2010/10/28

勝間和代が「Facebook」に登録!・・・インターネットでの実名/匿名問題を改めて考えてみました



「Facebook」は、アメリカのハーバード大学の学生だったマーク・ザッカーバーグ(現在まだ26歳!)が2006年に始めた世界で5億人が登録している世界最大のSNS(ソーシャルネットサービス)です。
日本以外では、爆発的にポピュラーな「Facebook」でありますが・・・日本では、いまいち「ブレークしている感」がありません。
そこには、インターネットは「匿名」=「ハンドルネーム」で・・・という日本のネットユーザーの匿名性に対する独特の感覚が関係しているのかもしれません。

あの、勝間和代が、今月12日「Facebook」に登録しました。
元々、日本のインターネットでの実名、匿名性の問題に関しては、何かとモノ申してきた勝間和代ですから・・・「Facebook」の基本「実名登録」というのは、カツマー的には理屈の通った「SNS」と言えるのかもしれません。
登録とほぼ同時に、自身の公式ファンページまで開設し、日本での「Facebook」の顔になろうという勢いさえ感じさせます。
「Facebook」の本格的な日本進出で「Mixi」との連携を始めるということなので、満を持しての「勝間和代、フェイスブック参戦!」というところでしょうか?
「Twitter」の時にも、広瀬香美らと共に”勝手に宣伝部長”をの名乗り出して、逆に(?)日本でのツイッターの普及を遅らせたのでは・・・とも言われる「勝間和代の逆影響力」。
勿論、勝間和代が始めたから「私もFacebookやる!」という方も、たくさんいらっしゃると思いますが、むしろ「勝間和代がやっているから、やりたくない!」っていう”カツマーアレルギー体質”の人もたくさんいるわけで・・・彼女の余計な普及活動が「Facebook」の逆風にならないことを祈るばかりです。

ボク自身、この「めのおかしブログ」では、プロフィールでの顔出しはしているものの「ハンドルネーム」=「おかしライター」しか公開していません。
これは、個人情報を保護するためというよりも・・・営業/宣伝活動ではないのにも関わらず、わざわざ実名公開をするというのも「自己顕示欲」の塊みたいに思ったからです。
実際、ビジネス(多くの場合、自営)に関連したブログやホームページをしている人は、現実の営利に反映していくことが目的でもあるわけで・・・実名を公表しないとビジネスが成り立ちにくいということもあるでしょう。
ビジネス的な広がりを特に求めていないボクが、趣味のブログを始めるにあったて、実名をあえて前面に出して活動を始める必然性を感じなかった・・・というだけです。
また、現実のコミュニケーションで十分で、あえて匿名でインターネット上だけでの人間関係を築きたいという欲求も特にありませんでしたし、ネットだけでのコミュニケーションというモノの意義もよく分かっていませんでした。
そもそも、実名さえも名乗らない関係に、馴染めなかったのです・・・。

「ハンドルネーム」だけでのコミュニケーションに「違和感」をボク自身が感じたのは、プレイステーション2のネット専用ゲーム「ファイナル・ファンタジー11」(2002年のサービス開始直後から数年間プレイ)でした。
ゲーム内のキャラクターとハンドルネームだけしかお互い知らない者同士というのが、リアルな世界で培った人間関係のどれにも当てはまらず、なんとも奇妙な気がしたものです。
結局、育てたキャラごと、リアルな友人ゲーマーにアカウントを引き取ってもらいました。
また、サービス開始後のそこそこ早い時期に、ボクは「Mixi」にも登録したのですが・・・「ハンドルネーム」の違和感が拭えず、これもハマることはありませんでした。
ボクが招待して始めた友人の一人がミクシィにハマっていくにつれ、キャラ(人間性)が別人になっていく様子をみたことも、ミクシィを敬遠することになった理由かもしれません。
「2ちゃんねる」に至っては、匿名性のマイナス部分だけを感じさせられることが多過ぎます。
匿名同士のコミュニケーンの(無責任な)楽しい部分も理解出来ますが・・・すれ違いや衝突が起きた時に和解や弁解するような機会もなく、キーボードで打ち込まれた言葉だけが一人歩きしてしまうような印象があるのです。
ボクのような人は・・・匿名性の気軽さよりも、リアルな人間関係以上に気遣い疲れてしまうものなのでした。

ツイッターを実名、もしくは実名に近いアカウントという方もいるでしょうが・・・有名人でもなく、営業ツーツとして使わない個人ユーザーの多くは「ハンドルネーム」での利用が殆どだと思います。
ツイッター登録者数はアメリカの方がまだまだ多いらしいですが(人口も日本の二倍以上だし)・・・ひとり当たりのつぶやき数では日本は世界一多いそうです。
おそらく、ハッキリと自己表現するのではない「つぶやく」という行為が、日本人の気質やコミュニケーション方法に合っていたのかもしれません。
日本人のツイートの大半は、何気ない「ひとりごと」・・・特に何かを訴えようというような意思があるわではなく、漠然とした自分の行動や気分の「報告」のようなことが多いよう感じるのは、ボクだけでしょうか?
ボクは以前「ミニエッセイ」を書くつもりで”140文字ピッタリのツイート”をしていましたが、ある友人から自分の言いたいことだけ書く一方的なツイートは「傲慢だ」と指摘され・・・RT(リツイート、正しくはQTか?)で元文が引用出来る程度の短くて、ツッコミ可能(?)なツイートを心がけるようにするようになりました。
そうして・・・ボクもネット上だけでのコミュニケーションというのも経験するようになり、やっと最近になって「ハンドルネーム」だけでの関わりというのに免疫ができてきたような感じです。

知らない者同士だからこそ、アドバイスを求めたり、参考にしたり、励まされたりというコミュニケーションがより生まれることというのは、あるとは思います。
また、ブログで、経済的なアドバイス、美容のケア、精神的なカウンセリングなど、自分の身分を明かさずに専門家の意見を聞いてみたいということはあるでしょう。
しかし、たわいない内容なら、まだしも・・・あまりに深刻な問題について、匿名のまま”専門家”という立場匿名なので、ちゃんとした専門家であるかは、確かめようがありません)で、相談にのっているブロガーというのは、ちょっと問題があると思います。
アクセス数が多い人気ブロガーということが、その人の専門的な能力を保証するわけではありません。
もちろん、実際に専門家と会ったとしても能力の保証はないかもしれませんが・・・最低限の身元はハッキリしています。
まぁ、今は何でもかんでも自己責任という時代・・・ブログを読んで、各自がリスク判断すれば良いということなのでしょうが。
ただ、冷静になって考えてみると・・・毎日毎日、一日に何回もブログを更新する(アクセス数アップのため?)ほど時間のある”専門家”って「どんだけ、本業をやっているの~?」っていう話です。
現実の世界だったら誰でも「ちょっと変だな」と思えることも・・・ネットだけしか見ていないと、ネット内だけに存在していることを無条件に信頼してしまう「怖さ」というのもあるのかもしれないと思うのです。

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2010/10/26

やっぱり大好き「悪趣味」ホラー映画・・・肛門と口を縫い合わせるって、どうなのよ!~「The Human Centipede/ムカデ人間 」~



アメリカで”カルトムービー”として話題になっている「悪趣味」異色ホラー映画「The Human Centipede (First Sequence)/ムカデ人間『第一シークエンス』(仮)」が、遂にDVD/Blu-ray化されました!
「ビョーキ!」だとか、なんだと言われようとも、やっぱり「悪趣味」映画が大好きなボクとしては、これは観のがすわけにはいきません・・・というか「一刻も早く観なければ!」あります。

「ムカデ人間『第一シークエンス』(仮)」が、とりあえずの邦題となっている「The Human Centipede」・・・まず「ムカデ人間」とは「何ぞや?」ということです。
ムカデは、カラダが長くて、手足が何本もあるということ。
そう・・・ムカデ人間とは「ひとり」ではなく、3人の人間をムカデのように「結合した」改造人間たち(複数形?)のことなのであります。
それも、人間と人間をどこで縫い合わせていくかというと「肛門」と「口」・・・3人合わせてひとつの消化器を持つ生物になるということらしいのです!(医学的にも正しいらしい?)
図の「A」が普通に食事をして「A」の排泄物を「B」が食べて、「B」の排泄物を「C」が食べるということらしいのですが・・・どう考えても「C」が3人の中では一番の「貧乏くじ」であります。
想像しただけでも「オェ~!」となってしまうような、トンデモナイ設定ですが・・・3人の肛門と口を縫い合わせただけで「ムカデ人間、ということになるものなのか?」という根本的な疑問は持たないでおきましょう。


1980年代のひさうちみちおの変態マンガで、肛門に顔を押し付けられて縄で縛られる・・・というのを読んだ時に、そんな「SM糞尿プレー」がこの世の中にあるのかと、ボクは愕然としたことがあります。
まさか・・・スカトロマニア向けのAVとかではなく「ホラー映画」の題材として、実写で表現されるとは思いもしませんでした。
とにかく、設定自体があまりにもインパクトがありすぎるので、それを聞いただけで「ぜひ、観たい人」「絶対に観たくない人」に分かれるのが、この「ムカデ人間」という映画でありましょう。

近年、稀にみる「悪趣味」っぷりで、下手すればコメディホラーになってしまいそうな「おバカ映画」ですが・・・映画のトーンとしては、確信犯的な笑いをとるほどの不真面目さではありません。
物語の発端はホラー映画のお決まり・・・ドイツの旅するアメリカ人女性が、怪しい屋敷に迷い込むというもの。
そして、彼女たち2人は、どこかから連れてこられたもうひとりの日本人男性と、キチガイ博士によって「ムカデ人間」に改造されてしまうというお話です。
3人の結合手術の様子などは意外にもあっさりと描いているし、スプラッターのような血だらけになるような残酷描写もなく・・・設定の「悪趣味」さだけが、際立っている作りになっています。
また、キチガイ博士のウド・キアーを思い起こさせる「怪演」、ムカデ人間を演じた3人の俳優の根性(なんたって、映画半分は、お尻と顔がくっついたまま)が、記憶に残こる映画とも言えるでしょう。
キチガイ博士は「シャム双生児」を専門とする外科医なのですが・・・「ムカデ人間をつくりたい!」という願望をもつ経緯の説明は特になく、ただ単に「ムカデ人間をペットにしたい!」ということだけというのが、マジでビョーキ!
北村昭博という日本人俳優が、ムカデ人間の先頭役(図でいうと「A」)を演じているのですが、女性二人は肛門に口を縫い合わされているので(!)ムカデ人間となってから話すことの出来るのは日本人の彼だけ・・・キチガイ博士に楯突いていく勇敢な「ヒーロー」として日本人が描かれているのは珍しいかもしれません。
彼の台詞はすべて日本語・・・海外の映画で描かれてきた日本人男性のステレオタイプとは異なる、リアルな日本人(オラオラ系兄ちゃん)を熱演しています。
また、映画の中盤からずっとケツに口を押し当てて演技をしなければならなかった二人の女優さんには「よく頑張ったで賞」を差し上げるべきしょう。
終盤に「人としての尊厳とは何か?」を問いかけるような日本人男性の台詞は、ちょっと唐突で、日本人らしくない・・・映画全体的には倫理観のない空っぽな「悪趣味」映画(褒め言葉!)なのに、いきなり妙なキリスト的なメッセージをぶっこんできたという印象でした。
尻切れとんぼのようなエンディングを含めて・・・なんとも、不快で絶望感さえ感じさせるところが、さすがヨーロッパ製作のホラーというところかもしれません。

タイトルに、First Sequence(第一シークエンス)と、わざわざ銘打っているのは、監督はトリオロジー(三部作)を計画しているということからだそうですが・・・あんな終わり方で、どう続けられるのか心配です。
実際には製作が始まってはいないようですが、続編では12人を結合させる「ムカデ人間」を構想しているということで・・・こうなると「二匹目のどじょう」を狙っているというか、明らかにホラーコメディにしかならない二番煎じなるような不安があります。

日本での劇場公開は未定・・・確かに、ある程度のの動員は見込めるものの、デートムービーとしては不向きだし、女性同士で観に行くというのも考えにくい映画です。
劇場で観客同士がお互いに「あんたも、好きねぇ~」という種類のキワモノ映画でありますので、スキモノ同士が集まって茶化しながらレイトショーで騒いで観るか、レンタルDVDでこっそり借りて自宅でひとり楽しむというのが、正しい観賞の仕方でしょう。
ぜひ、今後何年もカルトムービーとして、長く愛される(?)映画になって欲しいものです。


「ムカデ人間」
原題/The Human Centipede (First Sequence)
2009年/オランダ、イギリス
監督&脚本:トム・シックス
出演    :デイター・ラッサー、アシュレー・C・ウィリアムズ、アシュリン・イェニー、北村昭博



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2010/10/23

トランスセクシュアル/性同一性障害って・・・やっぱり「障害」なんですか?



アメリカでの市民権運動というのは・・・「人種」「性別」「同性愛」と年月とともに広がってきたわけですが、ボクがまだアメリカに在住していた90年代後半には、市民権の最後の砦は「Trans Sexual/トランスセクシャル」だという風潮がありました。
日本から見ると、なんでもかんでもアメリカの方が意識的に「進んでいる」というイメージがあるかもしれませんが・・・実は宗教的な弾圧が強くて、日本では考えられないほど保守的な考え方も、同時に存在しているのです。
ボクがニューヨークに移住した1980年代初頭には、「同性愛」(特にゲイ男性」に対する、あからさまな差別は感じられず、逆にそれまでの抑圧(実際にゲイバーにいるだけで逮捕された時代もあった)の反動で、まさに狂乱のフリーゲイセックス万歳の時代でもありました。
その後、アメリカのゲイコミュニティーは、エイズの悲劇やバッシングを乗り越えてきたわけですが・・・トランスセクシャルに対しては、ニューヨークのような都市部でも、最近まで偏見というのが存在し続けていた印象があります。

日本には、歌舞伎などの女形というのがあって「性別を超える」ということに、西洋ほど大きなタブーはない文化なのかもしれません。
今のようにおネエキャラがテレビで一般的になる前(1970年代以前)でも、美輪明宏(丸山明宏)、ピーター(池畑慎之介)、美川憲一など「同性愛者」であることを公言しない限りは、世間的には受け入れていたようなところもありました。
まぁ『おとこおんな』というような差別的な呼び方をされてはいましたが・・・。
その頃、アメリカの女装/ドラッグ・クィーンというのはポジティブなイメージはなく、映画で登場すれば「殺人鬼」か「被害者」だったりしたものです。
ハリウッド女優や歌手のモノマネをする女装のパフォーマーか・・・女性(本物)の売春婦よりも安く買える街娼という存在でしかなかったでした。
キャバレー/キャバクラ系のお店がないアメリカですから(ストリップバーなどが多いのは、そのせい?)日本にあるゲイバーのようなお店自体が存在しません。
そんなわけで、アメリカでは女装、そして、トランスセクシャルは、世間一般だけでなく、一部のゲイコミュニティーにもとっても”キワモノ”で、マイノリティーの中でも迫害を受けてきたグループだったと言えるでしょう。

アメリカでの、世間の受け入れ方が、変化したのは1990年頃からでしょうか・・・?
当時「ジェリー・スプリンガー・ショー」などの下世話なトークショーに、キワモノ扱いではありましたが、女装やトランスセクシュアルがよく出演していていました。
また同時期に、アメリカ全国的な人気者になったRuPaul(ル・ポール)は、保守的なアメリカの一般家庭にも「女装文化」を知らしめたような存在であったように思います。
ル・ポールは、1980年代後半、ニューヨークで開催されていた女装パフォーマンスの祭典「WIGSTOCK/ウィッグストック」(ウッドストックをもじって)での鮮烈なパフォーマンスで、ゲイナイトクラブのスターになりました。
ハイヒールを履くと2メートル以上ある存在感と「LOVE!」を連呼するポジティブなメッセージが、ゲイだけでなく広い層にも受けたのです。
化粧をするとモデルの「イマン」のような美人で、スタイル抜群で長身のル・ポールはトークショーをMTVで持つまでになりました。
そのル・ポールも50歳・・・今でも活躍し続けています。

宗教を理由にした「同性愛」の弾圧/差別がなく、女形/女装を受け入れる文化を持つ日本では、男性の姿をして男性のように振る舞う同性愛者よりも、女性っぽい同性愛者を受け入れて好む傾向が強い印象があるように感じます。
そして、女性的な同性愛者の延長線上に、トランスセクシャルという存在もあるのかもしれません。
本来は、同性愛者の女装とトランスセクシュアルというのは区別すべきだとは思うのですが・・・生まれた性別と同じ性別を性的対象として惹かれるという点において、混同されやすいのかもしれません。
同性愛者であるボクからみても、女装とトランスセクシュアルのボーダーラインというのが本人の内面次第のような気がしてしまうことさえあるのですから。

トランスセクシャルが、日本では「性同一障害」という医学的(?)な「障害」であるということとして認識することで、あっという間に法律的に認知され、戸籍の性別の変更も可能になりました。
これは、自分を男という性別と自認したまま男性を好きになる「同性愛者」のような「選択」ではなく、本人には変えることのできない「障害」であると判断されたからこそ、実現した法律改正だったように思います。
ただ、ボク自身が「同性愛障害」という肩書きを与えられることによって、社会的にも法律的にも存在を認知されたとしても・・・自分のことを「障害者」としては受け入れることは、たいへん困難です。
トランスセクシャルの方々は「性同一性障害」の「障害」とつく肩書きに、違和感というのは感じていないのでしょうか?
ボクは、英語の「トランスセクシャル」から「性別移行者」と呼ぶ方が、より状況に近い気がしています。

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2010/10/20

カツマー天然ウザキャラ開眼!・・・嫌われ者三人衆の中で誰が一番嫌われているのか?~そこまで言うか!/ひろゆき、ホリエモン、勝間和代~



「勝間和代 VS. 香山リカ」の論争が、遥か昔に感じられるこの頃であります・・・。
思えば、香山リカ著の「しがみつかない生き方」の最終章で「勝間和代を目指さない」と発言した事から始まった論争でしたが・・・結果的には、ふたりの出版バブルを起こしたという「だけ」のことでした。
ただ「デジビジ」での”ひろゆき”との騒動(めのおかし参照)以後・・・勝間和代のネガティブイメージは、さらに広く浸透したという印象であります。
「がっちりアカデミー」という番組のおかげで、勝間和代は”経済評論家”という肩書きから、「損」か?「得」か?の”節約おばちゃん”に成り下がり、今や「ライバル」は”家計仕分け人”の荻原博子ではないでしょうか?

さて、いろんな意味で自らの築き上げた「カツマー」ブランドを覆すような、不可解な行動を繰り返す、最近の勝間和代でありますが・・・「そこまで言うか!」まさに奇行の極めつけという感じです。
デジビジで、あれほど噛み合なかった”ひろゆき”と再び・・・というのもチャレンジャーですが、仲介役(?)に”ホリエモン”というセンスは怖い物知らずであります。
それぞれに支持者というのが存在するものの、”勝間和代”、”ひろゆき”、”ホリエモン”が集まるというのは、ボクにとっては「鼻くそ」「耳くそ」「目くそ」が集合した「くそくそ三人衆」のようであります。
まさにボクのように「私たちを嫌っている人にこそ、読んで、考えてほしい」という勝間和代による”帯のメッセージ”をしっかりと受け止め、読まさせて頂きました。
三人三様に、自分たちが「嫌われ者」であるという自覚はしっかり持っており・・・それを踏まえての、それぞれが人格を構築している様子をうかがえるところが、なんとも非常に興味深かったのでした。

”ひろゆき”は、三人のなかでは”まともな人間”の立場というのを貫いていていますが、彼は結局ところ、そう易々とは”本性”明かさないのかもしれません。
それほど努力もせずに、ちょっと頭を使って成功を収めた”程度”の運のいい人間・・・という自覚を持ちつつ、成功者としてのライフスタイルを築くことをしないライフスタイルは、株で儲けた長者の若者と似ているような気がします。
そういう”ひろゆき”の生き方に学ぶべきところはないし、彼自身もあえてローモデルになろうという気持ちもないようです。
”ホリエモン”は開き直って「嫌われ者」キャラを演じつつ、常識を逸脱した発言で波風を立てるのが好きなようで・・・規制概念を壊してこうとするさまは、我々よりも上の学生運動をしていた世代を思い起こさせます。
ただ、頭のいいと自認する彼にとって、世の中の反応や批判のすべては想定内・・・”確信犯的”なアナーキーということなのでしょう。

”勝間和代”にとって、香山リカに分析され批判されるのは、腑に落ちなかったようですが・・・何故か、”ひろゆき”と”ホリエモン”からは、イジられ、ツッコまれまくることは、全然問題がないようです。
会話が進むにつれ、彼ら二人に同調していきつつ、最後は自分の価値観で納得していく様は、まるで「うわばみ」のよう・・・頑な自己確信によって、すべて彼女独自の「正論」となってしまうのです。
勝間和代は、くそ真面目に自己の「正論」に従おうとするあまり、本質からズレてしまっているのだけど、本人はそういう意識がまったくない・・・だから、勝間和代を支持しない人たちからは、彼女の「行動」「発言」「努力」のすべてが「ダサイ」だけにしか映らないのです。
これって「いじめられっこ」の典型的な行動パターンのひとつのような気がするのですが・・・嫌われることに、あまりに鈍感になってしまった勝間和代は「いじめられっこの怪物」となって、経済という武器によって復讐をしているのかもしれないと思うことさえあるのです。

”勝間和代”、”ひろゆき”、”ホリエモン”の嫌われ者三人衆の中で”勝間和代”が嫌われているのは明らか・・・そろそろ「天然ウザキャラとして開眼してくれ!」という二人の切実なメッセージを秘めた”ひろゆき”と”ホリエモン”から”勝間和代”への「接待本」なのでありました。



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2010/10/15

”本業”コラムニストとしての真価を見せるのか・・・ポスト・ナンシー関へ道は険しい~世迷いごと/マツコ・デラックス著~



マツコ・デラックスがバラエティ番組のゲストとして出演し始めたとき、殆どの視聴者が「この人、何者?」と思ったことでしょう。
東京のローカル局であるMXテレビの「5時の夢中!」の月曜日のコメンテーターとしてお馴染みではあったものの・・・何をしている人なのか、そして何故これほど大きな顔しているのか、疑問だったとしても不思議はありません。
テロップには「コラムニスト」と表示されているけれど、正直いって一緒にテレビに出演している芸能人でさえ、コラムニストとしてのマツコ・デラックスの実態は知らず・・・とにかく「巨漢の女装で態度がでかい」ということだけで、圧倒されてしまう存在だったのです。
マツコ・デラックスがゲストとして出演した番組内で、素朴な疑問として「テレビに出る前って、何をしていた人なんですか?」という質問をぶつけられていたこともありますが・・・「勝手にいろいろと言われるけど、別にどうでも良いのよ〜」と、マツコ・デラックスはあえて自らの経歴を語ることをせずに、お茶を濁していました。
まぁ、マツコ・デラックス自身が憂うように、どこの馬の骨だか分からない”怪しい輩”がテレビに出ている時代なのですから・・・。

これまでのテレビ業界の習わし(?)としておネエ系のコメンテーター/タレントは、とりあえず「肩書き」というのがあるものでした・・・華道家、振り付け師、メイクアップアーティスト、映画評論家、フットネスインストラクターなどなど。
社会的に認められた「本業」での活躍があっての「おネエキャラ」・・・というお約束の上にタレント業がなりたっていたのですが、マツコ・デラックス場合にはテレビタレントとして、全国区のテレビ登場時から、いきなりの文化人的な大物扱いというのが、ある意味「画期的」な戦略と言えるかもしれません。(くり〜むしちゅ〜も所属する事務所の手腕?)

マツコ・デラックスの経歴などについては、以前この「めのおかしブログ」でも書いたので、そちらを参照して下さい

さて、全国区的なブレイク前に出版された「アタシがマツコ・デラックス」(2002年)と「週刊女装リターンズ」(2006年)は、すでに絶版なっていますが・・・先日(10月13日)に、待望(?)のマツコ・デラックス著の「世迷いごと」が出版されました。
ここ数ヶ月の躍進ぶりを考慮すると、本屋に並ぶタイミングとしては、ちょっと遅いかも・・・という感じでありますが。
内容的には、マツコ・デラックスが気になる女性について、語りおこしされていた「EX大衆」に連載されていた”マツコ・デラックスの百面相スケッチ)をまとめたものです。
以前、出版された「週刊女装リターンズ」と、ほぼ同じような内容で、語りおこしている有名人も、かなりかぶっています。

マツコ・デラックスって「ポスト・ナンシー関」のようなポジションを期待されているのでしょうか?
「世迷いごと」の連載時のタイトルであった「マツコ・デラックスの百面相スケッチ」は、ナンシー関っぽさを意識しているようにしか思えません。
奇しくも・・・ナンシー関マツコ・デラックスは、体格的に似ているところもありますし、二人とも芸能人をネタに辛口のコラムを書くことを「本業」としています・・・。
ただ、ナンシー関自己のエゴを超越した分析力膨大なテレビ視聴の情報力には、マツコ・デラックスが敵うわけありません

良くも悪くも、マツコ・デラックスの「好き」「嫌い」というのは一貫性があるのですが(女子アナ嫌いは有名)・・・その視点は凡庸です。
それは、「恵まれない女」にありがちな、悟りきったような上から目線の「妬み」「嫉妬」が混じった皮肉でしかありません・・・そして、それは世の多くの女性が、すでに感じていることだったりします。
美醜で、多くを判断されてしまう今という時代は、殆どの女性は「恵まれない女」になってしまうものなのです。
ネガティブな感情が垣間みれる毒舌は、一時的なストレス発散にはなっても、新しい見解を提示するような批評にはなりません。
ナンシー関とマツコ・デラックスの決定的な違いがそこにあります。
マツコ・デラックスが、世間を声を代弁していると受け止めるか、コラムニストとしては平凡と感じるかは、読み手次第であしょう・・・。

マツコ・デラックスをテレビで観ることが、今のように当たり前になってしまうと・・・「コラムニスト」なんて「肩書き」もへったくれもなく、単に巨漢女装キャラとして世間に定着してしまった感があります。
すでに、ある番組では、縄でトラックを引っ張ったりするような「バラエティ」のお仕事もこなすようになってしまったマツコ・デラックス・・・お笑い番組で白い粉に落とされる日もそう遠くないのかもしれません。
だって・・・誰もがあのデカイ体が白い粉まみれになるのを、視聴者をはじめ、テレビ関係者も手ぐすねを引いて期待しているに違いないのですから。



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2010/10/10

タバコ値上げで「禁煙」始めました?・・・意志の弱いボクがタバコをやめられたわけ



10月1日からタバコが、一箱あたり110円から140円値上げされました。
これでも、まだまだ欧米のタバコ価格に比べれば安いわけですが・・・いきなり一箱1000円にして沢山の人がタバコを吸わなくなったら、税収が減ることになるので、段階的に「真綿で首を絞める」ように値上げしていくのが作戦でしょう。
タバコ値上げはボクにとっては、今や完全に他人ごと・・・そうです、ボクは「禁煙成功者」なのであります。
2002年2月末以降、タバコを吸っていません。

ボクは目標を決めて努力することが苦手・・・禁煙だって、できればやりたくなかったことでした。
そんな意志の弱いボクが、どうやって禁煙したのか?
それは・・・ある日、タバコを吸わなくなっただけなのです。
禁煙外来に行ってタバコが不味くなる薬を処方されたわけでも、ニコチンパッチやガムを使ったわけでもありません。
世の中には、いろんなやり方があるようですが、ボクのように「意志だけでやめる」というのは、最も安上がりな方法であります。
ただ、殆どの喫煙者にとって「意志だけでやめる」ことは、容易いことではないでしょう。
結果的に、ボクが喫煙に成功しすることができたのには、いくつかの要因があると思います。

ひとつめは、タバコのニコチンが体にどのように作用しているのかを理解したこと。
それほどのヘビースモーカーではなかったボクですが(1日に10本から20本程度)・・・タバコを吸うと頭がスッキリして、気分転換やちょっとしたストレス発散できるような気がしていました。
タバコを吸いたいと思っているときに吸えないと、結構イライラしたもので・・・夜中だろうと、天気が悪くても、タバコを切らしてしまった時には、自販機に一目散に向かったものです。
タバコに操られているような自分にうんざりすることもありました。
2002年1月頃に放映された「ためしてガッテン」で、禁煙の仕組みを解説した回がありました。
あまり集中せずに観ていたのですが・・・番組内で「禁煙2週間以内で、また吸ってしまっても、自分の意志の弱さではないんです」というところだけは、ボクの記憶に残りました。
それはニコチンが、神経伝達物質と化学構造が似ているために、ニコチンなしでは神経伝達機能が保てなくなる・・・というのです。
それこそがニコチン摂取をやめられない仕組みなのですが・・約2週間で禁断症状から脱すると、自然に神経伝達物質を分泌するようになるというということでした。
それならば・・・「とりあえず2週間やめてみよう!」という気持ちにさせたのです。
なんたって、2週間以内に吸ってしまっても自分の意志とは関係ない・・・というのが、ボクにとっては気持ちを楽にさせたのでした。

ふたつめは、自分の意志でやめるとしても・・・何でもない「ある日」ではなく、何かしら特別な日に禁煙を始めること。
それも、出来れのであれば、その日から普段の生活とは違う環境になるのであれば、なお良いです。
・・・というのは、単なる「ある日」だと、2週間のうちに吸ってしまっても「まぁ、良いか」と自分を許しがちだからです。
元旦とか、仕事始めの日とか、誕生日とか、すでに決まった日からスタートすることで、より意志を保つことができるように思います。
ボクの場合は、2月末から予定していた2週間の旅行の期間中「タバコを吸わない」ということにしました。

みっつめは、ライバル、または、目撃者となる他人(友人)を巻き込むこと。
「あの人にだけは、負けたくない!」「失敗した自分の姿をさらしたくない!」・・・他人の目を意識することで、自分の意志を維持しやすくなるのです。
ボクが禁煙しようと考えた2002年の新年の抱負で、ある友人夫婦が「禁煙」を掲げました。
まさか、本当にタバコをやめられると思っていなかった夫婦だったのですが・・・いとも簡単に禁煙に成功してる様子を聞いて、ボクには珍しくライバル意識が芽生えて「じゃあ~ボクだって禁煙してやろうじゃないか!」とやる気になったわけです。
ただ、ボクが禁煙に成功して数ヶ月後、友人夫婦の奥さまの方は、実は隠れて喫煙していたことが判明しました。
翌年(2003年)彼女も、我々禁煙成功者への報復を誓い、禁煙を見事成功させたのは、言うまでもありません。

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2010/10/08

これぞ、究極のリアルクローズ!・・・ローマのアルタ・モーダ時代のジャンフランコ・フェレのオートクチュール・コレクション~1989年春夏~



イタリアのミラノでプレタポルテのデザイナーとして活躍していたジャンフランコ・フェレは、1989年の秋冬、パリのクリスチャン・ディオールのオートクチュール(プレタポルテ、アクセサリーも含む)のデザイナーとして就任しました。
当初は、フランスの誇りといえるオートクチュールのデザイナーに、イタリア人を起用したことにかなり反発があったようですが・・・フェレの見事な手腕に誰も文句はつけられなかったようです。
フェレは、ディオールが活躍した1950年代のスピリットを、モダンな解釈とフェレ自身の持ち味を、インテリジェンスに融合させました。
構築的で大胆なシルエットで知られたフェレのスタイルは「ディオール」以上に「ディオールらしく」・・・歴代のデザイナーの中では、最も適任者ではなかったかと思います。



パリでオートクチュール・コレクションを発表していることを知っていても、ローマの「アルタ・モーダ」でもオートクチュール・コレクションが(現在でも!)発表されていることは、あまり知られていません。
ディオール時代にフェレが発表したクチュール・コレクションも素晴らしいのですが・・・ディオール以前(1986年から1989年春夏)に、ローマの「アルタ・モーダ」にて発表していたクチュール・コレクションの方が、ボクは好きなのです。
特に、ディオールのデザイナー就任直前、そして、フェレ自身の名前を冠したクチュールコレクションの最後となった1989年の春夏コレクションは「圧巻」でした。



今現在の2010年において、このコレクションを改めて見てみても「究極のリアルクローズ」としての完璧なオートクチュール・コレクションであったと思っています。
ペールブラウンを中心に、ホワイト、ブラック、レッドのミニマルなカラー構成。
無地をベースにしながらも、ストライプ、ペーズリー、フローラルなど柄のバリエーション。
そして、ラフィア、レース、ビーズ、シフォンなどによる立体的な装飾。
コレクションを構成されたアイテムは、現代的でミニマルなトップス、スカート、パンツ、ジャケット、ドレスでありながら、装飾性をモダンに加えて、懐古趣味に陥っていない、エッジを利かせたエレガンスの極みに達しているのであります!



デイウェアのスーツからリゾートでの装い、カクテルパーティーやイブニング、そして堂々たるグランドイブニングまで、ライフスタイルだけでなく、デザイン要素を含めて、明確なコンセプトが貫かれています。
一般的な女性の生活には非現実的と思えるような服ばかりですが、クチュールを購入するライフスタイルをもった顧客の視点で考えてみると、完璧なワードローブと言えるのではないでしょうか?

・・・ただし、裕福な貴族の夫人となり、いくつかの企業を運営しながら、週末はリゾート地で過ごし、社交界のパーティーに出席しなければならないという「現実」があってこその「リアルクローズ」ということでは、あるのですが。



その後、ディオールの主任デザイナーはジョン・ガリアーノが就任し、ジャンフランコ・フェレは2007年に62歳という若さで他界しました。
現在はアクセサリーのみ「ジャンフランコ・フェレ」のブランドで存続されているようですが・・・建築家志望だったフェレが、ファッションに関わるきっかけになったが、友人のために制作したアクセサリーだったそうです。
これを「皮肉な終焉」「スタートに回帰」のどちらに解釈するかは、それぞれでありますが・・・。
どんな素晴らしくても、どれほど革新的であっても、コレクションは半年経てば「在庫」という「ゴミ」になってしまうのが、ファッションビジネスの”定め”・・・これから10年経ち、20年経ったとき、ジャンフランコ・フェレを記憶している人は、どれくらいいるのでしょう?
ファッションの歴史というのは、ビジネスを続けている生き残ったブランドによって塗り替えられ、ブランドとして継続されていないデザイナーの名前や業績は忘れ去られてしまいがちなものなのだから・・・。



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2010/10/06

祝!キング・オブ・カルトムービーがブルーレイ化・・・”フランクン・フルター博士さま”のお姿を鮮明な大画面で!・・・~「ロッキー・ホラー・ショー」~



「カルト映画」というジャンル自体が一般的になってしまって、宣伝文句として使われることが多くなってきたような気がしますが「ロッキー・ホラー・ショー」は、まさに「キング・オブ・カルトムービー」と言えるでしょう。
とは言っても、ボクと同世代の人(50歳前後)でも「知らない」という人が多いでしょうし、日本人の若い世代にはまったく馴染みはまったくないかもしれません。

「ロッキー・ホラー・ショー」は、1973年に初演されたイギリス人リチャード・オブライアン(Richard O'Brien)作のロックミュージカルの舞台劇です。
トランシルベニア星雲のトランスセクシュアル星人であるトランスベスタイト(女装倒錯者)のフランクン・フルター博士が人造人間を作っている屋敷に、ジャネットとブラッドというカップルが迷い込むという「フランケンシュタイン」をベースにしたようSFチックなストーリーであります。
ロンドンで舞台は成功し、オリジナルキャストによる低予算で、1975年に映画化されました。
ティム・カリー(Tim Cyrry)主演の映画版(海外ではThe Rocky Horror Picture Showというタイトル)は、完璧といって良い完成度を誇るといっても良いでしょう。
ド派手なコスチュームとメイクに、性倒錯や麻薬などの反社会的なメッセージを詰め込みながら、1950年代のB級怪奇SF映画やゲイ好みの往年のハリウッド女優のパロディを、随所に盛り込んでいます。
ティム・カリーが演じたフランクン・フルター博士のビッチなおネエっぷりは、おそらくその後の全てのアメリカの女装パフォマーに何らかの影響を与えているといっても過言ではないでしょう。
舞台デザインや衣装、そして物語は漫画的でありますが、音楽的には洗練されていて、オリジナルキャストの細かい所まで役柄を理解している演技が、舞台版の小劇場の良さを、より映画的に表現していました。
映画は当初興行的にはそれほど成功しなかったようですが、ニューヨークやロスアンジェルスでは、同じ客が訪れるというカルト的な人気を博したため、ミッドナイト上映という形で上映が続けられるということになったのです。
そして、シャドウキャストによる参加型の上映という伝統が、公開から35年経った今でも引き継がれ愛され続けているといるのです。
アメリカの片田舎では今でも「オタク」的なティーンエイジャーにとって「ロッキー・ホラー・ショー」の上映会の洗礼というのは、必ず通過すべき儀式(童貞/処女喪失に匹敵するような)のひとつであるのかもしれません。

ボクが「ロッキーホラーショー」の存在を知ったのは・・・大和和紀先生の漫画の中で、ギャグとして時々登場してくる女装キャラでした。
ただ、そのキャラクターが、何から引用されていたかは分かっておらず「フランクン・フルター」というのが、当時の少女漫画家のあいだで話題になっていることだけは知ることができたのでした。
「ロッキー・ホラー・ショー」は、1976年8月に日本で劇場公開されているのですが、ボクはロードショーでは観ていません。
日本でも興行的には成功しなかったようですが・・・ロードショーが終了してから熱狂的なファンによって上映会を行うという形で、公開後も観ることができたのです。

映画少年の必須だった「ぴあ」を愛読するようになったボクは・・・次第に名画座で古い映画を観るだけでは飽き足らず、自主上映の映画にハマっていったのですが、その中で「ロッキー・ホラー・ショー」を実際に観る機会に恵まれました。
当時の自主上映会で扱われているような映画について書かれているような文献も少なかったので、とにかく自分の足を使って観に行くしかなかありませんでした。
ボクは、完全に無修正(!)で上映されていたジョン・ウォーターズ監督の「ピンクフラミンゴ」(1972年製作)は、何度も新宿コマ劇場近くの上映室のような小さな部屋へ観に行っていました。
入場料は1000円でしたが、満席でも12人ぐらいしか入れないという狭い所で、どこか怪しい営業方法でした。
その他、ジャン・ジュネの「愛の唄」とか、グリフィスの「イントレランス」などの、当時、日本では正規の方法では観ることのできなかった映画が、この場所では上映されていました。
そういう自主上映の映画の中でも、観客を集めて最も商業的にも成功していたのが「ロッキー・ホラー・ショー」だったのです。
上映会は、広い会議室のような所だったり、公民館みたいな場所だったりの、200人ぐらいが入ればいっぱいぐらいの会場だったと記憶しています。
ボクが「ロッキー・ホラー・ショー」の自主上映会に足を運ぶようになった1980年頃には、お決まりの「ツッコミ/合い手」や「小道具」といった独特の”観賞術”というのも、すでにファンのあいだでは確立されていました。
結婚式シーンでの「お米」、大雨のシーンでの「水鉄砲」「新聞紙」「傘」、屋敷を明かりを見つけるシーンでの「ライター」・・・「クラッカー」「トイレットペーパー」など、など。
さすがに、その当時は登場人物のコスプレして、スクリーンの前で映画のシーンを演じる(シャドウキャストによる参加型上映会)は日本では行われていませんでしたが・・・。
ちなみに日本でシャドウキャストを行った上映は、ニューヨークに遅れること12年あまり・・・1988年の劇場再公開のときだったようです。

1981年9月、ニューヨーク大学の英語学校に留学したボクは、通学路にある「エイト・ストリート・プレイハウス/8th Street Playhouse」で、毎週の金曜日と土曜日に「ロッキー・ホラー・ショー」ミッドナイト上映されていることを知ります。
ここは、ニューヨークの芸能専門学校の若者を描いた「フェーム」という映画のなかで、引っ込み思案の女の子が「ロッキー・ホラー・ショー」のシャドウキャストに参加することによって、自分の殻をやぶるという重要なシーンに登場する、知る人ぞ知る有名な映画館だったのです。
さっそく、友人を連れ立って金曜日のミッドナイト上映会に行きました・・・ボク以外は勿論「ロッキー・ホラー・ショー」初体験の面々です。
観客の半分ぐらいは、なんとなく仮装しているような映画館で、我々は結構浮いていました・・・・。
スクリーンの前でパフォーマンスが行われるとは知らなかったために、一番前の客席を陣取ってしまい・・・シャドウキャストの人たちからは、ちょっと怪訝な顔をされてしまいました。
ただ、目の前で登場人物と同じ格好をしたキャスト達が、スクリーンと同じシーンを演じているのを、目の前でみる白熱した情熱にインパクトを受けたのでした。
ニューヨークでは映画公開の翌年(1976年)から、シャドウキャストによる参加型の上映スタイルが定着していたようで、1981年には、いくつかのシャドウキャストのチームがニューヨークには存在していたようです。
当時のシャドウキャストによるパフォーマンスは、映画のコピーを目指していたものの、それぞれのキャストがキャラターを自由に演じていたという感じで、のびのびと観客とともに楽しむという感じでした。
ボクも「タイムワープのダンサーのひとりで良いから、シャドウキャストになりたい!」なんて考えたこともありましたが・・・当時はニューヨークに留学したばかり。
話しかけるほどの勇気も、会話をする英語力もなく、その後も何度となく観客のひとりとしてミッドナイト上映会に足を運ぶだけでした。
それでも、日本での自主上映会と合わせて、少なくとも50回は劇場で観ていますが・・・マニアからすれば、まったく話になれないほど少ない回数でしょう。

大半のアメリカ人のティーンエイジャーが「ロッキー・ホラー・ショー」を、徐々に卒業していくように、そのうち、ボクも上映会に足を運ぶことはなくなりました。
アメリカで「ロッキー・ホラー・ショー」がビデオ化されたのは1990年頃だったと思うのですが・・・ボクの中では「思い出の映画」のひとつになっていたのです。
ビデオ化されるまでは「ロッキー・ホラー・ショー」を観るためには、上映会に行かなければなかったのですが・・・それ故に「伝説のカルト映画」という特別な地位を確立していたところもあったのかもしれません。
ビデオ化されたことで、ボクにとっては、ひとつの時代が終わった印象も、正直いってありました。
ただ、逆に自宅でも何度も観れるということが、その後アメリカ全土にシャドウキャストによる参加型上映会を、さらに広めていくことにもなったようです。
ビデオで何度も観ることが可能になったことにより、些細な衣装のディテールから、指先の動きまで完全コピーすることが、特にアメリカのシャドウキャストの「お約束」という風潮も、なっていったのかもしれません。

映画の中でコロンビア役を演じたリトル・ネルは、1988年にニューヨークのダウンタウン(8番街近くの14丁目)に「ネルズ」というナイトクラブをオープンしました。
当時、ボクは「ネルズ」から100メートルぐらいしか離れていないアパートに住んでいたので、夜な夜な通ったものです。
「パラディアム」「マーズ」「トンネル」「MKなど、大型で商業的なナイトクラブのブームからの反動で、こじんまりとしたクラブの人気が高まってきた頃だったように思います。
古い屋敷のようなアンティーク調の家具や調度品で埋め尽くされた内装で、一階はバーとダイニング、地下がダンスフロアという作りが、当時は逆に新鮮に感じたものでした。
そして、何よりも「ロッキー・ホラー・ショー」に出演したリトル・ネルがやっているナイトクラブであるという事が、当時では大変なステイタスであり、大きな話題だったのでした。
「ロッキー・ホラー・ショー」の出演者は、ファンにとっては、いつまでも崇拝する存在なのです。



製作35周年(ちょっと中途半端な気がしますが・・・)を記念して、フランスに続いて日本でブルーレイ版が発売されました。
(フランスでは9月15日、日本では10月2日、イギリスでは10月18日、アメリカでは10月19日、ドイツでは11月5日)
自主上映会に使われていたオリジナルフィルムというのは、かなり使い回されていたのでしょう・・・大型液晶テレビで久しぶりに観た「ロッキー・ホラー・ショー」は、ボクの記憶の中にある以上に遥かに鮮明で、心が揺さぶられるほどでした。
ボク自身の嗜好や趣味が、どれほど「ロッキー・ホラー・ショー」の影響を受けていたかを、改めて実感させられましたのです。
まさに「タイムワープ」して、未来に輝かしい可能性を感じていた若い日に戻ってしまいます。
そこは・・・「ボク」自身が「ボク」であった”懐かしい時代”でした。

「ロッキー・ホラー・ショー」
原題/The Rocky Horror Picture Show
1975年/アメリカ
原作、作詞、作曲:リチャード・オブライアン
監督 : シム・シャーマン
脚本 : シム・シャーマン、リチャード・オブライアン
出演 : ティム、カリー、スーザン・サランドン、バリー、ポストウィック、リチャード・オブライアン、パトリシア・クイン、リトル・ネル、ジョナサン・アダムス、ピーター・ハインウッド、ミートローフ、チャールズ・グレイ

追伸
2011年12月から3ヶ月間に渡り、パルコ劇場で「ロッキー・ホラー・ショー」の舞台が上演されるそうです!
演出は劇団☆新感線の”いのうえひでのり”、フランクン・フルター役は”古田新太”ということであります。


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