ボク自身は今後何があっても、決して「親」という立場にはならないこと”だけ”は分かってはいるのだけど・・・「親」の試練って何だろうって考えると、とりあえず「育てる義務」や「しつけをする責任」だけでも、ボクにとっては十分なほどの試練に思えてしまうのであります。ただ「親」の中には、”より過酷”な試練が与えられることもあったりします。ひとつは、子供が親より先に亡くなること。それは、病死であっても、事故死であっても、辛いことであるし・・・自殺だったりしたら、悔やみきれなさを抱えることになるでしょう。体が不自由だったり、不治の病だったりで、子供が生きている限り誰かに看てもらえないとしたら・・・(すべてが辛いことではないにしても)ある意味「親」にとっては試練なのかもしれません。もしも自分の子供が”犯罪者”となってしまったら・・・「親」として、どう向き合えば良いのでしょうか?
2007年に起こったバージニア工科大学の銃乱射事件に触発されたという「ビューティフル・ボーイ/Beautiful Boy」は、ある日突然、犯罪の加害者となってしまった両親の姿を、淡々と追った作品です。モデルとなっった事件の犯人が、アジア系(在米韓国人)であったことに、当時多くの人が驚かされました。韓国系アメリカ人であるショーン・クー監督も、自分との多くの共通点を感じた犯人像に大きな衝撃を受けたそうです。ただ・・・本作では、エスニックの背景がテーマではないので、多くのアメリカ人(全世界的にも?)に”一般的”と受け取られやすい「白人」という設定に変更したそうです。
ビル(マイケル・シーン)とケイト(マリア・ベロ)は、ファミリーバケーションの計画の些細なことでも口論の種になってしまう倦怠期の夫婦・・・息子のサム(カイル・ガルナー)は、大学生活を送り始めたものの馴染めない様子。ある日、サムの通う大学で銃乱射事件が発生するのですが・・・安否を気遣うビルとケイトの元に、彼らが予想だにしなかった知らせが届きます。それは、サムが銃乱射事件を起こした張本人で、事件後に自らの頭を撃って自殺してしまったのです。自分の息子の死(自殺)という悲劇だけでなく、多くの犠牲者を出した銃乱射事件の加害者の親となってしまったのあります。こんな状況って「親」に与えられる最も過酷な試練のひとつではないでしょうか?
本作では、加害者の親となったビルとケイトの心情”だけ”を、ただ、ひたすらハンドカメラで丹念に写し取っていきます。息子のサムが何故銃乱射事件を起こしたのかという原因追求も、加害者の親を追いかけるマスコミや報道などが、しっかりと描かれることはありません。事件を報道するテレビのニュース、息子のパソコンに残されていた遺書のような動画、また、彼らを追いかけるマスコミ、また被害者の家族さえも、画面には殆ど写されないのです・・・まるでビルとケイトが”現実”から目をそらすしかないように・・・。事件後、彼らは自宅を離れて、ケイトの弟の家に身を寄せたり、街外れのモーテルに身を隠して過ごします。ある晩、普段は絶対に食べないジャンクフード食べたり、酒を飲んでハメを外して・・・いつしか、ビルとケイトはモーテルのベットで愛し始めます。あまりにも精神的に追いつめられて、どうしようもなくなった時・・・セックスのオーガズムでしか逃れられない感情っていうのもあるんですよね・・・。唯一のセックスシーンであるモーテルでのシーンは号泣ものでありました。
このような事件の場合、加害者の親が”どうあるべきか”・・・という”手本”なんていうのはありません。まずは「加害者の親」として、何かしら責任があるではないか、どうして事件を防ぐことが出来なかったのか・・・親として葛藤して、事件を防げなかった自分を責め続けるでしょう。また「息子を失った親」としての悲しみもあります。本作では、何故、息子が事件を起こしたのか、その動機さえ親には分からないのです。解き明かされることのない息子の思いを抱えて、親としての自分を問い続けることしかできません。いっそのこと息子を”悪者”にできたら楽なのだろうけど・・・結局、親としては息子がどうであっても愛していることに気付かされ、漠然としたまま息子を庇い続けるしかないのです。
映画の終盤「神様は乗り越えられる試練しかお与えにならない」と言うけれど、そうかしら?・・・と、ケイトは息子の墓の前で思わず問いかけます。今後、ビルとケイトが「息子の喪失感」と「親としての贖罪」を克服できるかさえ分かりません。もしかすると生きている限り、彼らはその試練の中で、永遠に得られない答えを問いただすしかないのですから・・・。本当の意味で、ビルとケイトに与えられた試練と心の傷の深さをを理解できるのは、お互い同士でしかないことを悟り・・・癒し合うことしかできないという、彼らの苦しみに寄り添うように本作は終わります。でも、これって何も解決していない「エンディング」でもあります。鬱っぽい状態で本作を観たら、奈落の底に落とされるような気分になったかもしれません。ある時、親としての罪悪感や喪失感から逃れるべき時期がきて、過去の不幸な事を思い出させる相手とは離れたくなるかもしれません。お互いの傷が癒える頃には、ビルとケイトは別れるべきなのかもしれないのですから・・・絶対にハッピーエンドには至らない物語であったのです。
なんとも重苦しく、退屈そうな映画に思われそうですが・・・意外なほどテンポが良く、ハンドカメラでの臨場感も相まって、1時間40分はあっという間です。ケイトの弟エリック(アラン・デュディック/「タッカー&デール対イーブル」でタッカーを演じていた役者さん!)の器の大きさ、エリックの妻(ムーン・ブラッドグッド)も理解しようと努力する優しさを見せます。また、モーテルのマネージャー(ミートローフ/あの「ロッキーホラーショー」に出演していた!)の人情にもホッとさせられるところがあったりするのです。しかし何と言っても・・・本作のキモは父親ビルを演じるマイケル・シーンと、母親ケイトを演じるマリア・ベロの熱演に尽きます。
ショーン・クーという監督に興味をもって調べてみたら・・・ハーバード大学の医学部の出身という超エリートでした。多くのアジア系の移民の子供は高い教育を受けて、医者(または弁護士、学者、など)になることを、親や一族から期待されたりるものだったりします。彼はニューヨークのコロンビア大学の医学部へ進んだことをきっかけに、パフォーミング・アーツの世界に目覚めてしまうこととなります。ブロードウェイで、ダンサーや振り付け師としても活躍し、ライター(脚本家)としても活動。さらに映画(2001年の「Samsara/サムサラ」というチベットの僧侶を主演した)に俳優として出演・・・頭脳だけでなく、さまざまな才能にも恵まれた人だったのです。その後「Pretty Dead Girl」「The American Mall」という2本の映画を監督してはいますが、本作でオリジナル脚本の監督としてデビューとなったわけであります。ショーン・クー監督のインタビュー動画を見た印象では(あくまでもボク個人の意見ですが)・・・ショーン・クー監督は、おそらく”ゲイ”。アメリカという多民族の国で、韓国系アメリカ人という”マイノリティ”だけでなく、ゲイという”マイノリティ”であるからこそ、「親」という存在を冷静に見つめることができるのかもしれません。
「ビューティフル・ボーイ/Beautiful Boy」は、日本で去年開催された「第23回東京国際映画祭」のコンペティション部門で、プレミア上映されていたのですが・・・何故か、その後日本では劇場公開もDVD化もされていません。アメリカでも劇場公開されたのも今年の6月になってから・・・製作は2010年ですが、来年(2012年)のアカデミー賞の候補になるとしたら、主演のマイケル・シーンとマリア・ベロの演技賞のノミネートっていうのもあるのかもしれません!
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