ツァイ・ミンリャン(蔡明亮)監督が長編10作目となる「効遊 ピクニック」を最後に、監督引退を表明しました。とは言っても、映像制作の現場を退くわけではなく・・・興業を目的とした”商業”映画から退くということで、今後も美術館での上映を前提にした”芸術”としての映像作品の製作を続けるそうではありますが。
主演のリー・カンション(李康生)は、1992年のツァイ・ミンリャン監督の1作目「青春神話」以来”すべての作品”に主演・・・世界的にみても映画史上かつてない映画監督と主演男優の”パートナーシップ”といえるでしょう。ツァイ・ミンリャンとリー・カンションを、アントワーヌ・ドワネルの冒険シリーズ(大人は判ってくれない、アントワーヌとコレット/二十歳の恋、夜霧の恋人たち、家庭、逃げ去る恋)でのフランソワ・トリュフォー監督とジャン=ピエール・レオの関係との類似もありますが(ツァイ・ミンリャン監督自身も意識している?)・・・どちらかというと、ルキノ・ヴィスコンティとヘルムート・バーガー(華やかな魔女たち、地獄に堕ちた勇者ども、ルートヴィヒ、家族の肖像)または、ジャン・コクトーとジャン・マレー(美女と野獣、双頭の鷹、ルイ・ブラス、恐るべき親達、オルフェ)のような「寵愛関係」のような印象があります。
二人の出会いは、ツァイ・ミンリャン監督の映画デビュー前に監督したテレビドラマ「小孩」(1991年)で、主人公の小学生を脅す不良になりきれない孤独な少年役に、当時予備校生だったリー・カンションを台北の西門町界隈で見かけて抜擢したことから。俳優を目指してオーディションを受けたわけでもなく、ツァイ・ミンリャン監督がリー・カンションに一方的に”一目惚れ”したと言っても過言でない”きっかけ”だったのです。「小孩」というドラマでの役名は分かりませんが・・・その後、すべてのツァイ・ミンリャン監督の映画作品に「シャオカン」という役名で主演することとなります。シャオカン=小康とはリー・カンション本名の李康生のニックネーム「カンちゃん」ということ・・・如何に、特別な存在であることが伺えます。ツァイ・ミンリャン監督の映画は、そもそも”リー・カンション”なしでは成り立たたないと言えるほど、”リー・カンション”がいて”こそ”の映画をつくっているような気がするほどです。
各作品のネタバレを含むことあります。
二人の映画デビュー作「青春神話」は、台北で暮らす若者数人の物語・・・少ない台詞、音楽なし、長回しなど、ツァイ・ミンリャン監督のシグニチャーといえるスタイルが垣間みれます。リー・カンション演じる”シャオカン”は、「小孩」と同じように、どこかしら孤独感と不満を抱えて、行き先の分からない若者・・・どこにでもいそうな普通の風貌、ゆっくりな動きと台詞回しから、映画のために見つけてきた”素人”みたい。ただ、この”素人”っぽさこそが、リー・カンションの特別な持ち味であり、”シャオカン”というキャラクターの存在を生々しく感じさせるのかもしれません。
第2作「愛情萬歳 」は、無関係な3人の男女が空き家の部屋に出入りすることで関わりを持っていく物語が並行的に描かれるのですが・・・リー・カンション演じる”シャオカン”は、もうひとりの男性キャラクターに惹かれているというホモ・エロティックな欲望を抑圧しています。リー・カンション(実生活ではストレート)へのツァイ・ミンリャン監督自身の”思い”を代弁しているかのようで・・・痛々しさを感じてしまうのです。
第3作「河 」では、リー・カンション演じる”シャオカン”が明らかな主人公となり、映画そのものを支えていきます。エキストラのアルバイトで汚染された川で死体役をやったことで首が曲がらない奇病にかかってしまうという、不気味で寓話的なストーリーなのですが・・・ゲイサウナで父親と息子が遭遇して、お互いと分からずにエッチをしてしまうという衝撃的な展開です。
第4作、1998年の「Hole-洞」は、ラース・フォン・トリアー監督の「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(妄想シーンがミュージカル)を先取りしたようなスタイル・・・1950~60年代の歌手グレース・チャンの曲を使用するなど、ゲイっぽいテイストを炸裂(?)させています。ウィルスが蔓延している近未来(2000年)を舞台に、雨漏りで開けられた穴がアパートの上下階の男女を結ぶというツァイ・ミンリャン監督好み(?)の設定で、台詞はますます省かれており、時々挿入されるミュージカルシーンが暗い物語に、色を加えている感じです。
フランスで高い評価を受けてきたツァイ・ミンリャン監督の、第5作「ふたつの時、ふたりの時間 」はフランス合作・・・ジャン=ピエール・レオがカメオ出演という豪華さ。リー・カンション演じる”シャオカン”は、腕時計を販売する露天商・・・父親が亡くなって以来、母親は喪失感で精神のバランスを崩して、実家はまるで使者を向かいいれるための空間と化しています。シャオカンから腕時計を飼った女性はパリに行き、そこで言葉や文化の違いから孤独となっていき、親切にしてもらった香港女性とレズ的関係を結びます。台詞はさらに少なくなり、サウンドトラック音楽は皆無・・・さらにツァイ・ミンリャン監督のスタイルを追求した印象です。
第6作の「楽日」になると、台詞が少ないというレベルの話じゃなく、殆どなし・・・・というのも、閉館直前の映画館(キン・フー監督の作品を上映)を舞台に、観客たちや従業員を淡々と描くのですから。この作品を映画館で観る観客は、映画の中でひとりでスクリーンを観る人々を観るということになるわけです。勿論、映画を上映しているわけですから、観客同士の会話があるわけでもありません。ゲイのツァイ・ミンリャン監督らしく、ゲイのハッテン場であることも描いているのですが・・・断られる日本人男性客のリアクションは、日本人からすると謎ではあります。台詞を排除というスタイルに於いて、行き着く所まで言った作品だと思うのです。
第7作の「西瓜 」は「ふたつの時、ふたりの時間」の続編 ではあるのですが・・・そもそも、ツァイ・ミンリャン監督の作品でリー・カンション演じる登場人物は常に”シャオカン”という名前で、多少の設定の違いはあるものの、ある意味、同一人物のようなところあったりします。「ふたつの時、ふたりの時間」では、台北とパリに離れていた二人が、何年後かに台北の古びたアパートビルの中で再会し、惹かれ合うことになるのです。露天商だった”シャオカン”はAV男優となっており、同じビルの中でビデオ撮影に励んでいる様子が、非常にエロチックでありながら滑稽に描かれているのですが、毎度のことながら台詞は殆どなし。ただ「Hole-洞」のようにミュージカルシーンが挿入されていて、単調な流れのアクセントになっています。まさに(!)”シャオカン”の思いを受け止めるかのような口内射精のドアップ長回しのエンディングに呆然。この作品は、公開された年には台湾映画して台湾では興行成績1番だったということで・・・「ツァイ・ミンリャン監督の作品は商業的ではない」という汚名返上となったのかもしれません。
台湾で映画製作を続けてきたツァイ・ミンリャン監督ですが、初めて故郷のマレーシアを舞台したのが第8作の「黒い瞳のオペラ」です。リー・カンションは、チンピラに殴られて怪我をした”シャオカン”と寝たきりの青年の二役を演じています。”シャオカン”にホモエロテックな感情を抱きながら介抱する労働者、”シャオカン”に惹かれる寝たきりの息子を介護している母親・・・何も話さないストレートの「男」と外国から来た「ゲイ」と「女」の三角関係が、台詞なしで淡々と描かれていくのです。「女」と”シャオカン”の関係に嫉妬する「ゲイ」の切ない思い・・・最後は廃墟の水たまりに浮かぶマットレスの上で”シャオカン”を真ん中にして両側に横たわる「女」と「ゲイ」。”シャオカン”は二人”とも”受け入れたようです。まるでツァイ・ミンリャン監督自身のリー・カンションへの一途な思いを訴えているかのようなエンンディングに涙してしまいます。
第9作となる「ヴィザージュ」は、ジャン=ピエール・レオ、ジャンヌ.モロー、ファニー・アルダンらが出演のヌーベルヴァーグ50周年を記念してルーブル美術館から依頼されて製作した一作です。「サロメ」をモチーフにした映画の製作にパリを訪れている台湾の映画監督をリー・カンション演じているわけですが、ストーリーを語るというよりも、幻想的ミュージカルシーンを交えながら、オマージュのようなイメージを積み重ねていくのですが・・・ツァイ・ミンリャン監督の映画スタイルとリー・カンションの存在感は、フランス映画俳優たちのオーソドックスな演技との違和感を感じさせます。「ヴィザージュ」は、フランスでは一般公開されたものの、ルーブル美術館でループ上映されたアートフィルム・・・もはや、一般的な映画という視点では語れない作品なのかもしれません。
ツァイ・ミンリャン監督は、第10作「郊遊 ピクニック」を最後に商業映画からの引退を宣言・・・今後は美術館などで上映されることを前提とした「映像作品」を製作していくそうです。ある意味、「英断」とも言えるのかもしれませんが、商業主義を否定することで自己満足にも落ち入りがち・・・アート映像作品に於いて「固定カメラの長回し」というのは、数多くの作家がやり尽くした方法で、決して珍しい手法ではありません。ここ数年、ツァイ・ミンリャン監督が熱心に製作しているのは、リー・カンションがゆっくりと歩く姿を撮影した「行者/Walker」シリーズです。パフォーマー(?)としてのリー・カンションを記録した映像作品というような印象・・・リー・カンションをカメラで収めたいというツァイ・ミンリャン監督の一途な思いをヒシヒシと感じさせるのです。
「郊遊 ピクニック」の前半は、初期からのツァイ・ミンリャン監督作品にみられた「台詞なし」「音楽なし」のミニマルなスタイルで、リー・カンション演じる父親”シャオカン”と二人の子供たち(ツァイ・ミンリャン監督の甥っ子と姪っ子だそうだ)の貧しい生活を淡々と撮影するというもの・・・しかし、後半は近年みられるアブストラクトな表現となり、物語として語るのは難しくなっていきます。特にエンディングの15分にもおよぶ長回しは、観客の生理的限界を超えるほど・・・ここまでとなると、ツァイ・ミンリャン監督からの挑戦状というか、監督自身が自らのスタイルに縛られて、行き着く所まで行ってしまった(?)感さえ感じさせます。
スクリーン上で流れている時間と実際に撮影された時間が同じとなる「長回し」・・・この時間の扱いに於いて、ツァイ・ミンリャン監督はシャンタル・アケルマン監督との類似点があるように思うのです。以前、このブログで書いたことがあるのですが(めのおかしブログ参照)・・・シャンタル・アケルマン監督の代表作である「ジャンヌ・デュエルマン」では、じゃがいもの皮を剥く作業を始めから終わりまでを固定カメラで延々と捉えています。映画的な編集によって省略されている時間の流れではなく、スクリーン上で同じ長さの時間が流れることで観客も実感するのです。ただ、ツァイ・ミンリャン監督の長回しは、まるで時間が止まっているかのようで・・・観客は虚無感だけを感じるしかありません。
日本での「郊遊 ピクニック」公開を記念して、2014年6月17日にツァイ・ミンリャン監督とリー・カンション来日イベントが、渋谷シアター・イメージフォーラムにて行われました。新作が公開するたびに来日して、意欲的に宣伝活動をされてきた二人ですので、来日は珍しくはありません。ボクは言葉が分からないので理解できないところがあるのですが・・・「郊遊 ピクニック」での金馬奨最優秀主演男優賞の受賞を報道する台湾メディアで、ツァイ・ミンリャン監督のリー・カンションへの寵愛っぷりを茶化しているような印象があります。今まで、いろいろと噂されてきた二人を、ボクは自分の目で確かめたかったのです。
まず、トークイベントの冒頭で語られたのが・・・「郊遊 ピクニック」が引退作品となるかは、まだ分からないということ。ツァイ・ミンリャン監督とリー・カンション共に、健康的な問題(リー・カンションはイベントの一ヶ月半ほど前に軽い脳梗塞を患っている)もあってのことらしいのです。しかし、ファンからの強い要望と興行的に可能であれば、再び商業的な映画を製作するかもしれません。まぁ、なんだかんだで・・・興行成績に縛られる映画製作に疲れてしまったようなのです。台湾では「50回限定」で上映して、8000席があっという間に売り切れたそうで、明らかにツァイ・ミンリャン監督の熱狂的なファンは存在するのですから、ぜひ商業映画を制作し続けて欲しいと思います。
台詞が殆どないスタイルを一貫して追求してきたツァイ・ミンリャン監督ですが、トークイベントでは非常に饒舌・・・ソフトな”おねえ口調”で延々とひとり話し続けます。リー・カンションは、映画の中で演じている”シャオカン”と同様に非常に寡黙・・・当日は体調があまり良くないということもあったようですが、それを考慮しても無愛想で話をするのも億劫そう。無理をしてまでイベントに出席してもらったことに、観客として申し訳なく感じてしまうほどだったのです。脳梗塞の後遺症で、まだ体の半分が不自由なのでイベント後のサイン会には参加できないと、主催者側から伝えられたものの「わざわざ来てくれたお客さまだから」と気遣い・・・「郊遊 ピクニック」の前売り券を購入した方に限り、無理がない限りサインしますと宣言。ファンとしては非常に有り難いことではあるのですが、・・・こう言われて前売り券を買わずに帰るなんて、さらに申し訳ない気持ちにさせられてしまいます。本当に純粋に誠意ある行動だったとは思うのですが、周りの人間はリー・カンションのために、自分ができるだけのことをしたくなってしまう・・・リー・カンションという人が天性で持っている「魔性」が垣間みれた気がしたのです。
トークイベントでは「シャオカン、シャオカン、シャオカン」と、とにかく「シャオカン」を讃えるツァイ・ミンリャン監督と、極端に寡黙なリー・カンション・・・二人の温度差があり過ぎて、その場にいるボクの方が恥ずかしくなるぐらいでした。この二人に「肉体関係があるの?」という下世話な真偽は、本人たちのみ知ることではありますが・・・リー・カンションに対するツァイ・ミンリャン監督の一方的な思いは、ボクが想像していたよりも、ずっとずっと強いと感じさせられました。
トークイベントでは「シャオカン、シャオカン、シャオカン」と、とにかく「シャオカン」を讃えるツァイ・ミンリャン監督と、極端に寡黙なリー・カンション・・・二人の温度差があり過ぎて、その場にいるボクの方が恥ずかしくなるぐらいでした。この二人に「肉体関係があるの?」という下世話な真偽は、本人たちのみ知ることではありますが・・・リー・カンションに対するツァイ・ミンリャン監督の一方的な思いは、ボクが想像していたよりも、ずっとずっと強いと感じさせられました。
もしも(勝手なボクの邪推と妄想です)・・・リー・カンション「も」ゲイで、ツァイ・ミンリャン監督の愛を”肉体的”にも受け止めていたとしたら、二人のコラボレーションがこれほど長く続いたかは疑問に思います。リー・カンションは他の映画監督の作品の出演や、彼自身が映画監督をつとめた作品(「迷子」「ヘルプ・ミー・エロス/Help Me Eros」もあるのですが・・・どの作品も、ツァイ・ミンリャン監督の影響下から脱しているとは言えません。
リー・カンションの人生(俳優としてのキャリア)は、ツァイ・ミンリャン監督によって生み出されて、輝きを保っていると言っても過言ではないのです。ただし・・・ツァイ・ミンリャン監督がリー・カンションの人生/俳優生命を支配(?)しているとしても、男性としての”心”や”身体”までは征服することはできません。”貢ぎモノ”は受け取ったとしても、ストレートの男性の肉体や心までは手に入れることはできないというのは、ゲイの男性の”運命”。だからこそ・・・ツァイ・ミンリャン監督の思いは永久的に一途であり、投資した年月とともに強くなるばかりなのかもしれないと思うのです。
リー・カンションの人生(俳優としてのキャリア)は、ツァイ・ミンリャン監督によって生み出されて、輝きを保っていると言っても過言ではないのです。ただし・・・ツァイ・ミンリャン監督がリー・カンションの人生/俳優生命を支配(?)しているとしても、男性としての”心”や”身体”までは征服することはできません。”貢ぎモノ”は受け取ったとしても、ストレートの男性の肉体や心までは手に入れることはできないというのは、ゲイの男性の”運命”。だからこそ・・・ツァイ・ミンリャン監督の思いは永久的に一途であり、投資した年月とともに強くなるばかりなのかもしれないと思うのです。
以前、リー・カンションが婚約したというニュースをインターネットで読んだ覚えがあるのですが・・・その後、実際に結婚したとういう報道の記憶はありません。(ボクが知らないだけ?)伴侶として”女性”を選ぶのは、ストレートのリー・カンションにすれば当然のこと・・・いつかは子供のいる家庭を築きたいと思うのは極々自然であります。ただ、ツァイ・ミンリャン監督の存在を、リー・カンションの人生から排除することは絶対的に不可能・・・それを理解する女性でなければ、リー・カンションの妻にはなれないことは明らかです。
自分の才能のすべてを捧げるほどの相手に出会うことは、何かをクリエイトする者にとっては、幸運なことなのかもしれません。商業映画監督か芸術映像作家になってもツァイ・ミンリャン監督は、ずっとリー・カンション”だけ”を見つめ続ける・・・とうとう「二人だけの世界」に入り込んでしまうようにも思えてしまうのです。
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ツァイ・ミンリャン(蔡明亮/Ming-Liang Tsai)監督の主なフィルモグラフィー
1992 青春神話 (青少年哪吒)
1994 愛情萬歳 (愛情萬歳)
1997 河 (河流)
1998 Hole-洞(洞)
2001 ふたつの時、ふたりの時間 (你那邊幾點)
2003 楽日 (不散)
2005 西瓜 (天邊一朶雲)
2006 黒い瞳のオペラ (黒眼圏)
2009 ヴィザージュ(臉)
2013 効遊 ピクニック(郊遊)
「郊遊 ピクニック 」
原題/郊遊
2013年/台湾、フランス
監督 : ツァイ・ミンリャン
出演 : リー・カンション、ヤン・クイメイ、ルー・イーチン、チャン・シャンチー、
2013年12月1日第14回東京フィルメックスにて上映
2014年8月29日より渋谷シアター・イメージフォーラムにて劇場公開
ツァイ・ミンリャン監督引退作「効遊 」公開記念「河」特別上映
蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)&李康生(リー・カンション)来日イベント
2014年6月17日@渋谷シアター・イメージフォーラム