2013/08/27

ジョーン・クロフォードの過剰演技とウィリアム・キャッスルの悪趣味演出のコラボレーション・・・母と娘の確執がエグい”サイコ・ビッディ”(Psycho-biddy)の金字塔!?~「血だらけの惨劇/Strait-Jackest」~


ジョーン・クロフォードという女優にボクが興味を持ったのは、1981年にアメリカで公開された「愛と憎しみの伝説/Mommie Dearest」というフェイ・ダナウェイがジョーン・クロフォードを演じた映画でした。養女によって暴露された継母の私生活は、彼女の50年近い女優としての栄光を打ち砕いてしまうほど致命的でありました。エイドリアンによる肩パッドの入った衣装と太い眉と真っ赤な口紅のメイクが印象的なハリウッドスター女優のひとりでだという程度の知識しかなかったボクのようなリアルタイムで彼女を知らないファンにとっては、ある種のカルト的なイメージを永遠に植えつけることとなったのです。

1962年に公開された「何がジェーンに起ったか?」の大ヒット以降、往年のベテラン女優が醜悪な老女役を演じる「サイコ・ビディ/Psycho-biddy」と呼ばれる一連のサイコホラー作品が作られるようになるのですが・・・「血だらけの惨劇」は、上映館の座席に電気ショックの装置を取り付けたり、ガイコツの人形を浮かばせたり、エンディングが怖くて観れなかったら入場料払い戻しなどなど、子供騙しのような”仕掛け”を売り物にしてヒット作を生んできたギミック映画の帝王と呼ばれていたウィリアム・キャッスル監督が、満を持してA級スターであるジョーン・クロフォードを主演に迎えて製作した意欲作であります。ジョーン・クロフォードは「何がジェーンに起ったか?」のロバート・アルドリッチ監督による「ふるえて眠れ」への出演をベティ・デイヴィスと共にオファーされていたそうなのですが「もうベティとの共演は懲り懲り」と断り・・・「不意打ち」の出演オファーも「もう閉じ込められる役はもうやりたくない」と蹴ったそうです。結局「ふるえて眠れ」と「不意打ち」のどちらも、ジョーン.クロフォードの代わりにオリヴィア・デ・ハヴィランドがキャスティングされました。

ジョーン・クロフォードが、これらの「サイコ・ビッディ」への出演オファーを蹴ってまで、この「血だらけの惨劇」の出演を決めた理由として・・・B級映画監督のウィリアム・キャッスルが、ジョーン・クロフォードを「スター女優」として特別待遇してまで出演を懇願したということがあるのかもしれません。彼女専用の楽屋には、バーボンとキャビアを常に用意させ、専属のコスチューム、専属のアクセサリー、専属のヘアメイクは勿論のこと、カメラマン、脚本、演出、配役まで口を挟むことを許されていたそうです。実際、娘役は元々セクシーな若手女優が演じるはずだったのですが、ジョーン・クロフォードの意向で、過去に共演したことのある地味なダイアン・ベイカーに変更されています。また、医者を演じたミッチェル・コックスは、彼女が副社長をしていた”ペプシ・コーラ”の重役のひとりの素人さん・・・彼の要望に応えるために、彼女の口添えでキャスティングされました。さらに、彼女が撮影現場に到着する時には、すべての出演者と撮影スタッフがお迎えしなければならなかったり、すでに彼女の肌の張りを保つために、撮影セットは常に凍えるほど低い温度に設定されていたそうです。

常にヒッチコックを意識していたウィリアム・キャッスル監督は「サイコ」の原作者であったロバート・ブロックを脚本に起用します。それでも”ウィリアム・キャッスル”は”ウィリアム・キャッスル”・・・子供騙しの悪趣味な演出には変わりなく、ジョーン・クロフォードの熱の入った過剰な演技と相まって、本作は一連の「サイコ・ビッディ」作品の中でも、低俗さが際立つ”素晴らしい”怪作となっているのであります!ちなみに原題の「Strait-Jackest」というのは、手の自由がない「拘束服」のこと・・・今では、テロリストが人質の移送ぐらい(!?)でしか使われない非人道的な代物です。


今から20年前、ルーシー(ジョーン・クロフォード)は、浮気して寝入っていた年下の夫フランク(リー・メジャース)と浮気相手の元カノを「斧」で首を切り落として殺害してしまいます。その一部始終を、幼い娘のキャロルは目撃してしまっていたのです。状況的には明らかな”意図”をもった”殺人にか思えないんだけど・・・浮気現場を目撃して気が狂って殺人を犯したということになり、ルーシーは精神病院に収監されることになるのです。この事件を起こしたとき、映画の中での設定ではルーシーは「29歳」・・・それを60歳のジョーン・クロフォードが演じているんですから、かなり無理があります。ジョーン・クロフォードのトレードマークの髪型、太い眉、大きな唇に、派手なプリントのドレスとジャラジャラと付けたイカニモ安っぽいバングル・・・どう見ても”場末の女”にしか見えません。これって・・・ジョーン・クロフォード自身が女優としての全盛期(1930年代)に演じていた男を手玉に取って成り上がっていくという女性像の”パロディ”のようでさえあります。

キャロル(ダイアン・ベイカー)はルーシーの兄夫婦(リーフ・エリクソン、ロチェル・ハドソン)引き取られて、田舎の農場で育てられました。地元の名士で金持ちであるフィールド家の息子マイケル(アンソニー・ヘイズ)と、結婚を前提に付き合う若い女性に成長しています。そして、20年間の精神病院での治療を終え、ルーシーは兄夫婦の農園に戻ってくることになっているのです。20年ぶりに再会する母と娘・・・ルーシーは白髪まじりで地味なダークグレーのアンサンブルに身を包む年相応(設定では49歳ぐらい)となっています。上品な初老の女性になったルーシーは、事件前と同じ女性とは思えないほど・・・ルーシーからは事件のトラウマからは完全に抜け出していない様子もうかがえます。彫刻家となったキャロルの工房で彫刻ナイフや、事件の際に身につけていたジャラジャラ音のなるバングルに、異様な反応をしたり、殺した旦那と元カノの生首が枕元に現れる(!)悪夢にもうなされいてしまっているのですから・・・。

キャロルが、精神病院から帰宅した日のうちに、婚約者であるマイケルを紹介しようとするというのも、いくらなんでも配慮に欠けていると思うのですが・・・案の定、ルーシーはマイケルとは会わずに姿を消してしまいます。洒落っ気もないからマイケルに会いたくないんだろうと勝手に察したキャロルは、翌日、ルーシーを街に連れ出して、ワードローブ一式と、美容室でカツラを奨めるのですが・・・コーディネートしたスタイルが、殺人事件を起こした夜と殆ど同じというのが、まるで忘れたい過去を蒸し返してしまいそうで・・・かなりヤバいです。20年前と殆ど変わらない姿となったルーシーは、精神病院で過ごした20年間の時間を埋め合わせてしまったかのように、いきなり場末のズベ公に豹変・・・娘の婚約者のマイケルに色仕掛けで迫るという、痛々しさを見せつけます。

ルーシーを20年間診ていた精神科の医者(ミッチェル・コックス)が、いきなり農場を訪ねてきます。平常心を装うとするルーシーですが、明らかに不可解な行動や発言を繰り返し・・・「毎日、何をして過ごしているの?」と尋ねられて「あみもの」とポツリと返答するジョーン・クロフォードの演技は、上手い下手を超越した「怪演」であります。医者はルーシーが再び狂い始めているのではないかと疑問を持ち始めます。そこでキャロルと話をしようと、農園の納屋に入るのですが・・・いきなり斧を持った”何者”かに首を切られて殺されてしまうのです!その後、医者が乗ってきた車に気付いた農園の手伝いのレオ(ジョージ・ケネディ)も、首を切られてあっさりと殺されてしまいます。

そんな惨劇が起こっているにも関わらず、キャロル、ルーシー、兄夫婦の4人は、婚約者マイケルの実家に訪問する予定となっています。ルーシーは、まだ精神的に不安定だからと躊躇するのですが・・・キャロルが強引な求めに応じてルーシーは渋々同行させられてしまうのです。地味な年相応なダークグレーのアンサンブルの方が、娘の婚約者の両親に会うのには適していると思うのですが・・・ルーシーは派手なプリントのドレス、昔の髪型のカツラにジャラジャラとしたバングルという”場末の女”風のファッションに再び身を包んでいきます。実は婚約というのは本人同士の話だけで・・・マイケルの両親(特に母親)はキャロルとの結婚を許してはいません。勿論、理由は母親であるルーシーの過去・・・持病のために静養所に20年間いたという話を胡散臭く感じていたのです。

過去を問いただされてルーシーは真実を自ら暴露してしまいます・・・本当は20年間精神病院にたことを。そして、母親として娘キャロルの幸せを阻むものは許さないと震える声で訴えるのです!この場面でのジョーン・クロフォードの演技は大袈裟ではありますが、精神的に崩壊する瀬戸際であっても、娘の幸せを望む母親の愛情を強く心に訴えてくる名(迷?)演技なのであります。取り乱して婚約者の実家を飛び出すルーシー。その夜はお開きとなり、キャロルや兄夫婦は帰路につくのですが、ルーシーは行方知らずのまま・・・マイケルの実家の寝室では彼の父親が、寝室のクローゼットの中で首を斧で切られて殺害されてしまいます。

ここから本作のネタバレを含みます。


マイケルの母親までをも殺そうとする殺人者は、キャロルだったのでした。謝罪のために再びマイケルの実家を訪れたルーシーによって、ルーシーと同じドレスとカツラを付けた上に、顔にはルーシーの顔をかたどったゴム製のお面を付けていたのです。彫刻家であるキャロルは、母親の頭像からお面の型を取っていました。自分とマイケルの結婚を阻む者を消すために、夫殺しという過去を持った母親が再び狂ったことにして、殺人罪の罪をかぶせようとしていたのです。母親を憎みながらも、愛情に飢えていたキャロルは、遂に発狂してしまいます。歴史は繰り返す・・・とでも言うのでしょうか?

実はこの場面・・・「愛してる!」「憎んでる!」と繰り返しながら、母親のお面を握る潰すという熱演で終わるはずだったのですが、ジョーン・クロフォードが自分以外の人物のクライマックスを許すわけはありません。彼女は撮影現場で勝手に、玄関の外で柱にしがみつきながら泣き崩れる・・・という劇的なシーンを付け加えさせたのです。最後は、兄に事件の経緯を説明し、キャロルが使ったトリックを解説するほど、正気を取り戻したルーシーの姿があります。夫殺しの母親ルーシーとと同じように精神病院に収監されることになったキャロル・・・ただ、ルーシーにしてもキャロルにしても、自分の感情や利益のために犯した殺人なんだから、本来は罪に問われるべきなのですが、「狂気の沙汰」で片付けてしまうところは、精神の病気が認識され始めた1960年代という時代だったのかもしれません。

「娘は今、私を必要としている」とルーシーが語って、キャロルを見守ることを仄めかして終わる本作・・・母親の愛情の深さを印象づけるという”お仕着せがましさ”というのは、その後、私生活での鬼のような母親っぷりを暴露されたことを考えると、正直、複雑な気持ちにさせられます。「何がジェーンに起ったか?」の成功によって、気の狂った大袈裟な演技で”あれば、あるほど”観客にウケるという流行が生んでしまった「サイコ・ビッディ」の金字塔とも言える「血だらけの惨劇」。ジョーン・クロフォードの”スター女優”としての強かさを見せつけられ・・・ボクが心から愛して止まない作品のひとつなのです。


「血だらけの惨劇」
原題/Strait-Jackest
1964年/アメリカ
監督 : ウィリアム・キャッスル
脚本 : ロバート・ブロック
出演 : ジョーン・クロフォード、ダイアン・ベイカー、リーフ・エリクソン、ロチェル・ハドソン、アンソニー・ヘイズ、ハワード・セント・ジョン、イーディス・アットウォーター、ミッチェル・コックス、ジョージ・ケネディ、リー・メジャース
1964年日本劇場公開


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2013/07/27

過激なフェミニスト、カトリーヌ・ブレイヤ(Catherine Breillat)監督の”トラウマ”三昧・・・エッチに興味あり過ぎの”ロリータ”に萎えるの!~「ヴァージン・スピリト/36 Filette」「本当に若い娘/Une Vraie Jeune Fille」「処女/À ma sœur!」~

ボクが、初めて観たカトリーヌ・ブレイヤ監督の作品は「ヴァージン・スピリト」でした。ニューヨークのリンカーンセンターの小さな映画館だったと記憶しています。すでに上映が始まってからかなり数ヶ月が経っていたのですが・・・『フレンチ版「ロリータ」』という宣伝により、外国語映画としては異例のロングヒットをしていました。特に予備知識もなく観たのですが・・・「処女喪失のどうでもいい話」という印象で、正直、期待外れだったという記憶があります。しかし、その後「処女」を観たときに「うん???このイヤ~な感じ・・・記憶があるぞ」と「ヴァージン・スピリト」のことを思い出したのです。これぞ、映画監督の作家性なのでしょう。カトリーヌ・ブレイヤ監督の作品は、ボクにとって本気でイヤ~なトラウマを呼び起こすのであります。

各作品のエンディングを含むネタバレあります。


「ヴァージン・スピリト」は、家族と避暑地で過ごしている処女喪失願望のある14歳の少女リリ(デルフィーヌ・ザントゥ)が、中年男モリース(エチエンヌ・シコ)と出会い、彼を追いかけ回すという話なのですが・・・「少女らしさとか」いうロリコンが喜ぶような作品ではなく、苦虫をかみつぶすようなイヤ~な作品なのです。「ロリータ」とは逆に少女が中年男を追いかけるわけですが、中年男が少女を子供扱いするのは当然と言えば当然のこと・・・これも、この年代の少女と女の狭間の思春期の”好奇心”と”不可解な行動”ということなのかもしれませんが、よりにもよって”感は否めません。さらに、リリを演じている女優さんが14歳のわりには(実際に役柄と同じ14歳だったらしい)妙にムチムチのおばさん体型で、ずっと仏頂面(まぁ、これは役柄なんだけど)で14歳らしい「可愛らしさ」とはほど遠い「不潔さ」を感じさせて・・・いろんな意味で、萎えさせられてしまうのです。

追い回されているうちに中年男もスケベ心を誘われて(?)少女と女友達の寝室で「ベットイン」となるのですが・・・実際に行為に及ぶと勃つべきモノが勃たちません。少女は必死に中年男のモノをフェラチオするのですが、結局モノは勃たないという、なんとも男にとって気まずい展開・・・「私のせいじゃないよね?」と懇願する少女から、中年男は逃げるように寝室を出てしまいます。残された少女はひとりで号泣してしまうのです。その上、中年男のエロい女友達からさえも罵倒されて、部屋を追い出されるという始末なのだから、少女にとっては悲痛な限りであります。しかし、こうなったのも自業自得としか言えない少女に対して、観る者の同情心さえ感じさせないドライな描き方に、カトリーヌ・ブレイヤ監督の突き抜けた信念を感じさせることも確かなのです。

中年男と処女喪失することができなかった少女は、以前から彼女に気のある近所のイケてない少年を誘って、あっさりと処女喪失を達成します。初めての男性になったと知った少年が「ボクを愛しているの?」と尋ねると、鼻で笑ってバカにする少女・・・ただ、処女を失ったことには満足なようで、少女の満面の笑みで映画は終わります。

どれほど、したたかに強がってみても、結局は自分の中での空回りという思春期の”惨め”極まりない状況を冷たく描いているだけでなく、中年男の性的不能、中年男の女友達のおばさんっぷり、奇しくも初体験の相手となる少女と同世代の少年の浅はかさなど・・・描かれている登場人物の誰も良く描いていないという”悪意”に満ちた作品として、トラウマになりそうな魅力に惹かれている自分がいたりします。


「ヴァージン・スピリト」を遡ること12年前の1976年(撮影は1975年?)・・・カトリーヌ・ブレイヤ監督のデビュー作「本当に若い娘」は製作されていたのですが、本国フランスでも初公開されたのは製作から23年後でありました。「本当に若い娘」の製作前後、美少女写真家で知られるデヴィット・ハミルトン監督の「ビリティス」の脚本に、カトリーヌ・ブレイヤ監督は関わっています。もしかすると、当時のプロデューサーは「ヴィリティス」のような世界観を期待していたのかもしれません。しかし本作の本質は「性器モロ出しのエグい表現」・・・それを受け入れられるようになるのに、23年という年月が必要だったと言えるのかもしれません。

「本当に若い娘」も、また処女喪失にまつわる話です。というか・・・本作だけでなく、「ヴィリティス」も「ヴァージン・スピリト」も「処女」も、すべて少女の処女喪失の物語(それも夏休みの避暑地や実家!)なのであります。同じテーマを同じような少女で描き続ける・・・これは、ある意味、主人公の少女たちは実は同じひとりの少女=カトリーヌ・ブレイヤ監督自身ではないかと思えてしまうほどです。

舞台となるのは1963年(これはカトリーヌ・ブレイヤ監督が、ちょうど14~5歳のとき!)・・・14歳の少女アリス(シャーロッテ・アレクサンドラ)は、夏休みなると寄宿学校からランド地方に暮らす両親の元に里帰りします。帰宅した夜には、何故かベットで寝ている時に嘔吐してしまったり(まるでエクソシストみたいに!)と、精神的には不安定のようなのですが・・・実は、このアリスは、とんでもない少女なのであります。食卓でわざとスプーンを落としたと思ったら、テーブルの下でスプーンを自分の性器に入れたリ出したりして遊び始めるのです!また、幼い頃と変わらずにアリスを可愛がる父親に寄り添いながら、父親のズボンからポロリと出たペニスを想像したりしています。とにかく、なんだかんだで自分の性器をいじくってばかりいる少女で、何故か下着を足首まで脱いで歩いてみたりと「本当に若い娘」というよりも「本当にバカな娘」としか思えません。

ランド地方は森林地帯で、父親は小さな製材会社を経営しているのですが、その製材工場でアリスはジム(ハイラム・ケラー)という青年に一目惚れするのです。しかし、まだ幼い過ぎるから(もちろん処女だから!)とか、付き合っている恋人がいるからなどの理由で、ジムに無視され続けてしまいます。そこで・・・アリスの「妄想」とも「現実」ともハッキリしない性的なイメージが交錯していきます。ノーパンで自転車のサドルで性器をこすって誘ってみたり、ジムの通る道の真ん中で下着を脱いで両足を広げて性器を晒してみたり、お尻にニワトリの羽を突っ込んでニワトリの真似をして誘惑してみたり・・・仕舞いには、真っ裸で有刺鉄線で大の字に縛られているアリスの性器に、ジムがミミズを入れて責めるという、トンチンカンな妄想まで描かれるのです。少女っぽい感受性でありながら、意識は女性的な生理と自身の肉体へ向かっている・・・カトリーヌ・ブレイヤ監督の作品に共通するナルシシズムを感じさせる独特の女性像です。

自分に振り向かなかったジムが、いざ体を求めてくると「ピルがないと妊娠する」と言い訳して、エッチを拒むアリス・・・妄想するほど彼の肉体を求めているにもかかわらず、実際に行動となると躊躇してしまうのは「まだまだ少女だから弱気」なのでしょうか?それとも「すでにセックスによって男をコントロールする術を知っている女」なのでしょうか?ただ、エッチを”おあずけ”状態にしておいて、ジムに自分の寝室に来るように誘ったことが仇なります。父親が畑に仕掛けていた罠のライフルによって、ジムはあっさりと命を落とすことになるのです。勿論、恋人がいながら、アリスの誘いにのってしまったジムに過失がないわけではありませんが・・・アリスがジムを破滅に導いたと言えるのかもしれません。ジムが死んだことを知ったアリスの睨めつけるような表情のクロースアップで映画は終わります。

「本当に若い娘」は、極端に過激な性描写であることは確かです。日本では完全無修正版を観ることができないので、本作のトラウマ的なエグさを伝えることは難しいのですが・・・少女の性器の生々しい過ぎる”ドアップ”は、エロティズム的な興味を削ぐような即物的な扱いになっています。自らを性的存在として陶酔しながらも、男性の性的興味を拒絶するような・・・ロリコンさえも萎えさせる”悪意”を感じさせます。デビュー作である本作は、その後のカトリーヌ・ブレイヤ監督のすべての作品を予感させる一作なのです。


カトリーヌ・ブレイヤ監督の処女喪失モノ(?)として「処女」は、集大成的な作品であるかもしれません。本作で描かれるのは、避暑地に家族と来ている15歳の美人の姉エレナ(ロキサーヌ・メスキダ)と、13歳の太っている妹アナスイ(アナイス・ルブー)という姉妹の処女喪失にまつわる話なのです。エレナは本当に愛し合う相手でなければエッチは最後まで(挿入)はできないという・・・ありがちな”男と女の幻想”を抱いている少女。しかし、妹のアナスイは、一般的な幻想には惑わされていません。処女を失う相手なんて誰でも良いと、なんともドライ・・・姉の行動を観察することで、男女についての洞察力だけが妙に研ぎすまされてしまっているのです。エレナが男に関心持たれることを何よりも優先するように、アナスイは食欲を満足させることを優先しているという似ても似つかない姉妹なのですが・・・これは、世の中のある女性の2つの代表的で対照的なパターンかもしれません。

カフェで声をかけてきたお金持ちのイタリア青年フェルナンド(リベロ・デ・リエンゾ)に即座に心を奪われてしまうエレナ・・・アナスイの存在を無視するかのように、姉妹でシェアする寝室に、フェルナンドを連れ込んだりします。ただ、ベットでいちゃいちゃしても、挿入までは許さないというのがエレナの信念・・・そんな処女信仰ほど無意味な価値観なのに。とにかく挿入までしたいフェルナンドは、あらゆる甘い言葉で誘い、結局、エレナのアヌスを犯すのです。そんな傷ついたエレナをしっかりとフォローするのですから、アナスイは結構姉思いではあるのです。もしかする・・・アナスイは「デブ」で「ブス」という殻をかぶって、食欲だけを満足させながら現実逃避しながら、姉を身代わりにして現実を体験をしているかのようにも思えてしまいます。しかし、アナスイもやっぱり”少女”・・・プールの手すりにキスしながら妄想をつぶいやく姿は、ドライで冷静だけでないところに、ホッとさせられました。

イタリア青年は、母親の高価な指輪をエレナに渡して、婚約の真似事をするのですが・・・勿論、あっさり彼の母親に指輪がなくなっていることがバレてしまいます。彼の母親がエレナの母親のところへ怒鳴り込み・・・二人の関係はあっさり解消されてしまうのです。もしかすると、エッチをやるだけやったフェルナンドにとって、体よくエレナと別れるために仕込んだのではないかとも思えてしまいます。しっかり姉を見張っていなかったからと平手打ちを母親から食らうのは、何故か何も悪くないアナスイの方・・・エレナとアナスイは母親の運転で急遽、避暑地を去ることになるのです。

大型トラックのあいだをぬうように、急いで運転する母親は、いつ事故を起こしても不思議ではありません。しかし、予想だにしなかった悲劇は、「もう運転するのは無理」という母親が停車した休憩所で起こります。いきなり暴漢に襲われて、あっさりと母親とエレナは殺されてしまいます。そして、暴漢はアナスイを車から引きずり出して、駐車場脇の木立で犯すのです。アナスイが望んでいたとおり(?)・・・通りすがりの男(それも母親と姉を殺したばかりの殺人者に!)に処女を奪われてしまうとは・・・。犯されながらも、ゆっくりと手を男の肩に手をまわすアナスイ・・・とんでもなく悲惨な現実をリアルに受け入れていく姿に、ボクは”健気さ”を感じてしまい感動さえ覚えたのです。

日本での公開時には、美人の姉を演じたロキサーヌ・メスキダが主人公のように宣伝されていたようですが(映画の宣伝ポスターも彼女がメイン)・・・英語タイトルに「Fat Girl」とあるように、本作の主人公は太った妹のアナイス・ルブーであります。事件の翌朝、救出されたアナスイは、警官たちに「私、犯されてなんかないわよ。信じないなら信じなくて良いけど・・・」と投げ台詞を放って、映画は終わります。状況からして、どの警官にも彼女が犯されたことは明らか・・・しかし、アナスイは自分が悲惨な行為を受けた”被害者”に成り下がることよりも、起こった現実を自分自身で受け入れることを選んでいるのです。

アナスイは、カトリーヌ・ブレイヤ監督の、最も近い分身であることは確かでしょう・・・「本当に若い娘」「ヴァージン・スピリト」で、繰り返し描かれてきた少女たちというのは、実は崇高な精神性をもった存在であったことを「処女」によって、ボクは改めて気付かされたのです。

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カトリーヌ・ブレイヤ監督(Catherine Breillat)の主なフィルモグラフィー


1976「本当に若い娘」(Une Vraie Jeune Fille
1979「NIght After Night」(Tapage nocturne
1988「ヴァージン・スピリト」(36 Fillette
1991「Dirty Like an Angel」(Sale comme un angel
1996「堕ちてゆく女」(Perfait amour!
1999「ロマンス X」(Romance X
2001「処女」(À ma sœur!
2001「Brief Crossing」(Brève traversée
2002「セックス・イズ・コメディ」(Sex Is Comedy
2004「Four NIghts ~4夜~」(Anatomie de l'enfer
2007「最後の愛人」(Une vieille maîtresse
2009「青髭」(Barbe bleue
2010「禁断メルヘン 眠れる森の美女」(La belle endormie
2013「Abuse of Weakness」(Abus de taiblesse)

「ヴァージン・スピリト」
原題/36 Filette
1988年/フランス
監督・脚本 : カトリーヌ・ブレイヤ
出演    : デルフィーヌ・ザントゥ、エチエンヌ・シコ、ジャン=ピエール・レオ、オリビエ・パニエール
1989年日本劇場公開

「本当に若い娘」
原題/Une Vraie Jeune Fille
1976年/フランス
監督・脚本 : カトリーヌ・ブレイヤ
出演    : シャーロッテ・アレクサンドラ、ハイラム・ケラー、ブルーノ・バルプリタ、リタ・メイデン
2001年日本劇場公開

「処女」
原題/À ma sœur!
2001年/フランス
監督・脚本 : カトリーヌ・ブレイヤ
出演    : アナイス・ルブー、ロキサーヌ・メスキダ、リベロ・デ・リエンゾ、アルシネ・カーンジャン
2003年日本劇場公開



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2013/07/06

自分の”まん中部分”をモチーフにする”女子”アート活動家・・・ナルシシズムと自虐性のギミックに惹かれるの!~ろくでなし子著「デコまん/アソコ整形漫画家が奇妙なアートを作った理由」~



近頃ツイッターのタイムラインで、頻繁にリツリートされていたので知った「ろくでなし子」さん・・・「デコまん」という自分の体の”まん中”部分をモチーフにしたアート活動をしている若い女性(とは言っても年齢不明)です。漫画家の「まんしゅうきつこ」(以前は、よりイロモノ的な”まん臭きつ子”という表記)さんと同じジャンル(?)と思っていたのですが・・・ろくでなし子さんは、れっきとした”アーティスト”を名乗られています。「日本性器のアート協会」のメンバーということでありますが、会員は彼女と男性器のオブジェを作成する「増田ぴろよ」という”女子”アート活動家の二名・・・内輪の”なんちゃって協会”という感じでしょうか?

「デコまん」というのは、印象剤によって女性器の”型”をとり、石膏で固めたものに色を塗り、既成のパーツをデコレーションした「ジオラまん」など立体コラージュのオブジェ(?)のこと・・・女性器の”型”押しされた樹脂を多数ぶら下げた「シャンデビラ」など、一見すると「まぁ、キレイ!」と思ってしまう作品もあります。手作業の”型どり”のために手のひらサイズが限界だったり、印象剤のシリコンが劣化しやすくて大量生産には向いていないらしいのですが・・・女性器の布団(柄?)、車(ボンネット上部)、船(屋根の上部)、ドア(ドア板の表面?)などもっともっと大きな作品を作りたいそうです。

「キャンプファイア」というクラウド・ファンディングのサイトで、彼女の”ある”プロジェクト”への支援資金を募っています。すでに支援金の総額は60万円を越えていて、プロジェクトの現実化は確定(目標額51万4800円)となっています。彼女の”プロジェクトというのは、世界初の夢のマンボート(カヤック)にて海を渡るというもの。マンボート(カヤック)というのは・・・3Dスキャナーで取った彼女の女性器の正確なデータから削り出したスチロール材を、カヤック本体に上部にはめこんだボートなのです。これに何の意味があるのか?・・・ということはさておき、デジタルデータという特性を生かして、正確な女性器の”型”の拡大縮小が自由に行なえることにより、実現できる企画ということなのであります!

彼女は「ま○こ」をもっとポップにカジュアルに日常に溶け込ましたいと「ジオラまん」だけでなく、リモコンで走るまん中、まん中の照明器具、まん中のアクセサリー、iPhoneカバーまん中などの制作にも励んでいるとのこと・・・さらに、自分も「デコまん」を作りたいという女性のために「デコまんワークショップ」を開催したり「デコまんキット」も販売されているそうです。ろくでなし子さん曰く、日本では長らく”まん中”はタブーとされてきたので、『「ま○こ」に市民権を!』ということのようであります。おじさんは「”まん中”のことを口にするな!」「”まん中”を見せるな!」と怒るのに、実は「”まん中”を見たがる」と「法律の建前」と「個人の本音」を指摘するところは、AVの宣伝コピーのように皮肉たっぷりです。

女性器をモチーフとしたアート作品というのは「ろくでなし子」さんが”パイオニア”というわけでは全くありません。最も有名なのは、1920年代から活躍したアメリカのアーティストのジョージア・オキーフによる花シリーズでしょうか・・・?キャンバスいっぱいに描かれた極端な花のクロースアップは、あきらかに女性器を想像させます。また、1970年代に活躍したジュディ・シカゴによる「ザ・ディナー・パーティー/The Dinner Party」は、皿の上にディフォルメされた女性器のような立体的なリリーフを施しています。女性器をモチーフとしたアート作品というのは、単に”女性美”を讃えるだけでなく、政治的なメッセージを含んでいることが殆どで、”フェミニスト・アート”の中でも過激な表現方法と捉えられることが多い気がします。「ろくでなし子」さんのアプローチは、面白かったら何でもありのポップなカジュアルさ・・・フェミニストの政治的なメッセージというのは感じられません。



人体からの”型どり”という手法というのも、アートの世界ではポピュラーなものです。性器を模した造形アートというのも、たくさんありますが・・・最近、話題になったのは、イギリスの”男性”アーティストのジェイミー・マッカートニー(Jamie McCartney)が2012年に発表した「The Great Wall of Vagina」ではないでしょうか?20ヶ国、18歳以上の女性、400人から協力を得て、5年の歳月をかけて作成された作品で、母と娘、一卵性双子、性転換した男性/女性などの女性器を”型どり”した非常にリアルな石膏40人分を、ひとつのパネルに張り合わせています。400人分の10パネルで全長9メートルにもなり、圧倒的なインパクトがあります。アーティストによると、女性器は十人十色で「普通」なんてものはなく、ありのままで美しいことを訴えたかったということらしいです。規則的に並べられた”だけ”なので、いたずらに性的な興奮を煽るわけでもなく・・・といって、政治的なメッセージを感じさせないところが、ヒジョーに興味深い作品です。


しかし、この女性器の”型どり”という手法も一歩間違えば、日本では”犯罪”になってしまいます。出会い系サイトなどで出会った女性の性器模型をオークションで販売していた日本人男性が、先月(2013年6月)”わいせつ物頒布”の容疑で書類送検されたそうです。彼は「女性器の型どりを自分よりも上手に取れる人はいない」と自負していたそうで・・・確かに「外性器模型工房」というサイトで見る限り、その模型は見事な完成度です。型どりをするためには女性の協力は不可欠だし、販売の許可も得ていたそうで、売り上げも女性に支払っていたという話もあります。型どりをしたモデルのプロフィール(出身地、職業、年齢、身長/体重、画像)を記載したり、シリコン製の模型もあったということなので・・・模型の購入者の目的というのは、どう考えても「エロ」です。また、協力者の女性にとっても、ネット上に自分のアソコの模型画像がアップされて販売されているという事実が、ある種エロティックな経験になりえるのかもしれません。

「ろくでなし子」さんの「デコまん」は、フェミニスト視点の政治的メッセージというわけでもなく、エロティズムを表現した造形でもありません。クラフト的な制作方法、「ま○こ」ちゃんグッズの販売ビジネス、サブカル系のイベント活動など、純粋に”芸術作品”と捉えるには、かなり商業的なアプローチが目立ちます。メディアの取り上げ方も、自分の性器をモチーフにしている”女子”という週刊誌的な興味本位のものが、殆どだったりするのです。男性が同じように”アート活動家”を名乗って、自分のペニスの型どりした「ち○こ」に、デコレーションを施した「デコちん」を制作したとしたら”エロ目的”の容疑をかけられるでしょう・・・例え「デコちん」がファンシーでキュートであっても!自身の性器の”型どり”は「女子」であることが「ミソ」であり「女子」マーケティングの「ギミック」からは逃れられることはできません。ただ、この手のアート(?)活動家は「逮捕されてナンボ」というところもあったりするので、今後”箔付け”のためにも、過激な活動になっていくのは”必然”なのであります!

人体からの”型どり”という手法ではなく、自らの手で素材を削って形状をリアルに再現するという「彫刻」的なアプローチもあるわけで・・・”型どり”や3Dスキャナーの”データ”に頼るのは、非常にクラフト/デザイナープロダクツ的な制作手段を選択していると言えるびのかもしれません。ジオラマに使用しているパーツは、東急ハンズとかで販売されている既成の模型パーツ類を使っているようなので・・・アート作品としての”オリジナル要素”というのは希薄であります。「ジオラまん」などのオブジェ作品にしても、照明器具やアクセサリーにしても、見慣れたデザインをベースに「ま○こ」の型どりを取り込んだという印象は、正直拭えません。3Dスキャナーで外部のデータを取るならば・・・MRIで内部(膣)の形状までを正確にデータ化して、巨大な「ま○こトンネル」にでもチャレンジして欲しいなんて思ってしまいます。ただ、彼女にとって関心があるのは、あくまでも視覚的に外部から見える”外性器”の部分だけのような気がしてしまいます。

一部の女性からは否定的な反応をされてしまうこともあるらしいのですが・・・それは、ある種の「イタさ」を感じてさせてしまうからかもしれません。ボクも、最初にろくでなし子さんのプロジェクトのことを知った時に、ある種の女性にありがちな「痛々しさ」を感じました。そして、彼女の自伝的な著書「でこまん/アソコ整形漫画家が奇妙なアートを作った理由」を一読して、ますます、その印象は強くなったのです。

ここからは著書「デコまん」のネタバレが含まれます。

次女として生まれた「ろくでなし子」さんは、2歳年上の器量の良いお姉さんと比較されて、自分は「ブサイク」だというアイデンティティーを持って、少女時代を成長したそうです。現在の彼女の画像を見るかぎり、そこまで「ブサイク」と思い込むほどではないと思いますが(といって、美人でもないかも)・・・コンプレックスというのは、個人の主観によって培われるので、実際にブサイクか、どうかは重要なことではありません。ただ、将来、整形手術をするために必死に節約をして貯金をしたというのですから、その思いは強いものではあったようです。

東京の大学に進学して、”オタク男子”ばかりのアニメ漫画研究同好会に入ったところ・・・(おそらく女子がいなかったこともあって?)一躍人気者となってしまいます。節約で身なりさえも気にしていないところが、中学生的な幼さとして捉えられて、ロリコン的な萌え要素に変換されたらしいのです。「ブサイク」を自分のアイデンティティーとしてきた女の子が、いきなり「かわいい。かわいい」と、もてはやされたのだから舞い上がってしまうのは、容易に想像できます。アイデンティティの上下の振り幅が大きすぎる人というのは、どうしても自己認識のバランスが”いびつ”になりがち・・・彼女も例にもれず、自意識過剰で新たなコンプレックスを培うことになるのです。

ブロッコリのように毛深い(!)股間と悩む彼女は、それでは「かわいくない!」と思って陰毛を剃ってしまうのですが、エッチの相手に「パイパンの変態趣味」と笑われてしまいます。それならばと陰毛をボウボウのままにしていたら、今度は別の相手の歯に陰毛が挟まって笑われてしまいます。そこで彼女は、エステで脱毛をしてもらうのですが・・・脱毛によって、より露になった自分の女性器をしげしげと観察してみて、小陰唇が肥大しているのではないかと思い始めるのです。女性同士で性器を見せ合うなんてことは、普通はあまりないわけで・・・彼女が「ま○この、基本形が分からない!」と嘆くのは理解できます。しかし「ビラビラが嫌!」と、切除手術をしまうというのは・・・コンプレックスの反動の決断力のような気がします。自分の美的センスを一致しないからという理由で、顔の整形手術をする女性と同じように、自己満足の世界であることは明らかで・・・根底には自分を受け入れられない「自虐性」を感じさせてしまうのです。

こうして、毛深いコンプレックスも小陰唇肥大コンプレックスも克服した彼女は、術後の「完璧なま○こ」を友人や友達に見せまくるようになるのですが、これも極端な行為であります。いつでも自分の”ま○こ”を愛でられると考えついたのが、そもそも「デコまん」を始めたきっかけだそうなのですが・・・まさに「私の世界」を表現するかのような立体コラージュで、自分自身のま○こをデコるというのは究極の「ナルシシズム」を感じさせます。

最近のウェブマガジン(messy)で、結婚していた事と、すでに離婚している事の告白をしていてましたが・・・元夫に「デコまん」のアート活動が受け入れてもらえなかたことが、離婚原因のひとつであるとも語っています。(離婚の理由はそれ以外にもあるようです)おそらく、自分の性器を型どりしてデコるという行為に、引いてしまう女性、または男性というのは、「ろくでなし子」さんの「ナルシシズム」と「自虐性」が同居した”念”を無意識に感じてしまうからではないでしょうか?下品な「中二病」的なイメージの以外にも・・・。

本来であれば・・・『美人の姉と比べられて「ブサイク」というアイデンティティを持って少女時代を過ごした』『ブロッコリのように毛深くて、ビラビラの小陰唇肥大のま○こ』という”マイナス要素”は、『大学生になってアニメ漫画研究同好会に入ってロリコン要素でモテモテ』『エステの脱毛と整形手術で完璧なま○こを手に入れた』『素敵な男性と結婚できた』などの”プラス要素”で、プラマイ=ゼロとなるところなのですが、彼女の場合「プラス」も「マイナス」も過剰のまんま・・・いくら彼女がポップな感性で、自分の「ま○こ」を面白がっていても、その”念”というのは伝わってしまうのです。個々の作品そのものではなく・・・彼女の生き様そのものが(ネタ的な意味で)ある種の「アート」(?)と言えるのかもしれません。

そんな”痛々しい生き様”さえも「ギミック」(というか、ギャグか?)として面白がってしまうタチのボク・・・どこかしら「ろくでなし子」さんには惹かれてしまうのです。

追伸:2014年7月15日
ろくでなし子、こと、五十嵐恵さんが、昨日、猥褻電磁的記録頒布容疑(って何だよ?)で逮捕されました。「自称芸術家」などという悪意を感じさせる屈辱的な表現の報道も気になりましたが・・・なんといっても驚いたのは「42歳」という実年齢。自虐的、かつ、ナルシシズムを感じさせる作品の方向性から、ボクは彼女のことを20代後半ぐらいかと思っておりました。”女子的要素”に惹かれていた支持者やマスコミには、今回の報道内容は”冷や水”のようなものだったのかもしれませんね〜。



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2013/06/27

たまには母親と息子の”いいお話”も良いもんさっ・・・ジューイッシュ・マザー(ユダヤ系の母親)は罪悪感を煽って息子を自責の念に追い込むの!?~「人生はノー・リターン~僕とオカン、涙の3000マイル~/The Guilt Trip」~



日本では毛嫌いされる”マザコン”・・・「旦那(または彼氏)が、マザコンで」というのは、人生相談の定番のお悩みであります。また、日本人の男性が自ら「マザコン」と、自慢げになることもありません。しかし、世界的にみると、日常的に母親と息子がベッタリの相思相愛の「マザコン」が当たり前のような国(スペインやイタリア)とかもあるわけで・・・日本の親子関係というのは、日本人が感じているほど濃密ではないのかもしれません。単純に「マザコン」で片付けられないのが、ジューイッシュ・マザー(ユダヤ系の母親)と息子の関係であります。

ジューイッシュ・マザーが・・・多くのアメリカ移民に於いて母親が家族の中心であるように、大きな存在であるのは当然のことです。息子を溺愛するという意味ではイタリア/スペイン系の方が凄まじいですが・・・ジューイッシュ・マザーの屈折した愛情表現と息子の服従っぷりは独特なものを感じさせます。まず、ジューイッシュ・マザーは必要以上に息子の罪悪感を煽り、重箱の隅を突つくような愚痴や厭味で息子を追い込んでいきます。それによって息子は自責の念にかられて、母親の”いいなり”にさせられてしまうのです。勿論、根底にはお互いの深い愛情があるのだとは思いますが・・・息子にとって母親のコントロールは、ストレス以外の何もでもないはずです。しかし、ユダヤ系の息子が母親の首を絞めたなんて事件を、聞いたことはありません。実際、ジューイッシュ・マザーと息子の関係は、恨むべきトラウマとしてよりも、アメリカのコメディの”鉄板”ネタのステレオタイプとして、アメリカ文化に浸透していると言えるかもしれません。息子視点で見ると”地獄”のような状況だからこそ・・・ジョークとして笑っちゃうしかないのでしょう。

「人生はノー・リターン~僕とオカン、涙の3000マイル~/The Guilt Trip」は、バーブラ・ストライサンド(16年ぶりの主演作!)とセス・ローゲンが、ユダヤ系の母親と息子を演じるコメディ映画であります。「人生はノー・リターン」という邦題は内容とも一致しませんし、説明過多な副題のセンスも疑ってしまいます。あえて「オカン」としているのは、ジューイッシュ・マザーを、ズバズバとモノを言う「大阪のオカン」と似たようなもんだと考えてのことなのでしょうか・・・?

バーブラ・ストライサンドは歌手としてだけでなく、シリアスな映画女優としても活躍していますが・・・”コメディ女優”としてのバーブラ・ストライサンドが一番好きなボクとしては、本作の日本公開を楽しみにしていました。しかし、アメリカ公開時の評判も決して高くなく、制作費を回収した程度で特にヒットもせず、その上、バーブラが第33回ゴールデンラズベリー賞で最低女優賞にノミネートされてしまったという悪評もあってか・・・結局、日本では劇場公開されずに、DVDスルーとなってしまいました。

なんと言っても、本作を観て驚かされるのは、バーブラ・ストライサンドの”見た目の若さ”に尽きます。御年71歳(撮影時は70歳!)とは、到底信じられません。彼女は相当のお金持ちだから、アンチエイジングやら美容整形の費用を、湯水のごとく使っていて当然なのですが・・・それでも、このレベルの若々しさは尋常ではありません。本作での役柄は50歳ぐらい(20歳で息子を出産)のはずなのですが、若作りし過ぎとか、不自然なフェイスリフトもなく・・・年齢設定に違和感はありません。息子役のセス・ローゲンは、実年齢31歳(撮影時は30歳?)で役柄の年齢と同じなのですが・・・小太り体型ということもあって実年齢よりは上に見えてしまうので、二人の年齢差を感じさせないところもあります。また、バーブラ・ストライサンドとセス・ローゲンが、リアルに親子に見える(二人とも生粋のユダヤ系だし!)だけなく、一緒に画面に映っているだけで”コメディ”として成り立てしまう二人のスクリーン・ケミストリーの良さが、本作の”キモ”です

アンディ(セス・ローゲン)は、エコロジーな洗浄剤を開発して営業に励む30歳のユダヤ系の一人息子・・・母親のジョイス(バーブラ・ストライサンド)は、朝から目覚ましの電話をかけまくるほど、息子に干渉する典型的なジューイッシュ・マザーです。東海岸から西海岸へ車でアメリカ横断しながら洗浄剤を営業する旅に出掛ける前に、ニュージャージーに暮らす母親を訪ねるのですが・・・そこで、母親のジョイスが父親と結婚する前に、恋に落ちたボーイフレンドの話を聞かされます。アンディの父親となった男性がジョイスにプロポーズをして、そのボーイフレンドとは別れることになったのですが・・・ジョイスは、ボーイフレンドを忘れられずに、息子にボーイフレンドと同じ名前のアンディとしたというのです。母の告白に呆然とする息子のアンディでしたが・・・インターネットで母親のボーイフレンドを検索してみると、現在、独身でサンフランシスコで広告会社の社長をしていることが判明します。そこで、アンディは母親をアメリカ横断の営業の旅に誘って、最終目的地のサンフランシスコで、昔のボーイフレンドと再会させようと企てるのです。

ユダヤ系の息子にとって、8日間も母親と車で旅をするというのは、まさに”地獄”・・・原題の「The Guilt Trip」は、”罪悪感で自責の念にかられる”というような意味で、大陸横断の旅(Trip)と引っ掛けているようです。二人の旅は、よくあるジューイッシュ・マザーと息子のコメディで・・・正直、それほど新鮮さはないのですが、バーブラ・ストライサンドとセス・ローゲンの相性の良さと、ステレオタイプのコメディだからこその安定感のあるギャグと相まって、安心して観られるのです。ただ、営業のプレゼンテーションをしながら大陸横断って「いつの時代の話?」とツッコミたくなりますが(おそらく1970年代ごろまでは有効な営業手段だったかもしれませんが)・・・脚本と演出のテンポがサクサクしていて、95分という比較的に短い上映時間は、あっという間に過ぎてしまうという印象でした。

ここからネタバレを含みます。


サンフランシスコに到着して、昔のボーイフレンドの自宅を訪ねてみると・・・現れたのは本人ではなく、彼の息子のアンディ。アメリカでは父親と息子の名前が同じということもあるので、起こりえる事態ではあります。母親のボーイフレンドだった父親のアンディは、5年前に亡くなっており・・・なんとも切ないオチであります。しかし、さすがハリウッド映画・・・切ないだけでは終わらせません。最後に、ちょっとした”サプライズ”が用意されていて・・・小さな感動を生むのであります。

エンディングでは帰路につくため飛行場で別れる母親と息子・・・「ボーイフレンドよりも、亡くなった夫よりも、あなたという息子が生まれて会えたことが一番嬉しい」という母親の言葉は、ジューイッシュ・マザーだけでなく、どの民族の母親でも感じることなのかもしれません。別れるやいなや、携帯電話を手にする母親を見て、思わず自分の携帯電話を手にする息子・・・しかし、母親が電話をかけたのは、旅の途中で出会った男性でした。母親は、息子との8日間の旅を終えて、ちょっとだけ”子離れ”したということなのかもしれません。普段はドロドロした愛憎の母子関係を描いたようなトラウマ映画が大好物のボクではありますが・・・たまには、こういう”いいお話”も良いもんだったりします。

「人生はノー・リターン~僕とオカン、涙の3000マイル~」
原題/The Guilt Trip
2012年/アメリカ
監督 : アン・フレッチャー
脚本 : ダン・フォーゲルマン
出演 : バーブラ・ストライサンド、セス・ローゲン


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2013/06/23

「めのおかしブログ」が5年目突入~!・・・”エゴサーチ”で見つける「批判的なコメント」「バッシングのつぶやき」「ネガティブな書き込み」を楽しむ”皮肉屋”なの!



この「めのおかしブログ」は、本日(6月23日)で、開始からちょうど4年になりました。

ツイッターやフェイスブックなどのSNSもやっていいるのですが・・・リアルタイムの時間軸でフローするよりも、じっくりと書けるブログの方が、ボクには合っているような気がします。「けいたいおかし」「おかしのみみ」(現在休止中)というブログもやっていますが・・・メインとなるのは、やはり「めのおかしブログ」です。最近は、ますます記事が長文になってきているので更新頻度が激減していますが、それでもブログへのアクセス数が増えているのは、過去の記事をネット検索で訪問してくださる方がいるからのようで・・・月日が経っても、読んで頂くことに意味があるような内容を書き残したいと、気が引き締まります。

ボク自身、誰かのブログにコメントを書くことを殆どしないので、コメントを残すこと自体が、ハードルの高い行為のように思ってしまいます。これまで「めのおかし」「けいたいおかし」のコメント欄に書き込んでくれた方々には、この場を借りてお礼申し上げます。基本的に宣伝目的以外のコメントは基本的には公開させて頂いていますが・・・同じ意見で盛り上がるのも、議論を交わして炎上するのも、どちらにも十分な対応できないという理由で、コメントへの返信はしていません。

もともと、コメントの書き込みが多いブログではないのですが・・・たまに批判的なコメントを頂くことがあります。面識もない人のブログに、そういうコメントを残すというのは「よっぽど」なんだろうと推測します。どうやら(目的はまったく分かりませんが)ブログの書き手を不快にさせたいようなのですが・・・そういう方に限って”匿名”や”ハンドルネーム”の書き込みなので、ボクにとっては「野次」にしかならないので、批判的なコメントをわざわざ残すという”執念”との温度差というのを感じてしまいます。「稚拙な文章」「読みずらい」「長過ぎる」などという批判(?)は、すでにボクも自覚してることだし・・・「だったら、無理して読まないでね!」としか言いようがありません。

内容への批判が一番多かったのは、なんと言っても「けいたいおかし」の「上から目線のツイートが痛々しい@May_Romaさん」という2012年9月8日の記事でしょう。「めいろま信者」らしき方々から・・・めいろま擁護/めいろま批判への批判のコメントを頂きました。考え方の屈折ぶりから、カルト宗教にハマっていく時には、こうして”まともな感覚”というのが失われてしまうのだというのが、よく分かる実例であります。

「同族嫌悪」
同族嫌悪ですね。
このブログも常に上から目線で
文句タラタラで相当痛々しいですよ。
メイロマさんは自分の痛さをエンタメに
昇華してるけど、文句言いっぱなしの
ブログは情けないですね。
”S”さんより/2012年9月10日 

「無題」
わあすごいやっかみ。これ書いてる人ってきっと日本でも外国でも注目すらされないノーワンなんだね。自分に自信ないんだー
”まりあさんより/2013年3月5日 

「要は客観的な目線の俺カコイイでしょ、てこと?」
痛いことがウリで4万ものフォロワーを持ってる人なら単純に他の人達と一緒にその痛さを楽しめばいいのでは。
私も周りも海外の経験がありますが、その4段階を4年も5年もかけて経験する人なんて皆無です。
環境が大きく変わると、12ヶ月の間にそんな感情が芽生える事もあるかな、というくらいなもので、別に海外に限らず北海道から沖縄に引っ越しても、東京から大阪に引っ越しても同じ感情が芽生えるものです。
グローバルな視点を持っていることと、謙虚さや他者を批判するような性格であることは、全くの別問題です。特に直接自分の生活に利害が関わらないtwitterなら尚更。ジョブズやゲイツはグローバルな視点がないとでも?
結局の所気に入らない奴にフォロワーが多いことに嫉妬して、痛さに便乗して叩けば共感を得られるだろう、という安っぽさを感じます。
せっかく海外経験があって彼女の境遇がわかるのなら、もっと違う視点で深く洞察してみては。
”さら。”さんより/ 2013年4月4日

この記事の場合、ブログ内のコメント欄に留まらず、ツイッターにも広がっていきました。めいろま”本人が記事のリンクを貼ってツイッターで拡散したことによって、賛否どちらもコメントを付けてRTをされたようです。ボクの考えを支持して頂くことは嬉しいのですが、振り返って読んで面白いのは・・・批判的なコメントやつぶやきです。ボクの日常で、面と向かって否定されることって、そう頻繁にあるわけではありませんので、とっても新鮮に感じます。

批判と非難の違いを分かっていないことがよく分かる記事。
Koki Hayashiさんより/2012年11月8日

遊び心を知らんなぁ。おまけにこの文章の方がよっぽど上から目線だよ。
やす”さんより/ 2012年11月8日

ネットで他人に対して「上から目線」どうこう言う人は、高い確立で関わるべきではないという法則を提唱。
shu”さんより/201211月8日

「上から目線が痛々しい」という批判コメント自体が上から目線で矛盾している件
”おろろん”さんより/2013年3月5日

めいろまたんを「撃たれ弱い」とか言って長々とブログエントリーまで書いちゃう方がよっぽど痛々しいや。コンプレックスなんだろうね。
大原ケイ” さんより/2013年3月5日

批判的なコメントだったり、バッシングのつぶやきというのは、単なる厭味ということが殆どで・・・論理的に反論できているわけではありません。そもそも、ボクは何かを論争するつもりでブログを書いているわけではないので「賛成も反対も、ご勝手に」というスタンスしか持っていません。

ボクのような(それも何も影響力のない一般人でネット有名人でもない”雑魚”)見知らぬ他人の記事を見つけ出して、共感しないからといって、批判的な書き込みやつぶやきをしてしまうのは、結局批判してる意見に、激しく感情を揺さぶられてしまったでしかありません。拡散して自分の批判と同調する人を増やそうという悪意を持った個人攻撃って、冷静な第三者の目からすれば、見知らぬ他人の意見への批判というカタチで”自己主張の便乗”してしているという恥さらしの墓穴堀りの行為です。また「コンプレックス」や「嫉妬」を持ち出して批判する人って、そういうネガティブな感情に”常”に囚われているから、他者を”自己嫌悪”という歪んだ”色眼鏡”を通してしか見れていないことに気付いてないのでしょうか?

「はじめまして」
はじめまして。
ここで批判されているような裸のブログを
楽しんで見ている者です。
私は、リスクを背負いながら裸になる子たちは
エンターティナーだと思うし、一読者として
とてもサービスさせてもらってますよ。
なんだか、若さやブログへの嫉妬しか
感じられない批判の仕方に呆れてしまいました。
愚痴ばっかりのブログで説得力が無いし。
もうこのブログ見ませんが、どうしても
言いたくてコメントさせてもらいました。
”S”さんより/2012年4月16日

「けいたいおかし」の「ブログで脱ぐ人」という記事へのコメントです。人によって何がエンターテイメントであるかは様々でしょうが・・・そう感じられない人が存在することも理解する必要はあると思います。例えば、ボクの好きな映画を酷評する人がいても当然のことです。

前出のめいろま批判のコメント「同族嫌悪」の”S”さんの、改行のやり方、語尾の選択、文章のトーン、タイトルと書き始めの文章が同じなど似ているところがあるので、同一人物ではないかと思われます。なんだかんだで、結局、またブログ見たんですね。

ボクはアイロニーを好む嗜好があり、意図するニュアンスを感じ取ってもらうことは難しいことがあります。読み手が受け取るポイントというのは、結局のところ読み手次第・・・読み手が好きなように解釈するのは仕方ないことのようです。

いろいろな記事を読ませていただきました。 
「松木冬子」さんや「手芸女子」の記事で、本当に容姿が美しく生まれてこなければ女は価値のない害獣になることがよくわかりました。本当に容姿の悪い女(ブス)が嫌いなんですね(笑) 
視界に入るな消えろというのが直に伝わってきますv 
普通の男は「性格が良ければいい」「内面のほうが必要」なんてきれいごとを言いますが、生まれてきた時点で人生って決まります。きっとそういうことをはっきりと言えるおかしさんは美男子なんでしょうね!(^V^)
 私は生まれてきた時点で消えるべき美しくない女なのでこちらのブログを読んでますます自殺するべきなのだというのを再認識いたしました。何度死ねと言われて実際に試したのに本当にブスって害獣ですね!(笑)容姿を向上させようとしても笑われるだけ、ブスの努力は見苦しい!美人の努力は美しい!美人は何があっても守る!ブスは死ね!全部正しいことだと思います。
 いつも面白い記事をありがとうございます。長文で申し訳ありませんでした。
”じこ”さんより/2013年2月9日

ボクにとって自分の性的嗜好と無関係だからこそ、女性のイメージは身勝手で好き嫌いも無責任なんです。自分自身の容姿は全然関係ありません。女性が「美人」だろうと「ブス」だろうと・・・ボク的には外見に関わらず、内面的に崩壊している女性の方が、ネタとしてイジりがいがあると思っているだけです。そういう意味では、見知らぬ人のゲイのブログにからんでくる”じこ”さんの”キレっぷり”は素晴らしいと思います。

「性格が良ければいい」「内面のほうが必要」と言ってくれる”普通の男”が、”じこ”さんの身近にいるみたいなのに・・・どうして「ブス」は「害獣」だと”ひがむ”必要があるのでしょうか?”普通の男”の「ブスに優しい言葉」に素直に耳を傾ければ幸せになれるのに・・・。

いろんなキーワードで”エゴサーチ”をしてみたら、ボクも「2ちゃんねる」デビューを果たしていることが分かりました!「痛いブログを晒せ」というスレッドで、『手芸女子は「ブス」というパンドラの箱・・・ほとんど実用性のない芸人本としてのニードルフェルト手芸教本~「男子がもらって困るブローチ集」光浦靖子著~』という記事への反応でした。

なんか色々見下すのに必死な人発見。おかしライターとかいうらしい。 
男でこのねちっこさはあまりに気持ち悪い。ネナベ? 
光浦のブローチがクオリティ高いと聞いて、まさかぁと思い 
冗談半分で検索したらキモイの出てきた。 
このブログの人は、色々なことを見下してチマチマブログ書くのが、 
自己満足の手段なんだろうな。 
金もあって、手芸に打ち込む光浦の方がよっぽど幸せそう。 
”匿名さんより/2012年9月13日

わざわざ「おかしライター」と名指しで、晒されているので「よっぽど・・・」なんでしょうねぇ。どうやら、自己満足の手段として「ねちっこく」「見下して」ブログを書いているということに”苛立ち”を感じているらしいんだけど・・・そもそも、ブログを書くことって自己満足。世の中に溢れている「自分好きの日記ブログ」なんかは、さらに自己満足以外の何物でもありません。逆に「他人(読者/ファン)のためにブログをやっていま~す」と思ってブログやっている人の方が、厄介ではないでしょうか?内容に共感できないからこそ「ねちっこく」「見下して」と感じるだけのことで、共感すれば「論理的に」「違う視点で」と感じるものです。この記事に激しく反応してしまったということは、”匿名”さんはきっと「お金がなくて」「何も打ち込むことがなく」「幸せを感じない」「光浦さんよりもブス」な方なんでしょうね・・・。

「エゴサーチ」をして、自分のブログに対するネガティブな書き込み、バッシングするつぶやき、批判的なコメントを読んで楽しむ・・・ボクはちょっと意地の悪い「皮肉屋」なのかもしれません。

5年目もよろしくお願いします。

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2013/06/19

バズ・ラーマン監督流の盛りまくったアメリカンドリームの映像化と純愛ラブロマンスとしての「2013年版」・・・絶妙なアンサンブルキャストでアメリカンドリームの幻滅と階級格差を皮肉に描いた「1974年版」~「華麗なるギャツビー」~




F・スコット・フィッツジェラルド著の「華麗なるギャツビー」は、出版された当時には高い評価を受けながらも、初版はそれほど売れなかったそうです、現在ではアメリカの高校生まら必ず読まさせられる必須読書であり、アメリカ文学の最高峰のひとつというのも過言ではありません。1922年を舞台にしたこの小説が発表されたのは1925年・・・その4年後には株価が急落して世界恐慌の引き金となります。まるで書かれていたことが現実になっていったのです。また、フィッツジェラルド自身の人生も下り坂・・・心臓マヒで44歳という若さで亡くなります。

「華麗なるギャツビー」の最初の映画化は出版された翌年の1926年、二度目の映画化は第二次世界大戦終了直後の1946年なのですが・・・どちらのフィルムも現在は紛失してしまって観ることはできないようです。どちらも日本で公開されたようで・・・邦題から、どういう映画だったのかを推測出来るような気がします。「或る男の一生」という邦題がつけられた1926年版は、まだ世界恐慌が起こる前・・・おそらく喪失感よりもギャツビーという人物の人生に焦点を合わせたような印象です。1946年版の邦題は「暗黒街の巨頭」・・・裏社会で巨万の富を築いた男の物語をフィルムノアール調とかで描いていたのでしょうか?

三度目の映画化は、ベトナム戦争終結直前の1974年版で、時勢を反映してアメリカンドリームの喪失感を際立たせた作品になっています。2000年には、アメリカのケーブルテレビ局「A&E」で制作されたバージョンは、上流階級のお嬢さま(ワスプ/WASP)であるべきデイジー役がミラ・ソルヴィノ(イタリア系)というとんでもないキャスティングで、ただ文芸作品を映像化しただけという印象の凡作でした。「ロミオ+ジュリエット」「ムーラン・リュージュ」のバズ・ラーマン監督が、ギャツビー役にレオナルド・ディカプリオで5度目の映画化が2013年版・・・オーストラリア時代のデビュー作「ダンシング・ヒーロー」から、過剰なまでの装飾的世界観だけでなく、感情的にも極端にドラマチィックな演出をする”らしさ”が発揮されています。時代考証なんて無視して、今までのどの「華麗なるギャツビー」よりも豪華絢爛な映像となっています。

現存しない1926年版と1946年版、そして殆ど語るに値しない2000年版はさておき・・・1974年版と2013年版の「華麗なるギャツビー」を比較をしてみようと思います。初めて1974年版を観たのは、リアルタイムの劇場公開ではなくて、おそらくテレビの洋画劇場で・・・その後、名画座のスクリーンでも観ているはずです。10代のボクは映画の描こうとしていた喪失感は、理解はできていませんでした。また、ロバート・レッドフォードが、ミア・ファローのような美人とは言えない女性にメロメロになってしまうことに、強い違和感を感じてしまったものです。しかし、自分自身が成長してから改めて1974年版を観てみると、絶妙なキャスティングと独特の演技アンサンブルによって、アメリカンドリームの喪失感や階級格差の皮肉さを、見事に描いていることを再発見したのであります。

1974年版も2013年版も、ギャツビーの”隣人”で、デイジーの”また従兄弟”で、トムの”学友”であるニックの視点から語られるのですが・・・何故か2013年版では、アルコール依存症のリハビリの中で、ギャツビーを回想するという原作にない設定になっています。おそらく、ニック自身の喪失感も強調したいという思いだったかもしれませんし、2013年版でニック役を演じるトビー・マグワイアの草食系っぽい弱いキャタクターには合っているのかもしれません。ただ、ニックは、証券会社に働いていて裕福ではありませんが、デイジーの”また従兄弟”であることから分かるように・・・彼自身も”上級階級”のメンバーのひとりでもあるのです。

英語のオリジナルタイトルの「The Great Gatsby」の「THE GREAT」には・・・「上流階級の女に恋をして、アメリカンドリームを叶えて金持ちになった男が、結局、その女に振り回された挙げ句に、罪を着せられて殺されてしまう」という”愚か”を皮肉くるニュアンスが含まれているのですが・・・そのような表現をする語り手のニックが、物語の結末にアルコール依存症や不眠症になるほどナイーブだとはボクは思いません。良くも悪くも、一歩離れたところから成り上がりの悲劇を傍観した・・・というのが、上流階級のあり方であるのです。1974年版でニック役を演じたサム・ウォーターストンは、トムやデイジーの人道的に自己中心的な生き方に憤りを感じる”誠実さ”はあるものの・・・所詮は、上流階級のことなかれ主義も同時に持ち合わせている、微妙なキャラクターを演じています。

主人公のギャツビーが、どうやって膨大な富を手にしたかは、ちょっとした謎なのですが・・・ユダヤ人の賭博師と組んで怪しい裏ビジネスをしていて、禁酒法の時代にヤミで酒を売ったり、ドラッグストアで麻薬を売ったりして儲けているらしいことは分かります。また、実際には貧しい中西部の出身であったことも、ニックはギャツビーの死後に知ることになるのです。2013年版では、ユダヤ人賭博師を謎のインド人風にして裏の顔の怪しさを際立たせていたり、彼の貧しかった子供時代や、どのようにして彼が上流階級のマナーを学んだかまでの経緯を映像で描いていきます。1974年版では、ギャツビーの裏の顔については噂として描く程度で、死後に現れるギャツビーの父親の台詞によって、ギャツビーの出生を察することができるぐらいです。ギャツビーが”成り上がり”であることを描いた2013年版よりも1974年版の方が、アメリカンドリームの体現者としての、輝かしいギャツビー像が映画を観終わった後にも印象づけられていると思うのです。

2013年版でギャツビーを演じるレオナルド・ディカプリオは、今のハリウッド映画男優の中で適役と言えるのかもしれません。しかし、ディカプリオらしい熱い演技力を発揮したことが、裏目に出てしまったような気がするのです。ディカプリオの感情を露にする「熱演」は、違和感を感じることがしばしばありました。デイジーとの久しぶりの再会で慌てる様子はコミカルだし、トムと喧嘩では機関車のように怒りまくります。ラブロマンスのヒーローとしては”素敵”なのかもしれませんが・・・ギャツビーがデイジーを追い求める姿はストーカー的でもあります。別れてからの新聞記事をスクラップしていたり、再びデイジーの気を引くために対岸に引っ越したり、毎週末パーティーを開いてデイジーがやってくるのを待ち構えていたり・・・感情的に演じるほどにデイジーへの思いの強さだけでなく執着さえも感じさせられます。過去に戻ってやり直せると信じて近づくというのは、まさにストーカーが陥る妄想的な願望そのもの・・・しかし、あの”ディカプリオ”が演じているからこそ、純愛ラブロマンスとして成立するのです。

1974年版でギャツビーを演じたロバート・レッドフォードは、当時、ブロンドの髪とブルーアイズのアメリカ人の理想とするルックスで、圧倒的な二枚目として君臨していました。しかし、演技力を評価される役者ではありませんでした。目や顔の表情に乏しく、役者としての個性や面白みには欠けている印象があります。ただ、真の二枚目には”個性”も”面白み”も不要で、完璧な二枚目であることだけで圧倒的な存在感であることを、レッドフォードは体現していたようなスターだったのです。ギャツビー役として表情の乏しさは、逆にプラスに働いていたように思います。表情の変化の少ないレッドフォードの演技(?)は、ギャツビーという人物像のミステリアスさを印象づけるだけでなく・・・デイジーへの思いも、淡々と純粋さを感じさせられるような気がするのです。

2013年版でデイジーを演じるキャリー・マリガンは、旬のハリウッド女優のひとり・・・可愛らしくてコケティッシュなルックスは非情に魅力的で、シカゴの社交界で将校達を虜にしたというのも説得力があるのですが、彼女の魅力は上流階級のお嬢さまではなく、素朴な田舎娘としてのような気がするのです。「金持ちの家の娘は貧しい男とは結婚はしないの」と平然と言ってのける”お嬢さま”には、かなりの無理を感じます。また、夫の浮気や精神的なハラスメントに苦しんでいるという同情を誘うような描き方をしているので、デイジーというキャラクターに必要不可欠な上流階級ならでは”ズルさ”も、表現してきれていないように思いました。

ミア.ファローのデイジー役というのは1974版の公開当時から賛否両論で、完全なミスキャストだという意見もあります。しかし、ボクはミア・ファローのエキセントリックなルックスと演技が、精神的に不安定、優柔不断で自己中心的なデイジーのキャラクターを見事に表現しているように思うのです。突然に泣き出したり、急に子供のようにはしゃいだり、ちょっとしたことでご機嫌が一変してしまうデイジーに、夫のトムもギャツビーも振り回されてしまうのは、彼女の言うことに従わないと脆く崩れてしまいそうだから・・・決して、わがまま放題の強さではありません。一見すると受け身でありながら、男たちを思い通りにコントロールする”悪女”なのです。

2013年版では原作通り・・・デイジーはギャツビーの死後、夫のトムと長旅に出掛けるところで映画本編から姿を消します。自分にとって都合が悪くなれば、さっさと夫の庇護の元で逃げてしまうのです。1974年版では、原作にもないデイジーの登場シーンが最後に追加されています。ギャツビーの死後しばらく経って、ニューヨークを離れようと決心したニックの前に、新しい屋敷を建築している期間はヨーロッパに長旅にでかけるデイジーとトムが、偶然現れるのです。自分の罪をかぶって殺されたギャツビーの葬式にも花ひとつも送らず、見知らぬフリをしてきたデイジーは、悪ぶれることもなく振る舞います。「新しい屋敷には一番最初に遊びに来てね」と、微かな良心の呵責とも受け取れるような”社交辞令”をニックに残すことにより、デイジーの強かをさらに際立たせて、映画は終わるのです。

2013年版も1974年版もギャツビーの”喪失感”は、ニックのナレーションで語られているのですが・・・2013年版の方が、原作からの引用も多く、若干説明過の印象です。また、ラブロマンスの要素に焦点を当てているために、ギャツビーとデイジー周辺以外のキャラクターの描写が、ステレオタイプに陥り気味でもあります。1974年版では、デイジーの夫トムの愛人であり、デイジーの運転していた車で轢き殺されてしまうマートルと、妻のマートル殺された恨みを晴らすべくギャツビーを射殺してしまう夫ジョージの物語も、アメリカンドリームに取り残された移民(カソリックなのでアイルランド系?)の物語として、しっかりと描かれています。


2013年版では、それほど強い個性を与えられていないマートルですが・・・1974年版では、カレン・ブラック演じるマートルの存在感が、登場シーンが少ないにも関わらず、場末感と狂気が際立っております。トムとの出会いを語るマートルの卑しい野心に溢れた恍惚感、トムに殴られて鼻血を出しながら呆然とする瞬間、そしてトムに合図を送るのにガラス窓を叩きすぎて手が血だらけになったことにようやく気付く時など・・・カレン・ブラックの「顔」と「表情」が目に焼き付いて忘れられません。2013年版ではマートルが車に轢かれて殺される様子を映像で見せますが、1974年版ではマートルが事故に遭う場面の映像はありません。しかしギャツビーの死後、ニックが店の前を通りかかると、すでにマートルの後釜であろう女性が店先ににいる・・・なんとも残酷なオチが用意されています。マートルも彼女なりに必死にアメリカンドリームを掴もうとしていたけれど・・・かつて彼女が「人生には限りがある」とつぶやいて涙したように、ギャツビーと同様、すでに、それは果たせぬ夢となっていたのです。

まだ世の中が”世界恐慌”を経験していなかった狂乱の時代に、フィッツジェラルドはやがて来る未来を予見するかのような「華麗なるギャツビー」を書いています。世界恐慌後も、何度も発展と衰退を繰り返しながら、所有することで富を増やしていく豊かな者と、労働で日々の糧を得るしかない貧しいる者という”格差社会”の基本的な構造は、100年近くたっても何も変わりません。金融というマネーゲームよって築かれる富は、まるで儚い夢のように一瞬にして虚構になりえるのです。ベトナム戦争終結末期に制作された1974年版は、アメリカンドリームの喪失感を際立たせた皮肉に満ちた一作になっていますが・・・豪華絢爛に盛りに盛ったアメリカンドリームを映像化している2013年版は、アメリカが再びバブル経済に向っていることを象徴しているような気がしてなりません。

「華麗なるギャツビー」
原題/The Great Gatsby
2013年/アメリカ
監督 : バズ・ラーマン
出演 : レオナルド・ディカプリオ、キャリー・マリガン、トビー・マグワイア、ジョエル・エドガートン、アイラ・フィッシャー、アデレイド・クレメンス、ジェイソン・クラーク

「華麗なるギャツビー」
原題/The Great Gatsby
1974年/アメリカ
監督 : ジャック・クレイトン
脚本 : フランシス・フォード・コッポラ
出演 : ロバート・レッドフォード、ミア・ファロー、サム・ウォーターストン、ブルース・ダーン、カレン・ブラック、ロイス・チャイルド、スコット・ウィルソン

 

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2013/06/12

不思議ちゃんアティナ・ラシェル・ツァンガリ(Athina Rachel Tsangari)監督とギリシャ映画界の”新しい波”の旗手ヨルゴス・ランティモス(Yorgos Lanthimos)監督の”ヘンテコリン”映画~「Attenberg/アッテンバーグ(原題)」「ALPS/アルプス(原題)」~



ヘンテコリンな映画って、テイストが合えば「なんだか好き♡」であるし、合わなければ「なんじゃこりゃ???」と、好き嫌いが分かれてしまうものです。以前「めのおかしブログ」で取り上げたヨルゴス・ランティモス監督の「籠の中の乙女/Dogtoothは、奇妙であるが故に強く惹かれてしまうところがありました。その作品のプロデューサーのひとりだったアティナ・ラシェル・ツァンガリ(Athina Rachel Tsangari)という女性が監督した作品が「アッテンバーグ/Attenberg」であります。まず「Attenberg」って何のことだろうって思ったら、動物ドキュメンタリー番組で知られるアッテンボロー博士の名前を主人公が”聞き間違えた”ということに由来しているということ・・・本作の不思議さはタイトルからもうかがえます。

主人公のマリーナ(アリアン・ラペド)は、人間的なコミュニケーションが苦手な23歳の女性・・・父親(ヴァンゲリス・モーリキス)と女友達のベラ(エヴァンジェリア・ランドウ)ぐらいとしか日常生活で他人との接触しかないようです。マリーナは、この二人とは動物のような動き(踊り?)をしてコミュニケーションを取っているようで、シーンとシーンの間に時々挿入されるのですが・・・この独特の奇妙な動きこそ、本作の見どころのようになっています。母親と父親は随分昔に別れて、マリーナは父親と二人で生活してきたようです。父親は最近までは建築関係の仕事をしていたらしいのですが、重い病気を煩い検査や入退院を繰り返しています。マリーナは車の送迎の仕事をしながら、父親の看病とアッテンボロー博士の動物ドキュメンタリーをテレビで観るという日々を過ごしているのです。

唯一の友人らしいベラは性体験が豊富ということで・・・男性経験のないマリーナに性的なレッスンをしています。本作のオープニングシーンは、ベラとマリーナのディープキスの練習をしているところで、いかにも”ヘンテコリン”映画であることを主張しているかのようです。ベラとのレッスンのおかげ(?)で、マリーナは自らのセクシャリティにも目覚めて、異性にも興味を持ち始めます。

仕事で町を訪れたエンジニアの男性(ヨルゴス・ランシモス)の送迎をきっかけに、マリーナはこの男性に好意を抱くようになるのですが・・・二人の肉体的な接触はギクシャクしていて、なんとも異様。それでも、何度目かには肉体的に結ばれる(挿入成功)となります。動物的な本能で処女がイニシアティブを取ってセックスをしようとすると、こういう感じになるのでしょうか?

ここから「アッテンバーグ」のエンディングを含むネタバレがあります


本作は、父親と一人娘の関係がテーマのようなのですが・・・結論というのは、ハッキリとは描かれていません。映画の中では、背景としても登場人物の4人以外の人間の姿というのが殆どなく、まるでこの世に存在するのは彼らだけのような錯覚に陥らされます。マリーナにとって、自分が関わっている人以外は、まるで最初から存在さえしていないとでもいうのでしょうか?また、舞台となるのは海に面したギリシャの小さな街なのですが・・・ギリシャっぽい白い建物はあるものの、いかにもギリシャだというような日差しも青い空も出てきません。工業地域の殺伐とした風景ばかりなのです。

限られた人間関係しかないマリーナにとって、父親の死というのは非常に大きな出来事ではあるはずなのですが・・・日に日に衰えをみせる父親は、あっさりと亡くなってしまいます。(亡くなるシーンさえありません)ギリシャ正教では火葬が許されていないようなのですが・・・マリーナは父親が望んでいたように火葬して海に散骨して、本作は終わります。殺伐とした工場は、何も変わりません。

エンディングを迎えても、何を訴えようとしているのか、いまいち分からない映画です。でも、奇抜さだけを狙った”ヘンテコリン”キャラのようなマリーナが、徐々にリアルな存在としてシンパシーを感じるようになるという不思議な作品でありました。


「籠の中の乙女/Dogtooth」でギリシャ映画界の新しい波の旗手となったヨルゴス・ランティモス監督による新作「ALPS/アルプス(原題)」は、前作以上に奇妙な世界観を印象づける”ヘンテコリン”な映画であります。”ALPS”というのは・・・死後に亡くなった人を演じて遺族の悲しみを和らげるビジネスを行なっている謎の組織のこと。最近日本映画界で続々と制作されているような「亡くなった人との絆」を描いた”お涙頂戴”を売りにするような「感動作」を期待したら、呆然とさせられてしまうような作品です。といって・・・前作のような風刺的なコメディという趣でもありません。

「アルプス」のメンバーは、リーダー格の救命士で通称”モンテ・カルロ”(アイリス・サーヴテイルズ)、同じ病院に勤める看護師で通称”モンテ・ローザ”(アッゲリキ・パプーリァ「籠の中の乙女」)、そして若い新体操選手(アリアン・ラペド「アッテンバーグ」)と、中年の新体操コーチ(ジョニー・ヴェキリス)の4人であります。モンテ・カルロは、病院の控え室で自分のマグが誰に使われることに神経質になるような男なのですが、モンテ.ローザは「だったら私の使えば?」と優しく接しています。また、新体操選手はポップミュージックでパフォーマンスをしたいと訴えているのですが、中年コーチはまったく許可しようとせず・・・二人のあいだには確執があるようです。

ある夜、テニス選手として活躍していた若い娘が事故で瀕死の状態になって救急病棟に運ばれてきます。すかさずに両親と親しくなる看護師のモンテ・ローザ・・・彼女は娘が亡くなるタイミングを見計らって、遺族を「アルプス」のサービス(週数回、数時間、娘を両親の前で演じることで悲しみを和らげる)へ勧誘することが目的だったのです。亡くなった人を演じるにあたって、アルプスがこだわっているのは、故人の口癖や、生前によくいう言い回しを再現すること・・・一字一句間違えずに言うことを重要視しているようです。あるクライアントに言い間違いをしってしまった新体操選手は、謹慎させられたり、厳しいトレーニング(?)を強いられたりしているのですから。

しかし、この「アルプス」が”ヘンテコリン”なのは、台詞の正確さにはこだわりをみせているにも関わらず・・・その台詞は何も感情が入っていない棒読みだということです。ところが、遺族が、そんな”やっつけ仕事”っぷりに怒るというわけではなく、遺族たちも淡々と台詞を棒読みして淡々とこなすだけといった感じなのであります。その上、遺族の顔は画面のカメラフレームからはみ出ていたり、フォーカスがボケていたりと、鼻っから遺族たちの反応には興味もないような演出をされていて、なんとも”ヘンテコリン”なのです。

亡くなった恋人との口喧嘩と仲直りを再現させてから、オーラルセックスを要求してきたクライアントの男は・・・彼がオーラルセックスをしていた時に、彼女が言っていた「やめないで!天国みたいだわ~」という台詞を言わせようとします。彼女が「天国」を「楽園」と間違えると、すぐさま言い直させる様子は、悲しみを癒すというよりも、単に彼の好きなプレーをしているに過ぎないように見えてしまいます。また、中年体操コーチのクライアントの盲目の老女は、亡くなった夫の浮気現場の発見したシーンを再現させて、夫役のコーチと浮気相手役のモンテ・ローザを、何度となくひっぱ叩きます。不愉快な過去を再現することで、何らかの癒しの効果があるのでしょうか?

ここから「アルプス」のエンディングを含むネタバレがあります。


さて・・・テニス選手だった娘を体操服を着て演じるモンテ・ローザですが・・・年齢的にちょっと無理が合って、悪趣味なロリコンのコスプレにしか見えません。しかし、父親はソファで自分に抱きつかせたり、ボーイフレンドだった若者に会わせたりと、亡くなった娘が生きていた時以上に”娘”を要求してくるようになていきます。

実際の生活では、父と娘のふたり暮らしをしてきたモンテ・ローザなのですが・・・最近、父親が社交ダンスクラブでガールフレンドができたことがきっかけで、彼女自身のアイデンティティーが演じているテニス選手の娘へと移行してしまうのです。娘のボーイフレンドだった男の子を誘惑してセックスしてしまったりと、契約外での勝手な行動により、彼女は仕事から干されることになります。さらに、リーダーのモンテ・カルロからの制裁は、暴力だけでなく「アルプス」のメンバーからも外されるという過酷なものだったのです。

テニス選手の家庭には、新体操選手の若い女性が娘役として入り込んでいることを知ると・・・モンテ・ローザは、ますます自分を失っていきます。自分の父親を誘惑してみたり、父親のガールフレンドに暴行をしたり、挙げ句の果て、夜中に窓ガラスを壊してテニス選手の両親の家に侵入して、父親相手に繰り返し娘の台詞を言い続けるという奇行をするようになってしまうのです。しかし、ここでモンテ.ローザは本作から姿を消します。

新体操選手は希望通りポップミュージックをバックグラウンドにパフォーマンスを行なっています。「あなたは最高のコーチだわ!」と言って中年コーチに抱きついて・・・本作は終わります。新体操選手とコーチとの関係というのは、リアルの関係だったのでしょうか?何がリアルの人間関係で、何がフェイクの人間関係なのか・・・分からなくなってしまうような不可解なエンディングでした。

前作「籠の中の乙女」は、父親が管理する閉じた家の中で育てられた兄弟姉妹のお話。コミュニケーションに不可欠な言葉(固有名詞)の意味を、父親よって意図的に変えてしまうことは・・・子供たちの”思想”までをもコントロールするかのようでした。本作「ALPS/アルプス」では、遺族にとって故人に対する癒しを感じられるのは、関係性から生まれる”感情”ではなく・・・感情を生み出した”言葉/台詞”そのものであるかのようであります。

ヨルゴス・ランティモス監督は、あえて”ヘンテコリン”な家族を描くことによって・・・「言葉」と「人間関係」を問い続けているのかもしれません。

「アッテンバーグ(原題)」
原題/Attenberg
2010年/ギリシャ
監督・脚本:アティナ・ラシェル・ツァンガリ
出演   :アリアン・ラペド、ヨルゴス・ランティモス、ヴァンゲリス・モーリキス、エヴァンジェリア・ランドウ
日本未公開

「アルプス(原題)」
原題/ALPS
2011年/ギリシャ
監督 : ヨルゴス・ランティモス
出演 : アッゲリキ・パプーリァ、アリアン・ラペド、アイリス・サーヴテイルズ、ジョニー・ヴェキリス
日本未公開



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