2011/05/30

”ニコール・キッドマン”の本気(マジ)の女優魂・・最愛の人を失った喪失感の救いは”うさぎの穴”の先にある”パラレルユニバース”?~「ラビット・ホール」~



9・11テロの遺族に対して、ニューヨーク市長のブルームバーク氏が語った言葉が、今でもボクは忘れられません・・・「親を失った子は”孤児”と呼ばれるが、子を失った親を呼ぶ名はない」。ボク自身は人の親になることはおそらくないので、子を失う悲しみを経験することはないのだけれど・・・この言葉はボクの心に深く刻まれたのでありました。

ニコル・キッドマンが自分でプロダクションを立ち上げて最初に選んだプロジェクトが、2006年のピリッツア賞を受賞した戯曲を映画化したのが、この「ラビット・ホール」です。息子を交通事故で失った夫婦とその家族、そして加害者の少年が、傷つきながらも悲しみに向き合っていく過程を描くという・・・ハッキリ言って”テーマ”としては、救いようのないくらい”暗い”のです。プロデューサーとして、この戯曲の映画化を選択し、母親役を演じるニコール・キッドマンの本気(マジ)の女優魂を感じさせられます。また、脇を固めるのは演技派のキャストたちばかり・・・絶妙な台詞と繊細な演技によって、それぞれの人物が抱えている感情が見事に表現されています。胸が締め付けられるような場面の連続で、ボクは映画全編に渡ってずっと涙が止まりませんでした。

監督は「ヘドウィック・アンド・アングリーインチ」と「ショート・バス」のジョン・キャメロン・ミッチェル・・・あまりにも前2作とは違う作風に驚ろかされます。実はジョン・キャメロン・ミッチェル監督は、14歳の時に4歳の弟を亡くしていて、その悲しみから逃れられない家族のなかで育ったそうです。家族は信仰に”癒し”を求め・・・彼自身はアートの世界に”癒し”を求めたそうなのです。未だに家族のからは弟の喪失感は消えていないとうことですが・・・この映画を監督したことが”癒し”にもなったのかもしれません。

観る人によって物語や結末の受け止め方が違う映画ではありますが・・・以下ネタバレを含みます。

4歳の息子を高校生の少年の運転する車に自宅前の道で轢かれて亡くしてしまった夫婦(ニコール・キッドマン、アーロン・エッカート)は、事故から8ヶ月経った今でも、その悲しみから抜け出せないでいます。子供を失った親達の集まるサポートグループに参加しても、他の親の悲しみに憤りを感じてしまうのです。思い出の残った家の売却を考えたり、もうひとり子供を作ろうとしたり・・・出口のない悲しみによって夫婦間のズレは広がるばかり。

妻にはヘロイン中毒で30歳で亡くなった兄がいて、妻の母親(ダイアン・ウィースト)も息子を失った喪失感を感じていることが明らかになります。本来ならば理解し合えるはずの母と娘でありながら、すれ違ってしまう・・・もどかしさ。それでも、同じ経験をした母は、娘に救いの手を差し伸べようと伝えるのです。

「悲しみは消えてなくならないけど・・・そのうちに耐えられるぐらいの重さに変わっていく」

「その重みの下から何とか抜け出せて・・・そしてポケットの中のレンガぐらいになるの」

「一瞬忘れてしまうこともあるけど、ふとしたことでレンガに触れてしまって・・・また思い出してしまう」

「それは辛いことけど・・・息子の替わりにレンガを手にしたということなの」

「だからレンガを持ち歩く・・・それって、それほど酷いことじゃないのよ」

妻は、偶然をよそおって加害者の高校生の少年に近づき、夫には内緒で交流を始めます。少年も”加害者”として苦しみ傷ついていることを理解していくことで、心の再生のきっかけを掴んでいきます。また、夫もサポートグループに参加していた友人の奥さん(サンドラ・オー)との交流により、つかの間の生きる楽しさを見出したりしていくのです。

タイトルの「ラビット・ホール」というのは、加害者の少年が描いているコミックの題名・・・おそらく「不思議の国のアリス」で、アリスの落ちる異なる世界へ繋がった”うさぎの穴”から引用でしょう。彼の描くコミックの「ラビット・ホール」の先には、”別のバージョンの自分”のいるパラレルユニバースがあるという話。そこでは現実と同じ状況下でも違う対応をしている自分が存在するというのです。

お互いに秘密を抱えながら、この夫婦が到達する「救い」というのは・・・この「ラビット・ホール」の先にあるといことなのでしょうか?明るい光の下で人々に心を開き、息子の喪失感と向き合っている”別な自分たちの姿”を想像してみる・・・という。観る人によっては「希望のある着地点」と受け取れるのかもしれません・・・しかし、ボクには「救い」を見出せませんでした。でも、それこそが人生・・・最愛の人を失った悲しみに”ハッピーエンド”はないのです。

生き残った者にとって、いつまでもポケットにレンガを持ち続けるように、喪失感の重みは永遠に消えたりはしないのです。そして・・・その重みさえ誰にも理解されないものなのかもしれません。

「ラビット・ホール」
原題/Rabbit Hole
2010年/アメリカ
監督    : ジョン・キャメロン・ミッチェル
脚本/原作 : デヴィット・リンゼイ=アベアー
出演    : ニコール・キッドマン、アーロン・エッカート、ダイアン・ウィースト、サンドラ・オー
2011年11月5日日本公開



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2011/05/27

天才ファッションデザイナーの影に”この男”あり!・・・ピエール・ペルジェの語る”ファッション”が”モード”であった時代の愛の物語~ドキュメンタリー映画「イヴ・サンローラン」~



試写会の招待状が届いていたにもかかわらず・・・封筒を放置していたために観そこねていたドキュメンタリー映画「イヴ・サンローラン」を、やっと劇場で観てきました!あまりヒットしていないせいか、六本木ではすでに上映が終わってしまっていて、都内で唯一まだ上映中の有楽町にファッション業界に関わっている(いた)友人らと行ってきたのでありました。

イヴ・サンローランと言えば・・・誰もが名前だけは聞いたことのある「20世紀のファション界」の最も重要なファッションデザイナー・・・ある意味、今の女性のファッションの源流は「サンローランにあり」と言い切ってしまっても良いのかもしれません。リアルタイムでサンローランの活動を知る業界人であれば・・・彼の背後にピエール・ペルジェという「パートナー」が存在していたというのは周知の事実でしょう。ビジネスパートナーとしてのペルジェの有能さが、サンローランのデザイナーとしての可能性を高め、ビジネスの成功に導いたのは勿論のこと、プライベートでも50年共に暮らしてきたのですから。

今では有名人がカミングアウトして同性のパートナーの存在を明らかにすることは、それほど珍しくはなくなりましたが・・・サンローランとベルジェのように関係をオープンにすることは、時代的な背景を考慮すると非常に画期的でもあったと言えるでしょう。以前、「めのおかしブログ」で書きましたが・・・に同時期に活躍したイタリアのデザイナーのヴァレンティノ・カラヴァー二が、公の場で公私ともにパートナーであったジャンカルロ・ジアメッティの存在を認めることができたのは引退を表明する1年前のことでした。

ドキュメンタリー映画「イヴ・サンローラン」は、2009年2月にクリスティーズで開催されたサンローランとベルジェの美術コレクションのオークションの準備から終了までカメラで追いながら・・・ペルジェへの回想インタビュー、二人が暮らした家々の様子、サンローラン生前のフィルムやスチール写真によって構成されています。

ディオールの葬式での二人の出会いから、サンローラン自身のメゾンの立ち上げから世界的な成功と名声を得て、次第にサンローランがアルコールとドラッグに逃げ場を求め、神経症を患い引きこもりがちになっていく過程が、常にサンローランの側にいたベルジェの言葉で語られます。ファッション業界内では有名な嫌われ者であったベルジェでありますが、彼なりに愛する人を守っていたということだったのかもしれません。

画面に無音で時々挿入されるるのは、サンローランとベルジェが暮らした世界中の家々の様子・・・カメラはゆっくりと二人の過ごした空間を映し出します。楽園かの如く木々や花々で覆われたガーデン、処狭しと世界的な美術品や調度品が陳列されている室内・・・サンローランというを失った空間は荘厳さを感じさせると同時に、あまりの濃密さに虚無感さえ覚えます。

美しい美術品や調度品に囲まれていなければ生きていけないというほどサンローランにとってなくなてはならなかったようですが・・・サンローランの死後、コレクションは大いなる喪失感をペルジェに感じさせるだけだったのかもしれません。二人の築き上げたファッション帝国の象徴でもあった美術館レベル並みに膨大なコレクションを整理して、ベルジェが新しい門出をするというような前向きな理由というのではなく・・・二人の生きた証の行方を、まだ生きているうちにペルジェ自身の目で見届けたいということでオークションは開催をベルジェは決意したのです。

それにしても・・・サンローランにとってファッションデザイナーとして生きることは、膨大な富と名声をもたらしたとの同時に、彼に苦しみを与えていたとは皮肉です。18歳でディオールで働き始め「若さ」を味わう機会さえもなく、毎年”最低2回”のコレクションを発表し続けるという責任から逃れることは許されなかったわけですから・・・。2002年の引退後、2008年に亡くなるまでマロケシュ(モロッコ)の家で殆どの時間を過ごして、公の場所には姿を見せていなかったというサンローラン・・・その数年間が幸せであったか知る由はありません。ただ、サンローランのデザイナーとしての業績には何の変わりもなく、すでに後世に伝えられるべき「歴史」になっていることだけは確かです。

1990年代以降、ファッションデザイナーという存在の意味が変わり始めました・・・富裕層をダーゲットにしたモードを頂点としたシステムから、ブランドネームビジネス、ディフュージョン、ファストファッションへと業界が変貌していったのです。革新性や創造性によって時代の空気を表現し、社会精神までも変化させていたモードはビジネスのための権威としての「ブランドネーム化」して、バブルが弾けると質屋の換金品という存在に成り下がってしまいました。

生活から生まれたユティリティークローズをオタク的にこだわった「普通服」

マクロなディテールにテイスト感という無個性な価値観を与えた「地味服」

トレンドという名のもと”今”買うことに意味があるように生産される「安物服」

今のファッションに、顧客の意識を改革するような革新性や、時代を映し出すような文化的な意味もありません。過去の流行やライフスタイルによって、すでに構築されたステレオタイプをなぞるだけの「エディティング/編集」という作業と、とにかく生産し続け売り場を確保し売り上げの伸ばすためだけの商材・・・ひとつの文化の担い手であった「ファッションデザイナー」という存在は終わりを告げました。

サンローラン亡き後の”ピエール・ベルジェ”の人生には、多くの人々は特に興味ないのかもしれません・・・今は、気難しそうで頭の禿げた地味なフランスの爺さんにしか見えないピエール・ベルジェではありますが、実は「同性愛者」として誇りを持って常に生きてきた「革命的な人」であったことを忘れてはいけません。

オークションの落札総額は約430億円。その収益はすべて「ピエール・ベルジェ/イヴ・サンローラン財団」に寄付され、エイズ撲滅の研究資金に使われたそうです。



「イヴ・サンローラン」
原題/L'AMOUR FOU
2010年/フランス
監督 : ピエール・トレトン
出演 : ピエール・ベルジェ、イヴ・サンローラン



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2011/05/24

”ジュリアン・ムーア”が、また不安な女性を演じる映画・・・性的なフラストレーションで心が病んでいく女性にシンパシーを感じてしまう!~リメイク版「クロエ」とオリジナル版「恍惚」~



何故か10代半ば頃からボクは、性的にフラストレーションを感じる女性の心が病んでいく”キャラクター”に強いシンパシーを感じてしまうのであります。リアルでは、性的な抑圧やフラストレーションとは無縁だし、性的なことが要因にして心が病んでいるようなこともありません。このような嗜好のルーツは「欲望という名の電車」というヴィヴィアン・リー主演の映画(おかしのみみ参照)であることに、最近になって自分でも気付いたのですが、どうしてボクがそういうキャラクターに惹かれ同化してしまうかの理由は分かりません。ただ、こういう女性像は映画向きの題材ではあるようで・・・いつの時代にも”手を替え品を替え”いくつも作られているようです。

「クロエ」は、ボクの好きな女優のひとり”ジュリアン.ムーア”と”リーアム・ニーソン”出演のサスペンス映画です。ここのところ、ジュリアン・ムーアやリーアム.ニーソンが出ているサスペンス映画というのが、やけに量産されている印象があって・・・「また?」と思ってしまったのですが「クロエ」は、ボク好みの女性”キャラクター”が描かれる「エグイ映画」であったのです。ひとり息子にも恵まれ、郊外のスタイリッシュな家に豊かに暮らす中年夫婦・・・しかし、今ではすっかりセックスレス・・・日本人の同世代(50代)の夫婦であれば”当たり前”というか、高校生の息子がいるのにエッチしまくっている中年夫婦のほうが珍しいと思ってしまいます。

大学教授の夫(リーアム・ニーソン)の浮気を疑う女医の妻(ジュリアン.ムーア)は、怪しいクラブで娼婦クロエ(アマンダ・セイフライド)を雇って夫を誘惑させて、一部始終を報告をさせることにします。化粧を落としたクロエは透明感のある美しい若い女性・・・夫はあっさりとクロエに誘惑されてしまい、公園にある温室の中で”手こき”でイカされちゃうという始末なのです。妻はクロエに尋ねます・・・「何故、そんなに簡単に男を堕とせるの?」と。「その人の良いところを見つける・・・そして親切に接して評価はしない」というクロエの答えは妻の心を痛くさせます。若くて、美して、その上、人としても正しく優しいのだから・・・敵うわけないのです。

ボクの勝手なイメージですが・・・リーアム・ニーソンって、いかにも巨根で絶倫のアイリッシュ系って感じで、真面目な役を演じていても下半身だけはビンビンそうに思えてしまうのです(くどいようですが、あくまでもボク個人的な印象です)。だから「浮気しているはず!」って思えてしまうのであります。

ジュリアン・ムーアは白人女性にありがちな、加齢とともに水分不足がちになり視覚的にも内面的にもカラカラに乾いたイメージ・・・性的にフラストレーションや不安を抱えた女性を演じさせたら右に出る者はいません!それ故に、クロエから夫の浮気の詳しい状況を聞かされて、性的に興奮してしまうところもなんて、妙にリアルに生々しいのです。クロエは夫だけでなく、妻をレズビアンセックスに誘導するのですが・・・ジュリアン・ムーアは「キッズ・オールライト」に続いて、またレズビアンセックスに興じております。肉体派というわけでもなく、正統的な演技派女優であるのに、あっさり脱いじゃうところも”ステキ”です。

家族崩壊へと導く恐ろしい”毒女の本性”を剥き出しにするクロエ・・・遂には夫婦のひとり息子まで誘惑してエッチしてしまいます!まるでパゾリーニの「テレオマ」みたいな”やりたい放題”・・・エロチック・サイコ・スリラーとしてドロドロになっていくのですが、最後には収まるべきところに収まってしまったのには、肩すかしのような感じではありました。

実は「クロエ」は、2003年製作のフランス映画「恍惚/原題 Nathalie(ナタリー)」をリメイクした映画なのです。オリジナル版で中年夫婦を演じるのはファニー・アルダンとジェラール・ドパルデュー(トリュフォーの「隣の女」で共演)という”渋さ”・・・娼婦役はエマニュエル・べアールであります。このキャスティングでも分かるように、オリジナル版とリメイク版は、映画としては”別物”といって良いでしょう。

女性監督(アンヌ・フォンティーヌ)ということもあり「恍惚」は、”官能小説”のような妻の性的なアバンチュールの物語・・・夫の情事を報告させるということで、娼婦と妻のあいだに次第に生まれていく「女性同士の友情」も描く女性映画なのであります。娼婦と夫の情事の具体的な描写は一切なく(ここが本作のミソでもあります)情婦の言葉によってのみ語られるのみなのですが・・・その説明がポルノ映画のようにエロくて下品!夫と妻ではしないような大胆なセックスの描写を、大女優二人が台詞で語るというのがフランス映画的なエロスであります。

妻と娼婦は外見的にも”貞淑で上品な妻”と”奔放で下品な娼婦”というステレオタイプで描かれていますが・・・夫という「男の存在」を介して「ライバル」である二人の女性が「友情」も育んでいくのです。妻は娼婦との友情関係よって、自分の中にあった”性の欲求”に目覚め、夫の愛情の深さにも気付いていきます。「恍惚」は、妻の立場から描かれた”女としての成長物語”として、フランス映画らしい「大人の世界」を描いているのであります。

リメイク版「クロエ」はオリジナル版「恍惚」と物語のきっかけは同じ設定でありながら・・・もっと下世話に妻の”中年女性”としての性的フラストレーションにスポットライトを当てています。そして、よりサスペンス要素が強くなっているところが、男性監督(アトム・エゴヤン)らしいと言えるでしょう。物語の流れはクロエが軸となって語られるのですが・・・すべては妻の性的なフラストレーションをきっかけに始まった毒女のような化け物”との悪夢のように思えてしまうのです。そして、最後に”その毒女”は妻に乗り移ってしまったかのようであります。

「聖女」と「悪女」の危うい女性のセクシャリティーの対比が見え隠れしている・・・ボクにとっては、まさに”ツボ”にハマる映画なのでありました。

「クロエ」
原題/Chloe
2009年/カナダ、アメリカ、フランス
監督 : アトム・エゴヤン
出演 : ジュリアン.ムーア、アマンダ・セイフライド、リーアム・ニーソン
20011年5月28日より全国順次ロードショー

「恍惚」
原題/Nathalie
2003年/フランス
監督 : アンヌ・フォンティーヌ
出演 : ファニー・アルダン、エマニュエル・べアール、ジェラール・ドパルデュー



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2011/05/22

パーティーでワインをぶちまけ大立ち回り・・・・彼の”トロフィーボーイフレンド”にはなれなかったの!~元聖職者のオーストラリア人「R」~



アメリカの映画とかでよくあるシーン・・・パーティー会場で飲みものを喧嘩相手の顔にぶちまけるっていうのがありますが、そんなドラマチックなことって、まず実際には起きることはありません。・・・というか、ボク自身はたった一度しか、そんな場面はお目にかかったことは約20年のアメリカ生活でありません。まぁ・・・その大立ち回りをやってのけた本人というのが「ボク自身」だったのですが。

「R」と知り合った当時(1991年/28歳)ボクは永住権のためにジャパニーズレストランでアルバイトをしていました。ジャパニーズレストラン勤めていた日本人ゲイの「M」さんとい方と友達になり、彼のお宅へ遊びに行くことも時々ありました。ある日「M」さんの家の近くの23丁目のを歩いている時、道で「R」を紹介されたのです。「R」は、犬顔のブロンド髭面(当時50歳)で、日本人向けしそうなチャーミングな太めのおじさん・・・とても話上手で、初対面だったにも関わらず1時間近く立ち話になってしまいました。

今ではおしゃれエリアとなっているミートマーケットエリアですが、当時は本当に肉の卸問屋とセックスクラブしかないマンハッタンの中でも怪しげなエリアでありました。ボクはミートマーケットエリアから半ブロックの14丁目に住んでいて、ウェスタンビーフ(Western Beef)という肉に冷蔵庫をそのまま売り場にしているスーパーマーケットには、毎日のように通っていました。道で知り合った数日後、ボクは「R」と、このスーパーマーケットで偶然に会うこととなるのです。

冷蔵庫のようなスーパーの店内で凍えながらも、再び会話は弾んで・・・「R」から週末にディナーパーティーをするので「ぜひ、おいで!」と誘われました。実は・・・このディナーパーティーには、ボクしか招待されていないという”よくある誘いの手”だったわけで・・・その夜ボクは「R」の部屋に”お泊まり”したのでした。

しかし、この夜に判明した残念なこともありました。「R」は、以前300キロ近い「超デブ」だったらしいのですが、厳しいダイエットの末に100キロちょっとまで減量に成功した人だったのでした。そのため、皮膚がドレープのように垂れているというトンデモない肉体だったのです。服を来ていると「洋梨体型」にしか見えないのですが・・・正直、視覚的にも、触感的も、かなりキツイところがありました。ただ、当時のボクはまだセックスに目覚めておらず、抱き合うだけの「バニラセックス」でも、それなりに満足だったし、何よりも「R」は人間的に魅力的な人で、体型の残念っぷりは何とか見逃すことができたのです。

また「R」は、Episcopal Church(米国聖公会)というキリスト教の宗派の元僧侶の一番偉い人(正式な名称は忘れました)・・・オーストラリアで生まれて10代で僧侶となり、30代でアメリカに渡り僧侶の長までになったという、宗教的なコミュニティーではたいへん知られていた人だったのでした。しかし、2年ほど前に突然「神の不在」を感じて、教会を離れたのでした。その後は元聖職者という経歴を生かして、セレブやハリウッドスターが顧客のカウンセラー(特にドラッグやセックス中毒の専門!)として働いているということでした。

経済的に豊かになり、教会という組織からも離れて自由な人生を歩み出した「R」にとって・・・あとは”ボーイフレンド”がいれば「人生は完璧」だと考えていたようでした。「R」は、性的には白人以外に惹かれるタイプで、黒人やラテン系のボーイフレンドを探していたらしいのですが、カルチャー的にも生活スタイルも合わない・・・・ということで、アジア系のボクに目つけたようです。ただ、ボクは体格的にも性格的にもアジア系のステレオタイプからは規格外・・・アジア系に黒人/ラテン系を足して割ったようなところもあったのかもしれません。「R」にとって、ボクが彼の求めていた要素を兼ね備えているように見えたのでしょう。

当時50歳だった「R」にとって、28歳の日本人のボーイフレンドは「トロフィー」のような存在だったのかもしれません・・・正直おこがましい事ですが。「R」は、週末には洒落たレストランで食事、時にはバレー公演などに足を運び、ホームパーティーで友人達と過ごす・・・という絵に描いたような「ゲイカップルのライフスタイル」を実践しようとしていました。「R」の友人の殆どは僧侶時代からの教会関係者の知り合いで、皆「R」のことが大好きで大好きで仕方ない”ファン”のような存在なのです。だから、どこの馬の骨だか分からないアジア人のボクを受け入れようという雰囲気はありませんでした。ボクに対して質問攻めを一通り済ませると、今度は手のひらを返したように無視・・・あくまでも「R」のボーイフレンドだから仕方なく仲間に入れてやっているという感じで、ボクにとっては「R」の友人達と過ごす時間は地獄のようだったのです。

付き合い始めてしばらくして堪らず「R」に「あの人たちとは一緒に過ごしたくない!」と訴えました。しかし「R」にとって「トロフィーボーイフレンド」であるボクが参加しないことは許せないことでした・・・努力が足らない」と逆に叱られてしまいました。友人達のなかで”スター”のように常に会話の中心にいる「R」の横で、ボクは存在しないかのように、ただ時間が過ぎるのを耐えるしかなかったのです。徐々にボクは言い訳をつくって、彼の友人達を避けるようになりました。

付き合い始めて半年以上過ぎた頃、「R」の誕生会が開かれることになりました。企画したのは勿論、教会関係者の友人達・・・会場はブルックリンの教会です。「トロフィーボーイフレンド」として不参加というのはありえません。仕方なく、自分の親友の「T」を引き連れて参ブルックリンの教会へ向かいました。

「R」の友人達は以前にも増して冷たくボクを迎えているようでした。社交辞令でお決まりの挨拶するだけ・・・パーティー会場で、ボクは親友「T」と部外者のように佇むしかありませんでした。ボクは、ただ早く時間が過ぎパーティーが終わることだけを願っていたのですが、そこに「R」の古いゲイの友人の「A」が現れて、何かと絡んできたのです。具体的な言葉は忘れてしまいましたが・・・「A」は人種差別的なジョークや意図的にボクを不愉快にさせるような威嚇をしてきました。親友「T」は「A」からボクを遠ざけるように誘導してくれたのですが、それでも「A」はボクを追いかけて、さらに挑発的な言葉を投げかけてきたのです。

それまで「R」の誕生会という手前、我慢してきたボクの堪忍袋の緒が切れました。手の持っていたワイングラスの中身を「A」の顔面にぶちまけました。そして「A」が怯んだ隙に、彼が手に持っていたディナープレイを下から弾いてやったのです。プレートにのっていたサラダや肉は「A」の頭の上から降り注ぎました。「A」は怒り狂い「このジャップが!」などと叫けび狂ったのでパーティー会場は大騒ぎ・・・「R」は頭を抱えて「ボクの誕生会が台無しだ!」と怒っていました。その言葉の聞いてボクはハッと気付きました・・・。

「R」にとって欲しいのは、あくまでも「トロフィーボーイフレンド」として、彼の思い描いたカップルを演じるべき存在だということ・・・ボクである必要はなかったのです。

ボクはパーティー会場を親友「T」と後にしました。そして・・・数日後「R」に別れたいと伝えました。「R」は、まだ誕生会でのボクの大立ち回りを根に持っていたようで、まったく引き止めることもなく、冷ややかに別れは承諾されました。その後「R」はフィリピン人のボーイフレンドを見つけたという噂を聞きましたが、ボクも別な人と付き合っていたので、もうどうでも良いことでした。

別れから数年後(1996年)「R」がガンで亡くなったことを新聞で読みましたが・・・涙ひとつも流れませんでした。

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2011/05/21

相変わらずのカツマー節とカヤマー節~「むくわれない生き方」を変える本/香山リカ著&高学歴でも失敗する人、学歴なしでも成功する人/勝間和代著~



香山リカの「しがみつかない生き方」で勃発した「カツマー VS カヤマー論争」でありますが・・・それも昔。「そんなこともあったねぇ~」という程度の記憶になってしまいました。

論争ブームに便乗して”勝間本”、”香山本”というコーナーができるほど大量の著書が次々と出版され、テレビ番組にも頻繁に出演しておりました。今ではそのブームも一段落したようで・・・香山リカは朝のワイドショー(スッキリ!)などのコメンテーターを地味に続けていますし、勝間和代は”お得情報”を伝える荻原博子みたいなポジションに落ち着いた感があります。ボク自身、この二人に対してすっかり関心を失っていました。先日、二人の著書を書店で目にしたので、久しぶりに購入してみたところ・・・相変わらずのカツマー節とカヤマー節に”懐かしさ”を感じたのでした。

勝間和代の「高学歴でも失敗する人、学歴なしでも成功する人」は、そのタイトルからも明らかなように・・・”高学歴で失敗している人”に向けて書かれている本であることは確かでしょう・・・だって、学歴なしで成功する人は、間違っても勝間和代の著書には手を伸ばそうなんて考えないと思いますから。ただ、本書では”学歴なしでも成功する人”の実例はまったく出てきません。頭の良さを「アカデミック・スマート」「ストリート・スマート」に二分して、融通の効かない官僚的な頭の固い人=アカデミック・スマートと、本能的な機転が利いて柔軟性のある頭のいい人=ストリート・スマートと決めつけているのであります。

英語本来の意味のストリート・スマート(Street Smart)というのは「街のギャングなどの生き抜く術」とか「教室ではなく厳しい生活環境から学ぶこと」・・・ただ、勝間和代の解釈はかなり違うようです。まず、”ストリート・スマート”の実例として冒頭に繰り返し登場するのが、勝間和代ご本人という見事なまでの「自画自賛」・・彼女が自分以外で”ストリート・スマート”と賞賛しているが、孫社長や三木谷社長というのだから、”学歴なしで成功する人”からは非常にほど遠いのです。非常に高学歴であるだけでなく、社長業という立場にあり、事業的にも現在成功している人と自分を並列させてしまうところが、勝間和代のオコガマしいレトリックであります。

後半に進むにつれて、いつもの”カツマー本”となっていきます。もはや”アカデミック・スマート”や”ストリート・スマート”という概念は「切り口」でしかなく、着地点は「生産性」や「効率」を上げるという毎度お馴染みのカツマー理論。”勝間和代信者/カツマー”というのは「本当は私はもっと成功しているはずだ!」という自己評価だけは高いという人種・・・「効率を良くすれば、私”だけ”は必ず成功する!」と思い込んでいるのだから、容易に「私もストリート・スマートなはず!」と思ってしまうのかもしれません。

香山リカの『「むくわれない生き方」を変える本』は、これまたカヤマー節の「頑張っている自分のこと認めてあげよう!」という、いつもながらの”自己愛”の謳歌でありました。ただ、これも”ある程度”のレベルをクリアしている人に対して効果的な優しい意味のある言葉であって、本当にどうしようもない状態にある人には、そんな生温いこと言ってたら生きていけないような気もしてしまいます。

臨床の実例をあげて、いかに「むくわれない」という感情が、その個人の立場と感情的な受け取り方によって違うか・・・という解説になるわけですが、そんなこと言われなくても”当たり前”の話。さらに分かりきっていることというのは・・・胸を張って「むくわれている」と思っている人よりも、「むくわれてない」と思っている人の方が多いということ。人間というのは、どれだけ人から羨ましがられようとも、満たされない心を持ってしまう贅沢な生き物であるわけです。そう考えると「あなたは、むくわれていないはずよ!」っていうのは、ほぼ100%誰にでも当てはまる言葉であって、占い師の方便と、それほど変わらないのかもしれません。

東日本大震災と福島第一原発事故の後は、もはや、効率や生産性を高める”個人の努力”や、むくわれているという”気持ちの持ち方”というレベルで、我々の抱える問題を解決出来るような事態ではなくなてしまった気がしています。



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2011/05/17

男なんてもう懲り懲り?・・・別れた後に女性と結婚してしまったの!~絵描きのアメリカ人「G」~



「若気の至り」といいますが・・・思い返せば、あまりにも多くの至りがあって懺悔しきれない気持ちであります。特に「G」については深く傷つけてしまったことを、その後ボクは繰り返し反省することになりました。

「G」と知り合ったのは、ボクがメイン州のポートランドという街の美術大学に通い始めてしばらくした頃でした。当時(1983年)ボクは20歳・・・すでにニューヨークでひとり暮らしも経験していたとは言っても、まだまだ「お子さま」。こと恋愛については、殆ど未経験・・・よく言えば「まっすぐ」ではありますが、自分勝手に思い込んでいるだけという感じでした。自分に対しては異常なほど繊細で傷つきやすいくせに、他人に対して自己中心的な傲慢さ剥き出しのわがまま放題・・・という、今振り返ってみれば、とんでもなく手に負えない”若い子”であったのです。

ポートランドという街は、小さなサンフランシスコのような港町でしたが、当時はアジア人は数名ほど(日本人はボクだけ)しか住んでいませんでした。その中でもボクは、あっという間に誰もが知っている存在になってしまいました。ボクのように背が高くて体格の良く、饒舌に英語を話し自分の意見をズバズバ言う日本人というのは・・・意志がハッキリしない体格的にも小さくてメガネをかけているという古い日本人のステレオタイプを、完全に破壊したようでした。

有名なアーティストのおばさんに、ボクは大変気に入られていたこともあり、ポートランドのあらゆるアートイベントに連れて行ってもらいました。そこで興味深い人々(アーティストに限らず)と知り合うことも出来ました。さらに、当時人気のあったクッキーショップ(The Chips of Portland)で、ボクがアルバイトをしていたこともあって、よく「あなた*****でしょ?」と、いろんな人から声をかけられたものでした。

大学の2Dデザインクラスの宿題のために、ボクは時々コピー機を使っていたので、街中のあるコピーショップに通っていました。そのコピーショップでアルバイトとして働いていたのが「G」だったのです。ただ、ボクからすると38歳の禿げたおじさんが「なんでバイトしているの?」って感じでした。それに”イタリア系”と自慢する(?)わりには、全然ルックスもイケてなくて、興味を持つ対象ではまったくなかったのでした。だから「G」が実はボクのことをナンパしているなんて、全然気付かなかったわけです。

何度目かの会話の時「G」が絵描きであること知りました。そこで俄然、美術大学に通うボクは「G」に興味を持ち始めたのです。会話は盛り上がって「G」の仕事終わりにコピーショプ近くにあったスタジオ兼、アパートを訪ねることになってしまいます。「G」がテーブルの上でペインティングを見せている時です・・・いきなり椅子に座っていたボクを後ろから抱きすくめました。ボクは硬直してしばらく動けなかったのですが・・・頭の中では「え~!」っとビックリしている自分と「あぁ、やっぱりそういうことだったのかぁ・・・」と納得している自分がいたりしたのです。「G」のルックスはまったる自分の好きなタイプじゃない・・・でも、人柄の良さや絵描きということを考えると「付き合っても良いのかも」と思えてきてしまったのです。

「G」のアプローチは必死としか言えないほど一生懸命で、ボクに嫌われたくないためなら「何でもする」ような気迫を感じさせたのです・・・ただ、アルバイト生活だからお金は全然なく「何でもする」の「何でも」は、気持ち的なことに限られるのですが。ボクはそれまでにも「G」ほどの年齢の人と付き合っていたのですが、結果的に弄ばれたような感じで傷つけられることばかりだったのでした・・・というか、ボクが異常に傷つきやすかっただけだったかもしれません。でも・・・「G」と付き合ったら、傷つくことはないかもというスケベ心もあって、ボクは「G」と付き合うことにしたのです。ただ・・・誰にも秘密でという条件で。

「誰にも秘密」ならば付き合うという条件には「G」は、ずいぶんと傷ついていたようです。ゲイとしてはモテるルックスではなかった「G」は「ボクは見た目が全然良くないから/I am not goodlooking at all.」と卑屈になっているところもあって、魅力的じゃないからボクが友人達に紹介できないんだと嘆いていました。とんでもなく傲慢な条件だったにも関わらず「G」はボクと付き合えるのであればそれでもいいと受け入れました。そして、ことあるごとに「君はボクの運命の人」と「G」は訴えるのでした。

二人の関係は、完全にボクが指導権を握っていました。「G」は、いつでもボクの話を聞いてくたし、エッチでも、ボクが「ああしろ」「こうしろ」と言うとおりでした。でも、ボクはそんな関係を望んでいたわけでなく・・・心の隅では、どこまでも優しい「G」に対して罪悪感を感じ、その後ろめたさを晴らすため、さらにわがままになっていっていくという悪循環に陥っていたのかもしれません。

ボクが美術大学の2年生に進級する時、いきなり「G」はボクの通う大学に講師として雇われることになりました。ボクが「G」のクラスを取ることはありませんでしたが、いくら講師とはいえ、同じ大学の男子学生と付き合っているというのは、あまり公表するべきではないと「G」も考えたようです。「誰にも秘密」で付き合うことは「G」にとっても都合のいいことになったのです。ただ・・・「G」が講師として仕事を始めて金銭的に余裕が出てきたことで、今まで負け犬のように言いなりになっていた「G」がボクに対して強気になってきました。ボクからすれば、自分のわがままが通せるからこそ「G」と付き合っていたところがあったので、二人の関係のバランスが崩れ始めました。

そんな頃、有名なアーティストのおばさんの工房に遊びに行った際「V」というアーティストを紹介されました。ボクは「V」に一目惚れ・・・その日からストーカーのように「V」を追い回すようになってしまいました。勿論、ボクの変化に「G」はすぐに気付きました。ボクは「V」と付き合いたかったので「G」との関係を、どうしても終わらせたのです。そこで、残酷なほど正直に「好きな人ができたこと」を話しました。でも「G」はそれでも納得しなかったのです。何が何でも「G」と別れたかったボクは「おまえなんて醜いから嫌い!/I don't like you because you are so ugly!」と言い放ちました。「G」はベットに伏せて泣き始めてしまったのですが、ボクは冷酷にも「G」を放置して部屋を後にしました。

それからは、街で「G」がボクの姿を見かけると一目散に逆方向へ走って逃げるほど、ボクを避けるようになりました。それほど嫌われて当たり前のことをしたのだから仕方ありません。その後、ボクは短い間でしたが「V」と付き合うことができました。しかし「V」との関係はすぐ破綻してしまいました。「V」の自殺未遂騒ぎなどもあり、ボクは散々振り回されてボロボロになってしまいました。そして天罰のような辛い状況から逃れるように、ボクはニューヨークの大学へ編入したのです。

数年後、ポートランドを訪れたとき「G」の噂を耳にしました。ボクが美術学校を去った1年後に「G」は講師を辞めて、「G」の弟さんが経営していたインテリアデザイン会社に入社したそうです。そして、その会社で働いていた女性と結婚したということでした。噂をボクが聞いた時には「G」の奥さんは妊娠していたそうなので・・・お子さんは現在すでに成人しているいるはずです。

ボクは「G」を深く傷つけてしまったけど・・・あの時にボクが言った酷い言葉で別れたからこそ、「G」は、男はもう懲り懲りという気持ちになって女性との結婚を選択したのかもしれません・・・それはそれで「G」にとっては幸せな選択であったと勝手ながらボクは信じたいです。

もしも、ボクがあの時に「G」と付き合い続けていたら、どんな人生を「G」が歩み、ボクが歩んだのだろうなんて・・・今更考えても、まるで意味はありません。

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2011/05/10

”濃い化粧”と”派手な衣装”の「奇跡の一枚」・・・それでも”プロフ画像”は嘘はつかない



ネットの出会い系は一切利用しないという組合の友人に言わせると・・・身長体重というデータと簡単なプロフィール、そして画像だけで「判断なんか出来ない!」ということのようです。ただ、飲み屋とか、ハッテン場とか、本人を目の前にしているから真実が見えるというわけでもないようであります。

ボク自身はまだニューヨークに在住していた頃(1990年代後半)から、ネットの出会い系というのを利用していました。それは現地の人と知り合うためではなく、日本に住む日本人の組合の方々と知り合うためでした。当時の「掲示板」は情報は文字だけ、アクセスできる人というのは、まだ高価だったパソコンをインターネットに繋いでいるという限られた人のみの狭い世界だったのです。デジカメを持っている人というのも多くなくて、画像交換を銀塩写真をスキャンしてなんてことをやったいたました。

ただ、逆に現在よりは出会いに対しての熱量は高かった気がします。そして、まだネットに馴れていなかったせいか皆ナイーブでした。また、ボクの場合には日本とニューヨークと離れているために、そう簡単にはリアルで会えることもできなかったこともあり、メールでのやり取りに異様に盛り上がってしまいがちでした。デジカメを手にしたらエッチ画像の交換というのが通例で・・・今考えると冷や汗もんであります。まぁ、そういう諸々のことを含め、インターネット黎明期ならではの利用者の”純粋さ”というのも忘れがたいものであり・・・「良い時代だったよね」という気もするのです。

その後、ネットは飛躍的に進化して「SNS」「ツイッター」「出会い系サプリ」と次々と新しいサービスが生まれ、そのたびに組合の人々が流れていくようになったのです。ただ「掲示板」という仕組みと基本的に変わらないのは「待ち子」的な意識・・・多くの人たちがインターネット上で声を掛けてくれる誰かをクモの巣(ウェブ)を張っているような状態になっていることがあることは否めません。サービスとしての利便性が高まれば高まるほど「待ち子」を増やしてしまうことにもなるのです。

わざわざネットを通じ知り合おうっていうのに「友達(本当に純粋な意味での!)探しています!」というのは「あり得なくねぇ?」なんて思ってしまうのですが・・・「友達募集」という、とりあえずの防衛線を張っておくということなのでしょうか?確かに、やる気満々で「真剣に相方募集しています」とか「後腐れなく即ヤリできる奴!」とか記述されていると、易々とコンタクトは取り辛いかもしれません。「だって・・・やっぱり会ってみないと分からないもんじゃない?」という”乙女ごころ”も、組合の方々は持ち合わせているのですから。

また「友達募集」の大半は・・・「大事な相方がいる」「一緒に住んでいる相方がいる」「セックスレスだけど相方のいる」と、さまざまな状況で「相方のいる方」であることが多いです。やはり「相方」の手前・・・顔出しで「セフレ募集!」とは、なかなか明言できないのでありましょう。ただ「セフレ募集」でもないのに、わざわざ「凸です」とかエッチのボジションをアピールすることはねぇ~だろうと思ってしまうのであります。(ハンドルネームにまで「凸」と入れている方もいたりして)

ネット掲示板に顔出し画像・・・というのは気が引けても「SNS」「ツイッター」「出会い系サプリ」であれば、それほど抵抗なく顔画像(裸画像さえも!)公開ということになるようです。別に出会いを求めているわけでないという”いいわけ”もつくところもあるし、リアルの友人とのコミュニケーションの場でもあったりするわけで「出会い」に特化しているわけではないところがあるのでしょう・・・とは言っても、殆ど人は少なからずとも自分を良く見せたい「欲目」はあるようです。

さて、タイトルにある「濃い化粧」「派手な衣装」の話です。化粧というのは「髪」や「髭」のことで・・・組合の方々はスタイルはそれぞれあるけど「濃い化粧」とは、そのキャラクターを100%アピールしたスタイルにしているということであります。ジャニ系ならそれらしく、イモ系ならそれらしく、その方向性はさまざまあるでしょう。ちなみに、ボク好みの「濃い化粧」はとは、キレイに刈られた短髪またはスキンヘッド、形の整えられた髭といったところ・・・この「化粧」で、どんな人でも「2割増し」になってしまいます。

「派手な衣装」というのは、そのまんま「ガタイ」のことであります。これもまた、趣味はそれぞれあることでしょうが・・・「派手な衣装」とは、体型を上手に誇張した画像撮影をしているいうことです。スリム体型ならスレンダーさを、デブ体型なら体全体の大きさを、マッチョ体型なら大胸筋の大きさを・・・アピールポイントはそれあれど”画像の魔法”というのはあるものです。

類は類を呼ぶってことなのかもしれませんが、ボクの周り組合人は「ガチムチ体型」ばっかり・・・ジムに通って筋トレに励みながらも、一般世間的にはちょっと太めという体型。ボクが10代の頃には、こんなにガチムチ体型の人なんて殆どいませんでしたが、組合の世界で需要が高まると皆そういう体型になっていくものなのでしょう。

「ツイッター」のアバター画像というのは、イラストでも写真でも何を使っても良いのだけど、組合用のアカウントには結構「顔出し」または「ガタイ出し(?)」画像を使っている人が多かったりします。そして、その画像は「濃い化粧」「派手な衣装」の画像ということは言うまでもありません。直接的でないにしても、アバター画像のアピール度は、フォロワー数とは無関係ではないようであります。ボクも組合アカウントのアバター画像を一時期「濃い化粧」の画像にしていたことがあるのですが・・・妙なフォロワーが増えたりしたものでした。プロフ画像の善し悪しは、結構残酷なほどストレートにフィードバックが返ってくると思っておいた方が良いのでしょう。

このブログのプロフィールにアップしているボクの顔画像も、リアルに知っている人には「詐欺画像」とまではいかなくても「かなり良く撮れている画像」であることは間違いありません。ネット上で、自分のことを知らない人に自分をプレゼンテーションするのに「一番悪い自分」を見せたいと思う人はいないわけで・・・多少”盛っている”としても「奇跡の一枚」で勝負する方が、素直だし、往生際の良さを感じます。

ただ・・・「濃い化粧」と「派手な衣装」の「奇跡の一枚」のプロフ画像でも、”その画像”を選んだということ自体が、その人を雄弁に語ってしまっていることだけは事実のようです。

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2011/05/08

傍観しているヒロインなんてぶっ殺してしまえ~!・・・”怒り”のおさまらない血みどろの復讐劇~「ビー・デビル」~



このブログでは随分と映画の感想文のような雑文を書いていますが、映画の「ネタバレなし」に映画を語るというのは、時には難しいものです。しかし、まだ映画を観ていない人にとっては、エンディングまで書いてあったら”楽しみ”を奪われるようななのかもしれません・・・とは言っても、ボクは別に映画会社から頼まれて映画の宣伝をしているわけでもありません。今回の映画は、渋谷Nシアターというマイナー映画館だけでの上映ですが、すでに日本で公開済み・・・堂々の(?)ネタバレとなります。

韓国映画「ビー・デビル」の原題は「キム・ボンナム殺人事件の顛末」・・・キム・ボンナムという女性の復讐劇を描いている映画です。舞台は、韓国の孤島にある過疎の村・・・住民はキム以外には、連れ子である娘、夫、夫の弟、そして5人の親戚の老人たち。そんな島に少女時代に島で過ごしたことのあるへウォンがソウルから休暇にやってきます。懐かしがるボンナムに対してヨソヨソしいヘウォン・・・次第にボンナムが奴隷のように働かされていることを知っていくことになります。夫は本土から3倍の金を支払って売春婦を島まで呼びつけ、昼間からセックスをしたりしています。・・・にも関わらず、男尊女卑の慣習を保守的に守ろうとして、夫を擁護する年老いた住民たち。そのような酷い状況を目の当たりにしても、ヨソヨソしいヘウォン。

夫の魔の手が連れ子の娘にも及ぼうとしていることに危機感を感じ、ボンナムはヘウォンにソウルに一緒に連れて行って欲しいと懇願します。しかし、ヘウォンはボンナム”嘘つき”呼ばわりをして断わるのです。そこで、ボンナムは夫の寝ている間に金(元々はキムが働いて稼いだ)を盗み、ボートをチャーターして自力で娘を連れて逃げようと試みます。しかし、夫に発見され激しく折檻されるはめに・・・それを止めようとして突き飛ばされた娘は岩に頭をぶつけて死んでしまいます。しかも村の老人たちが夫と結束して、娘の死を自己として隠蔽してしまうのであります。唯一、目撃者として真実を知るはずのヘウォンも口を閉ざし、娘は事故死として処理されてしまうのです。

相変わらず、奴隷のように働かされるボンナム・・・ある時、眩しい太陽に導かれるように突如、村の老人たち、夫の弟、夫を鎌で切りつけて殺し、ボンナムは遂に復讐を果たすのです。ここの殺戮描写は、なかなか残酷でありますが、これまでのボンナムの虐げられ方が尋常ではないので、思わず彼女に感情移入して「殺せ!殺せ!」と興奮してしまいます。ヘウォンだって傍観者としてボンナムに手を差し伸べなかったのですから殺されて当然・・・ボンナムはヘウォンの真っ白なドレスをハイヒールを身につけて、したことのない化粧をして、30年暮らした島を離れることに成功するのです!ボンナムのこれからの人生を想像すると、連続殺人犯として明るい将来があるわけでもない・・・それでも復讐を果たし、生き地獄を抜け出した彼女を祝福してしまう気持ちを、ボクは抑えられないのです。

もしも、ボンナムが島を抜け出し本土に上陸する場面で映画が終わったとしたら、不穏な空気を残すエンディングだと思うのですが・・・実はこの映画、原題の監督タイトルに名前があるにも関わらず、ボンナムがヒロイン(主人公)ではないのです。この映画の本当のヒロインは、ソウルから島に訪ねてくるヘウォンなのであります。

この映画は、ヘウォンのソウルでの生活から始まります。目撃した暴漢事件の犯人達からの復讐を恐れて証言をしない、ことなかれ主義のヘウォンは、ソウルにある銀行のローン課に勤めています。ローンを懇願する老婆を冷たくあしらったりする成績重視の社員で、職場のトイレで掃除婦の手違いで閉じ込めらてしまった際には、同僚の女性が意図的に彼女を閉じ込めた勘違いして殴り掛かったりします。そこで上司から休暇を取るように奨められて、ヘウォンは祖父の出身地でもあった島へ休暇で来ることになったのであります。ボンナムからは長年何度も手紙が届いていたのですが、ヘウォンはその封を一度も開けることさえなかったんです。ヒロインであるヘウォンはお世辞にも性格の良い女性としては描かれておらず・・・それ故に、キムの復讐の牙がヘウォンに剥いて「傍観者の罪」として惨殺されるべきだとボクは感じていたのでした。

しかし・・・映画では島からの脱出後、ボンナムとヘウォンの死闘という展開が待っています。へウォンは本土の留置所に間違って勾留されてしまっているのですが、そこに証拠隠滅を計るキムがヘウォンを殺しに現れます。ここからボンナムは、殺人を犯すしかなかった哀れな女性としてではなく、殺人鬼の”化け物”として描かれます。勿論、最後にはボンナムはヘウォンの手によって殺されるわけですが・・・自己防衛でやむなくヘウォンはボンナムを殺したかのごとく「お涙頂戴」の郷愁の場面となってしまいます。

その後、ヘウォンはソウルへ戻り、今度は勇気を持って暴行犯グループの証言をすることができるようになります・・・そして、初めてボンナムからの手紙を封を切るのですが、そこには繰り返しヘウォンに助けを求めるボンナムの言葉があったのです。今更、ボンナムの気持ちを理解しようとしても遅過ぎる・・・何とも”怒り”のおさまりようのない不愉快な終わり方なのでした。


「ビー・デビル」
原題/김복남 살인사건의 전말キム・ボンナム殺人事件の顛末)
2010年/韓国
監督 : チャン・チョルス
脚本 : チェ・グァニョン
出演 : ソ・ヨンヒ、チ・ソンウォン、パク・チョンハク



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