基本的に、メロドラマというのは好きな映画のジャンルではありません。
すれ違いながらも最後には結ばれる「真実の愛のちから」よりも、裏切られて最後には傷つくという「不信感」の方に、強い”確信”を感じてしまうタチなので、メロドラマ的なハッピーエンドというものは許しがたく思ってしまうのです。
1974年につくられたライナー・W・ファスビンダー監督による「不安は魂を食いつくす」は、60代の掃除婦がヒロインの、30代のアラブ系移民労働者とのあり得ないメロドラマなのです。
しかし、年齢差や人種差を克服する美しい恋愛物語を期待すると、あっさりと裏切られます。
淡々と語られるふたりの不釣り合いな恋愛は、周囲の反対によって繋がりが強くなっていくのですが、周辺から認められ始めると次第にその関係は壊れていくのです。
バーの女と浮気した男を、なじり、すがる、60代のおばさんの姿は醜く、観る者の同情を呼ぶものではありません。
しかし、最後には男が病気で倒れることによってお互いの必要性を改めて認め合い、しんみりとしたハッピーエンド(?)を迎えるのです。
メロドラマ的な筋書きを拝借しながら、寄り添い、寄り掛かるふたりの関係を祝福するわけでもなく、冷ややかな視線で描かれていることに強く共感を憶えたのでした。
ファスビンダーの「不安は魂を食いつくす」という映画が、実は・・・1955年につくられたメロドラマの巨匠ダグラス・サーク監督の「天の許し給うものすべて」のリメイクというのを知ってから、改めてオリジナルであるサークのを映画を観る機会を得ました。
あり得ないが・・・ハーレクインロマンス的には王道とも思える「美しき未亡人」と「若くハンサムな庭師」のメロドラマは、基本的に話の流れはファスビンダーの「不安は魂を食いつくす」と似ています。
ヒロインである未亡人は、毅然として周囲の差別やふたりの格差を乗り越えて、最後には若い男を受け入れてハッピーエンドを迎えるのですが、何故かヒロインの悩みや苦しみにそれほど共感出来ない・・・という、メロドラマとしての違和感があるのです。
それは、表面的にハッピーエンドを求める当時の倫理感に対してのサークの反抗心から、ヒロインに観客の同情を与えなかったのかもしれません。
もしかするとファスビンダーは”あり得ない関係”のリアリティを描いて、サークの屈折した思いをリメイクしたかったのでしょうか?
トッド・へインズ監督の「エデンより彼方へ」は、ファスビンダーのリメイクの手法とは違い、ダグラス・サークのメロドラマチックな作風を表面的になぞりながら、現代的なエピソードを盛り込んでいます。
2002年につくられたこの映画は、前出のファスビンダーのリメイク版も意識した、サーク作品全体に対するオマージュになっています。
舞台は典型的な1950年代のアメリカの郊外の幸せな家庭を持つ主婦なのですが、実は旦那は同僚の男性との逢引に耽るゲイであったり、彼女の淋しさを癒してくれる心寄せる男性が聡明な黒人男性であったりと、1950年代のハリウッドでは決して描かれることがなかった物語です。
サーク以上に劇的な照明を駆使しているのにも関わらず、ヒロインのメロドラマチックな陶酔感は感じさず、オリジナルのパロディとしての滑稽ささえ感じさせます。
旦那が去った後も黒人男性とも結ばれることもなく、ラストは主人公の女性はひとり生きていくというのが、メロドラマという型にハマりきれない女性の現実なのでしょうか?
それは、実のところ1950年代も2000年代も、それほど変わりない気がします。
サークとファスビンダーとへインズという、三人の監督にによってつくられた”祖母、伯母、孫娘”のような関連性を持ったメロドラマの中の皮肉に満ちた視線が癖になって・・・ごく普通のメロドラマさえにも斜に構えてしまう自分がいたります。