2012/06/23

ぎょぇぇ~「めのおかしブログ」が4年目に突入!・・・”エログロ映画”ブログにするつもりなんてなかったんですけどぉ




2009年6月23日にスタートした「めのおかしブログ」は4年目に突入します!・・・と言っても、それに意味を感じているのは、ボク自身しかいませんが。飽きっぽい上に、いろいろと考え過ぎて、すぐにやる気が失せるという性格のボクが、3年間続けられたということは、どこか生理に合っていたのでしょう。

ツイッターやフェイスブックへ移行して、ブログは開店休業状態という人もいたりします。リアルタイムで反応のあるソーシャルネットワーキングの方が、面白いと感じるのも頷けます。また、ファイルのシェアサイトで好きな画像などを集めることで、より感覚的に自分を表現できるということもあるようです。匿名で誰でも閲覧できるブログよりも、実名でフレンドと繋がっていく方が、現実的な”メリット”を得られるという考えもあるのかもしれません。

ボクは、ブログを通じて”営業”をしているわけではないので、結構、気が楽です。書かれている内容に無関心な人は・・・わざわざブログを訪れることもしないだろうし、びっしりと書かれた長い文章に嫌気が差すに違いありません。”しがらみ”や”気遣い”や”義理”を感じることなく、自分の考えていること、感じたことを、自分のために書き記しておきたいだけなのです。そんなブログでも、知らない誰かが読んでいる・・・というのは、いい意味で緊張感を与えてくれています。

ブログを開設している「bloger」サイトでは、どの記事が、どれほどのアクセスされているかの”ページビュー数”を閲覧できるようになっています。この記事を書いている2012年6月23日までの全期間の「閲覧ベスト10」は下記のとおりです。

第一位

第二位

第三位

第四位

第五位

第六位

第七位

第八位

第九位

第十位

閲覧者の8割以上がGoogleなどの検索サイトから訪れています。映画のタイトルを含んだキーワードで検索されていることが一番多いのですが・・・タイトル以外では「エログロ映画」というキーワードが、ずっとダントツで1位!意識的に「エログロ映画」に特化したブログをやっているつもりではないけれど、ボクの嗜好が偏っているのは確かなようです。

「6月23日」という中途半端な日から始めたものだから・・・毎年「ブログ開始日」というのを忘れてしまいそうになります。開始当時は「どうせ、すぐ飽きるだろう」と思っていたので、何も考えずに始めてしまいまったのです。どうせなら、1日とかの”キリ”のいい日や、自分にとって何らかの記念になっている日に始めれば良かった・・・と、今更ながら、ちょとだけ後悔もしています。4年目もよろしくお願いします。

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2012/06/21

平成の毒婦”木嶋佳苗”の「カナエ本」が続々出版!・・・「なんで、こんなデブのブスに?」の謎は解けるのか?~「「毒婦。」北島みのり著、「別海から来た女」佐野眞一著、「木嶋佳苗劇場」霞っ子クラブ編著、「木嶋佳苗 危険な愛の奥義」高橋ユキ著~



「首都圏連続不審死事件」という色気のない名前を付けられているのは、平成の毒婦”木嶋佳苗が、練炭自殺に見せかけて少なくとも3人の男性が殺された事件のこと・・・報道され始めた当初、まだ容疑者として木嶋佳苗が確定していないという事情もあって、30代の女性という程度の曖昧な表現しかされていませんでした。

しかし、被害者の男性たちの実名と顔写真は、連日ニュースで報道されていました。その後、木嶋佳苗が逮捕されると、彼女の顔写真も公開されましたが・・・多くの人は1億円以上も貢がせた女のイメージをぶち壊す”木嶋佳苗のルックスに驚かされたに違いありません。遺族たちにとっては、息子、兄弟、父親が、女に貢いだ上に殺されたという事実だけでも辛いことなのに、さらに「なんで・・・こんなデブのブスに騙されたの?」という辱めを受けなければならないんて、気の毒な話です。これは、この事件に限ったことでなく、被害者が報道によって、尊厳を失わされてしまうということは、よく起こってしまうことなのかもしれませんが・・・。

4月に陪審員による裁判が終わり、死刑を宣告されたのは記憶に新しいところ・・・物的証拠がないにも関わらず、死刑の判決が異例のことでしたが、それよりも関心を呼んだのは、木嶋佳苗被告(死刑囚か?)のあからさまで自分勝手、独特の価値観を示した不謹慎な供述でありました。連日、ニュースやワイドショーで報道されていましたし、週刊誌でも大きく取り上げられていたので、改めて詳しい説明は必要ないと思います。ただ、裁判での彼女の供述や、事件の詳細の報道によって「なんで、こんなデブのブスに?」という謎が解けたかと・・・逆に、我々の常識を覆すような発言ばかりで、さらに”木嶋佳苗”という女の謎が深まったような気がしてしまいます。

裁判終了後、次々と裁判傍聴記なる「カナエ本」の出版ブームが起こりました。ボクにとって、久々に強烈に関心を惹かれた事件だったので、すべての「カナエ本」を購入してしまいました!

まず、一番最初に出版されたのが「週刊朝日」で連載されていた傍聴記をまとめた、北島みのり著「毒婦。木嶋佳苗 100日裁判傍聴記」であります。いい意味での女性目線による鋭い指摘や解釈によって、最もリアルに近い”木嶋佳苗”を表現していたような印象を持ちました。事件発生の順番と裁判で取り上げられた事件の順番が真逆だったので、時間軸を追っていくだけだと分かりにくくなりがちですが・・・適切な証言を抜粋することで、事件の全貌と木嶋佳苗”の人物像が伝わってきました。適度に著者の解釈や見解もあり、読み物としての面白さも十分・・・事件だけでなく、裁判の雰囲気も感じることが出来ました。もし「カナエ本」を一冊だけ読むなら、本書がお奨めであります。

「東電OL殺人事件」でも知られる佐野眞一著「別海から来た女 木嶋佳苗 悪魔祓いの百日裁判」は、いかにも”ルポルタージュ”らしく、木嶋佳苗”の故郷の取材や過去の知る人物への取材が織り込まれているのですが・・・いかんせん、上から目線の何様的な「佐野節」炸裂!”木嶋佳苗”はデブでブスな悪魔で、被害者の男性は騙されたバカ、という独断的なに決めつけている印象を感じました。「別海」というのは、”木嶋佳苗”の生まれ育った町の名前。しかし、今回の事件と場所柄の関連性って、東京から離れた田舎っていう以外、特にあるようには思えません。取材結果を佐野氏の見解とこじつけているところもあって、本末転倒な感じもありました。また、被害者に対して厳しく非同情的な書き方なので、被害者のことを思うと、読んでいて”いたたまれない気持ち”にさせられました。ただ、木嶋佳苗の子供時代、木嶋家の歴史、(果して必要かどうかは別として)被害者の家庭環境や家系までを取材をしているので、事件の背景を細かく知りたければ、一読の価値はあるのかと思います。

週刊誌的な見出しと構成の、霞っ子クラブ編著「木嶋佳苗劇場 完全保存版!”練炭毒婦”のSEX法廷大全」は、裁判傍聴する女性グループの”霞っ子クラブ”による裁判傍聴記だけあって、裁判の供述や、裁判でのやり取りが、本書の大部分を割いて、しっかりと”記録”されています・・・ただ、その反面、裁判自体のまどろこしさがああります。カナエギャル(ギャルって古い!せめてガールだろう?)の討論会と、木嶋佳苗の書いていたブログ(かなえキッチン、桜の欲求不満日記)の分析は、”マニア”ならでは記事で、資料的にも面白かったです。圧巻は、倉田真由美、岩井志麻子、中村うさぎという面々に語らせた、それぞれの「木嶋佳苗論」・・・僅か、巻末の9ページだけの記事ですが、ここだけでも本書を読む価値ありです。

最後は元”霞っ子クラブ”のリーダーであった高橋ユキ著「木嶋佳苗 危険な愛の奥義」。一番”真面目”な裁判傍聴記で、実際に裁判でどのような進行で、やり取りが行われていたのかを、事細かに記録しています。余計な解釈がないので、陪審員になったつもりで読むという楽しみ方もあるかとは思いますが・・・読み物としては少々辛いところはあります。発言の言葉遣いなどから垣間見えてくる”木嶋佳苗”の人間性や、報道のステレオタイプの印象とは違った一面を感じられるのは貴重だとは言えます。すべての「カナエ本」を読んで、もっと知りたい!と思う木嶋佳苗中毒の人には、必読かもしれません。

「カナエ本」4冊を読んで・・・実際に裁判を傍聴していないボクには確認しようもないことがありました。それは”木嶋佳苗”の声と所作・・・どうやら、彼女の声って鈴をころがすようなキレイな声だそうです。また、指先まで気を使っていて、いろんな所作も美しいらしいのです。所作に気を使うのは、いかにもセレブの”虚像”を生きる”木嶋佳苗”らしいとは思いましたが・・・彼女が「どんな声をしているのか?」というのは、まったく考えたこともありませんでした。美声は、デブだのブスだの七癖さえも隠してくれるのかもしれません。

”木嶋佳苗”の人物像を考えるとき・・・ボクは、大学の同級生だった”ある女性”を思い出してしまいます。勿論、彼女は詐欺師でも、殺人者でもありませんし、しっかりキャリアを持っている女性です。しかし、木嶋佳苗から感じる印象や容姿、発言の違和感をリアルで感じたことのあるのは、後にも先にも、この同級生の彼女だけのような気がします。多くの男とやる女って、一般的には(特に女性からは)評価が低いものですが・・・「モテ要素」が感じられないのに、異様にヤリマンだったりすると「どうして?なんで?」と不穏な疑問を感じてしまうものです。

この同級生は、一般的にいって”ブス”でした。エラの張った大きな顔をさらに強調するような”おかっぱ頭”、常に仏頂面で不機嫌そうで威圧的、胸はペッタンコで下半身はデカい洋梨のような体型・・・ファッションデザイン科ということもあって、おしゃれに気を使う学生が多い中、彼女の服装は常におばんさんっぽくて地味・・・大学内でもイケてない女子のひとりでした。しかも、勝ち気で喧嘩腰、プライドだけは異常に高くて優等生気取り、かなりの毒舌で他人の批判や悪口ばかり言っているという性格も悪く・・・男子からも女子からも敬遠されるタイプでした。

しかし、裏では彼女は・・・とんでもないヤリマン女だったのです。彼女は住んでいるマンションのドアマンや、近所の売店の店員など、あらゆる男を自宅引きずり込んで、セックスをやりまくっていました。また「男は、私のフェラチオのテクニックにイチコロ」「私のは名器だから、男は私のカラダから離れられなくなる」「私の手コキでイカせると、男は私の言いなり」など、木嶋佳苗のような発言を時折していたのです。「名器」「テクニック」自慢って、根拠なき優越感に浸りたいだけの、”ブス”の切り札のような気がしてしまいます。

女性の評価が美醜のみによって、すべて決まるわけではありませんが・・・ズバ抜けた美貌を持つ”美女”というのは、経済力のある男性と結ばれることが多く・・仕事でも男性からのサポートを受けやすく・・・女性からも憧れられる存在になりやすく・・・元々のポテンシャル以上の成果を上げやすいような気がします。お金持ちだから、いつまでも美しくいられるのか・・・元が美しいから、結果的に経済的に豊かな生活を送れているのか、どちらが先なのかは分かりませんが、”美女”というのは、それだけで経済的、精神的に多大なる恩恵を受けているので、わざわざ男を騙す必要なんてないのかもしれません。

それに”美女”に、いくらかの金を騙し取られたとしても「詐欺だ!」「騙された!」と男が騒ぐことも少ない・・・高級クラブのホステスや、キャバクラの若いネエちゃんだって、多かれ少なかれ男を騙しているようなもんなんですから。ぼったくりとしか思えない高額の会計だとしても、それに文句を言うほど男として野暮なもんはありません。なんだかだ言って・・・男は”美女”には寛容なんです。でも”ブス”に金を取られると損をした気になる・・・だから”ブス”は「結婚」という”エサ”をちらすかせない限り金を搾り取れなかったし、所謂”美女”ではなかったからこそ”木嶋佳苗”は「結婚詐欺」をするしかなかったのもしれません。

ブランド物に囲まれて、ベンツを運転して、高級食材を買いあさり、美味しいものを食べ歩く・・・そんなセレブ生活を送る”美女”なんて、腐るほど存在します。”美女”であれば、多少なりの「したたかな計算」と「運」があれば、医者の妻にでも、弁護士の妻にでも、実業家の妻にでもなれる可能性だってあるのですから・・・。若い頃の援助交際から抜け出せずに、勘違いしたままの”ブス”の成れの果ての木嶋佳苗「したたかな計算」と「女性機能が高い=名器」という自信を武器に、勝ち組”美女”の人生を手に入れようとしたのかもしれません・・・。ブログの中の”虚像”でしかなかった”木嶋佳苗 ”の「セレブ生活」・・・それさえも、ブログの読者たちからは、容易く嘘を見破られていたらしく、当時「2ちゃんねる」では、笑い者になっていたというのですから、なんとも惨めであります。

ただ・・・”木嶋佳苗 ”は、世間一般が思っているほど、自分のことをモテない(ブス)とは思っていないのかもしれません。彼女は、自分自身の価値を「女性機能が高い=名器」として、自分は男が金を払う価値のある女であると、当然のように思っていたような節があります。もしかすると・・・金を貢いだ男たちの中には、貢ぎ”がい”のある女だと思っていた人もいるのかもしれません。ただ、次第に魔法が解けて・・・「なんで、こんなデブでブスに!」と男の方が感じ始めたら、どうなるのでしょう?男なんて現金な者で、期待を裏切られたり、夢を壊されたりしたら、すぐに金を出し渋ったり、すでに渡した金だって惜しくなったりするものです。「騙された!」「詐欺だ!」と、被害者の男性たちに騒がれる前に、練炭自殺に見せかけて殺してしまう・・・”ブス”だからこそ、”木嶋佳苗 ”は、騙した男たちが騙されたと確信する前に殺してしまうしかなかったのです。考えてみれば、睡眠薬で眠らされて、寝ている間に一酸化炭素中毒で殺すというのは(安楽死とまでは言わないけれど)自らの手によって殺害する事件ほどの、残忍な生々しさを感じません。

自分にとって不都合だから死んでもらうという自己チューな殺人・・・憎しみの感情の感じない淡々とした作業のように行なわれた事件だからこそ、ボクは”木嶋佳苗 ”の心にある絶望的に暗い闇に惹かれてしまうのです。



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2012/06/16

東映エログロ路線を彷彿させる悪趣味とハチャメチャっぷり・・・「デカいからスゴくいい!」という男の幻想に貫かれた、お伽話~映画史上初本格3D劇場ポルノ映画「3D SEX & 禅」~



新しい技術やメディアは”エロ”によって普及するような気がします。写真が発明されたばかりの黎明期から、ヌード写真は存在しました。ビデオデッキの普及も、ポルノ映画を自宅のテレビでこっそりと観れるという理由があったからとも言われています。デジカメだって、写真屋で現像することなしにヌードを撮影出来るという機能が、密かな普及に拍車をかけたのかもしれません。インターネットでエロ画像や動画をタダで観られるらしい・・・と聞いて、始めたという人がいたりします。3D映画が流行の今・・・3Dポルノ映画は作られるべきして作られたと言っていいでしょう。ただ、まさか香港で世界に先駆けて、劇場用の3Dポルノ映画が制作されるとは思いもしませんでした。

「3D SEX & 禅」は中国の古典官能小説の「肉蒲団」を映画化したもの・・・香港では、あの「アバター」の初日興行収入を超える収益を上げたというのだから「そんなに3Dのポルノ観たかったの?」と、香港人にツッコミたくなります。実は、検閲の厳しくて公開不可能だった中国本土から、本作の観賞バスツアーまで組まれたということなので・・・映画史上初(!)の3Dポルノ映画が、中国の古典の映画化ということに、中国人には大いに意味があったのかもしれません。ただ、主要な登場人物のうちの3人が日本人キャストというのは、日本人として誇りに思うべきなのか、恥ずべきことなのか・・・ビミョーなところです。

映画史上初の3Dポルノ映画を謳っていますが・・・実際の性交をみせる”ハードコア”ではありません。ひと昔前の日活ロマンポルノや東映ピンキー映画ような”ソフトコア”・・・不自然にカラダの接合は隠されていて、○ンポや○ンコが画面に映るわけではありません。3Dシーンは殆どがアクションシーンに使用されていているだけで、ベタ中のベタ。何かが画面に向かって飛び出してくるという昔ながらの”ギミック”でしかありません。それでも商業的に海外で成功したのは「映画史上初の3Dポルノ映画」という”一番乗り”を名乗ったからでしょう。

学者の未(葉山豪)は玉香(レニー・ラン)と両思いで結婚・・・四六時中、夫婦でやりまくっているのですが、未が極端な早漏で妻を満足させることが出来ません。人々の崇拝する女神の像を冒瀆したりと、悪行を尽くしている「絶世楼」の楼主の寧王(ティン・カイマン)の偵察のために訪れたところ・・・冬海(周防ゆきこ)や、指圧や鍼で男のスタミナを増幅させる性技を持つ瑞珠(原紗央莉)らのエッチ接待を受けて、未はすっかり使命を忘れてしまいます。美術品のアドバイザーとして滞在し続けて、妻の玉香とも別れるハメになってしまうまで、やりまくりの酒池肉林の日々を過ごすことになってしうのであります。寧王は腕ほどのある巨根の持ち主で絶倫の性豪・・・未も彼のように何人もの女性を満足させるような性技を身につけたいと思うようになるのです。

ある日、「絶世楼」を訪ねてきたのは、極楽老人(ボニー・ルイ)・・・若いエキスを吸引することで若さと美しさを保っている姿は美しい女性なのですが、実は、ロープのように長い○ンポの性技をもつニューハーフの性豪。その性技に魅せられた未は、弟子にしてくれと懇願するのです。ロープのように長い○ンポで馬車の車輪を持ち上げることの、どこが”性技”なのか?と疑問に思いますが・・・この物語の基本の定説は、男の幻想といえる「巨根崇拝」によって成り立っています。とにかく「デカいからスゴくいい!」ということが、すべての人々の羨望なのです。「絶世楼」に限らず・・・女性の登場人物はすべては、いつも男とやりたがっていて、ちょっと胸を触られるぐらいでも喘ぎ狂ってしまうほどの淫乱ばっかり。嫉妬とか独占欲とも無縁で、とにかく男への性のサービスをすることが嬉しくて仕方ないという・・・男にとって都合のいい女性ばかりしか本作には存在しないという徹底したお伽話です。

極楽老人が未に、性技を教えるにあたって、まずやらせたことが・・・○ンポの移植手術。なんだかんだいっても、結局「サイズ」なのです。医者と助手のうっかりの失敗により、馬の○ンポではなく、驢馬の○ンポの移植なったものの・・・未は腕ほどの巨根の持ち主となり、意気揚々と「絶世楼」に帰ってまいります。勿論、女性たちは未の新しい巨根に即メロメロ・・・一度に10人もの女性を満足させて、いい気分になってしまうのです。極楽老人が、未に性技を教える条件としたのは、皇帝の免罪符である丹書鉄券(タンショテッケン)を盗むこと・・・しかし、あっさり未は寧王に捕らえられてしまいます。

ここからネタバレ含みます。

実は、寧王は未への恨みがあり、密かに復讐を企んでいたのでした。ここから、グロテスクな拷問シーンと、皇帝軍と寧王の兵士との戦闘シーンとなっていくのですが・・・エグい描写の連続となります。玉香も寧王の囚われの身にされていて、奇妙な突起物のある木馬に座らされたり、散々、拷問を受けた上に、寧王にボロボロになるまで犯されまくります。最後には、二度と開かない”貞操帯”を装着されてしまうのです。未は、せっかく移植された驢馬の巨根を切り取られて瀕死の状態・・・ただ、そんな辛い状況だからこそ、未と玉香のふたりはお互いの真実の愛を確認し合うのです。手足やカラダが切られて飛ぶような激しい戦闘の末・・・寧王はあっさりと自業自得の事故で死んでしまい、めでたしめでたしとなります。

最後は、90歳代になっても仲睦まじくしている未と玉香が、若いカップルに「どうして、いつまでも愛し合えるのですか?」と尋ねられ・・・「真実の愛は、肉体的な愛ではなく、精神的な愛である」と説くのです。○ンポを切り取られた未と、貞操帯を装着させられた玉香は、その後、肉体的に結ばれることは二度となかったのですが・・・ふたりはセックスを超えた真実の愛を見つけたということのようです。テーマとしてはく、使い古されたベタな教訓を、エンディングで仰々しく掲げています。散々、男の幻想を押し付けたエログロを見せつけた後なので、教訓には全く説得力は感じられませんが・・・。

本作は香港映画ですが・・・インド映画になければいけないという9つの要素を思い起こさせました。「ラブロマンス」「コメディ」「お涙頂戴」「アクション」「スリル」「サスペンス」「敵役の存在」「復讐」「ハッピーエンド」という9つに加えて・・・「3D SX&禅」は、「エロ」要素をたっぷりと足したような、とてつもなくベタで欲張りな一作。その上、無駄に3D映画・・・もう「お腹いっぱい、ごちそうさま!」としか言えません。



「3D SEX & 禅」
原題/3D肉蒲団之極楽宝鑑
2011年/香港
監督 :クリストファー・サン
出演 : 葉山豪、原紗央莉、周防ゆきこ、レニー・ラン、ボニー・ルイ、ティン・カイマン
2012年7月14日より日本劇場公開


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2012/06/12

”手芸女子”は「ブス」という”パンドラの箱”・・・ほとんど実用性のない”芸人本”としてのニードルフェルト手芸教本~「男子がもらって困るブローチ集」光浦靖子著~



1~2年ほど前に、光浦靖子が日替わりのMCパートナーを務めているラジオ番組のPodcastで、ここのところ手芸にハマっていて、その中でも「ニードルフェルト」が好きという話をしていたことが記憶に残りました。実は、ボクもある時期、羊毛作家の友人に奨められるまま、京都のマニアックな原毛屋さんからヒツジの原毛をまるまる1匹分購入するなど、フェルトに興味を持ったことがあったのです。ただ「手芸」感の払拭するのが難しいフェルトに、苦戦して挫折したのですが・・・ハンドメイドのフェルトテクニックの中でも、針を刺すことで造形していく「ニードルフェルト」は、作業の地味さに加えて、針を刺すという動作自体に心地よいものを、ボクは感じていませんでした。

比較的、手軽にできる「ニードルフェルト」は、最近人気が高いようで・・・作品例としては、動物のマスコットなどが多いようです。ただ、かわいらしいモノを作るためには、ブスブスと針を何百回と突き刺す必要があるのですから、その製作作業はおどろおどろしさを感じさせます。刺し子や刺繍のようにひと針ひと針を手で縫うという手芸は、仕事量の分だけで、作り手の「気持ちの重さ」を感じさせるものですが・・・数えきれないほど針を突き刺す「ニードルフェルト」の製作行程は、どこかしら”藁人形”に釘を刺す行為にも似ていて「念」を入れる”手芸”の代表格のような気がするのです。フェルトなんて絡ませられれば、素材なんて何でもよくて(犬の毛で作る犬のフェルトマスコットがあるくらい!)・・・人間の髪の毛だって、フェルトの中に忍ばせることなんて簡単なことなのであります。髪の毛入りのフェルトなんて、髪が伸びる日本人形ぐらい恐いです。ボクが勝手に「念の手芸」だと考える「ニードルフェルト」に、光浦靖子がハマるというのも、ある意味「やっぱりね・・・」と思えてしまうのは、彼女が普段からテレビで演じている(?)キャラに、あまりにもピッタリな選択だからです。

さて、”手芸女子”が「ブス」なのは何故なのでしょうか?まず「手芸」とは何ぞやということです。辞書的には「手芸とは家庭内で布、糸、針などを用い手作業で加工して、室内装飾品や衣服などの装飾品を制作する事」ということであります。陶芸、織物、銀細工などの「工芸」だと・・・「作家性」「世界観」「個性」なんてものを意識したりするのですが、「手芸」には、そんな薄っぺらい”クリエーター意識”は必要ありません。基本、お手本どおり、パクリであても、立派に”手芸作品”としては、成立してしまいます。そういう観点からすると、男性にとっての「手芸」というのは、模型作りとかが近いのかもしれません。

「手芸」というのは、あくまでも”自己満足”であり、内側に向いたナルシシズムの”自己表現”のひとつなのだと思います。ナルシシズムが外側へ向かうと、より作家性、世界観、個性を発揮する”クリエーター”へと移行していくことが多くなります。存在としての「素敵感」は”クリエーター”には必要で、あまり「ブス」が前面的に出てしまっていると、同性からも”共感”をしてもらえなくなります。さらに、より自己表現の世界へ突入して”アーティストを目指す女性になると・・・人並み以上の「美女」であることが多かったりします。女性の”モノ作り”に於いて、より広く社会的に表現者として認められるステージを目指すには「美女」の方が成功しやすい・・・というのは言えるのかもしれません。逆に、どんな「ブス」でも、居場所があるのが「手芸」なのです。

「私にだって人を愛する心はある。母性も人一倍ある。時間もある。手芸するしかないでしょう」という光浦靖子の帯の言葉は、内側に向かうナルシシズムこそが「手芸」に向き合う理由であり、外の自分と内の自分のギャップを埋めるかのようです。光浦靖子の場合、それが思いも寄らない”ファンシー”な路線・・・過剰なまでの装飾性と欲張りなほどの緻密さが訴えてくるのは、ひとこと「かわいい!」でしかありません。フェルト作家として、光浦靖子にしかない独創性というのはあるとは思えないけれど・・・彼女の好きな「かわいい!」の集合体として、やはりこれらのブローチは”光浦靖子”の「念」を感じさせるのです。

それにしても「ブローチ」ばかり作るというのが、不思議。身につけるものを作って人にあげというのが「手芸」の中でも、一番タチが悪いと思うので・・・ある意味、確信犯的なのかもしれません。また、何故か丸い形のブローチばかり。同じフォーマットで繰り返し作り続けるというのは、性格的な真面目さを表しているところもあり・・・ある制約の中で自己表現するってことに落ち着くという「手芸」らしい製作姿勢とも言えます。光浦靖子にとっては、このサイズの丸い形が一番心地よいキャンバスサイズということなのかもしれません。

「男子がもらって困るブローチ集」というタイトルは、まことに正しい・・・確かに、手芸女子同士でしか共感できないテイストだし、こんなブローチもらって喜ぶ”男子”なんて”尾木ママ”(!?)ぐらいしか考えつきません。「ニードルフェルト」の教本という形式で、8点の作品の作り方を説明しているけれど・・・それほど実用性はなく、あくまでも光浦靖子の作り方があるだけ。それも中途半端なところで「完成!」となるので、あくまでも手芸経験者が参考にできるぐらいの内容・・・あくまでも、芸人・光浦靖子を楽しむ「芸人本」だと思います。

近所の本屋ではお取り寄せ、アマゾンでは売り切れになっていた本書を購入しようと・・・先日、渋谷パルコ地下のロゴスへ立ち寄ったのですが、偶然、ギャラリーで光浦靖子とモリマンのモリ夫がトークショーを開催しておりまして、奇しくも(?)生・光浦靖子を拝見する機会を得たのでした。しゃべりは相変わらずの「ブス」ネタばかりでしたが・・・リアルの光浦靖子本人は1から10(1がブス、10が美女)のスケールで「4」ぐらいの「中の下」あたり。テレビで観るほどの「ブス」オーラは感じませんでした・・・とはいっても「意外にキレイ」とも思いませんでしたが。時代感のない髪型やメガネで「ブス」キャラを固めているけど、実物は、どこにでもいそうなアラフォーの地味な女性って感じ・・・テレビの中では「4」ぐらいでも、十分に「ブス」ってことなのかもしれません。ただ、トーク会場に整理券をもらってまで集まっていたのは、見事に「ブス」ばかり!?「ブス」を、熱烈に支持するのは、さらなる「ブス」なんだと納得した次第なのでした。



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2012/06/08

アグスティ・ビジャロンガ(Agustí Villaronga)監督、十八番(おはこ)のトラウマ尽くし!・・・少年時代の心の傷と同性愛への罪悪感と処罰~「ブラック・ブレッド/Pa negro」~



日本ではミニシアター全盛期の1992年に「ムーンチャイルド/月の子ども」(1989年製作)が劇場公開されたっきり・・・そのビデオも絶版状態でレンタルショップで見つけることも非常困難なのが、スペインの奇才、アグスティ・ビジャロンガ監督の作品。映画祭での上映ぐらいでしか、近年、日本ではお目にかかることができません。

最新作「ブラック・ブレッド」は、スペインのアカデミー賞といわれるゴヤ賞で作品賞をはじめ、監督賞、主演女優賞、助演女優賞、脚色賞、撮影賞、美術賞、新人男優賞、新人女優賞の9部門を受賞して、日本公開となりました。これを機に、以前「めのおかしブログ」でも取りあげたビジャロンガ監督の代表作の「硝子の檻の中で/Tras el cristal」「エル・マール~海と殉教(海へ還る日)/El Mar」などの過去の作品も劇場公開、またはDVD化されると良いのですが。

「ブラック・ブレッド」は、1940年代スペイン内戦後を舞台にしたダークミステリー・・・カタルーニャに暮らす11歳の少年アンドレウの視点によって、家族やそれを取り巻く人々らの闇が明らかにされていきます。ある日アンドレウは、偶然、森の中で崖から突き落とされた馬車を発見します。中で殺されていたのは、クレットの父親はアンドレウの父親とビジネスパートナーのディノイス・・・そして、息絶える友人のクレットを目撃してしまいます。クレットが最後に残した言葉は「ビトルリアウ」という森の洞窟に潜むと言い伝えられる幽霊の名前・・・アンドレウはビトルリアウによって彼らが殺されたのだと思うのです。

当初は事故とみなされていましたが、過去にアンドレウの父親ファルリアと恋敵として母親のフローレンシアを取りあった町長は、次第にアンドレウの父親ファリオルに疑いの目を向け始めます。そのため父親はフランスの国境越えをして逃亡、アンドレウは父親方の実家に預けられ、叔母やその子供達と暮らすこととなります。

作品に漂う雰囲気の”暗さ”という共通点から、スペインのデヴィット・リンチと呼ばれるアグスティ・ビジャロンガ監督・・・しかし、神髄は「少年時代の心の傷」を繰り返し描くというところに尽きると思います。「硝子の檻の中で」では性的な虐待/拷問、「ムーンチャイルド/月の子ども」では特殊能力をもつ故の不幸、「エル・マール~海と殉教(海へ還る日)」では子供同士の殺人の記憶・・・本作「ブラック・ブレッド」では、少年が心の傷によって、親さえも切り捨てるという悲劇を描いているのです。

ここからネタバレ含みます。

アンドレウの父親ファリオルはフランスに逃亡などおらず、実は実家の屋根裏に隠れていただけ・・・町長らによって、彼は捕らえられてしまいます。そこでアンドレウの母親フローレンシアは、夫の救うために、自分の子供がおらず子供好きの、町の権力者マヌベンス夫人を、アンドレウを伴って訪ねます。しかし、夫人からの手紙を受け取った町長は、フローレンシアの体を求めるだけ・・・結局、夫を救うことは出来ませんでした。

アンドレウは、母親のフローレンシアが幽霊となったいわれるビトルリアウという青年と、昔、親しかったことを知ります。そして、ビトルリアウの墓を訪ねて際、ディノイスの未亡人ポウレッタからビトルリアウの真実とを知らされるのです。青年ビトルリアウは、マヌベンス夫人のたったひとりの弟と関係をしていた同性愛者でありました。そこで町の人々は、魔女狩りのようにビトルリアウを追い詰めて捕らえてしまいます。そして、家畜の去勢器具で、ビトルリアウを去勢してしまったのです。そんな残忍な行為を行なったのがファリオルとディノイスだったのです・・・ただ、すべてを仕組んでいたのはマヌベンス夫人でした。

同性愛に対する罪悪感を織り込んでいくのは、ビジャロンガ作品に共通する需要な要素であります。監督自身は公にカミングアウトしているわけではないようですが・・・インタビューに答えている動画などをみる限り、おそらくビジャロンガ監督はゲイであると思われます。(あくまでも推測ですが)ただ・・・同じスペインのゲイ監督、アルモドバルのように開き直っているわけではなく、同性愛に対して明らかに罪悪感があるような痛々しい表現が目立つのが、決定的な違いです。

ファリオルは死刑になることが決まり、最後の面会にアンドレウは父親を訪ねます。別れ際に「自分の理想を忘れるな」と告げる父親・・・しかし、その後、ディノイスの未亡人ポウレッタから、アンドレウは事件の真実を知らされます。マヌベンス夫人を強請ろうとしていたディノイスを殺したのは、マヌベンス夫人から依頼されたファリオルだったのです。息子のクレットまで殺してしまうことはなかったのに・・・!!!今まで怒ったすべての言の口封じのためにファリオルは死刑となっていくのです。そう・・・父は自らの死と引き換えに、アンドレウが高等な教育を受けられるように、マヌベンス夫人と取引をしていたのであります。

アンドレウは、”自分の理想どおり”、マヌベンス夫人の支援により寄宿舎のある学校へ通うようになります。しかし、アンドレウは両親を許していたわけではありません。寄宿舎を訪ねてきた母親フローレンシアが誰かとクラスメートに尋ねられ・・・「村の知り合いの女性が荷物を届けてくれただけ」と冷たく答えるのです。

大人の事情によって権力者という「勝者」の言いなりになるしかなかった親・・・すべての真実を知ってしまった少年は、親の犠牲を踏み台にして、自ら「勝者」への道を選んでいくという皮肉。アンドレウが、この”トラウマ”から逃れることはあるのでしょうか?

親を捨てた子供の未来には、例え「勝者」となって成功したとしても、背負った過去からは、やはり逃れられないと思うのです。

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アグスティ・ビジャロンガ監督(Agustí Villaronga)の主なフィルモグラフィー

1987 「硝子の檻の中で」(Tras el cristal)
1989 「ムーンチャイルド/月の子ども」(El nino de la luna)
1997 「99.9」(99.9)
2000 「エル・マール~海と殉教(海へ還る日)」(El mar)
2002 「アロ・トルプキン~殺人の記憶」(Aro Tolbukhin: en la mente del asesino)
2010 「ブラック・ブレッド」(Pa negro



「ブラック・ブレッド」
原題/Pa negro
2010年/スペイン
監督 : アグスティ・ビジャロンガ
出演 : フランセスク・クルメ、マリナ・コマス、ナラ・ナパス、セルジ・ロペス
2011年9月17日第8回ラテンビート映画祭にてプレミア上映
2012年6月23日より日本劇場公開



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2012/06/04

やっぱり勝間和代の(逆説的な意味で)熱烈な”ファン”なのかもしれない・・・あまりにも都合の良い「自己分析」と、イタイほど底なしの「自己肯定」!~『「有名人になる」ということ』勝間和代著~



最近、テレビに出演する機会も減り・・・「金スマ」で”ロングブレス・ダイエット”で「痩せました!」という実験台になっていたり、さすがに「カツマーブーム」も終息したのね・・・と思っていたら、本屋さんで「見つけちゃいました!」勝間和代の「自虐キャラ本」!これほど「嫌われていること」「叩かれること」をセールスポイントにする商魂(出版社もか?)を持ち続けられる面の皮の厚さには脱帽です。そして、また「嫌い、嫌い」と言いながら、勝間本を購入してしまうボクって・・・逆説的な意味で、勝間和代の熱烈な”ファン”なのかもしれません。

『「有名人になる」ということ』は、すでに表紙から「自虐」っぷり満載です。まず、帯には西原理恵子のイラストと「勝間がまた嫌われそうな本出している。」とあり、裏帯には「あんた有名じゃないって。」と「有名人」であること自体にも自虐的・・・あまりにも確信犯的な「嫌われ者」の自己申告であります。嫌われ者のウザいキャラに目覚めて、自虐キャラ全開の勝間和代ですが・・・本書は「カツマー」と呼ばれる勝間和代信者(まだ、存在しているとしたら)にまでも、冷や水を浴びせるような本末転倒な「暴露」本ともなっています。

まず「何を言い出しているの?」とツッコミたくなってしまうのが「はじめに」の部分です。(勝間本は”まえがき”に、すべてが集約されていることが多いような気がします)勝間和代は本業の投資顧問会社の業績が芳しくないので、自分自身が「有名人になる」というビジネスによって、会社の立て直しを計ったと告白しているのですから・・・。これって、毎度ながらの勝間節「すべて私の計画であった」という”結果あり”のお得意な「自己肯定」であります。そして、緻密なリサーチとプランニングによって、「勝間和代」という”商品”が売れる「マーケット」を”意図的”に狙ったということ自負してしまうのですから、カツマー信者というのは、まんまと彼女の思惑にハマった・・・ということのようです。

勝間和代の名前が世間一般にまで知れ渡るようになったのは、香山リカ著の「しかみつかない生き方」というベストセラーの中で「否定的」に取り上げられてから。これは、マスコミを巻き込んだバトルに発展して、結果的に勝間和代の知名度が上がり、テレビ番組への進出にも拍車がかかりました。しかし、本書では事細かに「有名人になる」プロセスについて語っているにも関わらず、香山リカとの経緯には本書では、まったく触れていません。

「有名人になる」ということのメリットとデメリットについて語っているのですが、わざわざ経験の新鮮なうちに書き留めておかないといけないほどの内容ではありません。一般人でも容易く想像できる範囲でのメリット、デメリットを「有名人になる」を成し遂げた者という立場から、これによがしに解説してしまうという”上から目線”や”空気の読めなさ”が、いかにも勝間和代らしいとしか言いようがありません。さらに、どうやったら「有名人になれるか」という方法論まで、「自己分析」と「自己肯定」によって論じてしまうのですから「どんだけ、自分がスタンダードやねん!」(何故か関西弁)と、ツッコミたくなります。

「勝間和代嫌い」「勝間本の中身が薄い」「顔が気持ち悪い」「鼻の穴」と言われて、メンタルに響いたと訴えていますが・・・それは「有名人」ということが原因だけではありません。公の場で、評論家とか解説者の立場で何かを論じてお金を頂くということをしている限り、否定的な印象を持つ人がいるのは仕方ないことです。確かに”顔の気持ち悪さ”や”鼻の穴”を攻撃するのは、いくらテレビに出ている人だからといって言い過ぎかもしれませんが・・・。

しかし・・・これは「勝間和代」だから”こそ”でもあります。外見的に恵まれていないテレビに出ているコメンテーター/評論家というのは勝間和代以外にも大勢いますが、そういう人たちが容姿や外見だけで攻撃を受けるいるわけではありません。一般人はテレビなどのメディアを通じて”ひととなり”を無意識に判断しているところというのがあります。外見の”印象”から「勝間和代」という人の存在に好感を持てないという人がいるというのは、彼女にとって理不尽で不条理だとは思いますが・・・わざわざ”恨み言”のように著書で書いてしまうところが、ますます”アンチ・カツマー”の感情をを逆撫でしてしまうのです。

嫌いな人から「私のこういうところが嫌いなのですね!」と指摘されるほど、不快を感じることってありません。嫌われていることさえも、とことん営業に利用する勝間和代。

好感度がないのに”知名度”だけはある・・・あなたは立派な「有名人」です。





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2012/06/02

”お化け屋敷モノ”は演出とキャラクターが「キモ」なのだ!~「グレイヴ・エンカウンターズ/Grave Encounters」「インキーパーズ/The Innkeepers」~



「予告編が超~怖い!」ということで話題になった「グレイヴ・エンカウンターズ」・・・日本でも堂々の劇場公開となりました。それも、シアターN渋谷とかでの単館公開とか、レイトショーという「とりあえず劇場公開という既成事実をつくる」的な上映でなく・・・TOHOシネマズなどのシネコンプレックスでの”全国”ロードショーです!ただ、予告編で話題になるホラー映画っていうのは、だいたい本編はガッカリ・・・ってことが多いものですが、「グレイヴ・エンカウンターズ」も例外ではありません。見事なほどの「ネタバレ予告編」・・・というか、予告編が一番怖いという残念なケース”であります。

「グレイヴ・エンカウンターズ」は、同名のテレビ番組の取材クルーが閉鎖された精神病棟で遭遇した体験が記録された映像・・・というモキュメンタリーの常套手法による”お化け屋敷モノ”。不安定なハンドカメラ、モノクロームの赤外線ハンドカメラと定点カメラという撮影テクニックを駆使して「見えそうで、見えない」演出で引っ張り、サプライズで驚かすという”お馴染み”のスタイルであります。

とにかく取材クルー(特にカメラ目線のMC役!)が胡散臭くて、お金を渡して嘘の証言させたり、イカニモ偽物っぽい霊能者が出てきたり、この手のテレビ番組の”ヤラセ暴露”みたい・・・しかし、番組演出で病棟を外側からチェーンで施錠して、ひと晩肝試し状態でクルー達が閉じ込められると、今度は”本当に”心霊現象が起こり始めるという展開になります。ただ、登場人物たちが、ホントどうでもいいとしか思えないのばっかりなので「ぎゃーぎゃー」大騒ぎしてうるさいだけ・・・恐怖の仕掛けも目新しさはなく、予告編に登場する”例の彼女”を始め、びっくり箱的な「驚かし」が後半に連発されるという、最後の最後まで典型的な流れのまま終わります。こういう映画を観ると・・・テレビ番組の「恐怖心霊映像」とかって、明らかに”つくりもの”なんだと思えてきてしまいます。予告編以上でもなく、予告編から想像できる内容のままという”一作”であります。




「グレイヴ・エンカウンターズ」を全国ロードショーするなら、同じ”お化け屋敷モノ”だったら、こちらを公開して欲しいと思うのが・・・日本ではDVDスルーの決定した「インキーパーズ/The Innkeepers」という作品。ストーリー的には、これほどオーソドックスな”お化け屋敷モノ”はないのではと思えるほどなのですが・・・登場人物をしっかりと描くことによって、単なる”お化け屋敷モノ”というジャンルに留まらない、不思議な魅力をもった一作となっています。

舞台となるのは、ニューイングランドにある”ヤンキー・ペドラー.イン”というホテル・・・その昔、婚約者に捨てられたマデリン・オマーリーという女性が首を吊って自殺をして、その後亡霊となってホテルを徘徊しているという噂があり、それを売り物にしてきたのです。しかし、あと1週間で閉館することが決まっており、オーナーはバケーションに出掛けて不在、従業員も殆ど解雇されて働いているのはルーク(パット・ヒーリー)とクレア(サラ・バクストン)の二人しかいません。クレアとルークは亡霊の存在する証拠をみつけようと、機材を持ち込んで心霊現象を記録しようと探索を始めるのです。

何といっても、クレアとルークのキャラが独特・・・不思議系っぽくて、なんとなく仕事のやる気に欠けている、ゆる〜い二人のやり取りから、何故か目が離せなくなってしまうのは、どことなく皮肉まじりの台詞と、演じているサラ・バクストンとパット・ヒーリーの持ち味かもしれません。タイトルどおり・・・インキーパーズ(旅館管理人)である二人のユーモラスな掛け合いで映画は進んでいくわけですが、キューブリックの「シャイニング」風のゆったりとしたカメラワーク、シーンごとの的確なカメラアングル、効果音のタイミングなどなど、しっかりと王道な”怖さ”の演出を押さえています。この二人の登場人物に感情移入できるからこそ・・・控えめな恐怖演出にもドキドしてしまうというのです

宿泊客は、元女優にして霊媒師というリアン・リース・ジョーンズ(ケリー・マクギリス)や、以前新婚旅行で滞在したことがあるという老紳士(ジョージ・リドル)だけ・・・クレアとルークは心霊探査を続けます。レコーダーには不思議な音が録音されたり、奇妙な物音がし始めます。リアンの霊感によると、地下室に何かがあると感じているらしいことがわかり、遂に二人は禁断の地下へ探索をすることになるのです。ここまでは比較的マイルドな恐怖演出なのですが・・・この後、血だらけの展開になっていき、意外な結末となります。

ホラー映画としては正直いって、肩すかしを食らうようなところもある本作でありますが、作品の魅力はクレアとルークのキャラクターと、どこか懐かしさを感じさせる雰囲気・・・過激に残酷な描写や、驚かすだけの”サプライズ”のホラーではないのです。また、クレアとルークのキャラクターは、ボクがニューイングランドの美術学校時代に出会ったアーティストの友人たちにメチャクチャ似ていて・・・妙にリアルで親しみを感じてしまう。ツボにハマってしまったのでした。


「グレイヴ・エンカウンターズ」
原題/Grave Encounters
2011年/カナダ
監督、脚本、編集:ザ・ヴィシャス・ブラザース
出演      :ショーン・ロジャーソン、アシュリー・グリスコ、フアン、リーディンガー、マッケンジー・グレイ、メルウィン・モンデサー



「インキーパーズ」
原題/The Innkeepers
2011年/アメリカ
監督 : タイ・ウエスト
出演 : サラ・バクストン、パット・ヒーリー、ケリー・マクギリス、ジョージ.リドル
2012年8月3日に国内版DVD発売



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