2010/05/30

「iPad」と一緒に買う必要があるのって、純正ケースと液晶フィルムぐらいかも・・・

Apple Storeで予約した「iPad」が届いて丸一日ほど・・・すでに家の中では手放せない存在になっています。

「WiFiのみ」「32GB」という選択には、今のところは満足というところでしょうか・・・。


購入したのはiPad本体と、カメラ接続のキット、スタンドにもなるドック、持ち運びには必要なケース、デジカメから画像を取り込むためのカメラ接続キット、単体での充電のためにのUSBパワーアダプター、やっぱりとりあえず入っておきたいアップルケアということで、合計金額は約8万円・・・それでも、歴代マックの中では最もリーズナブルということにはなります。

・・・って、iPadは、正確にはパソコンではありませんが。

実際に、あれこれと周辺機器を使ってみて分かったことは・・・まず、純正ケースを装着しているとドックは使えないことでした。

これはiPhoneやiPodでも似たような問題はありますが、ケースがコネクター部分のまわりを覆おっているので、コネクターがグッと奥まで刺さらないのです。

いちいちケースから取り出すのは面倒なんで、結局、ボクは付属のUSBケーブル接続して平置きしています。

USBパワーアダプターは、付属の短いコードで十分というならば、まったく必要はありません。

(現時点の仕様では、iMacと接続しても同期だけで、充電はしないようであります!)

ヨーロッパなどのコンセントの形が違う国へ行くことがあるなら「ワールドトラベルアダプターキット」を使用するには必要には・・・なりますが。

カメラ接続キットは、デジカメから直接、画像を取り込む人には必要っていう程度。

トリミング、リタッチ、リサイズが出来る画像編集アプリ(Photogene)のiPadバージョンも早々にリリースされてはいますが、iPhotoから補正済みの画像を取り込んだ方が、手っ取り早いような気もしました。


そんなわけで、本体購入と一緒に購入することをお奨めするのは「純正ケース」「液晶フィルム」ぐらいだと、ボクは思います。

純正ケースには、その質感に好き嫌いはあるようだけど・・・表面が滑りにくい加工がされている素材なので、しっかりと手に吸い付くかんじで持った時に安心感があります。

また、それほど使い勝手が良いわけではありませんが・・・裏側にフタをひっくり返して出っ張りに差し込むだけで、良い感じの傾斜をつけられるので、ちょっと便利です。

勿論、持ち運ぶ時に液晶画面がモロ出しというのは抵抗があるので・・・「パタン」とフタのように閉じてくれるのも助かります。

すでにさまざまなメーカーから、iPad用のケース(フォリオ、スリーブ、カバーなど名称はいろいろとあります)が発売されているけど、価格的にも機能的にも今のところはアップル純正が一番良さそうです。

タッチスクリーン画面には、ちょっと使っただけで、ものすごく指紋や指の脂がベタベタに付きます。

(ボクの指の脂が極端に多いということかもしれませんが・・・)

とりあえず、どんなのでも良いから液晶カバーのフィルムを貼っておけば、ベタベタになっても液晶を躊躇せずに拭くことが出来ます。

フィルムは接着面がシリコン自己吸着タイプで、薄手のモノより厚手のフィルムの方が装着時に、気泡が出来にくいようです。

画面上に残った気泡って、使っていると気になって。またフィルムを貼り直して、ますます気泡を作ってしまうという悪循環になりがち・・・購入直後に一発でキレイに貼りたい!


今後、サードパーティからさまざまな関連商品が発売されることは予想されるけど、あれこれと買う必要ってあまりなさそうです・・・ボクみたいに!



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2010/05/29

金のかごの中の鳥は、”ミンクの毛皮”のベットカバーの上で「涙」するの!~ドイツ人「K」~

英語の言い回しで「He is in the golden cage」というのは、いわゆる「お金で囲われている」というようなニュアンスになります。

この「囲われる」ことの恩恵に預かるためには、それなりの人格というか・・・人間性というのは必要とされるのかもしれません。


ニューヨークに移住した翌年の19歳のときに、ボクはドイツ系の銀行に勤めていた「K」という男性と、数ヶ月ほど付き合っていたことがありました。

彼はニューヨークに来る前には日本に赴任していたことあって、アジア系(特に日本人)の男を好む嗜好があったのです。

今では、白人ゲイとアジア系ゲイの組み合わせは珍しくはないのかもしれませんが・・・1980年代初頭は、ライスクィーン(Rice Queen/アジア系を特に好む白人ゲイ男性)というのは、だいたいお金持ちの白人のオジサン(40代以上)が殆ど、アメリカのゲイ社会では異端視されていた存在でした。

また、ライスクィーンは、アジアの美術品が好きで、自宅を仏像人形浮世絵、墨絵お面扇子などの美術品を飾っていることが多かったです。

「K」との」出会いは、当時ニューヨークで唯一のアジア系とライスクィーンの出会いの場であったアッパーイーストサイドにあった「Twilight/トワイライト」というバーだったと思います。

「ゼツリンでキョコンの金持ちドイツ人」として、外専コミュニティーでは知られた存在だったらしいのですが・・・知り合いも少なく、バーに飲みに出たりすることもあまりなかったボクには、そんなことを知る由もなかったのです。

彼は当時42、3歳ぐらいで・・・現在のボクより5歳ほども年下(!)になるのですが、19歳だったボクからすれば「オジサン」といった印象しかありません。

ただ彼は、噂どおりのゼツリンぶりで・・・ひと晩に5、6回、そして翌朝にも数回というほど、異常なほどの強さだったのです。

また、アソコの大きい(!)彼との営みは、経験の浅かったボクにとっては・・・正直辛いものでしかありませんでした。

英語を十分理解出来なかったので、彼が銀行でどういう役職についているのかは理解はしていませんでしたが・・・、マンハッタンのアッパーイーストサイドのデュープレックス(二階建て)のペントハウスに一人暮らしだったということは、今、改めて考えてみると、彼がそれなりの幹部クラスであったことは想像ができます。


40代の銀行の重役ドイツ人と、19歳の日本人留学生の関係ほど、端から見て不自然なものはありません。

どう解釈しようとも・・・ボクは「金持ちオジサンのペット」「若いツバメ」「金のかごの中の鳥」にしか見えなかったことでしょう。

実際、高級なレストランに連れて行かれたり、服を買ってもらったこともありましたが、若い時分というのは無意味に純粋なもので、お金に関しては妙に潔癖でいたいという思い込みをしがちであります。

ボクも「K」との関係に、何か純粋な繋がりを求めていたようなところがあり、彼の経済力に依存することがイヤでイヤで仕方なかったのでした。

そして、何かにつけて反抗的な態度をとり「K」を呆れさせていました。


「K」は週末になるとライスクィーンと彼らのアジア系のボーイフレンドらを集めてパーティーをしていましたが、そこで繰り広げられる会話は、ボクから見ていると「真夜中のパーティー/Boys in the Band」のようにイヤミたっぷりで、とてもではないけれど仲間に入ることが出来ない世界なのでした。

大理石のマントルピースをコツコツと指で叩いて・・・・「あら、これ本物~?」

細工された調度品をしげしげ眺めて・・・「ティファニーでお買になったの?」

シャガールの版画を指差しながら・・・「私はピカソのもっと大きいの持ってるわ~」

小綺麗に着飾ったゲストの中で、ボクだけTシャツに短パンなんてこともよくあって・・・パーティーのゲスト「裸足の少年」と、まるで「ハウスボーイ」のように、ボクのことを差別的に呼んでいたのでした。

ある晩、パーティーのゲストにちょっとした意地悪なことを言われて、ボクが上層階のベットルームにひとりで閉じこもったことがありました。

季節外れのミンクの毛皮でできたキングサイズベットカバーの上で、ひとりシクシク泣いていたら「K」が部屋にいきなり入ってきて「泣いてるなら、自分の家に帰りなさい!」と、怒りました。

そんな冷たい言葉を言われて、今度はミンクの毛皮のベットカーバーの上でひれ伏すように、ボクは大粒の涙を流しながら声を出して泣き出してしまったのです。

すると「K」は、さらに強い口調で・・・「ボクのミンクの上で泣くな!/Don't cry on my mink!」と、言い放ったのでした。

ボクは「ワーン!」と子供のように泣け叫びながら、ベットルーム脇のバスルームに走り込んで、それから数時間ほど閉じこもっていました。

(今思えば・・・ボクも随分と”女優”して悦に酔っていたなぁって思います・・・恥)

パーティーも終わり夜中の2時過ぎに、ボクは彼のベットに恐る恐る入っていったのですが、あれほど普段はやりたがり「K」が、その夜は、ボクに手を触れるもなかったのです。

翌朝も彼はさっさと起きて朝食の支度をして、ボクが目を覚ました時には、彼はひとりでコーヒーをすすっていました。

「K」とのコミュニケーションが、つたない英語だけだった当時のボクにとって、エッチをしないということが、彼からの最終的な別れの宣告のように思えてしまいました・・・。

あれほど苦痛だった「K」とのエッチだったのに・・・それが唯一、彼の気持ちを確認できるボクの手段だったのです。

その日から「K」との連絡を絶って、ボクは一方的に関係を終わらせてしまったのでした。


当時の「K」よりも年上となった今、ボクが後悔してしまうことがあるのは・・・19歳の時に戻れたとしたら、もっと「K」と楽しく付き合うことも出来ただろうし、もっと貢がさせて(!)楽しい思いが出来たのに・・・ということです。

ただし、四半世紀という長い年月の酸いも甘いもを経験してきた、今のボクと同じ「「頭」を持って・・・ということになるのですが。


今ならば、自分が欲しい服やモノを、相手に気持ちよく買わせることが出来ただろうし・・・

美味しいレストランだって、素敵な旅行だって、上手に提案することができただろうし・・・

ペントハウスのイヤミなパーティーだって、辛辣なジョークで笑って切り返すことができたはず・・・

もしも彼と喧嘩しても、うまい具合にコミュニケーションを計って、すぐに関係を修復してかもしれません。


そんな「こずるい」気遣いができるようになった時には、すでに自分がお金を払う年齢になっているというのは・・・なんとも皮肉なのであります。


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2010/05/28

奈落の底まで、いらっしゃい・・・救いのない復讐と思惑の悪循環~映画版「告白」~


原作を先に読んでいると、映画やドラマを観た時に「ガッカリ」ということはありがちですが、時には原作を超えることもあります。

湊かなえ原作の「告白」は娘を殺された女教師の復讐劇で、虚言を含む違う立場から語られるモノローグを読み進めていくうちに、徐々に深みにはまっていくような小説的な手法が効果的で、読後感が最悪の素晴らしい(!)作品でした。
原作を読んだ人なら分かると思うのですが、あまり色彩というのを感じさせない小説で・・・あえて言えば、グレーな感じでしょうか?
それを極彩色の映像ミュージカル仕立ての奇抜な演出中島哲也監督によって映画化するというのは、ある意味、驚きでした。
原作のストーリーを忠実に映像化しながらも独自の映画的演出で、原作を読んだ時以上のインパクトを与えてくれる中島監督なので、湊かなえの原作に狂信的にハマったボクとしては、見逃すわけにはいきません!

映画版「告白」は、6月5日より劇場公開ですが、待ちきれなかったボクは一足先に観てきました。
・・・というのは、TOHOシネマズ六本木ヒルズで開催された「中島哲也映画祭」のチケットが抽選販売で当たったからなのです。
(それも、かなり良い席!)
「嫌われ松子の一生」「告白」「下妻物語」「パコと魔法の絵本」の4作を続けて上映し、中島監督と4作品の出演者たち(土屋アンナ、深田恭子、中谷美紀、役所広司、アヤカ・ウィルソン、阿部サダヲ、松たか子、木村佳乃)の舞台挨拶とトークショーという・・・まさに「中島哲也」漬けのイベントでありました。

さて、映画版「告白」ですが、ボクの期待通り原作を超えた映像化といって過言ではありませんでした!
原作のイメージどおり全編に渡ってグレーで、中島監督独特の蜷川実花チックな毒々しい色使いや唐突な花々、マリオ・ヴァーバ風のサイケデリックな照明は今回は封印されています。
しかし、イメージビデオのようにワンショットワンショットのすべてが絵になる美しい画面の連続で、鮮やかな色彩が殆どないにも関わらず、中島監督らしい陶酔感さえ感じさせるのです。
原作の第1章にあたる映画の冒頭は、松たか子扮する女教師の30分近いモノローグで、淡々とこの物語の発端となる娘の事故死の真相を語ります
序盤では、女教師の行った犯人への稚拙な復讐が告白されるだけなのですが、後日談が、犯人のふたりの少年学級委員の少女新任の熱血教師犯人のひとりの母親・・・と、それぞれの立場で語られていくと、徐々に事件に秘められた悪意が明らかになっていくのです。
犯人探しのミステリーではまったくなく・・・事件に関わる人たち、ひとりひとりの思惑悪循環を生み、さらにお互いの状況と関係を悪化させていくという連鎖を描いて、人と人が生み出す地獄を見せつけてくれます。
詩的な映像を切り返しながら、それぞれの心情を表現していくので、原作よりも加速的に登場人物達が堕ちていくような印象を与えていました。

エンディング近く、針が逆回りする時計という小道具を利用して、時間の逆戻りさせる妄想を映像化し、後悔という感情を「これでもか!」と視覚的に感じさせます。
幾重にも仕組まれた底なし救いようのなさを、原作よりも巧みに表現した中島監督の見事な映画的な表現でした。
そして・・・松たか子の微妙な笑みをたたえた表情で終わる、誰も報われないエンディングによって、さらなる奈落の底へ導かれるのです・・・。

「告白」
2010年/日本
監督 : 中島哲也
脚本 : 中島哲也
原作 : 湊かなえ
出演 : 松たか子、木村佳乃、岡田将生


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2010/05/26

デザインの未来予測の問い・・・過去からのひとつの答え~ポスト・フォッシル展とルーシー・リー展~

現在、六本木で開催されている二つの展覧会は、デザインの「未来」「時代」「流行」という質疑応答のように感じさせられました。

順路としては、東京ミッドタウンの21_21で行われている「ポスト・フォッシル:未来のデザイン発掘」展を先に観てから、歩いて数分にある国立新美術館で開催されているルーシー・リー展を訪れることを、絶対にお奨めします。

「ポスト・フォッシル:未来のデザイン発掘」展は、トレンド予測の第一人者リー・エデルコート氏のディレクションによる、21世紀のデザインを示唆するプロダクトデザインを集めた展覧会です。

植物にみるデザイン性を追求したマガジン「bloom」カラーとデザインの関わりを再考した雑誌「View On Clolour」やプロのためのトレンド予測レポートの「Trend Book」にて、インスピレーションを発信し続けているエデルコート氏については、それほど詳しく知りませんでしたが・・・いわゆるクリエーターの「虎の巻」を提供している存在なのであります。

ある日本を代表するファッションデザイナーの感性のルーツのようなディレクションからは、リー・エデルコート氏の水面下での影響力は、実は非常に大きいものだと感じさせられました。

近代以降のデザインって、常に「ポストなんとか」ということで、結局のところクリエーター達は「批判」「提唱」を繰り返しながら「これは新しい」「これは古い」などと、やってきたわけです。

さて「ポスト・フォッシル展」は、その言葉のごとく「ポスト化石」なわけですが・・・それは、有機的な形状と現在のテクノロジーを融合させた「次」のコンセプチュアルデザインとでも言うのでしょうか?

動物の骨格を連想させる椅子。ヒーターにかけられた毛皮。溶岩や岩石のよ表面のような家具。原始生物のように浮かぶ照明。

装飾性でもなく、グラフィカルでもなく、太古の地球に存在した形状や質感を蘇らせたような、我々の存在の「問い」投げかけるようなプロダクトデザインです。

これは、明確な行き先を失ったデザインの方向性として、ひとつの選択であるという可能性は強く感じさせるのと同時に、リー・エデルコート氏自身の得意とする切り口のような印象でした。


ルーシー・リー展にも足を運びました。

数年前に「ポスト・フォッシル」展が行われている21_21でルーシー・リーの作品を含んだグループ展が行われたのですが、展示品が広くて大きな台に並べられていて、サイズの大きくないルーシー・リーの作品を近くで見ることが出来ず、非常にストレスを感じました。

また、当時はルーリー・リーのブームの最中で、彼女の作品の”写し”を制作しているような影響を強く受けた作家モノが、お店であまりにも多く見られた頃で、ルーシー・リー的なテイスト自体にお腹いっぱいな気分でもありました。

数年経って、今度は本格的な回顧展の開催となったわけですが、ボクにはまるで「ポスト・フォッシル展」で感じた「問い」に対する「ひとつの答え」のような印象の展覧会でした。


ルーシー・リーのフォルムは、アバンギャルドでもなく、アートっぽくもなく、彼女が好んだ形を繰り返し制作しています。

そして、釉薬のテクニックによって、溶岩のような表面を焼き上げたり、淡い貝のような色合いにしたり、モダンなラインで表面に装飾を施したりして。実験と研究を繰り返しているのです。

緻密な計算化学反応による偶然性を巧みに利用して、有機的な要素を作品に閉じ込めているように・・・。

だから、ルーシー・リーの作品を目にすると、彼女はずっと「答え」を持っていたように思えてしまうのです。


「ポスト・フォッシル:未来のデザイン発掘」展/2010年6月27日まで

21_21 DESIGN SIGHT(東京ミッドタウン)


ルーシー・リー展/2010年6月21日まで

国立新美術館 企画展示室1E



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2010/05/22

「ドレープ尻」には、絶対になりたくない・・・だから、お尻の筋トレに励むのだ!

ボクが勝手に呼んでいるんですが・・・「ドレープ尻」というのは、筋肉が落ちてきて肉が垂れてきたお尻のことを言います。

お尻と太もものあいだに一本線の皺が入る程度あれば、まだまだ「ドレープ尻」とは呼べません。

さらにお尻の肉が弾力を失い、お尻の穴あたりを中心に太ももに向かって、お肉が二重三重に垂れてくるのが、真性の「ドレープ尻」なのです。

「セックス・アンド・ザ・シティー」熱心なファンなら、もしかすると記憶にあるのと思うのですが・・・シーズン2第8話サマンサ(プレス会社を経営するヤリマン女性)が「たまには、大金持ちの年上の男も良いんじゃない?」ってことで、70代くらいの男性とベットインするエピソードがあります。

暗闇でイチャついた後「ちょっとトイレへ」と立ち上がった彼の後ろ姿は、老人そのものの「ドレープ尻」で・・・サマンサは慌てて逃げ帰るのです。

画面にドドーンと映し出された「ドレープ尻」は、ヒジョーに衝撃的なショットでありました。

ボディダブルではなくて、この役を演じた男優さんご本人のお尻だと思うのですが・・・このお尻をテレビで披露した勇気(?)には大拍手ではないでしょうか?

さて、痩せていると「ドレープ尻」にはなりやすいようですが・・・太っているからといって「ドレープ尻」にならないとは言えません。

お腹は出ているのに、年齢とともにお尻の肉だけは削げてくるので、デブといっても油断が出来ないのです。

ボクの通うジムには、60代以上オヤジも結構来ているのですが、お風呂とかで見たくなくても「ドレープ尻」は、目についてしまうことがあります。

貧弱でガイコツみたいなオヤジ「ドレープ尻」だったとしても、それは納得というか「そりゃあ、そうだろう」という感じなんです・・・しかし、上半身は鍛えている格好付けているオヤジが、後ろを振り返ると「ドレープ尻」だったりすると「なんじゃ?」とツッコミたくなります。


「ドレープ尻」が厄介なのは、自分で気付くことが難しいことかもしれません。

少しでも前屈みになったりすると、お尻の肉が引き延ばされてしまいますし、振り向いて自分で鏡でお尻を確認しようとしても、上からの視線だと見えなかったりするようです。

何気なく歩いている時、真後ろからの視線「ドレープ尻」というのは、最もハッキリと分かってしまうものなのですから・・・気が抜けません。

80代の老人になってしまえば”仕方ない”ことと諦めがつくものなのかもしれませんが、まだまだ「現役」として、ックスという名の試合のリングに立つ年代(65ぐらい?)までは「ドレープ尻」になることだけは、絶対に避けたいものです。


数ヶ月前に、炭水化物抜きダイエットの成果で、10キロほど減量出来た期間があったのですが・・・得意げにウエストサイズが小さなパンツジーンズなど穿いてみたら、ズルズルと下がってしまいました。

それも、お尻をするっと過ぎて、足首まで!

「こんなに痩せちゃったのね!」って最初は喜んでいたのですが、考えてみたら痩せてヒップサイズが小さくなったというよりも、ケツがペッタンコになったというだけということだと気付き、ひとりショックを受けたものです。

このままだと、50を前にして「ドレープ尻」になってしまうのでないか・・・と不安になったのでした。

元々、ボクは身体が大きいだけあって、お尻も太ももも「太め」・・・お尻廻りの肉の分量は男子のわりには、たっぷりとあるのです。

それが重力で下に垂れてくるとすれば、ドレープ状態になるのも時間の問題!

20代のときのような「プリケツ」までは目指さないけど・・・ジーンズが格好よく穿ける「まるく出たお尻」を目標に頑張ろうと決心したのです。

さっそくジムでお尻を鍛えるトレーニングマシーンを見つけて、筋トレのルーティンに加えたのでした。


上半身はまだまだ鍛えられてないボクですが、さすがに四半世紀重い身体を支えてきた下半身はパワフルで、結構なウエイトでも楽々と持ち上げられてしまいます。

あっという間にマシーンの最も重い設定でも、ガンガンやれるようになっていたのでした。

ボクの一番お気に入りのマシーンは、座って足を広げたり閉じたりするマシーンで、広げる時にウエイトを上げるのと、閉じる時にウエイトを上げるのとの二台あるのですが、ま・さ・に・女性のアソコの締まりが良くなるような運動・・・。

もしかすると、肛門筋も鍛えられているのかもしれない・・・と、ひとりニヤニヤしながら、さらに激しく筋トレに励むボクであったのです。


お尻のトレーニングの効果というのは、自分では意外に分かりにくくて、鏡で振り返って見ても、自分の手で触ってみても「どうなんだろう?」という感じでした。

数週間後のある日、アバクロのチノパンを穿いて出掛けた時のことです。

ちょっと屈んだ瞬間に「ビリ!」っと破ってしまったのです・・・パンツのお尻部分を。

そして、その翌日、今度はアンティーク加工のジーンズを穿いて出掛けて、ちょっと屈んだ瞬間に「ビリ!」っと破ってしまったのです・・・また、ジーンズのお尻部分を。

二日続けての失態に落ち込みながらも、奇しくも・・・お尻の集中的なトレーニング効果を、確認することとなったのでした。


さて・・・後日、テレビのうんちく番組を観ていたら、パンツが破れた、もうひとつの理由が判明したのです。

どちらもアンティーク加工されたいたので、必要以上に洗わないほうが生地に良いのではないかと思って、洗濯するのは半年に一度(シーズンの始まりと終わりに)程度にしていました。

ところが、頻繁に洗濯をしないことで、逆に汗や汚れで生地を劣化させてしまうそうなのです。

気持ち悪い想像だけど・・・汗や汚れで、生地が腐っていくような感じなのでしょうか?

テレビ番組を観る前に、同年代の友人がジーンズは穿くたびに洗濯すると聞いて「ケッケッケッ・・・ジジィ臭~い!」って笑いモノにしていたボクですが・・・ごめんなさい、反省しています。



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2010/05/19

「愛し続ければ、奇跡は起こるのよ!」切なくもドロドロの同性愛メロドラマ~同窓会(日本テレビ/1993年)~






このドラマを初めて観たのは、ボクがニューヨークにまだ住んでいる頃でした。
日本語放送のケーブルチャンネルで放映された時には、ゲイ、ストレートに関わらず日本人コミュニティーで非常に話題になっており、英語の字幕なしでも夢中になって観ていたアメリカ人のゲイの友人も多くいました。

斉藤由貴出演で、ほぼ同名の「同窓会~ラブ・アゲイン症候群~」というテレビドラマがありますが、まったく無関係です。
1993年に放映された井沢満脚本の「同窓会」は、同性愛を描きながら「愛」を観念的に追求した・・・トンデモナイ結末に突き進んでいく「メロドラマ」の傑作だと、ボクは思っています。
キャラクターたちは高校卒業から10年、改めて人生について考え出す時期・・・当時の日本の「27歳」の若者の人生観は意外にしっかりとしていて、現在(2010年)の27歳より随分と大人っぽいという印象です。
もしも、このシナリオを現在の設定にして再制作したならば、35歳ぐらいの設定ぐらいが、ちょうど良いくらいかもしれません。
このドラマのようなキャスティングを、今、再現することも困難かもしれません・・・準主役の「TOKIO」の山口達也をはじめ、オネエを演じる「TOKIO」の国分太一、そして不良ゲイ(?)のボスを演じる「V6」の坂本昌行と、主役以外のゲイ役にジャニーズを起用したのは、井沢満氏直々のリクエストだったらしいのですが、回を重ねるごとに役柄の存在が大きくなっていったそうです。

複雑な伏線とサブストーリーが織り込まれていて、すべての物語を説明するのは困難なことです。
それほど井沢満氏の脚本は練り上げられており、中盤の修羅場までは息つく間もなく、完璧なシナリオと言っても言い過ぎではありません。
風馬(西村雅彦)は、自分がゲイであることを認められず、七月(斉藤由貴)の元彼である康介(高嶋政宏)への愛を隠したまま、七月にプロポーズすることろからドラマは始まります。
しかし、結婚を前に男への衝動を抑えられず、バイセクシャルの(山口達也)とも、肉体関係を持ってしまうのです。
結婚後、風馬がゲイであることに気付き、自暴自棄になった七月に声を掛けられて、行きずりのセックスを一度だけしてしまいます。
実は、という少年は、高校時代の後輩の唯子(田中美奈子)の弟だったのです。
高校時代から交際していた七月康介、夫婦となった七月風馬七月風馬の夫婦二人と関係を持った、究極の友情の証として肉体関係を持つ風馬康介
七月風馬から女として愛されないことに苦悩しながらも、風馬を受け入れようとしていくのです。
そして、康介と交際を始めたの姉の唯子が加わり、四角関係、プラス、バイの少年というドロドロとした物語へと発展していくいきます。
男同士のラブシーンを、あやふやでなく、ハッキリと見せたこと自体が、当時は衝撃的だったとは思いますが、このドラマの目的は、流行りのゲイを風俗的に扱うことでも、男の全裸ばかり(女性のヌードシーンは一切なし!)をテレビで放映することでも、二丁目のゲイカルチャーやゲイコミュニティーを正しく表現することでもなかったようです。
古典悲劇のような登場人物たちの感情とドンデン返し連続のメロドラマによって、ゲイが潜在的に潜めている悲劇を、普遍的に描くということを目指していたように思えます。


「同窓会」の全10話のなかで、最も印象的なシーンは、第7話の七月風馬孝介唯子の5人が初めて一同に集まるという、有名な(?)修羅場です。
康介のマンションの部屋だけでのワンシーンという緊張感溢れる舞台劇のような場面は、このドラマが描こうとした「愛」の究極の形を語っています。
七月は幼い頃、母親に海で溺れさせられて殺されそうになり、自分は生きていることを許されている存在なのか・・・というトラウマを抱えて生きています。
ゲイである風馬の純粋な愛情を感じることで、七月は自分の存在の意味と場所を徐々に見出していくのですが・・・そのために彼女が受け入れなければならない事実は、あまりにも過酷です。
見返りを求めない愛情を風馬に捧げた「悟りの領域」で、七月はやっと自分自身を受け入れることが出来たのかもしれません。
風馬からの愛情をあくまでも求め続けるに対して、そんな七月は説くのです。

「愛し続けなさい・・・そうすれば、奇跡は起こるの。
心の中で、ある日突然、何かが分かる・・・変わるの」

ボクは、この台詞を、しばらく”心の拠りどころ”にして生きてきたようなところががあります。
しかし、そんな「悟りの領域」に達することなんて、そう簡単に出来ることではありません。
人と人との関わりの中で「奇跡」なんてあり得ないと・・・あえて深く関わることをせず、お互いの都合の良いように、適度な距離のある人間関係に満足しようと、歳を取るとともに自分を納得させてきたのです。
しかし「奇跡」は、本当に起こりました。
その「奇跡」というのは、ボクにとって、肉体や時空を超えた純粋で誠実な存在になること・・・のような気がしています。
それは「親友の死」にまつわる悲しみを受け入れることで、ボクが近づくことのできた心の中の「奇跡」だったのです。

「同窓会」
1993年10月20日~12月22日
水曜日午後22時より、日本テレビ系列
スタッフ
脚本/井沢満、演出/細野英延、五木田竜一
キャスト
斉藤由貴(折原七月)、西村和彦(安藤風馬)、高嶋政宏(中康介)、山口達也(丹野嵐)、田中美奈子(丹野唯子)、荻野目慶子(宮脇ちの)、松村達雄(幣原先生)、国分太一(藤島潮)、坂本昌行(嵐の友人)、別所哲也(勝呂克茂)、長与千種(同窓生・翔子)、高杢禎彦(同窓生・ヒゲ)、田口浩正(同窓生・タカマサ)吉行和子(風馬の母)、高田敏江(七月の母)


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2010/05/17

カヤマーだからこそ、あえて厳しく・・・この本はなかったことにしましょう~人生の法則/香山リカ著~

最近の勝間和代「がっちりアカデミー」とかいう番組で、森永卓郎金子哲雄(経済余分三兄弟!?)と共に、昼間のワイドショーの家計仕分け人(萩原博子)がするような「これが得だ!」「あれが損だ!」と下世話な経済ネタを”売り”にして頑張っておられるようです。

こうなってしまうと「経済学者」「経済アナリスト」「経済ジャーナリスト」という肩書きを捨てて、単なる「せこいケチ」度のアピールにしか見えないのですから・・・堕ちるところまで堕ちた印象です。

さて・・・我らが(?)香山リカも、毎月、新書を出版して頑張っています・・・。


最新作の「人生の法則~知るだけでココロがラクになる10章~」は、科学の法則ことわざに、精神分析医として香山リカが接する最近のココロの問題を関連づけて解説すると本となっています。

しかし、副題にあるように「知るだけでココロがラクになる」かというと・・・まったくラクにならないとしか言えない内容でした。

去年のベストセラー「しがみつかない生き方」のように、具体的な例(勝間和代を目指すな!など)での「生き方の指南」を語っているわけではありません。

「格言」「座右の銘」で人生を考える人が、あえて科学の法則から「ラクな生き方のヒント」を導き出そうとするとも、思えません。

人のココロの中で起こっている現象って、科学の法則とちょっと類似点があるのかも・・・という香山流の軽い知的(?)な遊びのつもりなのでしょうか?

おそらく、一部の理科系の人にとっては、科学の法則に置き換えることで、ココロの問題を「なるほど!」と膝を打つように、馴染み深く感じることできるのかもしれません。

ただ、臨床的な実験結果から、科学の法則と同じような現象が脳波や脳内の血流にも起きていた!という「発見」であれば、読み応えもあるでしょうが・・・「人の幸福量って、だいたい同じくらいという美輪さんが唱えているような話を「質量保存の法則」と結びつけるのは、かなりの無理があるというものです。

ボクのように理科系でもない人間にとっては「科学の法則が先にありき」の発想で、なんとか後付けで関連づけたという印象は拭えませんでした。


他にも・・・「恋愛」と「自由落下の法則」「仕事」「慣性の法則」「気分」「熱伝導の法則」「コミュニケーション」「作用反作用の法則」などと、科学の法則との関連性を語られても、それだからといって「ココロがラクになる」解決に導かれるというわけではありません。

「勝ち負けなんてないんだ!」と言われれば、科学の法則には本来「勝ち」「負け」もないわけで・・・逆に「法則だから仕方がない」というように、完全にお手上げ状態の気持ちになってしまいます。

一番読者的に意味のあった関連付けというのが・・・エピローグで、世間がハッキリと「勝間和代」対「香山リカ」という図式を作り上げて、白か黒かを問う状況を「全と無の法則」に照らし合わせていたところでした。

多かれ少なかれ、普通の人はカツマー的生き方と、カヤマー的生き方の狭間にいるわけでありますが、論争というのは、どういった場合でも「白か?」「黒か?」「全と無の法則」”なりがち”だということです。

エピソードを含めて計11の科学の法則やことわざを「人生の法則」と言いってしまうのは、まさに「机上の空論」・・・本当に人生を生きるための法則としては、あまりにも頼りないとしか言いようがありません。


このぐらいの関連性の「気づき」だったら、もっと大きなテーマの中での「オチ」として、さりげなく使う程度で良かったのではないでしょうか?

編集者に「先生、このテーマ面白いですね!と奨められて書いてしまったと「あとがき」で、わざわざ言い訳をしていますが・・・今まで何冊もの香山リカ本で書いてきた内容を、なんとか法則やことわざにこじつけて本一冊に仕立てた「編集者のニーズ」だけを感じたのでありました。

カヤマーだからこそ、あえて厳しく言わせてもらうなら・・・本書はなかったことにしておきましょう。



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2010/05/15

キレた親爺が代弁してくれた「ひとこと」・・・銀行のATMでよくある怒り!

「ゆうちょ銀行」ATMに、立ち寄った時のことでした。

小さな支局だから、ATMの機械は入り口の四畳半ぐらいのスペースに「ひとつだけ」・・・運が悪いと結構な待ち時間なることもあるけど、その時はボクは二番目で、それほど待たされることはないだろうと、若い女性の後ろに立ったのでした。


ところが、この女性(年齢的には27、8ぐらい?)は手持ちのバック(雑誌付録の安っぽいトートバッグ!)の中をゴソゴソしているだけで、なかなかATMを使い始める気配がありません。

やっと操作を始めた時には、ボクを含め5人も並んでいるような状態になっていたのでありました。

とにかく、ひとつひとつの動きが遅くて、ポーズをしているように身動きしないこともしばしば・・・と思えば、バッグをまたゴソゴソして何かを探したり。

なんたって、とろい!

「ATMの機械の扱いはできて当然の若者なのに」と、ボクの頭の中でブツブツ


そう言えば、銀行のATMだけでなく、駅の切符売り場コンビニのレジなどで、似たような状況に遭遇したことがあるのでした。

それも、機械に不慣れな高齢者とかではなく、フツーの若者だったりするのだから、理解に苦しみます。

待っている人たちのイライラを感じているのか、いないのか・・・意図的に”チンタラ”しているんじゃないかと思える行動をする輩もいるような気さえします!

こうなると、社会的なマナーではなく人格的な問題なわけで、下手に文句を言ったり、注意したりしようものなら、トラブルになってなってしまうこともあるでしょう。

以前、人に迷惑をかけていた若者に注意をしたら、大変な騒ぎになった経験があるので、下手なことで口出しはしないように、ボクは心がけるようにはしているのです。


ATMの女性は、後ろから見られることを意識しているのか、異常なほど機械に密着して操作していて、何をしているのか分からないけど「最初からやり直してください」というメッセージが流れるたびに、思わず大きなため息が出そうになります。

操作方法が分からないなら「局員のいる窓口に行けよ!」っと、心の中で叫び続けておりました。

ボクだけでなく、すぐ後ろにいる親爺、そして、その後ろにいる数人のオバさまたちも、かなりイライラしている様子で、苛立っている「気」が背中に刺さるようです。

イカニモ気難しそうな感じの親爺(何故か、鼻毛耳毛が、ぼーぼー!)は、苛立ちで鼻息が段々と荒くなってきてスー、ハー、スー、ハー」と、ボクの背中のすぐ後ろで音を立て始めたのであります。

思わず振り向いたボクの顔を見て、オバさまのひとりはまゆげを上げて、今の状況(長時間待たされていること、そして、たぶん親爺の鼻息のこと)に対して、無言の同意をボクに求めてきたので、ボクも口をへの字にして応えたのでした。

ATMの女性は、何度か後ろを振り返って並んでいる人たちを見たものの、一向に手早く終わらせようとする態度さえ感じさせません。

世代的に「空気を読む」ことぐらい分かっているはずだと思うけど、それって自分の仲間内だけなのでしょうか?

「待っている人いるんだから、さっさとしろ!」と、若い女性「ひとこと」言ってやりたい衝動を、ボクは抑えられなくなってしまいそうなのでした。


実際に、どれぐらいの時間だったのかは分かりません・・・やっと女性ATMの前から離れた瞬間に、ボクのすぐ後ろにいた親爺が突然大声で大声怒鳴ったのです!

「グズグズ、遅いんだよ!」

その言い方は別として、その場に居合わせた全員の気持ちを代弁したような「ひとこと」・・・イライラが一瞬で消えてしまうほど「よくぞ、言ってくれた!」という満足感さえ感じました。

ただ、その言葉に対して若い女性は、憎たらしいほど反応せずに、何食わぬ様子で無言のまま立ち去っていったのでした。

凍りついたような空気の後、緊張感が解けたような空気が流れたのですが、怒鳴った親爺は、どこかバツが悪そうな感じになってしまいました。


ブツブツと頭の中で”怒り”を繰り返していると、そのうち、ボクも「キレた親爺」のようになってしまう・・・改めて、気をつけようと思った”一件”でした。

そして、その場にいるみんなの代弁者になったつもりで、ついつい積極的に「ひとこと」言ってしまいたくなる”たち”のボクですが、誰かが自分の代弁してくれた方が、気分はさっぱりするものなのだということを・・・知りました。


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