お互いが自分の話したいこと”だけ”話をして、会話が成り立っている、おばさんの会話(おじさんも、おばあさんも、おじいさんも、奥さんも、旦那さんもするけど・・・ここでは”おばさん”とさせてもらいます)は、第三者から観察すると可笑しく思ってしまうのです。
しかし、ずっと平行線で交わることのなさそうな会話こそ、無駄なコンフリクトを回避している”便利な会話術”ではないかと思うことがあります。
若い頃には、友達同士だったら頭ごなしに相手を否定したり、相手に不快な思いをさせるような言い方を、まったく遠慮せずにしていました。
それは、世代的な要素もありますが、時代性も大いにあるように思えます。
今の時代の若者が友達同士で言いたい放題しているようには見えません。昭和の時代よりも今の方が、お互いの感情を気遣うことが流儀のようなのです。
近年は、批判的だったり、否定的な感情を避ける風潮が、ますます強くなってきた印象があります。
それを上手に出来ないと「空気を読めない」と批判されることさえもあるのです。
40代を過ぎて社会的な立場や生き方が安定してくると、個性や人格というのは本人が思う以上に頑なになっていたります。
それは「その人らしさ」であり、思い返せば片鱗はしっかりと若い頃から存在していた「その人の1番の特徴」だったりします。
ただ、お互いに歳を取って人格が固定化してくると、コンフリクトが起きた時に話し合うことでお互いが歩み寄るのではなく、よりお互いの違いだけを認識する結果になることも起こります。
これは喧嘩とは違うけど、それぞれの「根本的な違い」に光の下に曝してさせてしまって、妙に淋しい気分にさせたりします。
お互いが共感し合うことばかりを求めてばかりいると、その期待を裏切られて微妙な距離感を感じてしまうこともあるかもしれません。
仲良しの確認でも、自分との共感でも、結論を求める会話でもない・・・言いたいことをお互いに主張し合っているような「おばさんの会話」というのは、お互いに期待しすぎないという意味では悪いことではないのかもしれないと思えてきます。
相手に言いたいことを言わせて、自分の言いたいことも言うというのは、ある意味、高度なコミュニケーションテクニックなのかもしれません。
気兼ねすることなく言いたいことを言える相手というのは、家族のように貴重なの存在です。
そんなことを考えると、おばさん式の会話術も、それはそれで良いものなのかも・・・と、思えるこの頃なのです。