ファッッションが、歴史的にラグジュアリー/贅沢の欲望を満たす道具のひとつであることは間違いないでしょう。
東京都現代美術館で開催されている「ラグジェアリー:ファッションの欲望」展は、17世紀からの宮廷貴族のドレスから現代までの贅沢と解釈される衣服の展示によって、価値観の変わりつつある「贅沢とは何か?」を問いただしているような気がします。
19世紀までのファッションの贅沢さは、手仕事の量や素材の希少性などが明らかで、非常に分かりやすい贅沢さです。
膨大な手仕事による刺繍、レースが施されているドレスは「デコレーション/装飾」=「ラグジュアリー/贅沢」であった価値観をハッキリと感じさせます。
しかし、20世紀に入ると「感性」という要素も加わって、一見するとシンプルなドレスが贅沢であるというレトリックが生まれました。
その後は、流行を創り出していくことや、希少=高価な素材での差別化を生むことで、デザイナーファッションは「贅沢」な存在として存在し続けてきました。
マルタン・マルジェラのアーティザナルラインは、見た目はアバンギャルドですが、本質的には前時代的でもあります。
手仕事に費やされる時間と素材の希少性(金額的に高価でないけど)というのは、ヨーロッパの宮廷時代の贅沢そのもの・・・それぞれの衣服に制作に何時間かかかったのかを表示しているのは、まだ我々が手仕事に対して持ち続けている価値感への皮肉でしょうか?
コム・デ・ギャルソンの感性を「贅沢」と位置づけるのは、価値観の多様性と言えるでしょう。
過去に西洋のデザイナーたちも、それぞれの時代に新たな感性で差異を「贅沢」として表現してきました。
西洋的なファッション観を覆すことで、ある世代、あるグループの人々には絶大な支持と影響力を持っているコム・デ・ギャルソンの20年に渡るコレクションを改めて見てみると、ファッションという枠の中で「感性」による差異を巧みに表現していた事を感じさせられました。
個人の「感性」によって贅沢の判断が委ねられているということは、絶対的な基準が希薄な時代ということかもしれません。
”経済力”や”感性”を主張する「ファッション」というのは、前時代的な贅沢さの象徴に成り下がって欲望を満たす役目を失いつつあります。
手仕事の量でも、金額の高さでも、素材の希少性でも、流行りのスタイルでもない・・・さらなる贅沢を求める欲望は、ファッションから離れて「肉体美」と「精神性」に向かっているような気がします。
肉体の上にあるに過ぎない衣服ではなく、肉体そのものを美しく改造することに費やす時間と経済力があることが、今日では贅沢なのかもしれません。
スポーツジムで健康で美しい体型になる、整形手術で目鼻や身体を変える、アンチエイジングで若さを保持する、・・・まさに「私、脱いでも凄いんです!」の肉体美こそが、外見重視の欲望の先にあるようです。
環境問題などに関わることは、心の豊かさや世の中の貢献度だけでなく「エコロジカルで素敵な私」という自己満足を与えてくれます。
近年のスピリチュアルや宗教への傾倒のムードは、現世利益志向の自己確認の欲望を満足させているのに過ぎないのかもしれません。
結局、人間の欲望というものの行方は、自己中心的で浅はかなものでしかないのでしょうか・・・。
ラグジュアリー:ファッションの欲望
東京都現代美術館 企画展示室1F,B2F、企画展示室アトリウム
2010年1月17日年まで
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