2014/05/14

ラース・フォン・トリアー監督の”鬱三部作”最終作は支離滅裂で下ネタ満載の”コメディ”なの!・・・最後のどんでん返しに思わず「この4時間って何だったの?」と頭を抱えてしまう~「ニンフォマニアック(原題)/Nymphomaniac Vol. 1 & 2」~



ラース・フォン・トリアー監督は「三部作」というのが”お好き”なようで・・・劇場用としてつくられた作品の殆どは”三部作”となっています。

デビュー作「エレメント・オブ.クライム」「エピデミック」「ヨーロッパ」は”ヨーロッパ三部作”だし、テレビシリーズの「キングダム」も元々は”三部作”の予定(主要キャストのエルンスト・フーゴ・イエアゴーが亡くなったために”ニ部”で未完成)だったし、「奇跡の海」「イディオッツ」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」は、厳しい状況下で純粋な心を保ち続ける女性を主人公にした”黄金の心三部作”で、「ドッグヴィル」「マンダレイ」は”機会の土地アメリカ三部作”の二作で三作目の「ワシントン」は無期限で保留になっています。

鬱病治療の休業(2007~9年)後、「アンチクライスト」から始まった”鬱三部作”・・・「メランコリア」に続き、三作目として完成したのが「二ンフォマニアック/Nymphomaniac Vol. 1&2」です。1990年代後半から自身の会社”ツェントローバ”で、女性向けのハードコアポルノ映画の制作していたぐらいですから、ラース・フォン・トリアー監督にとって過激な性表現(演技でない性行為)は”お手もの”・・・本作は”ハードコアポルノ”として制作されました。ただ、本番シーンの下半身はボディダブルで、俳優の上半身とCGで合成されているとのこと。

ソフトコア版、ハードコア版、5時間半の上映時間など、いくつかのバージョンの存在が噂されていますが、ボクが観たのは約4時間の公開版(ソフトコア版?)・・・結合部分のアップはありませんが、性器のアップが含まれているので、日本で公開される時にはモザイクが入りそうです。

「二ンフォマニアック/Nymphomaniac Vol. 1&2」は、路地に倒れていた自称ニンンフォマニア(色情狂)のジョー(シャルロット・ガンズブール)が、偶然通りかかって彼女を助けたセリグマン(ステラン・スカルスガルド)に性遍歴を語るという作品・・・「ジョーとセリグマンのディスカッション」と「ジョーの回想シーン」によって構成されています。セリグマンは読書好きの孤独な初老男性・・・自己満足のために”セクシャリティー”を利用してきた「悪い人間」であると、自己嫌悪をしているジョーの話を、音楽や数学の定理、芸術作品の引用、キリスト教宗派の歴史、釣りや山登りの例えなどを交えて、分析をしながら彼女を肯定的に受け止めていくのです。


2歳で自分の性器を意識したというジョー・・・幼い時には”カエルごっこ”と称して腰を濡れたバスルームの床に押し付ける遊びをしたり、学校の体育では昇りロープ(昇り棒のような)で股間を刺激していました。自分の魂を象徴するような木を見つけることを教えてくれた父親(クリスチャン・スレーター)、冷たくしか接してくれない母親(コニー・ニールセン)・・・子供時代の親子関係や、無意識の性的体験を過剰に意識してしまうことは、その後の人生の性的嗜好や性癖に影響を与えていくのかもしれません。


ティーンエイジャーになったジョー(ステイシー・マーティン)は、憧れのジェローム(シャイア・ラブーフ)に、処女を奪って(3回ヴァギナに挿入され5回アナルに入れられて)もらいます。親友”B”(ソフィア・ケネディ・クラーク)とはチョコレート1袋を賭けて、長距離列車の中で「どちらが多くの男とエッチをするか」を競争したりします。そんな男狩りの様子を、セリグマンは河釣りに例えるのですが・・・奥さんと子作りに励もうとしている男性と強引にオーラルセックスをしたジョーに対しては「精子は体内で古くなるので子作り前に出したのは良かったのだ」と解釈するのですから、セリグマンは、ちょっと変わっているのです。


その後、若いジョーはニンンフォマニアっぷりを発揮し始めます。情欲と嫉妬でしかない”愛”に反撃するヤリマン女のグループを作って、数々の男性とやりまくるようになるのですが・・・彼女の決まり文句というのが「オーガズム感じたの初めて!」というのだから、喜んでいる男って「バカね~」って話です。「愛情はセックスの最高のスパイス」と言いだして、ひとりの男と関係を持ち始める仲間を見下して、人間的な関係を結ばずにセックス”だけ”したいジョー・・・実は、こういう女って男にとっては”都合のいい女”でしかありません。それが分かってないいないジョーは”痛い女”です。

初恋の相手ジュロームに仕事場で再会すると、最初は気のないそぶりをしてしまうのですが・・・次第にジュロームを愛していることにジョーは気付きます。女性にとって、初体験の相手は特別な存在ということなのでしょうか?やがて、ジュロームをストーカーのように追いかけてしまうジョーは、さらに”痛い女”になっていきます。しかし、ジョーが自分の気持ちを告白しようとした時・・・ジュロームは職場の秘書の女性と結婚して、ジョーの前から姿を消してしまうのです。”ヤリマン”なのに恋してしまうと意外に純粋(?)いうのは、一番傷つくパターンかもしれません。


ジュロームを失ったことで、ますます肉体関係”だけ”を持つ男の数が増えて、スケジュールの収拾がとれなくなってきます。サイコロを振って「会う男」と「切り捨てる男」を決めたりして、心を持った人間として男を見ていないから、愛に裏切られることもありません。

愛を確かめる行為がウザったくて仕方ないような女だから・・・既婚者の”H”(ヒューゴ・スピアー)に「ボクのこと愛してる?」と訊ねられた時「家族を捨てないあなたとは、もう会わない」という常套句であっさりと別れらたりするのです。ところが”H”は、荷物を持ってジョーの元に戻って来てしまいます。それも”ミセスH”(ユマ・サーマン)と彼らの息子3人が同伴で!愛してもない男の妻に乗り込まれてもジョーには面倒なだけですが、家庭崩壊させられた妻にとっては絶好の”修羅場”。ジョーを厭味で追い詰め、ヒステリックに叫ぶ”ミセスH”の痛々しさは、滑稽でしかなく・・・夫婦愛の不信に満ちた象徴的なシーンです。


病気で入院中、精神的にも不安定な父親に付き添っていたジョーは、院内のスタッフの男性を手当り次第に誘って、やりまくります。極度のストレスを超える感情はオーガズムでしかないのかもしれません。父の死体を前に、何故か股間が濡れてしまった自分を恥じり、ますます自己嫌悪に陥っていったジョーは・・・さらに多くの男性とやりまくるようになるのです。

ひと晩に7~8人というのだから、尋常ではありません。ただ、主要な3人の男性によって、ジョーは音楽がハーモニーを奏でるように、精神のバランスを取っていくことになるのです。デブの”F”(ニコラス・ブロ)はジョーを快楽を与えることだけに興味のある男、ワイルドな”G”(ククリスチャン・ゲイド・ベジェラム)は動物的なセックスをする男、そして偶然(!)三度目の再会をするジュロームは愛する男・・・「愛情はセックスの最高のスパイス」とばかりに、ジョーはまたまたジュロームにのめり込んでいきます。

ここからネタバレを含みます。


ここで、ジョーに衝撃的なことが起こります。突然”不感症”になってしまうのです。ここまでが「Vol.1」で「Vol.2」は、いきなり不感症に苦しむジョー(ステイシー・マーティン)の姿からスタートします。思い起こせば、学校の遠足にでかけた丘に1人で寝そべっていた12歳の時、浮遊感を感じてオーガズムを初めて体験したジョー・・・その時、傍に佇んでいたのは神々しい姿をした二人の女性でした。1人はローマ皇帝クラウディウスの妻メッサリナ、もう1人は黙示録にでてくる大淫婦バビロンで、歴史上最も有名な”二ンフォマニア”だと、セリグマンは指摘します。


ここでジョーはあることに気付きます。性遍歴の話に興奮することもなく、本から得たアカデミックな知識で分析をするセリグマンは性体験がないということに・・・セリグマン曰く、自分は”アセクシャル”(無性愛者)であり、色情狂(淫乱)を偏見なく分析/判断できるのは、自分のような純潔(童貞/処女)でイノセントな(キリスト教的に無実)人間だと言うのです。本来、自らが経験しなければ、他人の痛みを理解することもできない・・・と、ボクは思ってしまうのですが、罪深い者が裁きを行うことはできないという倫理観が理解できないわけではありません。

今までオーガズムによって「生きている」感覚を感じてきたジョーにとって、”不感症”というのは非常にストレスでしかありません。しかし奇しくも・・・この時に、ジョーはジュロームの子を妊娠するのです。性的な快楽を失ったかわりに子を授かるとは・・・なんとも皮肉であります。ただ、出産により不感症が治るのではないかというジョーの期待どおり、息子を出産後ジョーは再び性的に感じるようになるのです。それは、ニンンフォマニア本来の貪欲な性欲も戻ってくるということであり・・・ジョーの強い性欲についていけなくなったジュロームは嫉妬心を持ちつつも、ジョーに他の男性ともセックスをするように奨めるのです。

ここまでの回想シーンでは、ステイシー・マーティンがジョーを演じているのですが・・・この後から、シャルロット・ガンズブールがジョーを演じるようになります。映画の中でも時間的には、それほど経っていないのに、いきなり年取るので(!)面食らってしまいました。

ジュロームと息子を育てる日常を送りながら、数人の男性と肉体関係をもつ生活をしているジョー(シャルロット・ガンズブール)でしたが・・・性的な満足感を得られない日々を過ごすようになっています。ある日、ジョーは言葉が通じない男性とセックスすると興奮するのではないか・・・と思い立ち、通訳を雇い(!)自宅前にたむろするアフリカ系の男性を誘うのです。指定された安ホテルに現れたのは、誘った黒人男性と彼の弟・・・裸のジョーを前にして、彼らは言い争いを始めるのですが、どうやら、どっちが前に挿入して、どちらが後ろに挿入するかで喧嘩をしているようなのです・・・それも勃起したまま!そそり立っているふたつのペニスの間で、なすすべのなく佇むジョーの姿は、なんとも”おバカ”としか言いようがありません。


黒人男性との経験から、まだ自分が経験していない世界があると悟ったジョーは、さらなるセクシャリティーの可能性追求のため、暴力的な”サド”男性マスター”K”(ジェイミー・ベル)の”調教を受けたいと「SMサロン」を訪れます。そのサロンには、マダムと呼ばれるような上品な女性たちが予約制で顧客として訪れているようなのです。

最初は”K”に断られるジョーですが、それも、ある意味プレイの一環・・・ジョーは「ファイド」という名前を与えられて、”K”の調教を受ける女性のひとりとなります。”K”のルールは「呼ばれるまで待合室にいる」「命令どおりにして何も要求しない」「挿入はしない」ということ・・・平手打ちや鞭打ちなど暴力的な調教の前には、非常に優しく接し、今から何をするかを丁寧に説明するところが、なんとも不気味です。

また「挿入しない」というルールを設ける"K"は、もしかするとサド的な嗜好は、性的不能(勃起不全)を暗示しているのではないかと思えてしまいます。西洋のSMは、恥ずかしいとかの精神的な屈辱のプレイよりも、主従関係と肉体的な苦痛のプレイが主流だったりするのは・・・やはりキリスト教的な「罪」「裁き」「罰」という概念が、SMに欠かせないということなのでしょうか?


”K”から調教を受けることを何よりも優先するようになってしまったジョーは、雪の降るクリスマスの夜、ベビーシッター不在のまま、息子をひとり家に残してサロンにやってきてしまいます。まるで「アンチクライスト」の冒頭シーン(セックスに没頭している間に息子が窓から落下する)と同じで、バックグラウンドに流れる音楽も同じ・・・ただ、本作ではジューロームが帰宅し、息子は無事ではあるののですが。

一度は自宅に戻るのですが・・・ジュロームに母親失格の烙印を押されて自暴自棄となったジョーは「もし今夜家を出たら、二度と自分にも息子にも会えない」と言われたにも関わらず、再び”K”のサロンへ向かいます。ルールを破り挿入を迫るジョーに対して”K”は、クリスマスプレゼントの鞭(ロープに結び目をいくつも作ったもの)で、肌が裂けるほどの”ローマ風の40回の鞭打ち調教”を受けるハメになります。しかし、その苦痛の中でジョーは、初めてのオーガズム(浮遊感を感じた少女の時のように)に匹敵するほどの快感を感じるのです。

セックスやオナニーのやり過ぎで陰部から出血したりして、仕事にも影響が出るようになってきたため、ジョーはセックス中毒患者のグループセラピーに参加することになります。まずは日常生活から性的なものを全て排除するように指導され、ジョーは殆ど日用雑貨を捨て、尖ったもの(家具の角とかまで)を覆い、鏡や窓を白く塗りつぶし、ベットに横たわって、性欲を我慢する・・・ということを始めます。

何か別なことに集中した方が気が紛れると思うのですが・・・ジョーは”ド真面目”に3週間と5日間、こんな禁欲生活をするのです。いきなり中毒しているモノを断つという極端な処方が続くわけはありません。セッション中に、ジョーは唐突にセラピー仲間の女性たちを侮辱する暴言を吐き始め・・・「ニンフォマニアである自分を愛している!」と宣言して、セラピーを辞めてします。セックス中毒患者は、何かの変わりをセックスで埋めているのだけれど、自分は自己愛の延長上にオーガズムを求めているのだと、自分を肯定的に捉えようとした・・・ということなのです。ただ、その後、ジョーはさらに深い自己嫌悪に陥っていくわけですから・・・この自己肯定は、まったく役立たずということになるのかもしれません。


ニンフォマニアとして生きることを受け入れ(?)、社会的に居場所をなくしたジョーは、裏社会に通じた”L”(ウィリアム・デフォー)の手伝いとして、性的な個人情報を入手する自営業をスタートさせるのです。「借金の回収業」と”L”が呼ぶビジネスは、ハッキリ言えば「ゆすり」・・・ジョーのニンフォマニアとしての豊富な経験を生かして、男性たちの性的嗜好(極度のマゾとか、同性愛とか、様々なフェティッシュとか、少年愛好者とか)という”弱み”(時には本人さえ気付いていない禁じられた性癖さえ)を見つけ出していきます。それは金銭的な恐喝というだけでなく、自分の性癖と直面させられるという精神的にも社会的にも自分を失うという・・・他人の人生を崩壊することでもあったのです。


ジョーの犯罪的なビジネスは大成功・・・しかし、年齢的には今後厳しくなっていくと考える”L”は、ジョーに後継者を見つけて、育て射るように奨めます。父親は刑務所、母親は麻薬中毒で死んでしまった”P”(ミア・ゴース)という少女に近づき・・・彼女の心の支えとなり、犯罪行為さえ躊躇しない忠誠心を育み、後継者にするべきだというのです。

作戦どおりジョーは”P”と親しくなり、後見人として一緒に暮らすようになります。しかし、二人は母と娘のような関係というわけではありません。長年のセックスのやり過ぎで精神的にも肉体的にも体調を崩し始めたジョーに、”P”はレズビアン的な行為で癒そうとしたりするのですから。ジョーは自分のビジネスの後継者にするために、”P”に意図的に近づいたことを告白します。そもそも親の愛情に恵まれていない”P”は、ジョーの作戦を悪意を感じるどころか、逆にジョーのビジネスに積極的に関わっていくようになるのです。


ある時、ジョーが訪れたのは、あのジュローム(マイケル・パス)の家でした。この回想シーンから、ジュロームを演じるのは、シャイア・ラブーフからマイケル・パスに変わります。またまた偶然に遭遇するジョーとジュローム・・・さすがに、自分がジュロームを相手にはできないと”P”をジュロームの屋敷に送り込み、見事に仕事をやり遂げます。

恐喝した金額は、6回の分割払いとなり、そのたびに”P”が金を受け取りにジュロームの家を訪ねるのですが・・・それを待つ間、ジョーはやきもきして仕方ありません。初恋、初体験、息子の父親・・・ジョーが唯一愛情を感じた男性であるジュロームと、初めて信頼関係を築いていたレズビアンの恋人でもある”P”に対して、どちらかを失うのではないかという”不安”と嫉妬”に苛まれ始めるのです。最後の支払いの夜、”P”は夜中過ぎても帰宅しません。ジュロームの家に行ってみると、恋人のようにいちゃついているジュロームと”P”・・・ジョーの不安は的中していました。

別な土地に引っ越して、二人の前から姿を消すつもりだったジョーですが、それでは、やはり納得はできない・・・ジョーは二人を殺そうと、銃を手に路地で待ち伏せするのです。しかし、いざジュロームに引き金を引いても、銃弾は出ません。自分の殺そうとしたジョーを、ジュロームは何度も何度も殴り倒します。そしてジョーの目の前で、ジョーの処女を奪ったときと同じように、3回ヴァギナに挿入して、5回アナルに入れて”P”を犯すのです。そして”P”は、ジョーの顔の上に跨がって放尿します・・・最上級の侮辱行為として!

数多くの男性とセックスをしてきたジョーですが、結局のところ、ジュロームが彼女にとって唯一の男性であったということなのかもしれません。交わった男性の数が極端に多い”ニンフォマニア”ではあることには間違いありませんが・・・ジョーとジュロームの「出会い」と「すれ違い」”だけ”を取り出せば「ジョーの純愛物語」なのです。

ジョーの性遍歴の話を聞き終わったセリグマンは、もしも男性がジョーと同じような生き方をしていたら、それほどの罪悪感に苛まれることもなかっただろうと指摘します。ナンパの競争をしたり、多くの女性と関係を持つということは、男性だったら自慢にもなる・・・子供の面倒を見なくても社会的には責められることもない・・・女性という立場の偏見に、ジョーは男性的に立ち向かっただけなのではないか・・・そして、ジュロームに殺意を抱いたとしても、偶然ではなく必然として殺人者になることを選ばなかったのだと、ジョーを諭すのです。セックスとは無縁の”友人”としてのセリグマンにより、罪深さから救われたジョーは安らかな気持ちで眠りにつきます。

これまで怒濤の展開を繰り返したきたわりには、意外なほどシンプルにフェミニストが納得しそうな”オチ”で終わるのか・・・と思った矢先、トンデモナイ結末が待っていました。

ここから結末のネタバレを含みます。


ジョーの寝ている部屋に忍び込むセリグマン・・・彼はジョーを強姦しようとするのです。(と言っても、挿入出来るほど勃起していないのが悲しいのですが)真の”友人”としてジョーが初めて心を開いた相手だったはずなのに・・・セリグマンが”アセクシャル”というのは嘘だったのでしょうか?断固としてセックスを拒否するジョーに、セリグマンは「でも、何千人の男とやったのに・・・」とひとこと。「ヤリマンは男を拒否しない」というのは、よくある男の勘違い・・・セリグマンの”性的には罪人ではない者”というキャラクターは、あっさりと裏切られてしまったのです。4時間をかけた”ちゃぶ台返し”のような結末に、ボクは思わず頭を抱えてしまいました。画面は真っ暗になり、銃声が響きます・・・セリグマンの倒れる音の後、ジョーが部屋から出て行く音で、本作は終わります。

「二ンフォマニアック(原題)」は、ひとりの女性の性遍歴を描くという意欲的な一作です。しかし、女性でも楽しめるヨーロピアンエロスを期待すると、面食らうかもしれません。セックスシーンが即物的で情緒に欠けていることは言うまでもないと思いますが、行動の理屈や心の動きが支離滅裂・・・ひとりの女性の性遍歴の積み重ねというよりも、翻弄な性行為のさまざまなエピソードをつなげ合わせた感じです。あまりにも”ド真面目”に、セクシャリティーと向き合うジョーの執着に、正直、疲労感さえ覚えてしまいます。また、セリグマンとジョーのディスカッションが、独特な知的解釈だったりして、”インテリ”ならではのスノッブな心の葛藤を見せられているようでもあるのです。ある意味、ジョーも、セリグマンも、そして登場人物全員が、自己嫌悪や罪悪感の断片をキャラクターとして張り合わせたような、鬱状態のラース・フォン・トリアー監督自身の分裂した人格なのではないか・・・とも思えてしまいます。

”鬱三部作”は、精神の闇の検証を見せつけられる”自己セラピー”のようでもあり、”三部作”で終わって良かったと思うのと同時に、この後ラース・フォン・トリアー監督が、どういう方向へ向かうのか・・・恐ろしくもあるのです。


「二ンフォマニアック」
原題/Nymphomaniac Vol. 1 & 2
2013年/デンマーク、ベルギー、フランス、ドイツ
監督&脚本 : ラース・フォン・トリアー
出演    : シャルロット・ガンズブール、ステラン・スカルスガルド、ステイシー・マーティン、シャイア・ラブーフ、ユマ・サーマン、クリスチャン・スレーター、ウィリアム・デフォー、ウド・キア、ジェイミー・ベル、コニー・ニールセン、ソフィア・ケネディ・クラーク、ヒューゴ・スピアー、ニコラス・ブロ、クリスチャン・ゲイド・ベジェラム、ミア・ゴース、マイケル・パス

2014年10月11日より「第1部」日本劇場公開
2014年11月1日より「第2部」日本劇場公開

 

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1 件のコメント:

  1. やっとオチのネタバレを読むことが出来ました
    感謝!

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