2013/07/27

過激なフェミニスト、カトリーヌ・ブレイヤ(Catherine Breillat)監督の”トラウマ”三昧・・・エッチに興味あり過ぎの”ロリータ”に萎えるの!~「ヴァージン・スピリト/36 Filette」「本当に若い娘/Une Vraie Jeune Fille」「処女/À ma sœur!」~

ボクが、初めて観たカトリーヌ・ブレイヤ監督の作品は「ヴァージン・スピリト」でした。ニューヨークのリンカーンセンターの小さな映画館だったと記憶しています。すでに上映が始まってからかなり数ヶ月が経っていたのですが・・・『フレンチ版「ロリータ」』という宣伝により、外国語映画としては異例のロングヒットをしていました。特に予備知識もなく観たのですが・・・「処女喪失のどうでもいい話」という印象で、正直、期待外れだったという記憶があります。しかし、その後「処女」を観たときに「うん???このイヤ~な感じ・・・記憶があるぞ」と「ヴァージン・スピリト」のことを思い出したのです。これぞ、映画監督の作家性なのでしょう。カトリーヌ・ブレイヤ監督の作品は、ボクにとって本気でイヤ~なトラウマを呼び起こすのであります。

各作品のエンディングを含むネタバレあります。


「ヴァージン・スピリト」は、家族と避暑地で過ごしている処女喪失願望のある14歳の少女リリ(デルフィーヌ・ザントゥ)が、中年男モリース(エチエンヌ・シコ)と出会い、彼を追いかけ回すという話なのですが・・・「少女らしさとか」いうロリコンが喜ぶような作品ではなく、苦虫をかみつぶすようなイヤ~な作品なのです。「ロリータ」とは逆に少女が中年男を追いかけるわけですが、中年男が少女を子供扱いするのは当然と言えば当然のこと・・・これも、この年代の少女と女の狭間の思春期の”好奇心”と”不可解な行動”ということなのかもしれませんが、よりにもよって”感は否めません。さらに、リリを演じている女優さんが14歳のわりには(実際に役柄と同じ14歳だったらしい)妙にムチムチのおばさん体型で、ずっと仏頂面(まぁ、これは役柄なんだけど)で14歳らしい「可愛らしさ」とはほど遠い「不潔さ」を感じさせて・・・いろんな意味で、萎えさせられてしまうのです。

追い回されているうちに中年男もスケベ心を誘われて(?)少女と女友達の寝室で「ベットイン」となるのですが・・・実際に行為に及ぶと勃つべきモノが勃たちません。少女は必死に中年男のモノをフェラチオするのですが、結局モノは勃たないという、なんとも男にとって気まずい展開・・・「私のせいじゃないよね?」と懇願する少女から、中年男は逃げるように寝室を出てしまいます。残された少女はひとりで号泣してしまうのです。その上、中年男のエロい女友達からさえも罵倒されて、部屋を追い出されるという始末なのだから、少女にとっては悲痛な限りであります。しかし、こうなったのも自業自得としか言えない少女に対して、観る者の同情心さえ感じさせないドライな描き方に、カトリーヌ・ブレイヤ監督の突き抜けた信念を感じさせることも確かなのです。

中年男と処女喪失することができなかった少女は、以前から彼女に気のある近所のイケてない少年を誘って、あっさりと処女喪失を達成します。初めての男性になったと知った少年が「ボクを愛しているの?」と尋ねると、鼻で笑ってバカにする少女・・・ただ、処女を失ったことには満足なようで、少女の満面の笑みで映画は終わります。

どれほど、したたかに強がってみても、結局は自分の中での空回りという思春期の”惨め”極まりない状況を冷たく描いているだけでなく、中年男の性的不能、中年男の女友達のおばさんっぷり、奇しくも初体験の相手となる少女と同世代の少年の浅はかさなど・・・描かれている登場人物の誰も良く描いていないという”悪意”に満ちた作品として、トラウマになりそうな魅力に惹かれている自分がいたりします。


「ヴァージン・スピリト」を遡ること12年前の1976年(撮影は1975年?)・・・カトリーヌ・ブレイヤ監督のデビュー作「本当に若い娘」は製作されていたのですが、本国フランスでも初公開されたのは製作から23年後でありました。「本当に若い娘」の製作前後、美少女写真家で知られるデヴィット・ハミルトン監督の「ビリティス」の脚本に、カトリーヌ・ブレイヤ監督は関わっています。もしかすると、当時のプロデューサーは「ヴィリティス」のような世界観を期待していたのかもしれません。しかし本作の本質は「性器モロ出しのエグい表現」・・・それを受け入れられるようになるのに、23年という年月が必要だったと言えるのかもしれません。

「本当に若い娘」も、また処女喪失にまつわる話です。というか・・・本作だけでなく、「ヴィリティス」も「ヴァージン・スピリト」も「処女」も、すべて少女の処女喪失の物語(それも夏休みの避暑地や実家!)なのであります。同じテーマを同じような少女で描き続ける・・・これは、ある意味、主人公の少女たちは実は同じひとりの少女=カトリーヌ・ブレイヤ監督自身ではないかと思えてしまうほどです。

舞台となるのは1963年(これはカトリーヌ・ブレイヤ監督が、ちょうど14~5歳のとき!)・・・14歳の少女アリス(シャーロッテ・アレクサンドラ)は、夏休みなると寄宿学校からランド地方に暮らす両親の元に里帰りします。帰宅した夜には、何故かベットで寝ている時に嘔吐してしまったり(まるでエクソシストみたいに!)と、精神的には不安定のようなのですが・・・実は、このアリスは、とんでもない少女なのであります。食卓でわざとスプーンを落としたと思ったら、テーブルの下でスプーンを自分の性器に入れたリ出したりして遊び始めるのです!また、幼い頃と変わらずにアリスを可愛がる父親に寄り添いながら、父親のズボンからポロリと出たペニスを想像したりしています。とにかく、なんだかんだで自分の性器をいじくってばかりいる少女で、何故か下着を足首まで脱いで歩いてみたりと「本当に若い娘」というよりも「本当にバカな娘」としか思えません。

ランド地方は森林地帯で、父親は小さな製材会社を経営しているのですが、その製材工場でアリスはジム(ハイラム・ケラー)という青年に一目惚れするのです。しかし、まだ幼い過ぎるから(もちろん処女だから!)とか、付き合っている恋人がいるからなどの理由で、ジムに無視され続けてしまいます。そこで・・・アリスの「妄想」とも「現実」ともハッキリしない性的なイメージが交錯していきます。ノーパンで自転車のサドルで性器をこすって誘ってみたり、ジムの通る道の真ん中で下着を脱いで両足を広げて性器を晒してみたり、お尻にニワトリの羽を突っ込んでニワトリの真似をして誘惑してみたり・・・仕舞いには、真っ裸で有刺鉄線で大の字に縛られているアリスの性器に、ジムがミミズを入れて責めるという、トンチンカンな妄想まで描かれるのです。少女っぽい感受性でありながら、意識は女性的な生理と自身の肉体へ向かっている・・・カトリーヌ・ブレイヤ監督の作品に共通するナルシシズムを感じさせる独特の女性像です。

自分に振り向かなかったジムが、いざ体を求めてくると「ピルがないと妊娠する」と言い訳して、エッチを拒むアリス・・・妄想するほど彼の肉体を求めているにもかかわらず、実際に行動となると躊躇してしまうのは「まだまだ少女だから弱気」なのでしょうか?それとも「すでにセックスによって男をコントロールする術を知っている女」なのでしょうか?ただ、エッチを”おあずけ”状態にしておいて、ジムに自分の寝室に来るように誘ったことが仇なります。父親が畑に仕掛けていた罠のライフルによって、ジムはあっさりと命を落とすことになるのです。勿論、恋人がいながら、アリスの誘いにのってしまったジムに過失がないわけではありませんが・・・アリスがジムを破滅に導いたと言えるのかもしれません。ジムが死んだことを知ったアリスの睨めつけるような表情のクロースアップで映画は終わります。

「本当に若い娘」は、極端に過激な性描写であることは確かです。日本では完全無修正版を観ることができないので、本作のトラウマ的なエグさを伝えることは難しいのですが・・・少女の性器の生々しい過ぎる”ドアップ”は、エロティズム的な興味を削ぐような即物的な扱いになっています。自らを性的存在として陶酔しながらも、男性の性的興味を拒絶するような・・・ロリコンさえも萎えさせる”悪意”を感じさせます。デビュー作である本作は、その後のカトリーヌ・ブレイヤ監督のすべての作品を予感させる一作なのです。


カトリーヌ・ブレイヤ監督の処女喪失モノ(?)として「処女」は、集大成的な作品であるかもしれません。本作で描かれるのは、避暑地に家族と来ている15歳の美人の姉エレナ(ロキサーヌ・メスキダ)と、13歳の太っている妹アナスイ(アナイス・ルブー)という姉妹の処女喪失にまつわる話なのです。エレナは本当に愛し合う相手でなければエッチは最後まで(挿入)はできないという・・・ありがちな”男と女の幻想”を抱いている少女。しかし、妹のアナスイは、一般的な幻想には惑わされていません。処女を失う相手なんて誰でも良いと、なんともドライ・・・姉の行動を観察することで、男女についての洞察力だけが妙に研ぎすまされてしまっているのです。エレナが男に関心持たれることを何よりも優先するように、アナスイは食欲を満足させることを優先しているという似ても似つかない姉妹なのですが・・・これは、世の中のある女性の2つの代表的で対照的なパターンかもしれません。

カフェで声をかけてきたお金持ちのイタリア青年フェルナンド(リベロ・デ・リエンゾ)に即座に心を奪われてしまうエレナ・・・アナスイの存在を無視するかのように、姉妹でシェアする寝室に、フェルナンドを連れ込んだりします。ただ、ベットでいちゃいちゃしても、挿入までは許さないというのがエレナの信念・・・そんな処女信仰ほど無意味な価値観なのに。とにかく挿入までしたいフェルナンドは、あらゆる甘い言葉で誘い、結局、エレナのアヌスを犯すのです。そんな傷ついたエレナをしっかりとフォローするのですから、アナスイは結構姉思いではあるのです。もしかする・・・アナスイは「デブ」で「ブス」という殻をかぶって、食欲だけを満足させながら現実逃避しながら、姉を身代わりにして現実を体験をしているかのようにも思えてしまいます。しかし、アナスイもやっぱり”少女”・・・プールの手すりにキスしながら妄想をつぶいやく姿は、ドライで冷静だけでないところに、ホッとさせられました。

イタリア青年は、母親の高価な指輪をエレナに渡して、婚約の真似事をするのですが・・・勿論、あっさり彼の母親に指輪がなくなっていることがバレてしまいます。彼の母親がエレナの母親のところへ怒鳴り込み・・・二人の関係はあっさり解消されてしまうのです。もしかすると、エッチをやるだけやったフェルナンドにとって、体よくエレナと別れるために仕込んだのではないかとも思えてしまいます。しっかり姉を見張っていなかったからと平手打ちを母親から食らうのは、何故か何も悪くないアナスイの方・・・エレナとアナスイは母親の運転で急遽、避暑地を去ることになるのです。

大型トラックのあいだをぬうように、急いで運転する母親は、いつ事故を起こしても不思議ではありません。しかし、予想だにしなかった悲劇は、「もう運転するのは無理」という母親が停車した休憩所で起こります。いきなり暴漢に襲われて、あっさりと母親とエレナは殺されてしまいます。そして、暴漢はアナスイを車から引きずり出して、駐車場脇の木立で犯すのです。アナスイが望んでいたとおり(?)・・・通りすがりの男(それも母親と姉を殺したばかりの殺人者に!)に処女を奪われてしまうとは・・・。犯されながらも、ゆっくりと手を男の肩に手をまわすアナスイ・・・とんでもなく悲惨な現実をリアルに受け入れていく姿に、ボクは”健気さ”を感じてしまい感動さえ覚えたのです。

日本での公開時には、美人の姉を演じたロキサーヌ・メスキダが主人公のように宣伝されていたようですが(映画の宣伝ポスターも彼女がメイン)・・・英語タイトルに「Fat Girl」とあるように、本作の主人公は太った妹のアナイス・ルブーであります。事件の翌朝、救出されたアナスイは、警官たちに「私、犯されてなんかないわよ。信じないなら信じなくて良いけど・・・」と投げ台詞を放って、映画は終わります。状況からして、どの警官にも彼女が犯されたことは明らか・・・しかし、アナスイは自分が悲惨な行為を受けた”被害者”に成り下がることよりも、起こった現実を自分自身で受け入れることを選んでいるのです。

アナスイは、カトリーヌ・ブレイヤ監督の、最も近い分身であることは確かでしょう・・・「本当に若い娘」「ヴァージン・スピリト」で、繰り返し描かれてきた少女たちというのは、実は崇高な精神性をもった存在であったことを「処女」によって、ボクは改めて気付かされたのです。

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カトリーヌ・ブレイヤ監督(Catherine Breillat)の主なフィルモグラフィー


1976「本当に若い娘」(Une Vraie Jeune Fille
1979「NIght After Night」(Tapage nocturne
1988「ヴァージン・スピリト」(36 Fillette
1991「Dirty Like an Angel」(Sale comme un angel
1996「堕ちてゆく女」(Perfait amour!
1999「ロマンス X」(Romance X
2001「処女」(À ma sœur!
2001「Brief Crossing」(Brève traversée
2002「セックス・イズ・コメディ」(Sex Is Comedy
2004「Four NIghts ~4夜~」(Anatomie de l'enfer
2007「最後の愛人」(Une vieille maîtresse
2009「青髭」(Barbe bleue
2010「禁断メルヘン 眠れる森の美女」(La belle endormie
2013「Abuse of Weakness」(Abus de taiblesse)

「ヴァージン・スピリト」
原題/36 Filette
1988年/フランス
監督・脚本 : カトリーヌ・ブレイヤ
出演    : デルフィーヌ・ザントゥ、エチエンヌ・シコ、ジャン=ピエール・レオ、オリビエ・パニエール
1989年日本劇場公開

「本当に若い娘」
原題/Une Vraie Jeune Fille
1976年/フランス
監督・脚本 : カトリーヌ・ブレイヤ
出演    : シャーロッテ・アレクサンドラ、ハイラム・ケラー、ブルーノ・バルプリタ、リタ・メイデン
2001年日本劇場公開

「処女」
原題/À ma sœur!
2001年/フランス
監督・脚本 : カトリーヌ・ブレイヤ
出演    : アナイス・ルブー、ロキサーヌ・メスキダ、リベロ・デ・リエンゾ、アルシネ・カーンジャン
2003年日本劇場公開



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2013/07/06

自分の”まん中部分”をモチーフにする”女子”アート活動家・・・ナルシシズムと自虐性のギミックに惹かれるの!~ろくでなし子著「デコまん/アソコ整形漫画家が奇妙なアートを作った理由」~



近頃ツイッターのタイムラインで、頻繁にリツリートされていたので知った「ろくでなし子」さん・・・「デコまん」という自分の体の”まん中”部分をモチーフにしたアート活動をしている若い女性(とは言っても年齢不明)です。漫画家の「まんしゅうきつこ」(以前は、よりイロモノ的な”まん臭きつ子”という表記)さんと同じジャンル(?)と思っていたのですが・・・ろくでなし子さんは、れっきとした”アーティスト”を名乗られています。「日本性器のアート協会」のメンバーということでありますが、会員は彼女と男性器のオブジェを作成する「増田ぴろよ」という”女子”アート活動家の二名・・・内輪の”なんちゃって協会”という感じでしょうか?

「デコまん」というのは、印象剤によって女性器の”型”をとり、石膏で固めたものに色を塗り、既成のパーツをデコレーションした「ジオラまん」など立体コラージュのオブジェ(?)のこと・・・女性器の”型”押しされた樹脂を多数ぶら下げた「シャンデビラ」など、一見すると「まぁ、キレイ!」と思ってしまう作品もあります。手作業の”型どり”のために手のひらサイズが限界だったり、印象剤のシリコンが劣化しやすくて大量生産には向いていないらしいのですが・・・女性器の布団(柄?)、車(ボンネット上部)、船(屋根の上部)、ドア(ドア板の表面?)などもっともっと大きな作品を作りたいそうです。

「キャンプファイア」というクラウド・ファンディングのサイトで、彼女の”ある”プロジェクト”への支援資金を募っています。すでに支援金の総額は60万円を越えていて、プロジェクトの現実化は確定(目標額51万4800円)となっています。彼女の”プロジェクトというのは、世界初の夢のマンボート(カヤック)にて海を渡るというもの。マンボート(カヤック)というのは・・・3Dスキャナーで取った彼女の女性器の正確なデータから削り出したスチロール材を、カヤック本体に上部にはめこんだボートなのです。これに何の意味があるのか?・・・ということはさておき、デジタルデータという特性を生かして、正確な女性器の”型”の拡大縮小が自由に行なえることにより、実現できる企画ということなのであります!

彼女は「ま○こ」をもっとポップにカジュアルに日常に溶け込ましたいと「ジオラまん」だけでなく、リモコンで走るまん中、まん中の照明器具、まん中のアクセサリー、iPhoneカバーまん中などの制作にも励んでいるとのこと・・・さらに、自分も「デコまん」を作りたいという女性のために「デコまんワークショップ」を開催したり「デコまんキット」も販売されているそうです。ろくでなし子さん曰く、日本では長らく”まん中”はタブーとされてきたので、『「ま○こ」に市民権を!』ということのようであります。おじさんは「”まん中”のことを口にするな!」「”まん中”を見せるな!」と怒るのに、実は「”まん中”を見たがる」と「法律の建前」と「個人の本音」を指摘するところは、AVの宣伝コピーのように皮肉たっぷりです。

女性器をモチーフとしたアート作品というのは「ろくでなし子」さんが”パイオニア”というわけでは全くありません。最も有名なのは、1920年代から活躍したアメリカのアーティストのジョージア・オキーフによる花シリーズでしょうか・・・?キャンバスいっぱいに描かれた極端な花のクロースアップは、あきらかに女性器を想像させます。また、1970年代に活躍したジュディ・シカゴによる「ザ・ディナー・パーティー/The Dinner Party」は、皿の上にディフォルメされた女性器のような立体的なリリーフを施しています。女性器をモチーフとしたアート作品というのは、単に”女性美”を讃えるだけでなく、政治的なメッセージを含んでいることが殆どで、”フェミニスト・アート”の中でも過激な表現方法と捉えられることが多い気がします。「ろくでなし子」さんのアプローチは、面白かったら何でもありのポップなカジュアルさ・・・フェミニストの政治的なメッセージというのは感じられません。



人体からの”型どり”という手法というのも、アートの世界ではポピュラーなものです。性器を模した造形アートというのも、たくさんありますが・・・最近、話題になったのは、イギリスの”男性”アーティストのジェイミー・マッカートニー(Jamie McCartney)が2012年に発表した「The Great Wall of Vagina」ではないでしょうか?20ヶ国、18歳以上の女性、400人から協力を得て、5年の歳月をかけて作成された作品で、母と娘、一卵性双子、性転換した男性/女性などの女性器を”型どり”した非常にリアルな石膏40人分を、ひとつのパネルに張り合わせています。400人分の10パネルで全長9メートルにもなり、圧倒的なインパクトがあります。アーティストによると、女性器は十人十色で「普通」なんてものはなく、ありのままで美しいことを訴えたかったということらしいです。規則的に並べられた”だけ”なので、いたずらに性的な興奮を煽るわけでもなく・・・といって、政治的なメッセージを感じさせないところが、ヒジョーに興味深い作品です。


しかし、この女性器の”型どり”という手法も一歩間違えば、日本では”犯罪”になってしまいます。出会い系サイトなどで出会った女性の性器模型をオークションで販売していた日本人男性が、先月(2013年6月)”わいせつ物頒布”の容疑で書類送検されたそうです。彼は「女性器の型どりを自分よりも上手に取れる人はいない」と自負していたそうで・・・確かに「外性器模型工房」というサイトで見る限り、その模型は見事な完成度です。型どりをするためには女性の協力は不可欠だし、販売の許可も得ていたそうで、売り上げも女性に支払っていたという話もあります。型どりをしたモデルのプロフィール(出身地、職業、年齢、身長/体重、画像)を記載したり、シリコン製の模型もあったということなので・・・模型の購入者の目的というのは、どう考えても「エロ」です。また、協力者の女性にとっても、ネット上に自分のアソコの模型画像がアップされて販売されているという事実が、ある種エロティックな経験になりえるのかもしれません。

「ろくでなし子」さんの「デコまん」は、フェミニスト視点の政治的メッセージというわけでもなく、エロティズムを表現した造形でもありません。クラフト的な制作方法、「ま○こ」ちゃんグッズの販売ビジネス、サブカル系のイベント活動など、純粋に”芸術作品”と捉えるには、かなり商業的なアプローチが目立ちます。メディアの取り上げ方も、自分の性器をモチーフにしている”女子”という週刊誌的な興味本位のものが、殆どだったりするのです。男性が同じように”アート活動家”を名乗って、自分のペニスの型どりした「ち○こ」に、デコレーションを施した「デコちん」を制作したとしたら”エロ目的”の容疑をかけられるでしょう・・・例え「デコちん」がファンシーでキュートであっても!自身の性器の”型どり”は「女子」であることが「ミソ」であり「女子」マーケティングの「ギミック」からは逃れられることはできません。ただ、この手のアート(?)活動家は「逮捕されてナンボ」というところもあったりするので、今後”箔付け”のためにも、過激な活動になっていくのは”必然”なのであります!

人体からの”型どり”という手法ではなく、自らの手で素材を削って形状をリアルに再現するという「彫刻」的なアプローチもあるわけで・・・”型どり”や3Dスキャナーの”データ”に頼るのは、非常にクラフト/デザイナープロダクツ的な制作手段を選択していると言えるびのかもしれません。ジオラマに使用しているパーツは、東急ハンズとかで販売されている既成の模型パーツ類を使っているようなので・・・アート作品としての”オリジナル要素”というのは希薄であります。「ジオラまん」などのオブジェ作品にしても、照明器具やアクセサリーにしても、見慣れたデザインをベースに「ま○こ」の型どりを取り込んだという印象は、正直拭えません。3Dスキャナーで外部のデータを取るならば・・・MRIで内部(膣)の形状までを正確にデータ化して、巨大な「ま○こトンネル」にでもチャレンジして欲しいなんて思ってしまいます。ただ、彼女にとって関心があるのは、あくまでも視覚的に外部から見える”外性器”の部分だけのような気がしてしまいます。

一部の女性からは否定的な反応をされてしまうこともあるらしいのですが・・・それは、ある種の「イタさ」を感じてさせてしまうからかもしれません。ボクも、最初にろくでなし子さんのプロジェクトのことを知った時に、ある種の女性にありがちな「痛々しさ」を感じました。そして、彼女の自伝的な著書「でこまん/アソコ整形漫画家が奇妙なアートを作った理由」を一読して、ますます、その印象は強くなったのです。

ここからは著書「デコまん」のネタバレが含まれます。

次女として生まれた「ろくでなし子」さんは、2歳年上の器量の良いお姉さんと比較されて、自分は「ブサイク」だというアイデンティティーを持って、少女時代を成長したそうです。現在の彼女の画像を見るかぎり、そこまで「ブサイク」と思い込むほどではないと思いますが(といって、美人でもないかも)・・・コンプレックスというのは、個人の主観によって培われるので、実際にブサイクか、どうかは重要なことではありません。ただ、将来、整形手術をするために必死に節約をして貯金をしたというのですから、その思いは強いものではあったようです。

東京の大学に進学して、”オタク男子”ばかりのアニメ漫画研究同好会に入ったところ・・・(おそらく女子がいなかったこともあって?)一躍人気者となってしまいます。節約で身なりさえも気にしていないところが、中学生的な幼さとして捉えられて、ロリコン的な萌え要素に変換されたらしいのです。「ブサイク」を自分のアイデンティティーとしてきた女の子が、いきなり「かわいい。かわいい」と、もてはやされたのだから舞い上がってしまうのは、容易に想像できます。アイデンティティの上下の振り幅が大きすぎる人というのは、どうしても自己認識のバランスが”いびつ”になりがち・・・彼女も例にもれず、自意識過剰で新たなコンプレックスを培うことになるのです。

ブロッコリのように毛深い(!)股間と悩む彼女は、それでは「かわいくない!」と思って陰毛を剃ってしまうのですが、エッチの相手に「パイパンの変態趣味」と笑われてしまいます。それならばと陰毛をボウボウのままにしていたら、今度は別の相手の歯に陰毛が挟まって笑われてしまいます。そこで彼女は、エステで脱毛をしてもらうのですが・・・脱毛によって、より露になった自分の女性器をしげしげと観察してみて、小陰唇が肥大しているのではないかと思い始めるのです。女性同士で性器を見せ合うなんてことは、普通はあまりないわけで・・・彼女が「ま○この、基本形が分からない!」と嘆くのは理解できます。しかし「ビラビラが嫌!」と、切除手術をしまうというのは・・・コンプレックスの反動の決断力のような気がします。自分の美的センスを一致しないからという理由で、顔の整形手術をする女性と同じように、自己満足の世界であることは明らかで・・・根底には自分を受け入れられない「自虐性」を感じさせてしまうのです。

こうして、毛深いコンプレックスも小陰唇肥大コンプレックスも克服した彼女は、術後の「完璧なま○こ」を友人や友達に見せまくるようになるのですが、これも極端な行為であります。いつでも自分の”ま○こ”を愛でられると考えついたのが、そもそも「デコまん」を始めたきっかけだそうなのですが・・・まさに「私の世界」を表現するかのような立体コラージュで、自分自身のま○こをデコるというのは究極の「ナルシシズム」を感じさせます。

最近のウェブマガジン(messy)で、結婚していた事と、すでに離婚している事の告白をしていてましたが・・・元夫に「デコまん」のアート活動が受け入れてもらえなかたことが、離婚原因のひとつであるとも語っています。(離婚の理由はそれ以外にもあるようです)おそらく、自分の性器を型どりしてデコるという行為に、引いてしまう女性、または男性というのは、「ろくでなし子」さんの「ナルシシズム」と「自虐性」が同居した”念”を無意識に感じてしまうからではないでしょうか?下品な「中二病」的なイメージの以外にも・・・。

本来であれば・・・『美人の姉と比べられて「ブサイク」というアイデンティティを持って少女時代を過ごした』『ブロッコリのように毛深くて、ビラビラの小陰唇肥大のま○こ』という”マイナス要素”は、『大学生になってアニメ漫画研究同好会に入ってロリコン要素でモテモテ』『エステの脱毛と整形手術で完璧なま○こを手に入れた』『素敵な男性と結婚できた』などの”プラス要素”で、プラマイ=ゼロとなるところなのですが、彼女の場合「プラス」も「マイナス」も過剰のまんま・・・いくら彼女がポップな感性で、自分の「ま○こ」を面白がっていても、その”念”というのは伝わってしまうのです。個々の作品そのものではなく・・・彼女の生き様そのものが(ネタ的な意味で)ある種の「アート」(?)と言えるのかもしれません。

そんな”痛々しい生き様”さえも「ギミック」(というか、ギャグか?)として面白がってしまうタチのボク・・・どこかしら「ろくでなし子」さんには惹かれてしまうのです。

追伸:2014年7月15日
ろくでなし子、こと、五十嵐恵さんが、昨日、猥褻電磁的記録頒布容疑(って何だよ?)で逮捕されました。「自称芸術家」などという悪意を感じさせる屈辱的な表現の報道も気になりましたが・・・なんといっても驚いたのは「42歳」という実年齢。自虐的、かつ、ナルシシズムを感じさせる作品の方向性から、ボクは彼女のことを20代後半ぐらいかと思っておりました。”女子的要素”に惹かれていた支持者やマスコミには、今回の報道内容は”冷や水”のようなものだったのかもしれませんね〜。



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