今年も「9月11日」がめぐってきました。8年という年月が経ち、日本のニュース番組では追悼式が行われたことを報道する程度で、扱われる時間も少なくなくなってきています。
僕が実物のワールド・トレード・センターのツインタワーを初めて目にしたのは、1975年に母とアメリカ横断旅行をした時でした。
110階建てという考えられないような高層ビル(それも二棟!)には大変な衝撃を受けました。
6年後、アメリカ留学をするときに「ニューヨークに行きたい!」と我を通したのは、この時の旅行で体験したことが大きかったと思います。
1981年からニューヨークでの留学生活が始まるのですが、当時は生活費からすべては親の仕送りに頼っていました。
1ドルは250円だったし、個人の海外への送金には時間がかかり、手続きも複雑な時代でした。今思い返すと変な送金方法だったと思うのですが・・・ツインタワーの100階ぐらいにあった住友銀行のオフィスまで直接行って、現金で受け取っていました。
毎月、高層ビルの高層部分にあったオフィスに上れることが、小さな楽しみでした。
1987年、ニューヨークのファッション界、社交界でたいへん話題になったクリスチャン・ラクロワのデビューファッションショー/パーティーが、ワールド・トレード・センターの一角で開催されました。
当時パーソンズデザイン大学のファッション科に在籍していたシニア(最終学年)生徒だった僕は、特別にこのファッションショーとパーティーを「見る」ことができました。
生徒たちはパーティー会場ではなく、工事中であった三階部分のテラスのようなエリアに押し込められて、パーティーの出席者からは数メートル離れた空間に隔離されました。それでも「W」などの雑誌の社交欄でしか見たことのない”セレブティー”や”ハリウッドスター”が目の前にいることに興奮したことを憶えています。
12年後の1999年に「GEN ART」 という団体が行ったファッションコンテストのイブニング・ウェア部門で、僕は賞を頂きました。そのファッションショー/授賞式がラクロアのパーティーと同じ会場だったので、少なからずワールド・トレード・センターという場所に縁を感じた出来事でした。
1996年から、僕はマンハッタンのチェルシー地区と呼ばれるエリアのアパートで暮らしていました。
周辺にはタウンハウスと呼ばれる低層のビルディングが多く、南向きの14階の部屋からはマンハッタンの南部の西側からハドソン川の羨望が広がり、ワールドトレードセンターのツインビルも遠くに見えていました。
引っ越した当初は、眺めに感動して毎日窓の外に広がる景色をぼんやりと眺めるのが日課でしたが、そのうち窓から景色には慣れてきってしまい、いつしか、外を見ることもなくなってしまいました。
ただ、近所のセブンアベニューを南下するとツインタワーが進行方向の先に建っており、自分の生活圏にはワールドトレードセンターは、「いつまでも」そこにある景色として存在していたのです。
2001年2月末に、僕は日本に完全に引っ越していたのですが、その年は仕事で4月、8月にもニューヨークを行きました。
8月の出張では31日に帰国で、出発の前日にはワールド・トレード・センターの横にある「Century 21」というデザイナーブランドが売られているアウトレットショップで、いつも通りに買い物をしました。
その時に、ツインタワーをきちんと見ることもなく、ましてや、見上げることなどもしなかったことを、その後悔やむことになりました。
翌年の1月の出張の際に、グランド・ゼロと呼ばれるワールドトレードセンター跡を訪れた時には、涙が溢れて止めることが出来ませんでした。
ツインタワーが無意識に、自分のニューヨーク生活のシンボルのような存在であったことを、改めて感じました。
その後、ニューヨークを訪れた時には必ずグラン・ゼロには立ち寄っています。徐々にツインタワーのあった土地は整地され、新しいビルの土台工事も始まっていますが、僕の脳裏には「いまでも」ツインタワーが建っているのです。
今年も「9月11日」がめぐってきました。アフガニスタン攻撃の正当化のためにアメリカ人は「リメンバー9・11」と叫びました。
8年という年月が経った今、復讐のためではなく「リメンバー9・11」と僕はもう一度心の中で叫んでいます。