2016/12/02

「アメリカンギニーピッグ」シリーズの2作目は”会心の一作”!?・・・観るに耐えない医療系拷問と鬼レベルにトラウマなラブシーン~「アメリカンギニーピッグ ブラッドショック!!/American Guinea Pig : Bloodshock」~


以前、このブログで書いた「ギニーピッグ」シリーズのアメリカ版スピンオフ「アメリカンギニーピッグ~血と臓物の花束~/American Guinea Pig : Bouquet of Guts and Gore(めのおかし参照)から約一年・・・2作目となる「アメリカンギニーピッグ ブラッドショック!!/American Guinea Pig : Bloodshock」のDVD/Blu-rayがリリースされました。

本作の舞台となっているのは、基本的に監禁されている部屋と手術部屋のみ・・・実際に撮影が行なわれたのは、「アメリカンギニーピッグ」シリーズのエグゼプティブ・プロデューサー(本作では脚本も担当)であるステファン・バイロ氏が以前レンタルビデオ屋を経営していたビルの隣にあった廃屋の医療施設(現在はリノベーションされて住居になっている)で、わざわざセットを組んだのは拘束部屋”だけ”だったそうです。極めて低予算であったことが伺えます。


壁にクッションが貼られた小さな拘束部屋に閉じ込められている中年男(ダン・エリス)・・・マッドドクター(アルベルト・ジョヴァネッリ)から、繰り返し繰り返し医療器具で拷問を受けています。何も説明なしに監禁されているという「ソウ」シリーズではお馴染みのソリッド・シチュエーション・スリラー仕立てといったところで、淡々と行なわれる拷問が描かれるのです。

アシスタントの男に顔を殴られる、話せないように舌先を切断される、股間や膝をハンマーで殴られる、ペンチで歯を抜かれるなどなど、中年男性は顔を歪めて苦痛に耐えて続けます。極めつけは、糸のこで骨を切断されて骨を延長する器具を取り付ける手術・・・どう考えても、これほどの手術に何らかの薬なしに痛みに耐えることはアリエナイので、何らかの麻酔(麻薬?)などを投与されているのかもしれません。


ゴア描写を”売り”にするならば、リアルな血や肌の色を見せつけるべきなのかもしれませんが、本作の大半が白黒の映像ということもあり、残虐性は控えめになっています。また、繰り返し切ったり縫い合わせられる手術部分をクロースアップで撮影しているので、慣れてしまえば(?)少々退屈な映像に感じるかもしれません。もしも、これらのシーンがフルカラーの映像だったならば、皮膚と筋肉のシリコン模型のプヨプヨ感が”ニセモノ”っぽく見えるてしまったかもしれないし、エンディングシーンのインパクトを際立たせる意味では、効果的であるとは言えます。

ここからエンディングのネタバレを含みます。


中年男が監禁されている部屋の壁から、メモ書きが差し込まれ始めます。隙間から見える手から若い女(リリアン・マッケニ)らしく・・・彼女は紙と鉛筆を所持することが許されているようなのです。映画の中盤になると、今まで中年男のみだった視点から、この女性の視点からも描かれていきます。

どうやら、彼女の方が先に監禁/拷問されているらしく・・・既に骨延長器具などが体に取り付けられており、常に朦朧とした状態の中、中年男と同じように繰り返し体を切られては縫い合わされるという拷問的な手術を施されているようなのです。監視のアシスタントに見つからないように、メモの読後には食べてしまうことをしながら、次第に短いメモ書きを通じて、中年男と若い女はコミュニケーションを深めていき、次第にお互いを特別な存在として感じ始めていきます。


前作の「アメリカン・ギニーピッグ~血と臓物の花束~」は、単に人体分解の即物的なトーチャーポルノでしたが・・・本作の主人公の中年男と若い女を演じているダン・エリスとリリアン・マッケニーは台詞らしい台詞がないにも関わらず、精神的にも肉体的にも極限まで追い詰められた状態を、表情や目の動きで見事に演じきっており、映画作品として作られていることが明らかです。

遂に、若い女は反撃にでて、マッドドクターらにメスを突き刺します。中年男のいる監禁部屋へ行って一緒に逃亡するのかと思いきや・・・二人は監禁部屋の中で抱き合い、お互いの傷を愛撫し始めるのです。徐々に抱擁はエスカレートして、お互いの傷口を広げて、舐め合ったり、傷口を広げたりして、ドンドン血だらけになっていきます。


白黒だった画面は、徐々にカラーに変化していき・・・血だらけで内蔵を引き抜き合って息絶えていく二人を姿を、まるで「ラブシーン」のように映し出すのです。繰り返し行なわれた拷問によって人格を失っていたかのような二人が、共有した苦痛の中で目覚めた愛情表現は、お互いを死へ導くことだったということなのでしょうか?あまりにも究極の状況なので、理解不可能な行為ではありますが・・・。

脚本を担当したステファン・バイロ曰く、本作は「ラブスートリー」ということですが・・・拷問する”さま”を映画にするは”サディスト”的な嗜好であると同時に、自らも拷問を受けたいという”マゾキスト”的な願望もあるのかもしれません。あの「ネクロマンティック」のエンディングで、死体愛好者の男が、自分の腹にナイフを刺しながらマスターベーションをすることによって得られる”死に際の恍惚感”に繋がっていくのです。

中年男と若い女の死後、相変わらずマッドドクターは犠牲者を監禁して拷問をしています。ここで本編は終わるのですが・・・エンディングタイトルをバックに、中年男と若い女の監禁される前の様子が描かれます。どうやら、彼らはそれぞれ自分の家族を惨殺した殺人者であり、その罪の償いとして拷問されても仕方なかった・・・という”オチ”のようなのです。”設定”も”オチ”も、結局「ソウ」シリーズと同じというところは”イマサラ感”が拭えません。

何かとツッコミどころのある作品ではありますが・・・「ギニーピッグ」のタイトルに相応しいトラウマを残す作品ではあります。シリーズ2作目となる本作「アメリカンギニーピッグ ブラッドショック!!」は、今後の「アメリカンギニーピッグ」の布石となる”会心の一作”となるかもしれません。

「アメリカンギニーピッグ ブラッドショック!!」
原題/American Guinea Pig : Bloodshock
2015年/アメリカ
監督 : マーカス・コーチ
脚本 : ステファン・バイロ
出演 : ダン・エリス、リリアン・マッケニー、アルベルト・ジョヴァネッリ
日本劇場未公開
2017年1月7日DVDリリース



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2016/11/23

ジャック・スカンドラリ(Jacques Scandelari)監督のカルトな世界・・・アート系エロティック映画からハードコアのゲイポルノまで~「淫蕩の沼 マルキ・ド・サドのアブノーマル・ハウス/La Philosophie dans le Boudoir」「薔薇の懺悔/Homologues ou La soif du mâle」「ニューヨークシティ・インフェルノ/From Paris to New York」「過去を着た女 真夜中のニューヨーク/Monique and New York After Midnight」~


”マニアック”にも「ほど」があって、あまりにも”マニアック”過ぎると「誰も知らない」ということもあったりします。日本で劇場公開されている作品もあるのですが、世界的にすっかり忘れられた感があるのが、フランス出身のジャック・スカンドラリ(Jacques Scandelari)という映画監督。元々、寡作であることに加えて、フィルモグラフィーも文献によってマチマチ・・・ソフト化された作品も少なく、別名で監督しているハードコアのポルノ作品があったりするので、イマイチ全貌が掴みきれないのです。

短編映画「Models International」(1966年)が、ジャック・スカンドラリ監督のデビュー作らしいのですが、これは”モンド”ドキュメンタリー風の作品だったようです。1960~80年代のエロティック映画で知られるジョぜ・ベナゼラフ(José Benazeraf)監督が、共同監督としてクレジットされているところから、内容的には”エロティック”な作品だった推測されます。

1943年生まれとされるジャック・スカンドラリ監督が、弱冠25歳のときの作品と言われていることから「淫蕩の沼/La Philosophie dans le Boudoir」が製作されたのは、多くの文献に記述されている「1971年」ではなく「1969年」だったと思われます。おそらく1971年は、アメリカなどの映画館で公開された年だったのでしょう。となると・・・「淫蕩の沼」がジャック・スカンドラリ監督デビュー作ということで間違いないようです。


「淫蕩の沼」は、マルキ・ド・サドの「閨房哲学」を原作としており、当時流行っていたヨーロッパ産のアート系エロティック映画として、1972年に日本でも成人映画(洋画ポルノ扱い?)として劇場公開されています。1990年頃には「マルキ・ド・サドのアブノーマル・ハウス」というタイトルで、日本でもビデオリリースされているようです。近年、本作のアート性が再評価(?)されて、アメリカのインディーズの会社から「Beyond Love and Evil」のタイトルでDVDがリリースされています。

サドの原作は、若い娘が放蕩の限りを尽くした悪徳な者たちの手さばきより、反社会的思想を我が物にする物語でありますが、本作はサド的不道徳感をインスピレーションとしたオリジナルストーリー・・・この映画が制作された1960年代には”ありがち”だった「主人公が不思議な館に迷い込んで奇妙な体験をする物語」なっています。


美青年ゼノフ(ルカ・デ・シャバネックス)は彼の真実の愛・クセニア(スシュカ)を追って、厳重にガードされた不思議な屋敷に忍び込みます。ここはイールド(フレッド・セント・ジェームス)という男が独裁的に仕切っている世の中の道徳とは無縁の欲望の館・・・サイケデリックな化粧と衣装に身を包んだ人々が乱痴気パーティーの真っ最中で、レズビアンセックス、様々な人種や年齢を交えての乱交、鞭打ちや焼き印などのSMプレイ、生きている魚やタコを使ったマスターベーションと、ゲストたちは欲望のおもむくままに様々な行為に没頭しているのです。


実は、この集まりの目的はイールドとクセニアの結婚式・・・新郎新婦としての初夜の後、新婦はゲストの誰でも交わるというのが”ルール”のようであります。クセニアを取り戻したいゼノフは、毛むくじゃらの野人に女性を犯させるという余興(!?)をゲストたちが楽しんでいる隙に、クセニアを館の外に連れ出すことに成功するのです。森の中で激しく愛を確かめ合った後、何故かクセニアはゼノフを再び屋敷に誘導・・・ゼノフの思いを裏切ってイールドとの結婚式の儀式を行ってしまいます。


目覚めたゼノフにイールドがクセニアとの特別に深い絆を説き、あるゲームを提案するのです。仮面と衣装に身を包んだ女性たちの中からクセニアを見つけた方が勝ちというもので、ゼノフが勝ったのならばクセニアと共に屋敷から立ち去れるが、もしゼノフが負けたならばゼノフは屋敷に留まらなければならないというもの・・・しかし、あっさりゼノフは勝負に敗れてしまい、イールドの家来として屋敷に閉じ込められることになってしまいます。


イールドの性の欲望の矛先は、当然のことながら(!)ゼノフにも伸びてきて・・・耐えきれなくなったゼノフは、イールドをナイフで刺し殺して発狂してしまうのです。イールドの亡き後、館の女主人として振る舞うようになったクセニアは、以前にも増して反社会的で不道徳かつ残酷なプレイに興じるようになります。クセニアの性のペットになったゼノフですが、まだクセニアへの”愛”を捨てきれていません。それを知ったクセニアは、ゼノフを館の敷地の外に突き放して、彼が存在したことも消し去ると宣言して立ち去ります。館でしか味わえない欲望の虜になってしまったゼノフにとって、それは最も厳しい懲罰だったのです。


複眼レンズを多用した麻薬的な映像、繰り返しながれるアシッドロックの音楽、当時の最先端トレンドを先取りしたような衣装やメイクアップ・・・既成概念を打ち破った怪しいテーマで、ジャック・スカンドラリ監督はアレハンドロ・ホドロフスキー、フェルナンド・アラーバル、ワレリアン・ボロズウィックなどのカルト映画作家と肩を並べたといっても過言ではありません。しかし、その後の迷走によって映画監督としては映画史から忘られたような存在となってしまうのです。

1970年に制作された「Macédoine(マケドニア)」は、ミシェル・メルシェ主演(「アンジェリーク」シリーズの主演女優)のスパイもののコメディ映画のようです。当時そこそこスターだったキャストを集めていることから「淫蕩の沼」の(そこそこの?)評価を受けての第2作目だったと考えるのが自然のような気がします。ただ、ミシェル・メルシェをはじめ出演者たちのフィルモグラフィーには記載されることが稀な作品であることから・・・「マケドニア」は興行的にも評価的にも失敗した作品だったのかもしれません。


1974年に「Hiver de Paris/パリの冬(原題)」という短編ドキュメンタリーをつくった後・・・1977年に、ジャック・スカンドラリ監督はマーヴィン・マーキンズ( Marvin Merkins)と別名で「薔薇の懺悔/Homologues ou La soif du mâle」という”ゲイポルノ映画”を監督します。当時、フランスではゲイ向けのポルノ映画が盛んに製作されるようになっており、パリの小さな映画館(おそらくハッテン場として機能していた?)で上映されていたそうです。

驚くべきことに「薔薇の懺悔」は、1986年に日本でも劇場公開されています。ニューセレクトという洋画ポルノ専門会社の配給だったことからポルノ映画館での上映だったと思われます。ただ、本作は女優が一切出演しないゲイポルノ・・・1982年頃から”薔薇族映画”と銘打って専用の成人映画館で日本製のゲイ・アダルト映画が上映されるようになっていましたから、ゲイ向けの劇場での上映だったのでしょうか?

この作品は、製作されたフランスでさえ一度もソフト化はされていないのですが、何故か日本では1995年頃にビデオリリースされています。ただ、監督名、役者の名前さえパッケージに一切掲載されておらず、ある種「ゲテモノポルノ」(?)としてアダルトコーナーに並べられていたらしいのですが・・・。


お世辞にも”イケメン”とは言えない若ハゲの主人公ジェラルド(ジェラルド・ボノム)は、新聞広告のSMプレイ募集のあったアパートの一室へ赴きます。すると、そこには縛られたまま亡くなった男性の死体が残されていまるのです。異様な興奮を覚えてしまったジェラルドは、その場で自慰行為に耽り・・・すっかりSMプレイに魅せられてしまいます。


仕事場のレストランのキッチンでは同僚の男性のアナルに野菜を挿入したり、ゲームセンターで知り合った男をいたぶったり、ナイトクラブの楽屋で口淫奉仕させたり、ジェラルドはますますSMプレーにハマっていくのです。そんな時、ディスコで知り合ったのが黒い巻き髪の青年(ジーノ)と出会い、二人は付き合い始めます。ゲイの友人らが集まるプールのハッテン場に出向いたりして、皆で仲良く乱交に励むといった、ほのぼの(?)とした関係を築いていくのです。


しかし、フリーセックスを楽しむのが当時流行りのゲイのライフスタイル・・・ジェラルドは恋愛に縛られない自由なライフスタイルを求めて、黒い巻き髪の青年との別れを決心します。新聞広告で以前死体と遭遇したSMプレイの募集を見つけると、ジェラルドは再びアパートの部屋を訪ねるのです。そこには次の犠牲者を待ち構えるかのように、イーグルの刺青を尻にした男たちがいて、ジェラルドに襲いかかってきます。何とか部屋から脱出して逃げ切ったジェラルドを車で待っていたのは、黒い巻き髪の青年・・・ジェラルドはSMプレーの闇を知り・・・”モトサヤ”に納まって「めでたし」となるのです。

オープニングとエンディングには、バタイユとマルキ・ド・サドの一節を引用して、深いテーマを掲げているようではありますが、本作は基本的にハードコアのゲイポルノ映画・・・物語の流れを遮るかのようにセックスシーンが挿入されているので、映画としては何ともテンポが悪いのです。また日本の検閲問題として、必要以上に大きな”ぼかし”が入っていたり、猥褻な箇所を避けるために画面の一部だけをクローズアップにしたり、結合部分はコマ送りの映像を繰り返したりと・・・「性器を映さない」「結合部分を見せない」ための特殊効果(?)によって、なかなかシュールな映像となっています。

薔薇=同性愛というイメージは、ゲイ雑誌「薔薇族」に由来する日本特有の感覚ですが「薔薇の懺悔」という邦題は「同性愛に対しての罪悪感」を印象づけるタイトルであります。ただ、映画の中で主人公のジェラルドが懺悔することはないし、宗教的な罪悪感を表現しているわけでもなく、内容とは関係のないように思えますが、なんとも意味ありげで”良いタイトル”かもしれません。

本作が製作された当時・・・1970年初頭のアメリカでのハードコアポルノ解禁を受けて、欧米では第一次ポルノブームでした。革新的な表現手段として、ハードコアポルノ(ゲイだけでなくストレートも)は、”ポルノチック”と呼ばれてクリエティブでおしゃれでだったのです。そんな時流の中でハードコアのゲイポルノ映画というラジカルな方向性をジャック・スカンドラリは、映画監督として見出したということだったのでしょうか?

1977年前後にジャック・スカンドラリ監督は住まいをニューヨークに移したようです。1978年には寡作のジャック・スカンドラリ監督には珍しく、1年間に4本作品を発表するのですが、もしかすると「Brigade Mondaine」が撮影されたのは前年だったかもしれません・・・というのも「Brigade Mondaine」はフランスで、他3作「過去を着た女 真夜中のニューヨーク」「ニューヨークシティ・インフェルノ」「Un couple moderne」はニューヨークで撮影されているからです。

「ブリジット・モンディーン/Brigade Mondaine(原題)」(英語タイトル「Victims of Vice」)は、ヨーロッッパで出版されたパルプ・フィクション小説シリーズの映画化のようで麻薬と売春の犯罪捜査班がSMクラブに侵入するお話・・・当然のことながら”売り”はヌードとセックスシーンのようであります。原作がフランス語でしか出版されていないようだし、出演している俳優も有名でないし、映画版もヨーロッパ数国でしか公開されていないようなので、本作は殆ど知られることなく世界中で一度もメディア化はされていません。


「ニューヨークシティ・インフェルノ」は、完全なハードコアのゲイポルノ映画・・・1980年代中頃までニューヨークのミッドタウンにはゲイポルノを専門で上映する”ハッテン映画館”があり、週替わりで上映されていたのですが、本作はクラシック・ゲイポルノとして結構知られた作品です。長年、視聴することが難しい幻(?)の一作とされていたのですが、数年前ゲイポルノ老舗配給会社のBIJOU VIDEOから「From Paris to New York」というタイトルで、DVDがリリースされています。


ジュローム(アラン=ガイ・ジェラドン)は、ニューヨークに旅行で訪ねたっきりフランスに帰国しない恋人ポール(ボブ・ベイカー)を探しに、パリからニューヨークへやってきます。1970年代後半のニューヨークはゲイのメッカとしてフリーセックス天国と化していており、あらゆる場所でクルージングしまくりのセックスしまくり・・・ジェロームも恋人のポールを探しながら、乗り合わせたタクシー運転手、壊れかけた埠頭のハッテン場で出会った男たち、精子で占うという怪しい占い師、ゲイクラブのトイレで順々に何人もの男らとやりまくっていくのです。


ジェロームが多くの男たちとやりまくってリサーチした結果に辿り着いたのは、とあるゲイSMクラブ・・・そこで、四つん這いになってマスターに奉仕する恋人ポールの姿を発見します。彼を再び取り戻すには、ポールのマスターのマスターになるしかないと助言を受けたジェロームは、自慢の巨根(?)でポールのマスターを犯しまくり、見事に恋人ポールを取り戻すのです。そして、二人してフランスへ無地に帰国して、めでたしめでたしとなります。


レザー系のゲイバーとして有名だったザ・スパイク(The Spike)や、ウエストサイドハイウェイ脇にあった廃墟と化していた埠頭のハッテン場などでロケーションしていることから、本作はAIDSエピデミック以前のニューヨークゲイシーンの貴重な記録にもなっています。また「Y.M.C.A.」でブレイクする直前のヴィレッジ・ピープル(Villege People)の楽曲が全編に渡って使用されており、当時の雰囲気はたっぷり感じ取ることができるのです。


「過去を着た女 真夜中のニューヨーク/Monique and New York After Midnight 」は、ジャック・スカンドラリ監督の最後の長編劇映画となります。当時のニューヨークはシングルズバーやゲイカルチャー全盛期の時代・・・そんなニューヨークに暮らすフラン人女性のサイコスリラー(?)なのです。なお本作は事実を元にした物語ということになっています。

35歳で独身のモニーク(フローレンス・ジオゲッティ)は、アート系出版社の編集者として働きながら、裕福な父親のおかげで悠々自適にニューヨークで生活しています。独り身の淋しさも感じていていますが、いまひとつ男性に対して奥手・・・実はモニークが幼い時、母親は父親との口論の末に誤って拳銃の暴発で亡くなっていて、現場検証の時に焚かれたカメラのフラッシュが現在もトラウマになっているのです。


ある日、モニークの職場に画家のリチャード(ジョン・フェリス)が現れます。女性を尊重するフェミニストなリチャードにモニークは関心を寄せます。またリチャードもモニークに積極的に接近・・・モニークはトラウマと戦いながらもリチャードを受け入れて、二人は結婚に至るのです。

モニークは子供を産んで家庭を築きたいと願うようになりますが、子作りには興味のないリチャードとは徐々に心がすれ違ってきます。気色悪いのはリチャードが画家として描いている絵のテーマが「赤ん坊」ばかりというところ・・・既にリチャードはモニークに赤ちゃんを提示しているってことなのでしょうか?

ある日、ニューヨーク市内で偶然リチャードを見かけたモニークは、彼を追ってハドソン川沿いの埠頭エリアに迷い込んでしまうのです。「ニューヨークシティ・インフェルノ」で描かれたいように・・・当時、埠頭エリアというのはゲイの”ハッテン場”で高架下や廃屋でやりまくっていたものであります。案の定・・・モニークは暗闇で蠢く男たちの中にリチャードを発見してしまうのです。


精神的に追い込まれたモニークが以前通っていたシングルズバーに立ち寄ったところ、リチャードのアーティスト仲間のダンと遭遇・・・誘われるままに彼のアトリエ兼自宅へ行ってしまいます。そこでモニークはリチャードはダンから赤ん坊をモチーフにしたアートのアイディアをパクったこと、そして、かつて二人はゲイの恋人同士であったことを知らされます。パニックを起こしたモニークはキッチンにあったナイフでダンを刺し殺し・・・さらに、ゲイクラブや路上で声をかけてきたゲイの男たちを、モニークは次々と刺し殺してしまうのです。

帰宅したモニークを自宅で待っていたのは、何食わぬ顔のリチャードと彼の友人と名乗る若い青年ロバート・・・疲れきったモニークは二階の寝室で眠りにつきます。しばらくして目を覚ましたモニークは、リチャードとロバートの痴話喧嘩を盗み聞きしてしまうのです。リチャードが怒って家を出た後、モニークはロバートにナイフを振りかざしますが、ロバートはなんとか逃げます。その後、リチャードはロバートに、モニークのことを本当に愛していると伝えるのです。


モニークの精神科医はリチャードとモニークの父親に、モニークが危険な精神状態であることを伝えます。そして、モニークのトラウマの正体が、父親の証言から明らかになっていきます。モニークの母親は射殺されたのではなく、病弱で病院のベットに亡くなっていたのです。言い争っていたのは”父親”と”愛人の女性”・・・幼いモニークは「母親の死」と「父と愛人との諍い」を混同していたようなのであります。自宅に戻ってきたリチャードは必死にモニークへの愛を伝えますが、モニークは「嘘つき!」と一喝・・・ナイフでリチャードを刺し殺してしまうのです。

ジャック・スカンドラリ監督自身、ニューヨークに暮らすフランス人であることを考えると、モニークは彼を投影していると言えるのかもしれません。また当時のニューヨークをゲイとして経験したことも、大きく影響しているようにも思えます。ストレート女性の視点でも、ゲイ/バイセクシャル男性の視点でも、ストレート男性の視点でも、本作は後味の悪い物語であることは確かです。

「過去を着た女 真夜中のニューヨーク」の後、フランスでゲイポルノを1本、短編ドキュメンタリーを1本、短編(4分)を1本を監督して、その後ジャック・スカンドラリ監督は映画製作はしていません1996年、テレビシーズのドキュメンタリーの演出をした後、1999年に56歳という若さでジャック・スカンドラリ監督は亡くなります。どうのような晩年を送っていたのかは分かりません。

25歳のデビュー作で注目されながら・・・ハードコアポルノ映画の誕生や、ニューヨークではAIDS以前のフリーセックス”時代”に翻弄された(?)ジャック・スカンドラリ監督は、映画監督としての名声をそれほど得ることもなく、カルトな映画監督として後年になって語られることもなく、今では忘れ去られてしまっています。しかし、考えようによっては・・・映画監督としてではなく、1970年代という”時代”を正直に生きたと言えるのかもしれません。

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ジャック・スカンドラリ(Jacques Scandelari)監督フィルモグラフィー

1966「モデル・インターナショナル(原題)/Models International」短編ドキュメンタリー
1969「淫蕩の沼 マルキ・ド・サドのアブノーマル・ハウス/La Philosophie dans le Boudoir」
1970Macédoine
1974「Hiver de Paris」短編ドキュメンタリー
1977「薔薇の懺悔/Homologues ou La soif du mâle」ゲイポルノマーヴィン・マーキンズ)
1978「Brigade Mondaine」
1978「ニューヨークシティ・インフェルノ/New York City Inferno」ゲイポルノマーヴィン・マーキンズ)
1978Un couple moderne」ゲイポルノ(マーヴィン・マーキンズ)
1978「過去を着た女 真夜中のニューヨーク/Monique and New York After Midnight
1979「I.N.R.I」短編ドキュメンタリー
1984「I Love Man」短編
1996Un siècle d'écrivains / Henri Troyat de l'Académie française 」テレビドキュメンタリーシリーズ

「淫蕩の沼 マルキ・ド・サドのアブノーマル・ハウス」
原題/La Philosophie dans le Boudoir a.k.a. Beyond Love and Evil
1969年/フランス、イタリア
監督 : ジャック・スカンドラリ
出演 : スシュカ、ルカ・デ・シャバネックス、フレッド・セント・ジェームス
1972年10月31日日本劇場公開、ビデオ発売

「薔薇の懺悔」
原題/Homologues ou La soif du mâle a.k.a. Man's Country
1977年/フランス
監督 : マーヴィン・マーキンズ(ジャック・スカンドラリ)
出演 : ジェラルド・ボノム、ジーノ、ジョニー、ルド、ジャン=ピエール
1986年10月25日日本劇場公開、ビデオ発売

「ニューヨークシティ・インフェルノ」
原題/New York City Inferno a.k.a From Paris to New York
1978年/フランス
監督 : マーヴィン・マーキンズ(ジャック・スカンドラリ)
脚本 : ジャック・スカンドラリ
出演 : アラン=ガイ・ジェラドン、ボブ・ベイカー、ジョン.ヒューストン、ビル・グローブ
日本未公開

「過去を着た女 真夜中のニューヨーク」
原題/Monique and New York After Midnight a.k.a. Flashing Lights 
1978年/フランス、アメリカ
監督 : ジャック・スカンドラリ
出演 : フローレンス・ジオゲッティ、ジョン・フェリス、バリー・ウロスキー
日本劇場未公開、ビデオ発売



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2016/10/27

「ル・ポールのドラァグ・レース」のビアンカ・デル・リオ(Bianca Del Rio)ことロイ・ヘイロック主演作・・・女装コメディ映画の王道!?~「ハリケーン・ビアンカ/Hurricane Bianca」~


男性が女性の格好をする=女装して笑わせるというのは、映画の黎明期からあります。イロモノとして侮辱的な笑いを取る”女装”が多いものの・・・「トッチー」や「ミセス・ダウト」などは感動的な要素も盛り込み、女装コメディ映画の商業性を証明しました。

「ル・ポールのドラァグ・レース」については、以前詳しく書いたことがあるのですが(めのおかしブログ参照)・・・執筆した当時は、殆ど閲覧されることもありませんでした。アメリカ版”2ちゃんねる”の「Readit」では日本で唯一の”ドラァグ・レース・ファン”と書き込まれたことがあったほどでしたが、今年の4月から日本語字幕つきで”Netflix”での配信されるようになり、現在では週間の閲覧数の上位に入るほどです。

現在、日本の”Netflix”では、シーズン2からシーズン7(アメリカではシーズン8まで放映済み)まで配信されています。出演者の多くは番組終了後、世界各国をツアーで廻ったり、アーティストとしてデビューしてCDや本を発売したり、自分のテレビ番組を持ったりと、当番組は女装スターへの登竜門となっています。

番組出身のドラァグ・クィーンの中でも、シーズン6の優勝者であるビアンカ・デル・リオ(Bianca Del Rio)ことロイ・ヘイロックは、ブロードウェイのコスチューム工房で縫子として働くかたわら、コメディアンとしても活動しています。タレント性は群を抜いており、歴代の優勝者の中でも”ベストワン”との呼び名が高いのです。最近ではスターバックスのCMにも、ドラァグ・クィーンとして初めて(!?)起用されました。


「ハリケーン・ビアンカ/Hurricane Bianca」は、ロイ・ヘイロックがビアンカ・デル・リオ(Bianca Del Rio)に扮する女装コメディ映画。実は「ル・ポールのドラァグ・レース」出演以前から「ハリケーン・ビアンカ」のインディーズ制作の企画はあったらしく・・・クラウドファンドで資金を募っていたのです。番組出演後、注目を浴びて、十分な資金を集めることができたことにより、映画製作にこぎつけたわけであります。

ニューヨークで高校の非常勤講師として働くリチャード(ロイ・ヘイロック)は、テキサス州の小さな街へ仕事を求めて引っ越すのですが、インターネットの出会い系サイトの登録からゲイであることが明らかになってしまい、いきなり解雇されてしまいます。

同性婚を認める州もあることから、リベラルだと思われがちなアメリカですが、州単位で考えると、まだまだ保守的・・・現在でも29の州では、ホモセクシャルであることを理由に教師が解雇すること法律では禁じていないという驚くべき実情があるのです。


解雇されたリチャードは仲良しになった女友達のカーマ(ビアンカ・リー)に肩を押されて、女装してビアンカ・デル=リオを名乗り、教師の職を取り戻すために高校へ乗り込みます。男性として失敗して、女装して再チャレンジという流れは「トッチー」や「ミセス・ダウト」と似ているかもしれません。

リチャードの女友達となるカーマは、トランスジェンダー(性転換)という設定・・・この役を演じるビアンカ・リー自身がリアルにトランスジェンダーであり、長年”女優”として活躍していて、アメリカの演劇界では注目されている方です。


男性の姿で生活していた(ゲイではありますが)リチャードが、女性に変身するのですから、それなりの試行錯誤を見せると面白いと思うのですが・・・本作では殆ど描かません。あくまでも、ビアンカ・デル・リオの炸裂するジョークが、本作の”みどころ”なのです。

ビアンカ・デル・リオのメイクから明らかなように・・・リアルな女性を目指している女装ではありません。そもそも、ビアンカはコメディアンとして生み出されたという経緯もあり、アイメイクは極端にデォフォルメされています。


辛辣なジョークで切り返す(リーディング、または、シェイド)のは、アメリカのドラァグ・クィーンの伝統であり・・・ビアンカ・デル・リオのドライなユーモアと、相手の弱みにツッコミを入れるウィットは、完成度が非常に高いといえるのです。ただ、ボク個人のテイストには、あまりにも既成の”ビッチ・クィーン”(辛口の女装パフォーマー)のステレオタイプにハマり過ぎていて、少々古臭さも感じてしまうところもあります。近年のドラァグ・クィーンの傾向としては、アグレッシブでビッチな”ツッコミ”よりも、天然系のほんわかした”ボケ”の方が、好感度が高いってこともあったりしますので・・・。

トランスジェンダーのカーマが両親や弟と理解し合う、リチャードがゲイであるとカミングアウトして女装なしでもコミュニティーに受け入れられる・・・という”オチ”は、確かに、政治的にも、倫理的にも、正しい”落としどころ”ではあるのですが、映画としては全くサプライズがありません。


また、インディーズ映画ということもあってか、脇を固める役者たちの魅力がイマイチ。色男も、嫌な女も、セクシーな女も、中途半端なのであります。カメオ出演のル・ポール、アラン・カミング、マーガレット・チョーも十分に活かされているとはいえず・・・「ル・ポールのドラァグ・レース」出身の仲間たち(ウィラム・ベリ、D.J. ”シャングラ”・ピアース、アリッサ・エドワーズ、ジョスリン・フォックス)らの演技は、学芸会に毛の生えたレベルです。


女装コメディ映画の王道をなぞりながら・・・コレといって新鮮な切り口のない、無難な作品としてまとまってしまったのは、残念なことではあります。それでも、既に続編「ハリケーン・ビアンカ 2 ロシアより憎しみをこめて(原題)/Hurricane Bianca 2 : From Russia with Hate」の製作が発表されているそうですから、遅ればせながら(?)アメリカ映画界は、ドラァグ・クィーン(オネエ)の面白さに、やっと目覚めたのかもしれません。


「ハリケーン・ビアンカ(原題)」
原題/Hurricane Bianca
2016年/アメリカ
監督 : マット・クーゲルマン
出演 : ロイ・ヘイロック(ビアンカ・デル・リオ)、レイチェル・ドラッチ、ビアンカ・リー、ローラ・ボサ、デントン・ブラム・エヴァレット、モリー・ライマン、テッド・ファーガソン、アラン・カミング、マーガレット・チョー、ル・ポール、ウィラム・ベリ、D.J. ”シャングラ”・ピアース、アリッサ・エドワーズ、ジョスリン・フォックス
日本劇場未公開
2017年1月1日より「Netflx 」にて配信



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2016/10/15

ニコラス・ウィンディング・レフン監督が”モデルフェチ”と”ナルシスト”っぷりを発揮した最新作・・・「ブラックスワン」+「ネクロマンティック」な”カルト映画”確定!?~「ネオン・デーモン/The Neon Demon」~


”モデルフェチ”の男性というのは・・・女性の美しさを崇拝する美意識の高い”フェミニスト”でありながら、同時に非人間的な美女を自分のまわりに侍らしたいという”ナルシスト”でもあるのかもしれません。ニコラス・ウィンディング・レフン監督の最新作「ネオン・デーモン/The Neon Demonは・・・監督の”モデルフェッチナルシストっぷりを惜しげなく発揮したような作品であります。

16歳で孤児のジェシー(エル・ファニング)は、ジョージア州からファッションモデルを目指してロサンジェルスに引っ越してきたばかり・・・ハンク(キアヌ・リーブス)が管理人を務める町外れのモーテルに寝泊まりしながら、モデル活動を始めています。ネットで知り合ったアマチュアカメラマンのディーン(カール・グルスマン)に、ポートフォリオ用の写真を撮影をしてもらっているのですが、何故か、ジェシーは血だらけのメイクをして死んだフリをしています。

本作は”ファッションモデルの世界”を舞台にしているのですが・・・あくまでも「美」についての映画をつくるための舞台としての”ファッションモデルの世界”と、捉えた方が良いかもしれません。まず、本気でファッションモデルを目指すなら、アメリカだったらニューヨークです。ロサンジェルスにも”モデルもどき”の美女が集まってきますが、彼女達が目指すのはエンターテイメント界のセレブやスターと接点を持つため(あわよくば愛人?)・・・ファッション界とは別の世界です。また、ファッションモデルのポートフォリオで、ホラーテイストというのは考えられません。ただ、物語の伏線として”血だらけ”というのには、大きな意味があるのですが・・・。

撮影後、メイクアップを担当したルビー(ジョナ・マローン)に誘われて、奇妙なパフォーマンスが行なわれているナイトクラブに行って、モデルのジジ(アビー・リー)とサラ(ベラ・ヒースコート)を紹介されます。二人とも”モデル”を絵に描いたようなスレンダーな美女ですが、整形手術や極端なダイエットで手に入れた”人工的”な美の典型です。さっそくジェシーは先輩モデルであるジジとサラからの洗礼を受けることになります。女性が買いたがる口紅の色のネーミングは「フード(食べ物)」か「セックス」のどちらかであるという話題になり、まだ処女のジェシーは「フード」・・・それも「デザート」だと、からかわれるです。(これも伏線!)

ニコラス・ウィンディング・レフン監督は美しい女性が、嫉妬で火花を散らすのが”お好き”なようです。確かに、モデル業界というのは競争が激しい世界です。外見だけで判断されることをオーディションで繰り返し経験するモデルは、役者やダンサーと違い本人の努力できる余地は僅かしかなく、雇い主(デザイナーやスポンサー)の好み次第の”受け身”の存在・・・体格的な適正、流行りのルックス、そして、運がすべてを左右する世界なので、嫉妬が生まれやすい環境と言えるかもしれません。

モデルエージェントはジェシーに”何か”に魅力を感じて、トップカメラマンのジャック(デズモンド・ハリントン)との撮影をセットアップするのですが、ジャックもすぐさまジェシーの”何か”に魅せられます。ファッションショーのオーディションでも、ジェシーはデザイナーの目に留まりフィナーレの大役まで任されるのです。当然のことながら、ジジやサラの嫉妬の対象となります。しかし、ジェシー自身も自分の美しさと特別な”何か”に気付き・・・(「2001年宇宙の旅」のような幻想的なファッションショーで)”ナルシスト”として覚醒するのです。


本作はストーリーテリングに長けた作品ではありません。伏線となる台詞やイメージが散りばめられていますが、丁寧に説明されるわけではありません。また、シンボリックなイメージや感情を表現するカラーパレット(自己覚醒はブルーからレッド)に溢れていますが、具体的に何が起こっているかは殆ど画面では見せません。そのため、本作は観る人を選ぶ作品といえます。ニコラス・ウィンディング・レフン監督作品では「ブロンソン」や「ドライヴ」が物語性がある方だとすると・・・本作は「ヴァルハラ・ライジング」」「オンリー・ゴット」に近く、監督のフィルモグラフィーの中でも最も実験的な映画ではないでしょうか・・・。

ここからエンディングのネタバレを含みます。観賞後に読み進めることを強くお奨めします。


ジェシーの滞在しているモーテルでは、トンデモナイ出来事が起こります。ジェシーが覚醒する”予兆”を表しているのでしょうか・・・ある夜、ジェシーの滞在している部屋にワイルドキャットが侵入します。また、キアヌ・リーブス演じる管理人が普通の人であるわけもなく・・・(映像では描かれませんが)実は、この管理人はロリータ趣味の殺人鬼(?)なのです。その犯行が行なわれた時の恐ろしげな音を聞いて、ジェシーはルビーがハウス・シティングしている屋敷に身を寄せるのですから。

ジェシーに親切にしてくれるルビーにしても・・・実は”レズビアン”で、ジェシーのカラダを狙っているのです。死体にメイクをする死化粧師としても働いて、ジェシーへの欲求を押さえきれなくなると、女性の死体と性行為を始めるのですから、相当イカれてます。その後、ジェシー誘惑して冷たく拒絶されたことをきっかけに、ジジとサラと共謀して・・・あっさりジェシーを殺害してしまうのです!そして(映像では描かれないのですがぁ〜)殺害後、3人はジェシーの肉体を食べてしまいます。まさに、ジェシーは「フード」(それもデザート!)だったのです。

その後、ジジとサラはプールサイドでのジャックの撮影に参加するのですが、罪悪感に襲われているジジは、突然具合が悪くなり、ジェシーの目玉を吐き出してしまいます。そして、ジェシーが自分の体から出ないと訴えながら、自らのお腹をハサミで突いて絶命してしまうのです。床に転がったジェシーの目玉をつまんで、ぺろっと食べてしまうサラ・・・荒れた荒野にひとり佇ずむジサラの後ろ姿で、本作は終わります。Siaによる「Waving Goodbye」の歌詞が、サラの心境を謳っているようにも思えます。


正直言って・・・物語の結末としては宙ぶらりんの印象です。ロリータ殺人鬼のハンク、おそらくジェシーに恋していたディーン、月に向かって何かしらの儀式をして月経の血を流していたルビー、撮影中だったカメラマンのジャック・・・登場人物の殆どがほっとらかし。”美”については「ブラックスワン」のようであり、”死”については「ネオロマンティック」のようであり、圧倒的な映像美とアンビアントな音楽に禍々しい”何か”を感じるものの、その”何か”を確かめるために何度も何度も見返したくなる映画なのです。

ニコラス・ウィンディング・レフン監督(自らを”未来人”だと言い張る)によると・・・未来の映画作家は何を物語るかではなく、何を訴えるということが大事だそう。そして、映画は「善し悪し」ではなく(善し悪しなんて昨晩の夕食がどうだった程度のことらしい)・・・どう反応(reaction)するかであり、それが経験(experience)の要素(essence)になり、考え(thoughts)が生まれると言うのです。う~ん・・・斬新な発想にも思えますが”、当たり前”のことのようにも思えます。

究極のフェチは、自らがフェチの対象にもなってしまうことかもしれません。本作は、コラス・ウィンディング・レフン監督自身が内包しているという「16歳の美しい女性」となって、表現した「美」と「美に囚われた人々」の映画だそうです。ネオン・デーモンの正体は”エル・ファニング”・・・すなわち、コラス・ウィンディング・レフン監督自身なのかもしれません。”ナルシスト”が”ナルシシズム”について”ナルシシスティック”に描いた正真正銘の「ナルシスト映画」として、ボクは猛烈に「ネオン・デーモン」に惹かれてしまうのです。


「ネオン・デーモン」
原題/The Neon Demon
2016年/アメリカ、フランス、デンマーク
監督 : ニコラス・ウィンディング・レフン
出演 : エル・ファニング、キアヌ・リーブス、カール・グルスマン、ジョナ・マローン、アビー・リー、ベラ・ヒースコート、デズモンド・ハリントン
2016年10月27日第29回東京国際映画祭にて上映
2017年1月13日より日本劇場公開


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2016/09/22

ミステリー仕立てのB級メロドラマで”ドラマ・クィーン”の本領発揮!・・・ジョーン・クロフォードの迷走と貫禄の円熟期の”おキャンプ映画”~「フィーメール・オン・ザ・ビーチ(原題)/Female on the Beach」


ハリウッド映画界で主演し続けるというのは、容易いことではありません。殆どの俳優は全盛期を過ぎると脇役にまわったり、テレビに活躍の場に移っていくことが多かったりします。

現在でも、男優は50代、60代にもなっても、20代、30代の女優が相手役になって主役(リーディング・マン)を演じることがありますが、女優の場合、年齢を重ねると主演作品というのは激減していくいくものです。

1930年代から1980年代まで活動していたキャサリーン・ヘップバーンやベティ・デイヴィスは、各年代に渡って主演作品はありますが、全盛期を過ぎてからの出演作は激減します。近年で、いくつもの年代に渡って、継続的に主演作品がある女優って、メリル・ストリープぐらいでしょうか・・・。

ジョーン・クロフォードは、サイレント映画時代全盛期の1920年代半ばからアメリカンニューシネマの生まれる1960年代末期まで、5つの年代に渡ってハリウッドで作品が途切れるこのない”主演女優=スター女優”であります。それも、各年代ごと、自分自身の人生を反映させるて、生まれかわるかのようにイメージの再生を繰り返しているのです。

映画会社の専属スター女優として活動してきたジョーン・クロフォードも、スタジオシステムが崩壊した1950年代になると、企画ごとに制作会社を移り渡るようになっています。スター女優としての集客力が失われていく中、あくまでも主演にこだわり、監督や共演者までにも口を出すジョーン・クロフォードの活動できる場は、一流の監督、スタッフ、共演者の作品ではなく、必然的にB級作品になっていくのです。

ジョーン・クロフォードという女優にとって、1950年代は低迷期とも迷走期ともいえる年代ではありますが・・・””貫禄”の円熟期であったとも思えるのです。演技派女優としても目覚めた(?)1940年代は、社会の逆行に立ち向かっていく女性を演じることが多かったジョーン・クロフォードですが、1950年代になると、社会的に地位のある強い女性を演じるようになります。


1955年に公開された「フィーメール・オン・ザ・ビーチ/Female on the Beach(原題)」は、フィルム・ノアール的な陰影を強い画面や構図が、いかにもミステリー風のB級メロドラマ映画です。直訳すれば「浜辺の女」とでもいう邦題になのですが、女を一般的な「Woman」ではなく生物学的な「Female」としたところが本作の”ミソ”であります。


相手役を演じるジェフ・チャンドラー(当時はセクシー男優として人気)はジョーン・クロフォードの指定によるものだったそうですが(クラーク・ゲーブルの二番煎じのそっくりさん?)・・・ワンランク下の男優であることは否めません。


映画の冒頭、あるオールドミスの女性(ジュディス・エヴィリン)が、ビーチハウスのバルコニーから転落して亡くなります。その翌日、このビーチハウスを所有していた男性の未亡人のリン(ジョーン・クロフォード)が、この家を売却するために訪れるのです。


転落事故なのか、自殺なのか、殺人事件なのかは分からないまま物語は進行していくのですが、ビーチハウスを管理してきた不動産屋の女性・エイミー(ジャン・スターリング)は、転落死のことはリンには話をしません。しかし、バルコニーの手すりは壊れたままだし、刑事(チャールス・ドゥレイク)が捜査をしていているので、すぐにリンの知るところとなります。


このビーチハウスの隣には、オズグッド(セシル・キャラウェイ)とクィニー(ナタリー・シェイファー)というソレンソン夫妻と、彼らの甥っ子と名乗るドラモンド(ジェフ・チャンドラー)が住んでいます。


ドラモンドは、勝手に自分のボートをリンのビーチハウスのドックに置いていたり、家に勝手に出入りしたりしていたようなのです。自信過剰なジゴロ体質のドラモンドを、当初は嫌悪するリンだったのですが、彼の性的魅力に徐々に心を開いていってしまいます。


熟女が年下男との恋に落ちるという話は、この頃(1950年代~60年代)に流行っていた(?)ようで、結構ありがちではあります。全編に繰り返し流れる音楽は、1951年の映画版「欲望という名の電車」の音楽とそっくり・・・ただし、ブランチのような繊細な精神を持ち合わせた女性とは違って、リンは酸いも甘いも知っているタフな女なのですが・・・。それでも、独り身の淋しさをシミジミと感じるリンの心の弱みにつけこむように、誘惑してくるドラモンド・・・次第にリンもドラモンドを受け入れていきます。


実は、不動産屋のエイミーとドラモンドは、過去に肉体関係をもったことがあったようで・・・エイミーはドラモンドのことを愛しているようなのです。しかし、ドラモンドは女性という存在を根っから信用しておらず、エイミーを冷たく突き放します。


ドラモンドにすっかり心を奪われ始めたリンは、ソレンソン夫妻からの夕食とポーカーの誘いにもひとつ返事で応じます。ただ、その直後、偶然に暖炉のレンガの壁に隠されていたオールド・ミスの日記を発見してしまいます。


そこには、彼女がドラモンドに恋に堕ちていくと同時に、ソレンソン夫妻との賭けポーカーで大金を巻き上げられたり、繰り返し借金に応じていたこと・・・そして、ビーチハウスの賃貸契約が終わりが近づくと、ドラモンドから冷たくあしらわれるようになり、自暴自棄になっていく経緯が書かれていたのです。


ドラモンドとソレンソン夫妻の正体を知りつつも、まったく動じる様子がないのは、いかにもジョーン・クロフォードらしい強気な女性像であります。実は、リンはラスベガスの元ダンサーで、元夫はカジノを経営をしていたプロのギャンブラー・・・ソレンソン夫妻のいかさまポーカーの手口ぐらいは、とっくにお見通しだったのです。


自分に近づいたのは金だけが目的だと問い詰めるリンを、ドラモンドは強引に抱きしめ・・・二人は肉体関係をもってしまいます。1950年代の映画なので、性行為の直接的な表現はありませんが、いかにも当時らしい「女は無理矢理にでも抱いてしまえば、その気になるもの」という典型的な展開と言えるでしょう。


肉体的に結ばれたことで、リンとドラモンドの立場は逆転します。何故か、その夜からドラモンドは、リンの家に訪れることも電話もしてこなくなるのですが、これはソレンソン夫妻の入れ知恵・・・ドラモンドへの恋心を募らせるための作戦なのです。隣から聞こえてくるドラモンドの楽しげな笑い声にリンは、ますます独り身の淋しさを痛感して、酒に溺れていってしまいます。


飲んだくれ状態になったリンの元に不動産屋のエイミーが訪れて、ビーチハウスの購入したいという客から送られてきた手付金の手渡そうとした時・・・見計らったように、ドラモンドから「今すぐ会いたい」と電話がかかってくるのです。一瞬にして元気を取り戻すリン・・・「もう、この家は売る気はない」とエイミーに言い渡します。


ここから本作のネタバレを含みます。


改めて、お互いの今までの境遇を話し合い、ドラモンドとリンはお互いの愛を確かめ合います。貧しい子供時代を過ごしたリンは、金目的で亡くなった夫と結婚したことを語り、ドラモンドは自分の首の傷は、母親が無理心中しようとした時にできたものだと告白・・・似た者同士であるドラモンドとリンは、早々に結婚することを決めてしまうのです。


二人の結婚に憤りを感じるのは、ドラモンドを介して熟女からお金を巻き上げるのを生業としてきたソレンソン夫妻であります。結婚後も、資金援助をねだるソレンソン夫妻を、さっぱりきと切り捨てるドラモンド・・・夫妻も、すぐさま後釜となる若い男を調達しますが、ドラモンドに夢中のリンが見向きをするはずはありません。


また、ドラモンドを愛している不動産屋のエイミーは、リンの結婚式を妨害すると脅しますが、ドラモンドの愛を勝ち取った勝者であるリンは、負け犬となったエイミーを鼻であしらいます。


結婚式を終えたドラモンドとリンは、新婚旅行を兼ねた航海に出発しようとしています。荷物を積むためにボートに乗り込んだリンは、壊れた燃料ポンプが取り付けられていることに気付くのです。壊れたポンプが破裂して、もしかすると航海中に遭難してしまう恐れもあるというのに・・・。


リンは、ドラモンドが自分を事故に見せかけて殺そうとしていると確信します。慌てて家に戻り、警察に電話をしますが、担当の刑事は不在・・・リンはドラモンドを殴り倒し(受話器で一発!)浜辺へ向かって逃げるのです。しかし、すぐにドラモンドに見つかりそうになり、決死の思いでリンは海の中へ入って、身を隠します。

その様子を眺めていたのは、誰あろうエイミーです。リンを追ってきたドラモンドに、リンは自ら海に入って溺れて死んだと伝えます。そして、オールド・ミスが転落死するように、バルコニーに細工したのも自分であると告白するのです。その場に、隠れていた刑事たちに会話は聞かれていて、あっさりエイミーは逮捕されます。


なんとか海から出て家に逃げ戻ったリンを、再び追いかけきたドラモンドは、真実の愛を証明するかのように、リンを強く抱きしめます。全てがエイミーの策略だったことを知り、歓喜の笑顔に涙するリンのアップで映画は終わります。

本作の物語が、リンのビーチハウス周辺だけで進行するのは、原作が舞台劇の「The Besieged Heart」だからのようです。原作戯曲を書いたロバート・ヒルも映画版の脚本に関わっていて、あからさまな”決め台詞”の多さにも納得です。


二人が出会った朝、勝手にリンの家に入り込んで、コーヒを作っていたドラモンドが「How would you like your coffee?/コーヒーはどう飲む?(ミルク入りか、砂糖入りか?)」と尋ねると、リンが一言「Alone./ひとりで」と冷たくあしらったり・・・。


ジゴロっぷりを暴露したドラモンドに対してリンが「I wish I could afford you./あなたを囲えれば良いのにね」とささやくと、すかさずにドラモンドが「Why don't you save your pennies./じゃあ1円玉から貯めれば?」と返したり・・・。


陳腐な言葉で熟女をその気にさせてきたドラモンドに詰め寄るリンは「I wouldn't have you if you were hung with diamonds upside down!/ダイアモンドで逆さ吊りにされていても、あなたなんかいらない!」と罵倒したり・・・。

陳腐過ぎて”逆に”素晴らしい台詞センスが堪りません!「最低の演技」「最悪の脚本」などと酷評する評論家もいる本作でありますが・・・ナルシスト演技に開眼したジョーン・クロフォードの”ドラマ・クィーン”っぷりが全編に炸裂!・・・トレードマークの太い眉と独特の唇のメイクアップと相まって、ヒロイン役なのに悪者(バットマンのジョーカーみたい!?)にさえ見てしまうほどの強烈な”目力”を発揮しています。

本作は、何故か日本では劇場未公開で、メディア化をおろか、テレビ放映さえもされていないという・・・なんとも残念な”おキャンプ映画”の傑作なのです。ぜひ、TSUTAYAの発掘良品あたりで、国内初のDVD化して欲しいものであります。


「フィーメール・オン・ザ・ビーチ(原題)」
原題/Female on the Beach
1955年/アメリカ
監督 : ジョゼフ・ペヴニー
原作 : ロバート・ヒル
出演 : ジョーン・クロフォード、ジェフ・チャンドラー、ジャン・スターリング、セシル・キャラウェイ、ナタリー・シェイファー、ジュディス・エヴィリン、チャールス・ドゥレイク
日本未公開


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