恋人、友人を中心に「リアル」なゲイライフを描いたテレビシリーズであります。製作に関わっているのが、イギリスのゲイ映画「Weekend/ウィークエンド」(めのおかし参照)の監督として知られるアンドリュー・ヘイということも話題になっています。

ゲイ人権運動は日本より進んでると思われるアメリカですが・・・LGBTを主人公としたテレビドラマが制作されるようになったのは、わりと最近(1990年代末期)になってのことかもしれません。1993年製作の日本のテレビドラマ「同窓会」(めのおかし参照)がニューヨークの日本人向けチャンネルで放映された時・・・「テレビで男性同士のラブシーンが!」と日本人だけでなくゲイコミュニティーでも話題になったのも、当時のアメリカではケーブルテレビであっても、同性同士の”マジな”ラブシーンというのはタブー視されていたのです。ゲイの男性キャラクターが、テレビに登場しなかったわけではありませんが・・・あくまでもサイドキック(脇役)の道化役として笑いをとるための存在でしかなかったのですから。

全米ネットワークのひとつである”NBC”で1998年から放映された「Will & Grace/ふたりは友達?ウィル&グレイス」は、典型的なシチュエーション・コメディという枠(男2人、女2人がメインキャスト)ではあったものの、カミングアウトしているゲイ男性が主人公というのは、画期的だったと言えるでしょう。ただ、舞台となっていたニューヨークのゲイコミュニティーから強い支持を集めたとは言い難く・・・どちらかというとゲイに理解のあるストレートの視聴者にウケていた印象でしょうか。ストレートの女性とゲイの男性の友人関係に注目が集まり始めた頃でもあり、タイムリーなドラマではあったのです。


1999年にイギリスのチャンネル4で放映された「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」は、オブラートに包んでないゲイ男性を主人公にした本格的なドラマです。当時はまだ、アメリカでも、ゲイを主人公にしたテレビドラマシリーズはありませんでした。露骨なセックスシーンや、主人公のひとりが15歳という”未成年”ということも衝撃的!しかし残念ながら、当時ボクが在住していたアメリカではテレビで放映されることはなく(内容的にいうよりもイギリスのチャンネル4の番組のディストリビューターがいなかったことが理由らしい)・・・2年近く経ってからアメリカのケーブルチャンネル"SHOWTIME”でのリメイク版の放映後に、DVDで観ることになります。

ゲイタウンとして知られるマンチェスターを舞台にしたイギリス版「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」の主な登場人物は・・・広告代理店で務めるモテ男スチュアート(アメリカ版ではブライアン)、ストアマネージャーでスチュアートの幼馴染みヴァンス(アメリカ版ではマイケル)、そして15歳の高校生でスチュアートに恋するネーサン(アメリカ版ではジョナサン)の3人で、彼らを取り巻くゲイの友人フィルとアレクサンダー(アメリカ版ではテッドとエメット)など、アメリカ版とキャラクターの設定は、殆ど同じです。

スチュアートがレズビアンカップルに精子提供をして子供を授かるところから物語がスタートするところ、ヴァンスの母親がゲイの息子に対して理解をしていること、アレクサンダーが日本人ハスラーに騙されるエピソードなど、アメリカ版へ引き継がれたプロットは多くあります。ただ、イギリス版は30分ほどの8エピソードのファーストシーズンと、45分ほどのスペシャル版の2エピソードのセカンドシーズンという短いシリーズで終わっており、主人公3人の三角関係を描くだけに終わっています。

本作は、幼馴染みであるスチュアートとヴァンスの友情が愛情へと変わっていくという・・・アメリカ版とは全く違う結末となっているのです。彼らの友人のひとりであるフィルは、麻薬の過剰摂取でなくなってしまいますし・・・スチュアートに振られたネーサンはスチュアートの跡を継いで(?)モテ男に成長するという展開となります。

結末は・・・アメリカのテキサス州の田舎(ホモフォビアのある保守的な地域)を車で旅しているスチュアートとヴァンス。男同士でイチャつく二人に、ひとりの田舎者が罵声を浴びせると、スチュアートは隠し持っていた拳銃で脅して、男に謝罪させるのであります。「してやったり!」と大喜びの二人の後ろ姿で終わるのですが・・・なんとも陳腐な結末ではないでしょうか?イギリス版「Queer as Folks/クィア・アズ・フォークス」は、画期的なテレビシリーズではありましたが、制作者の意識の低さも感じさせるところもあります。


イギリス版「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」のイギリス国内での放映開始直後からリメイク権利を巡って、"HBO”と”SHOWTIME”のあいだで熾烈な戦いがあったそうです。1998年から”HBO”で放映されていた「Sex and the City/セックス・アンド・ザ・シティ」は社会現象になるほどの大ヒット・・・その”ゲイバージョン”としてピッタリのシリーズだったのでしょう。結果的に”SHOWTIME”がリメイク権利を獲得することになります。

当初、アメリカ版「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」の舞台は、ニューヨークのマンハッタン島をハドソン川対岸に望むジャージーシティーにする予定だったそうです。ゲイカルチャーだけでなく世界の文化が集まっている大都市と川ひとつで隔てられている小都市がふさわしいと考えたようですが・・・実際にロケーション撮影されたのが、カナダのトロントということもあり、街並の印象が似ているニューヨーク州ピッツバーグに変更となったとのこと。ピッツバーグは、別にゲイの街として知られているわけではないし・・・さびれた地方都市というイメージしかなかったので、舞台がピッツバーグというのには違和感を感じたものです。


配役については、ゲイ視聴者からは共感を得られなかった印象があります。まず、ピッツバーグ一番のモテ男で誰もがエッチしたいと思っているという(かなりハードルの高い役柄!)ブライアンを演じたゲイル・ハロルドは、ストレートの世界ではセクシーでハンサムな色男なのかもしれませんが・・・ゲイの世界では、それほど人気のあるタイプではありません。誰もがブライアンとエッチをしたがるという設定には、ゲイ視点では「ありえない」と思ったものです。ブライアン以外のゲイの登場人物も少々クリーンカット過ぎで、マッチョ、髭、クマ系、刺青・・・といった”ゲイ”が存在しなかったことも、ストレートの視聴者向けという印象は拭えません。さらに、登場人物の誰もが”セックス依存症”なのではないかと思うほど、やりまくりというのも、偏ったステレオタイプという感じでした。


マイケルを演じたハル・スパークスのキャスティングに関しては驚きではあったものの、ゲイの視聴者からはウェルカムだった気がします。VH-1というミュージックチャンネルで「TALK SOUP/トークスープ」(その日のトークショー番組の面白い部分を集めてつっこむというコメディ番組)のホストをしていて、結構売れ始めていたハル・スパークスは、まさに「アメリカン・ボーイ」のステレオタイプで、ゲイの一部には、すでに結構人気があったのです。また、ゲイの息子に理解のあるマイケルの母親デビーを演じたシャロン・グレスは、1980年代に放映された「女性刑事コンビの活躍を描いたキャグニー&レイシー」のキャグニー役で知られていて、レズビアンを中心にLGBTコミュニティーから絶大な人気を誇っていた”男前”な女優さん・・・ここはツボをおさえたキャスティングはあったわけです。


物語の発端や登場人物たちの設定は、イギリス版と同じですが・・・アメリカ版はシーズン1だけでも60分ほどのエピソードが22話(シーズン5で合計83話)もあり、シーズン1前半から脇役の伏線のエピソードを膨らましたアメリカ版のオリジナルのプロットがでてきます。ブライアンの精子提供で子供を授かったレズビアンカップルのリンジーとメラニーのゲイ両親としての生活、完全に脇役扱いだったテッドやエメットの恋愛と転落、ブライアンに恋してしまう17歳(イギリス版の15歳から変更)の少年ジャスティンの母親の葛藤など・・・イギリス版では十分に描かれることのなかった主人公たちを取り巻く人物を深く描いていくことになっていったのです。

2000年前後というのは、1980年半ばからゲイコミュニティーを苦しみ続けたエイズの治療方法が確立し始めた頃・・・過激なエイズ撲滅のための政治運動も一段落して、再びフリーセックス時代への憧れさえ芽生え始めてきた時代でした。1960年代後半から1970年代のスタイルが再流行していたこともあり、アメリカ版「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」は、ミュージックビデオ的なザッピングを多用した演出や、サイケデリックなクラブシーンは派手でイケイケな雰囲気に満ちています。イメージとしての1970年代から1990年代までのゲイカルチャーをミックスしたような世界観に、それらの時代を体験してきたボクの世代には懐かしささえ感じさせたものです。


ゲイ向けテレビチャンネルではなく・・・”SHOWTIME”という一般の視聴者向けチャンネルで唯一のゲイを主人公の連続ドラマという存在であった「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」には、LGBTコミュニティーが抱える社会的な問題を扱っていくことが使命のようなところがあったのかもしれません。徐々にアメリカ版はイギリス版よりも、政治的なメッセージも訴えかけていくことになっていきます。ゲイであることを理由のイジメや差別、ゲイ両親が向き合わなければいけない問題、麻薬やセックス依存、当時アメリカでは合法化されていなかった同性婚についても描かれており、その後アメリカのいくつかの州で同性婚を認める動きになっていったのには、このドラマの存在が無関係ではないかもしれません。

放映開始された頃には、ゲイ版「Sex and the City/セックス・アンド・ザ・シティ」と呼ばれていましたが、登場人物たちの年齢や世代的に直面する問題は「Thirtysomething/ワンダフルサーティーズ」に近いような気もします。LGBTコミュニティーだけでなく、愛情、友情、裏切り、和解など、物語を紡いでいくのは、まさにアメリカのテレビドラマシリーズの独壇場・・・ゲイの登場人物だけでなく、周囲の人々や家族をも巻き込んで、壮大なドラマとなっていくのです。シーズンを重ねていくにつれて、登場人物のキャラや物語の統合性を失ったりもすることはありますが、思いがけない展開により心を鷲掴みにされてしまうのも、アメリカのテレビドラマシリーズの得意とするところかもしれません。

アメリカ版は、元ネタのイギリス版とは、全く違うエンディングを迎えます。すでにブライアンとマイケルの友情以上恋人未満の関係を描く物語ではなくなっていますし、マイケルはベンとの同棲関係に落ち着いてからというものドラマの中での存在感は薄くなっていて、群像劇の中の登場人物のひとりでしかありません。結局、ブライアンとジャスティンの(当時はまだ非合法でしたが)同性婚で結ばれるという着地点に、落ち着くことになります。

アメリカ版「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」は、ゲイのライフスタイル(ステレオタイプの偏りがあるものの)をエンターテイメントとして描くこと、そして、LGBT視点で政治的に正しいことを訴えたエポックメイキングのドラマシリーズであったことには違いありません。


「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」の後、「Lの世界」というレズビアンドラマはありましたが、ゲイ(男性)を主人公とした連続ドラマは、2014年1月にスタートする”HBO”の「 Looking/ルッキング」が始まるまでなかったそうです。確かに、ゲイのキャラクターは多くのドラマでも見かけるようにはなったのもの(日本のドラマでも近年オネエキャラは増えた)・・・ゲイを主人公にした連続ドラマは、あくまでも「特殊なジャンルもの」であり、常にどこかでチャンネルで制作されているわけではなのかもしれません。

「 Looking/ルッキング」のクリエーターのひとりは、イギリスのゲイ映画「Weekend/ウィークエンド」のアンドリュー・ヘイ監督・・・狭い焦点によるボケ感と極端なクロースアップにより、登場人物の心情を伝えるパーソナルな演出が高く評価されました。本作でも、テレビっぽい照明を使わずに、映画っぽい画面作りをしています。また、イギリスのテレビドラマのフォーマットと同じく、ワンシーズンが30分ほどの8エピソードで構成され、イギリス版「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」と同じフォーマットで製作されています。

さらに、キャストの多くはイギリスで活動している俳優だったりと、アメリカのテレビドラマでありながら、イギリス映画界の遺伝子を強く引き継いでいるのです。「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」に続き「 Looking/ルッキング」も(基本的に)イギリス生まれというのは偶然ではなさそう・・・アメリカのエンターテイメント界で、ゼロからゲイドラマを製作するのは、いまだに壁があるということかもしれません。

アメリカの大都市名の中でもゲイの人口に比率が多い(ゲイの総人口数だとニューヨーク?)サンフランシスコを舞台にしている「 Looking/ルッキング」は、ロケーションもサンフランシスコの街中ということもあり「ゲイのリアルな日常」を描くのが”売り”であります。

主人公は、ゲームデザイナーとして働く29歳のパトリック(ジョナサン・グロフ)、アーティストのアシスタントとして働いていた31歳のオーガスティン(フランキー・J・アルヴァレズ)、自分のレストランを開店しようとしている39歳のドム(マウリー・バレット)の3人・・・リアルにゲイらしい配役は、好感が持てます。


パトリックは、アメリカのアラサーゲイの平均な”ボーイ・ネクスト・ドア”(隣に住んでそうな男の子)のキャラクター・・・恋愛相手がラテン系というところが、まさに「あるある」で、ここ近年はアメリカ白人とラテン系という組み合わせのカップルは東海岸でも西海岸でも多いようです。性格的に「コレ」といった特徴もなく、たいして興味深くない人物像のパトリックが、主人公3人の中でもメインキャラクターというところが、本作の”ミソ”のような気がします。


オーガスティンは無精髭を生やしたアート系のゲイ・・・近年、キレイに整えた髭よりも無精っぽい髭の方が若い世代のゲイにはポピュラーのようで、彼のようなむさ苦しいタイプのアラサーゲイは多かったりします。また、アート系のオーガスティンにはアフリカ系(黒人)の恋人がいるのですが・・・これもまた「あるある」です。クリエーターの白人ゲイは、ラテン系、アフリカ系、またはアジア系の男性とくっつくことが多かったりするのです。


一番年長のドムは、往年の”クローン”を彷彿させるようなスレンダーな筋肉質の体型に、整えられた口髭のダディータイプ・・・長年、洒落たレストランでウェイターとして働いているという設定も、まさに「あるある」です。ルームメイトとして一緒に暮らしているのが、高校時代の元彼女ドリス(ローレン・ウィードマン)というところも、結構ありがち・・・。ドリスは、今でも密かにドムのことを男性として意識していることは言うまでもないでしょう。(涙)

性格もライフスタイルも違う彼ら3人が親友という設定には、正直、頭をひねってしまうところはありますが・・・3人に共通しているのは、どこかしら”ウジウジ”しているところ。

パトリックは恋人のリッチー(ラウル・カスティロ)に上手く気持ちを伝えられなかったり、上司のケヴン(ラッセル・トヴェイ)から肉体関係を求められると断れなかったり・・・自分の気持ちに正直なのか、自分の意志をハッキリ持てないのかよく分かりません。ちなみにキャストの中で一番人気(?)なのは、ケヴンを演じるラッセル・トヴェイ・・・耳の大きな特徴的なルックスとイギリス訛りで、ゲイ視聴者を虜にしています。上司でありながら・・・パトリックを誘惑しちゃう場面に”胸キュン”です。


オーガスティンは、恋人のフランク(O・T・ファグベンル)とのセックスライフを豊かにするために、ハスラーを雇って3Pセックスをするのだけど・・・そうして彼がそんなことをするのかが、よく分かりません。ドムは、レストラン開店のビジネスパートナーでもある50代のリン(スコット・バクラ)に、次第に心惹かれていっているのだけど、それは父親に対する甘えのようなものなんのか、単なる肉体的な欲望なのか、よく分かりません。意志を持って行動したり発言するのは、主人公3人ではなく、彼らを取り巻く人たちことが多い気がするのですが・・・受け身なキャラクターの方が、視聴者の共感を得やすいってことなのでしょうか?

「 Looking/ルッキング」は「Weekend/ウィークエンド」のように、おしゃれ感が溢れる映像です。サウンドトラックの選曲や引用も心憎いほど!ただ、ワンシーズンが30分の8つのエピソードなので「尺」としては2時間スペシャルの2エピソードぐらい・・・シーズン2、シーズン3と重ねるごとに、それぞれのキャラクターが深く描かれていくのだとは思いますが、物語のテンポもゆっくりなので、ワンシーズンを見終わっても映画一本で描けるぐらいの内容ではあります。ただ、近年のアメリカの連続テレビドラマは、ドラマテックな展開で目を離せないというだけでなく・・・ドラマの”世界観”や”空気感”を楽しむという傾向もあるようです。


「リアル」の表現に於いて・・・テレビドラマというメディアは「YouTube」を超えることはできないことも、今の現実かもしれません。ウィル(Will)とアール・ジェイ(RJ)の20代のゲイカップルが「shep689」のアカウント名で、2012年1月1日から、ほぼ毎日アップしている動画ブログ「A GAY IN THE LEFE」というのがあるのですが・・・これは、まぎれもなくゲイの「リアル」な日常を映し出しているのであります。

あまりに普通過ぎる彼らの日常に多くの人が親しみ覚えると同時に、ある意味、ちょっと退屈さを感じるかもしれません。典型的なアメリカ白人のメガネ君「ウィル」と、ちょっとワイルドなラテン系でひょうきんな「RJ」が、カメラとの相性の良いルックスというのも人気の要因のひとつではありますが・・・日常から垣間見れる真摯な人間性が、視聴者を虜にしているのだと思います。本物の人生の一瞬一瞬の積み重ねは、テレビドラマの「リアル」を、あっさりと超えてしまうのです。


今のゲイライフを「リアル」を描こうとしている「 Looking/ルッキング」が、少々退屈に感じられるのも、当然といえば当然ことなのかもしれません。「リアル」な日常なんて、テレビ用にドラマチックな演出がなされているわけではないのですから。振り返ってみた時に初めて何かに気付くことがあるように・・・「 Looking/ルッキング」は、繰り返し視聴して噛めば噛むほど味が出てくるような気がします。15年前に制作された「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」のように、政治的メッセージを訴えたり、LGBTであることでドラマを生んだりする時代は、とっくに終わったということなのです。


「 ルッキング」
原題/Looking
2014年~/アメリカ
制作総指揮 :  アンドリュー・ヘイ、デビット・マーシャル・グラント、サラ・コンドン
原作 : マイケル・ランナン(HBO「Lorimer」)
出演 : ジョナサン・グロフ、フランキー・J・アルヴァレズ、マウリー・バレット、ローレン・ウィードマン、ラウル・カスティロ、ラッセル・トヴェイ、O・T・ファグベンル、スコット・バクラ
”HBO”にて放映
2016年12月23日より”Hulu”にて配信

「クィア・アズ・フォーク」(アメリカ版)
原題/Queer as Folk
2000年~2005年/アメリカ、カナダ
制作総指揮 : トニー・ジョナス
制作 : ケヴィン・インチ、シーラ・ホッキン
出演 : ゲイル・ハロルド、ハル・スパークス、ピーター・ペイジ、スコット・ローウェル、ミシェル・クラニー、テア・ギル、
”SHOWTIME”にて放映

「クィア・アズ・フォーク」(イギリス版)
原題/Queer as Folk
1999年~2000年/イギリス
制作総指揮 : ニコラ・シンダー
原作/制作 : ラッセル・T・デイヴィス
出演 : エイダン・ギレン、クレッグ・ケリー、チャーリー・フーナン
”Chennel 4”にて放映



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2015/01/03

映画史上最狂エログロ映画「ネクロマンティック/Nekromantik」のユルグ・ブットゲライト(Jörg Buttgereit)監督の新作ホラー映画!・・・初期短編から「ジャーマン・アングスト(原題)/German Angst」まで~


「ネクロマンティック」がHDリマスターで再リリース!

新年早々「ネクロマンティック」の話題というのも、なんなんですが・・・2015年はユルグ・ブットゲライト監督の復活(?)を期待できる一年となりそうなのであります。

2012年は、映画史上最狂のエログロ映画として語り継がれている「ネクロマンティック/Nekromantik」の、オリジナル公開から25周年という”節目”の年でした。昨年(2014年)10月には新たにリマスターされたアメリカ版(ブルーレイ版、DVD版、それぞれ限定10000セット)、12月にはイギリス版(ブルーレイ、DVD、サウンドトラックCDの3枚組で、限定3000セット)が発売されました。

「ネクロマンティック」は、元々はスーパー8ミリで撮影されている作品らしいので、ブルーレイにする意味があるのかと思っていたのですが・・・今回のリマスターでは、ユルグ・ブットゲライト監督監修のスーパー8ミリのネガティブからと、劇場公開の際に使用されていたグラインドハウス社の35ミリのプリントからの二つのバージョンを収録するという念の入れようで、オーディオコメンタリー、スチールギャラリー、メイキング映像などのおまけに加えて、2013年に行なわれた監督へのインタビュー映像や、日本以外ではメディア化されていなかった「ホットラブ」などの初期作品が特典となっています。実際にHDリマスターされた本編を観てみると、大型テレビでの鑑賞に堪えうる鮮明な映像になっていました。

「ネクロマンティック」は、その内容から、多くの国で上映禁止処分されたこともあり、公開時からカルト的な伝説を生み出しました。当時ボクはニュヨークに住んでいたのですが・・・劇場上映をしていたカナダまで「ネクロマンティック」を観に行くバスツアーがあったほど。その数年後、ビデオレンタル全盛の1990年代になると、各国で「ネクロマンティック」はビデオ化されるようになります。ただ、どういうわけか日本では「ネオロマンティック」と続編の「ネオロマンティック2」を監督自身が再編集した「特別版」がリリースされた後に、それぞれの「完全版」がリリースされるという経緯があったようです。「特別編」の方が映画としては無駄のない編集で、ある意味、貴重かもしれません。

2000年代になると、各国で「ネクロマンティック」がDVD化されます。日本では「ネクロマンティック」「ネクロマンティック2」「死の王」3作品を収録したDVDボックス(初回限定3000セット)が発売。また、初期5作品を「ユルグ・ブットゲライト短編集」として発売したのも日本だけ・・・世界的にみても、日本はユルグ・ブットゲライト監督好きの国のようです。しかし近年は、日本国内のレンタル店から「ネクロマンティック」は姿を消し、廃盤となっていたDVDがプレミア化していったこともあり、最近は観ることが困難な作品となっていったのです。

アメリカ、イギリスのブルーレイ発売に遅れること数ヶ月・・・2015年1月27日には「未体験ゾーンの映画たち 2015」の上映作品のひとつとして「ネオロマンティック」が日本で初めての正式な劇場公開がされます。そして、4月2日には「ネクロマンティック」「ネクロマンティック2」「死の王」のブルーレイ版と日本未公開の「シュラム」のDVDを特典とした「ネクロマンティック ー死の三部作ー」が発売となったのです。これを機に、ユルグ・ブットゲライト監督を発見(再発見?)する人が増えるのかもしれません。

ユルグ・ブットゲライト監督の活動「ネオロマンティック」まで

奇しくも・・・ユルグ・ブットゲライト監督は、ボクと同じ1963年生まれ。生まれた国は違いますが、観ていた映画や影響を受けたことも遠からずということもあり、1980年頃から制作していた自主映画を観ると、当時のムードを思い出してしまいます。それまでの反骨精神に溢れた政治的な意図を含んだ表現よりも、個人的な趣味を追求したサブカル的な表現が主流となった時代・・・スプラッター映画や残酷ドキュメンタリーなどの禍々しいショッキングな映像が、テレビにまでも氾濫していた時代だったのです。パンクムーブメントが生まれた頃というのは、ボク自身を含めて一部の若者には、過激であることこそ新しい表現だとというアナーキーな発想もあったような気がします。

ユルグ・ブットゲライト監督のルックスは、いわゆる”オタク系”ではなく、金髪でスタイルの良い長身のハンサム・・・初期作品の多くには自ら出演もしています。「ネオロマンティック」から連想される「死」の暗いイメージの人ではなく、怪獣、モンスター、スーパーヒーローが好きな人・・・子供の頃、誰でもふざけて死ぬ真似とかしたものですが、血糊を塗りらくられて殺されたりするのが楽しくて仕方ないという、ホラー好き子供のような一面を覗かせているのです。また、撮影現場の様子のメイキングなどを観ると、映像ではこの上ないほど”エグい”ことをやっているわりに、意外なほど現場は和気あいあいとしていて・・・ちょっと安心したりします。

現在、視聴可能な一番古い作品は「オガー 醜男のメルヘン/Oger - der Häßliche」で、ナイフを手に入れて人々を襲う孤独な醜男の小人オガーが、領主の息子(!)のキスによって癒されるという寓話的な物語のパロディです。オガーのような異形の反社会的なキャラクターというのは、ユルグ・ブットゲライト監督の作品に欠かせない存在。ただ、ユルグ・ブットゲライト監督が演じているのは、醜男ではなく、一歩引いたナレーター役なのであります。これは、すべての作品に共通することで・・・ユルグ・ブットゲライト監督は、傍観者として「死」を見つめているような気がするのです。

アメコミのスーパーヒーロをパロった「キャプテン・ベルリン/Captain Berlin - Retter der Welt」は「キック・アス」の元ネタのような”おバカアクション”・・・後に舞台版としてリメイクするほど、監督のお気に入りのキャラクターのようです。「ホラーヘヴン 恐怖天国/Horror Heaven」は、世界のいろんなモンスターを紹介する番組という”体”をした映画・・・ミニチュアや特殊効果を駆使していて、後に日本の怪獣の研究書を出版するほどのマニアっぷりが垣間みれます。「血のエクセーズ」は、ヒトラーが蘇らせた死体たちによって、惨殺されてバラバラに切り刻まれるという悪趣味なコメディで、この頃から特殊効果による猟奇的な表現が際立ってくるのです。

いずれも超低予算のホームムービーの延長のような作品で、演出も特殊効果も稚拙そのものではありますが・・・監督本人の父親を10年以上隠し撮りした映像を編集した「マイ・ダディ~我が父/Main Papi」は、脳梗塞で倒れた父親の病状が悪化していく様子を淡々と記録して、心臓マヒで亡くなった死体までを映し出すところは、常人の感覚では理解しがたく・・・ユルグ・ブットゲライト監督の「死」に対する冷静な姿勢を見せつけられるようでもあります。


「ホットラブ」は商業的な映画としてのユルグ・ブットゲライト監督デビュー作となるのですが・・・撮影機材は相変わらずスーパー8。ストーカーのような元彼にレイプされた女性が妊娠して生んだ子供はモンスターになって、女性と、女性の新しいボーイフレンド(ユルグ・ブットゲライト監督が演じる)を惨殺するという物語で、「イレイザーヘッド」や「フライ」を思い起こさせるところもあったりします。ユルグ・ブットゲライト監督が、楽しそうに(?)モンスターに殺されていくところが妙に印象に残り、ニヤリとさせられるのです。「ホットラブ」の成功により、プロの映画作家としての道を歩むことになり、さまざまな映像の仕事をするようになるのですが・・・その仕事の間をぬって、約2年間(撮影自体は1年ほど?)をかけて「ネオロマンティック」を完成させるに至るのであります。

「ネオロマンティック」から「シュラム 死の悦楽」

公開当時「ネオロマンティック」は16mmで撮影されたとされていましたが、実際はスーパー8で撮影された8mmフィルムを16mmにブローアップしたものだったそうです。ドイツ国内で上映禁止になったことは、センセーショナルな宣伝として利用されたのですが・・・当時の映写技術ではスクリーンが暗すぎて、上映できない場合もあったとのこと。また、ドイツ当局の捜査が、配給会社に手入れが入ったことは事実だったそうですが・・・実際にはフィルム没収はされなかったことを、後日ユルグ・ブットゲライト監督自身が告白しています。ネガを含むすべての素材の破棄を裁判所から申し付けられたとスキャンダラスに語られていますが・・・多少、尾ひれをつけた話ではあったようです。しかし宣伝文句を裏切らない映画本編の内容は、30年経った今でさえ多くの人が観賞に堪えられないほど衝撃的(病的?)であることには違いありません。

死体愛好家のカップルを描いた「ネオロマンティック」が、ボクにとってショッキングだったのは・・・性の対象となる死体が”腐乱”しているということでした。勝手な先入観で「屍姦趣味」の人というのは、一種の対人恐怖症のようなもので、意志を持って動くことも反応もしない”ラブドール=ダッチワイフ”を好むのに近い感覚なのではないかと、ボクは勝手に推測していたところがあったのです。しかし「ネオロマンティック」のカップルは、「死」そのものや「死」にまつわる”痛み””苦しみ”に性的興奮をするところが、理解を遥かに超えていました。最後に、主人公の男性は自ら腹を切り裂き内蔵を掻き出しながら、凛々と勃起して自慰行為に耽って血みどろの射精をするのですから・・・観賞以来、頭を抱えたくなるほどのトラウマになっています。

「ネオロマンティック」に続きユルグ・ブットゲライト監督は、自殺する人を月曜日から日曜日までの7つのエピソードで描いた「死の王/Der Todesking」を発表。しかし、この作品もドイツで上映禁止処分を受ける羽目になってしまいます。多くに国で劇場公開されることもなく、ビデオ化されるまで観ることが困難な映画となってしまうのです。各エピソードは10分ほどなのですが・・・エピソートの間には、ウジ虫が湧いて徐々に朽ちていく全裸死体の映像が挿入されます。生身の人間だって、死後は単なる腐乱していくだけな物質なのだということなのでしょうか?詩的な叙情感と冷酷な猟奇性が共存する不思議な作品で、ユルグ・ブットゲライト監督のファンには「死の王」がベストワンという人も少なくありません。


翌年「ネオロマンティック」で描かれたカップルの女性の後日談を描いた「ネオロマンティック2」が発表されます。亡くなった恋人の死体(勿論、すでに腐乱状態)を掘り返すところから映画は始まるのですから・・・前作のトラウマ再びであります。腐乱死体との性行為だけでなく、セックスの最中に首をナタで切り落とすというスプラッターも加わって、さらに狂気の沙汰になっていきます。勿論「ネオロマンティック2」も上映禁止処分・・・こうなるとユルグ・ブットゲライト監督は、確信犯的にヤバい方、ヤバい方に向かっているとしか思えません。


ユルグ・ブットゲライト監督の劇場映画(そして、またもや上映禁止処分!)として最後の作品となるのが「シュラム 死の悦楽/Scheramm」であります。短小包茎の男が、はしごから足を踏み外して事故死する直前に、殺人行為を振り返るという物語で、彼はコンプレックスから女性とまともに接することさえできず、女性を殺害して屍姦していたのです。ただ、日常では隣に住んでいる売春婦に聞き耳を立てながら、ダッチワイフ相手に射精しているという惨めなことをしています。そんな鬱屈した日々の中、彼は足が切断されたり、目玉をえぐられるなどの幻覚に悩まされるようになってしまうのです。極めつけはヴァギナのような生物に股間が襲われてパニック状態になり、自ら男性器に釘を打ち込むというシーン・・・孤独な男の悲壮感(?)に心締められるようであります。

ユルグ・ブットゲライト監督の活動「シュラム 死の悦楽」以降

ナチスを生んでしまったドイツは、表現の規制には厳しい国のようで・・・「シュラム 死の悦楽/Scheramm」以降、ユルグ・ブットゲライト監督はドイツ当局の監視下となり、新作の制作が出来なくなってしまいます。「死」への冷静な興味が、過去のナチスの行なった残忍な行為を連想させると、当局は危惧したのでしょうか・・・。ここ20年ほどは、映像業界で仕事を続けているものの”生殺し”状態で「ネクロマンティック」の監督という”利息”で語り継がれているところは否めません。


「キラー・コンドーム」は、日本でもミニシアターで公開されて、話題にもなった作品です。コンドームが人を襲うというコメディで、ニューヨークの警察を舞台にしながら、登場人物はドイツ語しか話さないドイツ人オンリーという確信犯の「おバカ映画」。ユルグ・ブットゲライト監督は特殊効果担当として名前を連ねていますが・・・血糊の調達でもしたのでしょうか?ユルグ・ブットゲライト監督がスタッフに加わるということが、十分宣伝になったということなのかもしれません。

「機甲戦虫紀LEXX」はカナダ、ドイツ、イギリス合作のSFドラマで、当初全4話のTVミニシリーズとして制作されたのですが、その後レギュラーTVシリーズになって、計4シーズン(ミニシリーズを含む)が作られました。昆虫っぽいメカのデザイン、グロテスクなスプラッター描写、エロティックな衣装、ゆるい笑いのセンス、期待を裏切るシュールな展開・・・いまだに一部(何故かロシア)ではカルト人気を誇る作品であります。

日本では最初のミニシリーズ(現在は第1シーズンという位置づけ)の4話のみ、レンタル/セルで販売/レンタルされたのですが、その後、日本国内の販売権をもつ会社が倒産してしまったために、シーズン2以降の日本語版は発売されず仕舞いになっています。ただ、海外版のDVDボックスは廉価版も販売されていますし、映像のクオリティは悪いですが動画サイトで全エピソードを観ることも可能(いずれも日本語字幕、日本語吹き替えなどはありません)なので、ユルグ・ブットゲライト監督ファンなら一見の価値はあるかもしれません。

ユルグ・ブットゲライト監督が関わったのは、シリーズ2の第9話「791」と「Nook」いうタイトルのエピソードだけなのですが・・・このシリーズのエログロな世界観は、いかにもユルグ・ブットゲライト監督「好み」といえます。ただ、ユルグ・ブットゲライト監督ならではというほどではなく・・・演出として参加したのは「791」だけ(「Nook」はプロデューサーとして)に終わっています。また、この頃から映像活動として・・・ユルグ・ブットゲライト監督は、パンク系のミュージシャンのミュージックビデオをいくつも手掛けるようになっていきます。

ユルグ・ブットゲライト監督は、自主映画時代には自分の作品にキャストとして出演していましたが・・・近年、俳優としての活動もしています。ポルノ映画の現場を舞台としたコメディ「Making of Süsse Stuten 」には、自分の撮りたい映画がつくれないゾンビ映画の監督役という本人を彷彿させる役でレギュラー出演・・・本国ドイツでは「ネオロマンティック」のヘンタイ監督(?)として確固たるキャラを確立していたることが伺えます。内容的にはアシスタントの視点で見た、たわいもない撮影現場の様子を、5分程度のエピソードにしたコントのような作品で、当初はウェブで配信を前提に制作されていたようです。ただ、後にドイツ国内のみではDVD化されているので、そこそこ人気はあったのかもしれません。

表現の場を求めた苦肉の策だったのでしょうか・・・2001年からは、実験的な朗読劇を、次々と発表しています。ユルグ・ブットゲライト監督はモンスター研究者(特に日本の特撮怪獣モノが好き)としても知られていて、何冊も研究所を執筆しているのですが・・・多くの舞台作品は、モンスターをテーマにしたものです。オフビートな笑いのセンス、グロかわいい(?)モンスターは、ティム・バートンにも通じる世界観があるような印象があります。


「モンスターズ・オブ・アートハウス(原題)/Monsters of Arthouse」と銘打った代表3作は、ドイツ国内ではDVDとして発売されています。「ビデオ・ナスティー(原題)/Video Nasty」は、1990年代にヨーロッパであったスプラッター映画やカニバリズム映画の規制について皮肉をこめた作品、「セックス・モンスター(原題)/Sex Monster」は、ドイツの性教育映画とブラックスプロイテーション映画のパロディ、「グリーン・フランケンシュタイン(原題)/Green Frankenstein」は日本の特撮怪獣映画をアフレコの朗読劇です。また、自主映画時代に創作した”おバカ”なアメコミヒーロー「キャプテン・ベルリン」を復活させてコミック化・・・舞台劇としても書き下ろしをして「キャプテン・ベルリン V.S. ドラキュラ(原題)/Captain Berlin vs. Dracula」と「キャプテン・ベルリン VS. ヒトラー(原題)/Captain Berlin vs. Hitler」を上演しています。ただ、どれも前衛的な演劇としてもいまひとつという感じで・・・「ネオロマンティック」のユルグ・ブットゲライト監督を期待すると、肩すかしを食らうかもしれません。

20数年ぶりの新作ホラー映画「ジャーマン・アグスト」


「シュラム 死の悦楽」以来、ドイツ当局の監視下で映画を作れないといわれてきたユルグ・ブットゲライト監督ですが、最近になって新作ホラー映画を撮ったらしいというニュースがあるのです。「ジャーマン・アングスト(原題)/German Angst=「ドイツの不安(苦悩)」というタイトルの2015年公開予定(?)のオムニバス映画で、1年ほど前からパイロットトレーラーがウェブで配信されています。

1920年代のサイレント映画の時代・・・F・W・ムルナウ監督の「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1922年)、ポール・ワーグナー監督の「ゴーレム」、ロベルト.ウィーネ監督の「「カリガリ博士」(1920年)や「恐怖と手術」(1924年)などの表現主義によるドイツの恐怖映画は、世界に大きな影響を与えたものでした。しかし、第二次世界大戦中開始後、それらの才能はハリウッドへ流出してしまいました。もう一度、恐怖映画の栄光(!)をドイツ映画へ取り戻すために「ジャーマン・アグスト」は企画されたそうです。

「LOVE SEX DEATH in Berlin」という副題にふさわしく、本作にはハードなゴア表現がいっぱい・・・ユルグ・ブットゲライト監督へのドイツ当局の監視の目も緩和されたということなのでしょうか?ドキュメンタリー作家/ミハエル・コサコウスキーとイラストレーター/アンドレアス・マーシャルが、共に監督として名を連ねているのですが・・・彼らも「殺人」「拷問」「死」が大好物という”心の闇”を感じさせるユルグ・ブットゲライト監督に負けず劣らずの確信犯的な狂気なメンツです。

ミハエル・コサコウスキー監督は、ドキュメンタリーの制作現場に関わってきた人のようなのですが、自分の映画作品というのは一作だけ・・・「ゼロ・キルド(原題)/Zero Killed」(2012年)は、1996年から10数年かけて撮影されたドキュメンタリー映画で、殺人願望をもつ人たちに妄想を本人に(加害者、または被害者として)演じてもらい、数年後に再び殺人願望についてインタビューするという作品です。

俳優、弁護士、教師、学生、主婦など、取材対象は普通の人々・・・このドキュメンタリー映画に協力したことが、犯罪の抑止力になったではないかと思えてしまいます。ヒトは頭の中で誰かを殺したいという殺意を抱くことはありますが、実際の殺人行為に及ぶことはありません。しかし、この作品の出演者達の多くが、憎悪からではなく純粋な行為としての”殺人願望”を抱いていて、何かのきっかけがあれば、殺人というハードルを軽々と飛び越えてしまいそうなところが、なんとも恐ろしいのです。じわじわと嫌な気持ちにさせられる・・・まさに”不快映画”であります。

オリジナルの「ネクロマンティック」のポスターを担当したアンドレアス・マーシャル監督は、メタルバンドのジャケットカバーのイラストレーターとして知られているそうで・・・「ティアーズ・オブ・カリ(原題)/Tears of Kali」(2004年)と「マスクス(原題)/Masks」(2012年)というホラー映画2作品を監督しています。ダリオ・アルジェント監督やルチオ・フルチ監督の作品に影響を受けているようなジャーロな作風で、精神的にゲンナリするテーマと痛々しい残酷描写は、見方によってはアーテスティックでさえあります。

オムニバス映画「ジャーマン・アングスト」は、アンドレアス・マーシャル監督のセックスクラブでの幻想的な体験を描く「アラウネ(原題)/Alraune」、ミハエル・コサコウスキー監督の聾唖のカップルが遭遇する奇妙な体験を描く「メイク・ア・ウィッシュ(原題)/Make A Wish」、ユルグ・ブットゲライト監督の若い女性が中年男性への復讐を描く「ファイナル・ガール(原題)/Final Girl」の3つのエピソードからなっているらしく・・・パイロットトレーラーを観る限り、撮影自体は終了してるようではあります。しかし、公開予定などは一切明言されていません。ただ「ネクロマンティック」のHDマスター版が世界各国でブレーレイ版をリリースという動きは、「ジャーマン・アングスト」の大々的な世界的公開の布石とも思えてしまい・・・不謹慎な期待は膨らむ一方なのです。


ユルグ・ブットゲライト(Jörg Buttgereit)監督のフィルモグラフィーと活動
(無記述は監督)


1980「Der explodierende Turnschuh」(短編)
1981「オガー 醜男のメルヘン/Oger - der Häßliche」(短編)
1981「Manne the Movie」(短編)
1981~1995「マイ・ダディ~我が父/Main Papi」(短編)
1982「Der Trend – Punkrocker erzählen aus ihrem Leben」(短編)
1982「キャプテン・ベルリン/Captain Berlin - Retter der Welt」(短編)
1982「血のエクセシーズ/Der Gollob」(短編)
1984「ホラーヘヴン 恐怖天国/Horror Heaven」(短編)
1984「Blutige Exzesse im Führerbunker 」(短編)
1985「So war das S.O.36 」(ドキュメンタリー)共同監督
1985「ホット・ラブ/Hot Love」(短編)
1986「Monumental-film」(短編ドキュメンタリー)
1986「Jesus Der Film」(オムニバス35編)エピソード「Crucifixion
1987「ネクロマンティック/Nekromantik
1989「死の王/Der Todesking
1991「ネオロマンティック2/Nekromantik 2
1992「シュラム 死の悦楽/Scheramm
1992「Corpse Fucking Art 」(ドキュメンタリー)
1993「The Making of Schramm」(ドキュメンタリー)
1995「I Can't Let Go」(ミュージックビデオ)
1996「キラーコンドーム/Kondom des Grauens」特殊効果
1997「Die gläsernen Sarkophage」(テレビ)
1997「Rise Up」(ミュージックビデオ)
1998「機甲戦虫紀LEXX/LEXX」(TVシリーズ)シーズン2/エピソード「791」
1998「機甲戦虫紀LEXX/LEXX」(TVシリーズ)シーズン2/エピソード「Nook」プロデューサー
1998「Teenagemekeup」(ミュージックビデオ)
2001「Sexy Sushi」(舞台)演出・脚本
2001「Missy Queen's Gonna Die」(ミュージックビデオ)
2002「JAPAN - Die Monsterinsel」(ドキュメンタリー)
2002「Frankenstein in Hiroshima」(舞台)演出・脚本
2002「Ed Gein Superstar」(舞台)演出・脚本
2003「Bruce Lee - Der Kline Drache」(舞台)演出・脚本
2004「Journey into Bliss」出演・特殊効果アドバイザー
2004「Horror Entertainment」(舞台)演出・脚本
2004「Interview Mit Einem Monster」(舞台)演出・脚本
2005「Video Nasty」(舞台)演出・脚本
2006「Captain Berlin vs. Dracula」(舞台)演出・脚本
2006「Durch die Nacht mit... / Bruce LaBruce und Jörg Buttgereit 」(ドキュメンタリー)
2006「Suche Kontakt」(ミュージックビデオ)
2007「Durch die Nacht mit... / Joe Coleman und Asia Argento」(ドキュメンタリー)
2007「Durch die Nacht mit... / Mark Benecke und Michaela Schaffrath」(ドキュメンタリー)
2007「Sexplosion in Shinjyuku」(舞台)演出・脚本
2007「Walk of Fame」(舞台)演出・脚本
2008「Monsterland」(ドキュメンタリー)
2008「Making of Süsse Stuten 7」(ウェブ)出演
2009「Captain Berlin vs. Hitler」(舞台)演出・脚本
2009「Sex Monster」(舞台)演出・脚本
2010「Video Nasty "LIVE"」(舞台)演出・脚本
2010「Durch die Nacht mit.../ Oda Juane und Lars Endogner」(ドキュメンタリー)
2011「Making of Süsse Stuten 8」(ウェブ)出演
2011「Green Frankenstein」(舞台)演出・脚本
2011「Shaolin Affen」(ミュージックビデオ)
2012「A Moment of Silence at the Grave of Ed Gein」(短編)
2012「Die Bestie Von Fukushima」(舞台)演出・脚本
2013「Lemmy I'm a Feminist」(ミュージックビデオ)
2014「Das Märchen vom unglaublichen Super-Kim aus Pjöngjang」(舞台)演出・脚本
2015「ジャーマン・アングスト(原題)/German Angst」(オムニバス3編)

「ネクロマンティック」
原題/Nekromantik
1987年/ドイツ
監督 : ユルグ・ブットゲライト
出演 : ガクタリ・ロレンツ、ベアトリス・M、ハラルト・ランド、スーシャ・スコルテッド
2015年1月27日「未体験ゾーンの映画たち 2015」にて上映
2015年4月2日ブレーレイ/DVD発売


「ジャーマン・アングスト(原題)」
原題/German Angst
2015年/ドイツ
監督 : ユルグ・ブットゲライト、アンドレアス・マーシャル、ミハエル・コサコウスキー
日本公開未定



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2014/12/30

私小説を装った生臭~い自慢話は痛い・・・達観したかのような”自己肯定”と説明過多の”ウザさ”は相変わらずなの!~田中康夫著「33年後のなんとなく、クリスタル」~



先日、近所の本屋の新刊コーナーで田中康夫著の「33年後のなんとなく、クリスタル」が平置きされていたのですが、積まれた高さは他の本よりもずっと低くなっていて結構売れている様子・・・店頭には3冊ほどしか残っていなくて、ボクは思わず購入してしまいました。しかし、お金を払って購入したことを後悔するだけでなく・・・読むことに費した時間、読後の本の置き場所まで後悔させるような(ボクにとっては)一冊でありました。

前作「なんとなく、クリスタル」が出版されたのは1981年のこと(発表されたのは1980年)・・・当時、18歳のボクは小説に書かれていたような”クリスタル”な生活をしていたわけではありませんでしたが、都内にある私立の付属高校に通っていたこともあり、小説にでてくるお店などの固有名詞には多少馴染みもあって、妙に身近に感じたものでした。


当時の若者文化というのは、すでに古き良き”昭和”という感じではなく、学生運動の反動からなのか”真面目”や”努力”が格好悪い「しらけ世代」の時代になっていたし、国内海外のブランドが浸透し始めて、バブル時代を先取りしたような”ブルジョワ”な若者も結構いたのです。

ベストセラーとなった「なんとなく、クリスタル」は、単行本の発売直後に読みましたが、物語が頭に入ってこないほど退屈な小説だと思ったし・・・文壇からは「今どきの若者はなんっとらん!」的な酷評されていたような記憶があります。しかし、おびただしい数の注釈が小説本文を凌駕するほどの分量という確信犯的なギミックは、まるで当時流行り始めたカタログ雑誌みたいで、小説として新鮮なアプローチというのが、当時の一般的な受け取られ方だったかもしれません。

それまで「しらけ世代」という”くすんだ”印象しかなかった世代を、「なんとなく、クリスタル」というキラキラ感と曖昧さの混在した言葉で表現したことで、バブル景気のムードを予見したと言われるでこともありますが・・・ブランド志向を冷ややかに批判しているようなシニカルさを、ボクは深読みしていました。

また、小説の最後に、物語との関連がないような出生率のデータをポツンと記載して、やがて訪れる日本社会に超高齢化社会の警告しているところは、物資的な上昇志向の無意味さを訴えているようにも読み取れました。社会的な問題提議するような統計データを持ち出してくる発想が、後に田中康夫氏が政治家に転向する布石であったとは、誰も想像だにしませんでしたし・・・今振り返ってみれば、田中康夫を(ボクを含めて)随分と好意的に解釈していたような気がします。


「なんとなく、クリスタル」発売の数ヶ月後に、ボクは留学のために渡米することになります。まだ、メディアでの扱いも新聞記事の”話題のひと”程度のことで、田中康夫氏の”ひととなり”が世間バレる前のことです。その後の1980年代の田中康夫氏のメディアでの活躍ぶりというのは、ボクは一切知らないまま20年近く過ごすことになるのです。

ボクが留学した1980年代にはインターネットはなかったし、日本のテレビ放送もNHKニュースぐらいだったので、若者文化の情報源は雑誌や書籍しかありませんでした。当時、ボクがよく読んでいたのは、雑誌の「宝島」「流行通信」と、橋本治、林真理子、田中康夫のエッセイ本・・・考えてみると、かなり偏っていた情報だばかり吸収していたような気がします。

田中康夫氏のエッセイは、流行っているお店やデートでのマナーを指南する内容が多かったので、今改めて読んでみると「おしゃれな文化人気取りが痛々しい」としか思えませんが・・・1980年代というのは、「ポパイ」「ホットドックプレス」など全盛の時代で、この手の記事が若者向け雑誌の主流でもあったのです。

その後、ボクの中で田中康夫氏は”過去のひと”になっていったのですが・・・長野県知事になったことには大変驚きました。2001年に日本に帰国して、メディアを通じて観たリアルの田中康夫氏の印象は、ボクが「なんとなく、クリスタル」やエッセイ本から感じていたイメージとはかけ離れていて・・・小太りの奇妙なオッサンという感じでした。


相手を見下して論破しようとする語り口は嫌いだし、妙に可愛いモノ好きをアピールするところも気持ち悪く、フェミニストな発言のわりにねちっこい執着を感じさせる・・・ウザいキャラクターにドン引きしてしまったのです。それ故、政治家として興味を持つ気にもなれず、田中康夫氏の政治的な主張は、ボクはよく知りません。ただ、県知事を2期務めて、その後衆議院議員を5年も務めたのだから、彼の支持者というのは当時は多かったのでしょう。ボク自身は、田中康夫氏をメディアで見かけるたびに、生理的に耐えきれなくなっていったのです。

それにも関わらず「33年後のなんとなく、クリスタル」を購入してしまったのは・・・「なんとなく。クリスタル」の続編って、どのように成り立つのだろうという興味があったからにすぎません。帯に書かれた著名人たち(浅田彰、菊池成孔、齋藤美奈子、壇蜜、なかにし礼、浜矩子、福岡伸一、山田詠美、ロバート・キャンベル)の絶賛の宣伝文句が妙に多いところが・・・なんとも胡散臭い。それも(例外はありますが)アカデミックな著名人たちを並べてしまったところが、純粋に小説としてよりも、文化的、経済的、社会的にエポックメイキングな作品だと、自負しているようでゲンナリさせられてします。

「33年後のなんとなく、クリスタル」の本文は、前作の倍以上の分量・・・肝である”注釈”も(前作ほどではないにしても)本文の半分ほどの分量あるのですが、本作はその内容が酷いのです。前作は、良くも悪くも独断による風俗的な注釈が、興味深いところもあったのですが・・・本作では、統計データを持ち出しての政治的な発言が、妙に目立ちます。また、分かる読者だけが分かるようなキーワードだけ投げかけている注釈は、上から目線の厭味しか感じさせません。読者をバカにしているのかと思ったのは、色の注釈がCMKYの数値”だけ”を記述しているところ・・・色を正確に伝えようという意図なのかもしれませんが、読者は印刷工場ではありません。言葉でとう色を伝えるのかが、小説家としての腕の見せどころではないでしょうか?

さて、本作がある意味、衝撃的(?)なのは・・・「なんとなく、クリスタル」には実在のモデルがいたということを前提としているところであります。本作の主人公ヤスオは、リアルに田中康夫本人ということもあって、生理的に田中康夫氏という個人を受け入れられないボクのような読者にとっては、心底気色悪いことになっているのです。ヤスオと「なんクリ」に登場した女性の33年ぶりの再会のドキドキ感(?)が、お得意のスノッブな世界観を背景に繰り広げられるわけですが・・・何度も何度も過去を振り返る会話やモノローグで語られるのが、達観したかのような自己肯定を貫いた田中康夫氏による”自分史”なのだから「どんだけ自分好きなんだよ!」とツッコミたくなってしまいます。

ボク自身を含め、年齢を重ねていくと過去を振り返ってしまうのはアリガチなことではありますが・・・懐かしい郷愁を覚えるというのではなく、現在のアイデンティティーが”過去”に依存しなければ成り立たないのは、どこかしら哀れに感じられてしまうもの。「こんな有名人を知っていた」「こんなスゴイ仕事した」「こんな通な音楽を聞いていた」「こんな伝説の場所に出入りして遊んでた」などという昔話は、おそらく(誇張はあったとしても)事実なのでしょうが・・・過去の自分に固執しているようで、なんとも痛々しく感じられます。

人生の経験を重ねていくと、こだわりも増えてくるのは当然のこと。人生を豊かにするために、自分自身に対して物質的にも、精神的も投資し続けることは素敵なことではあるのですが・・・いくつになっても強い「我」を主張し続けて、欲望や関心のベクトルが自分に”だけ”向いているのは、逆に何か欠落しているようにも感じさせるのです。どれほど、その人が輝かしい過去の経歴があろうとも、素晴らしい仕事を成し得た人であっても、まだ何かを埋め合わせなければならないことを垣間見せてしまって・・・過去の栄光の”ほころび”さえ露呈させてしまいます。

本作の会話部分は不自然なほど説明過多・・・統計的な数値や固有名詞を持ち出して、政治家田中康夫としての弁明(?)を主人公ヤスオに語らせているのですから、支援者ではない限り”ウザい”こと、この上ないのです。また、聞き手’(?)として登場する女性たちも、まるで深夜のテレビ番組「有田のヤラシイハナシ」でインタビュー形式で自慢を披露するようなコーナーのみたいに田中康夫氏の主張したいことを引き出すためだけの台詞で、もはや滑稽にしか思えません。読み終わることが苦痛なほどの面白みのない物語で・・・(ボクだけかもしれませんが)話の筋が全然頭に入ってこなさは、田中康夫の小説”ならでは”と再確認してしまった次第です。

本作の最後には、前作「なんとなく、クリスタル」と同じように、日本の「出生率低下」と「高齢化」を危惧する統計数値が記述されているのですが・・・その深刻さに反して、本文の登場人物たちのライフスタイルは、まったくもって羨ましくもない薄っぺらい「なんとなく、クリスタル」からの成長のなさに、違和感を感じてしまいます。ある意味、本作は、読者それぞれの人生観を浮き彫りにするような”踏み絵”のような小説とも言えるわけで・・・本作を高く評価する人とボクは、きっと相容れないところがあると確信できてしまうのです。

私小説を装った政治活動(?)は”政治家”として発言すべきことであるし、過去の女性関係や知識の自慢話は「ペログリ日記」のようなエッセイ(ブログ?)で書けば十分なこと・・・わざわざ「小説家」として復帰して出版するべきほどの内容だったのでしょうか?

「33年後のなんとなく、クリスタル」は、田中康夫氏の自己認識が、如何に世間とズレているかを明らかにしてしまっていて、政治家としての資質にさえ疑問を感じさせます。「墓穴を掘った」としか言いようのなさに・・・ただ、失笑するしかありません。



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2014/12/04

エリザベス・テイラー最後の主演映画はミュリエル・スパーク原作のサイコミステリー・・・ヒステリー女優(?)としての集大成的作品なの!~「サイコティック/Driver's Seat (Identikit)」~




エリザベス・テイラーの人気というのは、どうも日本ではイマイチ・・・「最後のハリウッドスター」「映画史上最高の美女」という”アイコン”として映画ファンには受け入れられても、おしゃれ感に乏しく女性が憧れる”往年のスター女優”というイメージはありません。

イギリス生まれのエリザベス・テイラーは、ハリウッド映画で子役として映画デビュー。「緑園の天使」(1944年)で12歳らしからぬ完璧な美貌で、一躍人気の少女スターとなります。その後「若草物語」(1949年)で若手スター女優の仲間入りをして、18歳で「花嫁の父」(1950年)、19歳で「陽のあたる場所」(1951年)に主演しているのですから、かなりの早熟です。

20代半ばには「熱いトタン屋根の猫」(1958年)や「去年の夏、突然に」(1959年)で欲求不満の若妻(!)という”当り役”と出会い、28歳で売春婦を演じた「バターフィールド8」(1960年)で、最初のアカデミー主演女優賞に輝き、演技派女優としての地位も確立します。ハリウッド史上の制作費を投入して大コケした悪名高き(?)「クレオパトラ」(1963年)の主演だって、撮影は30歳の頃・・・「ヴァージニア・ウルフなんてこわくない」(1966年)では、役作りのために(?)34歳でブクブク中年太りして、倦怠期の夫婦を当時実際に夫婦だったリチャート・バートんと演じて、2度目のアカデミー主演女優賞に輝いたのです。

ただ、その後はヒット作品に恵まれず、1970年代半ば以降は、オールスター作品に華を添えるような出演だったり、テレビシリーズのゲスト出演だったり、お飾り的な立ち位置での「カメオ」ばかりになっていきます。いつしかエリザベス・テイラーは”映画女優”としてよりも、私生活(離婚再婚の繰り返し)や日々の動向(エイズ基金やセレブ香水発売のパイオニア)で注目される”元ハリウッドスター”になっていったのです。

エリザベス・テイラーが”ヒロイン”=主演の最後の劇場用映画というのは、42歳の時に主演した「サイコティック/Driver's Seat (Identikit)」(1974年)という日本では殆ど知られていない作品です。劇場用映画の出演は「青い鳥」「リトル・ナイト・ミュージック/Little Night Music(日本未公開)」「クリスタル殺人事件」などがありますが、いずれも主役ではありません。(テレビ映画やテレビシリーズでは、いくつか主役を演じている作品あり)

「サイコティック」は公開当時(そして、その後も)、エリザベス・テイラーの長い映画キャリアの中で、最も酷い作品と評されてしまいます。現在の感覚だと”42歳”という年齢は、まだまだ女優として活躍できる年齢だと思うのですが・・・当時(1970年代)は、保守的なハリウッドシステムから生まれたエリザベス・テイラーという女優の存在自体が、どこか古臭く感じられてしまう時代でもあったのかもしれません。

本作は、日本では劇場公開さえされず、1980年代のビデオレンタル全盛期に、エリザベス・テイラーのセクシーなシーン(乳首が見えるブラジャー姿や着衣状態でのマスターベーションやセックスシーンなど)を売りにした”イロモノ的扱い”で、パワースポーツ企画販売という怪しい会社からレンタル用としてリリースされたのみではあります。


「熱いトタン屋根の猫」「去年の夏、突然に」「ヴァージニア・ウルフなんてこわくない」「禁じられた情事の森」「夕なぎ」など、欲求不満の女性を演じさせたら右に出る者はいない(!)と思えるほど、演技派転向後のエリザベス・テイラーの独壇場・・・なんがなんだか分からないけど苛々しているエリザベス・テイラーの”ヒステリー演技”が大好物なボクのとって「サイコティック」は、好きな作品のひとつなのであります。

原作はイギリスの作家ミュリエル・スパークの「運転席/Driver's Seat」という1970年に発表された小説。30代でオールドミスという価値観は、随分と未婚女性に対して厳しいと思えてしまいますが・・・それも1970年という時代の感覚だったのかもしれません。日本語訳は映画化される前の1972年に、早川書房から出版されているのですが、その後ずっと絶版・・・ミュリエル・スパークという作家は、評論/研究書って数多く出版されているわりに、肝心な小説は殆ど日本では絶版というありさまです。

しかし、最近(2013年11月)になって、日本独自編集の短編集「パン,パン!はい死んだ」が出版されているので、もしかすると日本でミュリエル・スパークの人気が再熱しているのかもしれません。現実と幻想が入り交じった不条理なブラックユーモアで人間の愚かさを暴いていくところは、今流行の”イヤミス(後味の悪いミステリー)”の元祖のようでもあり「湊かなえ絶賛」という帯の宣伝文句も納得。そして何より・・・悪意に満ちているのは”登場人物”よりも”書き手”というところが”ミソ”なのです。

さて「運転席」の映画版となる「サイコティック/Driver's Seat (Identikit)」は、エロティック映画”もどき”(?)な作品で知られるジョゼッペ・パトローニ・グリッフィ監督(「さらば美しき人」「悦楽の闇」「スキャンダル・愛の罠」)によるイタリア映画・・・サイコミステリー仕立てのエロティックを期待すると、あっさりと裏切られるとは思いますが・・・エリザベス・テイラーというハリウッドスターの主演映画としては、ストレートな性的表現や露骨な台詞があったりして、ある意味”意欲作”であったことが伺えます。また、アンディ・ウォホールがちょい役で出演していることも、製作当時は話題だったようです。

キャリアウーマンのリズ(エリザベス・テイラー)が、自分を殺害してくれる男性を求めてバケーションにでかけて、望みどおりに殺されるというのが本作の物語(これはネタバレというよりも、あらすじとして書かれている)・・・どうして彼女が短気なのか?何故死のうとしているのか?働くことに疲れているのか?恋愛で悩んでいるのか?などの疑問に対して確定的な答えは一切出さずに、意地悪い視点で彼女の旅の様子と、彼女の死後に彼女との関わりを警察の捜査の様子を、時間軸を行き来しながら描いていきます。主人公のリズは勿論、彼女以外の登場人物たちの行動や言動も不可思議・・・観客は奇妙な世界観に身を委ねるしかありません。また、全編に流れる現代音楽のピアノの旋律が妙に不安を高めます。

何故か、冒頭からいきなり苛々しているリズはブティクの販売員に怒りをぶつけます。空港で荷物チェックで止められれば毒づくし、免税店では店員にイヤミで食って掛かるし、ホテルのメイド相手にかんしゃくを起こします。と思えば・・・飛行機の中でナンパされた変態オヤジをなんだかんだで相手にしてみたり、行動は支離滅裂。テロに巻き込まれて街中で爆弾が爆発したり、奇妙な災難にも遭遇しますが、彼女が求めていた男性をたらし込むことに成功します。そして、雑木林の中で男を誘惑して「殺害されること」を懇願して、望みどおりに彼女は死ぬのです。ハッキリとした理由もなく死ぬことだけを求める旅・・・その道中に起こることも、また不条理であります。そして、登場人物たちの台詞の数々は、滑稽であり、時には哲学的でもあり、やはり堂々巡りな不条理なのです。

試着中のドレスが新素材でシミが付かないことを販売員が伝えると、リズは急に怒りだし販売員に喰ってかかります。
「Stain resistant dress? Who asked for a stain resistant dress?/シミのつかないドレス?誰がシミのつかないドレスを頼んだのよ?」

空港の本屋さんで上品な婦人が、リズに突然尋ねてきます。
「Excuse me. Which do you think more exciting? Sadomasochist one?/ごめんなさい。どちらの方が面白いかしら?サドマゾヒストの方かしら?」

テロリスト警戒中の空港で荷物係に止められたリサは、苛立って毒づきます。
「This may look like a purse but it is actually a bomb./これはハンドバッグみたいだけど、本当は爆弾なのよ!」


飛行機の中で隣に座った脂ぎった中年男にリズは厭味たっぷりに対応します。
「You look like Red Riding Hood's grandmother. Do you want to eat me?/あなた赤ずきんちゃんのおばあさんみたいね。私を食べたいの?」

リサをナンパした中年男は意味の分からないアプローチでリズを誘います。
「I have to have an orgasm a day for my microbiotech diet./マイクロバイオテックの食事療法には、一日に一度のオーガズムが必要なんだ。」

そんな中年男に対してのリズの返答は、名台詞(?)です。
「When I diet, I diet and when I orgasm, I orgasm! I don't believe in mixing the two cultures!/ダイエットの時はダイエット、オーガズムの時はオーガズム。二つの文化を一緒にすることはしないのよ!」

リズは徐々に不条理な思考は堂々巡りです。
「I sense a lack of absence /不在しているものが欠乏しているの!」

リズの痛々しさは哲学的でもあるのです。
「I feel homesick for my own loneliness/自分の淋しさにホームシックになるわ」

遂にリズは理想の男性を誘惑することに成功し、彼女を殺害することを懇願します。
「Just Kill me! Then you love me!/ただ殺して!それから私を愛して!」

”オースドミス”というステレオタイプの概念があった時代に、未婚女性が感じている(感じるべき?)と思われていた漠然とした虚無感や孤独感をヒシヒシと感じさせます。この映画が製作された1970年代中頃は、不条理さこそ日常に潜む”恐怖”と考えられていた風潮があり、似たような雰囲気のスリラーというのが多く制作されていました。公開当時は批評家から酷評されたこともあり、日本では劇場未公開の本作がエリザベス・テイラーの最後の主演映画作品となったことは残念なことではあるのですが・・・年月が経ち製作時とは違う価値観で本作を観ると、美人スター女優の顔でなく、ヒステリー女優(?)という”顔”もあるエリザベス・テイラーの「集大成」だと、ボクには思えるのです。

「サイコティック」
1974年/イタリア
原題/Driver's Seat (Identikit)
監督 : ジョゼッペ・パトローニ・グリッフィ
原作 : ミュリエル・スパーク「運転席」
出演 : エリザベス・テイラー、イアン・バネン、グイド・マンナーリ、モナ・ウォッシュボーン、ルイジ・スカルツィーナ、アンディ・ウォーホル
日本劇場未公開、過去にレンタルビデオあり



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