2010/09/30

女の人ってホント大変なのね・・・謎のメールに書かれていた”男”についての「11のこと」



先日、メールボックスの整理をしていたのですが・・・10年ほど前の(!)メールボックスの中から、謎のメールを見つけました。
それは、アメリカ人の女友達から転送されてきたメールで「アメリカ女性の思い」を代弁するような「11のこと」が書かれていました。
転送に転送を繰り返されていた「チェーンメール」のようなモノで、書かれていた内容を世間に広げようという意図があったのではと、推測出来ます。
ただ・・・何故、中途半端な「11」項目なのか、「10」とか「12」とかのキリの良い数ではないのかとか不可解だし、もともと誰が書いたモノなのかさえも、まったく分かりません。
しかし、10年という時間が経ても「なるほど!」と思うような内容なのでありました。
現在の日本とは、事情がかなり違うところもあるかもしれませんし、ステレオタイプで決めつけていて”偏見”に満ちていますが「草食系男子」の出現を予見していたような気さもします。
せっかくなので、原文の英語を意訳してみました。

1. 性格のいい男は、顔が良くない。

「自分の言う事を聞く男=性格がいい男」というのとは違います。
「性格のいい」というのは「印象がいい」とか「優しい」とかという程度ではなくて・・・本当に「人の良い」というような男のことでしょう。
勿論、顔が良くなくても性格が悪い男っていうのも沢山いたりするのですが・・・。

2. 顔の良い男は、性格が良くない。

「そうそう、同感!」とボクが思ってしまうのは、自分自身が特に顔が良いわけではないからかもしれませんが・・・性格以前に、顔が良くて「頭が悪い」という男は、かなりいるような気がします。

3. 顔が良くて、性格のいい男は、ゲイだ。

これは、アメリカに限って言えば、殆ど正解!
マッチョ志向のアメリカ男性というのは本当に最低だから・・・結果的に、ゲイの男って「性格がよく」見えるのです。

4. 顔が良くて、性格が良くて、ゲイでない男は、すでに結婚している。

これは、どこでも言えることでしょう。条件が揃っている男は、早婚というケースが多いのです。
モテるというよりも、責任感が災いして、結婚という呪縛に取り込まれやすいということなのかもしれません。

5. 顔があまり良くないけど、性格のいい男は、金を持っていない。

顔が普通で、性格だけ良い男って、確かに、それほど経済的に大成するタイプではないでしょう・・・。
ただ、こういう無難な男というのが、世の中の大半なのかもしれません。
金を、せびられないだけマシです。

6. 顔があまり良くないけど、性格が良くて、金を持っている男は、女は金目当てだと思っている。

性格の良さが仇になってしまっているとも言えますが・・・顔の悪さを金で埋め合わせているのだとしら、自業自得かもしれません。
すべての女が金目的というわけではないとは思うけど、自分に対して金を使ってもらうのは決して嫌いじゃないと思います。

7. 顔が良くて、金のない男は、女の金が目的だ。

これもアメリカにはホント多い・・・顔じゃなくても、肉体がいい男といいうのもブイブイ言わせています。
その場合には人種的には白人女性と黒人男性(またはラテン系)などが多い傾向も見られます。
男女同権というのは、こういうことでもあるのであるのです。

8. 顔が良くて、あまり性格が良くなくて、たぶん(?)ゲイでない男は、普通の女を美しいと思っていない。

こういう微妙な「バイセクシュアル」の男というのは「ストレートの女」だけでなく「ゲイの男に」とっても、やっかいな存在ではあります。

9. 普通の女を美しいと思い、ゲイでなく、まぁまぁ性格が良くて、多少の金を持っている男は、意気地なしだ。

普通の女で満足できる程度の無難な男っていうのは、確かにアメリカ的なマッチョな男らしいパワーに欠けているのかもしれません。
こういう男と落ち着く女っていうのも、また普通で無難な女だったりするのです。

10. そこそこ顔が良くて、まぁまぁ性格も良くて、多少の金も持っていて、ゲイでない男は、恥ずかしがりで、絶対に自分が誘ってこない。

これって、今でいう「草食系男子」でしょうか?
アメリカにも、自分からのアプローチが出来ない男というのは、着実に増殖していたのでした。
こういう男達が、ダメダメ男のロマンチックコメディ映画の観客なのかもしれません

11. 自分から絶対に誘ってこない男に限って、女から強引にリードされると興味を失う。

今どきの男は、強引に女から誘われるのも「あり」とするのかもしれません。
しかし・・・それは、性癖としての「M」ということかもしれないし、単に「マザコン」なのかもしれないし、もしかすると「自覚のないゲイ」なのかもしれません。
こうして、男は徐々に「弱い性」となっていくのであります・・・。

とにかく、アメリカの女性というのは、いろんな意味で大変・・・ということが、よぉ〜く理解出来るような気がします。
「セックス・イン・ザ・シティ」が、あれほど流行ったのも「もしも、次から次に男にモテたら・・・」という”ファンタジー”の中でのリアリティーを、上手に表現していたかもしれません。
やっぱり「Mr. BIG」なんて、絶対的に存在しないのです・・・。



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2010/09/27

エロおばさん、ホラー作家の本領発揮・・・トラウマなんて生温い、奈落の底より深い地獄をみろ!~「嘘つき王国の豚姫」岩井志麻子著~



こんな不快な小説が大好物の自分って・・・ホント病気だと思ってしまいます。
しかし、ある意味「毒によって毒を制す」とでも言うのでしょうか・・・心が腐りそうなドロドロした物語だからこそ、読後に心が澄みわたるような清々しい気持ちになることもあるのです。
毒が強ければ強いほど・・・耐えきれないほどの地獄であればあるほど・・・衝撃で目眩がしてしまうほど・・・ボクの精神は浄化されるような気がします。
ただ、麻薬と同様に年齢とともに毒に対する抗体ができてきてしまって、より強い毒を求めている自分がいるのです。
岩井志麻子の最新作である「嘘つき王国の豚姫」は、そんなボクにとっても十分効果がある「毒」でありました。

ホラー小説家である岩井志麻子のホラー小説というのは、実はボクはまだ読んだことはありません。
MXテレビの「5時に夢中!」での下品なコメンテーターっぷりから「チンコ、チンコ」を連呼する単なる”エロおばさん”としての認識がボクには強くて、読んだ岩井志麻子本は「おばさんだってセックスしたい」だけなのであります。
アメリカのHBOで映像化されたものの、あまりの残酷描写に放映中止になったという曰くつきのホラー小説集「ぼっけい、きょうてえ」(日本ホラー大賞受賞の出世作)でさえ未読なのです。
それ故に、この「嘘つき王国の豚姫」を岩井志麻子の他の著書と比較することは出来ませんが・・・ホラー小説として書かれたわけではないにも関わらず、ボクにとっては、十分に”ホラー”でありました。

この小説の主人公「りか」は、目を背けたくなるような現実から逃避するために、人にも自分にも嘘ばかりついている性格のひん曲がったイヤ~な女であります。
そんな彼女自身の視点で語られる半生は、本当は何が起こっているかをどこかで認識しながらも、彼女自身にとって都合のいい「嘘」に、すべてすり替えていく生き方です。
幼い頃から壮絶ないじめを受けた「りか」「嘘」によって事態を克服するのですが・・・その「嘘」は、苦難の乗り越える強い人格を形成していくのではなく、非現実的で自己チューな「自我」を構築させていくだけ・・・彼女の人間性を大きく歪ませていきます。
近所の犬のおっちゃんから性的な暴行を受けた「りか」は、ますます自分の「嘘」の世界を作り上げていき、どんな現実でさえ「なかったこと」として頭の隅に追いやることが出来るのです。
いじめから”引きこもり”になって醜く太った「りか」は、不良の元同級生「ユミ」に巧みに誘われます・・・自我の大きな「りか」は容易く騙されやすくもあります。
そこで「ユミ」の恋人に「りか」を犯されるのですが・・・豚みたいに醜い女ともデキるという悪意の「罰ゲーム」だったのです。
「りか」は、これほどの辱めを受けながらも、性的な奉仕を一生懸命にして、汚い豚として扱われます。
しかし、こんな事件さえも「りか」の頭の中では、徐々に別な物語として「嘘」で書き換えられていくのです。
「ユミ」は、可愛い自分に嫉妬したに違いない・・・そして「ユミ」の恋人は、自分のことが本当は好きだったが、処女ではなかった(犬のおっちゃんに子供の時にヤラれている)ので傷ついて怒ったのだ・・・と。

ある晩「りか」は、引きこもっていた「嘘つき王国」から、東京へ家出をすることを決意します。
東京では、自分を虐げた同級生の「ユミ」という名をあえて名乗り、「若さ」だけを武器に当初は水商売に励むのです。
そして、繰り返し何度も整形手術をすることで”美しさ”も手に入れて、本番ソープ嬢として売れっ子なっていきます。
望まない妊娠で生まれた我が子を産み落とした直後に殺しても・・・「嘘」の作り話によって、自分はいかに母性に溢れる女性かという話にすり替えていくのです。
”若さ”を失っていくにつれて「嘘」は、ますます非現実的となっていき、さらなる罪を重ねていくことになります。
その後の「りか」の人生は、奈落の底よりも深い地獄のような精神世界になっていくので、読みきるのには覚悟は必要かもしれません。

エロ話も、一線を越えるような”どぎつさ”が売りの岩井志麻子ですから、この小説も「これでもか~」と「りか」の腐った人間性をえぐり出していきます。
表紙になっている顔をコラージュしたようなイラストは「りか」多重人格者であることを表しているのかもしれません。
あくまでも小説の中での話で主人公は精神を病んでいるだけと、フィクションと割り切れればいいのですが・・・「ブログでセレブ気取りの女が、結婚詐欺を繰り返して、嘘がつけなくなると男を練炭で殺害していた」なんて事件が実際に起こったりすると、現実とフィクションの違いは、それほどないような気がしてしまいます。
もしかすると「りか」ほどではないにしても「嘘」で成り立っている人間なんて、それほど珍しくはないのかもしれません。
特にインターネット上では、自分に都合のいいこと”だけ”を書いたり、見せることができるわけで・・・「なりたい自分」になることなんて、容易なことです。
自覚がないうちに「自分は、こういうキャラだから」と思い込んで、虚構の世界を作り上げていくことも、罪の意識なしに出来てしまうのですから。
「この人、何言ってんだろう?」っていう、ブログやツイッターがあっても、わざわざ「捏造か?」「真実か?」なんて、裏をとってまで突き止めようなんてことは、特に事件性がない限り誰もしようとしません。
軽度の”なりすまし”は、もしかすると悲惨な現実から逃避するこのできるポジティブな手段にもなり得るのかもしれませんが、どんな「嘘」でも、いつかは剥げるもの・・・次第に「人間性」を歪ませていくのかもしれません。

岩井志麻子の「毒」は、「嘘」まみれかもしれない現実を改めて思い起こさせる「猛毒」のような気がするのです。



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2010/09/24

「iPad」と「iPod touch」と「WiMAX」で、小さな幸せの垂れ流し・・・とりあえず「iPhone 4」は、ホワイトモデル待ちで!



自宅のインターネット環境って、ここ10年ほど同じプロバイダー(イッツコム)を使っています・・・それはサービスが良いとかいう以前に、専用のモデムを購入していて、簡単に移行する気になれないという事情もあったりします。
携帯電話も買い替えるたびに電話本体代金の支払いローンや、料金体勢の2年縛りとかがあって、結果的にドコモの携帯を使い続けていることになっているのです。

ここ数ヶ月だけで、ドコモの携帯からiPhoneに乗り換える友人、知り合いが続々と現れて、ボクも iPhoneデビューというのを密かに目論み始めました。
画像添付して、ツイッターで「***、なう!」とやりたいという「アコガレ」もあったりします。
ただ、ボクは「iPhon 4」を買うならば、絶対にホワイトモデル!・・・と発表当時から思っているので、基本的には「ホワイトモデル待ち」という気持ちなのです。
しかし、ホワイトモデルは何度も発売延期となっていて、年内に発売されるのも怪しく、販売し始めても入手困難が続きそうで、実際に手に入れることが出来るのが、いつ頃になるか分かりません。
こうなったらブラックモデルで我慢するか・・・と思い始めた矢先に、友人のひとりから、ドコモから乗り換える場合には「解約金」というのが発生するかもしれないから確認だけはしておいた方が良いよ、とアドバイスを受けたのです。
そこで、ドコモショップで調べたところ・・・ボクの場合、なんと「2012年1月まで!」乗り換えした際には違約金を1万円ほど支払わなければならないという事が判明したのです!
違約金を支払うのは、ちょっと悔しいので、ドコモのスマートフォンの「Experia」も候補として考えてみたのですが(ホワイトモデルもあるし)・・・パソコンがMacオンリーのボクには「Experia」は少々使い勝手は悪いことが分かりました。
それにパケホーダイの料金も、スマートフォンだと最大6000円ぐらいになるので、通話なしでの料金がひと月7000円になるらしいことが分かったのです。
「iPhone 4」に買い替えた場合も、通話なしでひと月6000円ぐらいなので「どっこい、どっこい」・・・どちらかが「絶対的に安い!」というのはないわけなんです。
「1万円払ってもiPhoneに買い替えたい!」「やっぱり違約金なんて払いたくない!」という気持ちの狭間で悩んでいた時に、「WiMAX」という、まったく別な選択が浮上してきたのです。

「速いスピードで縄跳びする少女」などの、スピードをアピールした不思議なテレビのコマーシャルで「WiMAX」という名前だけ知っていましたが、具体的に何をしている会社なのかは、よく分かっていませんでした。
「WiMAX」は、iPad、iPod touch、携帯ゲーム機(ニンテンドーDSやPSP)を、外出時にネット接続出来る「ポータブルWiFiルーター」のインターネット接続サービスをしていることを、家電量販店で知りました。
ボクの持っている「iPad」はWiFiモデルなので、これさえあれば、外出時にネットに接続出来るようになるのです。
「WiMAX」縛りはわずか1ヶ月だけ・・・もしも「iPhone 4」のホワイトモデルが発売されて「WiMAX」の解約することになっても、違約金をい支払わなければならないようなペナルティーはありません。
また、通信の最高速度が40Mbpsというのも、他社のサービスと比べると、かなり早いようです・・・ドコモやEモバイルのルーターだと7Mbpsが上限のスピードらしいのだから!
そして、使い放題での定額が、ひと月「3780円!」というのも、他社と比べても安いのです。
さらに、新型「iPod touch」は購入するつもりだったので、対象機器の同時購入割引により「WiMAX」ルーター本体が2800円で購入出来るのも、嬉しいポイントでした。
毎月の料金が安上がりで、スピードが速くて、違約金の不安もないという、ボクにとっては都合のいいことばかり・・・外出時のネット環境としては、まずまずではないかという結論に達したわけです。
それに、今回はすべてをビックカメラで購入したので・・・「iPod touch」本体を始め、アップルケア、ルーター本体まで、全部ビックポイントで支払うことが出来たというのも、大きな後押しでした。
(実質的な現金支払いはゼロ!)
まるで「WiMAX」の宣伝みたいになってしまいましたが・・・あくまでもボク個人の見解です。
さて「WiMAX」を実際に使ってみた感想ですが・・・通信速度については、自宅の無線LANよりは遅い印象でした。
これは、通信をする場所によって差があるようなので、まだまだ検証の必要はありますが、動画をサクサク見るなら電波が強く届いていないとストレス感じそうです。
どこでもネットが使えるというのは非常に嬉しいことであり、ツイッターの閲覧などには問題ありませんし、ウェブページの表示には多少時間がかかるものの結構いけます。
・・・ただ、問題がまったくないわけではありません。
一度の充電で使用出来るのは3時間半ということなので、接続するたびに意識的にネットに繋げる必要があるということです。
常にネットに繋げていないということは、メールをリアルタイムで受信することは出来ないわけで・・・やはり、緊急の連絡には携帯電話は手放せないってことになります。
また、サクっと画像撮影して、すぐさまツイートというわけでもなく、スマートさにはかけてしまいます。
結局のところ・・・「iPhone 4」のホワイトモデル待ちというスタンスには変わりないということです。

新型の「iPod touch」の入手次第(予約で入荷待ち)「アコガレ」だった画像付きのツイートは、是非したい・・・そろそろシーズンのボクの大好物「ポルチーニ、なう!」とか!
まぁ、こういうツイートって、自己満足でしかないかとは思うんですけど・・・
美味しい物を食べているとか、おしゃれなお店にいるとか、キレイな場所に来ているとか、何か面白いもの発見したとか、誰かと楽しい時間を過ごしているとか・・・などなど、
日常の小さな幸せをツイッターで垂れ流しにするのは、いい感じのシェアって気がします。

・・・ただ、自分ひとりで「感動」を噛み締めることっていうのも、時には必要だと思ったりすることもありますが。


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2010/09/20

強面ヒゲ親父の著者写真を削除するなんて!・・・名作絵本が”村上春樹”訳で再版~「おおきな木」シェル・シルヴァスタイン著~


1964年にアメリカで出版され、今でもクリスマスシーズンンになるとアメリカの本屋さんの店頭に、プレゼント用に平積みになる「The Giving Tree/おおきな木」という絵本があります。
ニューヨーク大学の英語学校に留学したものの・・・日本人留学生ばかりとつるんでいた様子を母親が知り、英語を学ぶために適した環境へ移るべきということで、翌年の1982年にはメイン州の人里離れた小さな入学することになりました。
サマーキャンプ場として運営されている場所に、シーズンオフとなる9月から5月に全寮制のプレップスクール(大学入学前の1年間準備のために通う学校)のプログラムが行われていたのですが、生徒総数はわずか12人・・・確かに英語を学ぶには適した環境ではあったのです。
入学時は、なんとか自分の意思を伝える程度のレベルでしかなかったのですが、卒業する頃には口喧嘩でクラスメートを泣かせまくれるほど(!)饒舌になっていたのですから・・・。

口達者(!)ではあっても、アメリカ人の高校生が読むような本はスラスラと読むことが出来なかったので、ボクはサマーキャンプの子供達のために所蔵されていた絵本を図書室で読みあさっていました。
当時、読んだ数々の絵本のなかで、最も感銘を受け、何度も何度も読み返し、機会があるごとにボクが友人にプレゼントしていた絵本がシェル・シルヴァスタイン(Shel Silverstain)著の「The Giving Tree」なのです。
日本では1976年に、ほんだきんいちろう(本田錦一郎)訳で出版されていますが、訳者の死後(2008年)廃刊のような状態になっていました。
今後は日本語訳の「おおきな木」はプレミア価格の中古でしか手にする事ができないのか・・・と思っていたところ、今月(2010年9月)村上春樹訳で再版されたのです。
今更、お奨めする必要がないほど有名な絵本だし、内容についても語り尽くされている感があるので、英語版、ほんだきんいちろう訳版、村上春樹版の違いについて語ってみます。

元々子供に読めるように書かれている絵本なので、中学までの英語教育を受けていれば、物語を理解することは容易い本です。
原書で読むのが一番良いというのは当たり前のことですが・・・「おおきな木」の場合は、微妙なニュアンスが分からなくても、この絵本の素晴らしさは日本語訳で100%伝わると思います。
ただ、ふたつの日本語版を読み比べてみると、それぞれの印象はかなり違うのです。
まず、1976年から30年以上読み継がれてきたほんだきんいちろう訳版ですが、表記が「ひらがな」のみだったり、原文の英語が想像出来るような日本語訳になっていて、日本語の絵本としては、不自然な印象も与えるところもありました。
訳者の名前までひらがな表記にしているのは、あくまでも「子供向け」ということを意識していたのかもしれません。
ただ、それが「海外の絵本」という舶来品のプレミア感を強めていたようなところもあって、次は英語版でも読んでみたい・・・という意欲を読者に掻き立てたような気がします。
これからは、村上春樹訳でしか「おおきな木」を読むことはできなくなるわけですが・・・今回の新訳により日本語の絵本として随分とナチュラルになった気がします。
簡単な字(少年、木、家、日など)を漢字表記にしただけでも、かなり読みやすくなった印象です。
小学校低学年で十分に読める感じばかりですが、これによって「大人も読む絵本」としてのコンセプトがより明らかになっている気がします。
大人でも、子供でも、物語が日本語で自然に心に入ってくるようで、村上春樹による翻訳の方向性の変更は、ある意味「正解」と言っても良いかもしれません。

この絵本を手に取ったことのない人にも、これを機会にぜひ読んで欲しいです。


ただ、ひとつだけ・・・今回の再版で残念な変更があるのです。
アメリカで出版される単行本には、著者のポートレート写真を裏表紙にすることがあるのですが・・・ボクが最初に読んだ英語版には、著者であるシェル・シルヴァスタインの顔写真が「ドドーン!」と裏表紙全面に使われていました。
(現在、販売されている英語版は、写真が若干小さめになっていますが・・・)
「The Giving Tree」は、心が洗われるような話なのですが・・・読み終わって裏表紙の著者の写真を見ると、その感動がぶっ飛んでしまうほどのインパクトがあったのです。
シェル.シルヴァスタインは放浪癖のあった変わり者であったそうなのですが・・・写真は「ツルツルの禿頭」「フルフェイスの濃い髭」、指名手配の凶悪犯と言われたら信じてしまいそうな「強面っぷり」であります。
こんな人相の悪い写真を「なんで、絵本の裏表紙にすんの〜?」とツッコミたくなるほど・・・。
絵本の内容と著者のルックスのギャップも「この絵本の奥深さ」であり、すべての読者にそのギャップをボクは知って欲しいのです。
ほんだきんいちろう訳版には裏表紙全面というほどではないにしろ・・・英語版のように、著者の写真を掲載していました。(4分の1程度のサイズでも、かなり強烈!)
しかし・・・村上春樹訳版では、著者の写真は裏表紙から消えただけでなく、本の中にも著者の写真は一切掲載されていません。
新しい読者は、シェル・シルヴァスタインの「顔」を知ることは出来ないのです・・・。
まるで「臭いものにフタをする」(これはこれで著者に失礼かな?)ような、仕様の変更ではないでしょうか?

再版にあったての著者写真の完全削除に、ボクは憤りを感じているのであります。





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2010/09/17

水道橋博士の異常な愛情・・・または「腐女子」ならぬ「腐中年」は如何にして「ホモ談義」に萌えるようになったのか



「腐女子」やおいの世界というのは、リアルゲイにとっては、現実離れした妄想のように思えることがあります。(最近、ハードでリアルなゲイの実態を描く傾向もあるようですが・・・)
しかし、一見すると「同性愛/ゲイ」という存在を差別なく受け入れているようでありながら、ストレート的な恋愛至上主義(男役、女役の明確な役割)が支配していて、潜在的なホモフォビアを感じさせることもあるのです。
「女性」は、部外者(絶対に当事者にも恋愛対象にはならない)という条件下での、メンタルな恋愛遊びということなのかもしれませんが・・・どこか自己否定だったり、自虐的なモノを感じたりもします。
ただ、ボク自身は、腐女子的な妄想は10代の頃から萩尾望都、竹宮恵子、山岸凉子らの漫画で免疫があるということもあってか、比較的すんなりと理解出来るところはあるのです。

最近、増殖中(?)のような気がするのが・・・「ホモ談義が大好物の中年おじさん」=「腐中年」(町山氏ご本人のツイッターからの引用)という存在です。
あえて、お名前を挙げさせてもらえば・・・町山智浩、水道橋博士、みうらじゅん、宇多丸、松尾スズキ、といったあたりでしょうか?(何故か、サブカル系のおじさんに多い)
「あいつになら、俺ケツ貸せるぜ!」とか・・・「ケツだけは勘弁してください!」とか・・・それは嬉しそうに言っている姿が目に浮かびます
誰も「腐中年」のケツを掘りたいとか思ってもいないので、単なる”思い過ごし”でしか言いようがないのですが・・・まるでイケてない童貞少年が初体験に過大な夢を抱くように、未知なる「同性愛」の世界を妄想して、心ときめいているかのようです。
「アナルセックス」が、ゲイセックスのすべてのように思ってしまっているのは、リアルゲイからするとちょっと見当違いで・・・セックスに「入れる」「入れられる」という発想しかないのは、おそらく彼ら自身のセックス(女性との)が、「挿入」に尽きる!からなのかもしれません。

「腐中年」と、1990年代にニューヨークで話題になった「メトロセクシャル」(ストレートの女性を理解するために、あえてゲイ男性と交流を深めるストレート男性)は、根本的に違うように思います。
メトロセクシャルの男性の目的は、あくまでも「女性」をゲットすることであり、ストレート女性との仲介役としてゲイ男性をある意味利用しているに過ぎません。
アメリカほど「マッチョ文化」の浸透していない日本では、ストレート女性の興味のあることを、ゲイ男性からからわざわざストレートの男性が学ぶ必要もないのですから・・・。
今という時代は・・・硬派な男同士の絆というのは成り立ちにくくなっているような気がします。
セクハラ、ストーカー、DVに対しての社会の問題意識も高まったこともあって、日本では特に「女らしさ」や「男らしさ」の概念も大きく変化しています。
女性を「セックスの対象」としてしか見ない男同士の意気投合は、下手をするとセクハラ男の集団にしか思われなかったりするので、「ホモ談義」に盛り上がる方が社会的にも安心な男のアピールというところもあるのでしょうか?
そういっったホモソーシャル的とも言える「男同士の絆」を取り戻すために「ホモ談義をして萌える」というのは、非常に妙な気もしますが・・・それこそが本物の男同士の絆」=「ホモ童貞同士の絆」ということかもしれません。

したまちコメディ映画祭の前夜祭として行われた「映画秘宝まつり」での水道橋博士の「水野晴郎ホモ疑惑」研究発表が「ゲイ差別か?」みたいな受け取られ方をして、賛否両論だったようです。
(水道橋博士の大量のRTで知りました・・・律儀というか、博士もマメであります)
本来のイベントはKICK ASS/キック・アス」のジャパンプレミアだったのですが・・・「ASS/お尻」繋がりというシャレで、水野晴郎先生とぼんちゃんの「ホモ疑惑研究」の発表として、水道橋博士編集のVTRFUCK ASS/ファック・アス」を上映して、町山智浩氏とのトークを繰り広げたわけであります。
FUCK ASS/ファック・アス」は、浅草キッドがネタとして、水野晴郎とぼんちゃんの「ホモ疑惑」を検証をする、いくつかのテレビ番組(未公開のCS番組を含む)を編集したVTRでした。
「水野晴郎ホモ疑惑」のネタ元は浅草キッド(水道橋博士本人)だった・・・というプチ自慢(?のようなオチだったのですが、博士自身は疑惑に関しての結論として「白」(水野晴郎先生とぼんちゃんはゲイでない)と思っているともツイッターでは発言していて・・・結局のところ水野晴郎ホモ疑惑というのは、博士の「ねつ造」だったということが「どんでん返し」でしたというのは、なんとも拍子抜け・・・。
事前に宣伝されていたような、水道橋博士による12年間に及ぶ水野晴郎とぼんちゃんの「愛の軌跡の研究発表というような内容では全然ありませんでした。

水道橋博士のVTRからゲイへの差別というのは感じませんでしたが、いつのも博士らしい爽快な視点というわけでもなく・・・カミングアウトを「自白させる」かの如く追求する姿勢に、多少の不感感を感じずにはいられませんでした。
今回の博士の研究発表を、他のことに例えてみるとすると・・・
「カツラ疑惑」のある有名人に対して、執拗に疑惑を検証していくという感じでしょうか?
本人が「ハゲじゃない!」って言い張っているにも関わらず、実はハゲである・・・ということ前提で笑いものにしています(おそらく事実、ハゲではあるのですが・・・)
なんとか「ハゲ」だとバレないように言い訳しているのを、さらに笑いものにして・・・「弁解は許さないぞ〜白状しろ!」ってなもんです。
「爆笑!」というよりは「苦笑い・・・どこか痛々しくもあり、ハゲの人にとっては不快感も感じることがあるかもしれません。
マジ怒らせてしまうかもしれない・・・でも「もっとやれ!やれ!」と、煽いたくなってしまうのは「電波少年」的なノリに近いでしょうか?
勿論、水道橋博士の「ハゲでも良いじゃん!」という100%愛情表現であることは十分に承知ですが・・・「ハゲ」をカミングアウトしたくない人を、しつこく疑惑を追求しているのに、それほどユーモアは感じらるわけではありません。

お笑い芸人が、自分の劣等感やコンプレックス自ら「笑い」に変えたり、「キャラ」にするというのは、ひとつの営業手段ではあり・・・するか、しないかは、本人の問題です。
理由はどうであれ、本人がカミングアウトしたくないことを、ネタにして「笑いもの」にしてしまうのは、やり方(見せ方)次第では、一種の”イジメ”のように感じてしまいます。
まぁ・・・いろんな人のボタンを押して茶化すのが、浅草キッド=水道橋博士の芸風であり、真骨頂なのかもしれませんが・・・。
かたや町山さんは、アメリカ生活が長いというのもあり「個人の意思」「立場の違う人の意向」をリスペクトするグローバルな対応が身に付いているようで、苦笑いをしながら水道橋博士にツッコミを入れるという感じでした。

同性愛者(ゲイ)に限らず、マイノリティーの当事者というのは、そのマイノリティー以外の人たちが持っているステレオタイプに対して反発する傾向というのはありがちのようで、当事者である自分自身に当てはまらないステレオタイプは、何が何でも受け入れないということがよくあります。
しかし、マイノリティーの中にも多様性があるのは当然のこと・・・逆に、ステレオタイプに当てはまらないことの方が多いかもしれません。
「センスが良い」「毒舌で頭がキレる」「女性の気持ちも分かる」・・・にまったく当てはまらないゲイの方が、実際には多く存在していたりします。
「腐女子」「腐中年」が美化(妄想?)するゲイの世界が本当に存在するなら素晴らしいのかもしれませんが・・・残念ながら現実は、それほどではないのです。

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2010/09/16

日本男児へのリピドーの原点・・・ボクが外専にならなかったわけ~矢頭保写真集「OTOKO」~



矢頭保という写真家の写真をボクが初めて見たのは、1979~80年頃に工事現場の交通誘導員のアルバイトをしていた時でした。
ボクの配置された現場の近くには休憩所として近所のアパートの一室が借りられていて、仮眠したり、早く工事が終わった日には睡眠をとることが出来たのです。
何故か、その部屋にはゲイ雑誌(「青年画報」「さぶ」でした)を置いてあり、ボクは人目を盗んではコッソリと見ていたのでした。
現場のリーダー格だった30代のゲイの男性が、若いアルバイトの興味を惹くためのトラップとして、その手の雑誌を置いていたようで・・・何度か怪しい雰囲気になることもあったのです。
雑誌の巻末には写真集などの広告が掲載されていて、波賀九郎の「梵/BON」シリーズなどと共に、写真集「OTOKO」の広告が載っていたのでした。
その後、新宿の二丁目のゲイブックストアに足を運んで、実際に中身を見る機会がありました。
殆ど経験がなかったボクは、自分がどんなタイプが好きかということは、まだ分かっていなかったのですが・・・「OTOKO」を手にして、自分のなかで何か弾けたのでした。
いかにも「日本男児」という風貌の鍛えられた肉体のモデルのモノクロ写真に、ボクはすっかり魅せられてしまったのです。
ボクが20年間のアメリカ生活をしても、本質的に「外専」にならなかったのは、この写真集での衝撃があったからかもしれません・・・それほど嗜好を決定的にしてしまったといっても過言ではないのです。
それほどリピドーに触れた写真集だったのに関わらず、結局、買わず仕舞いのままだった理由は、当時のボク(18歳)にとっては、そこそこ高価な本だったから。
「OTOKO」を撮影した写真家の名前が「矢頭保」であると知るのは、それから随分と年月が経ってからでした。



矢頭保は、ボクの母親と同じ年(1925年)に生まれていて、三島由紀夫とも同い歳であります。
母によると、同世代の男性は第二次世界大戦で徴兵され、戦死している人が非常に多いそうです。
1952年(27歳)で宝塚歌劇団の男子研究生として入団したというのが最も古い経歴なのですが、それまで矢頭保何をしていたのか・・・残されている記述はありません。
ダンスが得意で男性的な体格(マッチョ)だったことから「和製ターザン」と呼ばれていたということだから、すでにボディビルのようなことをして身体を鍛えていたことは確かのようです
後に写真家として彼が好んだ「日本男児」というのは、彼自身のイメージの延長上にある理想だったのかもしれません。
1956年(31歳)で東京の日活に所属してアクション映画に端役で出演することもあったようです。
東京に移ってから、三島由紀夫の「仮面の告白」「潮騒」の翻訳者だったメレディス・ウエザビー(元米軍情報関係将校のアメリカ人)と知り合い、六本木7丁目にあったウエザビーの家で同棲し、経済的な援助を受けるようになったようです。
ウエザビーからニコンのカメラを買ってもらい、友人にカメラの使い方を教えてもらっただけで、特に学校で写真の教育を受けたわけでも、写真家に弟子入りしたわけでもなかったそうですが、美術関係の専門書の出版もしていたウエザビーの影響はあったに違いないでしょう。
三島由紀夫とは、ウエザビーが自宅でよく開催していたゲイのパーティーで知り合ったらしく、その後、切腹写真などプライベート写真も多数撮影し、交流は深かったようです。
ふたりの間に肉体関係はなかったようですが、三島由紀夫がオープンに自分の性癖(同性愛だけでなく切腹趣味)をシェア出来る貴重な友人であったのかもしれません。

1966年に出版された矢頭保の初めての写真集「体道~日本のボディビルダーたち~/Young Samurai」は、とりあえずは「まじめなボディビルの写真」としての体裁にはなっています。
ただ、三島由紀夫の影響やサポートによって出版されたことは明らか・・・日本人ボディビルダーの筋肉美を丹念に写している写真集の中に、いきなり三島由紀夫は褌姿で刀を持っている写真が挿入されていたり、英語版には三島由紀夫が序文まで書いているのですから。
また、英語版はウエザビーの出版社から出版されているので、ある意味、自費出版のようなものだったのかもしれません。
1969年に出版された「裸祭り/Naked Festival」は、裸祭りを記録している写真集なのですが、矢頭保の意図は明らかに「たくましい男の褌姿」を撮ることのように思えます。
そこには前作の「体道」のボディビルダーのような不自然さはなく、裸祭りのナチュラルな日本男児のエロスを表現しています・・・ホモエロスという世界ではありませんが。
「裸祭り」でも、三島由紀夫が序文を書いており、英語版の出版はまたもウエザビーの出版社からでした。



三島由紀夫の死後の1972年に出版され、矢頭保の最後の写真集となった「OTOKO」は、三島由紀夫に捧げられています。
「OTOKO」は、明らかな男性ヌード写真集ではありますが、下品に性欲興奮を煽ることは意識的に避けているような印象です。
・・・といって、いわゆる芸術的な表現を試みた写真というほどではなく、どこか憂いを漂わせるモデルの表情からは、矢頭保が好んだ寡黙で硬派な「日本男児」を追求した写真だと感じさせます。
撮影のシチュエーションには凝り過ぎた不自然なものも若干ありますが、外国人から見た「和の世界」という演出なのかもしれません。
「OTOKO」が出版された後、ウエザビーに新しい恋人ができ、ふたりは同棲を解消しています。
それでも矢頭保ウエザビーは彼を援助し続ける義務があると思っていた節があるようなのですが、それはウエザビーによって「ウケ」として調教された・・・という思いがあったからだそうです。
その後、矢頭保はカラー写真集の出版の準備をしていたらしいのですが、それが完成する前に48歳(1973年)で心臓疾患で急に亡くなりました。
三島由紀夫というインスピレーションを失い、ウエザビーというパトロンを失った矢頭保は、写真家としてだけでなく、人生さえも終わらせてしまったようです・・・。

数年前から「OTOKO」を入手しようと思って捜してみたのですが、40年近く前に出版されている本なので、今では「非常にレアな中古本」として、アマゾンのマーケットプレイスなどでは非常に高額で取引されていました。
そこで、世界各国の中古本屋のサイトで地道に捜し続けて、なんとか100ドル程度で購入することができたのです。
30年ぶりに見た「OTOKO」は、ボクの記憶にあったそのままで・・・改めて自分のリピドーの原点を確認したのでした。

矢頭保が”カリスマ写真家”になるまで/その1・・・宝塚歌劇団男子部から日活アクション映画の端役時代

矢頭保が”カリスマ男色写真家”になるまで/その2・・・パートナー兼パトロンだったアメリカ人メレディス・ウィザビー(Meredith Weatherby)と写真集三部作「体道」「裸祭り」「OTOKO」



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