まだ、ニューヨークでデザイン大学に通っていた頃に、森村泰昌氏の西洋の絵画の中の人物に扮した写真を初めて見たのですが・・・ボクは「美術にまつわるジョーク」をしている芸人さんだと、その時に何故か思い込んじゃったんです。
最初の印象が、そんなんだったものだから、森村氏のその後の作品群を見ても「また、ふざけている。おもしろ~い!」という反応しかできなくなってしまったようです。
そして「女優家M」としての女装シリーズでは、ニューヨークのドラッグクィーンが、やりたくてしょうがないような「なりきり系」の女優系のコスプレを凝ったセッティングと撮影でやっている”ノリ”に、かなり笑わせてもらったのでした。
・・・・・ただ、その後、日本に帰国して、森村氏の文献とかに接する機会があって、彼は特にふざけているんじゃなくて、かなり真面目に活動されている”美術家”ということを知って、逆に「ドヒャー!」って、ひっくり返ってしまったのであります。
森村さんって、知的っぽい笑いを追求している「芸人」さんじゃなかったのね・・・失礼致しました。
さて、東京都写真美術館で開催されている「森村泰昌展・なにもかへのレクイエム」は、20世紀の男たち」に扮したセルフポートレート写真の新作シリーズです。
元ネタが「報道写真」だったり、有名な写真家が撮影した「ポートレート写真」ということから、以前の作品群より直接的な引用を感じさました。
女装モノよりも、本気で似せようとしているし、かなり元ネタと似ているのですが、ますます「顔マネ度」が高くなってしまった・・・という感じです。
まるで、清水ミチコのものまね芸の「顔マネ」のような!!!
そりゃ勿論、写真としてのクオリティも、作品として訴えているテーマもまったく違うのですが・・・元ネタを小馬鹿にしているのか、リスペクトしているか、ビミョーな際を表現している感じに、同じようなスピリットを感じてしまったのです。
「20世紀の歴史」と言えば大きなテーマではありますが、清水ミチコの芸能人/著名人の洞察力というのも、ある意味、そのときの時代を語っているわけで・・・100年後、200年後には森村氏の美術写真も清水ミチコの顔マネも同じように「過去の文化」として扱われるの・か・も・しれません。
セルフポートレートという同じ写真の手法のせいか、何かとシンディー・シャーマンと比較される(らしい)森村氏であります・・・が、どうなんでしょう?
森村氏本人は「シンディー・シャーマンは我が妹」と公言しているし、オマージュとしてシンディー・シャーマンの作風を真似て、シンディーになりきった作品も発表しているほど。
確かに、年齢は森村氏が多少年上なので・・・そういう意味では「兄」ではあるのでしょうが、セルフポートレートの作品群を発表したのは、シンディー・シャーマンの方がずっと早くて1970年代後半のこと。
それに、同じセルフポートレートでありながら、作品の意図することや、作品に対する姿勢は、かなり違うものであります。
「Untittled Film Stills」シリーズは、後に森村氏の女優家Mの作品に影響は与えたとは思うんだけど・・・シンディーが扮するのは、タイトルもない映画の、名前もない「女」という存在。
「自己消却」しているシンディーと「自己主張」する森村氏・・・ボクには、大きく違う表現者と思えるのです。
さて・・・「森村泰昌展・なにもかへのレクイエム」は、女装シリーズほど「笑える展覧会」ではありません。
歴史を記録した写真を「再現する」ことに、ボクはそれほど深い意味を感じることが出来なかったし、メッセージも非常に分かりやすくて(別に難解であることがアートだとは言わないけどさぁ)歴史をパロった「森村流の芸」という印象ではありました。
そして何よりも・・・ところどころが、ベタなオヤジギャグなところが「やっぱり森村さん、根が芸人!」としか、言えなかったのでした!
森村泰昌展・なにものかへのレクイエム
東京都写真美術館2F、3F
2010年5月6日まで