2012/02/29

祝・アカデミー脚本賞受賞!・・・ノスタルジックでロマンチックなファンタジーと人生の皮肉を紡いだ”ウディ・アレン”の職人技~「ミッドナイト・イン・パリ」~



先日(2012年2月27日)行なわれた第84回アカデミー賞授賞発表授賞式・・・作品賞など主要な部門を含む5つのオスカーを獲得したフランスのサイレント映画「アーティスト」や、毎年のようにノミネートされているメリル・ストリープがサッチャー首相のモノマネ演技で、意外にあっさりと3度目の演技賞受賞など、何かと話題があったのだけれど・・・ボクが良い意味でサプライズしたのが、ウディ・アレンの3度目のオリジナル脚本賞の受賞です。アカデミー賞ノミネートの常連でありながら、授賞式には出席しないことで有名なウディ・アレンは、「アニー・ホール」(1977年)「ハンナとその姉妹」(1986年)以来の受賞でしたが、勿論、今年も会場には来ていませんでした。

ボク個人的には、1990年代始めに騒動になった公私のパートナーだったミア・ファローの連れ子(スン=イー・プレヴィン)との交際発覚(その後に結婚)以降、道徳的にウディ・アレンを受け入れがたく感じるようになってしまいました。血のつながっていないとは言っても「娘」のような存在であったパートナーの養女(当時21歳)と肉体関係を持つというのは、正直「人として如何なものか?」・・・・それもウディ・アレンは、すでに50代後半。さらに、発覚したきっけけというのが、ミア・ファローが養女のヌード写真をウディ・アレンの部屋から見つけたというのだから、下世話なメロドラマのような陳腐さでありました。そんなわけで・・・ボクは「マンハッタン殺人ミステリー」(1993年)以降は、めっきり彼の作品をリアルタイムで観ることもなくなってしまったのです。

興行的にウディ・アレン作品として最大のヒットとなっている最新作「ミッドナイト・イン・パリ」は、「カイロの紫のバラ」(1985年)や「アリス」(1990年)などの流れを汲むファンタジー路線・・・ひと言で言うと”タイムトラベル”のお話であります。

パリの街を愛情溢れる暖かな色彩で撮影した風景のスライドショーで本作は始まります。ニューヨークを第2の故郷と思うボクには嫉妬さえ感じてしまうほどです。それほど、全編に渡って、ウディ・アレンはパリを魅力的に映しとっています。場面はモネの庭園でパリに移り住むことを夢見ているジル(オーウェン・ウィルソン)と、彼の婚約者イネス(レイチェル・マクアダム)の会話となります。ウディ・アレンの脚本の素晴らしさというのは、この二人の数分の掛け合いだけで、二人の関係性や設定を、明確に説明してしまうところでしょう。相変わらず、入れ替わり立ち替わり登場人物は多いし、その関係性も微妙ではあるのですが・・・画面に登場してひと言ふた言の台詞で、そのキャラクターの人物設定から登場人物達の関係性が手に取るように明らかになってしまうのですから、これって凄いことです。

ジルはハリウッド映画のスクリプトの仕事で成功を収めているもものの、小説家としてひと旗揚げようと考えています。イネスの両親(カート・フューラー、ミミ・ケネディ)のビジネストリップに便乗して、イネスと共にパリに滞在して、すっかりパリの魅力に取り憑かれて、結婚後は二人で移り住むことを夢み始めてします。イネスの元カレのポール(マイケル・シーン)と彼の妻キャロル(ニナ・アリアンダ)と偶然パリで合流して、イネスはすっかり彼らと意気投合・・・取り残されたジルは、骨董屋で若いアルバイトの女の子と知り合ったり、真夜中フラフラとパリの街を散歩するようになります。

そんな、ある真夜中・・・ジルは1920年代のパリの街角にタイムトリップしてしまうのです。まぁ、難しい理屈はさておいて・・・F・スコット・フィッツジェラルドと妻のゼルダ(アリソン・ピル)と知り合いになり、ジルが崇拝するさまざまな芸術家たち・・・ガートルード・スタイン(キャシー・ベイツ)、アーネスト・ヘミングウェイ、T・S・エリオット、コール・ポーター、パブロ・ピカソ、ヘンリ・マチス、マン・レイ、ルイス・ブニュエル、サルバドール・ダリ(エイドリアン・ブロンディ)らと夜な夜な交流することになるのです。モディリアーニやピカソのミューズ(愛人)であったエイドリアーナ(マリオン・コティラード)には恋心を抱き合うよになり・・・現実の婚約者であるイネスとは、ますますギクシャクした関係になっていってしまいます。

ジルが1920年代のパリに憧れを抱くように、エイドリアーナはベル・エポックの時代(19世紀末期)に強い憧れを抱いています。そして、二人がデート中、1920年代から19世紀へとさらにタイムトリップしてしまうのです。現代のジルからすると、パリの黄金期は1920年代・・・おかしなもので、その1920年代に生きるエイドリアーナにとってのパリの黄金期は19世紀末期のベル・エポック時代というのは・・・「人は自らが経験することのなかった、ちょっとだけ過去の時代に憧れるものだ」ということでしょう。これはファッションでは常に繰り返されていることで・・・1980年代初頭、若者であった僕らの世代はアールデコのインテリアや、フィフティーズのファッションに憧れ、1990年代以降は1960年代、1970年代を振り返り、数年前からは1980年代がおしゃれに見える・・・若い世代は常に自分たちが生まれるちょっと前の時代に憧れを持つもののようです。

本作は思いもよらない、あっさりとしたエンディングを迎えて終わります。そこには練りに練ったドラマツルギーや、思わず膝を叩いてしまうようなオチよりも・・・「人生なんて、どうなるか分からないさ」という軽やかな人生観も感じられて、観賞後には、何とも言えない”いい気分”になれてしまうのです。


「ミッドナイト・イン・パリ」
原題/MIdnight in Paris
2011年/スペイン、アメリカ
監督&脚本:ウディ・アレン
出演   :オーウェン・ウィルソン、レイチェル・マクアダム、エイドリアン・ブロンディ、キャシー・ベイツ、エイドリアン・ブロンディ、マリオン・コティヤール、マイケル・シーン、カーラ・ブルー二、マリオン・コティラード
2012年5月26日より日本公開



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2012/02/24

ライアン・ゴズリング主演の最高にスタイリッシュな”男の子映画”・・・デヴィット・リンチとスタンリー・キューブリックの遺伝子を引き継ぐニコラス・ウィンディング・レフン監督による”暴力のアート・フィルム”~「ドライヴ/Drive」~



今、最も旬な男優のひとり・・・ライアン・ゴズリング。特に近年の出演作はどれも話題作でもあり、演技も高い評価も受けています。「きみに読む物語」ではロマンティックなリーディンマン、「ラースとその彼女」ではダッチワイフを恋人にしてしまう繊細な青年、「ブルーバレンタイン」では結婚が破綻してくダメ男・・・と、作品を選ぶセンスだけでなく、役柄をリアルに演じ分けています。日本未公開ですが、出世作のひとつの「The Believer/ビリーバー」では、ユダヤ人でありながらネオナチに陶酔してく屈折した若者を異様な気迫で演じていました。また「Half Nelson/ハーフ・ネルソン」では麻薬に溺れる貧民街の教師を演じてアカデミー主演男優賞ノミネートされています。

そんなライアン・ゴズリングの新作のひとつが「ドライヴ」です。主人公が犯罪者を現場から車で逃走させる「プロの逃がし屋」で役名が名前ではなく”ドライバー”という設定だと聞いた時には、1978年のウォルター・ヒル監督、ライアン・オニール主演の「ザ・ドライバー」のリメイク???と思ってしまいましたが・・・本作は、ジェイムズ・サリスというクライム・ミステリー作家による2006年に出版された同名の小説が原作。設定を映画版の「ザ・ドライバー」の影響を受けていることは明らかですが(主人公の名前も経歴も不明で”ドライバー”としか呼ばれない)ストーリーは違う作品でした。

監督のニコラス・ウィンディング・レフンは、コペンハーゲン生まれのデンマーク人・・・子供時代にニューヨークへ暮らし、映画の勉強もアメリカで始めたものの、デンマークに戻り24歳の時に監督した1996年の「プッシャー/Pusher」(その後三部作になる)というバイオレンスな麻薬ディラーを描いた犯罪映画で、デンマーク国内だけでなく世界的に注目を集めます。そして、このデビュー作以来、凄まじい暴力描写の犯罪映画ばかりを撮り続けることになるのです。2作目の「ブリーダー/Bleeder」(1999年)では、映像、キャラクター、音楽がエモーショナルに連動するという、レフン監督独特のスタイルをみることができます。

3作目の「フィア・エックス/Fear X」(2003年)はジョン・タトゥーロ主演のミステリー。妻を殺された警備員が、現実と悪夢を行き来するようなアート・フィルム的な作品で、デヴィット・リンチの一連の作品を彷彿させました。出世作「プッシャー」の続編、続々編を完成後、イギリスで最も凶暴な囚人といわれる”チャールス・ブロンソン”(本名マイケル・ゴードン・ピーターソン)の半生を描いた「ブロンソン/Bronson」(2008年)を政策。スタンリー・キューブリック監督の「時計仕掛けのオレンジ」を思い起こさせる”暴力”と”権力”を対比させた作品でした。

本作「ドライヴ」では、レフン監督独特の照明によるアンビエンスのある”クールな映像”と、ベタな歌詞が場面と連動する”エレクトリック・ポップ”やエモーショナルに盛り上がる”ムード・ミュージック”との融合が、暴力のカタルシスになっていく・・・デヴィット・リンチやスタンリー・キューブリックの”遺伝子”を連想させるのです。

ライアン・ゴズリング演じる”ドライバー”は、家族も友人もいない寡黙で不器用な男(映画内でもあまり台詞がない)・・・昼間は車の修理工場で働いたり、ハリウッドの車のスタントマン稼業をしながら、凄腕のドライビングテクニックを駆使して夜は腕利きの”プロの逃がし屋”稼業もしています。ある日、引っ越したばかりの同じアパートメントビルに暮らすアイリーン(キャリー・マリガン)とエレベーターで出会い、心惹かれてしまいます。ドライブデートを重ね、お互いの気持ちが徐々に寄り合っていくのですが・・・実は、アイリーンには、もうすぐ服役を終えて戻ってくる夫スタンダード(オスカー・アイザック)がいるのです。更正を誓うスタンダードと家族を守ることをアイリーンは決め、”ドライバー”もそんな彼らを影で見守ることとなります。ところが、服役中の用心棒費用を借金していたスタンダードは、闇の組織に強盗をすることを強要されて追い詰められています。そこで、”ドライバー”は愛する女性のムショ帰りの”夫”を救うため、無料で”逃がし屋”をかって出るのです。ううう・・・切ない。

”ドライバー”は、スタンダードと組織からの女ブランチ(クリスティナ・ヘンドリックス)を伴い、町外れの質屋の強盗を決行します。大金が入ったバッグとブランチは問題なく車に戻ってきたのですが、スタンダードは店の前で銃で撃たれて殺されてしまいます。”ドライバー”はブランチと大金をのせたまま逃亡することとなるのです。ところが、テレビのニュースでは大金が盗まれたことは報道されません。コレは罠だったのです。モーテルに潜伏していると、いきなりライフルを持った男達に襲われてしまいます。ブランチは頭をぶち抜かれ即死・・・ここからは、血まみれの自衛と復讐の暴力へと突き進んでいきます!頭部/顔面を破壊する暴力描写が多いのは、レフン監督の真骨頂・・・「ドライヴ」にひとつ前の作品「ヴァルハラ・ライジング/Valhalla RIsing」(2009年)ではスイカ割のように頭部をハンマーでぶっ叩いたていましたし、「ブロンソン/Bronson」でも特に顔面への暴力がしつこく繰り返されていました。

本作で最もロマンチック、かつ、バイオレンスなシーンが、エレベーターのシーンかもしれません。”ドライバー”は大金を持ってアイリーンと一緒に逃げても良いと告白するのですが、彼女は受け入れられません。そんな”まだかまり”を残したまま、”ドラーバー”を殺しにきた殺し屋と、アイリーンと”ドライバー”がエレベーターで鉢合わせしてしまうのです。”ドライバー”はいきなり振り返り、音楽に合わせてスローモーションでアイリーンとキスした直後・・・殺し屋に襲いかかり、靴で頭部がグチャグチャになるまで踏みつけて惨殺しまうのです。”ドライバー”は、これを気に殺人者と化して、アイリーンをトラブルから逃すため、黒幕と戦うことを決意するのです。そして、彼女の前からは姿を消してしまいます。この二人が愛を確かめ合うのは、このエレベーターのキス”だけ”なのです。

不器用な男はあくまでも不器用で、愛のために戦うことしかできません。リアルな暴力描写に対して、叶わぬ男の愛はとことんピュアに描かれる・・・「ドライヴ」は、精一杯、切ない”男の子映画”なのであります。



「ドライヴ」
原題/Drive
2011年/アメリカ
監督 : ニコラス・ウィンディング・レフン
原作 : ジェイムズ・サリス
出演 : ライアン・ゴズリング、キャリー・マリガン、アルバート・ブルックス、オスカー・アイザック、ロン・パールマン、ブライアン・クランストン、クリスティナ・ヘンドリックス
2012年3月31日より日本公開



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2012/02/09

なんだかんだで、やっぱりエログロ趣味の美人日本画家から、目が離せない!・・・自傷系アーティストのしたたかな戦略と矛盾、そして未来~「松井冬子展ー世界中の子と友達になれるー」横浜美術館~



横浜美術館で開催されている「松井冬子展ー世界中の子と友達になれるー」に行ってきました。この「めのおかしブログ」で取り上げる映画の嗜好から、ボクが”松井冬子”が好きなことを推測するのは容易いことだと思います。勿論、彼女の作品そのものが好きということもありますが、梅図かずおのマンガ、もしくは、横溝正史の小説から抜けたしたような濃い(化粧だけでなく存在そのものが!)キャラの方に強く惹かれてしまうのであります。

松井冬子という画家について語る際に、その”美貌”を無視することは出来ません。モデル並みのスレンダーな長身、キリっとした美しい顔だち・・・妙な眼力の強さは、鳥居みゆきに通じる”イチャッテル”系の美人に共通のものを感じさせます。基本的にボクが見たことのある松井冬子は、何らかのメディアに出ているときだから、見られることを意識していて当たり前ではあるのですが・・・常に(それは工房で絵を描いている時さえ!)バッチリと濃い化粧をしているという”気合い”の入り様は「ナルシシズム」を強く感じさせます。ナチュラルさや自然体とは逆で、自分の美しさを最大限の効力を発揮する手管を知り尽くしているようで・・・いい意味で”素人”の匂いを感じられないのです。

女性の髪の長さというのは、その女性がどれだけ「女」を意識しているかを示すところもあると思うのですが・・・松井冬子は長い髪をも戦略的に使い分けているようです。着物のときには、様々なスタイルのアップされているのですが、どの着物姿の写真を見ても彼女の佇まいは、まるで「銀座のママ」・・・記者会見や公の場、または、お偉い先生(美大教授などの男性に限り!)との対談の「これぞ!」という機会には、必ず着物姿というのも、彼女のセルフ・プロデュース戦略なのでしょうか?批評家、画廊、アートコレクター、美大教授などの美術界を動かす”オジ様”が”イチコロ”になるのも納得なのであります。

洋装のときには、名古屋巻だったり、日本人女性らしいロングだったり・・・叶姉妹の美香さんを思わせるような”ゴージャス系”。ファッションモデルとしてイブニングドレスを着たときには、いかにも「お金がかかりそうな女」風なのにも関わらず・・・女性向けの取材や女性問題を扱う大学教授との対談のときには、ポニーテールで比較的お化粧も薄めで、(彼女としては)清楚なイメージにするという”あざとさ”を覗かせているのも素敵です!

「美貌を武器にする、したたかな美人画家」というだけでも、ボクには十分に面白い存在ではあるのですが・・・松井冬子の描く痛みを感じさせるグロテスクな日本画は、彼女の美貌と相まって作品以上の妖気を感じさせてしまうのです。日本画技法を独自で研究/再現して現代アートとして日本画の可能性を切り開いた・・・のかもしれないど、題材としている世界観はサブカル系の不思議ちゃんの好みそうな「エログロ趣味」で、お世辞にも”上品”とは言えない「イロもの」であることは否定できません。容姿に恵まれない女性(失礼!)が、こんな作品ばかりを描いていたら、ただただ恐ろしいだけ・・・女性からの共感も、美術関係の男性の注目も、これほど集めることはなかったでしょう。

松井冬子は、女子美術短期大学を卒業後、四浪までして東京芸術大学に入学しています。当初は油絵専攻だったようですが、後に日本画専攻に変更します。確かに彼女の描く人物が、日本画というより石膏デッサンのような印象も与えるのは、ベースとなっている油絵専攻での基礎があるからでしょうか・・・。ただ、彼女が油絵専攻のままであったら、耽美派の画家やイラストレーターのひとりとして埋もれてしまっていたかもしれません。彼女はインタビューなどで「エッジが効いている」という表現をよく使うのですが、そのような「感性」に依存したクリエーションというのは、自分の「趣味嗜好」の再現ということが多かったりします。「絹本」「薄描き」「裏彩色」などの日本画の伝統的な技法によって、単に「感性」に頼っているのではなく・・・絵の存在そのものにアカデミックな物語性を生み、創造過程に深みを感じさせることにもなっているのです。

美貌は世間の注目を集めますが、同時に、その美貌ゆえ、厳しい目で見られることもあります。それを打ちのめすように、松井冬子は女性としては初めて東京芸術大学の日本画専攻の博士号を取得します。アカデミックな学位を持つことは、誰でも納得する「箔付け」となり・・・「美人だから」という批判の枕言葉を封じることが出来るのですから「あっぱれ」であります。そのような「箔付け」の上塗りというのは、基本的に美人なのに、さらに常にきっちりと化粧する彼女のスタンスと似ているような気がしてしまうのです。それは、彼女の周到な「痛み」の表現にも通じるところがあります。「これでもか〜!」と、くどいほど上塗りして過剰に表現してしまうのは・・・強い性(さが)を感じてしまいます。

虫一匹から髪一本まで、細かに描き込まれた執念の「超絶技巧」は、松井冬子の人としての”几帳面さ”と”真面目さ”を表しているように思います。下絵を何度も描いて絹本に写すというのは、筆入れが一発勝負の日本画としては一般的な行程ではあるのですが・・・構図や対象物の大きさや比率を、まるでコンピューターグラフィックスの過程のように、何度も何度も試行錯誤して作り込んでいく彼女の忍耐力と几帳面さには、ただ敬服するしかありません。「感性」に頼らない真摯さは、まさに「匠の世界」の人であります。また、内蔵などのリアリティを追求するあまり、鼠や子牛を実際に解剖してスケッチをするという生真面目さもエグ過ぎてゾッとするほどです。

暴力によって鼓膜を傷つけられた経験を持つと公言している松井冬子・・・どれほど画家自身が哲学的に解説しようとも、仏教的な思わせぶりなタイトルを付けようとも、”意図的”に痛みを感じさせようとしている作品というのは、結局のところ”エログロ好き”という汚名(?)からは逃れられないのかもしれません。彼女が日本画専攻に転向したきっかけとなったという”河鍋暁斎”にしても、無惨絵の”月岡芳年””甲斐庄楠音”なども、その根底にあるのは”まがまがしい悪趣味”なのですから・・・。海外であれば、写真家のJ・W・ウィトキンの生理的限界を超える妖しさ、マーク・ライデンの”肉”への執着など、いわゆるサブカル好みの嗜好である気がします。上野千鶴子氏曰く・・・女性のジェンダー化した痛みを表現している「自傷系アート」という分類をするならば、フリーダ・カーロに通じるのかもしれません。

松井冬子の画家としてのキャリアに幸運だったのは・・・ゲイイラストレーターやエログロ写真を扱っていた金持ちのボンボン(16歳からアートコレクター)の道楽(?)のような「成山画廊」によって見出されたということかもしれません。2005年3月から4月に開催された初めての個展の前後から、あらゆる媒体へ「美人日本画家」として強烈にプッシュして、大々的に売り出してくれたのですから・・・。また、成山画廊にとっても”松井冬子”を抱える画廊として美術界のステイタスを得たわけで・・・まさに、お互いに”WIN WIN”の理想的な画家と画廊の関係とも言えるのであります。


2009年5月(25日?)に、松井冬子は東京大学の科学者(特任助教)の男性と結婚されました。結婚式の二次会のお土産が東大と芸大の大学饅頭だったそうで、一部のゲストには”ドン引き”されたという噂もあったりなかったり・・・「肩書き好き」という「素」が、露呈してしまったようです。

男性不信とも受け取れる自傷的なイメージを崇拝していた女性ファンにとっては「あなたもフツーの女だったね」と、裏切りに感じられたかもしれません。もしくは「さすが冬子さま~、東大の科学者先生と結婚なんて”らしい”わぁ~!」なのでしょうか?いずれにしても、自分の痛みを作品のテーマにしてきた松井冬子にとって、俗にいう「女性としての幸せ」が、今後どのように作品に影響していくかは、とても気になるところです。

横浜美術館での展覧会には、結婚後に描かれた作品も数点展示されていました。以前よりも、画面は全体的に明るく、ポジティブな印象を感じさせました。展覧会の出口近く、最後に展示されていたのは、トンボが孵化する瞬間を捉えた「生まれる」というタイトルの小さな絵・・・お子さまが誕生したというニュースは聞きませんが、明らかに彼女は次の人生のステージへ移行しているのかもしれません。ひとりの女性としてみた場合、あれほど痛みを訴えていたのに、随分と心が浄化されたんだと・・・涙が出そうであります。

しかし・・・”松井冬子”という「キャラ」のファンとしては、これからの彼女の人生にトンデモナイ波乱が起きることを願ってしまうヨコシマな自分もいるのです。

東大教授夫人としての幸せな結婚生活を送りながら、たわいもない花や昆虫を描くだけの松井冬子は、あまりにも面白くありません。「事実は小説より奇なり」を地で行くような、おどろおどろしい奇行を、ボクは心の隅で期待してしまうのです。例えば、何らかの理由で彼女がその美貌を失うようなことが起こったら・・・「美への執着」を感じさせる女の情念の世界へ入り込み、さらなる「痛み」と「怨念」を昇華していく「化け物」のような存在になってくれるのではないか・・・?

そんな不謹慎な妄想さえも膨らまされずにいられない”松井冬子”から・・・なんだかんだで、やっぱりボクは目が離せないのです。

横浜美術館
2012年3月18日まで



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2012/02/01

ラース・フォン・トリアー監督の鬱(うつ)地獄へようこそ・・・すべてが「無」になる世界の終わりこそが究極のハッピーエンドなのだ!~「メランコリア」~



「鬱になってしまいそうな映画」を撮らせたら右に出る監督はいないラース・フォン・トリアー・・・前作の鬱ホラー映画「アンチクライスト」に続く最新作は鬱SF映画!(といっても、ハリウッドのSF映画とは根本的に大きく違いますが)タイトルもズバリ「メランコリア」=「うつの心理状態」であります。雄大な世界観を舞台に個人的な心象をテーマ扱った映画として、テレンス・マリック監督の「ツリー・オブ・ライフ」や、マイク・ケンヒル監督の「アナザー・プラネット」(日本では劇場公開なしのDVDスルーで3月16日に発売)が思い起こされますが・・・「メランコリア」では何かしらの”救済”さえ提示されない、まさに”トリアーらしい”作品です。

巨大惑星”メランコリア”が地球に衝突する日が数日後に迫っている中、ジャスティン(キルスティン・ダンスト)とマイケル(アレクサンダー・スカルスガルド)の結婚式が、ジャスティンの姉夫婦、クレア(シャルロット・ゲンズブール)と大金持ちのジョン(キーフアー・サザーランド)の海辺の大豪邸で挙げられています。

しかし幸せの絶頂にあるべきはずのジャスティンは・・・披露宴に遅刻したり、ケーキカットをキャンセルしたり、ブランデーをラッパ飲みしたり、奇行を繰り返すのです。姉クレアとジョンは結婚式を台無しにさせまいと、ジャスティンを強く叱るのですが、ジャスティンの会社の社長を怒らせた上に、仕舞いには新郎のマイケルにまで愛想を尽かされてしまうのであります。ただ・・・不快な言動や行動をしているのはジャスティンだけではありません。姉夫婦のクレアとジョンは自分たちが計画して費用も出している豪華絢爛な披露宴がぶちこわしになることや、世間体を気にしているだけだったりします。母(シャーロット・ランプリング)は冷えきった自分の結婚生活を皮肉るようなスピーチをすますし、父(ジョン・ハート)は性悪ないたずらをウェイターに仕掛けて喜んでいたりします。

鬱であるジャスティン「だけ」は、惑星”メランコリア”が地球に激突して世界が終わることを確信していて、うわべの祝福や笑顔には何も意味を見出せていないようです。不思議なことに、彼女は生命は地球にしか存在しないことにも確信しているようで・・・つまり、惑星”メランコリア”が地球に衝突することによって、すべての生命が消滅して、宇宙は「無」になってしまうことであるというのであります。

虚無感と絶望の中、満足に食事もできず、ひとりで入浴もできないような酷い状態に落ち込んだかと思うと・・・世界の終わりが近づくにつれジャスティンは妙な落ち着きを感じさせたりします。これは、ラース・フォン・トリアー監督自身が鬱病に苦しんでいた時に、体験したセラピーからアイディアを得たとのこと・・・鬱病の患者は悪い事が起こると予測して、強いプレッシャーに冷静に行動する傾向があるということなのです。一方、姉のクレアやジョン達は、次第に空で大きくなっている惑星”メランコリア”が、地球に衝突することを確信するにつれ、悲観的になり自分を見失っていきます。

「メランコリア」ではタイトルの冒頭に、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」をバックに約8分ほどの台詞のない詩的なイメージ映像が流れます。超倍速カメラで撮影されたスローモーションなのですが、音楽と相まって、圧倒的に尊厳のある映像美を見せつけられます。鳥が空から落ちてきたり、馬がゆっくりと倒れていったり、ウエディングドレス姿のジャスティンが小川を流れていったり(ミレイの”オフィーリア”から引用)・・・そして、地球より遥かに大きい惑星”メランコリア”が地球に激突したところでタイトルが現れるのです。ある意味、「メランコリア」という映画は、この冒頭の8分で本作の要点を語ってしまっているとも言えるかもしれません。

最後には惑星”メランコリア”は目の前いっぱいに広がるほど地球に近づき、ジャスティンとクレアに向かって激突!・・・世界は終わり、すべてが「無」となって映画が終わります。自分を含め、世界のすべてが消滅するというのは、ある意味、究極のハッピーエンドと思えてしまうところがあります。鬱にとっての究極の結論は、自分の存在を消してしまうこと。その手段としての、内的な「無」という「自殺」と、外的な「無」である「世界の終わり」・・・そのふたつは鬱にとって紙一重でもあったりするのですから。


「メランコリア」
原題/Melancholia
2011年/デンマーク、スウェーデン、フランス、ドイツ、イタリア
監督&脚本 : ラース・フォン・トリアー
出演    : キルスティン・ダンスト、シャルロット・ゲンズブール、キーフアー・サザーランド、シャーロット・ランプリング、ジョン・ハート、ウド・ギア、アレクサンダー・スカルスガルド、ステラン・スカルスガルド
2012年2月17日より劇場公開



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