2011/10/31

リアル「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」なドキュメンタリー映画・・・”猿の惑星”という概念そのものが人間の不安と妄想でしかない~「プロジェクト・ニム/Project Nim」~



1968年に公開された第1作「猿の惑星」の衝撃のエンディング以来、猿によって地球が支配されるというアイディアは、世代が変わっても人々の関心を引くようで・・・オリジナルの全5作品は、繰り返しテレビで放映されたし、DVDボックスとして繰り返し再版されています。

「猿の惑星」シリーズ最新作となる「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」は、オリジナルシリーズの「猿の惑星:征服」にあたるエピソードを、全面的に書き換えた”リセット”と呼べるような作品で、オリジナル版にあった人権問題のテーマは排除されて、動物虐待や環境の問題をテーマにしたような作品でありました。テンポも良くエンターテイメントとして完成度が高く、CGによる猿のグラフィックが格段と進歩したことによって、オリジナル版では限られていた猿の表情も人間並みに豊かになっています。

ただ、猿(シーザー)の感情表現が人間並みというのも「善し悪し」という気がしました。・・・というのも、人間が察するr動物の感情というのは、逆に人間よりも乏しい表現からこそ、動物を”擬人化”して、動物が感じている以上の感情を深く読み取ろうとするからかもしれません。人間に近い表現になればなるほど、薄気味悪く感じてしまうのです。「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」のシーザーは、アルツハイマーの治療薬の影響で「人間の脳」に進化したということなので、人間と同じような表情をするのは当然なのかもしれませんが。

今から38年前(1973年)・・・「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」を連想させるような「ある科学実験」がスタートしました。その実験台となったチンパンジーのニムの生涯を、実験に関わった人々へのインタビュー、資料映像や写真、再現ドラマによって、まとめらえれたのが「プロジェクト・ニム/Project Nim」というドキュメンタリー映画であります。

1973年、オクラホマ州の霊長類センターから、僅か生後2週間のチンンパンジー1頭が母親から引き離されます。コロンビア大学のハーバード・テラス教授は、チンパンジーが人間のように言語を覚えられるのか・・・手話を通じて会話を習得できるのかを実験するために、ニューヨーク市内で暮らすステファニー・ラファージ(テラス教授の元恋人)と彼女の家族(夫と二人の子供たち)の元で、ニムを「人間の子供」と同じように育てるように依頼するのです。しかし、ヒッピー的なマインドを持ったステファニーは言語習得のみの実験に疑問を持ち、アルコールを飲ませたり、マリファナを吸わせたり、セクシャルな行為を誘発するなど、勝手な行動を取るようになります。チンパンジーの母親から引き離されたように、ニムはステファニーから引き離され、大学の施設に移されることになります。

大学の施設では、手話の指導員がニムの世話係(母親役)となるのですが・・・その当時、テラス教授と恋愛関係だったローラ・アン・ペティートという女子学生に、ニムは託されることとなります。しかし、二人の関係が解消してしまうと、また別な女子学生ジョイス・バトラーに託されることとなり・・・そのジョイスも、もうひとりの手話指導員の男性と恋愛関係になってしまいます。ニムは生後5年間、結果的に教授や取り巻く人間同士の関係に翻弄され、3人を代理母の転々としたことになるのです。そして、ニムは成長しいくにつれ野生の本能にも目覚め、世話係に噛み付いたりして手に負えなくなってきます。望んでいなかった実験結果が得られないと分かった段階で、テラス教授はニムに興味を示さなくなります。大学の施設を離れてから、教授がニムを尋ねたのは一度きり・・・インタビューに答える彼には悪びれた様子は、まったくありません。

実験が中止と決まった途端に大学の施設を離れて、ニムは生まれたオクラホマ州の霊長類センターへ送り返されることになります。ただ、そこは檻の中で動物を飼う環境・・・人間のように育てられたニムにとっては「牢屋」のようなものです。その後、霊長類センターが破産して、ニムはニューヨーク大学の生体実験動物として売り払われてしまいます。テーブルに縛り付けられて、薬物を注射されてて、人間の医療のために生体実験されるチンパンジーたち・・・ニムを救ったのは、霊長類センターに手伝いに来ていた大学院生ボブ・インガーソルでした。彼の動物愛護運動により、ニムはテキサス州にある虐待された動物を保護する牧場へ移送され、なんとか命は救われます。しかし、牧場にチンパンジーはニム1頭だけ・・・集団動物のチンパンジーにとっては拷問のような生活だったのです。その後、2頭のチンパンジーが牧場に引き取られて、ニムはチンパンジーの仲間を得て、多少なりともチンパンジーらしい晩年を過ごすことが出来ました。1999年、心臓マヒで亡くなるのですが・・・ニムの生涯は、彼を利用する人間たちの事情によって、人間の世界とチンパンジーの世界という二つの世界に引き裂かれるようなものだったとしか思えません。

テラス教授の実験の結論は・・・ニムは、いくつかの言葉は覚えることは出来たが、それはその時の欲望を満足させるための手段でしかなく、人間のように言葉を駆使して文章を構築するまでには至らなかったということ。しかし、ニムの友人として関わり続けたボブ・インガーソルによると、ニム独自の手話を含めて非言語によるコミュニケーションが取っていたと語っています。ニムが、言葉を理解していたのかは分かりません・・・でも、ニムの感情は、その態度、目の表情などから察するしかないのです。だからこそ・・・ニムの心を推し量ろうとする優しさと謙虚さが、人間側に必要なのかもしれません。

さて何故、言語を覚えられるかを研究するのに「手話」なのか・・・ということですが、チンパンジーには人間のような話すための「筋肉」を持っていないので、言葉を話すことは「不可能」なのです。「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」では、人間並の脳をもったシーザーが「NO!」と叫ぶシーンが象徴的なカタルシスを生んでいましたが・・・根本的に口内構造に変化がない限り「発音」することはありえません。言葉を話す猿に支配された世界・・・という「猿の惑星」という概念そのものは、人間が妄想するアリエナイ不安でしかないのであります。

「プロジェクト・ニム」
原題/Project Nim
2011年/イギリス
監督 : ジェームス・マーシュ
2011年10月26日「第24回東京国際映画祭」にてプレミア上映
日本劇場未公開



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2011/10/27

台詞に酔っているだけの薄っぺらいファッション映画、再び!・・・おしゃれが似合わない”向井理”と女装子を怪演する”五十嵐隼士”にズッコケまくり~「パラダイス・キス」~



このテの映画をわざわざ映画館に観に行くというのは、いくらなんでも時間と金の無駄のように思えて・・・DVDレンタルでの観賞であります。「ランウェイ☆ビート」よりも頭の悪いファッション映画なんて、いくらなんでもアリエナイって思っていましたが、やってくれました・・・「パラダイス・キス」。原作マンガは読んでないし、アニメも観ていないので、あくまでも実写映画版”のみ”についてのお話でありますが。

なんと言っても、服飾専門学校の生徒で、超お金持ちのジョージ役の「向井理」がヒドい・・・。演技が下手とか、顔や雰囲気が好きじゃないっていうのはありますが・・・よく引き受けたと思うほどの、無惨なまでの”ミスキャス”トです。まず、ブリム付きのハットを、ずっとかぶっているんだけど、まったく似合いません。彼のような無個性で薄い顔の男って、素朴っぽい普通の格好しかサマにならないので、トレンディーなファッションに、完全に着られてしまうんですよね。

ジョージは超金持ちの息子で、都心の高層マンション(4ベットルームほどの部屋数に、40畳ぐらいのリビングルーム)に暮らしており、目黒川沿いの地下のアトリエ(こちらも天井が高い50畳ほどの空間)もあるという・・・ファッションデザインの専門学校生にして、すでに大成功しているデザイナーのような生活をしています。それだけ経済力あるなら「自分で会社作った方が早くねぇ?」としか思えないんだけど・・・チマチマと卒業製作を3人の仲間と共にしていたりするんです。

不思議なのは「天才デザイナー」と言われ、5歳の時からドレスを作っているという設定なんだけど、まともに服作っているシーンとか全然なくて、唯一手を動かしているのは卒業制作のドレスのための「青いバラの造花」ぐらい。今まで彼のつくったドレスの数々を収めたクローゼットルーム(何故か、アクセサリーや靴まである)を見ると、ジョージの作ってきた服のデザインって、キャバ嬢が誕生日の営業で着るようなゴテゴテと装飾のついたドレープのロングドレスばっかり。その上、このドレスたちは”思い出”だから誰にも売らないなんて・・・「おまえ岡本太郎か!」と叱りたくなるような、かなり勘違いしているデザイナー志望のお坊ちゃまなのであります。

このジョージに見初められて、モデルの道を進むことになる女子高校生の紫(ゆかり)を演じるのは、ポスト沢尻エリカとも言われる”北川景子”・・・出番の8割は仏頂面で、”エリカ様”を参考にしたのかしら・・・と思えるほどの堂々とした太々しさ。まったくもって、受験校に通う女子高校生には見えません・・・化粧も濃くて、まるで酸いも甘いも知っているキャバ嬢の女子高校生のコスプレみたい。イヤイヤ引き受けたのに、卒業ファッションショーで「モデル」という仕事に目覚めるというのが、物語的にも山場のはずなのですが・・・美人の北川景子では、最初っから「モデル然」として完成され尽くしていて「女子高校生が自分の夢を見つける」という自分探しの成長物語としてのカタルシスが感じられないのです。

日本で「ファッションショー」の意味を勘違いしているのが・・・「ファッションショーは、モデルのパフォーマンスを見るためではない」ってこと。東京ガールズコレクションのように、服を買うお客さん相手のファッションショーというのが、日本のマスコミで大々的に報道されるという事情もあるのでしょうが・・・ファッションを扱うメディアが、あまりにもモデルを持ち上げ過ぎるから、変なことになっているような気がします。

ジョージとゆかり(実は仲間からは、キャロラインとか、キャリーとも、呼ばれているという恥ずかしさ)の経緯で、ありえないのが、オープン(!)スポーツカーで、いきなりラブホテルにゆかりを連れ込むジョージが、ベットの上で嫌がるゆかりに対して「自分の足で歩いてホテル部屋まで入ってきたくせに、自分の意志はどこにあるんだ?」と問い詰めるシーン・・・女子高校生相手に、へりくつの説教して、レイプまがいのことするなんて、恐ろし過ぎます。この台詞の伏線が、卒業ファッションショーのランウェイに上がる直前に緊張しているゆかりに向かってジョージが言う「自分の足で歩いてこい!俺がここでおまえを待っているから」なんだけど・・・元々の台詞を引用しているシーンがシーンだけに、感動とはほど遠くなってしまうのであります。

サイドストーリーで取って付けたように登場するのが、ゆかりの初恋の人で憧れの徳森くん。演じる山本裕典は、まず、見た目からして、チャラいホストにしか見えないんなんだけど・・・なんで、ゆかりがそこまで惚れてしまうのか全然分かりません。キャバ嬢系のゆかりだから外見的にホストっぽいルックスに弱いのかしら・・・?徳森くんの幼なじみであるミワコとアラシはジョージと一緒に「パラダイス・キス」というブランドをやろうと頑張っているわけなんだけど、実は子供時代、徳森くんを含めた三角関係でミワコを取り合っていた仲という設定・・・といっても、トンチンカンな三人の感情の流れに理解不可能。本筋とは関係ないんだから、もうどうにでもなってくれ〜!という感じでした。

残念ながら、ボクにとっては魅力に欠けた面々ばかりなんだけど・・・上手いか下手かは別にして(笑)、ひとり異彩を放っていたのが、女装子のイザベラです。奇妙奇天烈なギャル風メイクに、淑女のような帽子とドレープのロングドレスという1970年代の浅丘ルリ子か加賀まりこを彷彿させる”イデタチ”。「みんなのことは、全部分かっててよ」的な”ゴットマザー”のような存在という・・・冗談みたいな役柄を、”五十嵐隼士”が、真面目に「怪演」しております。映画公開の時には、女装のイザベラの姿で舞台挨拶をしていたようで・・・その無意味な”プロ根性”に、思わず拍手です。イザベラがジョージに恋心をよせていることは明らか・・・卒業後、パリのメゾンで修行するというジョージに甲斐甲斐しく付いていくほどなのだから。「彼のためにパターンを引き続けるのが私の夢♡」なんて裏方でジョージを支えることを志した可愛い人なのです。それなのに・・・ラストでは、ゆかりにジョージを再び奪われてしまうなんて、なんとも可哀想なイザベラであります。

全編に渡って・・・「こりゃないだろう」というツッコミどころ満載の本作ですが、最後の最後、ジョージはパリへ修行へ行ったものの、売るためのだけの服が服ではないって思って、ニューヨークのブロードウェイの衣装デザイナーになったという下り”だけ”は、ある意味「正解」のエンディングではありました。だって・・・ジョージのデザインした服って、時代錯誤した「衣装」にしか見えないのだから。コスチューム・デザイナーとしては”あり”というのは、キャリアの選択としては「非常に正しい」と納得なのでした。・・・ただ、組合(ユニオン)の非常に厳しいブロードウェイのコスチュームデザイン業界というのは、実は狭き門で年功序列の世界。数年でブロードウェイのショーの衣装を任されるというのは、絶対にあり得ないことではあるのですが。

この映画のキャッチコピーは「自分の可能性を信じなきゃ何も始まらない。」ということなんだけど、ジョージにしても、ゆかりにしても、スタートラインでのポテンシャルが高いから・・・可能性を信じるも、何も、物語を成り立たせるために決められた成功の道を進んだに過ぎないという感じであります。「夢」とか「可能性」とか、台詞に酔っただけの薄っぺらい物語は、今のファッション業界が発信している流行の”薄っぺらさ”そのものに過ぎないのかもしれません。

それにしても「パラダイス・キス/Paradise Kiss」というタイトルになっている”ブランドネーム”・・・英語的な感覚だと「エロティック・ランジェリー」のブランドにしか思えない、かなり安っぽいネーミングセンスです。

「パラダイス♡キス」にしなかったのは「ランウェイ☆ビート」よりは・・・賢明でした。

「パラダイス・キス」
2011年/日本
監督 : 新城毅彦
脚本 : 坂東賢治
出演 : 北川景子、向井理、山本裕典、五十嵐隼士、大政絢、賀来賢人、加藤夏希



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2011/10/25

それでも移民はアメリカン・ドリームを目指すの・・・あまりにも素敵なメキシカンのパピ(ダディー)にメロメロであります!~「明日を継ぐために/A Better Life」~



格差社会の解消、雇用の改善などを求める「オキュパイ・ウォールストリート」の流れが全米に広がるような時代であっても・・・まだまだ、アメリカン・ドリームを夢見て移民はアメリカを目指します。とは言っても、その前途は多難です。アメリカ人の低所得層になりがちな黒人やラテン系の人たちは、いわゆる「3K」と呼ばれる「キツイ」「キタナイ」「キケン」な仕事を、少ない賃金でするしかない場合が多いのです。ボクの住んでいたニューヨークでも、公園でブロンドの子供の面倒を見ているのは、明らかに母親でない有色人種の女性・・・会社の掃除係や荷物の運搬係だって、白人であることは稀なこと。人種差別はいけない・・・という個人的な意識を持っている人はたくさんいるけれど、職種や賃金には目に見えない「棲み分け」というのは、しっかり行なわれているのです。

ボク自身は20年ほどの在米期間、永住権の申請のためにジャパニーズレストランで1年ほど働いた以外は、いわゆる「日本人向け」の仕事についたことはありませんでした。実は、これって結構珍しいことで・・・殆どの日本人は「日本人相手の仕事」(食料品店、弁護士、医者、旅行会社など)または「日本人であることが”売り”になるような仕事」(寿司職人、美容師、日本語教師など)につくことが多いのです。ボクのいたアパレル業界では、パタンナー、カッター(型紙から布地を切る人)、縫製する人というのは、日本人の他、イタリア系、中国系、ラテン系などの移民の仕事という漠然としたイメージがあって、デザイナーやディレクターのような立場の仕事は、ユダヤ系、またはアメリカ白人ということが多かったです。

移民がすることが容易い仕事というのは、ある意味、雇われの「職人」・・・日本人は、穏やかで従順な国民性、仕事に対するプロフェッショナリズム、そして細かな作業が得意ということもあって、移民のなかでも非常に重宝されていることは確かです。発展途上国への援助活動や、日本人向けの職業でなく・・・あくまでも、自分の専門分野での自己実現を、海外で目指すのであれば、日本へ帰国後、日本国内の日本人に対しての「箔」をつけるためであると割り切るべきでしょう。これは、シェフやパティシエ世界では、ポピュラーな”箔づけ”の手法かもしれません。とにかく、移民という立場で、何かを成し遂げるのは大変なことであるということです。

前置きが長くなってしまいましたが・・・「明日を継ぐために」」は、不法滞在しているメキシコ移民の父親カルロス(デミアン・ピチル)と、アメリカで生まれた息子ルイス(ホセ・フリアン)の物語。カリフォルニアには、庭師の仕事をするメキシコからの労働者が多くいるのですが・・・ホームセンターの出口でその日限りの仕事を請け負うという仕事なのです。背の高い木に登るような作業は危険も伴うはずですが・・・労災なんてものはありません。ロスの高級住宅地の美しく整えられた生け垣や庭というのは、最低賃金以下で働く不法滞在のメキシコ移民の庭師がいるからこそ、美しく保たれているのです。

そんな日雇いの庭師をしながら、男ひとりで息子を養っているカルロス・・・妻/母親が何故いないかは、映画の終盤まで説明されません。自分のトラックさえ持っていれば、いつ働けるのか分からない日雇い労働ではなく、自らがボスとなって稼ぐことができる・・・そうすれば、少しでも息子にマシな生活と、良い教育を受けさせることができるのではないかと考えます。アメリカ移民の一世代目(ファースト・ゼネレーション)というのは、自己実現という自分の成功ではなく・・・身を粉にして働いて、自分の子供たち(セカンド・ゼネレーション)に高い教育を受けさせて、アメリカで成功して欲しいという願いを持って頑張るものなのであります。カルロスはアメリカ人と結婚して安定した生活を送っている妹から借金をして、小型のトラックを手に入れます。ところがヘルプとして雇ったメキシコ人の男に、仕事中、車を盗まれてしまうのです。

ここからネタバレを含みます。

息子のルイスは、いつも仕事でボロボロの父親のような生き方にはうんざり・・・メキシカンのギャング達の裕福な生活に憧れを感じてはいるものの、トラックを盗まれて失意の底にいる父親を見捨てることはできません。トラックはすでに転売されていて、修理工場あることが判明します。カルロスと息子は、夜中にガレージに忍び込んで、まんまとトラックを盗み返すことには成功するのですが・・・その後、警官に呼び止められて、不法滞在者であることがばれてしまいます。そして、カルロスは移民局の留置所送りとなってしまうのです。

裁判での勝ち目は殆どない・・・と告げられたカルロスは、息子を妹家族に預けて、メキシコへ送還されることに承諾します。息子ルイスとの最後の面会でカルロスは、メキシコからルイスの母親と共にアメリカに不法入国したこと、ルイスを授かった後に母親は別な男をみつけて去ってしまったことを語ります。そして、ひとりっきりでルイスを育ててきたことこそが、生ている理由であり証であったと告げて、メキシコへ送り返されて行きます。映画は、再びメキシコからアメリカの国境を越えるため、砂漠を歩くカルロスの姿で終わります。カルロスの父親としての愛情とは・・・なんと深いのでしょう。

ボク自身は育った環境から・・・「父親の愛情」というモノに対して、非常に不信感が強いのです。カルロスのような父親の存在というのは、正直キレイごとのようにしか感じられないところがあります。しかし同時に、カルロスのような父親もいるのだと信じたい・・・と、封印してきた父親という存在への期待というのが、ボクの心の隅に残されているような気もしてきて、複雑な心境になってしまいます。だから、父親と息子の愛情を描いた映画というのは、ボクは苦手なのであります。

にも関わらず・・・本作にボクがメロメロになってしまったのには、まったくもって不謹慎な理由があるのです。それは、父親のカルロス/デミアン・ピチル(「チェ・28歳の革命/チェ・38歳別れの手紙」ではカストロ役を演じていた)が、あまりに素敵なこと。「こんなパピ(ダディー)が欲し~い!」なんて思って、彼の経歴調べたら・・・なんとボクと同じ1963年の生まれ(まぁ、明らかに年下でなかっただけマシだけど・・・)。正確に言うとボクの方が半年ほどお兄さんであったことが判明して、なんともやりきれない気持ちになったのでした。

「明日を継ぐために」
原題/A Better Life
2010年/アメリカ
監督 : クリス・ワイツ
脚本 : エリック・イーソン
出演 : デミアン・ピチル、ホセ・フリアン、ドロレス・エレディア、ホアキン・コシオ、カルロス・リナレス
2011年10月22日「第24回東京国際映画祭」にてプレミア上映
日本劇場公開未定



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2011/10/23

「親」としての最も過酷な試練って何?・・・本当に”神様は乗り越えられる試練しかお与えにならない”のだろうか?~「ビューティフル・ボーイ/Beautiful Boy」~



ボク自身は今後何があっても、決して「親」という立場にはならないこと”だけ”は分かってはいるのだけど・・・「親」の試練って何だろうって考えると、とりあえず「育てる義務」「しつけをする責任」だけでも、ボクにとっては十分なほどの試練に思えてしまうのであります。ただ「親」の中には、”より過酷”な試練が与えられることもあったりします。ひとつは、子供が親より先に亡くなること。それは、病死であっても、事故死であっても、辛いことであるし・・・自殺だったりしたら、悔やみきれなさを抱えることになるでしょう。体が不自由だったり、不治の病だったりで、子供が生きている限り誰かに看てもらえないとしたら・・・(すべてが辛いことではないにしても)ある意味「親」にとっては試練なのかもしれません。もしも自分の子供が”犯罪者”となってしまったら・・・「親」として、どう向き合えば良いのでしょうか?

2007年に起こったバージニア工科大学の銃乱射事件に触発されたという「ビューティフル・ボーイ/Beautiful Boy」は、ある日突然、犯罪の加害者となってしまった両親の姿を、淡々と追った作品です。モデルとなっった事件の犯人が、アジア系(在米韓国人)であったことに、当時多くの人が驚かされました。韓国系アメリカ人であるショーン・クー監督も、自分との多くの共通点を感じた犯人像に大きな衝撃を受けたそうです。ただ・・・本作では、エスニックの背景がテーマではないので、多くのアメリカ人(全世界的にも?)に”一般的”と受け取られやすい「白人」という設定に変更したそうです。

ビル(マイケル・シーン)とケイト(マリア・ベロ)は、ファミリーバケーションの計画の些細なことでも口論の種になってしまう倦怠期の夫婦・・・息子のサム(カイル・ガルナー)は、大学生活を送り始めたものの馴染めない様子。ある日、サムの通う大学で銃乱射事件が発生するのですが・・・安否を気遣うビルとケイトの元に、彼らが予想だにしなかった知らせが届きます。それは、サムが銃乱射事件を起こした張本人で、事件後に自らの頭を撃って自殺してしまったのです。自分の息子の死(自殺)という悲劇だけでなく、多くの犠牲者を出した銃乱射事件の加害者の親となってしまったのあります。こんな状況って「親」に与えられる最も過酷な試練のひとつではないでしょうか?

本作では、加害者の親となったビルとケイトの心情”だけ”を、ただ、ひたすらハンドカメラで丹念に写し取っていきます。息子のサムが何故銃乱射事件を起こしたのかという原因追求も、加害者の親を追いかけるマスコミや報道などが、しっかりと描かれることはありません。事件を報道するテレビのニュース、息子のパソコンに残されていた遺書のような動画、また、彼らを追いかけるマスコミ、また被害者の家族さえも、画面には殆ど写されないのです・・・まるでビルとケイトが”現実”から目をそらすしかないように・・・。事件後、彼らは自宅を離れて、ケイトの弟の家に身を寄せたり、街外れのモーテルに身を隠して過ごします。ある晩、普段は絶対に食べないジャンクフード食べたり、酒を飲んでハメを外して・・・いつしか、ビルとケイトはモーテルのベットで愛し始めます。あまりにも精神的に追いつめられて、どうしようもなくなった時・・・セックスのオーガズムでしか逃れられない感情っていうのもあるんですよね・・・。唯一のセックスシーンであるモーテルでのシーンは号泣ものでありました。

このような事件の場合、加害者の親が”どうあるべきか”・・・という”手本”なんていうのはありません。まずは「加害者の親」として、何かしら責任があるではないか、どうして事件を防ぐことが出来なかったのか・・・親として葛藤して、事件を防げなかった自分を責め続けるでしょう。また「息子を失った親」としての悲しみもあります。本作では、何故、息子が事件を起こしたのか、その動機さえ親には分からないのです。解き明かされることのない息子の思いを抱えて、親としての自分を問い続けることしかできません。いっそのこと息子を”悪者”にできたら楽なのだろうけど・・・結局、親としては息子がどうであっても愛していることに気付かされ、漠然としたまま息子を庇い続けるしかないのです。

映画の終盤「神様は乗り越えられる試練しかお与えにならない」と言うけれど、そうかしら?・・・と、ケイトは息子の墓の前で思わず問いかけます。今後、ビルとケイトが「息子の喪失感」と「親としての贖罪」を克服できるかさえ分かりません。もしかすると生きている限り、彼らはその試練の中で、永遠に得られない答えを問いただすしかないのですから・・・。本当の意味で、ビルとケイトに与えられた試練と心の傷の深さをを理解できるのは、お互い同士でしかないことを悟り・・・癒し合うことしかできないという、彼らの苦しみに寄り添うように本作は終わります。でも、これって何も解決していない「エンディング」でもあります。鬱っぽい状態で本作を観たら、奈落の底に落とされるような気分になったかもしれません。ある時、親としての罪悪感や喪失感から逃れるべき時期がきて、過去の不幸な事を思い出させる相手とは離れたくなるかもしれません。お互いの傷が癒える頃には、ビルとケイトは別れるべきなのかもしれないのですから・・・絶対にハッピーエンドには至らない物語であったのです。

なんとも重苦しく、退屈そうな映画に思われそうですが・・・意外なほどテンポが良く、ハンドカメラでの臨場感も相まって、1時間40分はあっという間です。ケイトの弟エリック(アラン・デュディック/「タッカー&デール対イーブル」でタッカーを演じていた役者さん!)の器の大きさ、エリックの妻(ムーン・ブラッドグッド)も理解しようと努力する優しさを見せます。また、モーテルのマネージャー(ミートローフ/あの「ロッキーホラーショー」に出演していた!)の人情にもホッとさせられるところがあったりするのです。しかし何と言っても・・・本作のキモは父親ビルを演じるマイケル・シーンと、母親ケイトを演じるマリア・ベロの熱演に尽きます。

ショーン・クーという監督に興味をもって調べてみたら・・・ハーバード大学の医学部の出身という超エリートでした。多くのアジア系の移民の子供は高い教育を受けて、医者(または弁護士、学者、など)になることを、親や一族から期待されたりるものだったりします。彼はニューヨークのコロンビア大学の医学部へ進んだことをきっかけに、パフォーミング・アーツの世界に目覚めてしまうこととなります。ブロードウェイで、ダンサーや振り付け師としても活躍し、ライター(脚本家)としても活動。さらに映画(2001年の「Samsara/サムサラ」というチベットの僧侶を主演した)に俳優として出演・・・頭脳だけでなく、さまざまな才能にも恵まれた人だったのです。その後「Pretty Dead Girl」「The American Mall」という2本の映画を監督してはいますが、本作でオリジナル脚本の監督としてデビューとなったわけであります。ショーン・クー監督のインタビュー動画を見た印象では(あくまでもボク個人の意見ですが)・・・ショーン・クー監督は、おそらく”ゲイ”。アメリカという多民族の国で、韓国系アメリカ人という”マイノリティ”だけでなく、ゲイという”マイノリティ”であるからこそ、「親」という存在を冷静に見つめることができるのかもしれません。

「ビューティフル・ボーイ/Beautiful Boy」は、日本で去年開催された「第23回東京国際映画祭」のコンペティション部門で、プレミア上映されていたのですが・・・何故か、その後日本では劇場公開もDVD化もされていません。アメリカでも劇場公開されたのも今年の6月になってから・・・製作は2010年ですが、来年(2012年)のアカデミー賞の候補になるとしたら、主演のマイケル・シーンとマリア・ベロの演技賞のノミネートっていうのもあるのかもしれません!

「ビューティフル・ボーイ」
原題/Beautiful Boy
2010年/アメリカ
監督 : ショーン・クー
脚本 : ショーン・クー、マイケル・アームブルスター
出演 : マイケル・シーン、マリア・ベロ、カイル・ガルナー、アラン・デュディック、ムーン・ブラッドグッド、ミートローフ
2010年10月24日「第23回東京国際映画祭」にてプレミア上映
日本公開未定


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2011/10/19

ガチムチ熊系のヨゴレ(?)好きが萌える”ホラーコメディ”・・・まるでドリフのコントみたいな死に方や〜ん〜「タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら/Tucker and Dale vs. Evil」〜



主演の男ふたりが、ガチムチ熊系(それにヨゴレ?)好きのゲイを萌えさている「タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら/Tucker and Dale vs. Evil」は、「悪魔のいけにえ」に代表される田舎ホラー(田舎に進入した旅行者が酷い目にあう)の構図を逆手にとったホラーコメディであります。

気のいい田舎者の親友同士で、兄貴分のダッカー(アラン・デュディック)と、お人好しで頭の弱いデール(タイラー・ラバイン)は、山の中にキャビンを購入。男ふたりしてルンルンと休暇へ向かうのですが・・・都会から遊びに来た大学生8人グループに、田舎ホラーに出てくるような危険人物だと勝手に思われてしまいす。デールは、グループで一番かわいいアリソン(カタリナ・ボーデン)に、ひと目惚れしてしまうのですが、田舎者のゆえ緊張でガチガチ・・・それが危ない人に見えてしまって誤解を深めてしまいます。大学生グループのリーダー格のチャド(ジェシー・モス)が、若者を惨殺した殺人鬼の伝説を語り、若者達はますますタッカーとデールを恐れるのです。

その夜、湿地帯でタッカーとデイルが魚釣りをしていると、大学生グループが大騒ぎしております。暗闇のタッカーとデイルの姿を見て怯えたアリソンは、ビックリして水の中に落ちて気を失ってしまいます。彼女を救おうとするデイルをみて、若者達はアリソンが襲われて拉致されたと勘違いしてしまうのです。アリソンを救おうと、タッカーとデイルのキャビンに近づく若者達なのですが・・・次から次に慌てて自滅していくというか、まるでドリフターズのコントのような死に方をしていきます。逃げているうちに尖った枝にカラダを串刺しにされるとか、木を砕く機械に間違って頭から突っ込むとか、釘の飛び出た柱に頭をぶつけるとか・・・グロテスクな描写はしっかりと見せながら、ドタバタコメディのノリに笑うしかありません。

若者達の一方的な”殺人鬼な田舎者”のステレオタイプだけでなく、気弱な田舎者からの”都会の大学生”のステレオタイプも描いているところがミソで・・・タッカーとデイルは彼らの事を「田舎に自殺にしにきた変な若者」と思い込んでしまうのであります。田舎者を殺人鬼だと勘違いして恐れる都会人の大学生の方が、よっぽど暴力的というところは、思い違いコメディとしての風刺と皮肉が効いています。また結末は、「美女と野獣」のハッピーエンドというオチ・・・田舎ホラーのパロディでありながら、田舎男に萌えちゃったかわいい都会の女の子の”ラブコメ”でもあるのです。

さて・・・本作では、何気にタッカーとデイルのホモソーシャルな関係も描いております。まず、男2人で山の中のキャビンで休暇というだけでも、かなり怪しすぎ・・・まるで「ブロークバック・マウンテン」のようであります。車の中でデイルの頭が引っかかってタッカーの股間近くにくるとか、タッカーを倒れそうな柱からかばってデイルが上に乗っかってキスしそうになったりとか、そのケはないけど、それっぽい笑いを”あえて”付け添えているのは・・・なかなか”したたかな”確信犯とみました。

「タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら」
原題/Tucker and Dale vs. Evil
2010年/カナダ
監督 : イーライ・クレイグ
出演 : タイラー・ラバイン、アラン・デュディック、カタリナ・ボーデン、ジェシー・モス
2012年2月11日より日本公開



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2011/10/12

”キャリー”よりサディスティックな”ひとり”プロム・クィーン!・・・ハイスクール向けの健全なコメディ・スラッシャー・ムービー~「The Loved Ones/ラブド・ワンズ」~



アメリカの高校生のデート・ムービーと言えば・・・”スラッシャー・ムービー”っていうのは、結構「定番」だったりするわけですが、あまりにも設定が病的だったり、残酷描写の度が過ぎてしまうと、デートの後「げっそり・・・」なんて事にもなりかねません。オーストラリア産の「ラブド・ワン/The Loved Ones」は、高校生のデートにもピッタリ(?)と思える健全な正統派コメディ・スラッシャー・ムービーでありました!

ブラント(ハヴィエル・サミュエル)はイマドキのイケメンの高校生・・・父親とドライブしていたら血まみれの男がいきなり道に現れて、父親は事故で亡くなくしていまいます。それからは家族は落ち込み気味で、彼の母親(スージー・ダクハーティー)は、げっそりやつれて化け物みたいになっちゃうし、ブラントはガールフレンドのホーリー(ビクトリア・タイン)と、陰気なカーセックスなんかしてます。

そんな時、高校卒業のプロム・パーティーが近づいてきます。プロムって、オーストラリアの高校生にとっても、一大イベントのようであります。ブラントのオタクの男友達(リチャード・ウィルソン)は、黒魔術でもやってそうなゴシック系の美少女ミア(ジェシカ・マクナミー)にアタックしてプロムデートをゲット!意外なことに、同級生の垢抜けないローラ(ロビン・マクリーヴィ)も、いきなりブラントをプロムデートに誘ってきます。ブラントは恋人のハニーと行くつもりなので、ローラはあっさりと断られて玉砕・・・普通の女の子であれば落ち込んだり、ストーカー女にでもなるのでしょうが、そんな生易しいもんではありません。実は、ローラと彼女の父親(ジョン・プランプトン)は、支配欲が強くて拷問好きという”キ○ガイ親子”であったのです!

プロムナイトの前に、父親は娘のためにブラントを拉致します。目覚めるとブラントは、タキシードを着させられて椅子に拘束されていて、強制的にプロムディナー(?)に参加させられることになってしまいます。そこには魂の抜けたような中年女も座らされており、どうやら、この女は父親が拉致してきた母親代わのようです。女王さまのように振る舞うローラに逆らうものなら、痛~い拷問のお仕置きが待っていることは言うまでもありません。指をしゃぶれと命令されてやらなければ、首にぶっとい注射を打たれてしまうし、隙をみて逃げて再び掴まってしまうと、足を床に大きな釘で打ち付けられてしまいます。遂には、頭に電気ドリルで穴をあけて、熱湯を注ぐというロボトミーのような手術(?)を施されそうになったります。

残酷な描写には思わず目をつぶってしまうという人でも安心・・・本作は、残酷なグラフィック描写の決定的な瞬間を、カメラは巧みに避けてくれるのですから。ナイフが肌をざっくりと切り裂く様子や、足に打ち付けられる釘が入ってところや、電気ドリルでおでこに穴をあける瞬間を見たい・・・という輩には、腰くだけではあるでしょうが、デート・ムービーとしてはまったくもって正しい選択であります。

また、ブラントが拉致されているのと同時進行で”箸休め”のように挿入されるのが、オタクの友達とゴシック美少女ミアのプロムデートの様子。実はミアはエロい女の子で、ドギマギしているオタク君を翻弄しっぱなしなのです。パーティーに向かう車の中では「しゃぶってあげようか?」なんてケロッとして言うし、本来ならロマンティックなプロムダンスではオタク君の股間をまさぐりまくる・・・結局、プロム会場を後にしてカーセックスに励むことになるのです。この2人の伏線が、どこかで本筋と繋がるのかと思っていたら・・・何も関係ないっていうところが良いのです。

「キャリー」と「悪魔のいけにえ」を足して2で割ったような話で、格別新しいわけではないけど・・・とにかく展開がスピーディーなので、最後まで一気に見せてくれます。

ここからネタバレを含みます。

ローラと父親がイケメンを拉致して拷問するのは、ブラントが初めてではなかったのです。家の地下には、ロボトミー手術を施されて生きる獣のようになって、人肉を食らう男たちが飼われていたのです!ローラの父親を地下に突き落として殺すことに成功するものの、ブラント自身もローラによって地下に落とされてしまいます。父親をこ殺されて気がたかぶってきたローラは、ブラントの母親とガールフレンドのホーリーを殺すために、家から出て行きます。

ブラントは地下にいる化け物(実はローラの犠牲者なわけだけど)たちを殺して、車によって遂に脱出に成功するのです。ブラントを探しまわてちるハニーを路上で見つけたローラはナイフで襲いかかります。何とか逃げ惑うホーリーの後ろからブラントの運転する車が、物凄いスピードでやってきます、。あやうくところでホーリーを轢きそうになった車は、ローラに激突。しかし、血だらけになりながらも、ナイフもって這いつくばってローラは2人を追ってきます。ブラントは”ゆっくり”と車を進めて・・・ローラを轢き殺すのです!

それにしても、ローラは何故、The Loved Ones=愛する者たちを拘束して、拷問するのでしょうか?

それは・・・少女のエゴイスティックな自己愛の末に、誰かを愛そうとするから。すべてが自分の思い通りにならなければ、自分が壊れてしまいそうだから。今の自分のままで、誰かに本当に愛してもらえるなんて、全然信じられないから。

だから、ローラは愛する者たちの感情も人間性も奪って、彼らを地下で飼っていたのかもしれない。スティーブン・キングの”キャリー”は、少なくとも同情できるキャラクターであったけど、”ローラ”は、自己中心的で、わがまま・・・好きになれる要素なんて全然ないはずなんだけど、ボクは何故かローラに少女の本質を感じてしまう。

ある意味、すべての少女は”ローラ”な要素をもっているものなのですから・・・。

「ラブド・ワンズ」
原題/The Loved Ones
2009年/オーストラリア
監督 : ショーン・バーン
脚本 : ショーン・バーン
出演 : ハヴィエル・サミュエル、ロビン・マクリーヴィ、ジョン・プランプトン、ビクトリア・タイン、スージー・ダクハーティー、ジェシカ・マクナミー、リチャード・ウィルソン
2012年6月9日より「シアターN渋谷」にてレイトショー公開



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2011/10/10

日系三世のゲイ映画監督”グレッグ・アラキ”のセックス&ドラッグ満載のホラーコメディ・・・”ペドロ・アルモドバル”的極彩色と”デヴィット・リンチ”風の摩訶不思議世界の終末思想~「KABOOM/カブーン!」~



アメリカのインディーズ映画で活躍しているグレッグ・アラキは、オープンリー”ゲイ”の”日系三世”ということもあって、ボクが常に注目してきた監督のひとりであります。

日本では、初期の「途方に暮れる三人の夜」(1987)や「リビング・エンド」(1992)から、”ティーンエイジ黙示録”「トータリー・ファックト・アップ」(1993)「ドゥーム・ジェネレーション」(1995)「ノーウェア」(1997)などが、主にレズビアン&ゲイ映画祭で上映されています。グレッグ・アラキは、いわゆる”ゲイ・フィルム”(ポルノではない)とジャンル分けされる作品を撮ってきた監督でありまして・・・ニューヨークやサンフランシスコのゲイカルチャー(マッチョ、髭、レザーなど)とは違う”ポスト・エイズ時代”のティーンエイジャーのゲイカルチャーを描くことで知られています。

”ゲイ・フィルム”というジャンルから脱却して「スレンダー/恋する3ピース」(1999)という作品で、グレッグ.アラキはメジャー映画会社からの監督デビューを果たします。男2人対女1人の三角関係の恋愛を描いた”ストレートのロマンティックコメディ”でしたが、2人の男を同時に愛して、どちらの子供だか分からない子を産んで、金持ちの男との結婚を断ってまで、2人の男性との同居を選択するヒロインの不可解さと、男性2人の理解しがたい強い絆の友情に共感の感じられませんでした。「ミステリアス・スキン/謎めいた肌」(2004)は、少年への性的虐待をテーマにした衝撃的な作品でした。虐待を受けた少年のひとりは、記憶を喪失してエイリアンに連れ去られるという幻覚を持ち続けているという設定や、妄想と現実が混じり合う不可思議さは、デヴィット・リンチのスタイルを感じさたものです。「スマイリー・フェイス」(2007)は、間違って麻薬入りのカップケーキを食べてしまった女性のトンデモナイある1日を描いたグレッグ・アラキにとっては、初めての脚本には関わらない”監督”のみの作品。ウエストコーストらしいポップ色彩と、とぼけたコメディ路線を示していました。

最新作「KABOOM/カブーン!」(2010)は、久しぶりのオリジナルストーリーによるグレッグ.アラキの集大成といえる作品と言えるでしょう。「ガブーン!というのは日本語でいうと「ドッカーン!」というような疑似音で、まさに本作のエンディングを示唆する象徴的なタイトルになっています。

18歳のゲイのスミス(トーマス・デッカー)は、大学の寮に暮らし始めてから、毎晩不思議な夢をみるようになります。謎の赤毛の女(ニコル・ラリベルテ)を、動物の仮面をかぶった男達に襲われるのを救ってから、次々とスミスの周辺では妄想か現実か分からないことが起こり始めるのです。高校時代から仲の良い女友達ステラ(ヘイリー・ベネット)、サーファーボーイでストレートのルームメイトのソア(クリス・ジルカ)、ゲイとのエッチが好きな女ロンドン(ジュノ・テンプル)、ステラをストーカーするサイキックパワーを持つレズビアンのローレライ(ロキサーヌ・メスキダ)、ロンドンのセクフレになるバイセクシャルのレックス(アンディ・フィッシャー=プライス)、30歳過ぎても寮に暮らすヒッピーのメシア(ジェームス・デュバル)、ビーチでスミスをナンパしてきたゲイの黒人のハンター(ジェイソン・オリーブ)、フェイスブックを通じて知り合ったゲイのオリバー(ブレナン・メヒア)らが、入り乱れて・・・ペドロ・アルモドバルを彷彿させる極彩色の映像と、デヴィット・リンチの「ツイン・ピークス」の世界のような不可解なことが、次から次に不規則に起こっていきます。アメリカの大学生ってキャンパスや寮でセックスとドラッグまみれなの・・・と思うほど、登場人物達はやりまくっていますが、これはある意味リアルなのかもしれません。

ここから、ネタバレを含みます。

スミスの19歳の誕生日を機に、スミスの母親ニコル(ケリー・リンチ)が動物の仮面をかぶった男達に誘拐されたりして・・・スミスの身に大きな変化が訪れていることが分かってきます。実は、死んだと思っていたスミスの父親が、”終末思想”を唱えるカルト集団のリーダーで、核兵器によって地球が終焉した後にスミスは選ばれた息子として、新世界のリーダーして君臨するというのです。そして、スミスの周辺にいたのは・・・カルト集団のメンバーと、カルト集団の地球破壊の計画を阻止しようとする元カルト集団のメンバーであったのです。最後は、スミスの父親によって核兵器発射のボタンを押されてしまい・・・地球は”こっぱみじん”。まさに「ドッカーン!」となって、何もかも終わってしまうのであります。

”ティーンエイジ黙示録”のような将来の行き先の見えないダークさはなくなり・・・「全部ぶっ飛ばされておしまいさ」的な終末思想は、カラフルでポップな映像美と、とぼけたコメディセンスと相まって、何とも”あっけらかん”としています。自分の欲望や興味の探究心は豊かなのに、自己責任の意識には欠けている”今の若者”らしい暴走っぷりの後には、本当に何も残らないのね・・・って、納得するしかないエンディングでありました。

「日系三世」というバックグラウンドだからといって・・・「第二次世界大戦中の日系人強制キャンプ」「広島/長崎への原爆投下」をテーマにした映画を制作すべきだとかは思いませんが、グレッグ・アラキの一連の作品からは「日系人」というアイデンティティーを一切感じさせません。あくまでも「平均的アメリカ人」=「アメリカ白人」の視線からという印象さえは受けてしまいます。これは「ゲイ」という強いアイデンティティーをすでに打ち出しているので、あえて人種的なアイデンティティーは排除しているとも考えられるのですが・・・グレッグ.アラキの作品を観るたびに、どうしてもボクは違和感を感じてしまうのです。

「カブーン!」
原題/KABOOM
2010年/アメリカ、フランス
監督 : グレッグ・アラキ
脚本 : グレッグ・アラキ
出演 : トーマス・デッカー、ヘイリー・ベネット、クリス・ジルカ、ロキサーヌ・メスキダ、ジュノ・テンプル、アンディ・フィッシャー=プライス、ニコル・ラリベルテ、ジェイソン・オリーブ、ジェームス・デュバル、ブレナン・メヒア、ケリー・リンチ
2011年10月10日「第20回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」にてプレミア上映
日本劇場公開未定



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2011/10/09

エッチな大人の絵本じゃありません!・・・森のきのこが「こ・ん・な・に・大きくなっちゃったぁ~!」っていうおはなし~「いれて いれて」かとう まふみ著~



タイトルから・・・”やらしい”大人はエッチな想像してしまう絵本「いれて いれて」は、シェル・シルバースタイン著の「大きな木」に、どこかしら似たような教訓のある、まったくもって正しい子供向けの絵本であります。それでも、物欲しげにあごに人差し指をあてて”きのこ”を眺める女の子と、驚いたように”きのこ”を指差す男の子の描かれた表紙画の上に、堂々と書かれた「いれて、いれて」の文字に、ゲイおじさんは妙にスケベ心を掻き立てられてしまうのです。

森の片隅に生えた小さな”きのこ”が、誰からも”みかえり”を求めるとことなく、虫や動物たちに雨宿りをさせてあげるというお話なのですが・・・タイトルにある「いれて、いれて」というのは、”きのこ”のかさの下に、雨宿りのために「いれて」ということなのでありました。初めは”てんとうむし”と”あり”の小さな虫が雨宿りしていた小さな”きのこ”なのですが・・・”しじみちょう”や”バッタ”や”くも”や”いもり”まで「いれて、いれて」とやってきて、”きのこ”は、少しずつ大きくなっていくのです。

表紙画の女の子だと思っていたのは、実は”すみれのれい”で、男の子は”どんぐりぼうや”という「精霊」でした。全員が、何とか”きのこ”のかさの下で雨宿りをしているところに、大きな”がまがえる”がやってきて、みんな押しのけて”きのこ”のかさの下に入ろうとします。この自分の事しか考えていない”がまがえる”のために、今まで雨宿りをしていた虫や、動物や、精霊も、”きのこ”のかさの下から押し出されてしまいます。すると・・・”きのこ”は、さらに「むくむくむくむく・・・むく」と大きくなるのです。

こんな表現の仕方で「何もエッチなこと、想像するな!」という方が無理というものであります・・・。

そして「うわぁ~、こんな大きいの、みたこと、ない!」って、みんな大喜びというだから・・・「やだぁ~、みんなエッチねぇ」であります。最後は、家ほどの大きさになった”きのこ”の中に部屋を作って(?)、虫も動物も仲良く暮らすという、なんともシュールなオチとなっているのですが、子供たちは、この「いれて いれて」を読んで、何を学ぶのでしょうか?譲り合って雨宿りをするという教訓を得るのかもしれませんが、なんたってむくむくと大きくなる”きのこ”というのが、子供にとっても愉快なことなのかもしれません。最後に”きのこ”がお家のようになってしまうというのも、楽しいことなのでしょう。

暇なゲイのおじさんは・・・ナンダカンダで「いれて!いれて!」ってほど”デカい”のが好きなのねぇ・・・なんて、スケベなこと妄想して喜んでいるんだから、困ったもんです。ちゃんと子供のためにと、本書を描かれた絵本作家の”かとう まふみ”さんや、”教育画劇”という出版社さんに、申し訳ないと思います。

本当にごめんなさ~い!



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2011/10/04

韓国映画史上最高傑作と言われるキム・ギヨン監督の代表作・・・梅図かずお的なドロドロの”恐怖映画”の驚愕のエンディング!~オリジナル版「下女」とリメイク版「ハウスメイド」~



ブルジョワの家庭に務めるハウスメイドが家の主人の手篭めにされて、その末に復讐するという・・・いかにもボクの大好物そうな韓国映画「ハウスメイド」が、キム・ギヨン監督の「下女」という1960年に制作された韓国映画のリメイクだと知って、どうしてもオリジナルを先に観たくなってしまいました。オリジナルとリメイクのある作品だと「オリジナルの方が断然良い!」ってことが殆どだったりしますから・・・。

ところが、韓国映像資料院の100選で第1位と韓国映画史上の最高傑作(韓国映画の「市民ケーン」!?)にも関わらず「下女」は、日本ではDVD未発売どころか、正式な劇場公開(映画祭のみ)もされていない作品だったのです。しかし2年ほど前、マーティン・スコセッシが代表を務めるワールド・シネマ・ファンデーションによって、現存するフィルムをデジタル復元したバージョンが、日本語字幕付きで韓国国内でDVDリリースされていたことを知りました。そして、オンラインの韓流ショップで購入して、視聴することができたのです。

アメリカやヨーロッパの映画はサイレント時代から20世紀の有名な作品まで、ひととおり観てきたけれど・・アジア圏の映画については、あまり知らないボクは、キム・ギヨン監督という名前さえ知りませんでした。「下女」を観て、キム・ギヨン監督の作品をもっと観たいと思ったのですが・・・現在観ることのできる作品は、かなり限られているようなのです。2008年には、日本語字幕付きの「高麗葬」「蟲女」「肉体の約束」「異魚島(イオド)」の4作品を納めたDVDボックスが韓国で発売されていたのですが、すでに絶版・・・現在入手はほぼ不可能になっているのが非常に悔やまれます。

以下「下女」と「ハウスメイド」のエンディングまでのネタバレを含みます。

50年前に製作されたキム・ギヨン監督の「下女」ですが・・・噂に勝るトンデモナイ怪作でありました!まず、家政婦(下女)が家の主人と関係を持って一家が破滅していく・・・という、下世話な内容の映画が「韓国映画史上最高傑作」に選んでしまう韓国のセンスにシンパシーを感じてしまいます。日本映画史上の最高傑作と言われると・・・黒澤明の「七人の侍」とか「生きる」、または溝口健二の「雨月物語」や、小津安二郎の「東京物語」あたりを上げて、海外向けに格好つけてしまいます。増村保造とか、石井輝男とか、今村昌平とかのエグイ作品を「我が国の最高傑作!」として挙げる日本人って、あまりいませんから・・・。

「下女」は雨の夜、一家の団欒風景から始まります。夫は「住み込みの家政婦と浮気したという男」の新聞記事を妻に読み聞かせるのですが・・・妻は「家政婦なんかに惹かれるなんて」と相手にしません。夫は。いつでも傍にいて家事をこなしてくれる家政婦がウチにも必要だと言うのですが、妻は「神聖な家庭で変なこと言わないで」と睨み返します。そして、あやとりをする娘と息子を背景にオープニングタイトルが流れます。

紡績工場に勤める女工たちの就業の合唱部で講師をしている夫トンシク(キム・ジンギュ)は、ブルジョワ一家の大黒柱で妻思いの優しい夫であります。新居のために夜な夜なミシンを踏んで内職に励む貞淑な妻(チュ・ジュンニョ)と足の不自由な娘エスン(イ・ユリ)と息子チャンスン(アン・ソンギ)と暮らしています。トンシクに好意をよせる女工ギョンヒ(オム・エンナン)が仲間の女工ソニョンに身代わりでラブレターを書かせるのですが、儒教的で潔癖なトンシクは風紀が乱れていると舎監に告げ口してしまい、ソニョンは数日間の停職処分となってしまいます。それをとして、ソニョンは仕事やめて帰省してしまうのです。

ギョンヒは新居を構えたために金が必要だというトンシクの家で、ピアノの個人レッスンを受けるようになります。妊娠をしている上に内職で体調を崩してしまっている妻のために、ギョンヒに家政婦を紹介してくれないかと頼みます。そうして、元女工のミョンジャ(イ・ウンシム)が、トンシクの新居で住み込みで働くようになるのです。ミョンジャは、タバコをスパスパ吸うような当時にしてはあばずれ女・・・鼠を素手で殺したりするので、子供たちを含めて家族は気を許していない様子であります。

トンシクの妻が里帰りをしている間に、ソニョンが自殺していたニュースが伝わります。葬式の帰りに、ギョンヒはトンシクに片思いをしていたのは、ソニョンではなく実は自分であったことを告白します。しかし、潔癖なトンシクはギョンヒを思い強く突っぱねます。自暴自棄になったギョンヒは、服をひきちぎり胸元をはだけて「強姦されたと訴える!」と脅して立ち去っていきます。一部始終を見ていたミョンジャは、ギョンヒと同じように自分にもピアノのレッスンをしてくれと迫りつつ、服を脱いでトンシクを誘惑・・・ソニョンの自殺のショックもあって、トンシクはミョンジャと肉体関係を持ってしまうのです。

数ヶ月後、妻が実家から戻ってくるのですが・・・その頃、ミョンジャが妊娠していることが判明して、トンシクは家庭内で追い詰められていきます。トンシクが妻にミョンジャが自分の子を孕んでいることを告白すると、何よりも世間体を重んじる妻はミョンジャに直接掛け合い、堕胎することを巧みに誘導します。ミョンジュは言われた通りに階段の上から身を投げるのです。その結果、中絶手術が行われて、ミョンジャはお腹の子を失います。術後、ミョンジャのわがまま放題に振り回されながらも、臨月の妻は世話を続けます。

妻が男の子を出産した後も、ミョンジャは相変わらず家に居座り続けます。「何故、自分の子だけ堕ろさなければならなかったの?」と、二人をなじるミョンジャ・・密かに復讐を試みるのです。息子チャンスンに毒を飲ませたと噓をつくのですが、パニックに陥ったチャンスンは、誤って階段から落ちて死んでしまいます。警察にミョンジャを突き出そうとするトンシクに、妻は物事を大きくして仕事を失ってしまっては家族が生きていけなくなってしまうと諭します。これ以後、家政婦のミョンジャの言いなりになってしまい・・・トンシクはミョンジャの二階の寝室でベットを共にしなければならなくなるのです。

妻と家政婦の立場は逆転して、妻がミョンジャと夫のトンシクが過ごす部屋に食事を運ぶような生活になっています。妻はミョンジャに毒入りスープを飲ませようとするのですが、ミョンジャは前もって毒を水飴に入れ替えていて、妻の作戦は失敗に終わってしまいます。弱みをさらに握ったミョンジャは、ますます大きな態度になり、妻と娘の生活までも支配してしまうようになるのです。

そんな状態の中、久しぶりにギョンヒがトンシクのところへピアノのレッスンにやってくるのですが、親しげにするギョンヒに嫉妬したミョンジャは、包丁でギョンヒの肩を突き刺したりします。血を流しながら逃げ出すギョンヒが、警察に行くのはもはや時間の問題・・・ミョンジャとトンシクは破滅的になり、服毒心中をして、すべてを終わらせようとします。毒が効いてきたところで、トンシクは「命はおまえにくれたが、魂まではやらない。最期は妻のそばで迎えたい」と、息も絶え絶えで階下の妻の部屋を目指すします。

「そうはさせるものか」とトンシクの足にすがるミョンジャ・・・逆さまのまま、頭を階段にゴンゴンぶつけながら落ちていき、すがるように手を伸ばしながら絶命します。まるで梅図かずおマンガのワンシーンのような地獄絵図というか・・・爆笑(ボクだけ?)してしまう「下女」の最高のシーンであります!(動画参照)


トンシクは必死に這いずりながら、内職をする妻の近くで息を引き取ります。「新しい家なんて建てなければ良かった」とつぶやきながら、涙を拭う妻のアップ・・・で、映画が終わると思いきや、この後、驚愕のエピローグが待っています。

ここで場面は、冒頭と同じような雨の夜に変わるのです・・・妻が「教養と人格を備えた男がお手伝いさんに惹かれるなんて理解出来ない」と夫のトンシクに呆れたように言っています。どうやら、映画の中で繰り広げられたドロドロの事件は、実際に起こった事ではなかったようなのです。トンシクは「高い山があれば、男は上りたくなるようなもんさ」と、笑って受け流し、お手伝いさんとして雇われているミョンジャが部屋に入ってきます。「家に若いお手伝いさんを入れるのは猫に鰹節みたいね」と言いながらミョンジャと共に妻は部屋から出て行きます。

すると、いきなりトンシクがカメラに向かって「皆さん!」と語り始めるのです。「男は歳を取れば取るほど、若い女のことを考える時間が増えます。騙されて身を滅ぼすことだってあるんです」と・・・そして「あなただって、そうなるかもしれませんよ」と観客を向かってウィンク(!)までして、映画は終わるのであります。

監督のキム・ギヨンは家政婦との淫行の結果に身を滅ぼす男というメロドラマにありがちな設定が、よほど好きらしく・・・その後も「火女」(1971年)「火女82」(1982年)と二度に渡って、自ら監督してリメイクをしています。リメイクするたびにエロさや、グロさは増していったそうで・・・「炎の女82」に至っては、スプラッター的描写まであるということであります。キム・ギヨン監督の男を滅ぼす女の物語は「女」シリーズとして、他にも「虫女」「殺人蝶を追う女」「水女」があるというのですから、とにかく「恐ろしい女」にこだわって映画を作り続けた人と言えるかもしれません・・・。

「下女」で、被害者となるのは、儒教的世界では尊敬されるべき夫(男)であり、それに従う貞操な妻(女)・・・神聖なる家庭を破滅する家政婦は完全なる「悪女」であり、そんな「悪女」への制裁に容赦がないのは、理にかなった顛末であります。1980年頃までの韓国の映画館では、悪役の日本人が出てくると罵声を浴びせるのが普通のことだったそうで・・・民族的な思想だけでなく、儒教的な倫理観と観客の感情を一致させることが映画的な共感を生んだ時代には、現在では違和感を感じてしまうほどの男尊女卑とも思える登場人物の行動や判断こそ、正しき思想として支持されるものであったのかもしれません。

しかし・・・「蛇足」とも思えるオチにより「下女」の再現ドラマのような低俗さが際立ち、保守的な思想さえも薄っぺらくみせてしまっているような気がします。それが、キム・ギヨン監督の意図しているところであったのかは、分かりませんが・・・。


「下女」のリメイクとして”4度目となるのが、2010年に製作されたイム・サンス監督の「ハウスメイド」であります。しかし、リメイクといっても家政婦がブルジョワ一家の主人に手篭めにされるという設定を下敷きにしているだけ・・・映画の主題は、階級社会で報われない悲しい女の物語へと大きく変わっています。

孤独なウニ(チョン・ドヨン)は、ある日大豪邸のメイドとして雇われることになります。屋敷には、主人のフン(イ・ジョンジェ)、双児を妊娠中の美しい若妻ヘラ(ソウ)と6歳の娘ナミ(アン・ソヒョン)が暮らしており、ベテランメイドのビョンシク(ユン・ヨジョン)が取り仕切っています。屋敷は恐ろしく豪華でまるで美術館のよう・・・生活感も現実感もありません。制服として支給されたのは、ブラウスにタイトなミニスカートという秘書っぽいスタイル・・・ハッキリ言って、掃除、洗濯、料理などのメイドの仕事に適してるとは思えない制服であります。

ウニは、それほど主体性もなく頭も良さそうでない無垢な女です。「下女」のミョンジャのような悪女ではありません。娘ナミの世話をしたり、若妻ヘラに仕えることにも不満な表情さえ見せず、淡々と従っています。妊娠中で腹ぼての妻とのセックスに不自由を感じた主人のフンが、ある晩ウニの寝室に忍び込んできます。ちょっかいを出すと、いとも簡単にナミの方から積極的に求めてしまうのです。不幸な女は男のカラダにも飢えていて自ら快楽を求めていく・・・ということなのでしょうか?そこには主人を寝取ろうというような野望が垣間見えるわけでもなく、ただ単に欲しがってしまう不幸でエロい女の姿しかありません。

「ハウスメイド」ではメイドのウニ妻のヘラの女の戦いというよりも、ベテランメイドのビョンシクとヘラの母親ミヒ(パク・ジヨン)の「ふたりの女」の恐ろしさが際立っています。ウニの妊娠をウニ本人より先に察知し、ヘラの母親ミヒに告げ口するビョンシク・・・この屋敷の中で、彼女の知らないことはないのであります。まさに「家政婦は見た」であります。ミヒは自らの手を汚してでも、娘の妻の座を守ろうと画策します。ミヒは大広間のシャンデリアを掃除中のウニを、事故をよそおって突き飛ばして、大理石の床にたたき落としてしまいます。ただ・・・お腹の子供は無事で、結果的にはウニ自身が妊娠の事実を知るところとなってしまうのです。

大金をちらつかせて堕胎を迫るヘラとミヒの母娘に反して、ウニは子供を産むという苦渋のを決心します。しかし、ミヒはすでにウニに堕胎をうながす怪しいハーブを体に良いと奨めて飲ませていたのです。ヘラが双児の出産のために入院中に、ウニは浴槽の中で血を流しながらお腹の子供を失ってしまいます。遂には、暇を出されて屋敷を追われてしまうウニは、気がふれて・・・一家へ対しての復讐をするため、再び屋敷へ戻ってくるのです。それまで表向きは従順な態度をとってきたビョンシクも、遂に堪忍袋の緒が切れたのか、メイドを辞めて屋敷を去ることを決めます。当初は主体性の感じられなかったウニですが・・・窮地に陥れば陥るほどしぶとくなっていくウニの態度は、不快感さえ感じさせます。そして、ウニが決断したことは、大広間のシャンデリアで首を吊って焼身自殺という、あまりにも自虐的な復讐だったのです。なんとも救いのない絶望的な最期であります。

エンディングは、何事もなかったようにナミの7歳の誕生日を祝う一家の姿を映し出します。主人のフン、再び痩せて美しくなった妻のヘラ、新たに雇われた中年のメイドと双児の面倒をみる若いメイド2人・・・そして、すべてを見据えたような無表情の娘のナミ。貧しい者は最後まで救われずに自業自得で身を滅ぼしていき、富める者はどれほど悪事に身を染めようともノウノウと平穏に生きているという教訓にもならない、気持ちの悪い現実があります。ただ・・・4人の女たち(メイドのウニ、妻のヘラ、ベテランメイドのビョンシク、妻の母親のミヒ)の中心にいる主人のフンは、女たちが命がけで争っていても「どこ吹く風」なのであります。

結局、階級社会での女の立場なんて「男次第」・・・見て見ぬ振りをしている男こそ、最もズルくて恐ろしい存在なのかもしれません。



「下女」
原題/하녀
1960年/韓国
製作・脚本・監督: キム・ギヨン
出演      : キム・ジンギュ、チュ・ジュンニョ、イ・ウンシム、オム・エンナン、アン・ソンギ、イ・ユリ
2008年第21回東京国際映画祭にて上映


「ハウスメイド」
原題/하녀
2010年/韓国
監督・脚本 : イム・サンス
出演    : チョン・ドヨン、イ・ジョンジェ、ソウ、ユン・ヨジョン、パク・ジヨン、アン・ソヒョン



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