2014/03/29

濃厚なレズビアンセックスシーンにドン引き?・・・シンプルなガール・ミーツ・ガールの”アデルの恋の物語”が、これほど切ないとは!~「アデル、ブルーは熱い色/La vie d'Adèle – Chapitres 1 et 2」~



カンヌ映画祭では、毎年、違う映画関係者(監督、俳優など)が審査委員長を努めるということもあり、パルムドール賞(グランプリ)に選ばれる作風も審査委員によって左右されているといわれます。例えば・・・リュック・ベッソン監督が審査委員長だった時のグランプリが「ダンサー・イン・ザ・ダーク」、クエンティン.タランティーノ監督の時は「華氏911」、イザベル・ユペールは「白いリボン」、ロバート・デ.ニーロは「ツリー・オブ・ライフ」という具合です。第66回カンヌ映画祭(2013年度)の審査委員長が、父と子をテーマとした作品が多いスティーヴン・スピルバーグ監督ということもあって、是枝裕和監督の「そして父になる」が受賞するのではと期待されましたが・・・フタを開けてみたら、濃厚なレズビアンセックスシーンが話題となったアブデラティフ・ケンシュ監督の「アデル、ブルーは熱い色/La vie d'Adèle – Chapitres 1 et 2が、パルムドール賞を受賞しました。それも監督だけでなく、主演のアデル・エグザルホプロスとレア・セドゥも受賞という異例の扱いだったのです。

ゲイのボクにとって、濃厚なレズビアンセックスシーンがある映画というのは、同性愛を扱っているからといっても、正直、それほど積極的に観たい作品ではありません。それも、性器の模型(?)まで作成して、写実的なセックスシーンの再現にこだわったというのだから「勘弁してよ~」です。ある意味・・・恐いもの見たさ(?)の気持ちで、ボクは「アデル、ブルーは熱い色」を観たのでした。


本作は、恋愛映画としては異様に長い3時間という上映時間なのですが、物語自体はガール・ミーツ・ガールのシンプルなラブストリーであります。ただ、多くのカメラワークは顔のクローズアップという独特のスタイル・・・圧迫感さえ感じるほどの近距離で、登場人物たちの細かな表情を追うことで、赤裸裸に心の内を浮き彫りにしているのです。その場にカメラがあることを意識しないようなフットワークの軽いカメラアングルでありながら、本作のテーマカラーである”ブルー”の色がフレームのどこかに入り込むという・・・完璧に計算し尽くされた画面になっているのも特徴と言えるでしょう。

アデル(アデル・エグザルホプロス)は、文学好きの女子高校生・・・イケメンのボーイフレンドにカラダを許してしまうものの、何かが違うと感じています。オナニーの時、街で見かけたブルーの髪をした女性を妄想したりしてしまうアデル・・・結局、ボーイフレンドとは煮え切らないまま別れてしまうのです。ある日、ゲイのクラスメイトに連れられて入ったゲイバーで、アデルはブルーの髪をした美術大学生のエマ(レア・セドゥ)と遂に会話を交わすことになります。

翌日、アデルの通う高校前に現れたエマ・・・見た目からして明らかにレズビアンのエマと連れ添って帰るアデルは、クラスメイトの女子からレズビアンの疑いをかけられてしまうのです。レズビアンであることを必死に否定して、摑み合いの喧嘩になってしまうアデル・・・同性愛に寛容というイメージのあるフランスですが、高校生にとってカミングアウトすることは、まだまだ勇気のいることなのかもしれません。

エマに一目惚れしてしまった”レズビアン初体験”のアデルの思いは、一度弾けたら歯止めが利かず、二人は肉体的に結ばれることとなります。ここでのセックスシーンは、これでもかというほど長くて濃厚・・・知らなくてもいいレズビアンセックスの四十八手(?)を見せられたような気がします。ハーココアポルノのような性器のドアップというのは、さすがにありませんでしたが・・・性行為に没頭する二人の息づかいが妙に生々しくて、観ている方が恥ずかしくなるぐらいです。


レズビアンのセックスシーンにありがちの”甘美さ”の表現というのは、部外者(レズビアン以外)のために映像的に”美化”されていていたのだと思えてしまうほど・・・本作のような描写こそが、多くのレズビアンにとっての「ふつうのセックス」なのかもしれません。「恋愛」は心と心の結びつきである「恋」であると同時に、肉体的な結びつきの「性」でもあるわけで、異性愛、同性愛関係なく「好き」という感情の先には、動物的な肉体の求め合いなのです。そして「愛」は肉体の結びつきでしか確かめられないこともある・・・ということを描くためにも、本作の濃厚なレズビアンセックスシーンというのは、絶対に必要なのであります!

毎晩ミートソーススパゲティを食べるような家庭に育ったアデルと、殻付きの生ガキを自宅で食べるような家庭で育ったエマ・・・数年後(映画ではワンカットで切り替わる)同棲を始めるのですが、二人の生きる世界の違いが徐々に明らかとなっていきます。いかにも美大生っぽいブルーの髪からナチュラルカラーになっていますが、エマは新進気鋭の画家として野心的です。ホームパーティーも、力のある画廊のオーナーと親しくなるためでした。

一方、子供好きなアデルは、エマから文才を生かして小説を書くように奨められていながらも、普通の小学校の先生として職を得て満足しています。エマの開催するホームパーティーでは、アデルはもっぱら食事の給仕役・・・エマの友人らの交わすアート関係の文化的な会話にはついていけません。恋人の友人のサークルに入っていけないのは、どことなく淋しいもの・・・エマと親しげにしている女性のことを、アデルはエマの元彼女ではないかと勘ぐって嫉妬してしまいます。

行動や表情の一挙一動を追ってしまうことで、ますます不安と疑いが生まれてしまう・・・そんなアデルの「恋愛弱者」としての悪循環は、誰もが一度は経験したことのある”苦い恋”を思い起こさせます。自分の芸術表現と画廊とのビジネスの狭間で葛藤するエマに対して、アデルは何ひとつ気の利いた言葉をかけることはできません。生きてきた世界が違う二人に埋められない溝は、アデルに”淋しさ”を感じさせ・・・その”淋しさ”から逃れるために、アデルは絶対してはいけない”過ち”を犯してしまうのです。

こっっからネタバレを含みます。


同僚に誘われて出向いたナイトクラブで、アデルは同僚の男性と踊ったり飲んだりしているうちに、その男性と抱き合ってキスしてしまいます。そして、アデルは数回、その男性とエッチしてしまったようなのです。(映画ではハッキリとは描かれていませんが・・・)レズビアンの女性には、男性ともエッチできる”バイセクシュアル”なタイプと、男性は生理的に無理という生粋(?)のタイプがいるように思います。アデルは、女性との性的関係はエマとしかありません。エマとの関係に行き詰まった時、揺れ動く気持ちが男性に向かってしまうのも頷けるところがあります。しかし、エマにとって男性と性的な関係を持つことは、売女的な行為のなにものでもなく、絶対的なタブーなのです。

ある夜、男性の車で送られて帰宅したアデルに、エマはアデルが男性と浮気していることを確信します。涙ながらに弁解を試みるアデルの言葉に耳を傾けることなしに、アデルを家から追い出してしまうのです。目の前の世界のすべてが崩れていくような絶望的な失恋の気持ちを・・・自分を傷つけない手段”だけ”は覚えてしまったボクは、すっかり忘れてしまっていたような気がします。

それから日々が経ち、カフェで再会するアデルとエマ。肉体的な結びつきを呼び起こそうとするアデルの痛々しさは、濃厚なレズビアンセックスシーンがあったからこそ。しかし、すでに新しい恋人がいるエマは、二人の関係が、もう元には戻らないことを改めて伝えるのです。別れを告げられた(振られた)側は、もしかすると復縁できるかもしれない・・・と、希望を持ってしまいがちですが、別れを決めた(振った)側にとっては、すでに終わった過去。もう二度と同じ関係に戻ることはできないのです。

さらに数年後(?)エマは念願の画廊で展覧会のオープニングパーティーで、アデルとエマは再会します。元彼女としての立場は、アデルにとって決して心地よいものではありません。今度こそ、過去を吹っ切るようにアデルはひとり画廊を後にします。その足取りは淋しげではあるけど(ボクも含めて)「愛」を失ったことのある誰もが通過してきた道。シンプルなガール・ミーツ・ガールの「アデルの恋の物語」だからこそ・・・切なく胸を締めつけるのです。

「アデル、ブルーは熱い色」
原題/La vie d'Adèle – Chapitres 1 et 2
2013年/フランス
監督 : アブデラティフ・ケンシュ
脚本 : アブデラティフ・ケンシュ、ガリア・ラクロワ
出演 : アデル・エグザルホプロス、レア・セドゥ
2013年10月15日東京国際映画祭にて上映
2014年4月5日より日本劇場公開


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2014/03/21

アメリカ超低俗番組「ジャッカス」からの最新スピンオフ・・・一般人を巻き込む”どっきりカメラ”のサイテー映画と思いきや?~「ジャッカス/クソジジイのアメリカ横断チン道中/Jackass Presents Bad Grandpa」~



今年のアカデミー賞ノミネートのサプライズは「ジャッカス/クソジジイのアメリカ横断チン道中/Jackass Presents Bad Grandpa」のノミネートかもしれません。とは言っても、作品賞や演技賞などのメインではなく”ベストメイク賞”ではあり、当然、受賞は逃したわけでが。ただ、投票権をもつアカデミーの会員も、この映画もしっかり観賞するかと思うと、ある意味”快挙”と言えるかもしれません。

アメリカのケーブルテレビ「MTV」制作の番組のなかでも悪名高き「ジャッカス/Jackass 」・・・ジョニー・ノックスヴィルを中心にしたメンバーが体を張った過激なイタズラをする内容で「どっきりカメラ」の要素もあるという典型的な「おバカ番組」であります。番組内の行為を真似して死者が出るなど社会問題になりながらも、3シーズン終了後にはスパイク.ジョーンズ監督(マルコビッチの穴、her/世界でひとつの彼女)が製作総指揮を勤める映画3作が作られるほどでしたが・・・「YOU TUBE」の台頭によってJackass風の映像のインパクトが薄れていったところは拭えません。そこで、サシャ・バレン・コーエン(ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習、ブルーノ)の一般人のリアクションを楽しむ”どっきりカメラ”と、フィクションのコメディを融合したスタイルをパクった(オマージュ?)のが、本作「ジャッカス/クソジジイのアメリカ横断チン道中」であります。

46年連れ添った妻エリーを亡くしたアーヴィング(ジョニー・ノックスヴィル)は、刑務所に戻らなければならなくなった娘キミーの8歳の息子ビリー(ジャクソン・ニコル)を、ノースカロライナのビリーの父親チャック(グレッグ・ハリス)に送り届けることになります。エロじじいのアーヴィングを演じるのは、”86歳の”に変身したジョニー・ノックスヴィル(現43歳)・・・さすが、映像だけでなく、実際に会った一般人を騙せただけの見事な特殊メイクであります。本作の内容はともかく、メイクではアカデミー賞ノミネートというのも納得です。8歳の孫を演じるジャクソン・ニコルは、こまっしゃくれた肥満気味の男の子で、ジャッカス的な下品な悪のりも”お手ものというなかなか芸達者・・・この子なしでは、本作は成り立たなかったでしょう。


どっきりの対象は彼らが道中で出会う”一般人”で、仕掛けるイタズラは悪ふざけなものばか。生々しいリアクションからは、アメリカ人の”頭の悪さ”や”人の良さ”が垣間みれますが、サシャ・バレン・コーエンのような政治的な毒はありません。”チンコ””ウンコ”に笑いが止まらない小学生レベルのイタズラなのです。ただ、その”頭の悪さ”に苦笑してしまうという愛すべき面白さに溢れています。特に、ボクのお気に入りの酷いシークエンスは、ダイナーでアーヴィングとビリーが”おならごっこ”をしているうちに、エスカレートしてアーヴィングが壁に”ウンチ”をぶっぱなしてしまうところ・・・知能指数が急降下してしまうほど、頭を抱えて笑ってしまいました。

どっきりを仕掛けるだけで終わっていたら「ジャッカス」の延長でしかなかったのですが、本作はアーヴィングとビリーというキャラクターの”フィクションの物語”を追いながら、一般人への”どっきりカメラ”という嘘と現実が入り交じっている奇妙な映画・・・一度はビリーを父親のチャックに送り届けた後、アーヴィングがビリーを取り戻しにいくシーンでは、一般人のリアルな真実のリアクションが、虚構の物語に妙な感動を生んでしまっているのです。何故か、ビリーの引き渡し場所に指定されているのが、ガーディアン・オブ・チルドレンという虐待された子供たちを助けることを使命としている「バイク野郎」の集団のたまり場。子供の養育のために受け取る月600ドルだけが目的としている父親のチャックは、彼らが最も憎むべき相手・・・ビリーをアーヴィングに渡さないように暴れ始めるチャックの腕を、イカツイ男たちはマジで締め上げ始めるのです!チャックを演じるグレッグ・ハリスは「腕の骨が折られると本当に思った」というほど怯えてしまったそうで・・・こうなると、どっきりを仕掛けられているのが一般人なのか、虚構のキャラクターを演じている出演者なのか分かりません。

そして、この「マジでやばい!」感じこそが「ジャッカス」の真骨頂でもあるわけで、「ジャッカス/クソジジイのアメリカ横断チン道中」は、まぎれもない「ジャッカス」映画であるのです。


「ジャッカス/クソジジイのアメリカ横断チン道中」
原題/Jackass Presents Bad Grandpa
2013年/アメリカ
監督 : ジェフ・トレメイン
脚本 : ジョニー・ノックスヴィル、スパイク・ジョーンズ、ジェフ・トレメイン
出演 : ジョニー・ノックスヴィル、ジャクソン・ニコル、グレッグ・ハリス、ジョージナ・ケイツ、スパイク・ジョーンズ
2014年3月29日より日本劇場公開


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2014/03/15

スティーヴ・マックイーン監督が黒人監督として初のアカデミー作品賞受賞!・・・”被害者”から歴史を描く流れは、改めて”加害者”に罪を問うことになるかもしれない!?~「ハンガー/Hunger」「それでも夜は明ける/12 Years a Slave」~



往年のハリウッド・アクション俳優と同じ名前をもつイギリス人映画監督、スティーヴ・マックイーンの作品を初めて観たのは、今から約4年ほど前のこと・・・アメリカのアマゾンでクライテリオン(Criterion)社から発売された「ハンガー/Hunger」のブルーレイを購入した時です。当時、超円高で日本で映画館入場料よりも安く新作映画のDVDやブルーレイを買えることもあり、ちょっと気になった作品は、映画の内容についても殆ど知らなくてもショッピングカートに入れていたのでした。まだ、マイケル・ファスビンダーも無名に近く・・・「ハンガー」という作品については刑務所でのハンガーストライキを描いた作品という程度の知識しか、ボクにはありませんでした。

1981年、当時のイギリス首相だったマッガレット・サッチャーが、IRA(アイルランド共和軍)の囚人たちを”政治犯”として扱わない(普通の犯罪者と同じく囚人服を着なければならないとか)という強硬姿勢を打ち出したことに対して抗議するために、ブランケット・プロテスト(囚人服を拒否して不潔な毛布をかぶる)や、ダーティー・プロテスト(尿を廊下に流す、大便を壁になすりつける)を行ないます。しかし、抗議活動は受け入れられることもなく、当時26歳のIRAメンバーだったボビー・サンズは、自虐的なハンガー・ストライキを決意・・・66日後に餓死してしまうのです。

本作「ハンガー」は、刑務所の監視員の淡々した・・・しかし、常に暗殺されるかもしれないという日常生活、そして、囚人たちの抗議活動に対して抑制をしなければならない葛藤と、ボビー・サンズ(マイケル・ファスベンダー)が衰弱して餓死していく様子を、明確で映像言語を持った映像描写で描いていきます。本編中盤、ボビー・サンズが牧師にハンガー・ストライキを宣言する20数分のシーン以外、殆ど台詞がないのです。刑務所の監視員が行なう囚人たちへの暴力の描写には、一切容赦ありませんが、それぞれの立場の苦しみを観客に傍観させることにより、迫害されたIRAの囚人を擁護するような”政治映画”とは、まったく違う印象を与えています。ただ、ハンガー・ストライキという自虐的な手段を選んだボビー・サンズの最期を、まるで”聖人”の死のように表現しているところには、映像としては素晴らしいと感じながらも、釈然としないところがありました。

1980年代~90年代のハリウッド映画で”テロリスト”と言えば「IRA」ということもあり、ボク自身には少なからず「IRA」=「悪者」というステレオタイプを洗脳されていたところもあるのかもしれません。しかし、いかなる政治的な理由があるにしても、テロリスト活動を行なうグループの抗議を認めることは、ボクには難しいのです。本作で描かれている刑務所の監視員の暴力的な行為にしても・・・ダーティー・プロテストを行なっている囚人たちを散髪や入浴をさせたり、糞まみれの監獄を洗浄しなければならなかったからこそ。また、囚人たちの口内から肛門まで厳しくチェックしなければならなかったのは、面会時に禁じられた手紙のやり取りや差し入れを受け取っていたから。刑務所が一方的にルールを強要することは理不尽ですが、それに対しての抗議手段が”糞尿”というのは、とんでもない”嫌らがせ”・・・それに対応しなければならなかった監視員に、少なからず同情してしまうところもあるのです。

本作の映像としての力強さには感動をしながらも、IRAの行なった抗議活動に対して肯定的とも受け取れる表現には疑問を感じ・・・おそらく、アイルランド出身の映画監督マックイーンは典型的なアイリッシュの名字)による作品なんだろうと思いながら、特典映像のスティーヴ・マックイーン監督インタビューを観て、大変びっくり。本作のテーマから、ボクは監督は”アイルランド系の白人男性”と思い込んでいたのですが、映っていたのは髭面のイカツい黒人男性・・・彼がスティーヴ・マックイーン監督本人であることを認識するまで、かなり脳を働かせなければなりませんでした。そして、人種や肉体的特徴によるステレオタイプを、いかにボク自身が持っていたのかと思い知らされのです。その後、ネットで調べてみたら、彼は1999年にイギリスのターナー賞受賞歴もある”アーティスト”だということや、カリブ海のグラナダからの移民の子(アメリカ奴隷の子孫)としてロンドンで生まれ育ったことなどを知ったのでした。


スティーヴ・マックイーン監督の家庭環境や、どのような幼少期を過ごしたかは知りませんが、チェルシー・カレッジ・オブ・アート&デザインやゴールドスミス・カレッジに学び、在学中から映画製作を始めたということは、決して貧困家庭ではなかったことは想像出来ます。しかし、だからといってイギリス社会で人種差別を受けたことがないと言えば嘘になるでしょう。アート界と言うのは、金持ち白人(ユダヤ人)によって牛耳られている世界・・・ビデオ・インスタレーションのアーティストとして世界的に活動し、認められてきたことは、彼にとって”戦い”であったかもしれないのです。そんな彼が、11歳の頃にテレビで観たボビー・サンズのハンガー・ストライキのニュースに、並々ならぬ関心を抱いたというのは、迫害される”被害者側”の立場に強く共感したからのような気がしてなりません。

その後、スティーヴ・マックイーン監督は、再びマイケル・ファスベンダー主演で、セックス依存症の男性を描いた「シェイム」を2011年に監督・・・人種的な視点でのテーマ選びはしないのかと思っていたのですが、長編映画3作目で、真っ向からアメリカ黒人奴隷の迫害を描いた「それでも夜が明ける/12 Year a Slave」を監督することになります。ユダヤ系のスティーヴン・スピルバーグ監督は映画化権を手に入れてから、実際に「シンドラーのリスト」を製作するまで10年近く費やしました。これは、構想を温めていたこともありますが、1980年代前半「E.T.」や「レイダース/失われたアーク」で飛ぶトリを落とす勢いだった時に「ユダヤ系」映画監督というイメージを強く与えたくなかったことを、後に告白しています。迫害された側の人種の監督によって、その歴史を映画に描くことは、当事者だけでなく全世界的に大切なことではあるのですが、当事者に近い立場ゆえに加害者の罪を誇張してしまったり、事実ではないことまで捏造してしまう恐れもあるのです。例えば・・・ナチスのユダヤ人大量虐殺は、絶対悪による残酷ネタとして「あること」「ないこと」描かれてきたのですから。実際に起こった”事実”を見極めて描くというのは、年月が経てば経つほど難しくなることなのです。

最近ハリウッドでは、黒人監督による黒人迫害を描いた作品というのが、ある種のブームのようなところもあります。第86回アカデミー賞では監督賞は逃したものの、最も重要な作品賞を受賞・・・これは、黒人の映画監督の作品としては「初」のことだということ。「やっと、黒人の映画監督よって黒人の歴史が描かれる時代になり、アカデミー賞にも認められた!」とも言えるわけですが、この流れには不快感を感じている”白人層”というのは少なくはないようです。ニューヨーク批評家協会賞の授賞式では、監督賞を受賞してスピーチするスティーヴ・マックイーン監督に対して、人種別的な野次を浴びせたバカなジャーナリストがいたように、新たな人種の溝を深めていく可能性もあります。「拷問ポルノ」と罵る白人の映画批評家もいたという本作・・・現代アメリカ社会が、もみ消したい”負の歴史”の歴史認識を”被害者”側から検証するという方向になっていくのでしょうか?これは、中国や韓国から歴史認識や戦争責任を改めて追求される日本人が感じている不快感と、少し似ているのかもしれません。


「それでも夜が明ける」は、アメリカ北部で”自由黒人”として生活していた音楽家のソロモン・ノーサップ(キウェテル・イジョフォー)が拉致されて、12年間南部で奴隷として生きることを強いられたという自伝をもとにした作品で、解放されるまで家族の元に戻る希望を捨てない姿が感動的に描かれています。アメリカ奴隷の記録というのは、奴隷側が記録したものというのは、当然のことながら残っていません。何故なら、主人からの口頭による命令を理解する必要しかなかったので、文字の読み書きができることは稀なことだったからです。奴隷をすでに解放していた北部で生まれ教育を受けたソロモン・ノーサップだからこそ記録することができた”奇跡”と言えるでしょう。

本作で描かれるソロモン・ノーサップの元の生活というのは、経済的に比較的裕福(一軒家に住んでいる)で、白人社会の中で平等に扱われている(お店の亭主の態度など)なのですが・・・いくら奴隷解放している北部と言えども、当時としては非常に恵まれていた存在だったのだろうと推測します。彼の音楽家としての才能が、それだけ高く評価されていたということでしょう。ただ、白人社会で受け入れらて生活することは、黒人社会からは浮いた存在であったのかもしれないという疑念も感じさせます。外見は黒人だけど内面は白人みたいというのは、現在の黒人社会では疎まれる存在・・・本作の舞台である19世紀半ばに、ソロモン・ノーサップのような存在が、どのようなものであったのかは想像するしかありません。

ソロモン・ノーサップが拉致された後、奴隷として売られていく過程で受ける虐待には目を覆うしかありません。容赦ない鞭打ち、白人に歯向かった罰としての首吊り・・・彼が生死の境目を彷徨っている時にも、まるで彼自身の存在が”無”のように、普通に遊びはしゃいでいる子供の姿を同じフレームで捉えるカメラは、あまりにも残酷・・・正視できません。リアリティを追求した暴力描写の一方・・・本作では奴隷同士の会話が、まるでシャークスピア劇のような台詞回しというところには、正直、違和感を感じずにはいられませんでした。崇高な精神を表現しているのだとは思いますが・・・あの時代にありえなかった黒人奴隷の姿という映画的な妄想と、迫害の歴史をリアルに描こうとする意図が混在しているところはトリッキーに感じられました。

加害者であった白人側を単なる”悪者”として描かないのは巧みでした。奴隷オーナーであったウィリアム・フォード(ベネディクト・カンバーパッチ)にしても、奴隷を虐待する農園支配人のエドウィン・エップス(マイケル・ファスベンダー)にしても、奴隷制度というのは、それを利用していた白人側の精神も破壊していたということが描かれるのです。特に、密かに黒人奴隷のパッツィー(ルピタ・ニョンゴ)を愛するエドウィン・エップスと、そんな二人に嫉妬するエドウィン・エップスの妻メアリー(サラ・ポールソン)の屈折した残忍性は「善と悪」「被害者と加害者」というだけでは言い切れない人間性を表しています。そして、被害者であった黒人奴隷が当時逆らうことが難しかったように、加害者であった白人にとっても、その時の社会の仕組みに逆らうことは難しかったのかもしれません。

奴隷にさせられてしまったソロモン・ノーサップが自主的にできることは、殆どなく・・・カナダ人のサミュエル・バス(ブラッド・ピット)の助けによって救われるまでの過酷な日々に耐えることだけだったのは”リアル”で、まさに運命に翻弄されたとしか言えません。12年間の奴隷生活から解放されて、北部に暮らす家族の元に戻れたという奇跡的な事実は感動的でありますが、それは涙の再会以上の驚きはありません。自由黒人としては北部に戻った彼が、その後、どのように再び社会に順応していったのかは想像するしかありませんが・・・冷静に奴隷生活の記録を残したということは、彼を迫害した同じ人種の白人を憎んだのではなく、自分の経験した不幸を超越した視点を持っていたと思えるのです。加害者が被害者に対して謝罪することは当然のことですが・・・被害者が加害者を「許す」なしには未来はありません。過去の事実を見つめ直すことが、加害者(白人社会)への罪の追求だけでなく・・・本当の意味で「許す」過程の一歩となることを祈るばかりであります。

韓国のパク・クネ大統領が「1000年経っても日本への”恨み”は忘れない」と訴えたように・・・自らを歴史的に迫害の”被害者”と感じる民族/人種にとって、年月によって”加害者”への”恨み”が消えるわけではないようです。逆に、時が経って国際的、経済的な立場が高くなるほど、過去を振り返って”恨み”が強くなっていくこともあるのかもしれません。そもそも、過去の出来事を今現在の”倫理観”で検証し直したら、許されるべきことではないことは当然です。また、「本当に何が起こったのか?」という歴史認識というのは、それぞれの立場によって違ってしまうのは仕方のないこと・・・”被害者”側の認識を押し付けるというのは、過去の”恨み”を生々しく再生させるだけで、双方に”落としどころ”のない不毛な要求のように思えます。

「それでも夜は明ける」の制作者のひとりであるブラッド・ピットのパートナーのアンジェリーナ・ジョリーの監督第二作目となる「Unbroken(原題)」は、日本軍の捕虜収容所に収容されて、日本兵から数々の虐待を受けたという実在のアメリカ兵の生涯を描いた作品・・・日本をバッシングをしたいわけではなく、戦争の愚かさを描くために選んだテーマなのだとは思いたいですが、空襲や原爆投下で焼け野原になったアメリカの敗戦国の日本が、第二次世界大戦の”加害者”として、改めて罪を問われる立場になってしまうことは避けれそうにもありません。

迫害を受けた”被害者”というのは過去に於いて”弱者”であったことは確かです。しかし、その”弱者”が”加害者”への罪を問い続けることが、過去の問題の解決なのでしょうか?”被害者”側から発信された歴史認識を100%受け入れることが「政治的に正しい」という今の世界的な流れが、ボクは少々怖く感じられることがあるのです。


「ハンガー 静かなる抵抗」
原題/Hunger
2008年/イギリス
監督 : スティーヴ・マックイーン
脚本 : スティーヴ・マックイーン、エンダ・ウォルシュ
出演 : マイケル・ファスベンダー、スチュアート・グラハム、リアム・カニングハム
2008年10月21日第21回東京国際映画祭にて上映
劇場未公開、DVD/Blu-ray発売


「それでも夜は明ける」
原題/12 Years a Slave
2013年/アメリカ、イギリス
監督 : スティーヴ・マックイーン
出演 : キウェテル・イジョフォー、マイケル・ファスベンダー、ベネディクト・カンバーパッチ、ルピタ・ニョンゴ、サラ・ポールソン、ブラッド・ピット、ポール・ダノ、ポール・ジアマッティ、アルフレ・ウッダード
2014年3月7日より日本劇場公開

「HUNGER/ハンガー 静かなる抵抗」
原題/Hunger
2008年/イギリス
監督 : スティーヴ・マックイーン
出演 : マイケル・ファスベンダー、スチュアート・グラハム、リアム・カニンガム
2008年10月21日第21回東京国際映画祭にて上映

 

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2014/02/11

ウディ・アレンにしか書けない「欲望という名の電車」・・・誰からも共感されない”自業自得”の苦しみだからこそ救いがないの!~「ブルージャスミン/Blue Jasmine」~


テネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」は、ボクの嗜好に大きく影響を与えた作品のひとつ(おかしのみみ「僕はブランチの生まれ変わりだったのです」参照)・・・世界各国で繰り返し舞台化(オペラ化も!)をされているのは勿論、映像化も3回(1951年映画、1985年TVドラマ、1995年TVドラマ)されていますが、ヴィヴィアン・リーがブランチ、マーロン・ブランドがスタンレーを演じたエリア・カザン監督の映画版が完成度が高く有名です。毎年、新作を発表しているウディ・アレンの最新作「ブルージャスミン」は「欲望という名の電車」と似た設定と物語が展開するウディ・アレン版「欲望という名の電車」とも言える作品であります。ちなみに、スタンレーが嫌いな香水が”ジャスミン”というのは偶然かもしれません・・・。

1982年から約10年事実婚していたミア・ファローの養女だったスン・イー(当時21歳)との交際、結婚は、ウディ・アレンの人間性を疑われるスキャンダルなのですが・・・最近になって、再びミア・ファローの別な養女から性的虐待の訴えをされているようなのです。彼の場合、プライベートが作品にも反映する作風ということもあって、コメディ映画というジャンルに属する作品でありながら、どこかしら登場人物達が自責の念を感じさせるようなシニカルな視点があり、その切れ味はますます鋭くなっているような気がします。


「ブルージャスミンン」は、ジャスミン(ケイト・ブランシェット)が、サンフランシスコに暮らす妹のジンジャーを訪ねるところから始まります。冒頭、飛行機の中でジャスミンが隣に座っている女性に身の上話をするのですが、これがウディ・アレンの脚本の見事さ・・・ジャスミンがどういう女性であるかを端的に説明してしまうと同時に、独り言のように一方的に自分のことばかり話している様子から、彼女がちょっと精神的に”おかしい”のではないかという印象さえも与えるのですから。そして、ジャスミンが独り言のつぶやきが、過去の回想シーンと何度と行き来する物語の時間軸を、巧みに織り込んでいきます。

彼女は夫のハロルド(アレック・ボールドウィン)とのパークアベニュー(ニューヨーク随一の高級住宅地)での裕福な生活の破綻後、新しい生活を始めるために、同じ里親に育てられた血のつながっていない妹(サリー・ホーキンス)と、しばらく同居して新しい生活を築こうとしているらしいのです。しかし、宝石も毛皮も何もかも失ったと良いつつも、ルイ・ヴィトンのスーツケースに、シャネルジャケットを羽織り、飛行機もファーストクラスというジャスミンの行動は、あまりにも”奇妙”です。お馴染みのラグジュエリーブランドを、痛々しい女性の風刺として使うとは、なんとも皮肉・・・贅沢というのは、心の隙間を埋める”鎧”であることも痛感させられてしまいます。

ジンジャーはジャスミンとは真逆で庶民的なタイプ・・・元夫のオーギー(アンドリュー・ダイス・クレー)も、現恋人のチリ(ボビー・カナヴェイル)も、労働者階級の男性。ジャスミンからすれば、そんな負け組な男を選ぶから”いい生活”ができないということになるのですが、ハロルドが大金を得ている投資ビジネスは、実は詐欺行為・・・贅沢な暮らしをすることにしか興味のないジャスミンにとって、ハロルドが金を得ている手段は大した問題ではないようです。例え、ハロルドが奨めた投資によって、オーギーが宝くじで当てた大金を失ったとしても・・・。

若くしてハロルドと結婚したジャスミンは、キャリアを持つ女性ではありません。パークアベニューの豪邸を追われて、都落ちしてブルックリン(ニューヨーク郊外のミドルクラスの住宅地)に住んで、マジソンアベニュー(世界中のデザイナーショップが並ぶ通り)のブティックの店員として勤めていたこともあるようなのですが・・・以前、チャリティーやディナーパティーで顔を合わせていた友人らと遭遇することもあり、ひどく自尊心を傷つけられたようなのです。正論を言えば「文句言わずに高級ブティックの店員やってろ!」なんですが、プライドにしがみついて苦悩するというのは、他人に理解されることもないので、心の闇はさらに深まってしまうものなのかもしれません。

ジャスミンは自分のテイストの良さを生かして、インテリアデザイナーになると考えるのですが(これも、元金持ち夫人が思いつきそうな安易な発想!)・・・パソコン学校に通ってパソコンを使えるようになったら、オンラインでインテリアデザインの講座を受けるというのですから、まったくもって地に足のつかない話なのです。学校に通っている間は、アルバイトぐらいはしないといけないということで、男友達に紹介された歯医者の受付をすることになるのですが・・・歯医者がジャスミンに一目惚れしてしまって、セクハラを受けてしまう始末。そこで、ジャスミンは素敵な男性(金持ち)との出会いを求めて、パソコンのクラスで知り合った女性に誘われたパーティーに、ジンジャーを連れて参加することにするのです。

そのパーティーでジャスミンが知り合ったのが、将来政治の世界への進出も考えている政府関係の仕事をするドワイト(ピーター・サースガード)・・・屋敷を購入したばかりの彼は、インテリアデザイナーを名乗るジャスミンに一目惚れして、内装のデコレーションを依頼するのです。十分な資産を持っているだけでなく、将来的には政治家夫人となれるかもしれないドワインは、ジャスミンが求めていた男性そのもの・・・あっという間に二人は恋におち、数年間ウィーンへの移住を計画していたドワインは、唐突にジャスミンにプロポーズをするのであります!勿論、これでハッピーエンドということはありません。

ここからネタバレを含みます。



裕福で幸せな生活に見えていたハロルドとの結婚でしたが・・・実は、ハロルドは浮気しまくりの超女たらし。それは、ジャスミンの目が届かないところではなく、家族の友人として付き合いのある女性や仕事の関係者と紹介されていた女性・・・ジンジャーもニューヨーク訪問の際に、ハロルドの浮気現場を目撃していたものの、自分の密告によって結婚が破綻してしまう責任は逃れたいと黙りを決めていたのでした。しかし、ひょんなことからハロルドの浮気を疑ったジャスミンに、ハロルドは遂に浮気を告白した上に、フランス人の家庭教師の若い女性との新しい生活を考えていると離婚を申しでるのです。ショックを受けたジャスミンは「FBI」にハロルドの詐欺行為を通報してしまいます。彼女が裕福な生活を失ったのは、ハロルドが逮捕されてしまったから・・・逆ギレした彼女による”自業自得”だったことが分かるのです。

婚約指輪を買うために宝石店を訪れたジャスミンとドワインの前に現れたのは、ジンジャーの元夫のオーギー・・・そこで、ハロルドが刑務所で自殺したこと、息子がサンフランシスコの郊外に暮らしていることが判明します。ジャスミンの虚言を悟ったドワインは、あっさりとジャスミンとの婚約を白紙に戻してしまうのです。最後の望みである息子を訪ねても、通報したジャスミンのことを犯罪者の父親より憎んでいると罵倒されてしまいます。何も知らないジンジャーに対して、まだドワインとウィーンに移住すると言い張るジャスミン・・・遂に、現実を把握できないほどジャスミンの精神は崩壊しまったようです。

彼女の悲劇は、誰にも理解されない自業自得の苦しみに苛まれているということ・・・誰一人からも同情してもらえないからこそ、自分と社会の認識の隔たりに彼女は精神を病んでいくという悪循環を生んでいるのです。公園のベンチで、くたびれたシャネルジャケットの虚飾の優雅さに身を包んだジャスミンには・・・「欲望という名の電車」のブランチのように、彼女の妄想を受け止めてくれる優しい見知らぬ紳士(実は精神病院の職員)さえいません。行き場ない奈落の底に、たった一人で佇むしかないジャスミンの”うつろ”な表情に、ボクはある種の同調さえ感じてしまい・・・どうしても号泣を抑えることができないのです。


「ブルージャスミン」
原題/Blue Jasmine
2013年/アメリカ
監督、脚本 : ウディ・アレン
出演    : ケイト・ブランシェット、アレック・ボールドウィン、サリー・ホーキンス、アンドリュー・ダイス・クレイ、ボビー・カナヴェイル、ピーター・サースガード、ルイス・C・K、マイケル・スターレサロペ
2014年5月10日より日本劇場公開


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2014/01/31

オーストリア不快映画の次なる刺客(!)ウルリヒ・ザイドル監督による「パラダイス」三部作/その1・・・主人公の自己矛盾を冷ややかに見つめる残酷な視点がエグいの!~「パラダイス:愛/Paradise : Love」~



突然、幸せな家族を襲う理不尽な犯罪を描いた「ファニーゲーム」を始め「ピアニスト」「白いリボン」など代表作の”不快映画”の巨匠(?)ミヒャエル・ハネケ監督、少年を監禁し性的虐待をする男の日常を描いた「ミヒャエル」のマルクス・シュラインツァー監督、娼婦の過酷な環境と信仰を追ったドキュメンタリー映画「Whores' Glory」などで知られるミヒャエル・グラウガー監督など・・・どういうわけかオーストリアには、淡々とした描写でありながら何とも言い表せない”不快感”を醸し出す映画作家が幾人もいるのですが、ウルリヒ・ザイドル監督も”そのひとり”であります。

ウルリヒ・ザイドル監督は1980年代からドキュメンタリー映像作家として活躍、2001年「ドッグ・デイズ」で劇映画デビュー、2007年「インポート/エクスポート」に続いて発表されたのが、本作「パラダイス:三部作」です。「ドッグ・デイズ」「インポート/エクスポート」では、淡々とした脈略もなさそうな描写の積み重ねで、複数の登場人物が平行に進行していく中、次第に物語を紡いでいくという構成でしたが、「パラダイス:三部作」は、ひとりの主人公を追っていくという構成となっています。カンヌ映画祭(パラダイス:愛)、ヴェネチア映画祭(パラダイス:神)、ベルリン映画祭(パラダイス:希望)に出品された「パラダイス:三部作」は、ウルリヒ・ザイドル監督の集大成といえるような作品で、淡々とした描写、広角レンズの固定カメラによるシンメトリーな構図などの”ザイドル調”は相変わらずで、3人の女性が”パラダイス”を求めて裏切られていく姿を描く”三部作”なっているのです。


第1作目の「パラダイス:愛/Paradise : Love」は、中年女性テレサがバケーションで訪れたパラダイスのようなケニアで、現地の男性たちに”愛”を求めながらも、自尊心を失っていくさまを残酷に追った物語。第2作目の「パラダイス:神/Paradise : God」は、第1作目の主人公であるテレサの姉・アンナが信仰によって築いた虚構のパラダイスが、下半身不随の夫と再び同居し始めることで崩れていき、懺悔の鞭が”神”への反逆となる滑稽な物語。第3作目の「パラダイス:希望/Paradise : Hope」は、テレサの娘・メラニーが肥満児を集めたダイエットのためのサマーキャンプで、ロリコンのおじさん指導員に恋をするも、冷たくフラれて”希望”を失うという切ない物語。どれも、主人の女性たちの生々しい欲望が”自己矛盾”や”自己崩壊”を招いていくという”皮肉”を感じさせる”不快映画”であります。特に、第1作目の「パラダイス:愛」から痛感させられた”虚無感”は、ボクの心を深く突き刺したのです。

テレサ(マルガレーテ・ティゼル)は、ダウン症の患者たちのケアをする仕事をしているらしい50歳(ゲゲゲ、同い年!)のシングルマザー・・・ティーンエージャーの娘・メラニーを姉のアンナに預けて、ケニアのビーチリゾートに長期のバケーションに旅立ちます。リゾートに滞在している女友達(インゲ・マックス)は「肌がココナッツの香り」「アソコがでっかい」と、現地の若い男性にメロメロ・・・ただ、バイクを買い与えるなど貢ぎながらも、彼らをバカにしているところもあるのです。現地の男性たちも、彼女のように男漁りに訪れている中年女性を”シュガー・ママ”と侮蔑的に呼んでいるという”どっちもどっち”利用し合う関係。金にモノを言わせて自分の性的な欲望を満たすというのは、日本人のオジサン達がやってきた東南アジアへの買春ツアーと同じこと・・・貨幣価値の格差によって自分の国では誰にも見向きもされない50代の太ったオバサンでも若い男性にチヤホヤされてカラダを求められるのですから、ある意味「パラダイス」なのです。それに・・・アフリカ系の男性には豊満な女性(ブヨブヨのデブの白人女性でも)に性的な魅力を感じる嗜好も、利害関係を作りやすくしているという”皮肉”かもしれません。

テレサがビーチを歩けば、大勢の若い男性が近寄ってきます。彼らの目的はアクセサリーや土産物を買ってもらうだけでなく、彼女に”シュガー・ママ”になってもらうこと・・・最初は断り続けていたテレサも、アクセサリーの売り子のガブリエル(ガブリエル・ムワルーア)の褒め言葉に根気負けしてしまいます。ダンスを教えてもらったり、現地の人しか知らない場所を案内してもらっているうちに親しくなり、早々にレンタルルーム(ラブホテルのようなところ)にしけこむことになるのです。しかし、テレサはセックスの途中で逃げ出してしまいます。年上の太った自分のような白人女性とセックスをしようなんて、貢いでもらうのが目的であることは明らか・・・「愛情のないセックスはしたくない」とテレサは自分のプライドを守るのです。ただ・・・これって、性的欲望に素直になれない自分への”いいわけ”と言えるかもしれません。守るべき”プライド”が、逆に物事の本質を見失わせてしまうこともあるのですから・・・。

リゾート仲間の女友達に、外見ではなく内面を知って愛して欲しいと語るテレサ・・・確かに「恋愛の正論」ではあり、女性として望むシチュエーションであるのですが、現実的に考えてテレサのような太ったオバサンの内面を知ろうとする男性というのは・・・(悲しいことですが)ほぼ”アリエナイ”存在です。自己認識をしないで「恋愛の正論」を求めてしまう・・・これこそが”矛盾”であり、結果的に”崩壊”へと繋がっていく根本的な原因。悲劇的な結果は自業自得としか言えないのであります。そんなテレサの前に現れたのが、強引な誘いをしてこない、ちょっとシャイなムンガ(ピーター・カズンク)という若者・・・”シュガー・ママ”を求めている男たちとムンガは違って、性的なサービスで金をせびることもなく、他人の目を気にせずに街中で手繋ぎデートをして、テレサはムンガに徐々に心を許していくのです。そして、「やる」ためのレンタルルームではなく、彼はテレサを自宅へと招くのあります。

「愛は永遠」と語る純粋なムンガは、女性を扱い方もよく分かっていない様子・・・テレサは、ここぞとばかりにラブメーキングの手ほどきをかってでます。「オバサンだから」という不安は、自分がリードするという優越感で埋め合わされていようです。あっという間に、テレサはムンガの若いカラダに夢中にあってしまいます。眠っている彼のカラダの匂いを嗅いでみたり、股間の写真を撮影してみたり・・・テレサにとっては自分がイニシアティブを持てるムンガは、理想の相手なのかもしれません。誰が見ても不釣り合いな二人の関係ですが・・・愛に飢える先進国(テレサ)と、金を求める後進国(ムンガ)の利害関係の如く、微妙なバランスで成立してしまうように見えます。

ここからネタバレを含みます。


しかし、現実はそんなに甘くはありません。ムンガはテレサを、彼の妹が住んでいるという家に連れて行きます。妹の赤ん坊は病気で治療代が必要なんだと訴えるムンガに、テレサは大金を手渡すしかありません。また、彼のいとこが教えている小学校に連れて行かれ、ここでも子供たちのためという名目で、残りの現金を手渡す羽目になってしまいます。”シュガー・ママ”として金を貢いでいるのではなく、あくまでも人助けなんだと思い込もうとするテレサですが・・・次第にムンガはテレサに対して冷たい態度を取るようになるのです。そして、そのうち連絡しても、ムンガとは会えなくなってしまいます。妹の家に行ってみても、金をせびられた上に、現地の言葉で罵倒されるような始末・・・「ムンガに騙されている」とガブリエルから忠告されても、テレサはムンガを信じることをやめられません。騙されていたことを認めるのは、信じていた自分を覆さなければならないこと・・・しかし、ムンガと妹と名乗っていた女性と赤ん坊が、仲睦まじく海辺で散歩している姿を見て、テレサは気付かされます。妹というのは実は彼の妻で、赤ん坊は彼らの子供だと。ムンガを罵倒して殴るしか、怒りを発散する手段しかありません。

これで、テレサが「もう現地の男は懲り懲り」となれば、映画は終わってしまうのですが・・・ひとり傷心でビーチを歩くテレサの前に、再び現地の若い男が現れます。逆立ちしてみたりしてアピールする姿に、目を細めてしまうテレサ・・・愛を信じて裏切られた彼女は、もう”愛”という幻想は求めていません。現地の男が彼女に何を求めて近寄って来ているかなんて承知のこと・・・「愛している」とか「美しい」とか”まやかしのような言葉”よりも、肉体的に満たされたい自分の欲望を認めることで、テレサは解放されたのです。「何人の白人女とやったの?」と尋ねる自虐的な行為は、もう騙されないという防御壁・・・”心”が傷つかないように自分を守れば守るほど、本当の「愛」からは離れてしまうという矛盾。それでも、ますます肉欲を求めてしまうのは、どうしようもない”淋しさ”故になのかもしれません。テレサの行動に身につまされる人は、決して少なくないと思います。

ケニアとの経済格差により自国(オーストリア)よりも安く若い男と遊べる・・・ということもありますが、自分(ヨーッロッパ白人)とは違う人種であることで、買春行為の後ろめたさも、性的に相手を支配しようとするエゴも感じなくて済むのです。テレサの誕生日には、女友達が現地の男性ストリッパーをプレゼントに用意しています。ストリッパーが彼女達を見ても反応しないことに苛立ち、裸になって必死に誘惑を試みる女友達・・・いつしか、そのなかに加わっていくテレサは、すでに躊躇する自意識さえも失っていっているのです。遂には、ホテルのバーテンダーを自分の部屋に連れ込むテレサ・・・現地の男に金を渡せば(肉体的には)彼女の思い通りになるという”侮蔑意識”が根底にはあります。テレサの言われたままシャワーを浴びるバーテンダーですが、正直嫌々連れ込まれたという感じ・・・「白人の女性にキスしたいでしょ?」「胸触りたいでしょ?」とテレサに誘導的されても、”シュガー・ママ”をビーチで探すような男とは違って、彼はどこにでもいる普通の純粋なケニア人の男性なのです。

ベットにドーンと仰向けで横たわったまま「足先にキスして!」と命令(!)するテレサに従うバーテンダー・・・「もっと上、もっと上」と指図しながら、テレサは自分でドレスをめくって下半身を露出して股間にキスをさせようとするのですが、彼から拒否されてしまいます。テレサの求めていたのは「する」だけの性的なサービスではなかったはずなのに、いつしか、欲望と行為が、すり替わってしまっていたのです。自己矛盾に直面したテレサはひとり嗚咽して涙を流すしかありません。ただ・・・翌朝になれば、ビーチには彼女のような”シュガー・ママ”を探している若いケニア人男性が、沢山待っているのです。

肉体だけの欲望を求め裏切られても、再び、求めて引きずり込まれてしまう・・・蟻地獄のような”パラダイス”なのかもしれません。ふと、考えてみると・・・テレサの痛々しさを上から目線で見下ろしているつもりでいて、いつしか自分自身とテレサを重ね合わせているボクがいるのです。


「パラダイス:愛」
原題/Paradise : Love
2012年/オーストリア
監督、脚本、製作:ウルリヒ・ザイドル
出演      :マルガレーテ・ティゼル、インゲ・マックス、ピーター・カズンク、ガブリエル・ムワルーア、カルロス・ムクターノ、マリア・ホフシュテッター、メラニー・レンツ

2013年10月25日第26回東京国際映画祭にて上映
2014年2月22日より日本劇場公開



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2014/01/22

ハリウッドでは”黒人迫害映画”が目白押しなの!・・・過酷な歴史と理不尽な差別を受ける現実を共感できないと政治的に正しくない?~「大統領の執事の涙/The Butler」「フルートベール駅で/Fruitvale Station」~




「それでも夜は明ける/12 Years a Slave」が、第71回ゴールデングローブ賞ドラマ部門の映画作品賞を受賞しました。ブラット・ピットがプロデューサートして名を連ねるこの作品は、南北戦争後(19世紀半ば)北部で自由黒人として暮らしていた男性が、奴隷として12年間も南部の農場で生きなければならなかったという伝記を原作とした映画・・・イギリス生まれの黒人監督スティーブ・マックィーンによる本作は、ゴールデングローブの監督賞を受賞し、アカデミー賞でも作品賞を初め、監督賞、主演男優賞、助演男優賞でも有力候補です。


ハリウッド映画では、(特に白人の黒人に対する)人種差別/人権迫害を描くことは長年避けられていたところがありましたが(例外として「マンディンゴ」や「ルーツ」ぐらい)・・・ここ数年、黒人迫害を描いた映画が数多く製作されています。過酷な運命に立ち向かっていく姿は、普遍的な感動のヒューマンドラマとして、人種を超えて強く訴えるところがあるのかもしれません。黒人家政婦たちが経験した厳しい現実を描いた「ザ・ヘルプ~心がつなぐストーリー~」、黒人初メジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンの強い差別との戦いを描いた「42~世界を変えた男~」、クエンティン・タランティーノ監督の(歴史的事実には基づかない!)過剰演出による黒人の白人への復讐劇「ジャンゴ 繋がるざる者」など、意識の高いリベラルな白人の映画人にとってつくられた”黒人迫害映画”というのは・・・”政治的に正しい自らの”姿勢を公に訴えているかのようです。



「大統領の執事の涙/The Butler」は、1920年代からアメリカ初の黒人大統領が誕生するまでの現代までを描くという”エピックドラマ”・・・アメリカ現代史および黒人人権運動の歴史と歴代アメリカ大統領の知識がないと、次々と描かれる歴史的な背景を理解することは難しいかもしれません。ヒューマンドラマの”ぬるま湯”な描写に留まらず、悲惨な迫害を容赦なく描いているのは、本作の監督であるリー・ダニエルズ自身が黒人であることも無関係ではないと思えるところもあります。

1920年代にアメリカ南部のコットンプランテーションで生まれたセシル・ゲインズ(フォレスト・ウィスカー)・・・すでに奴隷制度はなくなっていた20世紀でありながら、過酷な労働と白人オーナーへの絶対服従をさせられています。セシルの母(マライア・キャリー)はオーナーの息子に乱暴に手篭めにされているのですが、それに対して一瞬不満な態度した父は、あっけなく射殺されてしまうのです。人種差別者ではありながらも、セシルを不憫に感じたオーナーの妻(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)は、セシルを「ハウス・ニガー」=「家の中で働く黒人使用人」として給仕の仕事を教え込みます。その後ホテルのボーイとして働くようになったセシルは、ホワイトハウスの執事として抜擢されることになるのです。

ここからネタバレを含みます。


アイゼンハワー(ロビン・ウィリアムス)、ケネディ、ジョンソン、ニクソン(ジョン・キューザック)、フォード、カーター、レーガンまで7人の大統領の元、時代の裏舞台を傍観しつつ”執事”として仕えます。葛藤しながらも自我を出すことなく仕えるセシルを、妻グロリア(オプラ・ウィンフリー)は理解し支え続けるのですが、長男ルイス(デヴィット・オイェロウォ)は反抗的・・・白人に仕える父を恥と感じています。白人社会に従順に従うことで中産階級の生活を手に入れた父親、黒人としての誇りを持ち黒人人権運動へ身を投じていく息子の対比が交互に描かれるのは、なんとも皮肉に満ちています。

当時は、まだ公共の場所(レストラン、公衆トイレ、水飲み場、バス席など)は「人種隔離」されていて白人用(White)、黒人用(Coloerd)に分かれていました。ルイスら、若い黒人学生たちは、白人用のバス席やレストラン席に座るという抗議をするのですが、それに対する風当たりはとんでもないもので・・・顔につばを吐かれ、汚い言葉で侮辱されるという迫害の様子を、本作では真っ向から描いていきます。ボクの母は、この時代(1950年代半ば)にアメリカ留学をしていたのですが、このような肌の色による”区別”を当然する社会に衝撃をを受けながらも・・・白人用、黒人用のどちらを自分が使うべきか迷った挙げ句、清潔な白人用を使ったそうです。

レーガン政権時代、ナンシー・レーガン(ジェーン・フォンダ)は、セシルとグロリアをホワイトハウスのディナーに”ゲスト”として招待するのですが、セシルには、自分たち夫婦が”見世物”として招待されたことなど百も承知です。ただ、これこそ差別意識の変化の賜物・・・大統領夫人にとって黒人執事の夫婦をディナーに招待することが、政治的に正しいことになったのですから、意識が進歩したことは確かです。ただ、それがほんの数十年前(1980年代)であったということは、やはり驚くべきことかもしれません。セシルがホワイトハウスの執事の職を辞した後、人権活動家となったルイスの元を訪れてプロテストに参加するところは、親子の和解というだけでなく・・・生まれてからずっと白人社会に押し付けられてきた「黒人」という立場から、セシルが解き放たれたことのような気がしました。アメリカで「黒人」という存在でいることは、精神的にも社会的にも複雑なことであるかということに気付かされたのです。

オバマ大統領が黒人初の大統領として当選後、ホワイトハウスでセシルが大統領と面会するところで本作は終わります。黒人の大統領が誕生したということは、人種隔離の時代から50年で信じ難いほどの社会の進歩なのかも違いありません。アメリカ黒人が歩まされた厳しく長い道のりを考えると重い意味を持つエンディングで思わず胸が締め付けられますが・・・全体的に感傷的なところもあり、やや”黒人観客向け”に偏り過ぎた印象を感じます。オプラ・ウィンフリー(アメリカで最も影響力のあるテレビタレント)など大物黒人セレブたちに加えて、ロビン・ウィリアムス、ジョン・キューザック、ジェーン・フォンダと、リベラルで知られる白人の大御所までも勢揃いした本作でありましたが・・・アカデミー賞の有力候補という前評判が盛り上がっていたにも関わらず、ゴールデングローブ賞もアカデミー賞もノミネート落選になってしまいました。確かにアメリカの歴史を語る上で大切な物語ではありますが、黒人の受けた迫害と人権運動の葛藤というのは、まだまだ普遍的なアメリカの物語としては受け入れられていないということかもしれません。


「フルートベール駅で/Fruitvale Station」は、。警察の人種差別的なプロファイリングにより、射殺された黒人青年のオスカー・グラントの最後の1日(2008年12月31日)を描く、実際に起こった事件を元にした作品です。

このような(特に黒人に対する)警察による暴行、殺害は、アメリカでは驚くほど頻繁に起こっています。ボクがアメリカに住んでいた1990年にも、警察による黒人男性(ロドニー・キング)への不当な暴行事件があり、その報復として”ロスアンゼルス暴動”が起こりました。遠く離れたニューヨークでも暴動を恐れて、戒厳令が出されて外出禁止となったことを覚えています。その後も、似たような事件は繰り返し起こっていることからも「黒人=犯罪者」というプロファイリングは、今でも当然のように行なわれているのです。実際の事件に居合わせた人がスマホで撮影した動画から、本作「フルートベール駅で」は始まることからも分かるように、本作は警察を告発する強い意志によって制作された映画だと言えるでしょう。

ガールフレンド(メロニー・ディアス)と4歳の娘と暮らすオスカー(マイケル・B・ジョーダン)の人生最後の日となった2008年12月31日を、黒人青年として普通の1日として追っていきます。ちょうど1年前、彼は麻薬取引で逮捕されていて、歯母親(オクタヴィア・スペンサー)の訪問を受けています。相変わらず白人男の挑発にのって喧嘩を始める息子を尻目に、母親は胸を締め付けらる思いで、あえて強い言葉で叱咤するのです。家族のためにも地に足をつけてやり直そうとスーパーで働き始めたのですが、遅刻を理由にクビになってしまっていたのです。それでも、元の職場で困っている買い物客がいると、丁寧に手助けをするオスカーでしたが・・・仕事を取り戻すことはできませんでした。再びお金のために麻薬取引の誘惑に負けそうになりますが、改めて真面目に生きることを決心します。仕事を失ったことを正直にガールフレンドに話したところ、最初は彼を責めていた彼女ですが、最後にはオスカーを優しく理解するのです。大晦日はオスカーの母親の誕生日でもあり、家族揃って祝います。ニューイヤーの花火を見に友人達と出掛けるというオスカーに、母親は飲酒運転を心配して地下鉄で行くように諭すのです。

ここからネタバレを含みます。


地下鉄が途中で止まってしまったために、カウントダウンの花火は見逃してしまったオスカー達は、再び地下鉄で帰路に向かいます。そこで、偶然がいくつも重なって悲劇が起こるのです。混雑した地下鉄の中でガールフレンドと分かれて、どこか座れる席がないか離れるオスカーに、スーパーで手助けした買い物客が声をかけます。その呼びかけに反応したのは、1年前に刑務所でオスカーに喧嘩をふっかけてきた白人男・・・喧嘩騒ぎになってしまったために、その直後に停車した「フルートベール駅」で、警察官たちがやってきてしまいます。すぐさま、オスカーと彼の友人らを捕らえる警察官・・・それは、明らかに人種差別的なプロファイリングによるものです。口答えするオスカーに警察官は両手を後ろに回して手錠まで掛けて逮捕すると脅します。それでも、無実を訴え続けて抵抗するオスカーに、警官のひとりが背中から銃を撃ってしまうのです・・・。その後、病院に運ばれますが、オスカーは亡くなってしまいます。そして、彼を撃った警官は殺人罪で逮捕されるものの、判決よりもずっと短い刑期で出てきてしまったのです。

どう考えても理不尽な事件であり、納得のいかない結末であります。ただ、オスカーは、黒人コミュニティーでは”普通”の黒人青年なのかもしれませんが、ボク自身を含め、黒人コミュニティー外で生きている人にとって、共感しやすい自分に近い人物かというわけではありません。確かにオスカーは家族思いでチャーミングに描かれています。しかし、10代で父親になるも結婚せず、麻薬取引で逮捕歴があり、遅刻で仕事をクビなるほどだらしない・・・という人物ではあるのです。もし、地下鉄でオスカーと彼の友人らのグループと同じ車両に乗り合わせたら、ニューヨーク在住時代のボクは多少身構えていたことでしょう。もしくは、別な車両に移動していたかもしれません。これは、明らかに人種や服装によるステレオタイプのプロファイリングです。見た目が”イカツイ”黒人男性だからといって、強盗ではないことぐらい頭では分かっています。ただ、海外で生活する多くの人は、自己防衛のため無意識に行なってしまっていることでもあります。

「普通の青年が遭遇した警察官の差別行為」という制作者側の訴えを、ボクは手放しで受け入れられず・・・口では「人種差別なんてしない」と言いながら、人種によるプロファイリングを無意識にしてしまっているであろう自分って「政治的には正しくないのでは?」という思いに、居心地の悪さを感じてしまうのです。

追伸:「アフリカ系アメリカ人」というのが政治的には正しいとは思いますが・・・「白人」という言い回しが差別に当たらないというダブルスタンードを踏まえて「黒人」という表現に統一しました。


「大統領の執事の涙」
原題/The Butler
2013年/アメリカ
監督 : リー・ダニエルズ
出演 : フォレスト・ウィスカー、オプラ・ウィンフリー、ジョン・キューザック、ジェーン・フォンダ、マライア・キャリー、キューバ・グッディング・Jr、レニー・クラビッツ、ヴァネッサ・レッドグレーヴ、ロビン・ウィリアムス

2014年2月15日より日本劇場公開

「フルートベール駅で」
原題/Fruitvale Station
2013年/アメリカ
監督 : ライアン・クーグラー
制作 : フォレスト・ウィスカー
出演 : マイケル・B・ジョーダン、オクタヴィア・スペンサー、メロニー・ディアス、アーナ・オレイリー、ケヴィン・デュラド、チャド・マイケル・マーレイ、ジョーンズ・ケイン

2014年3月21日より日本劇場公開



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2014/01/13

半世紀ぶりに大島渚監督の幻のドキュメンタリーがテレビ放映・・・自虐的な差別意識が悲痛すぎる”元日本軍在日韓国人”という存在~NNNドキュメント'14「反骨のドキュメンタリスト 大島渚『忘れられた皇軍』という衝撃」~



銀座線が渋谷駅から出てくる高架下あたり・・・今では副都心線の入り口になっている一角に、1970年頃まで白いキモノを着た”傷痍軍人”さんが、募金を集めていたことを覚えているのは、ボク(1963年生まれ)の世代よりも上の人でしょう。

火傷を負っていたり、片腕がなかったり、片足だけだったり、両眼を失っていたり、なんらかの身体的な障害を持っていた人が多く・・・中には両足がなく台車に乗り地べたを這うように移動している人もいて、ボクにはトラウマの光景となっています。母は「気の毒だから見ちゃダメよ」と、同情的とも排除的とも受け取れる言葉をなげかけながら、幼かったボクの目を手のひらで覆ったものです。当時の日本人のどれだけの人が、彼らが元日本軍として戦った韓国人であったことを知っていたかは分かりませんが、戦争が終わって年月が経つにつれて、経済成長を始めた都会の風景に彼らの姿は似つかわしくない”目障りな存在”になっていきました。

大島渚監督に関しての文献を読んだことのある人であるならば「忘れれた皇軍」というドキュメンタリー作品のことは知っているかもしれません。しかし1963年に放映されて以来、特別な上映会以外では一般公開されたこともないし、ビデオやDVDなどのメディア化もされていないので、大島渚監督の作品の中でも観ることが難しい作品のひとつであったのです。松竹を解雇された大島渚監督は「天草四郎時貞」の後、個人プロダクションで「悦楽」を撮るまでの数年間、映画界から干されてしまった不遇の時代がありましたが、その間も精力的にテレビドラマやテレビドキュメンタリーを撮り続けていました。”ドキュメンタリー・韓国三部作”第1作目の「忘れられた皇軍」は、その後の大島渚監督にとってのテーマのひとつとなる”在日韓国人”を扱った重要な作品なのです。

大島渚監督が亡くなられてから、まもなく1年・・・ほぼ半世紀ぶりに「忘れられた皇軍」が、日本テレビにて放映されました。韓国の反日感情はますます強くなり、日本のナショナリズムが再び強まっている印象のある今・・・「日本人たちよ、これで良いのだろうか?」という問いは、常に反政府的な立場で怒りを訴え続けてきた大島渚監督らしく「加害者としての日本」を突きつけてきます。東日本大震災からの復興と、二度目の東京オリンピック開催を控えている日本は、本作が制作された時代背景と重なることがあるかもしれません。東京オリンピック開催を翌年に控えていた1963年・・・まだまだ安保闘争の政治的な活動が盛んでした。今は「反原発」「秘密保護法」などのデモ活動が頻繁に行なわれるように、国民の声と政府の路線が離れ始めているような気がするのです。「日本人たちよ、これで良いのだろうか?」と再び問われるような時勢に、「忘れれた皇軍」を再放映する意味を感じます。

わずか25分ほどの本編に記録されている映像は、衝撃的であり不快の連続です。渋谷駅ハチ公前と思われる街頭で、日本軍として戦った在日韓国人の傷痍軍人らが集まり、日本からも韓国からも、何も補償を与えられていないことを訴えます。しかし、彼らの声に足を止める日本人は多くはありません。日本政府や韓国領事館に陳情しても、それぞれの国が彼らの責任を押し付け合って、救済の糸口さえ見出せないのです。当時、日本は第二次世界大戦から、韓国は朝鮮戦争からの復興を目指していた時代・・・二つの戦争の狭間に取り残されたような彼らの存在は、どちらの国にとっても”厄介者”だったのかもしれません。

街頭演説の後、なけなしの財布をはたいて仲間たちと宴会を始めるのですが・・・いつものように口論となってしまいます。何故、彼らが喧嘩を始めたのかは、はっきりと聞き取れないのですが、カメラは一人の男をクローズアップにしていきます。彼は片手がなく、顔は火傷でただれ、歯も殆ど抜け落ち、両目の眼球もないという凄まじい形相の人物・・・本作では主役としてとらえられています。彼の眼球のない目から涙が流れる様までを、周到に撮影し続けるのです。このシーンは「忘れられた皇軍」の”語りぐさ”のようになっていて、おそらく多くの人の記憶に残るシーンであると思うのですが・・・・ボクは、この直後のシーンに最も衝撃を受けました。

宴会の後、彼は自宅に帰ります。彼には東京空襲で失明した日本人妻がいて、その妻の妹が目の見えない二人の面倒をみているというのです。彼ら夫婦の間に「昭和27年に女の子、昭和29年に男の子が生まれた」とナレーションでは語られるのですが、本作撮影当時10歳前後であろうはずの子供たちの姿はありません。街頭募金でしか生活費を稼ぐことのできない在日韓国人夫と全盲の日本人妻・・・彼らが無事に子供を育てられたのか疑問です。単に子供たちにはカメラを向けなかっただけなのかもしれませんが・・・「生後すぐに施設に預けたのかも、、亡くなってしまったのかも、何も分かりません。自分が生まれた時代に、これほど悲惨な家族が存在していたことに、頭がクラクラするほどボクはショックを受けてしまったのです。

多くの日本人にとっては無関係のように思える元日本軍在日韓国人の問題・・・大島渚監督が訴えるように「日本政府がすべて補償すべきだった」とはボクは思いませんが、韓国政府(韓国国民)と日本政府(日本国民)が、このような問題から目をそらしてしまった”ツケ”が、戦後50年~60年以上経って回ってきたような気もするのです。本作に出てきた人とは別人ですが・・・1992年に、元日本軍の在日韓国人二人が、日本からの補償年金を求めて裁判の申し立てをしたそうです。そして1994年に、彼らの訴えは棄却されて、結局、何も受け取ることはでなかったそうです。ただ、彼らの母国である韓国政府も、傷ついた自国民を日本に押し付け続けたのではないか・・・と感じてしまうところもあります。

本作について、大島渚監督の後日談を読んだことがあるのですが・・・公で語ることができないほど、もっとドス黒いものがあったそうです。ただ、撮影中に監督が彼らから、しばしば聞いた言葉というのが、ボクには本作の映像以上に心に突き刺さり忘れることができません。

「補償がもらえたら、こんな仲間と二度と会うもんか!」

最も悲惨な差別というのは、差別されている者同士がお互いを嫌悪して、差別し合うことではないでしょうか?そういう自虐的な差別は、自分に対しての「底なしの劣等感」と、他者に対しての「とめどない敵対意識」を生み出して、虚言癖や被害妄想など精神を腐らせてしまうように思えるのです。

「忘れられた皇軍」
1963年/日本
監督/脚本 : 大島渚
語り手   : 小松方正
1963年8月16日「ドキュメント劇場」にて放映
2014年1月13日「NNNドキュメント'14」にて放映

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2014/01/07

【悲報】ダリル・ハンナのさらなる劣化!・・・・・作品の質も”堕ち”てしまった元(?)ハリウッドスター女優の「どうでもいい映画」~「マザー/Mother(Social Nightmare)」~



1980年代に活躍したハリウッド若手女優の多くは、今では”脇役”かB級作品(またはテレビ映画)でしか、その姿を見ることもなくなってしまったことも少なくありません。

青春映画に出演した”ブラット・パック/Brat Pack”と呼ばれた若手ハリウッド俳優の中でも、最も成功したデミ・ムーア(1962年生まれ)・・・最近では、アシュトン.カッチャーとの離婚トラブルの報道での、痛々しく劣化した姿しか記憶にありません。”不思議ちゃん”系のウィノナ・ライダー(1971年生まれ)は、万引き騒動以来奇行ばかり報道されていましたが、久々の話題作「ブラック・スワン」では、嫉妬深い年増の元プリマドンナ役という、落ちぶれたキャリアとシンクロしてしまう脇役でありました。ただ、痛いネタでもゴシップ誌を騒がすのは”ハリウッドスター”という証拠・・・完全に表舞台から姿を消してしまったり、脇役どころか”ちょい役”のオバチャンでしか見かけなくなったり、ハリウッドスターであったことさえも忘れられるよりは”マシ”なのかもしれません。

1980年代に登場した女優の中でも、ダリル・ハンナ(1960年生まれ)は、ボクにとって印象強いひとりです。1984年に公開された「スプラッシュ」で演じた人魚役は、モデル体型でブロンドという圧倒的な美人女優でありながら、天然系の可愛らしい彼女の当り役・・・また「シラノ・ド・ベルジュラック」をベースにした1987年公開の「愛しのロクサーヌ」での、厭味のない美しさが際立っていました。J・F・ケネディ・ジュニアと結婚を1990年代初めに噂されていたけれど、母親のジャクリーン・オナシス・ケネディに猛反対されて(ケネディ元大統領が浮き名を流したマリリン・モンローを思い起こさせるブロンドが嫌だったとか)ゴールインすることはありませんでした。その後、彼女のキャリアも下降線・・・テレビ映画やB級作品ばかりになってしまいました。ただ、2003年公開のクエンティン・タランティーノ監督作品「キル・ビル Vol.1」でのエル・ドライバー役で第一線に復活(?)・・・ただ、微妙な老け具合には、少なからずショックを受けたものでした。シーシェパードの支援などの環境活動家としても知られていて、元ハリウッドスターにありがちな変な方向に向かってしまっている気もしてしまいます。

ここからネタバレを含ます。


先日アメリカのアマゾンでDVDを物色していた際に、久々にダリル・ハンナ主演作品を発見(?)したのですが、作品の質の低さは笑い話にならないほどの酷さでありました。元々、テレビ映画として製作された作品で、オリジナルのタイトルは「Social Nightmare/ソーシャル・ナイトメア」・・・何故か、DVD/Blu-layリリース時のタイトルは「Mother/マザー」と変更されています。「自分の子供を守るためにぶち切れる母親役?」などとサイコホラーを期待したら、そこまで吹っ切れておらず・・・マニアが好きそうな”ギミック”も、驚愕の”どんでん返し”もないという中途半端な作品でした。テレビ放映の宣伝ポスターは、いかにも”ティーン向け”テレビ映画という印象ですが、DVDリリースの宣伝ポスターでは恐ろしい形相のダリル・ハンナのドアップになっています。販売側の判断で、まだまだネームバリュー”だけ”はあるダリル・ハンナをメイン(主演?)として宣伝したかったのかもしれませんが・・・「マザー」というタイトルとポスターから安易に推測できるとおりのストレートなオチなのだから、ネタバレ確実の変更なのであります。


スーザン(ダリル・ハンナ)は郊外の高級住宅地に暮らすシングルマザー(特に仕事をしていないようなのに、お金持ちそう!)。娘のキャサリン(クリスティン・プラウト)は、奨学金で大学への進学を考えている成績優秀な女子高校生・・・友人も多く楽しい学校生活を送っていたのですが、最近インターネットでキャサリンの友人らの悪口や秘密が暴露されるということが起こり始めます。「誰かにハッキングされた」と訴えるキャサリンですが、周辺の友人たちは彼女を責めるのです。キャサリンと同じ大学の奨学金を希望している親友の女友達(クロエ・ブリッジス)、黒人のボーイフレンド(ブランドン・スミス)、ゲイを隠してきた仲の良かった男友達・・・すべての友人の信用を失いつつも、キャサリンを信じて支え続けるのは母親のスーザンだけであります。しかし考えてみれば、自宅のパソコンにアクセス出来るのは一緒に暮らす母親のスーザンしかいないわけで、第三者を疑う方が不自然だと思うのですが・・・当事者のキャサリンは、プロのハッカーを雇って犯人を見つけようとしたり、疑惑を周辺に向けることで、ますます孤立していってしまうのであります。


キャサリンの行きたい大学に進学するためには家を出るしかありません。しかし、母親のスーザンはキャサリンが地元で進学することを望んでいます。娘が家から離れてしまうことを阻止するために、母親のスーザンがインターネットの書き込みや投稿をしていたことが判明するのですが・・・母親の娘に対する異常な独占欲というものをキチンと描いていないので、モチベーションのネタばらしとしては説得力がありません。母親スーザンが犯人だと分かったキャサリンの元を訪ねてきた親友の女の友達に襲いかかる母親スーザン・・・こっからが修羅場と思ったら、気が抜けるほどあっさり警察がやってきて逮捕されてしまいます。もっとぶっ飛んだサイコな展開であったならば、もっとダリル・ハンナが往年のベティ・デイヴィスのような捨て身の怪演をしていたなら・・・「母親と娘の確執もの」として、ボクのような偏った嗜好のファンには受けたかもしれません。インパクトがあったのはDVDリリースの宣伝ポスターだけで、マニアックに面白がるようなギミックも一切なく「おキャンプ映画」にさえなりきれていない・・・本当に「どうでもいい映画」でありました。


ボトックス注射のやり過ぎなのか、ヒアルロン酸注入し過ぎなのか、アンチエージング整形手術を繰り返した女性にありがちな妙に腫れぼったい顔と唇(!)のダリル・ハンナの”お顔”のインパクトだけは「大」・・・それも30年前に「スプラッシュ」でデビューした頃と変わらないヘアスタイルとイメージのままというところが、”劣化”度合いをさらに強調させてしまっているのです。女性も年齢と共に髪の毛が細く薄くなってしまうのに、何故かロングヘアの女性はヘアスタイルを変えません・・・ボリューム感の乏しいロングヘアほど、老化を感じさせてしまうのに!ある意味、体型が崩れて、ただの中年おばさんになってしまった方が、若いときの美貌とあっさり決別できたりするのかもしれません。そこそこの体型維持してしまうと、若作りが痛々しい年齢になっているのにも関わらず、いつまでも全盛期のイメージにしがみついてしまうようで(ハリウッド女優に限ったことではありませんが)・・・ハリウッド男優は「頭が禿げてもセクシー」「デブになっても主役」「若い女優さんと恋愛映画」であることを考えると、性差による差別は年齢を重ねるに連れて増していくということなのかもしれません。


「マザー」
原題/Mother
放映時タイトル/Social Nightmare
2013年/アメリカ
監督 : マーク・クォッド
出演 : ダリル・ハンナ、クリスティン・プラウト、クロエ・ブリッジス、ブランドン・スミス
日本劇場未公開


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2013/12/18

”リアルワールド=現実”の歳月は残酷なもの・・・二匹目のドジョウ狙いの残念な続編!?~「キック・アス ジャスティス・フォーエバー」~



ある映画がヒットすると続編が製作されることはよくあること・・・ただ、多くの続編は第1作目を超えることなく、二匹目のドジョウ狙いの残念な続編ということになってしまうこともあります。3年前に公開された「キック・アス」は、スーパーヒーローに憧れるオタク少年が、試練を乗り越えて成長するという”王道”のストーリー展開でありながら、パートナーとして一緒に戦う11歳の少女”ヒットガール”がメチャクチャ強くて、悪者をバタバタぶっ倒すという斬新な一作でありました。ヒットガールを演じたクロエ・グレース・モレッツは、この作品で大ブレイクし、子役からティーン女優へと成長しました。

ここからネタバレを含みます。


「キック・アス」の続編となる「キック・アス ジャスティス・フォーエバー/Kick-Ass 2」は、原作コミック(ボクは未読ですが)では、第1作の直後の物語として描かれているらしいのですが、映画では、撮影期間のギャップと同じ4年後の物語となっています。クロエ・グレース・モレッツを始め、キックアス役のアーロン・テイラー=ジョンソンや、敵役を演じたクリストファー・ミンツ=ブラッセらの若い出演者たちにとって、この4年という歳月はある意味、残酷な時の流れでありまして・・・第1作目の大きな魅力であった”お子様”感を完全に失わせてしまうものだったのです。また、前作では過剰なまでのスプラッター描写が見物でしたが、アメリカでは非難も多かったようで、続編である本作では、かなり控え気味・・・そのため、単にキャラクター設定をなぞっただけの、凡庸なコミックヒーローものになってしまったように感じます。

デイヴ=キックアスは、前作で出会った恋人と同棲していたり、鍛えてマッチョになっていて、童貞のオタクキャラを脱皮して、確実に”オトナ”になっています。再びキックアスとなってコスプレのヒーロー集団に参加することなるのです。この「ジャスティス・フォーエヴァー」という集団でリーダー的な存在が、ジム・キャリー演じるカーネルというキャラクターで、明らかに前作のビッグダディの立ち位置を引き継いでいる役柄・・・そして、前作のビッグダディ同様に彼は惨殺されます。特殊メイクでを変形させている上に、マスクをしっぱなしなので、ジム・キャリーとはすぐに気付かないほどの怪演・・・ただ、この手の役柄を演じるには、ジム・キャリーが少々年取ったと思ってしまったのはボクだけでしょうか?さらに本作ではキックアス君の父親も殺されてしまうのですが、戦わなければならないモチベーションを上げるために、そこまで悲惨に追い込む必要ってあったのかは疑問に感じたところです。

本作では、前作の悪者のマフィアのボスの息子クリス=レッド・ミストが、ザ・マザーファッカー(悪そうなネーミングとしては小学生レベルな気がします)となり”悪者集団”を作って対抗してくるのですが、ヒーロー集団VS.悪者集団の戦いという”設定”ありきな展開・・・とは言っても、ザ・マザーファッカーというキャラの悪役としてのカリスマがなさ過ぎということもあるのでしょう。本作では髭面になって”ヒール役”っぷりをアピールしてみても、単に小汚くしか見えません。

ミンディ=ヒットガールは15歳になり、普通の高校生として女子らしい悩みも抱えるお年頃・・・派手でセクシーなイケイケの女の子グループにイジメられて、リベンジで大人っぽく大変身してみたりします。このあたりのエピソードは、アメリカのティーン向けのテレビドラマや映画で腐るほど描かれている展開・・・幼いときから人間兵器として訓練されてきたヒットガールも随分と俗っぽくなったもんです。勿論、かつてのパートナーであったキックアス君と再び組んで、ザ・マザーファッカー率いる悪の集団と戦ったり、マザーロシアという巨大な怪力ロシア女というライバルが登場するとかは、お約束の展開であります。


ヒットガールの魅力は11歳の子供(ガキ)が、大人たちをバタバタと倒していったこと・・・クロエ・グレース・モレッツが”子役”から成長するのは当然のことなのですが、ヒットガールというキャラクターの根本的な要素を、演じる役者の年齢に一致しなければいけなかったことは、続編として失敗作(?)となることを運命づけられていたのかもしれません。ただ、続編を製作するために、現在の映画製作のシステムでは数年経ってしまうのは当たり前・・・仕方ないことといってしまえば、そうなのですが。

前作では”マフィア”という”リアルワールド=現実”の悪者の存在が、ある意味、悪ふざけのようなコスプレヒーローという存在を際立たせていました。ヒットガールのコスプレにしても、カツラの安っぽかったり、マスクが大き過ぎて微妙にズレていたり・・・コスプレの完成度の低さの”お子様”感が、ボクにとってはまさに”ツボ”だったのでした。誰も彼もがコスプレであることが前提になってしまった本作では、コスプレのコミックヒーローものに対する皮肉も薄らいでしまったのです。

キックアスシリーズは、3部作で完結と原作者のマーク・ミラーが明言していて、すでに「キックアス3」となる映画の続々編の企画もあるらしいのですが・・・原作者がわざわざ「完結」と言い切るのには、どうやら登場人物がみんな死ぬという衝撃的なもの。コスプレのヒーローごっこの結末は必ずしもハッピーエンドではないということを表現しようということです。ただ、出演する役者たちは年々年を取ってしまうわけで・・・キックアスシリーズそのものが、まさに”リアルワールド=現実”の厳しい年月の流れに晒されていることは、確かなのかもしれません。


「キック・アス ジャスティス・フォーエバー」
原題/Kick-Ass 2
2013年/アメリカ、イギリス
監督&脚本: ジェフ・ワドロウ
出演   : クロエ・グレース・モレッツ、アーロン・テイラー=ジョンソン、クリストファー・ミンツ=ブラッセ、ジム・キャリー
2014年2月22日日本劇場公開



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