2013年1月15日大島渚監督が亡くなられた。1996年に脳出血で倒れてから、一度は「御法度」で監督復帰するものの、病状が悪化して闘病生活を送られていました。言語障害や右半身不随のリハビリの様子をテレビのドキュメンタリー番組で拝見したときには、とても心が痛みました。心よりご冥福をお祈りします。
ボクが映画に興味を持ち始めた1970年代後半というのは、「ロードショー」や「スクリーン」といった洋画雑誌が全盛の頃で、ロードショー形式という全国の主要映画館で一斉に封切るという拡大ロードショーというスタイルが定着してきた時代でした。また、角川映画のマスメディア戦略による邦画が次々と製作され、商業主義の大作映画ばかりに注目されていたものです。当時は、レンタルビデオ屋なんてもんは存在していませんでしでしたから、古い作品というのは名画座かテレビ放映で観るしかありません。だだ、映画を放映するテレビ枠は毎晩がありましたし、2本立て、3本立ての名画座も都内にまだ多くありました。ボクは「ぴあ」を片手に名画座を巡り、ある年には1年間で400本以上の映画を観たものです。しかし、名画座で上映されることもなく、テレビ放映されることもない映画というのもありました。
初期(1967~1971)のATG(日本アート・シアター・ギルド)映画については、文献などで読むことはあったも、テレビ放映はもちろん、名画座で上映されることも殆どなく、ボクにとっては”幻の映画”でした。1962年から映画配給を行なっていたATGが、1000万円という低予算映画を製作し始めたのが1967年・・・1970年代後半には、長谷川和彦監督の「青春の殺人者」や、東陽一監督の「サード」のように、全国的に大ヒットする作品などの映画の製作を行う会社になっていました。
1979年、ATG創立20周年を記念して、日劇地下の映画館で「ATG映画の全貌」という映画祭が開催されました。ボクは上映作品のすべてを観るために回数券を購入して毎週通いました。この映画祭は、それまで観ることのできなかった初期のATG映画を集中的に上映するもので・・・「人間蒸発」「絞死刑」「初恋・地獄篇」「肉弾」「心中天網島」「地の群れ」「無常」「書を捨てよ町へ出よう」「儀式」「あらかじめ失われた恋人たち」の10作品がラインナップされていたと記憶しています。
この時に上映された作品の中でボクが一番衝撃を受けたのが大島渚監督の「絞死刑」でした。映画を「監督」で観るようになったのは、この時「絞死刑」と「儀式」2本を観たことがきっかけと言ってもいいでしょう。しかし、当時(1980年前後)大島渚監督の初期の松竹映画やATG以前の独立プロ時代の作品は名画座でも上映されることにはなく、その後(1985年)留学先のニューヨークの”フィルム・フォーラム”で行なわれた大島渚監督のレトロスペクティブにて、デビュー作の「愛と希望の街」や、松竹を辞めるきっかけになった問題作「日本の夜と霧」など、多くの大島作品を観る機会に、やっと恵まれました。初めて観た大島渚監督作品ということだけでなく、すべての大島作品の中でも斬新さが際立つ「絞死刑」は、ボクにとって大島作品のベストワンなのです。
この時に上映された作品の中でボクが一番衝撃を受けたのが大島渚監督の「絞死刑」でした。映画を「監督」で観るようになったのは、この時「絞死刑」と「儀式」2本を観たことがきっかけと言ってもいいでしょう。しかし、当時(1980年前後)大島渚監督の初期の松竹映画やATG以前の独立プロ時代の作品は名画座でも上映されることにはなく、その後(1985年)留学先のニューヨークの”フィルム・フォーラム”で行なわれた大島渚監督のレトロスペクティブにて、デビュー作の「愛と希望の街」や、松竹を辞めるきっかけになった問題作「日本の夜と霧」など、多くの大島作品を観る機会に、やっと恵まれました。初めて観た大島渚監督作品ということだけでなく、すべての大島作品の中でも斬新さが際立つ「絞死刑」は、ボクにとって大島作品のベストワンなのです。
「絞死刑」は、当時としても超低予算の”1000万円映画”で製作された作品の””劇映画”第一作目で・・・大掛かりなセットを組むことは出来ないという状況を逆手に、舞台となるのは絞死刑を行なう刑場の部屋の中(一部、外部ロケもあり)だけという手法を使った作品でした。1958年に実際に起きた在日韓国人李珍宇による”小松川高校殺人事件”をヒントにしているのですが・・・事件の背景に「朝鮮人差別」「極貧問題」があるとして、死刑判決後に助命要請運動も行なわれたそうです。犯人の少年は、死刑執行される前にカソリックの洗礼を受けたりしたものの、最後まで被害者たちへの罪の意識を感じることがなかったらしいということも、本作に反映されているようです。
映画は、いきなり主人公”R”(アール)の死刑が、拘置所所長、教育部長、神父、保安課長、医務官、検事らが立ち会いのもと執行されるシーンから始まります。ところが絞死刑が執行された後も、”R”の脈は止まらず処刑は失敗・・・意識は取り戻すものの記憶を失ってしまいます。法律上、心神喪失状態にある時には死刑執行は出来ないということで、教育部長らは処刑の再執行を行なうために、”R”の記憶と罪の意識を取り戻させるために、寸劇で”R”の家庭や犯罪状況を再現したりすることになります。そう・・・死刑制度問題、在日韓国人差別、貧困による犯罪心理、国家権力の見えない力、などデリケートな社会問題を扱ってはいながらも、本作は「コメディ映画」なのです。
”R”の素朴な疑問は、ボクが問い正すことされも考えてみなかった世の中の仕組みの疑問でもありました。「国家」という存在を意識することもなく生きていたボクでしたが、その「国家」によって「正義」と「罪悪」が決められていることに、反発や疑問を感じたものです。また、本作の”R”は、自分にとって確信できるのは自己認識していることだけなので、罪の意識を持つことはできないということに、共感している自分に怖さも感じました。第二次世界大戦後の教育により「自己」は尊重されるべきものとして、自分自身の価値観を持つことは「良」として、ボク以降の世代は育てられてきました。「ボク」「わたし」という自己を中心とした物事の認識が当然の時代に・・・「国家」の正義を、どのように個人に認めさせるのかを、大島渚監督は本作で映像的に表現することを試みています。刑場を出て行けと言われた”R”がドアを開けた瞬間、まばゆい光に思わず”R”の足はすくみ外へ出ることは出来ません。”R”は”R”であることを認め、差別や貧困で苦しんできた在日韓国人の重荷を引き受けて処刑されることに同意して再び絞死刑が執行されます。しかし、処刑を行なったロープの先には”R”のカラダはなく、そこには空のロープがぶら下がっているだけ!なんという皮肉・・・「国家」が認識させた「正義」さえも、その実体がないのです。
「絞死刑」を観るたび、さまざまな問題提起に対して、何ひとつ納得出来る答えを出せない自分を感じます。映画というのは、なにかしらの結論を導くきっかけを与えてくれるものですが、本作は哲学的な問答の大海原に、観る者を投げ出してしまうような作品なのです。
「絞死刑」
1968年/日本
監督 : 大島渚
出演 : 尹隆道、佐藤慶、渡辺文雄、石堂淑朗、足立正生、戸浦六宏、小松方正、松田政男、小山明子
1966年2月3日より日本劇場公開
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