DVDにはリージョンコードというのが細かく分かれていて、アメリカで購入したDVDは日本のDVDプレーヤーでは再生出来ないという問題があります。
また、ヨーロッパの映像規格は日本やアメリカの「NTSC」と違って「PAL」のため、リージョンコードが同じでも、やはり日本のDVDプレイヤーでは再生できないので、リージョンフリーDVDプレイヤーが視聴するためには必要となります。
Blu-ray Discでは、リージョンコードもアメリカと日本では同じになったので、日本語の字幕や吹き替えが不要ならば、日本のブレーレイディスクプレイヤーでアメリカのブレーレイディスクも再生が可能になりました。
ただ、ボクが観たいと思う作品が次々とブルーレイ化されているのは、アメリカよりもイギリスだったりするので・・・またしても、リージョンコードの壁に阻まれることになったのです。
そこで・・・リージョンフリーのブルーレイディスクプレイヤー(Momitsu BDP-899)の購入ということになりました。
さて、前置きがながくなりましたが・・・そこまでして欲しいイギリス盤でしかない作品って何なのだという話です。
それは・・・「ソドムの市」
知っている人は「おえぇ~!」と悲鳴をあげてたくなるような、ある意味、有名なタイトルです。
ボクが三大変態映画監督(他のふたりは、ドゥシャン・マカヴェイエフ監督♥とアレハンドロ・ドロフスキー監督♡)のひとりとして挙げる”ピエル・パオロ・パゾリーニ監督”の遺作であり、この映画完成の直後にパゾリーニ監督は同性愛セックスを強要した少年に惨殺されるという(その真偽には疑問もありますが・・・)トンデモナイ後日談つきのスキャンダラスな映画としても映画史上に君臨しています。
原作は「ソドムの百二十日」・・・権力者たちが、男色、小児愛、老人愛、近親相姦、獣姦、屍体愛、スカトロジー、嗜虐、フェティシスムという異常性欲の限り尽くすさまを、精神性のかけらもなく綴ったマルキ・ド・サドの代表作です。
この映画が日本で日本で劇場公開(成人映画として)された1976年当時、ボクはまだ未成年(13歳)だったので、原作もパゾリーニの映画の存在も知らなかったのですが・・・当時、映画公開に合わせて原作の文庫本が再版されていました。
映画の一場面のスチル写真(裸の少年少女たちのお尻を懐中電灯で照らしている)を表紙にした、原作本が本屋に平積みされていたのですが...その本の前を通るさえ恐ろしく感じたことを覚えています。
(トラウマは、映画を知る以前から、すでに始まっていたのでした・・・)
その数年後、ボクは原作本を手にしたのですが・・・日記形式の変態かつ残虐な行為の事細かな説明に脳みそがグチャグチャになりそうでした。
「禁断の書」と思いながらも・・・「馬蔵」と呼ばれる精力絶倫の青年たちの描写に異様に興奮したことを記憶しています。
70年代後半というのは、公開される映画には必ずパンフレットが作られていた時代で、実際に映画を観る以前に、ボクは「ソドムの市」の映画パンフレットを購入することができました。
パンフレットのスチル写真を眺めながら「一体・・・どんな映画なんだろう?」と、想像を膨らましていたのでした。
18歳になってすぐ(ボクは背も高く外見的には成人として十分パスできた)蒲田の名画座へ「アラビアンナイト」「カンタベリー物語」「デカメロン」そして「ソドムの市」を続けて上映という、まる一日パゾリーニ漬け(おそらく合計上映時間は8時間以上?)という「パゾリーニ特集」を観に行ったのです。
その上「ソドムの市」の上映中には、隣に座ったおじさんに股間を弄ばれたたりして・・・いろんな意味で一生忘れることの出来ない一日だったのでした。
そんなわけで「ソドムの市」という映画は、ボクにとっては存在との出会いから幾重にもトラウマを重ねたような作品なのです。
映画では、イタリア・ファシズムの時代に舞台を変えて、権力者4人達の異常性欲を満たすための狂宴が、大殺戮に至るまでの様子を淡々と描いています。
その後、ボクはアメリカで”ぼかし無し”の無修正版「ソドムの市」をレンタルビデオ屋から借りて何度も観る機会がありました。
DVDは、日本盤だけでなく、アメリカ盤、イギリス盤、イタリア盤を所有しています。
おそらく「ソドムの市」は、ボクの人生で最も多くの回数、観ている映画のひとつかもしれません。
何故、これほど不快感極まりない「ソドムの市」という映画に、ボクは惹かれてしまうのでしょうか?
それは「振り子の原理」に似ています。
ボクの精神内部には、純粋で心暖かい「善な部分」と、冷酷で残酷な「悪の部分」があるように感じているのですが(たぶん・・・多くの人がそう感じているかもしれません)
大人としての分別を保ちながら、自分という人格のを確立していく作業で、最も振り幅を遠くの高いところまで振り子を振ることによって、自分自身を再確認できるような気がするのです。
極端に傾くこともなく、ど真ん中のバランスの取れた自分になれるような・・・。
「ソドムの市」という映画を観ることは、ボクの中では日常生活ではあり得ないほど大きく振り子をふるような行為そのもので、自分の内面には存在しない、想像することさえもない「悪」を、体験するようなものなのです。
だから、この映画で描かれている行為にはまったく性的な影響を受けないし、想像をして興奮することもありません。
「ソドムの市」を久しぶりに観ました・・・大きな液晶テレビの画面で観るブレーレイの映像は、映画館のスクリーンやVHSビデオ以上に、恐ろしいほどの美しさと残酷さを鮮明に映し出し、以前にも増してボクの精神は浄化されたような気がしたのでした。
「ソドムの市」
原題/Salò o le 120 giornate di Sodoma(サロ、或いはソドムの120日)
1975年/イタリア、フランス
監督 : ピエル・パオロ・パゾリーニ
製作 : アルベルト・グリマルディ
脚本 : ピエル・パオロ・パゾリーニ、セルジオ・チッティ
音楽 : エンニオ・モリコーネ
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