2014/05/28

キム・ギドク監督の次なるテーマは”近親相姦”と”男性器切断”・・・台詞一切なしの実験的な意欲作品「なんだかんだで、全部○ンポが悪いのよっ!」~「メビウス/뫼비우스」〜



人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へblogram投票ボタン

キム・ギドク監督の作品は、一作ごとに観客のトラウマ許容範囲を広げてくるようなところがあります。本作「メビウス」は、韓国で三度の審議の末、監督が屈辱的な12カット(約50秒)を切った編集までして譲与したにも関わらず、制限上映可判定(韓国には制限上映可の映画館がないため事実上上映不可能)という判断を下されました。最終的に、上映賛否投票が行なわれて、公開された経緯があります。また、オリジナル版(カットなし)を上映した第70回ベルリン映画祭では、本作を見た観客に失神者が出たとの報道もあり、キム・ギドク監督作品の中でも、問題作と言えるかもしれません。

「メビウス」は、本編中台詞が一切なしという・・・実験的な意欲作でもあります。とは言っても、物音や言葉にならない声はあるわけで、サイレント映画というわけではありません。人物が言葉を発しないことが不自然に感じられる場面も多々あり、台詞を発することを禁じられた状態で無理矢理演技していると感じられる場面もあります。「純粋に映像で伝えたい」という監督の意向が成功しているかは、正直いって疑問です。ただ、物語の展開や登場人物の心の動きが理解できないほど異常なので、台詞を加えてしまうと嘘っぽくなってしまったかもしれません。映像的に起こっていることを受け入れるしかない・・・という立場に観客を追い込むことで、成立しているような気がします。

母(イ・ウヌ)と父(チョ・ジェヒュン)は、父の浮気が原因で、蹴飛ばし合うような喧嘩をするほど不仲です。しかし、父は母には”おかまいなし”に、近所で雑貨屋をする愛人(イ・ウヌ/一人二役)とデートして、路駐した車の中でセックスしています。その様子を目撃してしまう息子(ソ・ヨンジュ)は、家庭の崩壊を冷ややかに受け止めているようです。父親がセックスしている場面に出くわすことはないとしても、浮気相手と一緒にいるのも見てしまうのは”ありがち”・・・ただ、夫婦の喧嘩としては、あまりにも汚い(?)喧嘩っぷりは、明らかに普通の家庭ではありません。いきなり修羅場のような導入部・・・台詞なしのパントマイム演技には不自然さは感じるものの、会話も成立しないほど致命的な状況の家族であることを表しているようには、思えます。


ある夜、精神のバランスを完全に崩した母は刃物を取り出して、寝ている父の男性器を切り取ろうとしますが・・・直前に父は目が覚めてしまい失敗してしまいます。そこで母は息子の寝室に忍び込み、代わりに息子の男性器を切り取って、切り取ったモノをパクッと口に入れてしまうのです。女性が男性器を切り取り、さらに食べてしまう・・・というのは、その男性を独占しようとするメタファーのような気がするのですが、この母と息子の関係を考えると、そうではないような気がします。怒りの矛先であった父の分身でもある息子を代わりに傷つけるという代償行為なのでしょうか?気が狂った母は、家を飛び出して夜の街を彷徨います。そして、仏像に祈りを捧げる謎の男性を目撃した後、母は姿をくらましてしまうのです。


治療後、息子は普段の生活に戻りますが、男子小便トイレでは満足に用も足せない状態・・・その様子を見た同級生たちにイジメられて、下半身を見られてしまうのです。なんらかの事故で男性器を損傷することもあると思うので、整形外科的に小便ができるようにすることはできるはずだし・・・ちゃんと機能しないなら小便器じゃなくて個室便所で用を足せば良いのにとは思ってします。


父の愛人の雑貨屋の前で、再び同級生たちにズボンを脱がされそうになった時、年上の不良グループによって助けられるのですが・・・息子は、その不良グループと”グル”になって、父の愛人を強姦してしまうのです。不良たちに乱暴されて無抵抗になっている愛人を息子も犯そうとします。母が狂って自分の男性器を切り落とす原因となった愛人を「犯してやりたい!」という復讐心を息子がもつことは理解できないわけでありませんが・・・母と愛人を演じるのが同じ女優というところが、近親相姦的な気色悪さを感じさせます。男性器を失った息子は、愛人を強姦しようとしても挿入することはできません。息子と不良グループは、警察にあっさり逮捕されてしまいます。

家に残された父は、インターネットで男性器を失った人々の体験などを調べるようになります。そして、男性器の移植が可能ではないかという希望を託して、自分の男性器を息子に移植するために、病院で男性器切除の手術を受けるのです。元はと言えば、母が息子の男性器を切り取ってしまったのは、父の浮気が原因・・・自らの命と引き換えに息子が再び男性として生きていけるように、犠牲になろうということなのでしょう。親心として分からないわけでありませんが・・・この家族の”やることなすこと”すべて極端過ぎです。

また、父は自傷行為の苦痛から射精にも似た快感を得るという体験談をネットで発見します。そして、自分の足を石で傷つけることで、エクスタシーを得られることを確認するのです。少年院に収容された息子に面会に来た父は、その方法を教え・・・息子は自傷行為による自慰に耽るようになっていくのです。肉体的、精神的な苦痛を体験することで、さらなる苦痛によるマゾ的快楽に目覚めるってことはあるようで・・・「ボブ・フラナガンの生と死」というドキュメンタリー映画になった”究極マゾ”のボブ・フラナガンのように、難病で苦しむ中、さらなる苦痛で快楽を感じるようになることもあるのですから。

少年院を出た後、息子は再び父の愛人を訪ねます。近づいてきた息子の背中に、愛人は刃物を突き刺すのですが・・・苦痛によって快感を得るカラダになっている息子にとって、それは挿入による性行為に等しい快楽であったのです。背中に刺した刃物を背中でグリグリして、苦痛が強くなるほど興奮するようで...やがて、愛人も息子との性行為に夢中になっていきます。


息子と愛人は強姦の主犯だった少年に復讐するため、彼を雑貨屋に誘い込み、彼の男性器を切断してしまうのです。本作では三本(?)の男性器が切断されるわけですが・・・さすがに三本目となると滑稽にさえ感じられてしまいます。必死に切り取られた男性器を取り戻そうとする不良少年・・・しかし、息子はそれを道路に投げ捨て、あっけなくトラックのタイヤで踏みつぶされてしまうのですから。さらに、その後、この少年も自傷行為によるエクスタシーを知ることになり、刃物を背中に突き刺しての性行為を愛人と行なうようになります。

父はインターネットで男性器の接合手術に成功した例を見つけ出し、遂に息子へ男性器の移植手術を実行してもらいます。手術は無事に済んだものの・・・性的興奮で勃起することはなく、移植手術は失敗かと思われた時、母がいきなり家に戻ってくるのです。

ここからネタバレを含みます。


母の家出から、どれほどの日数が経っているか分かりませんが、同じ服を着てボロボロ・・・ずっと彷徨っていたということなのでしょうか?母の再登場は、本作の決着つけようのない物語に、終着点を用意することに他なりません。父と一緒に寝ている息子の横に、父を突き落としてまで母が横たわるのですが・・・今まで反応することのなかった息子に移植された男性器が、母の誘惑により凛々と勃起してしまうのです。ここで”エディプス・コンプレックス”を連想させられてしまいますが・・・別に息子と父が対立しているわけではありません。切り取ってしまったはずの息子の男性器があることに驚く母ですが、すぐさま父の股間を確認して、息子についている男性器は父のものであったことを知ることになるのです。

その後、母は夜な夜な息子とセックスをしようと、寝室に忍び込むようになるのです。韓国では母と息子が性行為をするという近親相姦が倫理的に”ありえない”として削除対象となったそうなのですが・・・ボクの見た韓国版DVD(約88分)では、息子は母と性行為をしている夢を見て夢精しているというニュアンスになっていました。ただ、母は息子本人と性行為というよりも、父の男性器と結ばれようとしているようでもあり・・・それはそれで、別な意味で気色悪いことには違いありません。近親相姦という行為を、今までの心理学的な発想では分析するすべもないほど屈折させたのは、さすが(?)キム・ギドク監督であります。


母と息子の近親相姦に耐えきれなく父は、拳銃で母を銃殺し、自分も自殺してしまうのです。まぁ〜この物語は、こうとしか終わりようがなく・・・母が再び登場した時に、悲劇的な事態が起こることことは分かりきっていることではあります。さらに、息子は拳銃を手に取り、自分の股間に向かって撃ち放つのです。結局、この家族は男性器の象徴される”男の悪行”により、崩壊してしまったのかもしれません。息子が男性器を持ち続けることは許されるはずもないのです。


夜の街には仏像に祈りを捧げる男性の姿・・・それは、再び男性器を失った息子の姿。まるで”デジャブ”のようであります。母が息子の男性器を切り取った夜に現れた男性は、未来の息子だったのです。本作のタイトル「メビウス」は”メビウスの輪”のこと・・・家族内の”業”が裏も表もなしに延々と繰り返されるということなのかもしれません。「鰐~ワニ~」「ワイルドアニマル」「魚と寝る女」「受取人不明」「悪い男」などのキム・ギドク監督の初期作品に出演して、キム・ギドク監督の”ペルソナ”とも言われるチョ・ジェヒュンが、父を演じているのですが・・・最後のシーンで仏門の悟りをする息子(衣装が普段のキム・ギドク監督にそっくり)ということは、息子が監督自身を投影しているような気がします。

「近親相姦」「男性器切断」は、寓話的世界でのキム・ギドク監督の観念的な出来事で、現実にある犯罪や心理を描こうというわけではありません。「なんだかんだで、全部○ンポが悪い」とでもいうように、切ったり、付けたり、また切ったり・・・・そんな挑発的表現に、いちいち倫理観を揺さぶられることこそ、想像力に欠けることのように思えてしまうのです。


「メビウス」
原題/뫼비우스(英題/Moebius)
2013年/韓国
監督/脚本 : キム・ギドク
出演    : チョ・ジェヒュン、ソ・ヨンジュ、イ・ウヌ
2014年6月13日カリテ・ファンタスティック!シネマコレクション2014にて上映
2014年12月6日より日本劇場公開



人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へblogram投票ボタン

2014/05/22

ゲイ映画監督だから描けた”愛”と”死”が紙一重の危険な心理・・・アラン・ギロディ(Alain Guiraudie)監督のハッテン場”あるある”のサスペンスミステリー~「湖の見知らぬ男/ストレンジャー・バイ・ザ・レイク(英題)/Stranger by the Lake/L'Inconnu du lac」~



ゲイであることを公表している映画監督というのは大勢います。しかし、ゲイ監督といっても、必ずしも「同性愛」をテーマとした作品ばかりを作っているわけではありません。ゲイっぽいキッチュな作風に特徴があったり、自作自演で伝記的な作品ということもありますが・・・職業監督に徹していることもあります。ストレートの映画監督がゲイ映画を作ることもあるように、ゲイの映画監督の作品もジャンルを超えて多種多様なのです。

ペドロ・アルモドバル(神経衰弱ぎりぎりの女たち、オール・アバウト・マザー,私が生きる肌)

ガス・ヴァン・サント(マイ・プライベート・アイダホ、グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち、エレファント)

ジョン・キャメロン・ミッチェル(ヘドウィック・アンド・アグリーインチ、ショートバス、ラビットホール)

フランソワ・オゾン(クリミナル・ラヴァース、8人の女たち、スイミング・プール)

グザヴィエ・ドラン(マイ・マザー、胸騒ぎの恋人、わたしはロランス)

グレッグ・アラキ(リビング・エンド、ドゥーム・ジェネレーション、ミステリアス・スキン)

橋口亮輔(渚のシンドバット、ハッシュ!、ぐるりのこと)

ツァイ・ミンリャン(愛情萬歳、河、西瓜)

スタンリー・クワン(ルージュ、異邦人たち、藍宇~情熱の嵐~)

アピチャートポン・ウィーラセータクン(ブリスフリー・ユアーズ、アイアン・プッシーの大冒険、ブンミおじさんの森)

ジョアン・ペトロ・ロドリゲス(ファンタズマ、オデット、男として死ぬ)

フェルザン・オズペテク(ハマム、無邪気な妖精たち、あしたのパスタはアルデンテ)

ローランド・エメリッヒ(インデペンデンス・デイ、デイ・アフター・トゥモロー、2012)

ブライアン・シンガー(Xメン、X-MEN2、X-MEN:フューチャー&パスト)

ビル・コンドン(ゴッド・アンド・モンスター、シカゴ、ドリームガールズ)

ジョエル・シュマッカー(セント・エルモス・ファイアー、今ひとたび、オペラ座の怪人)


アラン・ギロディ監督は、1990年代から活動しているフランスのゲイ映画監督・・・各国映画祭の常連ではありますが、作品が世界的に公開されることは殆どありませんでした。それは、彼の作品に”ホモ・エロティック”な要素が織り込まれているからではなく・・・どのジャンルにも属さない世界観というのがあるかもしれません。また、彼の作品でゲイ役として出てくるのが、所謂、ゲイ好みの若い”マッチョ系”や髭の”クマ系”とかだったり、一般人のゲイのステレオタイプである”オネェ系”ではなく、パッとしない普通の”おじさん”(おじいさん?)ばかりという独特のキャスティングというのもあります。

長編第1作の「ノー・レスト・フォー・ザ・ブレイヴ(英題)/No Rest for the Brave/as de repos pour les braves」は、眠ると死んでしまうと思い込んでいる少年が、二つの村(現実と夢)を行き来するというシュールな話で、夢の中では60歳ぐらいのおじいさんと恋愛関係というのが、なかなかヤバい設定。

長編2作目の「タイム・ハズ・カム(英題)/Time Has Come/Voici venu le temps」は、架空の世界(西部劇のような雰囲気)を舞台にしたSF(?)で、支配層のロマンスグレーの男性と田舎の村で妻と暮らす初老の男性との間で葛藤する”ゲイ”の傭兵の物語。

2009年に東京国際映画祭で上映された長編3作目「キング・オブ・エスケープ/The King of Escape/Le roi de l'evasion 」は、16歳の少女と恋に落ちて逃避行するデブの中年ゲイのお話で、ゲイ仲間(ヤリ友?)が普通におじさん(おじさん)ばかりという作品。

長編4作目となる「湖の見知らぬ男」は、湖畔の”ハッテン場”を舞台にした殺人ミステリ-で、この作品にもデブのおじさん(今回はノンケ?役)が登場しています。


「湖の見知らぬ男/ストレンジャー・バイ・ザ・レイク(英題)/Stranger by the Lake/L'Inconnu du lac」は、第66回(2013年)カンヌ映画祭の「ある視点」部門で最優秀監督賞(演出賞)を受賞した作品ということもあり、世界各国で公開され、過去の作品も盛んに上映会が行なわれているようです。「湖の見知らぬ男」は、日本国内でも英語字幕での上映会が行われているし、邦題(湖の見知らぬ男)もつけられてはいるようなので、もしかすると(限定的かもしれませんが)劇場公開もあるかもしれません。本作の登場人物はアラン・ギロディ監督作品には珍しく、若いイケメン(?)・・・企画段階では登場人物たちの年齢設定はもっと上だったらしいので、このキャスティングが結果的に幅広い観客に受け入れられる要因になったのかもしれません。

南フランスの湖畔にあるゲイの”ハッテン場”での10日間の出来事を描く「湖の見知らぬ男」・・・自然光のみでの撮影、「湖のさざなみ」「風で揺れる木々の音」「息づかい」だけのサウンドトラックでありながら、緊張感の途切れないエンターテイメント性に満ちたミステリーです。ただ、性描写は(近年ヨーロッパ映画界のトレンド?)ハードコアポルノ並みにオーラルセックスから射精シーンまでバッチリ・・・ホモフォビアの観客には、生理的にハードルの高い作品ではあります。

ここから本編のネタバレを含みます。


(1日目)ゲイの青年(30歳前後?)のフランク(ピエール・ドィラドンシャン)は、シーズン初めて湖畔にある”ハッテン場”に通い始めます。こういう野外の”ハッテン場”というのは、到達するのに不便な場所にありがち・・・ここも、対岸には家族連れなどが行く一般人エリアもあるようなのですが、”ハッテン場”のビーチエリアには雑木林を抜けないと辿り着けません。ヌーディストビーチとして許可されてないようですが、殆どの男性は素っ裸・・・ただ、歩き回る時にはスニーカー”だけ”を履くという”まぬけ”な恰好ではありますが、野外の”ハッテン場”「あるある」です。ビーチではタオルを敷いて日焼けをして、雑木林でクルージングして、草かげに隠れてセックスというのが、この”ハッテン場”の暗黙の了解というところでしょうか・・・。

毎シーズン常連のフランクは顔なじみも多い様子・・・初めて見かけたデブのおじさん(50代?)のヘンリ(パトリック・ダスマサオ)にも、クルージング目的ではなくフレンドリーに声をかけます。ヘンリは離婚したばかりという”自称ストレート”・・・一般のエリアでは誰かと話をしよとすると奇妙に見られてしまうが、”ハッテン場”だったら見知らぬ人とも会話もできると、あえて”ハッテン場”に来ていることを説明するのですが、これはちょっと”いいわけ”っぽく思えてしまいます。ただ、ヘンリから誰かを誘うことはありません。フランクとの会話は楽しんでいるようで・・・”ハッテン場”にいるゲイとは違う視点をもつ”部外者”として、その後、重要な役割を担うことになるのです。


フランクは、自分が好きなタイプの髭の男(30代半ば?)ミッシェル(クリストフ・パウ)を見つけて、彼の後を追って雑木林に入ります。雑木林の中で不自然に歩き回る男たち・・・”ハッテン場”では、よくある光景です。半ズボンを膝まで下げて、一人でシコシコしているエリック(マチュー・ヴェルヴィッシュ)のように、他人の行為を覗いて楽しむ輩というのもいます。フランクがミッシェルの姿を見つけた時には、すでに彼は草かげで誰かとヤッている最中・・・フランクは諦めて、その場を去るのです。


(2日目)翌日、フランクはミッシェルと再会・・・積極的に声をかけて隣に座ります。フランクが自分に気があることには気付いているミッシャル・・・しかし、そこに若い男(20代半ば?)が現れて一緒に雑木林に消えて行ってしまうのです。おそらく、この若い男は、この”ハッテン場”で出会った”ひと夏”のボーイフレンド?・・・自分が気に入った相手に、すでに誰かの”ツバ”が付いていることは”ハッテン場”ではよくあることではあります。ただ、奪い合うなんてことは野暮なことはしません。お互いに気がある者同士なら、隙をみて”ヤル”機会はあるものです。フランクはミッシェルを深い追いせず・・・雑木林で別な髭の男(40代後半?)に誘われると、気軽に応じて草かげでセックスを始めます。


”ハッテン場”での出会いでは、エイズなど性行為で感染する病気にならないためにも「セーフセックス」であることが、絶対的な基本・・・しかし、全員がそう考えているわけではありません。この髭の男は、コンドームなしでオーラクセックスはしないという”慎重派”ですが、フランクは「信用してるから大丈夫」というゲイ特有の根拠のない楽観的発想の持ち主・・・結局、オナニーで妥協。フランクのような考え方が珍しいかと言えば、そんなことは全然なく・・・フランスに限らず日本の”ハッテン場”でも、好きなタイプだったら「大丈夫」と、セーフセックスをしないゲイというのは結構いたりします。ただ、ゲイ特有の危険な心理が、後にフランクを窮地に追い込むことになる伏線になっているのです。

髭の男との行為の後、暗くなった雑木林をひとり歩くまわるフランク・・・もしかすると、ミッシェルと会えることを期待していたのかもしれません。しかし、フランクが目にしたのは、殺人現場。湖の中で男二人がもみ合っているうちに、一人の男が水の中に消え・・・湖からは、ミッシャエル一人だけが出てきます。殺されたのはミッシャエルと一緒に雑木林に入って行った若い男だったのでしょうか?しかし、フランクは目撃したことを誰にも告げることもせず、帰宅するのです。


(3日目)次の日、フランクは”ハッテン場”に行ってみると、ミッシェルの姿はありません。昨晩、殺されたであろう若い男の私物は、そのまま湖畔に置きっぱなしにされているのですが・・・誰も異変に気付いていない様子。考えてみると・・・ミッシェルの殺人は、かなり稚拙です。雑木林の中は人目につきにくいですが、逆に湖というのは周辺から丸見えで、犯行を目撃されやすい状況ではあります。また、車を動かすこともできないので、殺された若い男の車はずっと駐車場に置きっぱなし・・・明らかに不自然な状態です。ただ、”ハッテン場”というのは奇妙な場所で、セックスした相手でも本名や素性を知らないこともありがち・・・顔なじみ同士でも深く干渉し合うこともありません。急に誰かの姿を見なくなったとしても、共通の知り合いがいなければ、詮索する”すべ”もないのです。

(4日目)さらに次の日・・・またもミッシェルは”ハッテン場”には姿を現しません。しかし、常連たちが帰宅した後・・・ミッシェルが湖から突然現れるのです。フランクはミッシェルの危険な香りに、あっという間に惹かれてしまいます。相手を信じればセーフセックスしなくても大丈夫という・・・自分の性欲を満足させるためには不都合なことにも目を背けてしまう心理は、フランクに殺人さえ見逃させてしまうのです。帰り際、駐車場でフランクの車種を知ったミッシェルは、殺人の夜に自分と殺された若い男以外に湖畔にいたのは、フランクだと確信をもってしまいます。

(5日目)その翌日から、”ハッテン場”で会うと、約束をしていたかのように雑木林に入ってセックスをするフランクとミッシェル・・・コンドームなしで何でもありです。フランクはすっかりミッシェルにメロメロになってしまうのですが、”ハッテン場”以外で一緒に過ごそうとはしない態度に、フランクは不満を感じ始めます。


(6日目)次の日、フランクが”ハッテン場”に到着してみると、ヘンリ以外誰の姿がありません。湖から男の死体が見つかったとのことで、そのことをニュースで知った常連たちは”ハッテン場”には来なかったようなのです。しかし「事件が起こったら、今シーズンは終わりだ」というヘンリの予想に反して、その翌日(7日目)には、再び何ごともなかったかのように、常連たちは”ハッテン場”に戻って、以前と変わらずビーチで寝そべり、雑木林でクルージングに励んでいます。”ハッテン場”という存在自体、非合法で反社会的なところがあるせいか・・・警察と関わることを嫌がります。それは、事故や犯罪に対して、鈍感にさせてしまうのかもしれません。


”ハッテン場”には、初老のダマドール捜査官(ジェローム・シャパット)がやってきて、事件の捜査を始めます。やはり、見つかった死体は「あの若い男」でした。しかし、フランクは目撃した殺人のことは勿論、殺された若い男のことも知らないと、シラを切るのです。二人だけの秘密をもつことで、特別な絆を感じたかったのかもしれません。

(8日目)次の日、ダマドール捜査官はミッシェルとフランクが何か知っているのではないかと、別々に尋問をしてきますが、まだ殺人なのか、溺死事故だったのは分かっていないようです。フランクは、ミッシェルにカマをかけた質問を投げかけてみますが、あっさりかわされてしまいます。陽が暮れかかってきたころ、湖で一緒に泳ごうと誘うミッシェル・・・初めは恐怖を感じて躊躇していたフランクでしたが、恐る恐るミッシェルに向かって泳ぎ出します。殺された若い男の二の前になってしまうのではないかという恐怖感は、高揚感も高めるようで・・・フランクはますますミッシェルとのセックスに溺れてしまうのです。一緒に夜を過ごしたいと自分の思いを伝えるフランク・・・しかし、ミッシェルが相手に求めるのはセックスのみで、人間的な関係には興味はありません。


(9日目)翌日、ヘンリはフランクにミッシェルは怪しい男だと忠告をします。魅力的なルックスや情熱的なセックスに惑わされて、自分が求めているものを見失っているのではないか?一時的なセックスをする関係ではなく、人生をシェアするパートナーが欲しいならば、セックスは重要ではないのでは?・・・と。多くのゲイにとって少々耳の痛い話です。ただ、一過性のセックスだけの相手だと悟ってしまうと、何故かセックスにも色褪せてしまうように感じることってあります。そこに本当の愛情があるか、ないかに関わらず・・・愛の”まやかし”は、セックスの最高の刺激与えてくれる”スパイス”でもあるのも事実だったりするのです。

その”スパイス”を失いかけてしまったフランクは、ミッシェルとのセックスにも没頭できません。逆に、殺された若い男の話を持ち出して、ミッシェルを怒らせてしまいます。一人取り残されたフランクのに近づいてきたのが、フランクのことが好きで常に追い回していたエリックです。この隙が絶好のチャンスとフランクにオーラスセックスをするエリックですが、彼がフランクに求めているのもセックスのみ・・・フランクが射精したら、あっさりと立ち去っていきます。愛の”まやかし”さえないセックスは、生理的な排出でしかないのです。


その夜、駐車場には捜査官がフランクを待ち構えています。殺された若い男がミッシェルの元ボーイフレンドであったことまで、すでに警察は突き止めているようで・・・改めて事件の夜のことを尋問するのですが、フランクは何も語りません。捜査官が去った後、暗闇からミッシェルが突如現れます。口を割らなかったフランクに愛情を感じたミッシェルは、今までになく優しくフランクを抱き寄せるのです。

(10日目)翌日・・・フランクとミッシェルは”ハッテン場”のビーチで手をつないで日焼けをするほどラブラブなカップルになっています。ミッシェルに取り込まれてしまったようなフランクを心配しているヘンリ・・・フランクが一人で湖で泳いでる隙にミッシェルに近づき、殺人の疑惑を投げかけます。そして、何故か・・・ヘンリはミッシェルを誘うように、雑木林へと消えるのです。

ここから結末のネタバレを含みます。


ミッシェルとヘンリの姿を見失ったフランクは、慌ててビーチに戻ってきます。不吉な予感がして雑木林を探し回ると・・・草かげから出てくるミッシェルの姿が!そして、草かげには首をザックリと切り裂かれたヘンリの姿が残されているのです!息絶え絶えになりながら・・・「これは自分が求めていたこと」と言うヘンリの真意は不可解ですが、彼は自らを犠牲にして、ミッシェルが殺人鬼であることを証明しようとしたのでしょうか?

雑木林に来ていた捜査官も、あっさりフランクの目の前でミッシェルに刺されて殺されてしまいます。ミッシェルはフランクの名前を呼びながら探し始めるのですが、フランクは恐怖のあまり草かげに、息を殺して隠れているのです。しかし「今夜は一緒に過ごそう」などと、甘い言葉で誘うミッシェル・・・雑木林が闇に包まれてくるころ、フランクはミッシェルの呼びかけに答えてしまいます。いろんな警告に耳を傾けず、性欲の求めるままミッシェルに惹かれてしまったフランクの運命は、とっくに決まっていたのかもしれません・・・。徐々に雑木林に闇が迫ってくる画面は、やがて真っ黒にフェードアウトして・・・フランクの死を確信させて、映画は終わるのです。

「湖の見知らぬ男」は、アラン・ギロディ監督のよる王道の”ゲイ・フィルム”ですが・・・セーフセックスを啓蒙する映画でもないし、ゲイの政治的な問題を問う映画でもありません。ただ「愛」と「死」が紙一重のゲイ特有の危険な心理や、”ハッテン場”での些細な心の動きの的確な表現は、監督自身が”ゲイ”だからこそ描くことができたと思うのです。

***************

アラン・ギロディ(Alain Guiraudie)監督のフィルモグラフィー


1990 Heros Never Die/Les heros sont immortels(短編)
1994 Straight on Till Morning/Tout droit jusqu'au matin(短編)
1997 The Inevitable Strength of Things/La force des choses(短編)
2001 That Old Dream That Moves/Ce vieux reve qui boouge(中編)
2001 Sunshine for the Poor/Du soleil pour les gueux(中編)
2003 No Rest for the Brave/Pas de repos pour les braves
2005 Time Has Come/Voici venu le temps
2009 「キング・オブ・エスケープ」The King of Escape/Le roi de l'evasion 
2013 「湖の見知らぬ男」Stranger by the Lake/L'Inconnu du lac


「湖の見知らぬ男/Stranger by the Lake」
原題/L'Inconnu du lac
2013年/フランス
監督 : アラン・ギロディ
出演 : ピエール・ドィラドンシャン、クリストフ・パウ、パトリック・ダスマサオ、ジェローム・シャパット、マチュー・ヴェルヴィッシュ
2014年2月16日第17回カイエ・デュ・シネマ週間にて上映
日本劇場公開未定


人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へblogram投票ボタン

2014/05/14

ラース・フォン・トリアー監督の”鬱三部作”最終作は支離滅裂で下ネタ満載の”コメディ”なの!・・・最後のどんでん返しに思わず「この4時間って何だったの?」と頭を抱えてしまう~「ニンフォマニアック(原題)/Nymphomaniac Vol. 1 & 2」~



人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へblogram投票ボタン

ラース・フォン・トリアー監督は「三部作」というのが”お好き”なようで・・・劇場用としてつくられた作品の殆どは”三部作”となっています。

デビュー作「エレメント・オブ.クライム」「エピデミック」「ヨーロッパ」は”ヨーロッパ三部作”だし、テレビシリーズの「キングダム」も元々は”三部作”の予定(主要キャストのエルンスト・フーゴ・イエアゴーが亡くなったために”ニ部”で未完成)だったし、「奇跡の海」「イディオッツ」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」は、厳しい状況下で純粋な心を保ち続ける女性を主人公にした”黄金の心三部作”で、「ドッグヴィル」「マンダレイ」は”機会の土地アメリカ三部作”の二作で三作目の「ワシントン」は無期限で保留になっています。

鬱病治療の休業(2007~9年)後、「アンチクライスト」から始まった”鬱三部作”・・・「メランコリア」に続き、三作目として完成したのが「二ンフォマニアック/Nymphomaniac Vol. 1&2」です。1990年代後半から自身の会社”ツェントローバ”で、女性向けのハードコアポルノ映画の制作していたぐらいですから、ラース・フォン・トリアー監督にとって過激な性表現(演技でない性行為)は”お手もの”・・・本作は”ハードコアポルノ”として制作されました。ただ、本番シーンの下半身はボディダブルで、俳優の上半身とCGで合成されているとのこと。

ソフトコア版、ハードコア版、5時間半の上映時間など、いくつかのバージョンの存在が噂されていますが、ボクが観たのは約4時間の公開版(ソフトコア版?)・・・結合部分のアップはありませんが、性器のアップが含まれているので、日本で公開される時にはモザイクが入りそうです。

「二ンフォマニアック/Nymphomaniac Vol. 1&2」は、路地に倒れていた自称ニンンフォマニア(色情狂)のジョー(シャルロット・ガンズブール)が、偶然通りかかって彼女を助けたセリグマン(ステラン・スカルスガルド)に性遍歴を語るという作品・・・「ジョーとセリグマンのディスカッション」と「ジョーの回想シーン」によって構成されています。セリグマンは読書好きの孤独な初老男性・・・自己満足のために”セクシャリティー”を利用してきた「悪い人間」であると、自己嫌悪をしているジョーの話を、音楽や数学の定理、芸術作品の引用、キリスト教宗派の歴史、釣りや山登りの例えなどを交えて、分析をしながら彼女を肯定的に受け止めていくのです。


2歳で自分の性器を意識したというジョー・・・幼い時には”カエルごっこ”と称して腰を濡れたバスルームの床に押し付ける遊びをしたり、学校の体育では昇りロープ(昇り棒のような)で股間を刺激していました。自分の魂を象徴するような木を見つけることを教えてくれた父親(クリスチャン・スレーター)、冷たくしか接してくれない母親(コニー・ニールセン)・・・子供時代の親子関係や、無意識の性的体験を過剰に意識してしまうことは、その後の人生の性的嗜好や性癖に影響を与えていくのかもしれません。


ティーンエイジャーになったジョー(ステイシー・マーティン)は、憧れのジェローム(シャイア・ラブーフ)に、処女を奪って(3回ヴァギナに挿入され5回アナルに入れられて)もらいます。親友”B”(ソフィア・ケネディ・クラーク)とはチョコレート1袋を賭けて、長距離列車の中で「どちらが多くの男とエッチをするか」を競争したりします。そんな男狩りの様子を、セリグマンは河釣りに例えるのですが・・・奥さんと子作りに励もうとしている男性と強引にオーラルセックスをしたジョーに対しては「精子は体内で古くなるので子作り前に出したのは良かったのだ」と解釈するのですから、セリグマンは、ちょっと変わっているのです。


その後、若いジョーはニンンフォマニアっぷりを発揮し始めます。情欲と嫉妬でしかない”愛”に反撃するヤリマン女のグループを作って、数々の男性とやりまくるようになるのですが・・・彼女の決まり文句というのが「オーガズム感じたの初めて!」というのだから、喜んでいる男って「バカね~」って話です。「愛情はセックスの最高のスパイス」と言いだして、ひとりの男と関係を持ち始める仲間を見下して、人間的な関係を結ばずにセックス”だけ”したいジョー・・・実は、こういう女って男にとっては”都合のいい女”でしかありません。それが分かってないいないジョーは”痛い女”です。

初恋の相手ジュロームに仕事場で再会すると、最初は気のないそぶりをしてしまうのですが・・・次第にジュロームを愛していることにジョーは気付きます。女性にとって、初体験の相手は特別な存在ということなのでしょうか?やがて、ジュロームをストーカーのように追いかけてしまうジョーは、さらに”痛い女”になっていきます。しかし、ジョーが自分の気持ちを告白しようとした時・・・ジュロームは職場の秘書の女性と結婚して、ジョーの前から姿を消してしまうのです。”ヤリマン”なのに恋してしまうと意外に純粋(?)いうのは、一番傷つくパターンかもしれません。


ジュロームを失ったことで、ますます肉体関係”だけ”を持つ男の数が増えて、スケジュールの収拾がとれなくなってきます。サイコロを振って「会う男」と「切り捨てる男」を決めたりして、心を持った人間として男を見ていないから、愛に裏切られることもありません。

愛を確かめる行為がウザったくて仕方ないような女だから・・・既婚者の”H”(ヒューゴ・スピアー)に「ボクのこと愛してる?」と訊ねられた時「家族を捨てないあなたとは、もう会わない」という常套句であっさりと別れらたりするのです。ところが”H”は、荷物を持ってジョーの元に戻って来てしまいます。それも”ミセスH”(ユマ・サーマン)と彼らの息子3人が同伴で!愛してもない男の妻に乗り込まれてもジョーには面倒なだけですが、家庭崩壊させられた妻にとっては絶好の”修羅場”。ジョーを厭味で追い詰め、ヒステリックに叫ぶ”ミセスH”の痛々しさは、滑稽でしかなく・・・夫婦愛の不信に満ちた象徴的なシーンです。


病気で入院中、精神的にも不安定な父親に付き添っていたジョーは、院内のスタッフの男性を手当り次第に誘って、やりまくります。極度のストレスを超える感情はオーガズムでしかないのかもしれません。父の死体を前に、何故か股間が濡れてしまった自分を恥じり、ますます自己嫌悪に陥っていったジョーは・・・さらに多くの男性とやりまくるようになるのです。

ひと晩に7~8人というのだから、尋常ではありません。ただ、主要な3人の男性によって、ジョーは音楽がハーモニーを奏でるように、精神のバランスを取っていくことになるのです。デブの”F”(ニコラス・ブロ)はジョーを快楽を与えることだけに興味のある男、ワイルドな”G”(ククリスチャン・ゲイド・ベジェラム)は動物的なセックスをする男、そして偶然(!)三度目の再会をするジュロームは愛する男・・・「愛情はセックスの最高のスパイス」とばかりに、ジョーはまたまたジュロームにのめり込んでいきます。

ここからネタバレを含みます。


ここで、ジョーに衝撃的なことが起こります。突然”不感症”になってしまうのです。ここまでが「Vol.1」で「Vol.2」は、いきなり不感症に苦しむジョー(ステイシー・マーティン)の姿からスタートします。思い起こせば、学校の遠足にでかけた丘に1人で寝そべっていた12歳の時、浮遊感を感じてオーガズムを初めて体験したジョー・・・その時、傍に佇んでいたのは神々しい姿をした二人の女性でした。1人はローマ皇帝クラウディウスの妻メッサリナ、もう1人は黙示録にでてくる大淫婦バビロンで、歴史上最も有名な”二ンフォマニア”だと、セリグマンは指摘します。


ここでジョーはあることに気付きます。性遍歴の話に興奮することもなく、本から得たアカデミックな知識で分析をするセリグマンは性体験がないということに・・・セリグマン曰く、自分は”アセクシャル”(無性愛者)であり、色情狂(淫乱)を偏見なく分析/判断できるのは、自分のような純潔(童貞/処女)でイノセントな(キリスト教的に無実)人間だと言うのです。本来、自らが経験しなければ、他人の痛みを理解することもできない・・・と、ボクは思ってしまうのですが、罪深い者が裁きを行うことはできないという倫理観が理解できないわけではありません。

今までオーガズムによって「生きている」感覚を感じてきたジョーにとって、”不感症”というのは非常にストレスでしかありません。しかし奇しくも・・・この時に、ジョーはジュロームの子を妊娠するのです。性的な快楽を失ったかわりに子を授かるとは・・・なんとも皮肉であります。ただ、出産により不感症が治るのではないかというジョーの期待どおり、息子を出産後ジョーは再び性的に感じるようになるのです。それは、ニンンフォマニア本来の貪欲な性欲も戻ってくるということであり・・・ジョーの強い性欲についていけなくなったジュロームは嫉妬心を持ちつつも、ジョーに他の男性ともセックスをするように奨めるのです。

ここまでの回想シーンでは、ステイシー・マーティンがジョーを演じているのですが・・・この後から、シャルロット・ガンズブールがジョーを演じるようになります。映画の中でも時間的には、それほど経っていないのに、いきなり年取るので(!)面食らってしまいました。

ジュロームと息子を育てる日常を送りながら、数人の男性と肉体関係をもつ生活をしているジョー(シャルロット・ガンズブール)でしたが・・・性的な満足感を得られない日々を過ごすようになっています。ある日、ジョーは言葉が通じない男性とセックスすると興奮するのではないか・・・と思い立ち、通訳を雇い(!)自宅前にたむろするアフリカ系の男性を誘うのです。指定された安ホテルに現れたのは、誘った黒人男性と彼の弟・・・裸のジョーを前にして、彼らは言い争いを始めるのですが、どうやら、どっちが前に挿入して、どちらが後ろに挿入するかで喧嘩をしているようなのです・・・それも勃起したまま!そそり立っているふたつのペニスの間で、なすすべのなく佇むジョーの姿は、なんとも”おバカ”としか言いようがありません。


黒人男性との経験から、まだ自分が経験していない世界があると悟ったジョーは、さらなるセクシャリティーの可能性追求のため、暴力的な”サド”男性マスター”K”(ジェイミー・ベル)の”調教を受けたいと「SMサロン」を訪れます。そのサロンには、マダムと呼ばれるような上品な女性たちが予約制で顧客として訪れているようなのです。

最初は”K”に断られるジョーですが、それも、ある意味プレイの一環・・・ジョーは「ファイド」という名前を与えられて、”K”の調教を受ける女性のひとりとなります。”K”のルールは「呼ばれるまで待合室にいる」「命令どおりにして何も要求しない」「挿入はしない」ということ・・・平手打ちや鞭打ちなど暴力的な調教の前には、非常に優しく接し、今から何をするかを丁寧に説明するところが、なんとも不気味です。

また「挿入しない」というルールを設ける"K"は、もしかするとサド的な嗜好は、性的不能(勃起不全)を暗示しているのではないかと思えてしまいます。西洋のSMは、恥ずかしいとかの精神的な屈辱のプレイよりも、主従関係と肉体的な苦痛のプレイが主流だったりするのは・・・やはりキリスト教的な「罪」「裁き」「罰」という概念が、SMに欠かせないということなのでしょうか?


”K”から調教を受けることを何よりも優先するようになってしまったジョーは、雪の降るクリスマスの夜、ベビーシッター不在のまま、息子をひとり家に残してサロンにやってきてしまいます。まるで「アンチクライスト」の冒頭シーン(セックスに没頭している間に息子が窓から落下する)と同じで、バックグラウンドに流れる音楽も同じ・・・ただ、本作ではジューロームが帰宅し、息子は無事ではあるののですが。

一度は自宅に戻るのですが・・・ジュロームに母親失格の烙印を押されて自暴自棄となったジョーは「もし今夜家を出たら、二度と自分にも息子にも会えない」と言われたにも関わらず、再び”K”のサロンへ向かいます。ルールを破り挿入を迫るジョーに対して”K”は、クリスマスプレゼントの鞭(ロープに結び目をいくつも作ったもの)で、肌が裂けるほどの”ローマ風の40回の鞭打ち調教”を受けるハメになります。しかし、その苦痛の中でジョーは、初めてのオーガズム(浮遊感を感じた少女の時のように)に匹敵するほどの快感を感じるのです。

セックスやオナニーのやり過ぎで陰部から出血したりして、仕事にも影響が出るようになってきたため、ジョーはセックス中毒患者のグループセラピーに参加することになります。まずは日常生活から性的なものを全て排除するように指導され、ジョーは殆ど日用雑貨を捨て、尖ったもの(家具の角とかまで)を覆い、鏡や窓を白く塗りつぶし、ベットに横たわって、性欲を我慢する・・・ということを始めます。

何か別なことに集中した方が気が紛れると思うのですが・・・ジョーは”ド真面目”に3週間と5日間、こんな禁欲生活をするのです。いきなり中毒しているモノを断つという極端な処方が続くわけはありません。セッション中に、ジョーは唐突にセラピー仲間の女性たちを侮辱する暴言を吐き始め・・・「ニンフォマニアである自分を愛している!」と宣言して、セラピーを辞めてします。セックス中毒患者は、何かの変わりをセックスで埋めているのだけれど、自分は自己愛の延長上にオーガズムを求めているのだと、自分を肯定的に捉えようとした・・・ということなのです。ただ、その後、ジョーはさらに深い自己嫌悪に陥っていくわけですから・・・この自己肯定は、まったく役立たずということになるのかもしれません。


ニンフォマニアとして生きることを受け入れ(?)、社会的に居場所をなくしたジョーは、裏社会に通じた”L”(ウィリアム・デフォー)の手伝いとして、性的な個人情報を入手する自営業をスタートさせるのです。「借金の回収業」と”L”が呼ぶビジネスは、ハッキリ言えば「ゆすり」・・・ジョーのニンフォマニアとしての豊富な経験を生かして、男性たちの性的嗜好(極度のマゾとか、同性愛とか、様々なフェティッシュとか、少年愛好者とか)という”弱み”(時には本人さえ気付いていない禁じられた性癖さえ)を見つけ出していきます。それは金銭的な恐喝というだけでなく、自分の性癖と直面させられるという精神的にも社会的にも自分を失うという・・・他人の人生を崩壊することでもあったのです。


ジョーの犯罪的なビジネスは大成功・・・しかし、年齢的には今後厳しくなっていくと考える”L”は、ジョーに後継者を見つけて、育て射るように奨めます。父親は刑務所、母親は麻薬中毒で死んでしまった”P”(ミア・ゴース)という少女に近づき・・・彼女の心の支えとなり、犯罪行為さえ躊躇しない忠誠心を育み、後継者にするべきだというのです。

作戦どおりジョーは”P”と親しくなり、後見人として一緒に暮らすようになります。しかし、二人は母と娘のような関係というわけではありません。長年のセックスのやり過ぎで精神的にも肉体的にも体調を崩し始めたジョーに、”P”はレズビアン的な行為で癒そうとしたりするのですから。ジョーは自分のビジネスの後継者にするために、”P”に意図的に近づいたことを告白します。そもそも親の愛情に恵まれていない”P”は、ジョーの作戦を悪意を感じるどころか、逆にジョーのビジネスに積極的に関わっていくようになるのです。


ある時、ジョーが訪れたのは、あのジュローム(マイケル・パス)の家でした。この回想シーンから、ジュロームを演じるのは、シャイア・ラブーフからマイケル・パスに変わります。またまた偶然に遭遇するジョーとジュローム・・・さすがに、自分がジュロームを相手にはできないと”P”をジュロームの屋敷に送り込み、見事に仕事をやり遂げます。

恐喝した金額は、6回の分割払いとなり、そのたびに”P”が金を受け取りにジュロームの家を訪ねるのですが・・・それを待つ間、ジョーはやきもきして仕方ありません。初恋、初体験、息子の父親・・・ジョーが唯一愛情を感じた男性であるジュロームと、初めて信頼関係を築いていたレズビアンの恋人でもある”P”に対して、どちらかを失うのではないかという”不安”と嫉妬”に苛まれ始めるのです。最後の支払いの夜、”P”は夜中過ぎても帰宅しません。ジュロームの家に行ってみると、恋人のようにいちゃついているジュロームと”P”・・・ジョーの不安は的中していました。

別な土地に引っ越して、二人の前から姿を消すつもりだったジョーですが、それでは、やはり納得はできない・・・ジョーは二人を殺そうと、銃を手に路地で待ち伏せするのです。しかし、いざジュロームに引き金を引いても、銃弾は出ません。自分の殺そうとしたジョーを、ジュロームは何度も何度も殴り倒します。そしてジョーの目の前で、ジョーの処女を奪ったときと同じように、3回ヴァギナに挿入して、5回アナルに入れて”P”を犯すのです。そして”P”は、ジョーの顔の上に跨がって放尿します・・・最上級の侮辱行為として!

数多くの男性とセックスをしてきたジョーですが、結局のところ、ジュロームが彼女にとって唯一の男性であったということなのかもしれません。交わった男性の数が極端に多い”ニンフォマニア”ではあることには間違いありませんが・・・ジョーとジュロームの「出会い」と「すれ違い」”だけ”を取り出せば「ジョーの純愛物語」なのです。

ジョーの性遍歴の話を聞き終わったセリグマンは、もしも男性がジョーと同じような生き方をしていたら、それほどの罪悪感に苛まれることもなかっただろうと指摘します。ナンパの競争をしたり、多くの女性と関係を持つということは、男性だったら自慢にもなる・・・子供の面倒を見なくても社会的には責められることもない・・・女性という立場の偏見に、ジョーは男性的に立ち向かっただけなのではないか・・・そして、ジュロームに殺意を抱いたとしても、偶然ではなく必然として殺人者になることを選ばなかったのだと、ジョーを諭すのです。セックスとは無縁の”友人”としてのセリグマンにより、罪深さから救われたジョーは安らかな気持ちで眠りにつきます。

これまで怒濤の展開を繰り返したきたわりには、意外なほどシンプルにフェミニストが納得しそうな”オチ”で終わるのか・・・と思った矢先、トンデモナイ結末が待っていました。

ここから結末のネタバレを含みます。


ジョーの寝ている部屋に忍び込むセリグマン・・・彼はジョーを強姦しようとするのです。(と言っても、挿入出来るほど勃起していないのが悲しいのですが)真の”友人”としてジョーが初めて心を開いた相手だったはずなのに・・・セリグマンが”アセクシャル”というのは嘘だったのでしょうか?断固としてセックスを拒否するジョーに、セリグマンは「でも、何千人の男とやったのに・・・」とひとこと。「ヤリマンは男を拒否しない」というのは、よくある男の勘違い・・・セリグマンの”性的には罪人ではない者”というキャラクターは、あっさりと裏切られてしまったのです。4時間をかけた”ちゃぶ台返し”のような結末に、ボクは思わず頭を抱えてしまいました。画面は真っ暗になり、銃声が響きます・・・セリグマンの倒れる音の後、ジョーが部屋から出て行く音で、本作は終わります。

「二ンフォマニアック(原題)」は、ひとりの女性の性遍歴を描くという意欲的な一作です。しかし、女性でも楽しめるヨーロピアンエロスを期待すると、面食らうかもしれません。セックスシーンが即物的で情緒に欠けていることは言うまでもないと思いますが、行動の理屈や心の動きが支離滅裂・・・ひとりの女性の性遍歴の積み重ねというよりも、翻弄な性行為のさまざまなエピソードをつなげ合わせた感じです。あまりにも”ド真面目”に、セクシャリティーと向き合うジョーの執着に、正直、疲労感さえ覚えてしまいます。また、セリグマンとジョーのディスカッションが、独特な知的解釈だったりして、”インテリ”ならではのスノッブな心の葛藤を見せられているようでもあるのです。ある意味、ジョーも、セリグマンも、そして登場人物全員が、自己嫌悪や罪悪感の断片をキャラクターとして張り合わせたような、鬱状態のラース・フォン・トリアー監督自身の分裂した人格なのではないか・・・とも思えてしまいます。

”鬱三部作”は、精神の闇の検証を見せつけられる”自己セラピー”のようでもあり、”三部作”で終わって良かったと思うのと同時に、この後ラース・フォン・トリアー監督が、どういう方向へ向かうのか・・・恐ろしくもあるのです。


「二ンフォマニアック(原題)」
原題/Nymphomaniac Vol. 1 & 2
2013年/デンマーク、ベルギー、フランス、ドイツ
監督&脚本 : ラース・フォン・トリアー
出演    : シャルロット・ガンズブール、ステラン・スカルスガルド、ステイシー・マーティン、シャイア・ラブーフ、ユマ・サーマン、クリスチャン・スレーター、ウィリアム・デフォー、ウド・キア、ジェイミー・ベル、コニー・ニールセン、ソフィア・ケネディ・クラーク、ヒューゴ・スピアー、ニコラス・ブロ、クリスチャン・ゲイド・ベジェラム、ミア・ゴース、マイケル・パス

2014年10月11日より「第1部」日本劇場公開
2014年11月1日より「第2部」日本劇場公開
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へblogram投票ボタン