ボクが物心がつきはじめた頃(1970年くらい?)は、未来は希望に満ちていたような気がします。こども向けの絵本には「鉄腕アトム」で描かれていた流線型の乗り物やレトロフィーチャーな建物の風景が広がり、腕時計型の電話で人々は通話し、あらゆる病気は治療できるようになりヒトはほぼ不老不死、国境がなくなり世界はひとつの国として仲良く暮らしている・・・という”未来予想図”を持っていたのです。
しかし、1970年代に入り・・・小松左京著「日本沈没」と五島勉著「ノストラダムスの大予言」が大ベストセラーになり、有吉佐和子の「複合汚染」で書かれたような公害問題(スモッグや公害病)や人口爆発問題(当時は増え過ぎを心配していた)など、未来への不安が語られるようになり”終末論”が広がっていくのです。特に「1999年7月、空から降ってくる”恐怖の大王”によって世界は滅亡する!」と訴えた「ノストラダムスの大予言」は、その後”しらけ世代”と呼ばれるボクらの世代の”冷めた人生観”に影響を与えた気さえするのです。
映画版「ノストラダムスの大予言」は、「日本沈没」の大ヒットを受けて、原作本が出版(1973年11月25日)されてから、僅か一年足らずで(1974年8月3日)劇場公開されています。ノストラダムスの予言書と言われる「諸世紀」を、ノストラダムスの逸話と共に解説した原作の”タイトル”のみ借用した本作は「オリジナル映画作品」なのです。
本作で描かれる事象は、各界の専門家たちによる科学的考証を元にしており、特に当時農林省に務めていた西丸震哉氏による食生態学のアドバイスが、本作の悲観的な結論に大きく影響しているといわれています。ストーリーの掴みどころもなく、スペクタクルにも欠けており、ツッコミどころ満載の”珍作”ではありますが・・・公開時には文部省の「推薦映画」でもあったのです。
本作が”語り継がれる”理由のひとつは、未だに国内では一度もソフト化されていないからかもしれません。近年、過去、封印されていた映像作品が、ソフト化されていく傾向があるようですが・・・大幅カットされた海外版のVHSビデオとレーザーディスクが販売されたことはあるものの、公開時のノーカット版は不法な海賊版でしか手に入らないのです。日本国内でも 一度はビデオとレーザーディスク(カット版だと思われますが)の発売予告がされたにも関わらず、結局のところ未発売のまま・・・現在では視聴困難な「封印映画」となったのです。
映画の主人公は、幕末の時代、第二次世界大戦中に、ノストラダムスの予言を唱えた一族の血を引く科学者・・・丹波哲郎扮する西山博士であります。1999年7の月に空から恐怖の大魔王が降ってくるという人類滅亡を暗示する予言とは何かを、環境破壊や核戦争の危機を煽って、この西山博士が説教しまくるのです。
食品に使われる防腐剤や農作物の成長促進剤に意義を唱えたり、自然破壊や森林伐採の人類への危険性や工場から排出される物質による汚染を訴えたり、動物や魚の大量死や奇形生物(奇形児)が増えていることに危機感を感じていたり・・・というのは、現在進行形の環境問題であります。ハワイ沖に氷河ができるのは大袈裟だとしても、偏西風の蛇行が世界的に異常気象を生じさせると指摘しているのは、まさに「エルニーニョ」や「ラニーニャ」の現象のことであり・・・問題意識の先見の目は否定できません。
しかし、地下鉄路線内に巨大雑草が一晩で生い茂ったり、超音速機の爆発でオゾン層が破壊されて人間が焼かれるとか、突然変異で”ある能力”が発達した子供たち(高速移動をし始める男の子、ジャンプ力が増大する女の子、たくさんの桁数の計算ができるようになる男の子)が出現するというのは、あまりにも馬鹿馬鹿しすぎます。
封印される原因となったのは・・・ニューギニアの奥地で放射能を浴びてしまった原住民が被爆して人肉を食らうバケモノとして描かいたところや、核戦争で滅亡した後に現れた新人類がケロイドだらけの奇形児として表現したこと。まだ、広島と長崎の原爆投下から30年ほどしか経っていなかったこともあり、被爆者団体から非倫理的な差別だと訴えられます。当時も劇場公開されてから数ヶ月後に、問題のシーンをカットした編集版に上映を差し替えたそうですが・・・1974年の興行収入は邦画部門では2位(1位は「日本沈没」)になっているのですから、大ヒットではあったのです。
本作を”珍作”としているのは、描かれている「いまどきの若者」の風俗の違和感であります。未来を悲観した若者たちがコイントスをしてグループの半分が崖からバイクで飛び降り自殺したり、アングラ風の歌舞伎メイクと衣装で船で旅立つというのは、おそらく当時の本作を観た若者にとっても奇妙だったのではなかったでしょうか?
また、西山博士の娘(由美かおる)と娘のボーイフレンドであるフリーカメラマンの中川(黒沢年男)の、行動もちょっと変です。どうやら、この二人には肉体関係がないらしいのですが(ホント?)・・・その二人に「愛する者同士なら自然」と、エッチを奨める父親も父親であります。さらに、そう父親に言われて、さっそく海辺のボート中でエッチに励んでしまう娘も娘です。
「子供だけは作るな」と科学者である父親から釘を刺されていたのに関わらず、すぐ妊娠してしまう娘は、汚染されて何重にも見える太陽をバックに、命の誕生の歓びをダンスで表現する(さすが西野バレエ団出身!)というシュールな展開であります。
日本国内の各所は、爆発、火事、津波など災害に襲われて、食糧を求めた国民が暴れしているにも関わらず、何故か西山のいるビルの屋上(風景からして都心?)は妙に静か・・・スモッグが反射鏡となり、地表をグリーンの空に映し出しているのです。このような壊滅的な状況下・・・映画の終盤、総理大臣や政府高官を相手に語られる西山博士の熱弁と共に、これから起こるであろう核戦争と、その後の世界の終わりが描かれていきます。あくまでも、西山博士が警告する未来でしかないのですが・・・。
「ノストラダムスの大予言」どおりの未来が訪れることを前提にした危機感を煽る本作でありますが・・・西山博士と総理の演説は、強引に結論を言い切っているところがありながらも、現在の世界的な社会、環境、政治問題を言い当てているところもあり、不思議な説得力によって、うっかり(?)感動さえさせられてしまいます。
(以下、引用)
このような現象は日本各地に起こる。
一般民衆にとっては、不吉な天変地異の前触れとしか思えないのでありまして、
すでに各都市に頻発している食糧パニック状態と合わせて、
人心は不安、動揺、紊乱(びんらん)の極に達しております。
さらに、この上に自然界の異常事態が発生したら、どうなる?
遠州灘を中心とする東海地方、冨士火山のフォッサマグマ帯をはじめとして
我が国土は、その危険を十二分にはらんでいるのであり、
もし、そのひとつが引き金作用となって、
環境汚染の進む都市に及べば、どうなるか?
(マグマ噴火と大地震に襲われる都市)
(爆発する原子力発電所による核汚染)
原子力発電所には許容安全度というモノはありえないし、
地震に対しても、絶対に安全とは言えないのであります。
だとすれば・・・これは言語に絶する公害であり、
さらにまた、国連の勧告、人類の悲願にも関わらず、
核兵器の全面禁止は、国家間のエゴイズムのために
一向に実があがっていない。
今後ますます、その複雑さと深刻さを増すであろう民族問題、
食糧不足からくる決定的な飢饉、エネルギー資源の争奪戦などは、
常に一触即発の危険をはらみ、例え局地戦であっても・・・いいですか?
例え局地戦であっても、ひとたび、もし、ひとたび
核兵器が用いられたなら・・・
(戦闘機、潜水艦、空母、戦車、ミサイル発射)
さらに、これが拡大して、世界戦争になったら・・・
(世界の各地で続々と発射される核ミサイル)
(1999年7の月、空から恐怖の大魔王が降ってくる・・・というナレーション)
(ニューヨーク、ロンドン、パリ、東京が爆発全滅)
(基地は壊滅して人間が死んでも、ミサイルは発射され続ける)
こうして人類は滅亡しても、地球は残るでしょう。
(荒れ地となった関東地方)
壊滅し荒廃しきった我国でも、このまま何年、何十年かの歳月が過ぎて、
房総半島、九十九里浜、千葉、関東平野、東京湾、東京があったところ・・・
(美しい乙女の輝き、それはもう輝くことはない。すべてのモノは毛と皮が剥け、狂って争う。怪物が地球を覆うことになる。・・・というナレーション)
これは、あくまでも想像です。
誰も見た者はない。
見ることもできない。
しかし、現在の人間は、このようになる危険と一緒に生きているんです。
総理!政治とはなんでしょう?
人間を人間として生存させる責任であります。
その人間の生存自体が壊滅の急坂を今、加速度をつけながら転がり落ちているんです。
神仏の心による大決断の政治を、私は総理に祈りを込めて、お願い致します。
この熱弁を受けて・・・総理(山村聡)は、あっさり(?)西山博士の主張に共感して、危機を訴えるのであります。こうなると「ノストラダムスの大予言」なんて、関係ありません。なんたって人間生存を決めるのは、欲望を断つ「勇気」なのですから・・・。
(以下、引用)
今、わたくしは日本のみなさん、日本を見守っている世界の人々に向かって、
冷厳な事実を告げなければなりません。
日本は今・・・まっしぐらに破局への路を辿っております。
それは同時に全人類の終末にも繋がるのでありましょう。
この・・・文明の燃えさかる業火のなかで、
日本は、そして世界は本当に滅び去っていかなければならないのか?
かつて地球上に覇を唱えながら、見過ごしていった動物たちと、
同じ運命を辿らなければならないのか?
断じて、そうあってはなりません!
この人間自らの手によって作り上げたモノのために、
人間自らの命を絶つなどという愚かなことは、あってはならないのです!
我々政治家は長い間みなさんに、こう言い続けてきました。
「我々を信頼し支持してくれ、必ずより良いより豊かな生活をお約束します」と。
そして、一億以上の人間がひしめく、この狭隘(きょうあい)な日本列島に、
驚くべき高度成長社会を築き上げて参りましたが、
その上で得たモノは一体何であったか?
恐るべき生活社会の破綻と、救いようもない精神の荒廃であります。
しかも・・・我々は今日の欲望のために、
膨大な地球資源を乱費し、自然を破壊し続けて参りました。
しかし、自然を破壊する前に、まず人間が破壊されるという
この、あまりにも明白な事実を、今日ようやくにして我々は学び取ることができました。
その恐れを忘れていた我々政治家の傲慢さと愚かさを、ここに深くお詫び致します。
しかし、今からでも決して遅くないと思います。
わたくしは、例え世界の終末が明日訪れようとも、
なおかつ一本の苗木を、この大地に植え付けたい。
我々に必要なのは「勇気」であります。
今こそ全人類は、物質文明の欲望に終止符を打たなければならない。
さもなければ、欲望が人間生存に終止符を打つであろう。
この事実を正しく認識し、全世界の人々と一緒になって、
同じ窮乏(きゅうぼう)の生活に耐えてみせる・・・その「勇気」であります。
見通しは、あまりにも暗く・・・殆ど絶望的でさえあります。
しかし、この現実の中でこそ、本当に人間を愛し、人間を信じ、
本当の意味の人間讃歌の歌声をあげることができるのではないでしょうか?
未知の世代の人々をして「彼らは真に勇気ある人間であった」と語り継がせるため、
我々は真の「勇気」をもって、今までの価値観を根底から覆し、
人間生存の新しき戦いに出発しようではありませんか?
政治だけではない・・・ひとりひとりの人間の心の問題として、
この最も件(くだん)な戦いを全世界の人々とひとつになって、
総理の演説を聞いた西山(丹波哲郎)の、いかにも感無量といった表情が素晴らしいのですが・・・考えてみると、総理からは何一つ具体的な政策は語られてはいません。それでも、まるで「大団円」とでも言うように、人ひとりいない国家議事堂前の大通りを「Gメン75」ばりに歩く西山と娘とボーイフレンドの三人の姿を映し出します。「これは虚構の物語りである。だがたんなる想像の世界ではない。こうあってはならない。それが我々の願いである」・・・というエンディングテロップが画面にでて、映画「ノストラダムスの大予言」は終わります。
「我々」といいうのは、この映画を製作した「我々」であるわけで・・・「ノストラダムスの大予言」を方便に、物質文明=資本主義を否定する”究極のエコロジー”を訴えるカルトな”説法”のようでもあります。しかし、その啓蒙的過ぎるスタンスを差し引いても、今こそ耳を傾けるべき警告であると思えるのです・・・1999年は、とっくに過ぎてはいますが。
「ノストラダムスの大予言」
1974年/日本
監督 : 舛田利雄
原作 : 五島勉
音楽 : 冨田勲
出演 : 丹波哲郎、黒沢年男、由美かおる、司葉子、山村聡、平田昭彦、志村喬、岸田今日子(ナレーション)
1974年8月3日より日本劇場公開
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