「トーマの心臓」というタイトルと萩尾望都の表紙に騙されてしまった、名作漫画のノベライズでした。
1974年に発表された萩尾望都原作の「トーマの心臓」は、文学と比較されるほどの少女漫画の金字塔といえる名作で、ドイツの寄宿学校を舞台にした少年達の物語です。
ユーリに拒絶されたトーマという少年が自殺するという衝撃的なシーンから始まります。
ユーリは宗教心の強い優等生ですが、過去に暴行されたトラウマによって友達にも神にも心の開けない少年です。
ユーリのルームメイトであるオスカーという少年と、トーマに瓜二つの転校生のエリークという少年によって、ユーリは神に対する冒涜をしたというトラウマを乗り越え、神からの許し、友達からの許しを受け入れて、自己を再生していきます。
美しい少年達の寄宿舎での物語であるということで、ボーイズラブ系漫画の原点のように思われているのかもしれませんが、実はキリスト教の宗教観を強く感じさせる漫画です。
複雑な登場人物たちのさまざまな思惑が絡まり合うにも関わらず、原罪の許しというキリスト教の神の教えがベースにあるからこそ、登場人物たちの向かう心の方向性がハッキリしているので、宗教観を理解すれば非常に分かりやすい物語なのです。
萩尾望都がどれほどキリスト教の理解が深かったのかは不明ですが「トーマの心臓」の外伝となる「訪問者」では、さらに宗教観の強い物語を描いています。
まず、ノベライズ版の舞台設定が、原作の戦後のドイツの寄宿学校から、戦前の日本の男子高等学校に変更していることの理解に苦しみました。
ドイツ人とのハーフという設定になった「オスカー」以外は日本人でありながら”あだ名”で「ユーリ」や「エリーク」と呼び合うというのは不自然さが際わりありません。
その上、ユーリの自己再生を理解する上に最も大切なキリスト教における「許し」という宗教的な概念がなくなってしまっているのは、原作の本質さえも鼻っから無視しているというトンデモナイ舞台設定の変更なのです。
また、原作の少年が性的存在として目覚め始める微妙な14、5歳という主な登場人物の年齢設定を、あえて17、8歳というボーイズラブ系にありがちな「男の性」を感じさせるような年齢設定に変更した意図というのはどこにあるのでしょうか?
単なる著者の好みなのか、新たな読者の為のサービスなのか、年齢変更によって何ひとつととして物語に深みを増すわけでもなく、逆に17、8歳の男子から「性」を排除している”嘘臭さ”が、より際立つ結果になっています。
原作では「ユーリ」を物語の主人公としながら、読者の視点は「ユーリ」「エリーク」と揺れ動き、時には「オスカー」を始めとするサブキャラクターにも感情移入出来るという、絶妙な語り口のバランンスを保っていて、複雑な登場人物たちの心理が理解出来るように描かれています。
しかし、ノベライズ版では「オスカー」の一人称の視点で描かれてしまっているために、ユーリ、トーマ、エリークを巡る物語は、傍観者の視点でしか描かれることがなく、本筋の物語に感情移入出来る機会さえなくなってしまっています。
「トーマの心臓」という物語のプロットをバックグラウンドに「訪問者」という”外伝”から続く「ふたりの父親」に対しての「オスカー」の心の葛藤の物語でまとめってしまっているのは、非常に物足りないとしか言いようがありません。
何故、今さら原作に対してのリスペクトでもオマージュでもない物語を、わざわざ「トーマの心臓」というタイトルでノベライズとして発表したということには、たいへん疑問に感じました。
老眼が出始めている原作のファンとしては、雑誌サイズの「トーマの心臓」豪華大判コミック本(扉はカラーで!)の出版をして欲しかったと、思ってしまうのです・・・。