2010/11/30

ミュージックビデオで振り返ってみたら、マイケルを聴かなくなった理由を思い出しました~マイケル・ジャクソン「VISION」~



去年の今ごろ(2009年末)はマイケル・ジャクソンの「THIS IS IT」の劇場公開で、世界中は大騒ぎしていました。
ボクは劇場にまでは足は運ばなかったものの、今年1月のブレーレイ版を発売日に購入して、改めてマイケル・ジャクソンの才能には圧倒されたものでした。
世の中がマイケルの偉大さに感動し、亡くなった事実に改めて悲しんでいる中・・・ボクはどこか冷めたところもありました。
先日(2010年11月24日)に、マイケル・ジャクソンの全てのショートフィルム(プロモーションビデオ)を収録した「VISION」というDVDボックスが発売されたのですが・・・これまた、発売日にボクは購入しました。
結構なファンじゃないか・・・と思われてしまうでしょうが、実際にDVDを観てみたら収録されている楽曲で知っていたのは半分ほど。
リアルタイムでマイケル・ジャクソンの音楽はずっと聴いてきたつもりではありましたが、よく考えてみればキチンと聴いていたのは80年代半ばあたりまでだったのです。
やはり・・・あの時感じた「違和感」以降、ボクはマイケルの音楽には、それほど関心を持つことが出来なかったということだったのかもしれません。

ボクが初めてマイケル・ジャクソンの音楽を知ったのは、1979~1980年ごろディスコに出掛けるようになってからだと思います。
六本木のスクウェアビルのディスコ(名前は忘れたけど)で「今夜はドント・ストップ/Don't Stop 'Till You Get Enough」で踊ったりしてた記憶があります・・・といっても、当時、マイケル・ジャクソンの曲であったことは分かっていなかったのですが。


その後(1981年9月)にニューヨークに渡り、音楽好きの日本人の友人らに影響されて、ボクは洋楽を聴くようになったのですが・・・「これが好き!」というほど自分の趣味が定まっていたわけではありませんでした。
BOW BOW WOW、Earth Wind & Fire、Billy Joel, ELOなどのコマーシャルな音楽を聴きながら、マッドハウス、アンダーグラウンド、ダンステリアなどのクラブにも出入りしたりして、何でもかんでもチャンポンだったのです。
ただ、急にいろんな音楽を聴き始めたボクにとって、マイケル・ジャクソンという存在は、徐々にコマーシャル過ぎる存在に徐々になっていったのでした。

アルバムの「スリラー」が発売された1982年には、ボクはメイン州のプレップ・スクールの寮で暮らしていたので、実際にアルバムを購入したのは、発売されてから時間が経ってからだったと思います。
当時始まったばかりのMTVは、今のような若者向けの番組を製作放映していたわけでなく、まさにミュージックビデオばかりを流す専門チャンネルらしかったのです。
ただ、まだミュージックビデオ自体の数も少なかったので、同じビデオを繰り返し放映していたような感じでした。
それに、ケーブルテレビ自体がそれほど一般的でなくて、MTVを視聴出来る環境を持っているのは、明らかに中産階級以上の豊かな人ではあったのです。
確かにマイケル・ジャクソンが、ヘビーローテーションで放映された初めての黒人音楽でしたが、すでに「VH1」という別のミュージックビデオ専門チャンネルも存在しており、こちらでは黒人音楽を放映していました。

「Billie Jean」のビデオは、ある意味、衝撃的でした。
当時のビデオは、今からすると陳腐なCG的な効果を使ったスタジオ撮影か、ミュージシャンが街中とか、部屋の中で歌っている・・・程度のクオリティが殆どでした。
映画のようにセットを作って演出された、費用をかけたビデオは珍しかったのです。
ただ、当時から歌詞の内容(自分の子種じゃないと訴える唄)とは、まったく関係ないコンセプトの映像は妙に感じたものでした。

次に公開された「Beat It」は、本当の意味で「ミュージックビデオ革命」だったと言って良いのかもしれません・・・。
明らかに「ウエストサイド物語」からインスパイアされたダンスの演出でしたが、サビに合わせてバックダンサーらと動きを合わせて踊り始める瞬間には、誰もがゾクゾクして興奮したものです。


そして「Thriller」・・・このビデオが放映されることが、MTVのイベントでした。
ただ、ボク自身がテレビ(それもケーブルテレビ)を持つようになるのは1987年なので、どうやってミュージックビデオを観ていたのでしょう?
ゲーブルテレビはおろかテレビ自体を所有していなかったし、ビデオデッキもそれほど一般的でなくレンタルビデオ屋だってマンハッタンに数軒しかない(ビデオデッキ自体をレンタルして観ることもあった)時代・・・振り返って考えてみると、ビデオ観たさにクラブやバーへ足を運んだりしていたのでした。

さて、1987年にマイケル・ジャクソンが4年ぶりの新作アルバム「BAD」を発表しました。
そして「BAD」のミュージックビデオを初公開するときには、ボクもテレビを持っていて、ケーブルビデオにも契約していて、リアルタイムでワールドプレミアを観ることができました。
そして、このビデオでのマイケル・ジャクソンの「顔」に、皆、たいへんなショックを受けました。
マーティン・スコセッジ監督によって演出されたショートフィルムは、モノクロの導入部分から始まります。
ほとんどが白人の全寮制のプライベートハイスクール(コネチカット州、もしくはマサチューセッツ州でしょうか?)・・・当時すでに29歳だったマイケルはクリスマス休暇で帰宅する高校生を演じているのです。


マイケルは他の白人の出演者と比べても、やけに肌の色が薄く顔の印象も以前と違うなぁ・・・とは思いましたが、画面はモノクロなので、それほどの違和感はまだ感じませんでした。
ハーレムらしき自宅へ戻ったマイケルを迎える近所の仲間のワルを演じていたウェズリー・スナイプスが黒人の中でも黒人的な特徴が強い顔で、肌の色も濃いこともあって、マイケルの肌の色の薄さがより強調されるようです。


その違和感がマックスに達したのは、地下鉄のシーンで画面がカラーになった時でした!
・・・明らかに整形手術をしたであろうマイケルの顔、特に「鼻」の形状が作り物のようです・・・呆然としました。


当時、アメリカのマスコミは整形疑惑を騒ぎ立えれ、深層心理的に「白人願望」を表しているというような非難を受けましたが、マイケル自身はすべて100%否定してます。(後に整形手術については肯定的な発言もしていますが)
マイケルの心のうちを知る由は誰にもありませんが・・・ある種「人種同一障害」のような複雑な心情を邪推してしまって、ボクは「痛く」感じてしまったのです。

今回、発売された「VISION」を時代順に観ていくことは、同時にマイケルの外見の変貌の歴史をワンステップごとに追っていくことになります。
晩年に近づくにつれて、肌はますます磁器のように輝くほど白くなり、鼻の形はますますシャープに小さくなり、髪はますます直毛のさらさらヘアーとなっていく・・・パフォーマーとして洗練され完成度が高まるについれて、外見の変容も加速化していくように感じます。


それは、心の真理を追究し続けて、最後には「死」を選ぶしかなくなってしまう文豪や思想家が突き進んでしまう”危険なベクトル”にも似ているような気がするのです。
3枚目に収録されているジャクソン5時代に兄弟とともに歌い踊るマイケルは、アフロヘアーの黒人の姿。
すごくチャーミングで、この姿のままで世界中から愛されていたのに「どうして?」と・・・マイケルに繰り返し問いたくなってしまうのです。





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2010/11/24

お手軽”すぎる”出会い系アプリ・・・妄想するなら「Scruff」?リアルな出会いなら「jack'd」?



iPhone、iPod touch、iPadを持っているゲイなら、とりあえずダウンロードしてしまうのが、iTunes Storeの「App Store」のソーシャルネットワーキングカテゴリーで入手することのできる「出会い系アプリ」でしょう。

おそらく、この手のアプリでは老舗の「Grindr」が最も知られていると思いますが、良くも悪くも仕組みはシンプル・・・ただ、自分のいる場所に近い人からドバーっと画像が表示されるのは圧巻ではあります。
年齢、身長、体重、人種(アジア系など)のプロフィールと、任意のタイトルとコメントがあって・・・「chat/チャット」ボタンで相手にメッセージや画像などを送れるというのが基本的な機能。
その他には、相手を「Block/ブロック」したり、画面のトップに表示されるようになる「Favorite/お気に入り」がある程度で、iPhoneなどの小さな画面で操作するには便利かもしれません。
ただ・・・いきなり「チャット」というコミュニケーション手段は、ある程度の積極性が必要とはなるのです。
「待ち子」の多いゲイコミュニティーに於いて、仕組み的には「得意」「不得意」が明暗を分けるアプリではあったのではないでしょうか・・・。

ゲイ向けの出会い系アプリは増え続けていているようで「Grindr」の他に「G2」「Qrushr」「Recon」「Boy Ahoy」「SpeedDate」「u4bear」「West Fourth」「Scruff」「jack'd」と・・・多数存在しています。
それぞれ特徴があり、インターフェイスやシステムの違いによって好き嫌いが分かれそうです。
また「出会い系」には重要なのは登録メンバーの傾向ですが・・・登録するために審査があるわけではないので、完全な棲み分けがされているわけではなく、老若細太、かなりミックスという感じでしょうか?

位置情報を元に近くにいるメンバーから画像表示、「☆マーク」でお気に入りリストに登録、「ふきだしマーク」でメッセージを送れるのは「Grindr」と同じですが、画像を最大3つ登録できたり、「雲マーク」で任意のURLリンクを張ったり、「♡マーク」で相手にハートを送ってさりげなくアプローチできます。

位置情報を元に近くにいるメンバーから画像表示、「Add Friend」でフレンドリストに登録、「Chat」でメッセージを送れるのは「Grindr」と同じですが、さらに「ラジオ局」「ビデオプレーヤー」「チャットルーム(ジャンル別に分かれている)」「オンラインマガジン」などとアプリ内で連動しています。
そのために、インターフェイスがごちゃごちゃして使いにくい感じです。
10300円というトンデモナイ価格をつけた「Qrushr VIP」という上位版アプリも存在しています。

位置情報を元に近くにいるメンバーから画像表示、「☆マーク」でお気に入り(Favourites)に登録、「Chat」でメッセージを送れるのは「Grindr」と同じで、ほぼ似たような使い勝手です。
このアプリの一番の特徴は、レザーなどのフェティッシュのあるユーザー向けということに尽きるでしょう。

”オンライン中”のメンバーだけをランダムに画像表示するのですが、「世界中」「国内」「県内」「市内」「近所」の分類、年齢、人種によって検索の範囲を指定できます。
画像は4枚までアップ、閲覧者が画像にコメントが残せるというのが特徴。
「Wink」で気になるメンバーにさりげなくアプローチできます。
さらに有料版の「Boy Ahoy Pro」なら、画像のセーブなどの機能が拡張できますが、結構いいお値段(ひと月1200円、3ヶ月2300円、ライフタイム4600円)です。

まず、このアプリはゲイというネーミングがついていますが、ゲイだけに特化しているわけではりません。
メンバーの検索条件は、ものすごく豊富であります。
基本的に有料版($3.95/月)を使わないと十分な機能を使えないと思った方が良いでしょう。
そして、無料版でも登録すると、確実にジャンクメールが増えます・・・。

名の通り、ベア系向けのアプリであります。
残念なことに、iPadだと表示が小さくて見にくい上に、システムが洗練されていないので使いにくいです。
「Woof!」で興味があることをアピールしたり、「Flirt」でお互いに「オッケー(チェックマークというのが日本人には分かりにくい)」をクリックすると気に入った者同志がマッチングされたり、特定のメンバーに画像を送ったりという機能もあります・・・ただ、どれも使いにくいのです。

同じプログラムによって作成されたアプリなので、使い勝手はまったく同じといって良いでしょう。
違いはユーザー層・・・「West Fourth」が若くてキレイ系の髭なしだとすると、「Scruff」は中年ベア系の髭ありという感じでしょうか。
表示は「Online/オンライン中メンバー」「Near/位置情報を元に近所から」「Favorites/お気に入り」「Messages/メッセージのやり取りしたメンバー」そして「Viewers/閲覧者(自分のプロフィールをみたメンバー)」の5つ。
距離などの細かな設定が出来ないので、とんでもなく遠距離のメンバーも表示されます。
この遠いメンバーも表示されるところが結構ミソで・・・世界中のいい男と妄想できちゃうのであります。
まず「Woof!」でアプローチ、そしてメッセージや画像を送り合うことができるわけですが・・・考えてみれば、相手は1万キロ先に住んでいる人なんてことも多々あるわけで、リアルを求める人には不向きかもしれません。
実際に会えない故に、ちょっと大胆になれたりするものですから・・・ここはキッパリと妄想として楽しむことがベストだと思います。
勿論、近くにいるメンバーも表示されるわけですから、リアルを求める人はまず「距離」に注目すべきです。
マッチング機能も搭載されていて、相手のプロフィール内にある「Would you meet ***?」の下の「Definitely/絶対会ってみたい!」「Maybe/たぶん・・・」「Not my type/タイプじゃありません!」をクリックすれば、お互いに「Definitely」だった場合にはお知らせがくるというもの。
積極的に出会うならば、使うっきゃない機能であります。
さらに、プロフィールには「どんな仕事をしているか」「何に興味あるか(趣味でもエッチでも)」「何(どんな相手)を探しているか」「どこに住んでいるか」など、任意で記入出来るので(未記入でも可)それから伺える人柄を見るのも面白かったりします・・・まぁ、英語を読み書きできないとダメですが。

プロフィール画面が、ちょっとおしゃれなアプリです。
メインの画像をバックグラウンドの壁紙として表示し、通常で3枚、ロック機能付きの画像をさらに2枚アップ出来るのですが、ドカーンと画面いっぱいに表示されるので、iPadだとなかなかの迫力・・・掲載する画像はキチンと吟味しないといけません。
一般的なプロフの他に、自己紹介、好きな音楽、映画、読書など、日本語で記入出来るので、アプリの使い勝手としては、日本人に一番扱いやすいとも言えます。
位置情報を元に近くにいるメンバーから表示なので、基本的に閲覧出来るのは距離的に近くのメンバーのみ・・・さらにリアルな出会いを求めるためのツールとして「年齢」「身長」「体重」「人種」の基本的なプロフィールで表示させるメンバーを絞ることも出来ます。
そして、そして、このアプリの特徴はおせっかい(?)なほどの「マッチファインダー」という機能であります。
これは「West Fourth」「Scruff」よりも、ゲーム感覚的についついやってしまう巧妙な仕組みです。
次々に表示されていくプロフィールの下に「気になる」「保留」「興味なし」の選択肢があり、お互いに「気になる」だったら「Hi」(ここだけは英語なのね)というメッセージがお互いに届くというもの・・・450円分の寄付で「マッチファインダー」の使用制限が3日間使い放題になります。
ここまでお膳立てされていれば、マッチングしましたね~っとさすがの日本人でも連絡を取ってしまうものかもしれません。
ただ、マッチしてメッセージのやり取りしても、実際に会うというのはお互いのコミュニケーション次第ではありますが・・・。

これらの「ゲイ出会い系アプリ」を、ちょっとだけ試してみて・・・ボクが感じたのは、出会い系ツールとしてヒジョーに手軽だということ、そして、コミュニケーションを実際にとってみると双方の温度差の違いというのが結構シビアだということ。
出会い系アプリで、リアルな人間関係を求めるのは間違いではないけど、所詮、お互いを判断しているのは何枚かの画像と自己申告のプロフィール・・・あるとき、さっと冷めてしまうことも、よくあることです。
アプリで相手も自分も常に新しい誰かと出会い続けているような状況ですから、双方の強い意志と思いがないとなかなか実際に会って何らかの関係を(一瞬でも)持つというのは、なかなか難しそうです。
「人生のパートナー」との出会いを求めている人もいれば、「即ヤリ」を探している人もいるし、気に入った相手の「画像収集」にいそしむ人もいるし、とりあえず「友達」って言いながら別な何かも期待している人もいます。
ゲイ・コミュニティーには必ず存在する「イケる」「イケない」によるヒラルキー構造は現実以上に厳しく、グローバルな規模での自分の立ち位置というのを知ることも、新たな発見として楽しむ心の余裕は必要かもしれません。
「出会うこと」「繋がること」が手軽になれば、なるほど、その繋がった先にいる誰かの存在の価値も軽くなっていくような気がしてしまうのも事実・・・でも、確かにリアルに相手は存在しているのです。

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2010/11/21

メディアの移行時に失われるロングテール的なタイトル・・・映画配信と電子書籍、iPad と Apple TV の未来



遂に iTunes Store での映画配信のサービスが始まりました。
すでに、ひかりTV、アクトビラ、プレイステーションストア、XBOX 360などでも、映像/映画の配信サービスというのは行われてきましたが、15年来の生粋のマックユーザーであり、iPadユーザーで、iPod touch、Apple TVも持っているボクのような「アップルユーザー」にとっては、iTunes Storeという使い勝手の良いシステムで、音楽、ポッドキャストだけでなく映画までも管理、視聴出来るようになることを待ち望んでいたと言えるでしょう。
いよいよ、音楽が「CD」という物理的な記録メディアからデータ配信へと移行したように、映画(映像)も遂にメディアから開放されるのでしょうか?

記録メディアが変化するときには賛否両論になりますが、結果的には、安価で利便性の高い新しいメディアへ移行していくことになります。
ボクの世代というのは、特に記録メディアの移り変わりを経験した世代と言えるかもしれません。
映画(映像)の記録メデァイは、ここ40年ほどで大きな遍歴をしました。
ボクが子供の頃(1970年代半ばまで)は、個人が映画(映像)を所有するということは、8ミリや16ミリ「フィルム」しかなく・・・映画のタイトルが販売をされていても一本の映画が10万円以上という非常に高価なものでした。
1970年代後半になって、徐々に家庭用ビデオデッキ(販売開始当時は25万円!)が普及し始めましたが、映画の「ビデオ」というのは限られていて、主にテレビの録画用だったような気がします。
販売用のビデオテープというのも当初1本が2万円程度・・・購入するのは敷居が高かったのです。
1980年代半ば頃には、ビデオレンタル店が登場して「ビデオ」をレンタルして観るスタイルが一般化しました。
「レーザーディスク」は1980年代初頭から販売されましたが、レコード並みのサイズと劣化しないメディアということもあって当初はかなりのマニア向け・・・ただ、映画が1万円以下で購入することが出来ました。
DVDプレーヤーが登場するのは1996年・・・しかし当初は最も安い機種でも8万円もしました。
「DVD」というメディアが、本当の意味で普及するのは2003年の「プレイステーション2」の発売以降ということになるでしょう。
それから、わずか7年ほどで「DVD」から「Blu-Ray」へと移行していこうとしています。
現在では、映画のDVDが新品で1000円以下なんてこともあるわけで、映像を所有することも随分と容易くなったと感慨深くなってしまいます。
音楽に関しては「レコード」「カセットテープ」「CD」「MD」と記録メディアを変化させてきました。
2003年に「iTunes Music Store」で本格的に「音楽配信」が始め、物理的な在庫をする必要のない「配信サービス」の利点を生かして、ロングテール商品の取扱も増えてきています。

さて・・・記録メデァイの変化で一体何がボクにとって問題であったか・・・ということであります。
映画(映像)を例にとって考えてみましょう。
「フィルム」でしか映画を所有出来なかった時代には、それほどたくさんの映画がメディア化されていたわけではありません。
あらゆる作品がメディア化したのは「ビデオ」の時代になってからです。
勿論、当初は、当時の新作、人気のある旧作、というラインナップでしたが、プレーヤーが普及していくにつれてマニアックな作品もビデオ化されていくことになります。
おそらく、DVDへ完全に移行する2000年代半ばまでは、マニアックな作品はビデオと・・・いう時代だったのです。
そして・・・マニアックなタイトルのビデオに限って、DVD化されることもないことが多かったりするものでした。
大型液晶テレビの普及とともに、徐々に主流になりつつある「Blu-Ray」ですが、これから殆どの新作は「Blu-Ray」で販売されるにも関わらず旧作については、まだまだ「Blu-Ray」化は始まったばかりです。
そんな中・・・記録メディアとして成熟期を迎えた「DVD」では、最近になってビデオ化だけしかされていなかったマニアックな作品のDVD化のラッシュが続いています。
それでも「ビデオ」で販売されたすべてのタイトルが「DVD」になることはないでしょう。
これから何年経っても「Blu-Ray」で販売されることのない旧作というのも、絶対にあるのです。
毎年毎年、膨大な数の映画が製作されるわけで、それらを販売していく方がとりあえずは目に見えて売り上げにつながる・・・そうなると、過去に製作されたすべての映画を、ひとつの記録メディア化することは不可能でしょう。

それ故に・・・「配信サービス」には、期待が高まるのです。
記憶メディアという物理的な商品が存在する限り、どうしてもメーカーは在庫をかかえることになり、生産枚数というのが限られてきます。
過剰な在庫をかかえれば投げ売りされますし、在庫が売り切れて需要があれば中古でも高額で売り買いされるという状況になるわけです。
数年前まで廃盤のために数万円で取引されていたタイトルが、最近再版されたりしてます。
しかし、流通してみると、それほど売れるわけでもないようで・・・今では1500円タイトルとしてプレスを繰り返していたりします。
結局、儲けたのはタイミング良くオークションに出品した人たちっていうような状態では、ますますマニアックな作品を販売しようとするメーカーが減ってしまいそうです。
ロングテール商品(たくさんの需要はないけど、欲しがる客のいるニッチ/マニアックな商品)こそ、配信サービスに適した作品だとボクは思うのであります。
勿論、話題の新作のような大量のダウンロード数はないかもしれません・・・しかし、必ず観たいと思っている客が少なからずいるということです。

iTunes Store では、大島渚の作品や勝新太郎の「座頭市」シリーズなどの配信をサービス開始と同時に始めました。
今後、旧作、名作の配信作品を増やしてくれれば、記録メディアの呪縛から逃れることが出来そうです。
それには、いろんな意味での大人の事情、販売の利権など、解決する問題はあるでしょうが・・・。
書籍に関しては、長年、物理的な「書籍」のかたちであったわけですが、いよいよ「電子書籍」が日本でも現実的になってきてきそうです。
ここでも、所謂ベストセラーだけでなく、ロングテール的なタイトルをどれだけ「電子書籍」化できるかが、本格的な普及の鍵になるのではないかと思っています。
欲しい本、読みたい本って、すでに廃刊になっていることもあって、トンデモナイ高額で「アマゾン・マーケットプレイス」で販売されていると、なんとも理不尽な気持ちにさせらることがあるのです。
近い将来、音楽にしても、映画にしても、書籍にしても、物理的な商品としての販売数を、配信による販売が超えていくことは確実でしょう。
そうなると、配信のみでの販売ということが一般的になり、現在のような「物理的な商品」の販売価格に配慮する必要性もなくなっていくわけです。
その時こそ、本当の意味で「著作権」に対する価格というのが問われて、配信の販売価格が劇的に下がることもあるでしょう。(実際、電子書籍では、すでに始まっている?)
iPod touch、iPhone、iPad、Apple TV など機器は「すべての配信サービス」の受け皿として、テレビのような「家電」になるのかもしれません。

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2010/11/18

女が「一生、姫で生きる」なら、男は「一生、ボクで生きる」のだ!~私に萌える女たち/米澤泉著~



親の世代から・・・いや、ボクが子供の頃の世の中と比較しても、日本の女性の生き方っていうのは、凄く変化したっていう気がします。
ボクの物心がついた時代(今から、約40年ほど前!)には、確かに「男とは、女とは」というモラルの呪縛が存在していました。
「男らしくない」「女らしくない」という評価が当たり前のように親や先生から言われることがあったし、男は就職して結婚後は家族を養い、女も結婚して子供を産んで育てるという「人生の線路」が漠然とあって、それから外れる生き方というのは大変な覚悟を必要とするような教えがあったのです。
現在の「どう生きようが自己責任でやれば良い」というような方便は通用しなかったし、女性にとっては随分と自由な生き方を制約されていたと言えるでしょう。

「私に萌える女たち」は、日本の女性の生き方の変化を”女性ファッション雑誌”の遍歴をベースに、1970年代の「anan」「non-no」の登場から、細分化されていいく女性誌を分析しながら、日本の女性の理想が「大人かわいい」から「私が主役という生き方」へと移り変わっていく過程を分析しています。
確かにボクと同世代のアラフィフ女性は、ファッション、恋愛、仕事、結婚、出産、美貌を手に入れていく・・・何かを諦めて何かを得るのではなく、すべて手に入れるのです。
一生「主役」で生きていけるようになったのも、おそらく、その直前を生きいた「アラ60’s」女性たちへの反動もあるのかもしれません。
団塊世代も含まれる「アラ還」以上の女性は、家庭に収まる・・・という生き方を選択しなかったのであれば、基本的に「戦う女性」であり男社会へ挑戦していく生き方をするしかありませんでした。
男社会で認められるには、時には「女の武器」を使い、ある時は「他の女を蹴落とし」・・・でも「心はいつまでもピュアな少女」だったりして、自分の「軸」を状況や都合に合わせて変化させて、したたかに、でも確実に仕事をやり遂げてきた・・・という印象があります。
アラフィフ女性というのは、家庭を選択するしかなかった「母」をみて育ち、「アラ60’s」という先輩の生き方を反面教師として、もっとスマートに自己実現する生き方ができるようになった世代と言えるのかもしれません。
「わたし」という「軸」をしっかりと持って「好き」「嫌い」という判断で「わたし」が選択する・・・日本にようやく可能になった「超個人主義」的な生き方と言っても良いでしょう。
「個」をベースとした生き方には、仕事の成功も、配偶者も子供らの家庭も、あくまで「わたし」を完成させる要素であり、離婚だって「バツイチ」として「わたし」の成熟の過程のステップのひとつにすることが出来るのです。
本書は、これからの行く末・・・60代、70代と「ずっと主役で居続けるのか?」という不安な要素を投げかけつつも「萌えろ!」と、ますます「一生、姫で生きる」という「超個人主義」的生き方を女性たちに推奨しています。
・・・一体、男はどうなってしまうのでしょう?

「一生、姫で生きる」と、自分萌えしている日本女性に対して、日本の男性はどうしているのか・・・。
相変わらず、男が女性を養わなければ・・・と、古典的な「男役」(「姫」に対しての「王子」?)に甘んじて満足している男性というのも、日本にはまだまだ多い気がします。
それは、女性側の貪欲な「超個人主義」のニーズの支えに自らなっているわけですから、それで「男」という「エゴ」や「自己満足」が得られるなら、女性にとって好都合なことはありません。
ただ、「姫」的な幻想をサポート出来るほどの稼ぎがあるうちは円満でしょうが・・・「金の切れ目が縁の切れ目」となることもあるかもしれませんので、男は大変です。
オタク男性「超個人主義」のひとつの形ではありますが、その関心が自分ではなく、あまりにも外向きであります。
自分の外見的なことや生活には関心がないわけですから、女性の「姫」的な生き方とは、真逆と言えるのではないでしょうか?
ただ、オタク的な男性というのは・・・まさに「姫」というキャラクターとして生きたい女性(リアルでも、バーチャルでも!)を精神的も経済的にも支えるという意味では、古典的な「男」のエゴからは抜け出してはいないようです。

ボクは、このブログを始めるにあたり「ボク」と自分を呼ぶことにしたわけですが、リアルでは「僕」または「俺」を使っています。
ブログを開始した時に無意識に選択した「ボク」でありますが、「僕」でもなく、「ぼく」でもなく、このカタカナ表記での「ボク」にこそ、「姫」に対抗するような、男性の生き方が象徴されているような気がするのです。
「ボク」という言葉の中には、我が儘な子供のような揺るがない自分の「軸」を感じさせませんか?
「ボク」が好き、「ボク」が嫌い、ということが万能ルールかであるような「超個人主義」を暗に表現してしまうのが「ボク」という幼げな響きなのであります。
「草食系男子」と呼ばれる男性が、自分から女性にアプローチしないのも「ボク」であるからで、古典的な男性役を担わないのも「ボク」だから・・・「ボク」である限り童貞少年仲間のようなホモソーシャル的な絆で群れてしまうのも、自然な行為なのかもしれません。
近年のアラフォー世代を中心とした、自分の子供時代の流行ったものを、もう一度大人買いで楽しむというレトロブームも「ボク」が好きだから「ボク」が欲しいからで、すべて肯定することができるわけです。

「一生、姫で生きる」と言い切る日本女性・・・なんと女性は強くなってしまったと嘆くなら、男は男で、
「一生、ボクで生きる」なのであります。
ただ、みんな揃って「超個人主義」で生きていると・・・その先に待っているのは「孤独な老後」しかないのかもしれないなんて、ふと頭をよぎったりもするのです。
まだまだ若いうちは「姫」でも「ボク」でも良いけど・・・いつか「超個人主義」”主役的な生き方”から脱して、脇役にもなれる”名バイプレーヤー”となるような生き方というのも、段々と見つけていかないとなぁって思うのであります。



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2010/11/13

もし夢でデザインをしたら・・・ひとつのファンタジーとしてのファッション~ロメオ・ジリのパリコレクション1989年〜91年~



バブル時代のファッションというと、多くの日本人にとっては「ボディコン」ということになるのかもしれませんが・・・世界的にみるとプレタポルテの世界で、手の込んだ高価なファッションが多く登場した時代と言っても良いのかもしれません。
それまではデザイナーレーベルといっても、ジャケット一着1000ドル(当時の為替で15万円程度)ぐらいだったのが、一気に数千ドルに跳ね上がっていった印象があります。
それまでアメリカでは、一部のファッション好き(当時ファション・ビクティムと呼ばれた)や、経済的に余裕のある人しか、ヨーロッパのファッションブランドには興味はありませんでした。
元々、貧富の差の激しいアメリカですから、海外から輸入されるファッションを着るというのは、中産階級以下にとってはファッション雑誌(ヴォーグなど)のなかでのファンタジーとしての世界・・・トレンドが反映されるのも、水増しされた数シーズン後というのが当たり前だったのです。



1980年代後半から、ファッションを紹介するレポート番組が制作されるようになっていったことで「情報」として「ファショントレンド」が消費されていく時代へ向かっていったのです。
日本人からすれば「やっとかよ!」というようなことでしょうが・・・当時、まだまだなんとか言っても世界的には最も大きな市場であったアメリカで、いわゆる「ブランド」が情報として広がっていったのは、バブル経済時代でした。
その後の1990年代は「セカンドライン」「ディフュージョンライン」などのデザイナーによる価格帯を下げたラインが注目され・・・2000年代後半には「ファストファッション」の広がっていきました。
ここ20年のあいだに「ファッション」はショッピングの「華」から・・・単なる「消耗品」になったような気さえします。



ロメオ・ジリは、1980年代半ばに登場したイタリアのデザイナーで、当初は「地味」「渋い」「華奢」の細身のテーラードを基調としていました。
同時期に登場したドルチェ&ガッバーナと同じく、シチリアの泥臭さも感じさせる雰囲気が、今までの洗練されているモダンなミラノファッションとは違うというのが印象的だったのです。
その後、ドルチェ&ガッバーナはより派手なイタリア的な女性像を追求していくことになるのですが、ロメオ・ジリは基本的路線は常に清楚なイメージを保ち続けていました。
ボトムスの細身のシルエットは、ハッキリ言ってしまえば、肉感的なアメリカ女性には不向きなファッションと言えたのですが・・・1980年代の流れで大きなショルダーパッドなどに代表される攻撃的な女性像とは真逆であったことで、新鮮な流れとしてファッション業界人の支持を受けたのでしょう。
また、コム・デ・ギャルソンほどのファッションステイトメントの主張ではなく、といってゴルチエほどコスチュームっぽくもなく、またアルマーニのようにババ臭くないところも、良かったのかもしれません。
当時のセレクトショップのリーダー的だった「チャリバリ」では、ワンフロア分のロメオ・ジリ専門ブティックができたという記憶があります。
ただ、ロメオ・ジリのコレクションというのは、アイテムやシルエットのバリエーションもそれほど多くはなく、スパイスカラーなどの差し色以外、似たような商品が毎シーズン並んでいたのでありました。



そのロメオ・ジリが、満を持してパリコレに参加したのが1989年~90年の秋冬コレクションでした。
そして、それに続く1990年春夏、1990年~91年秋冬のコレクションは、圧巻のファンタジーとしてのファッションを見事に表現していたのです!
当時は、今のようなインターネットによる即日の配信なんて一切ありませんから、最も早いニュースのソースは新聞ということになります。
その中でも特にファッション業界向けに発行されている「WWD」による速報と評価というのが、その後のアメリカ国内でのビジネスを左右するほど絶大な権力も持っていたのです。
「WWD」には、ロメオ・ジリのパリコレデビューは、それほど好意的に受け止められなかった記憶があります。
現実的なファッションを求め評価する「WWD」は、1990年になっても日本人デザイナー(コム・デ・ギャルソンやヨージ・ヤマモト)に対しては、殆ど無視に近い報道の仕方しかしていなかったわけですから・・・。



ボク自身は、ロメオ・ジリのパリのコレクションは、数ヶ月後日本のファッション誌のコレクション号で、その全貌を知ることになるのですが・・・まったく日本人と感性の違うクラフト感というのに衝撃を受けました。
ベルベット、刺繍、ラメ、プリーツなどを多用した華麗なルネッサンスと重厚なバロックの洗練された融合!
ベネチアグラスのドレス・・・まさか、リアルにシャンデリアのパーツのようなグラスがぶら下がっているとは!
そして、緻密な織りのコートなどは、まるでアンティーク家具を着ているかのようでもあります!
イタリアというファッション生産拠点としての歴史と、ルネサンス時代からの美術/芸術、そして力強く、かつ華奢なイタリアの女性像を、グローバル化した20世紀を生きる現代のライフスタイルの中に取り入れていた・・・美的な完成度が非常に高いコレクションでした。



一時期はニューヨークの街中では、ロメオ・ジリの豪華なコートは頻繁に見かけましたが(日本では高島屋のライセンス展開だったため、手の込んだ商品は殆ど紹介されなかったのかもしれません)・・・時代の変化のなかで精彩を失い、消えていきました・・・。
しかし、現在のメンズの一般的な市場のスタンダードとなっている細身の3ボタンスーツというのは、ロメオ・ジリのデビュー当初からのシグニチャーとも言えるライン・・・その影響はある意味継続していると言えるのかもしれません。
美しくあるべきためだけに贅沢である「ファッション」というものが存在できる市場はなくなってしまった今・・・改めてロメオ・ジリの1990年前後のバロック・コレクションを眺めてみると「ファッション」が夢のようであった郷愁を感じてしまうのです。

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2010/11/08

「オンナの異端者」と「オカマの異端者」・・・旬な”マツコ”を相手に本物の異形”うさぎ”本領発揮!~うさぎとマツコの往復書簡/中村うさぎ&マツコ・デラックス著~



今やテレビや芸能ニュースで姿を見かけない日がないほど、お茶の間でも馴染みの顔になっている”マツコ・デラックス”でありますが・・・”マツコ・デラックス””中村うさぎ”の関連を知らない人というのも、まだまだ世間には、いらっしゃるみたいです。
簡単に説明すると・・・”マツコ・デラックス”を世の中に送り込んだ張本人が、”中村うさぎ”なのであります。
2000年頃、ゲイ雑誌(BADI/バディ)編集者だった”マツコ・デラックス”と知り合い、その後、無職でひきこもっていた”マツコ・デラックス”をコラムニストとして売り込んだのが、”中村うさぎ”・・すでに「ショッピングの女王」として世間で知られていました。
2001年に出版された語り下ろし対談集「人生張っています~無頼な女たちと語る~」では、当時まったくの無名の素人であった”マツコ・デラックス”を、岩井志麻子、西原理恵子などの対談者たちと同列に並べて登場させています。
また、東京MXテレビの番組「5時に夢中!」では、2009年3月まで”中村うさぎ”と同じ曜日に”マツコ・デラックス”もコメンテーターをしていた(現在、マツコは月曜日、うさぎは水曜日)というのも・・・”中村うさぎ”の強力なプッシュがあったからこそ、かもしれません。
”中村うさぎ”は、”マツコ・デラックス”のまさに「育ての親」・・・無職で無名の女装デブを「コラムニスト」に仕立て上げ(?)テレビの世界にまで進出する道筋をつけた「大恩人」であるのです。

「うさぎとマツコの往復書簡は「サンデー毎日」に連載の、二人で交互に書いていたエッセイをまとめたもの・・おじさん向けの週刊誌を買ってまで、連載当時に読む気はしなかったので、一冊にまとめてもらうのは、ありがたいことかもしれません。
先月出版されたマツコ・デラックス著の「世迷いごと」(めのおかし参照)は、たわいない芸能ネタを上から目線で語り下ろした一般大衆向けでありましたが・・・本書は、”マツコ・デラックス”が、普段の太々しいキャラで押し切ることのできない「大恩人」”中村うさぎ”であります。
普段は「大物風」を吹かせ、自分の過去の経歴など不利なことには、滅多に口を割らない”マツコ・デラックス”でさえ、”中村うさぎ”の前では、そんな横柄な風の吹かせようもなく・・・「まな板のコイ」状態になるしかありません。
人生経験も自己分析力も長けている”中村うさぎ”相手だと、”マツコ・デラックス”は、太鼓持ちのように「合いの手」を入れる役回り・・・”中村うさぎ”のような本物の異形者の前では、ちょっと弁の立つ「女装」の「ゲイ」でしかないことが暴露されてしまうのであります。

本書では、”マツコ・デラックス”が他では積極的に語ろうとしない「ゲイ雑誌の編集者の経歴」「女装趣味しているわけ」「自分の生き方と親との関係」にも、”中村うさぎ”は躊躇せずに踏み込んでくれます。
しかし、自己分析しなければ答えられない内面的な内容については、”マツコ・デラックス”は漠然とした返答しかできません。
自己認識という点では、38歳という年齢相応というところで、まだまだ口で言うほど分かっているわけではなさそうです。
どういうわけか”中村うさぎ”は、”マツコ・デラックス”「魂の双子」であると信じて、自分の後継者として無名時代から育ててきた経緯があるわけですが・・・随分と”マツコ・デラックス”を、買いかぶっているように感じます。
”中村うさぎ”の異端っぷりは「自分探し」「自己確認」のために「自分の中のオンナ」と真っ向勝負を挑んでいくという異常なほどの「答え」への執念であり・・・「異形」として世の中に関わることで自分の存在意味を表現しているのです。
しかし”マツコ・デラックス”の異端っぷりというのは・・・基本的に「巨漢で女装」というルックス。
なかなか頭の回転がいい・・・という評価する人もいるようですが、それって単なる「世渡りの計算術」であり「その場の言葉の切り返しという瞬間芸」でしかりません。
最近は、メディアでの少しでも過激な発言は世間から攻撃を受けやすいので・・・異形な「女装」という、世間的にも芸能界的に特権的な「女装」タレントが重宝しているというだけのようです。

女性に生まれかわりたい・・・ということでなく「ゲイ」+「女装」というのは、いろんな意味で「いち抜けた!」という存在です。
”マツコ・デラックス”の体格ならば、ゲイ男性として「デブ専」(デブの上のニク専か?)の一部にはモテるかもしれませんが・・・本人的に、それでは「良し」と出来なかったのでしょう。
性格も頭も顔も姿も、それほど良くないゲイが陥るひとつのパターンが・・・毒舌の「ゲイ」の「女装」というスタイル。
だって、ストレートの男に女性と見間違えられるというレベルの完璧な「女装」でもないし・・・ゲイの男から面白がられても、性的には見向きされることがなくのですから・・・。
ゲイ社会に根強くある「モテる」か「モテない」で、決めつけられるヒエラルキーの競争から、「女装」になることで離脱することができるのであります。
また、実際は「男性という性」を持ちながら、同時に「女性という性」の視点も持つ言い張るこのタイプの「ゲイ』+「女装」というのは、すべての階層を超越したような上から目線で語ることを許される特別な存在になることを、何故か世間は許すのです。
ゲイ社会では最低のエゴ(ヒラルキーの底辺)しか持てなくても、「女装」ということで「膨大なエゴ」を持つことが許されるという「反則技」による”ひとり玉の輿”状態と言えるでしょう。
その特権と引き換えに与えられるのは、虚栄とハッタリの人生・・・それは、独特な意味で「出家」に近いのかもしれません。
ボクには”マツコ・デラックス”は、そういう意味での「女装」にしか思えないのです。

「ショッピングの女王」「ブランド依存症」「美容整形マニア」「年下ホスト狂い」「デリヘル嬢として働き」「ゲイ男性と結婚」「ゴミ屋敷の片付けられない女」「50歳過ぎてロリータファッションの妖怪ババァ」と・・・極端なまでの「自分探し」を続けてきた”中村うさぎ”が、達しようとしている悟りの領域(?)というのは、あまりにも残酷です。
抜け殻のようになりながらも、すべてについて自問自答し分析してしまう”中村うさぎ”からは、彼女らしい名言がたくさん発せられます。

生き『地獄』を抜けたら『砂漠』だった・・・振り返った『地獄』の真ん中に『天国』はあったのだ。

『埋蔵金』を信じて掘り続けたきた人生だけど・・・『埋蔵金なんてない』ってことを証明できたことだけで満足。

自分のためだけに生きるのって限界がある・・・でも『子供』『出家』『ボランティア』には逃げられない。

私は生きてきた『価値』でなくて『意味』が欲しい・・・資本主義社会での自己実現には『意味』はなかったから。

売り物が『魂』だからこそ価値がある・・・耳障りのいい『魂』のない言葉に何も価値はない。

本当の自分を見つけるのが目的でなく・・・「他人にプレゼンテーションする自分」を探していただけだった。

『自分探し』『自己確認』を必要としない『心の安定』を獲得したと同時に、世間における私の存在は失われた

出版社/編者者としては”中村うさぎ”が、今、旬で話題の”マツコ・デラックス”のちょうど良い引き立て役と思ったのかもしれないけれど・・・本書を読めば、”中村うさぎ”こそが、本当は「凄い」ことが分かると思います。
もしかすると、この連載と出版は”マツコ・デラックス”の、最近めっきり仕事の減ってきたという”中村うさぎ”への「恩返し」なのかもしれません・・・そう意識していなかったとしても、結果的に、”中村うさぎ”再評価になれば嬉しいです。
”中村うさぎ”は、自分に対する興味に尽きることなく、トコトン経験と分析を繰り返す「強靭さ」「インテリジェンス」があるのだから・・・ルックスのインパクト勝負の”マツコ・デラックス”には、どうやっても及ぶことの出来ないレベル。
精神分析、宗教、哲学の領域に入り込んでしまったような”中村うさぎ”の暴走は、”マツコ・デラックス”を受け入れているような大衆向けではなくなってしまったのかもしれません。
”中村うさぎ”を、世間は「低俗」「痛々しい」などと「軽蔑」しているのかもしれません・・・実際にボクのまわりで”中村うさぎ”好きを公言する人(特に女性)っていませんし・・・。
しかし、そんな”中村うさぎ”こそが、本当は最も清く神々しい存在ではないのか・・・と、ボクには思えるのです。



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